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文句なしの面白い。今月読んだ5-6冊の本の中でジャパンエキスポ2018にからんで読んだ「水曜日のアニメが待ち遠しい:フランス人から見た日本サブカルチャーの魅力を解き明かす」とともにダントツに面白かった。

     目 次 
    はじめに 3

   序 ハーバード大学と日本人………………………………………………17

     演説でハーバードを熱狂させた金予堅太郎/ポーカーの名手として有名
     だった山本五十六/田中角栄とハーバードの意外なつながり/学生から
     の応募が殺到する日本研修

第1講義 日本通史 教養としての『源氏物語』と城山三郎…………………31
       アンドルー・ゴードン

      アメリカの高校では日本史をほとんど教えない/サムライがダントツ人 
           気、『源氏物語』は不評/映画『チョコレートと兵隊』に感動、城山三郎       にびっくり/全米に「武士道」を伝えた新渡戸、羽織・袴でアメリカ
      を闊歩した岡倉/「アジアは一つ」が象徴する歴史の二面性/日本は
      「品格ある国家」をめざすべき

第2講義 江戸時代 『忠臣蔵』に共感する学生た…………………………55
       デビッド・ハウェル

    良き地球市民になるために日本史を学ぶ/なぜハーバードの教授は須坂
    藩大名、堀直虎に魅了されるのか/武士の長期政権を可能にした統治シ
    ステムと「仁政」/『忠臣蔵』は素晴らしい物語だ/ハーバードで脚光を
    浴びる幻の貿易都市、十三湊/世界から絶賛された日本の漆器技術/     驚くほど英語の達人だった明治の日本人

    コラム 日本史に魅了された学生たち①
    エリート学生が日本史に夢中になる理由  79


第3講義 明治維新 龍馬、西郷は「脇役」、木戸、大久保こそ「主役」………87
      アルバート・クレイグ

   ハーバードで初めて明治維新を専門に研究/長州と薩摩が明治維新を主
   導した本当の理由/龍馬、西郷は「脇役」、木戸、大久保こそ主役」/
   日本通史の中での明治維新の位置付け/明確な目標がない文明大国・日
   本

第4講義 環境史 ハーバードの教授が涙する被災地の物語……………103
      イアン・ジャレッド・ミラー

   ペリー来航の目的は日本との貿易ではなかった?/九州地方の自然環境
   が日本の近代化を後押し/驚異的なスピードで全国を電化した日本ノイ
   タイイタイ病、築地市場、軍艦島を題材に白熱授業/ハーバードの教授
   が涙する被災地の物語/岩手県大槌町の「風の電話」から学生は何を学
   ぶのか/日本人の強みは「人情」

第5講義 アジア研究 格差を広げないサムライ資本主義…………………125
      エズラ・ヴォーゲル

   アメリカが絶対的に正しいわけではない/米国政府にも影響を与えた
   『ジャパン アズナンバーワン』/日本を通じて西洋の近代化を学んだ中
   国/格差社会に失望するアメリカ/日本の指導者が推進するサムライ資
   本主義

第6講義 経営史 渋沢栄一ならトランプにこう忠告する……………………141      ジェフリー・ジョーンズ

   ハーバードも注目する世界最古の企業「金剛組」/日本が世界一の長寿
   企業大国である理由/岩崎弥太郎は最高の変革リーダーだ/ル-ズベル    トに面と向かって苦言を呈した渋沢栄一/渋沢栄一ならトランプ大統領
   にこう忠告する


第7講義 リーダー論 昭和天皇のモラルリーダーシップ…………………159
     サンドラ・サッチャー

   広島・長崎への原爆投下を批判する学生たち/トルーマンはどのように
   原爆投下を正当化したのか/軍事専門弁護士を戦地に常駐させる米軍/
   原爆投下を支持した学生の論理/トルーマンの倫理観は麻痺していたの
   か/昭和天皇から学ぶモラルリーダーシップ/日本軍に撃墜されたブッ
   シュ大統領が示したリ-ダーシップ/日本は「世界の良心」であり続け
   てほしい

   コラム 日本史に魅了された学生たち②
   「トルーマンと原爆」からの学びを米国企業で生かしたい  184


第8講義 和食の歴史 築地市場から見えてくる日本の強みと弱み………189
     テオドル・ペスター

   オバマ大統領の俳句の監修から落語会の開催まで/義理チョコとホワイ
   トデーで盛り上がる授業/和食の「下ごしらえ」がすごい/築地市場が象    徴する「日本人の現場力」/日本の官僚主義が裏目に出た豊洲移転問
   題

第9講義 日米関係史 日本は核武装すべきか…………………………207
     ジョセフ・ナイ

   日米関係は、「好奇心」「敵意」「好意」のサイクル/かつての敵国同士
   が友好関係を維持する理由/日本は核武装すべきか/移民の受け入れは
   不可避だ/「清貧国家」をめざすのは現実的ではない

第10講義 経済学 世界に日本という国があってよかった………………221
     アマルティア・セン

  聖徳太子の「十七条憲法」こそ民主主義の先駆け/「知識」によって国を発展
  させてきた日本/多大なる影響を与えてくれた日本人の学者たち/なぜ日   本人の識字率は伝統的に高いのか/アジアの模範となった日本の経済発   展モデル/日本がめざすべきは「長く、快適に、安全に生きられる国」/
  世界に日本という国があってよかった


      おわりに 244
      参考資料 248
世界的ベストセラー『日本の200年』徳川時代から現代まで を書いた

ゴードン教授の授業「アジアの中の日本、世界の中の日本」では、約三か月間で日本史の通史を集中して学ぶのだそうだが、最初の六週間で縄文時代から江戸時代まで、残りの七週間で明治時代から現代までの近現代史を網羅するのだそうだ。

ゴードン教授は明治時代から現代までの近現代史に注目しているようだ。
――日本史の授業で学生に特に学んでほしいことは何ですか。

 二つあります。一つめは、「世界には様々な政治、社会、文化のシステムがある」ということ。そして、二つめは「現代の世界各国の政治・経済システムは、『近代化』の時代に端を発していて、近代化の経験を共有しながらともに発展してきた」ということ。

 近代以前、世界の国々はそれぞれ独自の価値観で発展してきましたが、「近代化」の時代を迎えると、製品、資源、資本を積極的に交換しはじめるようになります。さらには、モノ、カネだけではなく、人々、思想も行き交うこととなりました。その延長上にあるのが「現代」です。

 私は授業で日本という国の独自性を掘り下げるだけではなく、世界の国々との類似性にも焦点を当てて教えるようにしています。どの国もそれぞれ異なっているけれども、他の国から何らかの影響を受けており、完全に異なっているわけではないからです。どの国も世界とつながっているという視点は、卒業後、必ず役にたつと思います。


――学生の間で最も人気のある書物は何でしょうか。

 本ではないですが、゛チョコレートと兵隊』(一九三八年)という日本映画をとても気に人っています゜この映画を上映するたびに、多くの学生から「感動した」という声が寄せられます。

『チョコレートと兵隊』は戦時中のプロパガンダ映画で、日本でもアメリカでも長らく見ることができなかった作品です。幸運にも何とか人手することができたので、授業の一環として上映しています。

 実は、私たちが入手したのは日本で上映されていたものに英語のナレーションを加えたバージョンです。この映画は米軍が日本人を研究するための資料だったのです。戦時中、米軍が日本との心理戦に役立てるために、利用したそうです。

――国策映画とのことですが、どのようなストーリーでしょうか。

 『チョコレートと兵隊』は、戦時下に生きる印刷工、斎木達郎とその家族の物語です。家族と仲睦まじく暮らしていた達郎のもとに、ある日、召集令状が届き、達郎は中国へ出征することになります。戦地で受け取る慰問袋には大量のチョコレートが入っていたので、チョコレートの包装紙を集めて、手紙とともに息子に送ることにしました。息子が包装紙を一生懸命集めていたことを思い出したからです。その包装紙には点数がついていて、一〇〇点分集めると、もう一つチョコレートをもらえることになっていました。息子は大喜びして、母親にたまった包装紙を製菓会社に送ってもらいます。ところが製菓会社からチョコレートが届いた日に父親戦死の知らせが届く……という悲しい物語です。

 非常に興味深いのは、『チョコレートと兵隊』がプロパガンダでありながら、直接的に戦争を礼賛していないことです。通常、国策映画といえば、戦意高揚のために、日本車の活躍ぶりを描くものが多いのですが、この映画に戦争のシーンはほとんど出てきません。

――基本的には庶民の日常を淡々と描いたヒューマンストーリーですよね。
 
実際に見るととても悲しい映画です。最初私もどこがプロパガンダ映画なのかと思ったほど、感動的な映画でした。

 ―――あらすじをうかがっている限り、全くプロパガンダ映画という感じはしませんが、本当にプロパガンダ映画なのでしょうか。

 基本的にはそうです。現代の私たちの目から見ると、「監督は実は反戦のメッセージをわからないようにこめたのではないか」と思うほどですが、私はプロパガンダだと思います。

だからこそ、心理的に強いメッセージを当時の目本国民に与えたのだと思います。

――たとえばどのようなところが、プロパガンダですか。

 この映画のメッセージは「どんなに困難なことがあっても、一致団結して耐え抜こう」ということです。国民の団結を静かに訴えているのです。村の人たちは、斎木達郎が戦死した後、残された妻、息子、娘を支援します。製菓会社も同様です。戦争で家族を亡くしても、皆で支えあえば大丈夫だと伝える。これこそ、まさにプロパガンダのテーマなのです。

――なぜ『チョコレートと兵隊』は学生の間で1番人気なのでしょうか。

 「プロパガンダ映画なんて、敵意むき出しの戦争礼賛映画だろう」と思っていたのに、想像とは全く違った内容だからだと思います。アメリカでも日本でも戦時中の国策映画といえば、自国の勝利をたたえたり、軍の活躍を描いたりするものばかりです。そんな中で『チョコレートと兵隊』は極めて珍しい作品だと思います。



いや~洋の東西を問わず、ちょっといい話は、人々をひきつける。

チョコレートと兵隊は結果として、例え戦死しても家族の面倒は国家や有志が面倒を見る、だから死んでこいという裏のメッセージがあると言う。

穿った見方をすればプロパガンダ映画かもしれないが、日本が欧米列強から植民地にならないように、精強な兵隊を持たなければならなかった現実に、どうしたら良いか考えた時に、日本が國を守る英霊と靖國神社システムを発明したのだ。

英霊と靖国神社システムは、戦死者を英雄以上の神として崇めることにより、兵士の戦死を無駄にしない為の神道の伝統的精神を鑑み発明した、優れた神道的システムだと思っています。

ゴードン教授はその視点について述べていませんから、まだまだ研究が足らないかもしれません。

大東亜戦争は、日本の防衛戦争であり、欧米列強によるアジア植民地支配からの解放を成し遂げるための、正義の戦いでした。日本は多大な犠牲を払いましたが、英霊たちの尊い犠牲で、目的は達成され、アジア諸国は独立を果たしました。

この正義の戦いである大東亜戦争について、特亜諸国には謝罪しても、リベラルの自民党員やパーの左翼連中、それどころか国家でさえは英霊に対し失礼な態度を取り続けています。
  全米に「武士道」を伝えた新渡戸、羽織・袴でアメリカを闊歩した岡倉

――「アジアの中の日本、世界の中の日本」では、長い歴史の中で日本が世界に与えてきた影響についても教えています。


 十九世紀ごろまでは、日本は世界にそれほど大きな影響を与えていなかったと思います。

奈良時代から日本は中国や朝鮮半島と貿易していましたし、使節も送っていましたが、それらはもっぱら外国の様々な制度や文化を日本に取り入れることを目的としていました。日本が他国に与えた影響は限定的だったと思います。

 ところが十九世紀の明治維新以降、様相は一変します。ヨーロッパの人たちが日本の文化や芸術に価値を見出しはじめるからです。

 授業では、一九二〇年代の「モダンガール」を調査した研究についても教えていますが、それを見ると、欧米とアジアがお互いに影響し合っているのがよくわかります。つまりファッションは、欧米からアジアヘと一方的に入ってきただけではなく、日本や中国のファッションもまた欧米に影響を与えていたのです。文化の伝播は一方的ではなく、複数の方向性を持つことを物語る資料です。

――十九世紀から二十世紀にかけて、日本の文化が世界を席巻したということですね。

 日本文化は、西洋の知識人の好奇心を刺激しました。日本は政治、経済よりも、芸術、文化、思想で海外に影響を与えてきた国なのです。
 思想でいえば、新渡戸稲造の『武士道』についても教えています。一九〇〇年にアメリカで出版された『武士道』は、セオドアールーズベルトに感銘を与えました。ルしスペルトは、「日本人の男性に脈々と受け継がれている精神を理解することはとても重要だ」と考え、『武士道』を自ら何冊も購入し、「これを読めば日本がよくわかる」と言って、友人などに配ったと言われています。ルしスペルトにはハーバード人学卒の日本人の友人もいましたし、ホワイトハウスに相撲の力士を招待したこともありましたから、日本のファンだったのは間違いありません。

 そのほかにも、エドワードーモース、ウィリアム・ビゲロー、アーネスト・フェノロサなど、日本から多大な影響を受けて、日本え化の素晴らしさを母国に伝えた人たちがいました。

――授業では、日本の近代化について学ぶ回で岡倉天心(一八六二~一九一三)をとりあげています。岡倉天心といえば東京美術学校(現・東京蓼術大学)の設立に寄与し、ボストン美術館の東洋部長として日本美術の振興に尽力したことで有名ですが、授業ではどのようなことを教えているのですか。

 岡倉天心については、『東洋の理想』『茶の本』など英語の本を出版したこと、アメリカに長く住んでいたのでネイティブスピーカー並みの英語力の持ち主だったことなど基本的な情報を伝えだけで、こんな面白いエピソードも授業で披露しています。

 岡倉には、アメリカでは日本の着物を着て、日本では洋服を着る」というこだわりがあり、アメリカの街を歩くときも常に着物を着ていました。一九〇〇年代初頭、岡倉と弟子たちが羽織・袴という装いでボストンの街を闊歩していると、地元のアメリカ人から「お前たちは何二ーズ? チャイニーズ?・ ジャパニーズ? ジヤワニーズ?」(中国人? 日本人?ジャワ人)と、からかわれました。すると岡倉は「私たちは日本の紳士です。あなたこそ何キーでしょうか? ヤンキー? ドンキー? モンキー?」(アメリカ人? ロバ? 猿?)と流暢な英語で言い返したそうです。

 この話が興味深いのは、当時のアメリカには人種差別主義的な考えを持っていた人がいたこと、岡倉が西洋化の波の中にあっても日本人としての誇りを失っていなかったことを同時に象徴しているからです。それにしても、冷やかしを英語のジョークで返した岡倉の英語力と機転の良さには感心するばかりでず。
以上は共感する部分だが、

♪君は「ヤンキー? ドンキー? モンキー?」いかれてるよ~♪楽しい♪
僕の暇の叙♪

以下の部分は米国のリベラル教授がまだ、誤解し勘違いしている部分だ!
――ゴードン教授は「日本は品格ある国家をめざすべきだ」と提唱されていますが、それはどのような国家でしょうか。

 私がいう「品格ある国家」とは、ロ本の皆さんが考えるイメージとは異なるかもしれません。国民が’我が国は特別でも完璧でもなく、我が国にも略い歴史はあるのだと認めた上で、自国を誇りに思う……れこそ品格ある国家の姿です。

 若い人には、自国の良いところばかりを教えて、愛国教育を施す。これでは、「偽りの誇り」と『実体のない品格」(empty dignity)
をもった国民ぱかりになってしまいます。品格ある国家とは、自らの過ちを認め、それを改めることでさらに強くなっていく国家のことです。「我が国には恥ずべき歴史など。何もない」と考えることは、虚構の中に生きることになります。それでは品格も尊厳も身につけられません。

 私は、自国の暗い歴史を知らずして、世界の人々と本当に理解しあえることはできないと思います。なぜなら「自分の国は他の国よりも優れている」と刷り込まれていれば、謙虚さを失ってしまうからです。「尊厳」と「謙虚」は夫裏一体のものなのです。

――アメリカは品格ある国家でしょうか。

 私はアメリカ人ですが、今のアメリカは品格ある国家とはいえません。品格なきリーダーがトップになってしまったからです、トランプ大統領やその周りの人々に一品格」があるとはとても。思えません。トランブ人統領の支持者はなぜ彼に投票したのか。それもまた「実体のない品格」からです。

 私か危供しているのは、世界中に「実体のない品格」を求める人たちが増えてきていることです。「自分の国は他国よりも優れている」。自分の国には良い歴史しかない」と若者に数えて、愛国的な国民をつくろうとする。こうした動きが日本、アメリカだけではなく、ヨーロッパ、中国、韓国などにも広がってきています。これは非常に危険な兆候です。

――なぜ私たちは、自国の負の歴史を認められないのでしょうか。

 自国の過去の非を・認めるのには、とても大きな勇気が必要だからです。たとえばアメリカには、長く「奴隷制」を続けてきた暗い9史があります。アメリカにはいまだ奴隷制に端を発する負の遺産がたくさん残っています。有色人種に対する差別は今も根強く残っており、アメリカがこの問題を克服したとは思えません。そもそもアメリカという国は高い理想を掲げていますが、奴隷制を前提として建国された国家なのです。多くのアメリカ人は品格ある国民であり、奴隷制は間違っていたことを認めています。にもかかわらず現大統領が歴史の負の遺産を否定するような言動をしているのはなぜでしょうか。彼にはそれを認める勇気がないからです。

 日本についても同じようなことがいえます。戦争で多くの日本人が犠牲となり、国は壊滅状態となりました。しかしながら、戦争の被害を受けたのは日本だけではありません。現代の日本は、日本国民だけではなく、隣国の国民の犠牲のもとに成り立っているのです。「彼らだって過去の過ちを認めていないじゃないか。なぜ我が国だけが反省する必要があるのか」と考えるのは、品格ある国民ではありません。

 過去の失敗を認めるよりも、否定するほうがずっと簡単です。しかし、アメリカも日本も自国の負の歴史に向き合う勇気をもってほしいと願います。

――日本が本当の意味で品格ある国家となれば、さらに世界に貢献できるということですね。

 そうです。そのような行動は、他国に勇気を与え、「日本のような国になろう」と追随する国がでてくるはずでり。実体なき品格を誇示する国家に対しては「恥を知れ」という態度で臨めばよいのです。

 世界の中では、ドイツがお手本になるでしょう。唯一、自らの負の歴史を認めている国だと思います。アメリカ、韓国、中国はいまだに国家主義的な傾向が強いです。たとえば中国は大躍進政策(一九五八~一九六一)と文化人革命(一九六六~一九七六)の過ちを認めていません。現在の中国は、そんな歴史があったことさえも否定しているように思えます。それではいくら経済大国になっても、品格ある国家にはなれません。

 日本にはイノベーション、テクノロジー、環境政策などの強みがありますし、高齢化社会の問題をどのように解決していくのかという意味でも世界から注目されています。日本がリーダーシップをとれる分野はたくさんあると思います。そのためにも、世界からさらに尊敬される国になってほしいと願っています。
うーんこの最後の部分に対して、私は異を唱えたい。

日本が間違ったのは、満州権益を独占しようとして、分け前を期待していた米国を追い出したこと。第一次世界大戦時 帝国陸軍を欧州に派遣せず日英同盟を終わらせてしまったことだ。そして、ドイツが勝つことを前提に真珠湾を攻撃し、米国と戦争をしてしまったことだ。

「我が国には恥ずべき歴史など。何もない」と考えることは、虚構の中に生きることになります。それでは品格も尊厳も身につけられません。
その通り、文句はない。

だが、従軍慰安婦の強制連行とか、南京大虐殺に対して幕府山事件以外無いものはないと言うことが、品格がない事でしょうか?

ない事まで認める国家こそ品格が無い!ドイツは国をあげてとんでもないことをしていたから謝って当然だ。日本も、東南アジア各国に謝罪し、賠償金を払った。

>戦争の被害を受けたのは日本だけではありません。現代の日本は、日本国民だけではなく、隣国の国民の犠牲のもとに成り立っているのです。

だが、日本より大東亜戦争では被害を受けなかった朝鮮半島にこれ以上何を詫びなくてはならないのか?未来永劫詫び続けろと言うサイコパス国家にいい加減にしろと言うことが、品格が無いとでも言うのか!

実体なき品格を誇示する国家に対しては「恥を知れ」という態度で臨めばよいのです。
だから、特亜諸国に「恥を知れ」という態度で日本は臨めばいいのである。

第2講義 江戸時代  デビッド・ハウェル教授

――パウエル教授が今、いちばん興味のある武士は誰ですか。

イメージ 2私のお気に入りは、幕末期の須坂藩(現在の長野県須坂市にあった藩)の大名、堀 直虎(一八三六~一八六八)です。同じ直虎でも、大河ドラマで話題の井伊直虎とはちがって、日本ではあまり有名ではないかもしれませんね(笑)。

 堀直虎は国際派のユニークな大名で、彼の短い人生はドラマチックです。

 直虎は、一八六一年、二十代で大名になりますが、外様大名であったにもかかわらず、譜代大名と同等の扱いを受けていたことがわかっています。須坂藩は一万石、十三村という小さな藩ですから、これは異例のことです。
 彼は大名になってまもなく、藩政改革にを断行します。須坂藩の借財がふくれ、わいろが横行しているのは家老らに責任があるとして、不服従の家老、藩士を徹底的に粛清して、新体制をつくります。 一説によれば処分した人数は合計三〇名を超えていたそうです。

 直虎は若いころから漢学/国学だけではなく、蘭学や洋式兵学を熱心に学び、翻訳が出来るほど英語も堪能でした。自らを「ストレート・タイガー(直虎)」と呼び、大名になると早速、洋式軍制を導入します。彼自身は日本の武術の訓練をうけていたにもかかわらず、あえて洋式を取り入れたのです。さらに彼はカメラに興味を持ち、自ら自分の写真を撮っていました。

――当時としてはモダンな大名だったのですね。

 そうです。直虎は日本で最初に「自撮り」をした人かもしれません(笑)。しかし、彼の人生にやがて悲劇がおとずれます。
 直虎は、 一八六七年、将軍に就任したばかりの徳川慶喜から若年寄兼外国総奉行を命じられます。「若年寄」は幕府の中でもかなりの重職で、通常は譜代大名から選ばれることになっていましたが、直虎は外様ながら抜擢されたのです。「外国総奉行」は、今で言えば、外務大臣のような役職ですっ直虎が自ら学んでいた洋学の見識が買われ、この登用につながったと言われています。

一八六八年一月、鳥羽・伏見の戦いの後、大坂から江戸城に逃げ帰った慶喜に、若年寄である直虎は何らかの進言をした、と伝えられています。そしてその直後に切腹してしまうのです。数えで三十三歳でした。

――幕府でこれだけ重用されていたのに、なぜ自害したのでしょうか。

 その理由は定かではありません。諸説ありますが、挙兵して薩長と戦うように、命をかけて進言したのではないか、と言われています。鳥羽・伏見の戦いの後、慶喜はこれ以上の交戦を望んでいませんでした。それを知りながら進言するということは、慶喜に刃向かうこと。

それでも命をかけて「戦うべき」と進言したのではないか、と。

 当時、須坂藩江戸藩邸下屋敷に仕えていた女性は、「十七日のご出立には下は白装束、刀までおそろえになり、お覚悟の上(だった)と思われまず」と語っていますから、最初から切腹する覚悟で江戸城に向かったのは間違いありませんつ直虎の人生は、悲しい幕切れを迎えるのです。
掘 直虎 モート ストレートタイガー・・・知らなかった。

外様の1万石の小名(5万石以下の大名)が、若年寄兼外国総奉行をしていたことは知らなかった。幕末の小説等でもあまり触れられていない人物だが、英語が堪能で翻訳まで出来写真好きとは、最晩年の一番の趣味が写真撮影だった、慶喜公が登用しそうな聡明な人物。維新後も生き残れば、勝海舟や榎本武揚、小栗上野介らと並んで評されてもいい幕府重臣だったに違いない。

  武士の長期政権を可能にした統治システムと「仁政」

――十二世紀の鎌倉幕府の成立から七〇〇年もの間、日本の支配階級は武士でした。世界の中でも同じように武士あるいは騎士が何百年もの間支配していた国はあるのでしょうか。

 モンゴル帝国(一二〇六~一六三四)、オスマン帝国(一二九九~一九二二)、ムガール帝国(五二六~一八五八)などは軍事国家ですね。ただ七〇〇年もの間、武士が支配していたのは日本だけでしょう。

――なぜ武士はこれほど長く、日本を統治できたと思いますか。

武士の役割は、鎌倉、室町、江戸と時代を経るごとに変遷していきます。

たとえば鎌倉時代。幕府が国を統治していたとはいえ、実質的には天皇宗が非常に大きな力をもっていました。おそらく鎌倉時代の人々は、「武士に支配されている」とは認識していなかったはずです。

 江戸時代になると、幕府が統治者としての力をもつことになります。徳川幕府と藩は、武士社会と軍事政府を維持するだけではなく、軍政から民政へと転換していくことをめずしました。その結果、十七世紀後半になると、ほとんどの武士は、「戦わない武士」になっていたのです。

――つまり「戦う人」ではなく「統治する人」になった。なぜ江戸時代の武士は、武力をつかわないのに、国を統治することができたのでしょうか。
 
フランスなどヨーロッパの諸国では、いわゆる平民は豊かになればなるほど税金を搾取される仕組みになっていました。それが封建制度そのものへの反発を生み、やがて革命へと発展していきました。

 ところが江戸幕府は「村請制」を農政に導入していました。村請訓とは、領主が村に対し年貢の村総量を賦課する仕組みです。この制度では、領主が村の農民の仕事内容にまで介入することはありま世ん。そのため農民は副業も自由にできましたし、どんな商売でもできたのです。村に決められた年貢さえ納めていれば、副業の商売に対して税金がかかることもありませんでした。

 また村請制度は、村の誰かが年貢を出せなくなると、村の他の者が助けてくれる仕組みなので、村の結束力は高まっても、制度そのものを否定することにはつながりませんでした。

江戸時代には、百姓一揆が頻発しましたが、農民の闘争の相手は領生や代官であって、幕府ではありませんでした。

 幕府が直接領土を統治する仕組みではなかったために、システムの中に他国にはない柔軟性があったのです。日本の江戸時代は厳しい階級社会だったと考えられていますが、その実情は驚くほど柔軟であり、その柔軟性が長く秩序を保つことができた要因でした。

――いわゆる「武士道」は、長い間、武士政権を維持していく上でどの程度役にたったのでしょうか。

 「武士道」という言葉は一九〇〇年に新渡戸稲造が『武士道』(Bushido: The Soul of Japan)という本を出版してから広まった言葉で、武士が実際に使っていた言葉ではありません。ですから、私の授業では「仁政」(思いやりのある政治)という価値観について教えています。
「情け深く、良きりリーダーになれば人々はついてくる」という考え方です。

――それは儒教からきている考え方ですね。

そうです。「仁政」は東アジアの国々のいたるところで信じられている考え方です。面白いことに、日本では武士や支配階級のエトス(社会集団・民族などを特徴づける道徳的な慣習)となりましたが、中国や韓国ではそうはなりませんでした。

『忠臣蔵』は素晴らしい物語だ

――『忠臣蔵』で有名な赤穂事件(一七〇一~○三年)についても、授業で教えているそうですね。具体的にどんなことを教えているのでしょうか。

  私か特に注目しているのは、事件が起きてから、大石内蔵助らが切腹するまでの時間です。
 浅野内匠頭が吉良上野介に切りかかった事件では、浅野は即日切腹を命じられています。
 ところが、討ち入りから、四十六士が切腹を命じられるまでには、二か月近くの時間がかかっているのです。なぜこれほど長い時間がかかったのでしょうか。

  その理由は赤穂浪士の行為の是非を判断するのに時間がかかったからだと言われています。
 彼らがやったことは不法行為であることは間違いありませんし、江戸の中で侍同士の抗争が起きるのは望ましいことではありません。しかし、「これこそ武士らしい行動だ」と思い、感銘を受けた人も多かったのです。

 江戸時代に入ってから約一〇〇年。平和な時代が続いていたため、武士は武士たるゆえんを忘れかけていました。それを思い起こさせてくれたのが、四十七士の討ち入りでした。

 彼らがやったことは許されない。しかし、同じ武士として賞賛したいという気持ちもある。町民は皆、素晴らしい行動だと彼らの行動を支持している。さてどうしたものか。将軍綱吉らは二か月もの間、悶々と悩んだはずです。結局、切腹を命じることになるのですが、その後も彼らの行動の是非についての論争は絶えませんでした。

――学生の反応はいかがですか。

 学生たちは「素晴らしい物語だ」と感銘を受けています。赤穂事件の話をするときは、彼らが理解できるような説明をするように心がけています。たとえば「切腹」についても、「当時の武士にとっては究極の問題解決手段だった」と伝えます。他のあらゆる手段を使っても問題が解決しない場合、切腹を命じたのだ、と。

 主君にかわって復讐する、という考え方は、日本独自のものではありません。しかし、学生が感銘を受けるのは、「大義のためにすべてを犠牲にする」という姿だと思います。自分が大石内蔵助だったら、同じような行動をするかはさておき、自分の人生のすべてをかけて、自分の命を犠牲にしてでも、大義を全うするというのは、普遍的な考え方です。そこに学生たちは共感するのだと思います。
武士は仁政を行ったという視点、マルクス主義に毒されている歴史学者には絶対に理解できない視点ですね。

最近はマルクス主義的歴史学者はさすがに現代では淘汰されてはいるようですが、30年位前までは、江戸時代までの日本は暗黒な封建社会だと日本人ですら信じていた。

80年代サブカルチャーとしての江戸を杉浦日向子さんあたりが中心となって、江戸がブームとなっていた。ベルリンの壁崩壊後はマルクス主義的歴史学者が居なくなり、1995年頃から大石慎三郎氏が中心となった歴史学者達が江戸時代の貧農史観を糺す講談社現代新書シリーズがベストセラーとなって、私もようやく江戸時代が豊かで、平和な時代であったことを知ったのでした。

ハーバードの秀才たちもおそらく、江戸時代は知的好奇心を刺激されまくられる内容であることは、私も未だに刺激されつづけているので、想像がつきます。

しかし、赤穂浪士の物語が日本人以外にも感銘を受けるとは、少々意外な気がします。酷評された47ROUNIN(2013年)も、もっと史実に近いシリアスな映画だったら、もっと興業的成功を収めたかもしれませんね。

――中世の武士はどのような世界観を持っていたのでしょうか。織田信長が地球儀を持っていたことは有名ですが、それ以前の室町時代の武士は「地球は丸い」「日本の領土は中国やヨーロッパとくらべると小さい」ということを知つていましたか。

 「地球が丸い」ということは地球儀が日本に入ってくる前から知っていたはずです。十六世紀、ポルトガル人が初めて日本に来たときは「この人たちはインドから来だのかな」と思ったようですが、やがてインドではなく、ヨーロッパというところからやってきたのだ、という事実を知るようになります。実際、十六世紀に初めてポルトガル人がやってくる前に、「ヨーロッパ」についての情報はたくさん入って来ていたのです。

――世界地図もすでに日本にあったのではないかということですね。
 そうです。室町時代、世界地図のようなものは、すでに日本にあったと思います。
 心に的々よ拠はないのですが、たとえば、日本人が初めて梅毒に罹患したのは、一五一二年。鉄砲伝来よりも前のことです。梅毒はアメリカ起源の病気ですから、外国人が日本に梅毒をもってきたのは間違いありません。罹患者は東北に住んでいたそうですから、東北地方のどこかの港に来た外国人が感染源かもしれません。その人がヨーロッパ人だったとは言い切れませんが、「ヨーロッパとつながりのあった人が一五四三年よりも前に日本に来ていた」という証拠にはなります。つまり、鉄砲伝来以前にも公式の記録にはない外国人が日本を訪問していて、様々な情報を持って来ていたことがこの事実からうかがえます。

 それから、鉄砲は一五四三年よりも、もっと早く日本に入って来ていたという説もあります。『北条五代記』には、一五一〇年に中国から渡来したと書かれていますし、他にも記録があります。いずれにしても、それ以前に日本人が朝鮮で開発された火薬兵器を見たことがあったのは確かであり、日本で火縄銃が急速に広まったのも、もともと日本に火薬についての知識や技術があったからです。

  世界から絶賛された日本の漆器技術

――日本は海外の文化をうまく取り入れて発展してきた国だとよく言われていますが、明治時代以前に、日本が世界に影響を与えた事例は何かないでしょうか。

 漆器が最も有名ではないでしょうか。十六世紀、ヨーロッパの学者は日本の物質文化に関心を示し、漆器の技術をこぞって研究しました。その技術は北アメリカや南アメリカまで伝播していったのです。二〇一五年にボストン美術館で「メイド・イン・アメリカ:新世界がアジアと出会う」という特別展が開催されましたが、そこには、日本の漆器技術をもとにアメリカ大陸でつくられた漆器が数多く展示されていました。

――南アメリカまで、ですか。

 そうです。十六世紀後半から十七世紀前半にかけて来日したスペイン人が、日本から漆器を持ち帰り、その技術がスペイン領のメキシコやペルーにまで伝わったのです。さらに漆器技術はスペインからイギリス・フランスを経て、北アメリカヘと伝播しました。ボストンでは多くの漆器がつくられ、漆器製造の中心地となりました。ご存じかもしれませんが、英語の「japan」(jが小文字)は漆器を意味します。

 漆器だけではありません。十六世紀、日本にやってきた宣教師や商人は、日本の豊かで洗練された文化に、感銘をうけましだ。十七世紀に人つて、日本が鎖国体制をとると、ヨーロッパから日本を訪問することが難しくなった分、日本への興味はさらに増すことになりました。それは授業でも教えている『ジョン・セーリス日本航海記』からも明らかです。

――日本は技術と製品で世界に影響を与えてきたのですね。

 漆器技術のほかに思いつくのが、肥料製造技術です。十八世紀後半から十九世紀前半にかけて、多くの欧米の化学者や農業技術の専門家が、日本と中国で発達した肥料製造技術について研究しています。具体的には人間の排泄物を農業肥料として活用する技術です。

 たとえば、イギリスには、「人間の排泄物はとても良い肥料になります。日本や中国と同じように、私たちも肥料として生かしましょう」と専門家が農家に手紙で呼びかけている記録が残っています。最終的にはうまくいきませんでしたが、アメリカでもヨーロッパでも、何とかして日本の肥料製造技術を真似して取り入れようとしていたことがうかがえます。

 現在、日本は先端技術に優れた国として世界から認識されていますが、江戸時代までは前近代的な国家だったという印象が強いのではないでしょうか。しかしながら、漆器技術、農業技術など、欧米よりもずっと進んでいた分野もあったのです。

――日本人の技術力を象徴する話として、日本では「反射炉」の話が有名です。江戸時代末期に、佐賀藩や薩摩藩などでは洋式の大砲を鋳造するために反射炉を作ろうとしたが、鎖国状態だったため外国から技術者を招聘できず、オランダの技術書を参考に、日本人だけで反射炉を作ってしまつたという話です。なぜそのようなことが可能だったと思いますか。

 もちろん多くの試行錯誤を重ねたと思いますが、長い歴史をもつ日本には、江戸時代末期にすでに建築、製鉄、鋳造などの技術が蓄積されていました。特に鍛治技術や刀を製造する技術においては世界に卓越していたと思います。

 反射炉を建設する上で、日本にない技術がいくつか必要だったかもしれませんが、ほとんどの技術はすでに日本国内にあったのではないでしょうか。基礎があったからこそ、技術書だけで建設できたのだと思います。

 そうはいっても、私は「技術書があれば何とか建設できる」と考えて、実際につくってしまった当時の日本人は本当に素晴らしいと思います。

  
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