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31年前、6月3日夕刻から刻々と伝わるニュースは天安門で軍と市民が緊張しているというものだった。夜半には軍が市民を虐殺しているというニュースを寮の一室で一人ずっと固唾を呑んで視ていた。

ネットで検索すると同時刻視ていた懐かしい動画を検索できた、ネットが無い時代、地上波TV情報が全てだった。思い出したが、当時軍による虐殺事件よりも当時日本では中国軍同士が衝突し内戦が始まることを皆心配し、虐殺より内戦に関心があった。




私も、天安門広場での虐殺事件もさることながら、中国内戦が始まるのかどうか?そちらのほうが興味があったような気がする。6月4日(日)の朝、目を覚ました時一晩中TVを点けっ放しだった。記憶は定かではないが、戦車男をはじめて見たときには、強烈に彼こそが英雄だと思った。従来戦車男の公開されていた映像は↓である。



はじめに見た時は轢かれてしまうのか、どうなるのかわかはらはらして視ていた気がするが、中継が途切れたか先は誰も知らなかった。

私達は、2019年9月に亡くなった1990年の「World Press Photo賞」を受賞Charlie Cole氏(1955年-2019年9月5日)撮影したすぐ後には、中国当局がホテルの部屋に入ってきてフィルムを捜索した、
しかしCole氏は、画像を収めたフィルムをホテルのバスルームに隠し、結局中国当局に見つけられることはなかったと言われているので、これより先はないものだと思っていた。
ソース:
https://en.wikipedia.org/wiki/Charlie_Cole_(photographer)

TVでもその後の彼「戦車男」がどうなったか説明がなかった。

最近従来の動画の数十秒後の映像がツイッター上に公開された。

ツイッターを開いていただいて、動画を見比べてください。


1:50秒以降から終了の2:10の動画は、従来公開されていた動画にはないシーンである。


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2:00 歩道上から自転車に乗った男性が青年に近づく
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2:05 青年に声をかける
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2:07 更に二人の市民が歩道上から戦車男に向かって走りだす
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2:08 戦車から体を乗り出した戦車長に向かって両手をあげ、ちょっと待ってとのジェスチャー
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2:10 最後のシーンは二人の市民が戦車男の傍らにたどり着いたところで終わる。

私が知る限り、その後の戦車男の写真といわれる写真は下の一枚しか検索できなかった。

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画像元AFPbusinessinsider

検索していくと2018年8/2のインドの動画にツイッターより先の動画(3:37~3:41)があり、動画の最後には、Tank Man remains an unknown legend till today. タンクマンは今日まで無名の英雄として知られる、No one knows what happened to him after the 5th of June1989. 1989年6月5日以降彼の消息を知るものがいないと字幕が流れた。


ところが、ところが・・・この記事を書いている最中に発見したのだが、2019年6月3日のANNニュースにこのツイッターの先,インドの動画の先の動画がさりげなく映っていることを発見した。


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この映像について、堂アナウンサーは「周辺から潜んでいた男に取り囲まれどこかに連れ去られたことが映像から確認されております」って・・・既に知られていた事実のように伝えています。

「え゛ェ~!」初めて知った・・・・はたして昨年(2019年)話題になっただろうか?
スクープ映像ではないか?

ツイッターの投稿画像ですら、その後の戦車男の姿として新鮮な映像なのに・・・
昨年このニュースを編集したディレクターはスクープ映像と知っててされげなく画像をながしたのだろうか?それともスクープ映像だと知らなかったのであろうか?それとも私が情弱なだけだろうか?

このソースネタがあると思い、もう少し、TankMan検索しても見つけることができなかったので、中国語で「坦克人」で検索していくとヒットした。なんと2009年8/2の公開だった。


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上の動画を最後まで見ると、路上から駆け寄った男達は本当に私服警官だったのだろうか?見るに見かねた一般の北京市民が、群集の中に紛れ込ませた可能性は否定できない。

もし、私服警官なら、戦車男は突き飛ばされて、路上に押さえ込まれ、場合によっては膝でクビを抑えこまれていたり、戦車の前でいきなり手錠を掛けていたかもしれない。しかも最後は、路上では掴んでいた腕を放し、背中を押しているようにも見える。青シャツ以外の男達も、戦車男から離れている。もし青シャツ以外の男達が私服警官なら、あのような動きはしないだろう。私服警察官ではない可能性も十分にある。

やはり真相は不明だ。

話を戻すが、この画像後の戦車男のその後の消息は不明だ。「処刑された」「投獄されて精神を病んだ」「台湾でひそかに暮らしている」など真偽不明の諸説がある。

文春オンライン


事件直後に英国のメディアが「王維林」という名の19歳の学生だったと報じたことで、中華圏では一般にこの名で通っている。その後、この王維林は「中国政府に逮捕されて死刑になった」「投獄されて精神を病んだ」……などとも言われているが、実際のところはよくわかっていない。そもそも本当に王維林という名前だったのかも不明である。

 今年6月4日、台湾の複数の大手メディアが、香港のNGO「中国人権民主化運動情報センター」発の情報として、この人物が存命であると報じている。報道によれば、彼は後年に例のシーンの映像を目にして、自分が世界的な有名人であることをはじめて知ったとのこと。彼の本名は「王維林」とは別の名らしいのだが、中国が将来民主化する日まで名乗り出る気はなく、中国国内で普通の暮らしを送る気なのであるという。もっともこちらもどこまで信用していいのか、やはり誰にもわからない。



タイム誌やABSニュースが当時の総書記 江沢民に直接インタビューした際、戦車男は知っていて捕らえられその後のことは知らないといっている。

またTIME誌は、「民主化運動主導者の一人」の意見として、「戦車の写真における英雄は二人だ。すなわち、強大な力に対し命の危険を冒した無名の反逆者と、彼の同胞を葬り去ることを拒否し、道徳的な挑戦に打ち勝った戦車の運転手だ」という意見を紹介している。


江沢民は、彼を捕まえ秘密裏に処刑せよと命令を出したとも言われているが、2000年、米CBS放送のベテラン記者ウォレス氏が江沢民にインタビューした時、王さんの写真を見せながら質問した。「この青年の勇気に感心しますか?」だが、江の回答はこうだった。「彼は(当局から)捕まってはいない。彼が今どこにいるか私は知らない」であった。

ウィキペディアには、無名の反逆者とあり

被写体の男性の素性は、謎に包まれている。当時の学生指導者
ウーアルカイシや中国の知識人にさえ、彼のことを知る者が存在しないことから、その場にたまたま居合わせた普通の中国人の若者の1人ではないかと言われている[7]

イギリスタブロイド紙サンデー・タイムズ』は事件直後、この人物はWang Weilin(王維林、王维林)という19歳の学生であると報じた。彼は、後に「政治的内乱罪」(political hooliganism)と「人民解放軍のメンバーを覆そうと試みた罪」(attempting to subvert members of the People's Liberation Army)により、起訴されたとも報じられている。しかし、どちらも確証がない。彼のその後については、「すぐに処刑された」「刑務所の中で精神に異常を来した」「出所して台湾で暮らしている」などの説もある[7]

1990年記者会見で、アメリカ合衆国ジャーナリストバーバラ・ウォルターズから「中国の自由の象徴というべき、あの男はどうなったのか?」という質問に対し、中国共産党中央委員会総書記江沢民は「死んではいないと思うが…」と言葉を濁しただけに留まった[1]

2017年に、香港紙の『蘋果日報』がこの人物の知人とされる人物の証言から、この人物は事件当時24歳で、事件後に無期懲役判決を受け、減刑され仮釈放された後に再び収監され、近く天津の刑務所から出所すると報じた[8]。事件から30年を前にした2019年6月、中国外交部の記者会見にて、この人物の消息について問われた耿爽報道官は少し笑みを浮かべながら「把握していない」「言えることは、あの政治騒動について中国政府はすでに明確な結論を出したということだけだ」と答えた[9][10]


私がネットで検索した情報は、ウィキどまりで、それ以上のことは、殆ど検索できませんでした。タンクマンの消息は依然謎のままである。




人民解放軍27軍(天安門制圧部隊)と失脚した趙紫陽主席に近い28軍・38軍、さらに東北39軍が援軍に来るとの衝突の噂は、いったいなんだったのか?

事実当時北京市の防衛を担当していた第38集団軍の軍長(司令官)徐勤先中将は、1989年5月19日、北京市内に戒厳令が布告されると、中央軍事委員会から北京市内に進軍するよう命令が下ったが、「人民に武器を向ける事は出来ない」と署名を拒否して軍長を解任され、軟禁状態に置かれた。

楊 尚昆中華人民共和国主席の動きで、当時の軍や党内部の状況が少しだけ垣間見える。

6.4天安門事件において、楊 尚昆は、鄧小平と党総書記である趙紫陽の間を取り持とうと奔走すした。1989年5月、ソビエト連邦共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフが訪中した際、鄧小平と趙紫陽の関係が決裂してしまったが、楊尚昆は趙紫陽が総書記を続投するように説得した。

北京の天安門広場で展開されていた民主化デモに対して、共産党指導部は武力弾圧を検討したが、楊尚昆は当初、武力の行使には批判的で、鎮圧を回避しようとした。しかし、50年来の知己である鄧小平の決意が固いと知ると反対せずに従った。中央軍事委員会主席である鄧小平に代わって、中央軍事委員会副主席である楊尚昆が武力行使の実行責任を担い、国家主席としての権限で戒厳令を発令した。楊尚昆の甥が北京軍区所属の第27集団軍を指揮してデモを鎮圧した。

2014年6月に機密解除された米国政府のによる六四天安門事件に関する文書によると、この武力弾圧が多くの死者を出すことを意図した残虐なものであり、楊尚昆の甥が指揮した河北省石家荘から招集された第27集団軍に属する非北京語話者の兵士たちは、「人々の集まりに遭遇すると、それが誰であろうとも笑いながら無差別に発砲していた」と示されてる。

軍内部での対立は、確実にあり、最後最高実力者、鄧小平の鶴の一言で、市民の暴力的鎮圧が決まったようだが、おそらく、米国のインテリジェンス経由で日本にも鄧小平と、趙紫陽の対立と、軍内部での対立の情報が部分的に入っていたのだろう。

日本政府は、当時北京に滞在していた、3000人の邦人に対して緊急避難勧告および緊急避難がおこなわれた。「中国・天安門事件(1989.6)における邦人保護措置」によって、日本航空と全日空は6~8日に計10便の臨時便を運航した。これで3133人を羽田・成田空港に運んだ。

ただの噂だけで、日本政府が3000人を超える日本人脱出オペレーションをしたとは思えない。

政府には、米軍からの情報等、日本人が脱出しなければならないほどのもっと緊迫した情報が入っていたはずだ。1985年3月、イランイラク戦争において、テヘランに日本人が取り残され、トルコ政府の厚意で脱出できた轍を踏まない為の措置だったのかは定かではない。

この事実について、多くの日本人は忘れ去っている。あまりにも不思議ではないか!