水戸の実家に帰ったついでに、水戸芸術館に行った。玉石混淆の現代アートはあたり外れが激しい。今回の展覧会は私の感性と相性がわるかった。平たく言うと「ハズレ」であった。

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水戸芸術館

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田中功起 共にいることの可能性、その試み
2016年2月20日[土]~ 2016年5月15日[日]

本展は、田中功起による国内初の大規模な個展です。田中は、映像記録、インスタレーション、執筆、パフォーマンスおよびイベント企画といったさまざまな方法を通して、現在の社会状況や既成の枠組みに対し、別の視点やあり方を模索する活動で近年、注目されています。2013年の第55回ヴェネツィア・ビエンナーレでは、5名の陶芸家がひとつの陶器をともにつくる様子をとらえた映像作品などで、複数の人びとがひとつのことにともに携わるときの、その行為の美しさと難しさを表し、国際的に評価されました。
本展では、協働による営みに関心を抱くようになった2010年以降の田中の活動に焦点をあて、新作を中心に、近年の取り組みとあわせて紹介します。
本展のために制作された新作は、一般参加者とファシリテーター、撮影チームらと一つ屋根の下をともにした6日間の滞在とそのなかでのワークショップがもとになります。朗読、料理、陶芸、社会運動にまつわるワークショップ、ディスカッション、インタビューなどで構成された6日間を通して、移動や共同体についてそれぞれが考え、また対話し、実践する機会が設けられました。本展では、これらのワークショップの記録映像をもとにつくられた複数の映像に、作家が制作中に書いたノートなどが添えられ展示されます。

※ 新作映像は全編でおおよそ230分になる見込みです。


【2015年11月8日のメモ(ステイトメントとして)】

あなたはどのような場面でまったく初対面のだれかに心を開くだろうか。
あなたは隣にいるだれかとどのようなとき、共に助け合おうとするだろうか。
あなたは何を根拠にだれかを信頼し、あなたの傷つきやすさを預けようとするだろうか。

山の中での非日常的な共同生活とワークショップ。そこには撮影隊も共に寝泊まりをしていて、その光景を記録している。ぼくも、あなたもそこにいて、私たちは、まだそれが何を意味するのかを知らない。私たちは、料理をし、朗読をし、発声し、動き回り、会話をし、社会について考え、陶芸を行い、話し合う。そして私たちは、その小さな社会の中で、自分の位置を確認し、自分の役割を問い直し、ときに自分を見失う。そのようにして他者に出会い、その相手を気遣う。ほとんど見ず知らずのだれかと、もしかすると理解しがたい他者と、共にいることを試みる。それはあるひとからすれば当然の、あたり前の状態であり、別のひとからすれば受け入れがたき状況だろう。この状況は、仮の、作られた、一時のものでしかないかもしれない。だけれども、一時的にでも可能であるならば、それはいつ、どこで、どんななにものかとであっても、可能ではないだろうか。(田中功起)
▼田中功起 略歴

たなか こおき。1975年生まれ。アーティストとして活動し、ARTISTS' GUILDと基礎芸術に参加/協働する。近年は出来事の組織化や集団による営み、その記録に興味を持ち、それにまつわる制作活動を行っている。2013年、第55回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展の日本館における展示で特別表彰を受賞、2015年にはドイツ銀行のアーティスト・オブ・ザ・イヤーに選出される。プロジェクトの記録や過去のテキストを再録した書籍に、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)、『質問するその1(2009 - 2013)』(ART iT、2013年)、『Abstract Speaking - Sharing uncertainty and collective acts』(NERO Magazine、 国際交流基金、2013年)などがある。
ツイッター: @kktnk
ウェブサイト: http://kktnk.com/

▼開催概要

展覧会名

田中功起 共にいることの可能性、その試み

会場

水戸芸術館 現代美術ギャラリー

開催日

2016年2月20日[土]~ 2016年5月15日[日]

開館時間

9時30分~18時(入場時間は17時30分まで)

休館日

月曜日※3月21日(月・祝)は開館、翌3月22日(火)は休館

入場料

一般800円、前売り・団体(20名以上)600円
中学生以下、65歳以上・障害者手帳をお持ちの方と付き添いの方1名は無料
※本展に限り、1枚の入場券で会期中3回まで入場可
【一年間有効フリーパス】
・「ハイティーンパス」(15歳以上20歳未満 ):1,000円
・「おとなのパス」(20歳以上):2,500円

主催

公益財団法人水戸市芸術振興財団

助成

公益財団法人花王芸術・科学財団、公益財団法人朝日新聞文化財団

協賛

Vitamin Creative Space

協力

青山|目黒、アサヒビール株式会社、ARTISTS' GUILD、国際交流基金

企画

竹久侑(水戸芸術館現代美術センター学芸員)
いやいや・・・いやや・・・Mumumumu・・・なんだかんだで二時間半時間を費やしてしまった・・・・有意義だったかと言えば違う。なんだろう改めて、アート体験とは時間の浪費を楽しむことだと改めて確認したようなものだ。本作品は、私にとって上から目線でアーティストと参加者を見下すことにおいてのみ鑑賞に値する作品であった。

この試みはできそこないの原始共産制体験をする怪しい自己啓発セミナーを覗き見たようだと感じたのは、私だけではないだろうか?6日間で何が生まれるのかというテーマであったが、結果がショボ過ぎて補助金分の体裁を何とか整えさせるのに四苦八苦した軌跡が生々しかった(笑)

そもそも企画が悪い。国籍や年齢階層がまるで違って価値観が違う6人であればおもしろかっただろうに、比較的似たような穏健な価値観を持つ中年の日本人が集まって何がおきるか?期待する方がどうかしている。しかも草食系中年男性、勘違いの左翼女性・・・それぞれに人格があるようにそれぞれ個性はある豊かな参加者だ。でも本作品は普通の人のいかがわしい自己啓発セミナーの体験談ビデオ放映大会だった。

よっぽど昔
フジテレビで1999年から~2009年まで放送されていた日本の恋愛バラエティ番組”あいのり”の方がアートだろう。男女の愛憎は昔からアート作品のメインテーマだ!しかしながら、妙齢の男女の六人が山奥の研修所で寝泊まりしていて何も起きないなんて、なんと下らない。本当は何かしらあったかもしれないが、一切人間の欲望や妄想に触れず、うわべだけの人の集まりが共同体と言えるのか?

共同体とはご飯を食べるために利害関係を一にした人の集まりである。その共同体内での利害関係愛憎やどろどろした人間関係があって共同体なのだ。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
共同体 きょうどうたい
Gemeinde; community

利益,目的を同一にする人々の結合体。 (1) 社会学では,アソシエーションに対する用語として,自然発生的に共同体意識,共属感情をもって生活している人々の生活体もしくはその地域社会をさして使用される。


そんな醜い部分を排除したビデオやインタビューに鑑賞者は興味を抱くはずもなく、企画した田中氏の才能はその程度と思わせた時点でこの作品の評価は決まってしまった。申し訳ないが私にとって村上隆と同じかそれ以上に現代アートの醜い現実を感じさせる。

このアート作品を有難がる必要があるのか?公共の現代アートホールで現代アートに関心がある来館者に金と時間を浪費させる価値があるのか???

アートであることは間違いないのだが、個人的にネット上で発表すればいいじゃないかという作品だと思った。アートホールを何ヵ月も占有する価値がない作品だと思う。

現代アートはある意味で思想表現になりつつあるのだが、6人の男女が山奥の研修所で6日間一緒にすごした日常にすぎない。撮影隊を含め18人だそうだが、彼らのインタビューから共同体が生まれるだろうかって・・・・無理がありすぎたのだ。

参加者のインタビューも、私にとってはあまり中身がなかったように感じた。
インタビューを受けた参加者は一生懸命それぞれの方の思想を語ってくれたのだが、自分とは価値観が違い過ぎて、初対面の素人さん達の話を聴くのはけっこう難行苦行である。素人に現代アートの核心部分である作品の思想を語らせるのは反則、もしくは手抜きだ!結局だからなんだ???何が言いたいのか焦点が絞られないまま、朝まで生TVのように延々結論が出ないビデオを鑑賞者にみせて面白いのか?私には理解できない。

同じ山奥でも、テントを張ったサバイバル生活の6日間と、文明的な研修所で過ごす6日間ではまるで違うだろう。企画が最悪だったと思う。

昨年私は10日間バスでトルコ全土を一周するツアーに参加した。10日間見ず知らずの老若男女が同じバスで、人類文明の偉大な遺跡を見て回るツアーだった。参加者同士わざわざ交流する仕掛けのようなプログラムがなくとも最終日は皆さんと別れを惜しむ感情が自然と湧いた。利害関係の無い人が集まれば、仲良くなるのは試さなくれもわかるというものだ。

陶芸したりご飯を作ったり、田舎道を夜歩きして、ディスカッションする・・・それなりに相手の人となりも理解できるだろうが。出来上がった共同体とは、ただ6日間そこにいた、それだけのこと・・・・共同体の可能性なんか大それたテーマは欺瞞以外なにもない。「非日常体験を体験した人たちの日常を切り取る」というテーマがふさわしい。

それを第三者である観客に見せ、さあどうだ?と言われても、この参加者達と観賞者は共感などできない。特に、皇居前のデモに価値があると言い張る左翼っぽい女性の言ってることが違うんじゃないか?と、罵倒したくなる衝動にかられてしまった。しかしながらフランス人女性を妻に持つ中年男性に冷静に言いくるめられ、反論できない左翼女性を見て、ニヤリとできたのが良かった。まあ参加者にとって普通の日常とは違う非日常ではあるが、鑑賞者からすれば他人の日常に過ぎない。これが田中氏と私の作品に対する温度差なのかもしれない。

日常を切り取ることはアートと認めるが、公共のスペースを偉そうに占有する意義が見いだせない。

5人のピアニストのアイデアはアイデアとしては悪くは無いが、できた音楽は現代音楽なのだろうが、洗練さには程遠いキメラか鵺のような品物だ。

共同陶芸に至っては陶芸への侮辱であると私は感じた。

人のDNAには田中氏が可能性があるかなどと実験しなくとも共同で作業する遺伝子が入っているから、試みることなど不要です。

本作品において田中氏が過去の市民運動についてかなり肯定的な文章を参加者に朗読させる作品が有った。イカガワシイ市民運動を肯定的に賛美するかのような左翼臭がするワークショップが最悪であった・・・作者の思想的薄弱性が確認できる作品であった。
アート作品が思想的腐臭を感じさせるようでは、アート作品と呼べる品物ではなくなる。プロパガンダに徹底した場合は潔くってかえって良いのだが、市民う装うプロ市民は生理的に受け付けない。アートが純粋に面白いとか、斬新だと言ったのではなく、裏に思想的勧誘が隠れているものが見え隠れしていると感じた瞬間に興ざめしてしまうのだ。

この作品の後ろにはエゴイスティックな市民運動を賛美する腐臭が漂っていた。しかしながら、サイレントマジョリティに属する良識ある参加者に粉砕された。この作品が企画倒れになって、まずはめでたい!

非常に狡い立場なのだが、他人の作品をボロカスに書くことは簡単で、一方的に書いておいて私は、何の被害も受けない。他人のアート作品を罵倒するのはある意味とても気持ちが良い。
アーッすっきりした!

厳しい批判を受けるのもまたアートなのである。