大晦日 夜8時20分 母の81年に及ぶ長い修行が終わり、魂の還るべきところにかえっていきました。

生物としての私を産んで育ててくれました。母には感謝しかありません。
ありがとうございました。

私が、27日午後に病室に着いてから5日間、その前の晩から母が水も点滴も体に入れず、120時間生物として限界まで頑張りました。あと4時間頑張れば年が越せたのに残念でした。

30日の晩まで血圧が80~110で安定していましたが、31日朝は数回計りましたが、60~80で再び低下し始め、母の自立呼吸が難しくなり、いよいよかと覚悟を決めました。ボケ始めた父から、父が契約する互助会を聞き出し、互助会と祭典業者に連絡して、万が一に備えておきました。

祭典業者は年末年始も24時間常に待機されていました。本当にありがたいことです。

上の妹の長男が夕方やってきて、母は目を開け反応していた。このままいけば年は越せそうだと油断して、
母は音だけは聞こえていたようだったので、病室で母と下の妹と紅白歌合戦を観ておりました。さすがにガキの使いは観れませんでした。

8時過ぎ息が荒くなったので母を見るとうっすら目を開きました。下の妹に目が開いたことを伝え、母に感謝の言葉を伝えることができました。

息苦しくしていたので、看護婦さんに痰の吸引を頼み、死にゆく母を直視出来ず家に帰ってしまった父の携帯に連絡し、にだいぶ弱っていることを伝えたが、何故か家にいたので、今から迎えに行くと、言った。

上の妹が甥を妹の自宅に送り、その足で、父のケアをしていた叔母を自宅にも送り、父を病室に連れてくると言っていたが、父は、妹の車になぜか乗らず家にいたのだ。85才の父に運転は危険なので車の鍵を取り上げておいたが、父は予備の鍵を隠しているからそれで来ると言う。

下の妹に上の妹に連絡するよう言ったが、連絡がつかないと言い出した。

そうこう慌てているうちに、看護婦さんが、事務的に心臓が止まりましたと言う。

咄嗟に私は心臓マッサージを初めてしまいました。父や上の妹が来るまでなんとかしようとしましたが、一分ほど続け、「
AEDをお願いします」と看護婦さんに言おうと思いましたが、ドクターを呼びに行かない看護婦を見て、直ぐに意味が無いことを悟り心臓マッサージをやめました。

そうこうしているううち父から電話、途中まで歩いて来ていると言う。仕方がないので動かないよう言い含め、車で迎えに行く。

父には亡くなったことを伝え、他の患者さんに迷惑になるから大声で泣くなと釘を刺し、病院に到着。父の到着まで看護婦さんに頼んでドクターの検死を待ってもらっていました。

父が到着してから検死をしてもらいました。

泣き崩れる父・・・・泣くんだったら最初から病室にいろよ!

泣き崩れる父は、哀れでした。

病室を出て親戚や、業者に連絡し、看護婦さんにに処置を頼み忙しくしているところで上の妹も到着。妹の話だとラーメンを食べていた父は、叔母を先に送ってから迎えに来いと言ったらしく、父の我儘で、母の死に目に会えなかった。彼女も私と同じく達観しており、母の死を冷静に受け取りました。

この五日間私達兄妹は、天然だった母の思い出を次々と母の枕元で話をして笑い転げておりました。笑い転げていると、母の表情は緩んでいるように思いました。

母の決めセリフは「そうけ〜」である。
母の発する「そうけ〜」は茨城弁での「そうけ〜」と同じく「そうなのですか?それは知りませんでした、失礼しました」という全ての意味が含まれます。だが、母の発する「そうけ〜」は例えるなら、天才バカボンのバカボンパパの「それでいいのだ」とビートルズの”Le't It be”に近いと私達兄妹は感じていた。

「そうけ〜」の一言で、つまらない失敗や思い違いも、あるがまま、ありのままを受け入れ肯定してしまうのだ。今考えると、ボケを装った悟りの境地だったかもしれません。

死に化粧を終わった母は生前の母とは違い痩せこけています。父は別人だと言い出しましたが、誰かににている。上の妹は、「ナカさんだ!
ナカさんにそっくりだ!」と。

ナカさんとは、母の祖母 私達の曾祖母に当たる人です。

母の実家は、水戸で米問屋兼証券会社を営んでいました。
戦前今の新宿駅前にも支店を持つおおだなの米問屋の大女将さんです。母の実家は、代々女系で、江戸時代は武家で薬品を扱う役職だったとのこと、血で血を洗う書生党と天狗党の抗争~幕末の混乱を乗り越え、明治米問屋でした。その実家を仕切っていた方で、直接は知りません。母の実家に掛けられていた写真にそっくりでした。

ちなみに、昭和の大恐慌で米問屋が傾き、大東亜戦争で焼け出され、戦後は没落してしまいました。

妹も母と別れを終え、父を実家に連れて帰りました。

さて、朝の9時に葬儀屋が迎えに来ます。
今日も忙しくなりそうです。



■長かった2018年1月1日

その後は、とても忙しかった。

母の遺体を葬儀屋さんの車に載せて帰ると、予想通り父は何もしていませんでした。母の遺体を乗せた車を待たせ、兄妹で遺体を安置する部屋を片付け、掃除機を架け、布団を敷きました。その間、父は葬儀屋さんをつかまえ、母が優しかったとか、葬儀屋さんにむかい、意味不明な講義をするだけで、まったく役に立ちませんでした。

ようやく、遺体を安置して、葬儀屋さんとの打ち合わせになります。
焼香のセット一式は葬儀屋さんが持ってきてくれますが、ご飯とお団子は私たちが作ると言うことで、お団子の粉までセットの中にはいっていました。

年末から正月にお亡くなりになる方は、年にもよりますが、少なくないとのこと。火葬場は、正月三が日はお休みで、正月明けは非常に込むとのことで、まずは火葬場の確保が必要です。葬儀の規模を決め、親戚とごく近親者で30人程度の葬儀に適する、葬儀場の確保が必要です。 家族葬にしようとは思いましたが、近親者を呼ぶと20~30人。

当初葬儀会場は火葬場内で取り行おうとしましたが、30人程度の会場と火葬場の空きが同時に確保するのが難しく、7日水戸駅前で、50人規模の会場を確保しました。

会場と火葬場を確保したら、寺の住職とのスケジュール調整です。
因みに市の火葬場はネットでスケジュールの確保調整が可能なようで、葬儀屋さんはスマホで操作しておりました。

寺の住職は7日が難しいとの回答・・・6日で調整になりましたが、空いている火葬場は午前中しかなく、葬儀場は国道沿いの、火葬場から遠い、80人規模の会場ということとなってしまいました。大きな会場だと、空席が多いのも寂しいし、小さくて狭いのも、予定外でご来場される方もいるでしょうから、少し多めに確保しなければいけないので、意外に難しいものでした。

冬場なので、ドライアイスで遺体を冷やせば1週間は問題はないようです。
因みに、夏場は葬儀屋さんの遺体安置所で保管するすることが多いとのことです。

日程を決め、親戚一同に連絡をしているうちに、親戚やら近所の人が家にやってきてしまい、とりあえずご焼香していただきました。

3日の日に業者さんが納竿をしてくれるとのことで、詳細は3日の納竿後に詰めることにしました。

さて、作業開始です。

母が倒れれた後の実家のトイレは、絶叫トイレと私は密かに呼んでおりました。
二人が元気なころからあまり、家の中を掃除しない父母でしたが、実家のトイレは私が帰省するごとに掃除をする以外数ヵ月放置されていることが多く、たまに下の妹も最低限掃除をしたとの証言でしたが、とても他人には掃除できない阿鼻叫喚の地獄図のようなトイレで、とても水洗トイレとは思えない状態でした。

「ウォー」と気合を入れ、ゴム手袋にマスクをして、強力洗剤を噴霧し、魔っ黄色のトイレを洗い、周辺の壁や床に飛び散りこびり付いた、UFO(Unidentified Fiting Object)の除去・・・・をするのですが、父母はよく用を足せたものだといつも呆れ果てていました。

母が入院してからは毎月掃除していたので、さほど酷くはありませでしたが、それでも公衆便所の方がきれいに思える程度でした。ちなみに我が家ではもう一ヶ所絶叫するアトラクションがあります。

11月に実家に帰宅した際、掘りごたつに足を突っ込むと何やら足に動く物体が当たる感触を覚え、掘りごたつを動かしてみると、母の未使用のオムツが入っている。おむつや靴下、ゴミを除去し、コンクリートの床の上に置いてある簀子を上げると・・・・
Unidentified Black Objectが10匹ほど一斉に七輪が置いてあった更に一段掘り下げた穴に逃げ込む姿を発見、殺虫剤とスリッパを持ち蓋を外すと、パニックに陥ったUnidentified Black Object。黒い物体めがけ、ウォーと絶叫しながら殺虫剤を掛けまくり叩き潰して、大小合わせ20匹ほど殺生をしてしまいました。こんなに絶叫するのはディズニーシーのタワーオブテラー以来でした。

さて、トイレ掃除の後は、天井付近のくもの巣の除去。いつのまにやら妹が神棚に白い紙を貼り、神様に穢れがいかないようにしていました。
下の妹は団子作りで、上の妹は来客用の茶菓子や座布団の確保に買い出しです。

元旦の日に2012年の3.11後の片付け以来の実家の大掃除をしてしまいました。
葬儀屋さんの仕事は手際はよく、葬式の案内のパンフレットを作成し、枕花を持って再びやってきてくれました。寺の住職より、4時半に寺に来て相談したい、その後母の枕元で経を読むとの伝言を持ってまいりました。

なにやら生臭い匂いを感じましたが、父は数年前より檀家になっていましたので、当然承諾です。寺も手回しが良い。

実家の電気ポットが壊れて、お湯が出にくくなっていたし、障子も茶色に変色し穴も開いていたので、元旦より営業している近所のメガ・ドンキホーテで、電気ポット障子紙と糊を買って帰ったところで、3時半になってしまい、やむなく父を連れ寺へ。

早めに着いて、母方の墓参りを済ませ、本堂脇の庫裡へ。

祖母の葬儀の時は、ちょっとこの坊さんに拝まれたら成仏できそうになさそうな印象でしたが、久しぶりに会うと意外にまともでした。

最初の作業は、法名をどうするかです。寺は、浄土真宗 東本願寺大谷派です。浄土真宗は、戒名と言わず法名ですが、まずは法名決めることです。
4文字か7文字の選択です。
4文字だと寺へのお布施が50万円、7文字だと80万円ほどだそうだ。
※葬式のお布施込の金額です。
4文字も院がつく7文字も寺への収入は同じだと言う。7文字で院を付けた場合、本山の許可が必要だとのことで、30万円強が上納金になるとのことです。
まあ、そのお金で日本の伝統仏教は成り立っているので、日本の伝統を守る為にもやむをえない制度かもしれません。

4文字のうち二文字は、決まっています。最初の二文字”釈尼”これはお釈迦様に帰依する尼ということを意味します。そして母の俗名の1文字を入れ、残りの1文字は、仏教用語や経典に頻繁に登場する文字から、住職が母の生前の話を聞き、決めてもらいました。12月31日の年も極まった時刻に亡くなったこと、多趣味を極めたとのことで、残りの1文字は極(ごく)となりました。

因みに極道(ごくどう)とは、本来仏教用語で仏法の道を極めた者という意味であり、高僧に対し極道者(ごくどうしゃ)と称し肯定的な意味を指すそうです。

法名が決まると、初七日と49日のスケジュール調整です。
葬儀は初七日と重なる為、一緒に行うこととなりましたが、お布施は葬儀+初七日分しっかり頂くとのこと・・・

49日は、土日が多いのですが、後ろにすることは許されず、前にずらすのは可だとのことでした

少々話が逸れますが、なぜ後ろにずらせないのか、仏教における死についての考え方に関係しますので、私なりの解釈で、少し書きます。

人の死について、私に大きく影響を与えたのは、チベット死者の書です。最近は量子論の本を読み、最新科学が解き明かし始めたスピリチャルの領域が、仏教の生死観や丹波哲郎の大霊界の話に近いので驚いています。

量子論と意識と脳  2017/1/19(木) 午前 2:21
 
チベット死者の書によれば、四十九日というのは、死後それだけの日数が経過しても、魂が最大四十九日はこの世をさまようからだという宗教的思想に基づいています。

チベット死者の書は、チベットでは僧が死者に向かって読み聞かせるのですが、それは死者が聞く能力を保持しているということを前提としています。

肉体が生物学的な死を迎えてもなお意識は身体のもとにとどまるといいます。
そして、肉体の生物学的な死から、意識が解脱もしくは再生への道を歩むまでの最大四十九日間をバルドゥ(中有)といいます。

そしてこの本の中にはバルドゥにあって意識が横道や迷路の中へ迷い込まないような導きが記されています。死者はまず自分は死んだということを認識できない。そして自分の死体の周囲で悲しんでいる親族や知人に話しかけても死者の声が届かない。

さらに、バルドゥにある意識は数千キロの距離も一瞬に移動でき、あちこちかつての親しい人々に会いに行ってもだれも自分を認識するものがいないのではじめて悲嘆に暮れるといいます。

ですから、49日は死者が冥途に正しく向かえるよう、死後49日より前に49日の法要行わないと、成仏できないとの伝統的考え方のようである。

死んだ初期に自分が死んだと判断を下せる意識は輪廻の苦しみから解脱できるようですが、 しかし、おおかたの意識は自分が死んだことを意識できず、目前に現れる幻影に恐れおののきます。幻影は自分の生前の悪い行いの結果、自分が積み重ねてきた意識の投影に過ぎないことを悟ることができません。

チベット死者の書によれば、日を重ねるごとに、死者の意識の前に現れる幻影は、そのおどろおどろしさを強めていきます。人体に喰らいついている獣の頭をした人物や身体に骸骨のアクセサリーを着け杯で血液を飲み干している者などが大勢出現するようになるとされています。

死者の意識がその幻影から逃げれば逃げるほど、自分の目前に現れる化生の者はいっそうものすごくなるので、なおさら死者の意識はこれから何とかして逃げたいと願うようになるのです。こうして、解脱の道は遠ざかってしまうというのです。

 『チベットの死者の書』では、この化け物があなた自身であることを認めよと繰り返し諭します。そして、死者の意識がなすべきことはただそれが自分自身であると認めることだけなのです。それができたとき、すんなりと、目前の化け物のような神々と死者の意識が一点で交わり、解脱への道が開けることになるというのです。


チベット死者の書は臨死体験などを集めて完成したものだと私は思う。

自分自身を善も悪も直視できさえすれば、死者の意識は解放されるのだそうです。
修行とは、死で完成するのではなく、死から始まるあることのための準備なのです。

わたくしは、チベット死者の書に書いてある内容を思いだし、母の枕元で、母にチベット死者の書の話を話しました。目の前には幻影が現れるけど、幻だから惑わず、強い光が見えたら、その光を目指すのだよと母親に言い聞かせました。母親は「そうけ~」と言ったような気がしました。

ちなみに、日本仏教である浄土真宗では、並みの人間には悟ったり、解脱することは出来ないから、阿弥陀如来に頼って、死後の魂を極楽浄土へと導いてもらおうという、考え方である。

阿弥陀如来は元は生身の人間でした。「アミターバ」/「法蔵」という名の修行僧だった時、一切の衆生救済のために王位を捨てて、世自在王仏のもとで法蔵菩薩と名乗り修行し、衆生救済のための五劫思惟し、浄土への往生の手立てを見出し、衆生救済のための「四十八願」を発願したのち、改めて誓いを立て修行し、それが成就し仏となった報身仏と説かれる。また、現在も仏国土である「極楽」で説法をしていると説かれている。
特に浄土教諸宗においては、「四十八願」のうち「第十八願」を重要視する。

18番目に「極楽浄土に生まれたいと願うすべての衆生を救済する」という誓願があり、この阿弥陀如来の誓願を頼り、信仰するというのが、浄土真宗系の教えの根本にある。

父が檀家となった母方の菩提寺の寺は浄土真宗である。住職は適当に端折って阿弥陀如来に頼れば全て浄土に行けると、私達に説法されていました。
浄土真宗が人気になるわけです・・・・

住職たちは実家に横たわる母のところまで出向いていただいた。そして母の枕元で、無量寿経を読んでいただいた。


私は、一人娘しかいないので、父が墓を作っても、私が元気なうちに墓じまいをすることを父と寺にに告げた、母の遺骨と私は墓に入りたいと本人が言うので、本人の意思は尊重したいとは思うが・・・私からすれば迷惑な話である。

墓を立てず、最初から永代供養でにしてもらえばいいのだが・・・・。

父が、母が死んだあと寂しいと言う。東京にでも遊びに行くかと言う。父は、私の妻からも嫌われている。父も私の妻とは会話することは避けている。

同居したら、お互いに不愉快で、不幸になるのは目に見えているので、父にどこかホームでも入れば?と答える。婆さんたちと会話したくないと言う。自分が耄碌爺という現実を受け入れていない。

妹夫婦にも嫌われている父は、母を失い孤独になった。
それは、己の業であることに父は気が付いていない。

看護婦さんに、「お父様は先生でしたか?」と聞かれ、「お恥ずかしながら、そのとおりです。自分のことが一番偉いと思っているようで、ご迷惑かけました」と私は答えた。看護婦さんは、「まだ・・・ましなほうです」と・・・。「いったいどういう意味だ?」

車の中で父は、自分の思想はカストロに近いとか、年末BSのNHKで放映されたTVドキュメンタリー「カストロ VS ゲバラ」(仏・2016年)をそのまま受け売りで語り、本を読まない日教組・共産党員の成れの果ての薄っぺらい姿は、憐れを感じる。

教員だった父の人生では、誰も父が自分で強く反省させるように指導する人物が現れず、父を甘やかし続けたのだろう。もしかしたら、父をあのような非常識人のまま成長させなかったA級戦犯は、実は母だったのかもしれない。

お寺の住職たちが帰り、妹二人と私と父という母の居ない食卓は、最初の経験だった。だが、父はこれから孤独な食卓が多くなるだろう。

今の父にはもし、後妻業の方に目をつけられたら、いいカモだ。後妻業の方に付け入る隙だらけである。

3日再び、水戸に戻るが、私と下の妹は午後9時前に長い6日間を一旦区切り、仕切り直す為、東京横浜へ向かい、長かった2018年1月1日は終わったのである。