【NYTimes】JAN. 23, 2017
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If Choi Soon-sil, President Park Geun-hye’s confidant, is arrested, it will be a milestone in South Korea’s efforts to fight corruption.
大統領の親友である崔順実被告が逮捕されたら、韓国の腐敗防止の戦いの中で画期的な事件になるだろう。

糞NYタイムズはあいかわらず上から目線で韓国を見下している。米国人が韓国大統領を猿に例え、財閥から金を無心して、チェスンミンに貢ている。まあ、よく出来た漫画だが、糞NYタイムズにとって、韓国の大統領は猿と同じに見えるらしい。

西洋人の目に映る朝鮮は、記録を読む限り昔から悲惨で地獄のような社会、嘘をつく朝鮮人はまったく今も変わらない。未開な猿そのものだ!・・・・いや猿の方が社会秩序があるかもしれない。

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15世紀に発明されたグーテンベルグの活版印刷だが最大のベストセラーの聖書の次に印刷されたのが13世紀末の中国日本を紹介したマルコポーロの東方見聞録であった。黄金の国ジパングやインドネシアのジャワなどは詳しく書かれているのだが、高麗のことはほとんど触れられていない。
東方見聞録は4冊の本からなり、以下のような内容が記述されている。
1冊目 - 中国へ到着するまでの、主に中東から中央アジアで遭遇したことについて。
2冊目 - 中国とクビライの宮廷について。
3冊目 - ジパング(日本)・インド・スリランカ、東南アジアとアフリカの東海岸側等の地域について。
4冊目 - モンゴルにおける戦争と、ロシアなどの極北地域について。
当時元は100年ちかく高麗を支配下においていたが、フビライに信頼され高官に出世していた商人のマルコポーロがまったく関心を払わなかったのだ。商売に値する物資や文化が無かったとしか思えない。

16世紀の宣教師ゴンザレス・デ・メンドーサによって書かれた『支那大王国誌』は16世紀を代表する中国研究書であったが、朝鮮についてまったく触れていなかった。

ようやく朝鮮が西洋人の目が向けれられるようになったのが17世紀になってからだ。オーストラリア宣教師マルティーノ・マルティニによる「韃靼戦争記」1654年からだ。さらに詳細なのがヘンドリック・ハメル朝鮮幽囚記(1667年)である。
ヘンドリック・ハメル (Hendrik Hamel) は、1653年7月に難破し済州島に漂着したデ・スペルウェール号の乗組員で、同僚七人と1666年8月に日本に脱出するまで13年間朝鮮に幽閉された。
南蛮人36名漂着の報を受けた朝廷は、1627年に慶州で捕えられたオランダ人朴延(ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー)を派遣した。朴延は訓錬都監で中国人・日本人からなる部隊の隊長をつとめていたが、25年を超える朝鮮生活のうちにオランダ語をほとんど忘れており、改めて漂着者たちから学び直した。漂着翌年の1654年5月、死亡者1名を除く全員がソウルに入り、訓錬都監に配属された。朝廷はオランダ人の存在が清国にもれることをおそれ、清使の来訪時には軟禁して監視をつけた。しかし1655(孝宗6)年4月、オランダ人2名が清使にとりすがって帰国を訴えた。朝鮮側は清使に多額の賄賂を贈り、この事件をもみ消した。訴え出たオランダ人2名は獄死した。
朝廷は生存者33名を全羅道に送り、兵役に従事させた。人治主義の国らしく、温厚な長官が赴任して来たときはよかったが、冷酷な長官が来ると悲惨で、食糧も衣服も十分に供与されず、物乞いで糊口をしのぐはめになった。1666(顯宗7)年時点で生存者は16名となっていたが、この年の8月にハメル以下8名は船で脱出し、五島列島で捕えられ長崎奉行所に送られた。翌年幕府はハメル一行の帰国を認め、一行は11月にバタビアに到着した。また幕府は、残るオランダ人の引渡しを朝鮮側に求め、生存者7名は1668年6月に釜山で引き渡され、出島のオランダ商館に入った。
ハメルは手記の中間部で朝鮮の政治・社会情勢を記述しているが、当然あまりよくは言っていない。後に朝鮮のステレオタイプとなる項目のうち、刑罰の恣行や男尊女卑や家屋の貧弱さ等が既に現われている。後進性については、日本や清の侵略のせいだという朝鮮人の見解を伝えている。

p90-92
『朝鮮幽囚記』にもどると、1660年の飢饉について次のような記述がある。

「この年も翌年も雨が降らなかったので、穀物も他の作物もたいへんな凶作でした。一六六二年も新しい収穫かあるまではそれが続き、何千人という人々が餓死しました。・・・・生き延びて いた普通の人々の食料はどんぐり、松の樹皮および野草でした」
「私たちは二、三千人の奴隷を所有する大官を見たことがあります。また彼等はいくつかの島や領地を与えられていますが、彼等が死亡すると、すぐにそれらは国王の手に収められてしまいます」
「奴隷の数は全国民の半数以上に達します。というのは、自由民と奴隷、あるいは自由民の婦人と奴隷との間に一人または数人の子供が生まれた場合、その子供たちは全部奴隷と見なされるからです。奴隷と奴隷との間に生まれた子供は(女奴隷の)主人に所属します」
「彼等は盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。他人に損害を与えることは彼等にとっては手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません」

同書には長崎奉行との会見の記録もあり、ここで朝鮮の経済事情について報告されている。

「彼等は銅銭の他には貨幣を知りません。それは単にシナとの国境でだけ流通しています。彼らは銀を重量でやり取りします。それは大小さまざまの細片で、日本のスホイト銀(丁銀=明治維新まで流通していた銀貨)と同じものです」
「首都では大官は多くの取引を銀で行ないます。一般の人々は、他の都市でも同じですが、それぞれの価格に応じて布や米やその他の穀物で取引をします」
「彼等は同地(シナ)に人参根やその他の器物を持って行って、生糸などの私たちが日本に持って来るのと同じような品物を入手します」

東洋文庫の「朝鮮幽囚記」にはオランダ人ニコラース・ウィットセンによる「朝鮮国記」が併録されている。これは当時知りえたアジアの情報をまとめた「北および東タルタリア誌」の一部で、1692年に初版が出ている。

こちらにも半島に関する伝間として、「商人はまったくおらず、漁業と農業で生活を立てている貧しい人々がその一部に住んでいるだけ」「(人参の)クルクル語の名称は『貨幣』という語から出たもので、彼等はそれで買い物をします」とある。

訳注によれば、クルクル語=満州語で人参を表す「オルホダ」には貨幣という意味はないものの、貨幣の代用だった可能性は高いという。

20世紀の初頭になっても状況はさほど変わらなかった。白銅貨や葉銭(ようせん)といった貨幣はあっても、交易は限定的なものであって、物々交換とほとんど変わらない。そもそも旧通貨の葉銭を整理する通貨改革のためにつくられたのが白銅貨だったが、一部の地域でしか流通せず、葉銭は放置されていた。そのため朝鮮国内で、葉銭と白銅貨の2種類が流通する結果となったのだ。

日本円やロシアルーブル、清国銅銭、メキシコ銀貨などの外国通貨も一部地域や特定業者のあいだで流通していたが、朝鮮の税関において、変動の激しい白銅貨での納付は認められなかった。そんななか、いちばん信頼されていたのが日本円だったのである。

台湾も最初は朝鮮と似たような状況だったが、日本領行以後は貨幣経済や商品経済が発達し、人流・物流が盛んになって銀行も生まれた。

しかし、朝鮮はなおも原始時代のような状態で、市も午後からの短期間の定期市しかなかったのだ。貨幣や金融、財政制度全般が確立し、原始社会から抜け出しだのは朝鮮統監府・朝鮮総督府の尽力によるものだった。
日本が統治するまで朝鮮には貨幣が流通しない未開な社会だったのだ。

15世紀に日本に派遣されて帰国した朝鮮人のレポート 

バンダービルド

1428年12月、使臣として日本に派遣されて1429年12月に帰国した「朴瑞生」(正3品、大使のような役職)という人物が世宗大王にあげた「日本関連報告書」の中の一部内容。


1)水車を朝鮮は使用していないので、一行は原理を把握しようとしましたが、、日本の水車は水の落ちる力を活用して水車が自然に回るようにしていて、水を汲み上げて田畑に水を供給しています。

私たちの川は流れが弱いですが、日本のように水車を作り、足で踏んで水を吸い上げれば、釣甁(桶)を使うよりも人の力を大幅に削減することができるでしょう。
日本の水車の様子を絵に描いてきたので、そのまま作って使用すればよいと思います。

2)私たちが綿布や穀物などで主に交易するのとは違って、日本では硬貨を一般的に使用しているため、遠くへ旅行に行く人も食料を持参せず、硬貨だけを腰につけて旅をしています。

また沿道には、旅行者が食べて寝ることのできる施設(旅館)が設置されていて、旅行者を客として迎えています。
宿屋の主人は旅行者から受け取った硬貨に対応する金額ぶんだけ、お客様に利便性を提供しています。
川沿いに住む住民たちは、船を互いにつないで橋を作っていて、橋を渡る人々からお金を取って生活費として使ったり、橋を補修する費用などにも使っています。

日本は、土地税から通行料に至るまで、すべてにおいて硬貨を使うことが習慣化され、定着していて、重い荷物を持参して長い道のりを移動する苦労をする必要がありません。

3)家ごとに風呂があったり、町ごとに銭湯があったりして、住民は銭湯を利用するときにお金を出して便利に利用しています。

私たちも、濟生院、惠民局などの医療機関や、人がたくさん通っている廣通橋と地方の診療所に風呂を設置すれば、人々の体もスッキリするし、お金を使う方法も学習できるので、良いと思います。

4)日本の商店街は、商人それぞれが自分の店に看板をかけ、棚を作り、その上に商品を陳列し、客は商品を確認し、簡単に選んで購入することができます。
陳列された商品は、お客様の身分の貴賤に関係なく、誰でも自由に買うことができます。

私たち朝鮮の市場は、乾いたものや濡れたものを区別せず、陳列もしておらず、魚や肉や野菜などすべてを地面にそのまま置いて売っていて、歩行者が商品の上に腰掛けたり、踏みつけて通過することもあります。
今後は鍾路から廣通橋までの店に陳列台を設置して、商品名を付けて配置することによって、どの棚にどの商品があるのか簡単に分かるように並べて、お客様が便利に商品を見て選んで買うことができるようにしなければなりません。

世宗46巻11年(1429年宣德4年)12月3日乙亥


P93-100
告げ□と裏切りが朝鮮社会の本質と論じたダレ神父
 19世紀末まで続いた鎖国状態下の朝鮮に対する西洋大の朝鮮人観に大きな影響を与えたのが、『朝鮮事情』(金容権訳、平凡社東洋文庫)である。これはフランス人宣教師クロード・シヤルル・ダレによる『朝鮮教会史』の序論(全体を約6分の1に圧縮したもの)の全訳で、1876年の江華島条約(日朝修好条規)締結直後には榎本武揚も抄訳し『朝鮮事情』(原名・高麗史略)と題して刊行している。

1852年にパリ外邦伝教会附属神学校を卒業したダレは、インドをはじめアジア各地に伝道した。パリ本部にもどり、1872年に朝鮮教区が収集・整理していた資料をもとに74年に川行したのが本書である。その後77年に再びアジアに出向し、ベトナムを経て東京まで来たところで病没した。

(略)

あらためて『朝鮮事情』をくわしく読んでいこう。 まず、朝鮮の特権階級である両班について。 「朝鮮の貴族階級は、世界でもっとも強力であり、もっとも傲慢である」
「朝鮮の両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。大両班は、金がなくなると、使者をおくって商人や農民を捕えさせる。その者が手際よく金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて投獄され、食物も与えられず、両班が要求する額を支払うまで鞭打たれる。両班のなかで最も正直な人たちも、多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者は誰もいない。なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかつてないからである。彼らが農民から田畑や家を買う時は、ほとんどの場合、支払無しで済ませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(知事一著者注)は、一人もいない」

こうした社会の腐敗に輪をかけて深刻だったのが自然の荒廃で、新渡戸稲造のいう「枯死国朝鮮」の姿たった。山河の崩壊により旱魃や水害がたび重なり、飢饉や疫病が日常化していた。

17世紀中ごろから、平均2・6年に1回の割合で疫病が大流行している。趙珠『一九世紀韓国伝統社会の変貌と民衆意識』によると、17世紀中ごろから19世紀までに、年間10万人の死者が出る疫病流行が6回あった。1719年の全国規模の大疫病では、死行数は50万人以上と記録されている。民乱や倭乱、胡乱といった戦乱以下に、こうした疫病と飢饉が半島の人命を奪っていたのだ。

「一八七一年から一八七二年にかけて、驚くべき飢饉が朝鮮半島を襲い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人びとのなかには、娘を支那人密貿易者に一人当たり米一升で売る者もいた。北方の国境の森林を超えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮人は、惨たらしい国情を絵に描いて宣教師たちに示し『どこの道にも死体が転がっている』と訴えた」(『朝鮮事情』)

そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの食糧買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだという。しかし、国王が無慈悲だったというより、国家はすでに破産していたのだ。

李朝時代の農民の悲劇については丁若鏞の経論書『牧民心書』にくわしい。苛斂誅求のもとで「切骨の病」「骨髄を剥ぐ」にあえぐ悲惨な姿が描かれている。ダレ神父によると、朝鮮に大部落はほとんどなく「彼らに残された生きる糧といえば、ただ塩水で煮つめたわずかばかりの草本だけ」という状態だった。

半島の山野は火田民(焼畑農民)に荒らされ、漢城府には土幕民(流民)があふれる。搾収から逃れるために故郷を捨てた農民は、満州やシペリアに流出せざるをえない。こうした餓死寸前の農民に救助の手を差し伸べたのが日本であった。それがのちに「日帝36年の七奪(国土、主権、生命、土地、資源、国語、姓名を日韓合邦によって奪われたという主張)」とされてしまったことは想定外であり、日本の不覚というべきものだった。

ダレ神父の報告にもどると、まず朝鮮史については「主に日本や中国の文献を通してはじめて集め得る」という。朝鮮の学者たちは、中国の歴史書以外を読むことはない。それは「現王朝の歴代の歴史を出版することが厳しく禁じられているからだ」。

つまり、本当の歴史など知りたくないということである。現代でも朝鮮人が史実よりも伝聞やファンタジーを信じたがるのは、こうしたタブーと関係があるのかもしれない。

また、朝鮮の女性は「男性の伴侶としてではなく、奴隷もしくは慰みもの、あるいは労働力にすぎない。法と慣習は女性に対してなんの権利も与えず」名前がなく、族譜(家系図や家訓などを記した文書)でもたいてい女性は除外されている。結婚すると、「ほとんどいつも自分の部屋に閉じこめられて、夫の許可なしには外出することも戸外に視線を投じることもできない」

朝鮮人の性格については、「男女とも非常に熱情的である。しかし真の愛情は、この国には全く存在しない。彼らの熱情は純粋に肉体的なものであって、そこにはなんら真心がない」と記している。

「一人旅をしている女性が旅宿で夜を過ごしたりしたら、見知らぬ者の餌食になることは間違いない。ときには男の同伴者がいるときでさえ、男がしっかりと武装していなければ、彼女を十分に守ぶことはできない。売春が白昼いたるところで行なわれ、男色やその他の自然に反する犯罪が、かなり頻繁にある。街道筋では、いたるところの村の入り口に身分の低い娼婦が米焼酎瓶を手にしており、それを旅人に供する。・・・・仮にある男が女たちを無視して通り過ぎようとすれば、彼女たちはためらわずに男の服をつかんで道を塞ぐ」

このように、19世紀の朝鮮の村々は娼婦だらけだったという。「人びとの過半数は、自分たちの真の両親を知らない」とも記述している。

「朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。それは、彼らがいまだ浸っている半未開性のせいである。異教徒のあいだには、なんらの倫理教育も行なわれていないし、キリスト教徒の場合も、教育がその成果をあらわすまでには時間がかかる。大人が不断の怒りを笑って済ませるから、子供たちは、ほとんど懲罰を受けることもなく成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるようになる。・・・・彼らは、怒りっぽいが、それと同程度に、復讐心に満ちている。たとえば、五十の陰謀のうち四十九までが何人かの陰謀加担者によって事前に曝露される。これらはほとんどいつも個人的な恨みを満足させるためのものであったり、かつての少し辛辣な言葉に対する仕返しのためであったりする」

こうした告げ口と裏切りこそ、朝鮮人の伝統的な国民性だという。日本人とは基本的に真逆な性格なのだ。

「しかし不思議なことに、軍隊は概して非常に弱く、彼らは重大な危険があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない」

実際に朝鮮史を見るかぎり、戦争に勝ったことがほとんどない。いざとなるとたいてい国王が真っ先に逃げ、兵士もそれに続く。だからこそ、「下の下国」扱いであっても宗主国に「事大一心(ひたすら強者に従うこと)」しなければならない。奴隷というのは、たいてい敗戦国側の国民・民族である。

金貨や銀貨が存在せず、ろくな市場もないことはハメルの記録で見たとおりだ。この国の伝説によれば、前王朝の時代には、およそ紙三枚に値する矢鏃形の紙幣があったという。北京の清朝の隷属下に置かれてからというもの、朝鮮王朝は貨幣鋳造権を剥奪された」という。自前の貨幣の存在はもはや「伝説」だったのだ。

「朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。・・・・怒りが爆発したりすると、人びとは不思議なほど安易に首を吊ったり、投身自殺をしたりする。些・細な不快や、一言の蔑視、ほんのなんでもないことが、彼らを自殺へと追いやっている」

最近の研究でも、こういった民族特有の気性=「火病」の存在が明らかになっている。自殺者が愛国者として美化されることも多い。

「朝鮮事情」は宣教師たちの体験と朝鮮人からの伝聞によって構成され、欧米人や日本人の朝鮮像・朝鮮観に大きく影響している。ダレ神父自身は朝鮮に入国していないものの、開国前の厳しい国情を伝える貴重な資料だ。
 
シャルル・ダレ (Charles Dallet, 1829~1878) は、1866年にソウルで処刑されたダヴリュイ (Maeir-Nicolas-Antonie Daveluy, 1818~1866, 朝鮮名・安敦伊) らが収集した資料をもとに『朝鮮教会史』を書き、1874年に出版した。東洋文庫版の『朝鮮事情』は、その序論に当たる。ダレ自身はインドやベトナムで布教に当たったが、朝鮮に行ったことはない。
(略)
本書は李朝末朝鮮の後進性、政治的腐敗、社会的混乱、文化的貧困等を完膚なきまでに暴き、欧米における朝鮮のイメージを確定した。後のバードやグリフィスに与えた影響も大きい。実際、朝鮮の絶望的な状況は、中国や日本との比較において際立っていたのだろう。将来についてはロシアへの併合を予想しているが、この時点では日本が中国とロシアを退けるかも知れないなどと言っても、馬鹿にされるだけだったろう。

この山国では、道路と運輸機関とが実に不足し、それが大規模な耕作を妨げている。人びとは、各自の家の周囲とか手近なところを耕作するだけだ。また、大部落はほとんどなく、田舎の人びとは三、四軒、多くてせいぜい十二、三軒ずつ、固まって散在している。年間の収穫は、住民の需要をかろうじて満たす程度であり、しかも朝鮮では、飢饉が頻繁にみられる。 (p. 20)

一六三七年に締結された条約は、清に対する朝鮮の実際上の隷属条件を加重することはなかったが、形式的には、これまでよりいっそう屈辱的な従属関係のものとなった。朝鮮国王は清国皇帝に対して、たんに叙任権を認めるばかりでなく、身分上の直接の権限、すなわち主従(君臣)関係まで承認しなければならなくなった。 (p. 34)

朝鮮の王宮は、パリの少しでも余裕ある年金生活者でも住むのを嫌がるようなつまらない建物である。王宮は、女と宦官で充ちている。 (p. 53)

ソウルは、山並みに囲まれており、漢江の流れに沿って位置し、高くて厚い城壁にかこまれた人口の多い大都市であるが、建築物には見るべきものはない。かなり広いいくつかの道路を除いては、曲がりくねった路地だけがあり、この路地には空気も流れることなく、足にかかるものといえばごみばかりである。家はふつう瓦で覆われているが、低くて狭い。 (p. 64)

官吏の地位は公然と売買され、それを買った人は、当然その費用を取り戻そうと努め、そのためには体裁をかまおうとさえしない。上は道知事から最も下級の小役人にいたるまで、徴税や訴訟やその他のすべての機会を利用して、それぞれの官吏は金をかせぐ。国王の御使すらも、極度の破廉恥さでその特権を濫用している。 (p. 71)

その一つは、朝鮮における学問は、全く民族的なものではないという点である。読む本といえば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語でなく漢語であり、歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉している哲学体系は中国のものである。写本はいつも原本よりも劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べてかなり見劣りするのは、当然の帰結である。 (pp. 130-131)

昔日のことはさておき、こんにち公開試験〔科挙〕が極めて堕落していることは確かである。こんにちでは、最も学識があり最も有能な人に学位免許状が授与されるのではなく、最も多額の金を持った者や最も強力な保護者のいる人びとに対して与えられている。 (p. 135)

朝鮮の貴族階級は、世界中で最も強力であり、最も傲慢である。他の国々では、君主、司法官、諸団体が貴族階級を本来の範囲内におさえて、権力の均衡を保っているが、朝鮮では、両班の人口が多く、内部では対立しているにもかかわらず、自分たちの階級的特権を保持し拡大するために団結することはよく心得ており、常民も官吏も、国王すらも、彼らの権力に対抗することができないでいる。 (p. 192)

朝鮮においても、他のアジア諸国と同じように、風俗は甚だしく腐敗しており、その必然的な結果として、女性の一般的な地位は不快なほどみじめで低い状態にある。女性は、男性の伴侶としてではなく、奴隷もしくは慰みもの、あるいは労働力であるにすぎない。 (p. 212)

朝鮮人の大なる美徳は、人類の同胞愛の法則を先天的に尊重し、しかも日々実践していることである。われわれは先に、いかにさまざまの同業者組合や、とくに親族一家が、互いに保護し合い、援助し合い、支援し合い、そして助け合うために、緊密な団体を形成しているかを見てきた。しかし、この同胞に対する交誼の感情は、親族や組合の限界をはるかに越えて拡大される。 (p. 263)

この世では、もっとも良いことでも、常に悪い反面を伴っている。これまで述べた質朴な習慣にも、いくつかの不都合な点がある。その中でももっとも重大なことは、それらの習慣が、一群の悪い奴らの怠けぐせを野放しにすることである。これらの者は、人びとの歓待をあてにして、全く仕事をしないで、あちこちをぶらぶらしながら生活する。もっとも図々しい者になると、豊かな人や余裕のある人の家にまるまる数週間も身を落ち着け、服までも作ってもらう。 (p. 265)                         
(略)

朝鮮人は、金儲けに目がない。金を稼ぐために、あらゆる手段を使う。彼らは、財産を保護し盗難を防ぐ道徳的な法をほとんど知らず、まして遵守しようとはしない。しかしまた、守銭奴はほとんどいない。いるとしても、富裕な中人階級か商人のあいだにいるにすぎない。この国では、現金の二、三万フランもあれば金持だといわれる。一般に彼らは、欲深いと同時に、無駄づかいも多く、金を持てば余すところなく使ってしまう。 (p. 272)

朝鮮人のもう一つの大きな欠点は、暴食である。この点に関しては、金持も、貧乏人も、両班も、常民も、みんな差異はない。多く食べるということは名誉であり、会食者に出される食事の値うちは、その質ではなく、量ではかられる。したがって、食事中にはほとんど話をしない。ひと言ふた言を言えば、食物のひと口ふた口を失うからである。そして腹にしっかり弾力性を与えるよう、幼い頃から配慮して育てられる。母親たちは、小さな子供を膝の上に抱いてご飯やその他の栄養物を食べさせ、時どき匙の柄で腹をたたいて、十分に腹がふくらんだかどうかをみる。それ以上ふくらますことが生理的に不可能になったときに、食べさせるのをやめる。 (p. 273)

朝鮮の家屋は、一般に、非常に小さく不便である。台所の煙を送りだす通管〔房管〕を下に通す必要上、地面よりも少し高く建てられているが、しかしソウルでは、必ずしもこの方法が一般的とはなっていない。これは、冬場をしのぐにはかなり便利であるが、夏場になると、熱気が屋内にこもって、まるで人びとに耐えがたい体罰を課していると同じような状態になるからである。で、おおかたの人は戸外で眠る。 (pp. 300-301)

衣服は、白衣ということになっているが、しかし、ちゃんと清潔さを保っているのはとても労力のいることなので、たいていの場合、濃厚な垢のため色変わりしている。不潔ということは朝鮮人の大きな欠陥で、富裕な者でも、しばしば虫がついて破れたままの服を着用している。 (pp. 303-304)

朝鮮では、ある種の科学研究は国家が保護しているし、またそれらの発展を奨励するため政府によって建てられた専門の学校がある。にもかかわらず、研究はほとんど取るに足りない。正式の天文学者は、毎年北京からもたらされる中国の暦を利用するに必要な知識をもっているくらいで、あとはばかばかしい占星術のきまり文句を知っているだけである。……ただ、医学だけは例外となっている。朝鮮人は、中国医学を採用しながらも、それに改良を加える仕事に真剣に取り組んだようであり、朝鮮の最も有名な医学書である『東医宝鑑』〔許浚編著。一六一三年刊〕は、北京においてさえ、堂々と印刷上梓されたくらいである。 (p. 307)

朝鮮人は、科学研究の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、産業の知識においては、なおさら遅れている。この国では、数世紀もの間、有用な技術はまったく進歩していない。 (p. 309)

しかし、朝鮮人が中国人よりも優る産業が一つある。それは紙の製作である。彼らは、楮の皮で、中国のものよりもかなり厚くて強い紙を作る。それはさながら麻布のようで、破れにくく、その用途は無限に近い。 (p. 312)

商業の発達に大きな障害になっているものの一つに、不完全な貨幣制度がある。金貨や銀貨は存在しない。これらの金属を塊にして売ることは、多くの細かい規則によって禁止されている。例えば、中国の銀を朝鮮のものと同じ棒状に鋳造して売ってもいけない。必ずや見破られ、棒状の銀は没収されたうえ、その商人は重い罰金をとられ、おそらく笞刑に処せられるだろう。合法的に流通している唯一の通貨は、銅銭である。 (p. 313)

商取り引きにおけるもう一つの障害は、交通路のみじめな状態である。航行の可能な河川は非常に少なく、ただいくつかの河川だけが船を通すが、それもごく制限された区域の航行が許されているだけである。この国は、山岳や峡谷が多いのに、道路を作る技術はほとんど知られていない。したがってほとんどすべての運搬が、牛か馬、もしくは人の背によって行われている。 (pp. 314-315)

(略)

アジアの北東部から日増しに侵略の歩を進めているロシア人によって、いずれその難関は突破されるだろう。一八六〇年〔北京条約のこと〕から、彼らの領土は朝鮮と隣接するようになり、これら二国間で、国境問題と通商問題に関してさまざまな難問が起こった。これらの問題は、今後も間違いなく繰り返されるであろうし、いつの日にか、朝鮮はロシア領に併合されてしまうであろう。 (p. 323)

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