数年前から友人と神田川・日本橋クルーズ体験をしようと計画しておりましたが、仕事が入ったりで度々ながれ、今年は10月16日と調整しておりました。ところが台風の上陸が相次ぎ10月13日の台風19号で今回も中止かと諦めかけました。幸なことに、東京都心に限っては長年の治水事業の成果ででょうか、当日は通常運行されました。実際に船からの景色は、まるで何事もなかったかのようでした。江戸~東京そして未来の東京の治水について感じるものがありました。
【神田川クルーズ90分体験】
乗り場は日本橋のたもと、野村證券本社ビルの目の前です。

乗船場(日本橋 防災船着場)
このこの乗船場は平成7年1月の阪神・淡路大震災を契機に災害時における河川舟運の有効性が注目され、災害時河川による物資輸送を想定し都内各所設けた防災船着場が整備されました。折角のインフラを有効活用する目的の一つとして、観光/社会見学用に神田川クルーズが始まったとのことです。2010年にタモリ倶楽部でタモリさんが神田川を探検した回は大変興味深く、私も是非参加したいと思いましたが、そう思われた方々が非常に沢山いらっしゃったということですね。
防災船着場については都内河川に現在合計 94 箇所(既設 69 箇所・計画 25 箇所)ありますがそれにくわえ、東京湾岸にも東京港防災船着場整備計画として、現在の13箇所→38箇所に整備する計画です。下手をすれば都内の電車駅数654駅(717駅)とまではいかないが、都内のJR駅数141駅に匹敵する。私が思った以上に都内には水上交通を活用できるインフラが揃っています。
神田川・日本橋クルーズの船 エスエスNANO1号(40名)
乗船開始です。
先に団体旅行の小型のチャーター船が出発でした。我々の船は救命胴衣は着けません。
日本橋を出発し、日本橋川を水道橋方面の上流へ遡ります。
東京駅前常盤橋プロジェクト
ちなみにB塔は日本一の高さとなる地上61階、高さ390mの超高層ビルとなる予定です。
日銀本店ビルが見えます
常磐橋の解体復元作業
2013年より行われている修復工事は、石垣の石一つ一つの付き方方向を記録しながら同じように組み立てていくという気の遠くなる作業です。
船は本当にギリギリで通過しました。
首都高都心環状線 神田橋JCT
鎌倉橋付近
江戸城建設の際に相模国鎌倉から運んだ木材や石材を荷揚げした河岸があり鎌倉河岸と呼ばれたため付近の町は「神田鎌倉町」と名付けられ本橋も鎌倉橋と称するようになったとのことです。
神田橋
橋名は、かつてこの付近にあった神田明神に由来します。
一ツ橋IC付近
完全にこの付近は空が見えず、高速の道路底辺が暗い。まるで地下水路のようです。江戸時代の石垣が壊されコンクリートの首都高の橋脚となってしまったのは残念なことですが、それも歴史の一部かもしれません。
俎板橋(まないたばし)靖国通り
このあたりは首都高速5号池袋線
新三崎橋付近
この付近でようやく首都高の下から抜けます。
中央線鉄橋
総武線の鉄橋は国鉄の前身甲武鉄道時代から120年以上使われていいます。レトロで美しいレンガづくりの鉄橋。残念なことに総武線を利用している人のほとんどが優雅な鉄橋を渡っていることに気がつくことはありません。
ここで、日本橋川と神田川が合流(分流)します。
千代田区千代田清掃事務所 三崎中継所
東京都内には約140の河川や運河が流れており、江戸時代、物資の運搬は主に水路が利用され、水運は江戸の都市機能を支えていました。三崎中継所は千代田区、文京区、台東区の不燃ごみを収集し、そのごみは神田川から運搬船で埋立地へと運ばれる。今東京の水路を行き交うのは観光船が多いなか、不燃ごみを東京湾の埋め立て処分場まで運び、水路を現役で利用しています。
水道橋
水道橋は江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まりで、当初は現在よりやや下流に位置していたそうです。現在の橋は1988年(昭和63年)3月に架け替えられたもので、先代よりやや大ぶりの橋となった。
やや下流には先代水道橋も架かっております。1928年(昭和3年)に、架けられた鋼橋です。
その先代の水道橋ですが、大東亜戦争の米軍の空襲による傷跡が残っています。
水道橋駅
このあたりの神田川は狭く両脇がビルなので、まるで都会の峡谷のようです。
神田川御茶ノ水分水路
謎の横穴お茶の水分水路
直径 8.8m 全長 760m 本郷台の地下に位置
神田川の治水対策にはそうとうお金がかかっています。江戸に幕府が開かれて400年、江戸幕府以来築いた治水対策はあの台風19号でも都心部はなんとか守られた。日本人の努力の賜物であったと思います。
いよいよ、神田川最大の見所、神田川の渓谷 御茶ノ水切り通しにはいります。
昔は丘の尾根であった場所を人力で切り通すのであるから凄い!
川面から見上げる湯島本郷方面。川からはだいぶ高低差があり、神田川が本郷台と駿河台を二つに分けます。
JR御茶ノ水駅と新御茶ノ水ビルディングを望む
新御茶ノ水ビルの後ろは、デジタルハリウッド大学などが入る御茶ノ水ソラシティ
御茶ノ水橋
駿河台のメインストリートである明大通りに架かる御茶ノ水橋
工事中のJR御茶ノ水駅
JR御茶ノ水駅改良プロジェクト
完成予想図
聖橋
両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名された。橋は船から見上げた時に最も美しく見えるようにデザインされていると言われていたので、聖橋を船から眺めた景色は今回のクルーズの一番の見所でした。
御茶ノ水で大学時代を過ごした私でしたが、いつか船から聖橋を眺めるというちょっとした夢がかないました。
地下鉄丸の内線の鉄橋の下を潜るのも そうはない体験です。ちなみに東京メトロ丸の内線は四谷駅付近・後楽園駅付近・茗荷谷駅付近とここ神田川の鉄橋と4箇所地上を走ります。
2019年デビューした丸窓がついた赤い丸ノ内線の新型車両「2000系」
外堀通り沿いの神田須田町のレトロな建物群、老舗ビリヤード専門店 淡路亭が有名です。
奥の高層ビルは秋葉原ダイビル
昭和7年に架けられた総武線神田川橋梁。八の字のラーメン橋は、松住町架道橋と並び秋葉原電気街のランドマークとなっています。ちなみにラーメン橋のラーメンとは、「骨組み」を意味するドイツ語のRahmenに由来するもので中華そばのラーメンではありません。
こちらもレトロな旧万世橋駅を再生したマーチエキュート神田万世橋 元の交通博物館である。
先ほどの御茶ノ水分水路の出口は昌平橋のたもとにありました。ちなみにマニアックな神田川暗渠クルーズ(お茶の水分水路、水道橋分水路)というのも、あったらしいです。
秋葉原の高層ビル群、JR神田万世橋ビル(手前)・住友不動産神田ビル2号館(奥)
リバーサイドオープンデッキがあるデニーズ秋葉原中央店。
今度行ってみたくなりました。
美倉橋
ゆりかもめが飛来していました。クルーズ船の方は、この鳥を見かけると秋が深まったと感じるそうです。うみねことユリカモメの見分けかたは、ゆりかもめはウミネコに比べ小型で、くちばしと足がみごとな赤いろになっているとのことです。

はしけが過ぎて動き出した船は柳橋の船宿街に入ります。
柳橋付近は浅草から東京湾に向かう老舗の船宿が多く立ち並びます
船宿の屋形船はそのほとんどがFRB製の船となってしまい、昔ながらの木造屋形船は都内では画面中央の赤い船第七小松丸だけだそうです。ちなみに、徳川将軍家の御座船を模しているとのことです。隅田川の女王エメラルダス号
松本零士氏デザインのエメラルダス号は2005年に就航したヒミコ、2013年のホタルナに次ぐ第3番船として今年(2019年)に就航したばかりです。
松尾芭蕉史跡展望庭園
小名木川河口
化粧直し中の清洲橋
新大橋
昔の情緒ある旧新大橋は現在明治村に移築されているそうです。
隅田川大橋と佃島のタワマン群
Diwaリバーゲートビル旧リバーサイド読売ビル、現在低層階はマンションで上層階のオフィス塔には吉野家HD本社などが入居しています。
このビルの空間は、後のビルへの日照の確保の為だそうです。
絶景の隅田川清洲橋とスカイツリー
この日は晴天ではなく、青空がバックではなく非常に残念でした。
旧山一證券本社ビル現在は茅場町タワービル
このビルを見るたびに、同じ業界に勤める私は、あの号泣会見を思い出します。
豊海橋をくぐると再び日本橋川です。
首都高速6号箱崎JC付近で・・・うぁ!ッスマホのバッテリー切れだ!・・・・
ということで、残りはYoutubで検索した動画でお楽しみください。
【神田川クルーズ90分体験】
乗り場は日本橋のたもと、野村證券本社ビルの目の前です。

乗船場(日本橋 防災船着場)
このこの乗船場は平成7年1月の阪神・淡路大震災を契機に災害時における河川舟運の有効性が注目され、災害時河川による物資輸送を想定し都内各所設けた防災船着場が整備されました。折角のインフラを有効活用する目的の一つとして、観光/社会見学用に神田川クルーズが始まったとのことです。2010年にタモリ倶楽部でタモリさんが神田川を探検した回は大変興味深く、私も是非参加したいと思いましたが、そう思われた方々が非常に沢山いらっしゃったということですね。
防災船着場については都内河川に現在合計 94 箇所(既設 69 箇所・計画 25 箇所)ありますがそれにくわえ、東京湾岸にも東京港防災船着場整備計画として、現在の13箇所→38箇所に整備する計画です。下手をすれば都内の電車駅数654駅(717駅)とまではいかないが、都内のJR駅数141駅に匹敵する。私が思った以上に都内には水上交通を活用できるインフラが揃っています。
神田川・日本橋クルーズの船 エスエスNANO1号(40名)
乗船開始です。
先に団体旅行の小型のチャーター船が出発でした。我々の船は救命胴衣は着けません。
日本橋を出発し、日本橋川を水道橋方面の上流へ遡ります。
時計回りで日本橋川→神田川→墨田川→日本橋川に戻るルートです。
日本橋を出ると旧大和証券本社ビル跡に東京駅前常盤橋プロジェクトのA塔の建設風景が見えます。東京駅前常盤橋プロジェクト
ちなみにB塔は日本一の高さとなる地上61階、高さ390mの超高層ビルとなる予定です。
日銀本店ビルが見えます
常磐橋の解体復元作業
2013年より行われている修復工事は、石垣の石一つ一つの付き方方向を記録しながら同じように組み立てていくという気の遠くなる作業です。
船は本当にギリギリで通過しました。
首都高都心環状線 神田橋JCT
鎌倉橋付近
江戸城建設の際に相模国鎌倉から運んだ木材や石材を荷揚げした河岸があり鎌倉河岸と呼ばれたため付近の町は「神田鎌倉町」と名付けられ本橋も鎌倉橋と称するようになったとのことです。
神田橋
橋名は、かつてこの付近にあった神田明神に由来します。
一ツ橋IC付近
完全にこの付近は空が見えず、高速の道路底辺が暗い。まるで地下水路のようです。江戸時代の石垣が壊されコンクリートの首都高の橋脚となってしまったのは残念なことですが、それも歴史の一部かもしれません。
俎板橋(まないたばし)靖国通り
このあたりは首都高速5号池袋線
新三崎橋付近
この付近でようやく首都高の下から抜けます。
中央線鉄橋
総武線の鉄橋は国鉄の前身甲武鉄道時代から120年以上使われていいます。レトロで美しいレンガづくりの鉄橋。残念なことに総武線を利用している人のほとんどが優雅な鉄橋を渡っていることに気がつくことはありません。
ここで、日本橋川と神田川が合流(分流)します。
千代田区千代田清掃事務所 三崎中継所
東京都内には約140の河川や運河が流れており、江戸時代、物資の運搬は主に水路が利用され、水運は江戸の都市機能を支えていました。三崎中継所は千代田区、文京区、台東区の不燃ごみを収集し、そのごみは神田川から運搬船で埋立地へと運ばれる。今東京の水路を行き交うのは観光船が多いなか、不燃ごみを東京湾の埋め立て処分場まで運び、水路を現役で利用しています。
水道橋
水道橋は江戸時代初期に神田川の開削に合わせて架けられたのが始まりで、当初は現在よりやや下流に位置していたそうです。現在の橋は1988年(昭和63年)3月に架け替えられたもので、先代よりやや大ぶりの橋となった。
やや下流には先代水道橋も架かっております。1928年(昭和3年)に、架けられた鋼橋です。
その先代の水道橋ですが、大東亜戦争の米軍の空襲による傷跡が残っています。
水道橋駅
このあたりの神田川は狭く両脇がビルなので、まるで都会の峡谷のようです。
神田川御茶ノ水分水路
謎の横穴お茶の水分水路
直径 8.8m 全長 760m 本郷台の地下に位置
神田川の治水対策にはそうとうお金がかかっています。江戸に幕府が開かれて400年、江戸幕府以来築いた治水対策はあの台風19号でも都心部はなんとか守られた。日本人の努力の賜物であったと思います。
いよいよ、神田川最大の見所、神田川の渓谷 御茶ノ水切り通しにはいります。
昔は丘の尾根であった場所を人力で切り通すのであるから凄い!
(江戸城の惣構え)「惣構え」とは、いわゆる城を取り巻く外郭、またはそれに囲まれた内部のこと言い、城の他 城下町一帯を含めた外周を掘りや石垣、土塁で囲い込んだ日本の城郭構造をいう。 秀吉が落城させるために時間がかかって難儀した小田原北条の小田原城の惣構えは、城下町の外周2里半(約9km)に及ぶ日本で最初の本格的な「惣構え」が出来ていた。 小田原城包囲で全国から参戦してきていた、各地の城主達は、小田原落城後 自分の城に戻って、小田原城を範とした、近世の城郭構造、「惣構え」構造への改修工事が、各地で始まってゆくことになる。 その代表のひとつが前田利家の金沢城の惣構えでもあり、他に京都の町を囲んだ、秀吉の「御土居」等も典型的な惣構えでもあった。 信長によって生まれた安土城の中世城郭構造は、小田原北条の小田原城惣構えによって、その後の中世城郭構造の転機となる影響を及ぼしていた。江戸城自体も惣構えの構築が進んでいくのだが、江戸城防禦のウイークポイント部分があった。 ある時、家康と仙台藩祖・伊達政宗が江戸城内で将棋楽しんでいたところ、将棋の勝負で窮地に陥っていた政宗は、思わず 「次の一手は神田山か!」 とつい思わずつぶやいてしまったというエピソードがある。 家康は政宗のこのつぶやきに戦略意図の潜在的な思いが吐露されたことに気付いていた。 確かに奥州の雄、伊達政宗は、加賀の前田利家と並ぶ、家康にとって手ごわい武将の一人で、その政宗も江戸城の攻略は、神田山を降りてゆけば江戸城の大手門に難なく進軍できることを前々から睨んでいたのだ。 確かに神田山方向は江戸城防禦の最大のウイーク・ポイントであった。(神田川開削プロジェクト)二代将軍・徳川秀忠の時に、平川下流域の洪水対策、及び江戸城東北方の防御の守りを一段と固めるために、平川を付け替えて外堀にすることが企図されていた。 すなわち小石川から南流して日比谷入江に注いでいた平川の流路を東に向かわせ、神田山と呼ばれる、本郷台地を切り通し、舌状台地を湯島台と駿河台に分断して、現在の御茶ノ水に人工の谷を開削する大プロジェクトであった。徳川秀忠は、大阪夏の陣が1615年(元和元)5月に一段落して間もなく、この神田川開削プロジェクトを仙台藩祖伊達政宗に命じている。 徳川幕府は、長期政権維持するために家康以来、様々な工夫を打ち出していた。例えば参勤交代制度などの他、江戸城整備等を命じ、外様大名を財政面で苦しい状況に追い込んでいたのだ。徳川秀忠が命じた、神田川開削プロジェクトは、江戸城防禦の守りを更に固めると同時に、東北の雄藩、政宗の仙台藩に工事の為の財政負担を強いる目的もあったのである。兎に角、この神田川開削プロジェクトは、驚くことに海抜0mに近い、平川の流れを海抜20m弱ほどある、本郷台地を開削して深い渓谷を造り出す大土木工事であった。 それが江戸時代の、コマツのパワーシャベルやブルトーザーやダンプトラックもない、鍬とモッコの時代の大土木工事であった訳だ。 もっとも仙台藩は、それまでに仙台湾に沿う貞山掘り運河の土木工事の実績があった。 秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達政宗が現在の飯田橋駅近くの牛込橋付近から秋葉原駅近くの和泉橋までを担当して工事に取りかかり、約5年を費やして、1620年(元和6)に神田山と呼ばれる本郷台地の舌状台地は、湯島台と駿河台とに分断されてしまった。
川面から見上げる湯島本郷方面。川からはだいぶ高低差があり、神田川が本郷台と駿河台を二つに分けます。
JR御茶ノ水駅と新御茶ノ水ビルディングを望む
新御茶ノ水ビルの後ろは、デジタルハリウッド大学などが入る御茶ノ水ソラシティ
御茶ノ水橋
駿河台のメインストリートである明大通りに架かる御茶ノ水橋
工事中のJR御茶ノ水駅
JR御茶ノ水駅改良プロジェクト
完成予想図
聖橋
両岸に位置する2つの聖堂(湯島聖堂とニコライ堂)を結ぶことから「聖橋」と命名された。橋は船から見上げた時に最も美しく見えるようにデザインされていると言われていたので、聖橋を船から眺めた景色は今回のクルーズの一番の見所でした。
御茶ノ水で大学時代を過ごした私でしたが、いつか船から聖橋を眺めるというちょっとした夢がかないました。
地下鉄丸の内線の鉄橋の下を潜るのも そうはない体験です。ちなみに東京メトロ丸の内線は四谷駅付近・後楽園駅付近・茗荷谷駅付近とここ神田川の鉄橋と4箇所地上を走ります。
2019年デビューした丸窓がついた赤い丸ノ内線の新型車両「2000系」
外堀通り沿いの神田須田町のレトロな建物群、老舗ビリヤード専門店 淡路亭が有名です。
奥の高層ビルは秋葉原ダイビル
昭和7年に架けられた総武線神田川橋梁。八の字のラーメン橋は、松住町架道橋と並び秋葉原電気街のランドマークとなっています。ちなみにラーメン橋のラーメンとは、「骨組み」を意味するドイツ語のRahmenに由来するもので中華そばのラーメンではありません。
こちらもレトロな旧万世橋駅を再生したマーチエキュート神田万世橋 元の交通博物館である。
先ほどの御茶ノ水分水路の出口は昌平橋のたもとにありました。ちなみにマニアックな神田川暗渠クルーズ(お茶の水分水路、水道橋分水路)というのも、あったらしいです。
秋葉原の高層ビル群、JR神田万世橋ビル(手前)・住友不動産神田ビル2号館(奥)
リバーサイドオープンデッキがあるデニーズ秋葉原中央店。
今度行ってみたくなりました。
美倉橋
ゆりかもめが飛来していました。クルーズ船の方は、この鳥を見かけると秋が深まったと感じるそうです。うみねことユリカモメの見分けかたは、ゆりかもめはウミネコに比べ小型で、くちばしと足がみごとな赤いろになっているとのことです。

この先水路は狭くなるので対抗船が来るとのことで、10分弱ほど停船していました。ちなみに緑の船が国土交通省の船で、船の行き来を監督しているようです。さんざん待ってやってきたのは千代田清掃事務所へ向かうはしけでした。
柳橋付近は浅草から東京湾に向かう老舗の船宿が多く立ち並びます
船宿の屋形船はそのほとんどがFRB製の船となってしまい、昔ながらの木造屋形船は都内では画面中央の赤い船第七小松丸だけだそうです。ちなみに、徳川将軍家の御座船を模しているとのことです。
木造屋形船の船宿小松屋さん
船は神田川から隅田川へ、写真では分かりにくいのですが、比較的透明だった神田川と違い、台風19号の影響で、隅田川は黄色く濁っておりました。
神田川河口、緑の橋は柳橋です。
スカイツリーが目に飛び込んできました。
首都高速6号線と7号線両国JC付近
神田川河口、緑の橋は柳橋です。

首都高速6号線と7号線両国JC付近
松本零士氏デザインのエメラルダス号は2005年に就航したヒミコ、2013年のホタルナに次ぐ第3番船として今年(2019年)に就航したばかりです。
松尾芭蕉史跡展望庭園
小名木川河口
化粧直し中の清洲橋
新大橋
昔の情緒ある旧新大橋は現在明治村に移築されているそうです。
隅田川大橋と佃島のタワマン群
Diwaリバーゲートビル旧リバーサイド読売ビル、現在低層階はマンションで上層階のオフィス塔には吉野家HD本社などが入居しています。
このビルの空間は、後のビルへの日照の確保の為だそうです。
絶景の隅田川清洲橋とスカイツリー
この日は晴天ではなく、青空がバックではなく非常に残念でした。
巨大構造物フェチにはたまらない箱崎JC

このビルを見るたびに、同じ業界に勤める私は、あの号泣会見を思い出します。
豊海橋をくぐると再び日本橋川です。

ということで、残りはYoutubで検索した動画でお楽しみください。
地下40mの「超巨大水路」で水都・東京の復活を!かつて江戸はかつては豊富な水と共存する水の都、水都でした。
目指すは東京の水不足解消&観光開発。大林組「スマート・ウォーター・シティ東京」構想東京が、実は“世界有数の水不足都市だ”と聞いてにわかに信じられるだろうか? 「未来の都市構想」を紹介する本連載の第2回は、そんな東京の水問題を解消すると同時に、景観や交通網を大胆に構想する大林組の「スマート・ウォーター・シティ東京」を取り上げる。同社テクノ事業創成本部PPP事業部 葛西秀樹部長に話を聞いた。東京の地下に巨大な水のトンネルを築く!
かつて東京は、“東洋のベネチア”と呼ばれる「水都」であった。東京の街は、前回(1964年)の東京五輪で大きく変わった。江戸期に徳川幕府が百万都市を築き上げる基盤となった舟運のための運河は、高速道路や地下鉄へと置き換わった。そして、世の中が2020年の東京五輪開催決定に盛り上がる中、広報誌『季刊大林』56号(2015年11月30日発行)の企画を検討していた葛西さんは、ある構想を描く。「“水都復活”をテーマに『スマート・ウォーター・シティ東京』構想を思いついたんです。先の東京五輪で失った東京の魅力を、次の東京大会で復活させてはどうか、と」『スマート・ウォーター・シティ東京』構想の核は3つある。まず注目したいのが、ページトップに掲載した画像「ウォーターズ・リング」。都心の地下40m以上の大深度地下に、全長14kmにわたる地下トンネルを建設する構想だ。「皇居のお濠の下あたりに、内径14.5mのトンネルを2本造って、雨水を大量にためる構想です。わが社の持つ現在のトンネル技術で建設可能です」トンネルの主目的は、防火用水としての雨水の活用や、局地的なゲリラ豪雨の受け入れなど「都市の防災装置」。だが面白いのは交通システムとしての活用だ。「トンネル内を水陸両用車の“アンフィ・モービル”が走る提案をしています。地上の運河とエレベーターで接続され、交通網として活用します。アンフィ・モービルは自動運転でコントロールされるので、渋滞や事故に巻き込まれることもなくなります」ウォーターズ・リングと、雨水の注入・放水および、地上の運河からの出入り口ともなる「SWN(スマート・ウォーター・ネットワーク)ゲート」の位置を示した図。リングは二重、ゲートは都心5カ所を想定手に入れた水資源は観光資源にこの構想のもう一つ大きなポイントは「水不足の解消」だ。世界規模での「水不足問題」を考えると、東京も例外ではないと葛西さんは言う。「狭い範囲にたくさんの人が暮らしている東京は、実は世界有数の水不足都市なんです。多摩川や利根川など『周辺の広い地域』から水を集めることで成り立っているんですが、実際2016年にも水不足は起こりました」温暖化によって気候の変動が大きくなっているため、今後は局所的な「ゲリラ豪雨」への対策も必須だ。「現在の下水道網では、ゲリラ豪雨などに耐えられなくなってきた。既に地下に巨大な貯水施設は造られているので、ウォーターズ・リングでは、この水資源を有効活用できないか、という着想もありました」こうしてためた雨水を地上の建物へと融通する「スマート・ウォーター・ネットワーク(SWN)」という構想が2つ目の核だ。SWNにより雨水が有効活用できるようになれば、内陸でウォーター・レジャーが可能になるという。「(水資源に余裕ができることから)現在、他県から取水している水の一部は、玉川上水を通じて外濠・内濠に流すことができるようになります。そこで、お濠をつなげ直して水が流れるようにすれば、水がよどまないのでお濠の水景が美しくよみがえります。水がきれいなら、都心でもウォーター・レジャーを楽しむことが可能です」ウォーターズ・リングによって、美しい水景が復活した市ヶ谷周辺の景観を表したCG。両岸や橋の上に江戸風情を演出した店が立ち並ぶのは、スカイツリーを手掛けた同社らしい発想だ神田川から望む秋葉原の夜景。海抜が低いエリアは、潮汐により水位が上下するため、小型ボートにさまざまな機能を搭載した「ユニットボート」でにぎわいを生み出す。このユニットボートは、災害時の防災機能も備える豪華客船の玄関「メガフロート」を東京湾に最後の核が「水都にふさわしい玄関口」を造ることだ。日本各地に多くの大型客船が寄港していることはご存じだろうか? しかし実は、日本の首都・東京へは大型客船が入ってこられないという。「理由はレインボーブリッジ。橋が低いので超大型客船が通るのは難しいのです。建設当時、乗客約2000人のクイーンエリザベスII号の来航を想定し、海面から橋桁までの高さ52mで設計されましたが、現在の客船はさらに大型化が進んでいますから」そこで提案するのが「東京ウェルカム・ゲート」。東京湾内にメガフロートを造り、水上交通網の起点とする構想だ。「玄関口であり、東京に一番近いリゾートにしたい、と考えました。羽田空港沖の水深10~15mほどの海域に、外径1kmのリング状の“水上の街”を建設します。この辺りは水質もいいので、マリーナや砂浜、サンゴ礁を人工で造って、マリンレジャーが楽しめるよう整備します。ここから、アンフィ・モービルや小型船に乗り換えて、都心部へ入っていけます」実際、東京都は2020年までに、青海地区に世界最大のクルーズ客船に対応する新客船ふ頭を整備することを2015年12月に発表している。その際にこの東京ウェルカム・ゲートについて、東京都からヒアリングがあったという。『季刊大林』56号の扉も飾った、「東京ウェルカム・ゲート」の完成予想CG。建物屋上の太陽光発電パネルと潮力発電施設を備え、このリゾートで必要とする電力は自給自足するスマート・ウォーター・シティ東京のエネルギー貢献EMIRA編集部としては、雨水をためることで可能となる「ヒートアイランド対策」にも注目したい。この構想には、都心の気温上昇を抑えるための対策が盛り込まれているのだ。「ためた雨水を細かく流れの速い“毛細水路網”として散水することで、ヒートアイランド現象を抑制します。また、ウォーターズ・リングに貯水する際に地下50mまで落とすので、その際に発電して、くみ上げる際の電力として使うこともプランに含めています」このように、世界有数の都市・東京において、水をどのように活用するかを考えた「スマート・ウォーター・シティ東京」構想。残念ながら具体的な事業として計画されたものではないのだが、発表時に大きな反響を呼び、そのアイデアは東京の観光ビジネスや都市計画に、まさに水のように浸透していっている。「水都・東京の復活」も、そう遠くない未来に実現するのかもしれない。
江戸時代、江戸は徳川家康が都市計画物資を運ぶために整備した河川や運河が縦横に張り巡らされておりました。1964年の東京オリンピックに向け、運河や川は埋め立てられ、水景は一変してしまいました。その象徴は神田川・日本橋クルーズの出発点でもありました日本橋です。江戸・日本橋の象徴日本橋です。現在日本橋は2020年東京五輪・パラリンピック後、工期は未定だが、10~20年かけ首都高を地中化する大プロジェクトが控えてます。
東京湾に流されているだけの未活用な雨量を有効し、大深度地下に巨大な貯水施設を整備する事により、都心部の降水を大量貯水し、循環活用を狙う「スマート・ウォーター・ネットワーク」のアイディアはなかなか素晴らしいアイディアだと思います。
都心の水量をコントロールするとともに、水上交通網を整備する「運河復活」は東京の更なる発展をもたらすと思います。
神田川・日本橋クルーズは東京の歴史と未来をいろいろと考えさせる体験でした。
都心の水量をコントロールするとともに、水上交通網を整備する「運河復活」は東京の更なる発展をもたらすと思います。
神田川・日本橋クルーズは東京の歴史と未来をいろいろと考えさせる体験でした。
コメント
コメント一覧 (2)
それなのに俎橋から水戸藩邸前の神田川に抜ける水路が切り絵地図には書いていなくて、掘留橋とかしかなくて
ええ、九段下には神田川から鎌倉河岸へ日本橋へ抜けられたとは一寸衝撃的な驚きでした。wikiなどで調べると
埋められていたのは幕末の10年くらいで、また再掘削されていたのですね。丁度切り絵図が発売になった頃だけ通り抜けが出来なかったわけですか。勉強になりました。
江戸の昔、よく江ノ島などに旅行に行っていたようですが、江ノ島のこちら側の岸辺は鳥取砂丘みたいな大砂丘があったようです。今の江ノ島とは全く違った顔をしていたんですね。最近は江戸名所図会の復刻本を買って読んだりしています。旧仮名もかなり覚えたのですが、行き詰まったら現代語訳を見るとかしています。江戸は良いですね。常盤橋の石垣が現れているようだし、見にも行きたいものですが、リタイヤするまでは無理だとすると困ったことです。
軍事関係の事については失礼ながらおんぶにだっこされて勉強しています。有り難いブログです。ブログ主さんにいつも感謝しています。今後とも宜しくお願いします。
Ddog
が
しました
古希ですか・・・昔は古来より70歳まで生きる人はめったにいないことから古希といわれましたが、いまの時代あと30年修行しなければなりません。しんどい時代ですね。
船にはガイドの方がいて、いろいろ説明されていました。
日本橋川は常盤橋手前で曲がらず江戸城の濠に繋がっていたそうですが、埋めたり、俎板橋の付近も一度埋めていたそうですね。
江戸城に水害の危険が及ぶ可能性が出てきて埋めたとの事、その後水運の必要性から再度掘削したと説明していたと思います。
東京の歴史に関心があるのであれば、日本橋川・神田川クルーズは是非一度体験することをお勧めします。
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