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まえがきより抜粋
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日本軍というのは、当時、費用効率が世界一高い軍隊だったといえる。経済力では欧米に歯が立だないなか、彼らの数分の一の予算で、彼らに匹敵するような軍軍力を持てたのである。

 第一次世界大戦の末期の大正6(1917)年には、日本は保有する戦艦数でイギリス、アメリカに次ぐ世界第三位にまでなっている。1917年といえば、明治維新からわずか50年後のことである。

 もちろん、その間、日本は軍軍力の増強だけに力を注いでいたわけではない。
 社会制度の改革やインフラの整備、産業の促進など、近代国家に生まれ変わるために取り組まねばならない課題は多かった。日本はそれら課題をひとつずつクリアしながら、世界的な強国になったのである。”ビジネス”という視点から見ても、見習うべき点は多々あるはずだ。

 そもそも大日本帝国というのは、「欧米列強の侵攻から国を守る」ということから始まったものである。
 幕末の日本は、他のアジア諸国と同様に、文明的には欧米にかなり後れをとっていた。これといった資源があるわけではなく、豊饒の土地を有していたわけでもない。
 しかし日本は決して恵まれてはいない条件の中、非常に短い期間で、欧米列強を跳ね返すほどの軍隊をつくりあげた。その手際の良さは、世界中を見てもあまり例がない。

 アジア諸国が軒並み植民地化されていく中で、なぜ日本だけがそれをできたのか?
 知識も金もなかった国が、どうやって強い軍隊をつくりあげたのか?

 我々日本人は、「敗戦時に生まれ変わった」というような歴史観を持っている。
 「戦前の日本と戦後の日本は別の国である」
 そういう考えを持ち、戦前の日本から目を背けてきた。
 そして「日本軍は独善的で科学軽視の恥すべき存在である」と、日本軍を全否定することで、敗戦の責任を逃れようとしてきた。
 しかし、それでは我々は、過去から何も学べないのではないか。
そうなのだ、日露戦争後、第二次世界大戦前、日本軍の鬼神のごとき強さに欧米列強は皆恐れおののいたのだ。

ソ連軍を完全に圧倒した日本陸軍

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 それでは、ノモンハン事件か発生してから、戦闘かどのように展闘していったか、その経過を検証してみよう。ノモンハン事作は時期でいえば、第一次ノモンハン事件(五月)と第二次ノモンハン事件(六~九月)の二つに分けられる。

 まず、第一次から見てみよう。この戦闘は文句なしに日本軍の圧勝だった。五月四日に始まり三十一日に終結したこの戦闘で、ソ連軍は一七九機撃墜されたか、日本機の損害はわずか一機(そのパイロットは無事脱出して生還している)だ
った。しからその空中戦に参加した飛行機の機数を見ると、たとえば日本機九機に対してソ連機八〇機とか、日本機一八機に対してソ連機六〇機といりたように、圧倒的に少数の日本機か敵の大編限と戦って、これを打ち負かしている。

赤子の手をひねるとはまさにこのことをいうのであろう。この信じがたいような空中戦の大戦果のニュースが世界に流れると、各国の空軍関係行は驚愕した。

 ノモンハンの前半(五~7月)における空中戦での、日ソ双方の飛行機の損失を比ぺてみよう。数多く戦われた空戦のなかで主立ったいくつかを抜粋してみる。

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この数字を見て、どう表現したらよいのか、言葉を失う。鐙袖一触だとか赤子の手をひねるだとかいった形容では追いつかない、まさしく日本の一方的な勝利といってよい。

 地上戦でもソ連軍は日本軍の激烈な抵抗を受け、侵人地を確保できずにハルハ河の左片に撤退した。日本軍の死傷者二九〇名に対し、ソ連軍の死傷者は六〇〇名以上であった。関東軍はこれで事件は収束したと判断し、戦勝報告を行なっ
た。

 次はノモンハン事件の第二次に目を向けよう。六月一七日にソ連軍の飛行機は突如として満州国各地を爆撃し、地上軍は満州国の各地を攻撃してきた。第二次ノモンハン事件の始まりである。戦闘の始まったのは将軍廟という場所であり、
ソ連が主張する国境線からでも二〇キロも満州国へ入ったところであったから、明らかにソ連軍が侵入してきてしかけた戦争でありた。

 第二次ノモンハン事件は、開戦から二力月たった八月二十日まで日本軍が完全にソ連軍を圧倒していた。具体的な数字で見てみよう。

 ノモンハン事件全体でこうむった双方の戦死傷者数は、日本軍の一万七四〇五名に対し、ソ連軍は二万五五六五名である。そのうち八月二十日までの戦死傷累計数字を見ると、日本軍の七○○○名に対しソ連軍は一万五○○○前後である。
わずか一個師団二万の少数の日本軍が二三万の敵の大軍を相手に、これだけの戦果を挙げているのである。これを日本軍の大勝利といわずして何といおう。                                        
 八月二十日以降、ソ連軍がいかなる犠牲をも厭わない人海戦術とでもいってよい大攻勢をかけてきたために、日本軍の戦死傷は急増した。ノモンハン事件全体における日本軍の犠牲は、大部分がこの時町の、わずか数日間の戦闘に集中しているといってよい。これは日本側かノモンハン事件に際して終始、不拡大方針を貫き、侵入してきた敵軍を追い払うことに主眼を置いて、現地に増援軍を派遣しなかったために生じた悲劇である。
 だか八月二十日以降のソ連側の犠牲も甚大で、ソ連の大軍はノモンハンの国境地帯で少数の日本軍に喰い止められ、突破することかできず、膠着状態になりた。ソ連軍の死傷者数は今後の資料公闘により、現在判明している分よりも、実数かさらに増人すると考えて間違いない。

 ことここにいたって、日本の大本営も事懲の深刻さを認直し、第二三師団を救うための増援軍派遣を決定し、日本軍一〇万の精強部隊かノモンハン付近に集結した。これを見てスターリンは恐怖に震え上がった。

わずか1個師団2万の軍隊が23万の大軍と対等以上に戦う、そこに10万の帝国陸軍の精強師団が投入されたら、どうなるか?ソ連軍は壊滅し外モンゴルを失いかねない。最悪の場合、ドイツと日本に挟み撃ちに合うとスターリンは恐怖した。
スターリンは、九月に入るやいなや、直ちにリッベントロップを通じてヒトラーに停戦の仲介を依頼した。その直前の八月二十三日に調印された独ソ不可侵篆約は、全世界を驚倒させた大ニュースであったか、これもノモンハン事作の処理に手を焼いたスターリンか、その早期解決を図るぺく、ドイツに急接近したと見るのか正しい。

 対ソ前面戦争を可能なかぎり回避する方針でいた日本政府は、ドイツの仲介を受け入れ、九月十五日に急遽、停戦が成立した。じつはソ連は八月下旬からすでに日本に停戦を申し入れていたのだが、日本から回答がないのを見て、焦慮のあまりついにドイツに泣きついたのである。日本が「恐ソ病」にかかりていたのは事実であるか、ソ連はそれ以上に「恐日病」にかかっていたのである。

ノモンハンがソ連側から休戦を申し込んだのは当然だ。


如何に日本兵が鬼神のように最強だったか、

世界最強だった日本陸軍からの引用でもう一つ

四名の日本兵が三〇〇名のソ連兵を追い立てた

 それではノモンハン事件の全戦闘を通じて、現場の兵士たちかどのように勇戦富闘したか、いくつか記録を紹介しよう。まずは、八月二十三日、梶川大隊の記録(前掲、小川洋太郎・田端元著書から)。

 「高山正次少尉が前戦(ホルステン左岸高地)の観測所に行くと、敵軍戦車侵入のためほとんどは死傷し、下士官ら三名が守っていた。夕方、三〇〇名の敵歩兵が手榴弾を投げながら稜線を駆け下りてきたので、先頭のソ連将校が壕の上に顔を出したときに拳銃で射殺してから、兵三名と突撃した。
兵はたちまち一〇名を刺殺し、被は切りまくり、敵は崩れて手榴弾を投げながら逃走した。これを追ったため、引き返せば手榴弾か爆発しているなかに入るので退れず、四名で三〇〇名をどこまでも追う形になり困ったが、稜線まで追いそこで引き返した。凹地に一二,三名の敵が潜んでいるのを見つけ、全員を片付けた」
日露戦争や、その後の日本陸軍の神がかった強さは世界中に知れ渡っていた。
銃剣術を主体とした日本陸軍の歩兵による白兵戦は天下無敵で、この点世界最強であった。このことはソ連兵も十分承知で、わずか四名の日本兵の振りかざす銃剣と日本刀に、三〇〇名のソ連兵が悲鳴を上げながら潰走していく姿はさぞや痛快であったろう

話が「大日本帝国の国家戦略」からそれてしまった。

この強い日本軍を作ったのは、アヘン戦争で英国に敗退し、列強に蹂躙された清国の惨状を見たことによる。

日本を列強の植民地にさせてはならない、幕府も佐幕派も倒幕派も思いは一つであった。日本が戊辰戦争が短期間で終結し、明治維新プロジェクトが成功したひけつであったと思う。

富国強兵プロジェクトは、いかに行われたか。



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