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読み終わった。初版は1953年であるが、本書は1985年版である。この表紙に見覚えがあるので、学生時代この本を手に取ったことがあったかもしれない。ところでインテリ気取りの工作員君は本当にこの本を読んだのか?もしかして、ジョージ・F・ケナンが何者なのかすらまったく理解していないで、投稿してきたような気がしてならない。

読んだとしても、読んだ気になっているだけじゃあないか?読みながらそう思った。

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ジョージ・F・ケナン氏はフォーリン・アフェアーズ(Foreign Affairs)誌(1947年7月号)に寄稿した論文「X論文」によって、米ソ冷戦政策を決定つけた外交官だ。1946年「長文電報 (Long Telegram)」をモスクワから国務省へ打電する。今後の対ソ関係に関して詳細に分析、封じ込め政策を提言している。この電報は国務省内で回覧され、トルーマン政権に大きな影響を与えたことは知っていたが、本書を含め、彼の本として著書は読んでいなかった。

沖縄米軍駐留に反対の人々が、終戦後米軍駐留に反対したケナンのことを「常に世界の平和を考え、バランス感覚に秀でている」と評価しているが、本書を読む限り、本当にそうだろうか?という考えに到った。ケナンは日本を当初非武装緩衝国にする封じ込め論を展開した為、左翼には受けがいいようだが、ケナンはリアリストであり、朝鮮戦争が勃発し、戦前の日本の半島統治理由をマッカーサーとともに理解した人物である。

本書を読むきっかけとなった、中国工作員と思われる投稿者が
に下記投稿をしてきた。

市民の目180.197.143.211
2020-08-06 08:31:39 
ジョージ・F・ケナンの著作『アメリカ外交50年』を思い起こします。
ケナンはアメリカ外交の中でも良識派と認められる逸材と言えます。彼が強調するのは、軍事、外交を含めた対外政策における国益をしっかりと定義すること(=見定める)です。それは、相手国を蔑む(例えばヒトラーの語を安易に用いる馬鹿!etc)情緒論や相手国を徹底的に叩き潰す「無条件降伏」主義を戒めるものです。
相手国を変えられるのは、他国(外国)ではなく、その国自身に他ならないとのケナンの言は、外交における箴言であると評価してもよいぐらいです。

翻って、対中外交を考えるときに、好戦的レトリックや排外主義、ステレオタイプの正義論を振りかざす者はアホを通り越して売国奴であると言えます。真摯な日中友好関係を考えないといけない。特に今日8月6日は。日本軍国主義によって受けた広島の犠牲者に合掌。

折角なので、前々からケナンについて興味があったので読んでみることにした。

封じ込め戦略を考え、米ソ冷戦をトルーマンに提言した外交官のジョージ・ケナンの名前と、有名な「X論文」
「長文電報 (Long Telegram)」の存在は、鉄のカーテン~冷戦に到ったのはそういった経緯であることを知っていた。

だが、「アメリカ外交50年」や彼の回顧録は読んだとがなく、興味がある人物ではあった。

しかし読んでみると「アメリカ外交50年」は実にNHK的な表面的なアメリカの立場を擁護する歴史観で埋め尽くされていた。当然といえば当然だが、ただその中に彼なりの政府への批判も散りばめられていたが、民主党の立場なのか共和党の立場ででのポジショントークの匂いが感じられた。

本書では、米国が常に善意の国であると書いてある。スペインとの戦争(米西戦争)は今日米国の帝国主義的野望から、米国の自作自演説が有力視されている装甲巡洋艦メイン号の爆沈事件につをきっかけに始まったのだが、戦争原因をぐだぐだ書いて曖昧にして、米国の野心も間接的に認めているが、スペインも悪いと主張している。

p23-26

「メイン」号事件については、スペイン政府がこの軍艦の沈没についてなんらかの関係をもっていたという証拠は何もなかったし、またかかる関係が存在するはずだと示唆することはとんでもないことであったろう。スペイン官意のみならずハバナ駐在の米国総領事もまた、当時「メイン」号の派遣が紛議を醸すかも知れないという危倶に基づいて、その中止方をワシントンに懇請したのである。スペイン政府はこの惨事の及ぼす影響を緩和すべくあらゆる手段を尽くした。現にスペイン政府は事件の調査を歓迎し、最後には責任問題のすべてを国際仲裁裁判に付託することを捏案した。 - この程案をアメリカは遂に受諾しなかった。

 しかしながら、この二つの事件はアメリカの世論をあまりにも刺戟したので、戦争は「メイン」号の沈没によって不可避となったのだというのが、歴史の判定であるようである。事実右の事件以後、アメリカ政府によって事態の平和的解決が真面目に考慮されなかった。このことは特に重要なことであり、また不幸なことであった。というのは、「メイン」号沈没と戦闘行為の開始との間の九週間の間に、スペイン政府はわれわれの要求と要望に応ずぺく非常な譲歩をしたからである。四月一〇日(戦闘開始一一日前)、マドリッド駐在米国公使-戦争勃発を防止するため真剣な努力をした賢明かつ慎重な人物であった1は、もし大統領が自己の裁量通りに時局収拾を図る権限を議会から得ることが出来るならば、叛乱軍が受諾し得るような自治供与、完全独立あるいは合衆国への割譲など、いずれかの基礎的条件に基づいて最終的解決を八月一日までに遂げることが可能であると報告して来たほど、スペイン政府は折れて来ていたのである。この報告がなされた同じ日に、スペイン女王はキューバでの完全休戦を命令し、ワシントン駐在スペイン公使は、「それ以上の措置を要求すべきいかなる動機も口実も残さないような」自治制度の早期実施を、アメリカ政府に約束している。

 これらは勿論、両国政府間の長期にわ洩りかつ錯雑した通信の中から取り出された個々の一節にすぎない。私がこれらを引用したの軽少くとも文書の上では、一八九八年四月の上旬頃スペイン政府は、われわれが要求していたような種類の態度と措置に非常に急速に接近して来ていたことを示すためである。けれど、それにもかかわらず、合衆国政府はこの最後の瞬間の譲歩によって少しも影響されなかった。そればかりか、議会における感情と行動を抑制して、明らかに戦闘行為の早期開始へと進んでいた方向を転換させるような措置をなんらとらなかった。

さて.当時の人びとが考えたように、スペイン側の譲歩の多くはあまりに遅すぎ、また充分に信頼出来なかったということは事実であり、また、この頃の叛乱軍には、スペイン官憲と少しでも協力するというような気構えもなく、またこれを可能ならしめるような規律を欠いていたのもまた事実である。だが、これらの事情が、アメリカ政府の戦争決意を決定したものであるとは考えられない。むしろこの決定は、アメリカの国論の状態、議会選挙の年であったという事実、一部のアメリカの新聞による臆面もない全く狂信的な戦争挑発行為、および政界各方面からほしいままにまた露骨に大統領に加えられた政治的圧力などに帰せらるべきものである。

(ついでながら戦争の挑発者とみなされることがある財界・実業界方面は、この決定になんら関与せず、一般的に戦闘への介入を嫌っていたということは興味ある事実である。)
御存知のように、このすべての結末が四月二〇日のアメリカ議会の決議なのである。右決議は、「スペイン政府がキューバにおける権限と行政権を即時放棄し、かつキューバおよびその水域から地上および海上兵力を撤退することを要求することは、アメリカ合衆国の義務であり、よってアメリカ合衆国政府はここにその要求を行うものである」というのである。さらに右決議は、大統領に対しかかる要求を貫徹するために「必要と思われる限度において……合衆国の地上および海上の全兵力を行使する」ことを命令し、かつその権限を与えたのである。われわれはスペイン側に対して、この決議の要求に応ずるか否かについて三日間の期限付き最後通をつきつけた。われわれは、スペインがこれを受諾しないであろうし、また受諾することが出来ないことを知っていた。次の日の早朝スペイン側は、最後通牒の通告を待たずに、この決議は「宣戦布告にも等しい」ものであると声明し、アメリカとの外交関係を断絶した。その同じ日に戦闘行為がアメリカ政府によって開始された。かくして、アメリカ政府は、戦争に至らざる手段ばよる解決の可能性が全然消滅しをといい得ないような状況の下において、議会および国民の強力な要求に屈従して、他国への戦闘行為を開始したわけである。

まるで、教科書さえ買えば「優」をくれる凡庸な大学教授の本の文章であり、彼の裏の顔「インテリジェント・オフィサー」としての裏話はほとんどなかった。

だが、ケナンの考え方はインテリジェント・オフィサーである。そうと思わせる箇所がある。

この間の事情についてさらに説明を加えよう。大戦の開始前、世界の陸軍力と空軍力の圧倒的部分が、ナチス・ドイツ、ソヴィエト・ロシアおよび日本帝国という三つの政治勢力の手に集中されていた。これらの勢力はどれも、西側民主主義に対して深刻な危険な敵意を抱いていた。

一九三〇年の後半の情勢では、もし、右三国がその勢力を結集し、緊密な軍事的計画をもつならば、残された西側諸国は、その現有ないしは将来持つべき武力によって、ヨーロッパおよびアジア大陸においてかれらを撃破する希望を全くもてなかった。
ヨーロッパおよびアジアにおいて西側民主主義は軍事的劣勢に立つこととなり、世界の勢力均衡は決定的に不利となったであろう。
 私は、このことが、西側の政治家によって看取されていたとか、また、容易に看取されたであろうとか主張しているのでない。しかし、私は、それが一つの現実であったと信じている。

そして、それが現実であったがゆえに、戦争が起った場合、それは、西側の勝利の程度に制約を課すことになったのである。この三つの全体主義国のうち日本のみが、他の全体主義国のいずれかの援助を借りずに、民主主義陣営によって撃破し得た国であったろう。ドイツとロシアの場合、事態はもっと重大であった。両国が一緒になれば、これを撃破することは不可能であったし、民主主義陣営がそのいずれかと協力する場合にのみ、これを個別的に撃破することが可能であった。

 しかしながら、かかる協力は、それが全面勝利の段階まで推し進められるならば、協力する相手国の力を相対的に強化し、結局平和会議に貪欲な冷酷な債権者として出現させるであろうということである。そればかりでなく、これら二国のいずれかが民主主義陣営に立って参戦する場合、その協力する全体主義国をして、軍事行動の展開の当然の結果として東ヨーロッパの大部分を占領せしめることなくして、その戦争を完全にまた成功裡に終らせることは出来ないということである。

 それ故に、一九三九年当時の情勢下において、西側民主主義諸国は、既に軍事的には劣勢であるというハンディキャップを負っていたのであり、かれらがこれがため代価を支払わないですますことはほとんど期待出来ないことであった。それはもはや選択の自由が残されているようなものでなく、いわばトランプのカードが民主主義陣営にとって不利なように配られていたので、新しい世界大戦でかれらの完全かつ見事な勝利などほとんど予見出来なかったのである。

 そこで、後から考えてみて、こういうことが問われるかもしれない。すなわち、もしそのよぅな実情であったとしたら、西側の政治家たちは、全体主義国が自ら消耗し尽すように、かれらを互いに戦わせ、西側民主主義諸国の安全を毀損しないでおくような政策を、開戦する前に仕組んだ方が賢明ではなかったかということである。

ソヴエトの宣伝が三〇年代に西側の政治家を攻撃したのは、正にこの点に外ならなかった。そして事実、西側の行動のあるものは、あまりにも漠然としており、下手だったので、かかる非難をもっともらしくみせたということはある。一九三〇年代後半における西側の政策をもって、このような死物狂いのマキァヴュリ的計画を行う能力をもっていたと借ずるならば、それは、西側の政策のもつ見透しと力とを、あまりに買いかぶっているといえよう。私個人としでは、西側のどの国の責任ある有力な意見も、実際、戦争を――独ソ間の戦争すらも――少しでも欲していたという証拠を見つけ出すことは出来ない。ナチスとロシア共産主義との間の戦争は、束ヨーロッパの小国の疲弊した身体をかこんで、争われることは明らかであった。そして、ミュンヘンの悲劇にもかかわらず、これら東欧諸国の独立の消滅は、誰も希望しないところであった。他に証拠がないかぎり、われわれは、フランスとイギリスが遂に一九三九年に戦争に訴えたのは、ポーランド独立問題に外
らないとの明白な事実を否定出来ない。

 全体主義国間の相剋を意識的に狙った政策というものは、主観的理由から、民主主義諸国の政治家にとり、実行可能な代案と全く考えられなかったというのが事実である民主主義思想を支持する人びとは、それぞれの見方によって、この事実に対して希望を、あるいは失望を感じるであろう。そして、一九三九年夏、ヨーロッパに戦争の暗影が拡がったとき、われわれが現在後から考えても分かるように、西側の政治家の当面したディレンマは、明白かつ不可避のものであった。ロシアの援助がないかぎり、ドイツに対する勝利の見込みは存在しなかった。

だが、かかる援助に対して、かりにそれがいずれは得られるにしても、西側民主主義諸国は戦争の軍事的帰結において、また平和会議で捷起されるべき要求において、重大な代価を支払わねぼならなかったろう。換言するならば、西側の軍事的目的は、始めから抵当に入れられていたようなものである。ドイツにかんするかぎり、その目的は達成されたかも知れないが、それには高価な政治的代償が請求されるであろう。ところで、これは、ソヴュト・ロシアとの協力だけのことでなかった。民主主義陣営がヴィシー政府やフランコのスペインその他との間に結ぶことを余儀なくされた不本意な妥協も、みな同じ問題の一部を成していた。つまり、それらは西側の軍事的劣勢の代価をなすものであった。

やむをえず、不本意なららソ連を抱き込んだこと、可能であれば、第二次大戦は日独ソを戦わせるべきであったこと。ただの外交官であれば、そのような発想はしない。

彼の評価できる点は、冷徹にソ連・ロシアを研究し、戦後米ソが安易な同盟関係を続けることなく、早々に新たな敵国であるとトルーマンに認識させたことである。米国内には、多くのコミュニストが入り込んでいたことを察知していたからこそ、ソ連に漏れる意図をもって長文電報(Long telegram)を打ったと私は思う。

1946年時点でソ連は核兵器を保有していなかったが、1943年からスターリンが開発を命じており、ソ連が核保有国になる寸前であることは、ソ連大使館員であり、インテリジェンスオフィサーであったならば、ケナンは把握していたはずである。唯一の核保有国であった米国がそのまま、ソ連と戦うことは現実的ではなかった。ソ連が核保有国になるであろうことを予想し、ソ連を封じ込め戦略をトルーマンに提言し、結果的に米国とソ連とは冷戦となり、悲劇的な核戦争をせずに済んだともいえる。


ただし、キューバ危機の相手がフルフチョフではなくスターリンであったならば、ケナン氏は歴史から忘れ去られてたかもしれない。あくまでも、米ソが核戦争に到らず冷戦で留まったのは歴史的偶然にすぎず、その後の冷戦という平和は、ケナン氏の封じ込め戦略が齎したものではなく、米ソの核のバランスによって成り立っただけにすぎない。

ロシア人を徹底的冷徹に評価したからこそ、ソ連はヤバイ国だから、安易に同盟国として気を許すなと、トルーマンだけでなくソ連にも米国からの警告を行ったことが、ケナンの評価されるべ評価である。また、ロシアの思想・歴史・精神性を調べ上げたからこそ将来ソ連が核を持つであろう前提で、封じ込め戦略をトルーマンに提言し評価されたのだ。

戦前はドイツ、戦時中~戦後すぐにソ連大使館員だったということは、ただの外交官ではなく、有能なインテリジェントオフィサーであったと思われる。その証拠に国務省退官後にケナンはNstionalWarColledge(国立国防大学)で、副校長になった。良識派の外交官であったならば、国家安全保障の上級レベルの人員を教育するNWCの副校長になれるわけがない。反戦的外交官・良識派などと評価するのは、世の中の仕組みをまったく理解することができない、お花畑のバカが下す評価だ。ケナンは冷徹なリアリストであった。

話を、現代に置き換えると、わかりやすい。現在ケナンが北京大使館員だったとしよう。
現代のケナン氏は中国の政治システムがいかにヤバイ国であるかを調べあげた、そして電文を中国にもわかるよう警告で打った。前大統領だったオバマは無能すぎて何もできなかったかもしれないが、トランプ大統領は中国は警戒すべき国であると認識し、議会の方も同じく中国を敵として対峙するようになったのではないか?

ケナンが分析したソ連だが、ソビエトを中国共産党に置き換えると驚くほど共通している。

P167-168

さてソヴュト政権の環境についてとくに注目すべきこととは、今日までのところこぬ政権強化の過程が完成しておらず、クレムリンの人々は一九一七年一一月獲得した権力を確立し、これを絶対化する闘争に専心しっづけてきているということである。

かれらはその権力を、主として国内における、ソヴエト社会内部における諸勢力に対して確立しようと努めてきた。

しかし外部世界にたいしてもまた確立し、ようとしてきた。なぜならわれわれのすで暗にみたように、イデオロギーは外部世界がかれらに敵意をもっていること、究極的には国境外の政治勢力を打倒するのがかれらの任務であることを、かれらに教えたからである。

このような感情をかれらがもちつづけるように、ロシアの歴史と伝統がその手を齎したのであった。かくて外界にたいするかれらの侵略的非妥協性は、ついにその反動作用を起しはじめた。再びギボン流の言葉を用いるならば、かれらは間もなく自分自身がよび起した「頑迷の報いを受け」ざるをえなくなった。世界が自分の敵であるという命題について自分の正しさを証明してみせることは、たしかに誰でもがもっている特権である。なぜならかれが何回となしにそれを繰り返し、これを自分の行動の背景とするならば、結局は世界を敵に廻してしまい、かれが正しいことになるからである。 
                  
ソヴュトの指導者にたいする一切の反対は、それが何であろうと、なんらかの価値または妥当性をもつと公式にみとめることのできないのは、かれらのイデオロギーの性格によるばかりでなく、かれらの心境の性質にもよるものである。

(略)

かくてソヴュト政権を動かすもっとも基本的な衝動のひとつが、この事実のために生れることになったのである。いまやロシアにはもはや資本主義が存在しないのであり、クレムリンにたいする重大なまたは広汎な反対がクレムリンの権威のもとに解放された大衆から自然に流出し得ると認められなくな言のであるから、独裁の存続を理由づけるためには、外国の資本主義がおよぽす脅威を強調することが必要になったのである。
p174-175

すなわちクレムリンは絶対誤謬を犯さないという観念である。ソヴュトが権力についていだいている考えは、党以外には、組織といういかなる焦点の存在をも許さないということであるが、この考え方によれば党の指導部は理論上腑二の真理の貯蔵所でなければならない。なぜなら真理が党の指導部以外のところにも見出されるものならば、その真理が組織活動となって表現されるための根拠があることになる頂りである。しかしその。と。そクレムリンの許す。とのできないところであり、また許しもしないところである。

したがって共産党の指導はつねに正しいのであり、一九二九年スターリンが政治部の決議は満場一致をもって採択されるものである上声明してかれ自身の権力をつくりあげて以来、つねに正しかったのである。 

 共産党の鉄の規律は、この絶対誤らずという原則に基礎をおいている。二つの考えは事実上お互いに支持し合っている。規律が完全であるためには、絶対誤りを犯さないということをみとめる必要がある。絶対誤りを犯さないということが成立するためには、規律の遵守を必要とする。そしてこの二つが一緒になってソヴュトの全権力装置の働き方を決定してゆく。

しかしその効果は、さらに第三の要因が考慮のなかに入れられるまでは理解できない。この第三の要因というのは、指導部は特定のいかなるときでも、自分の目的に役立つと思ういかなる時定のテーゼでも、戦術上の目的のために自由に提示でき、そのテーゼが運動に参加している全員によって忠実に、なんの疑いもなしに承認されるのを要求できるということである。この結果、真理は恒久的なものではなく、あらゆる意図と目的とのために、ソヴエトの指導者自身によって、現実につくりだされるものだということになる。それは毎週にも、毎月にも変化できる。

それは絶対的な、不変なものではなく客観的現実から生起するいかなるものでもない。それはただ歴史の論理を代表しているが故に、究極の叡知が宿っていると想像されている人々の叡知がその都度新た爬表明されるにすぎない。これらの要因の効果が累積すると、ソヴエト権力の全下部機構が権力の向かう方向につねに揺ぎない頑なさと確固不動さで追従することになる。

かれらが向かうべき方向は、クレムリンによって自由に変更されるのであって、それ以外のいかなる力もこれを変更すること叫できない。その時々の政策にかんする一定の争点について、党の一定の方針が定められると、外交機関をもふくめた全ソヴュト政府機関は、ねじを巻かれ、一定の方向に向けられた永続的な玩具の自動車のように、定められた通路をとおって情容赦なく進んでゆき、なにかどうしようもないような力に遭遇して初めて停止する。

この機関を構成している個人は、外部からかれらにあたえられる議論や理由を一切受けつけない。かれらに与えられたあらゆる訓練は、外界の滑らかな説得力を借ぜず、これを無視するように教えてきたのである。写真の前の白い犬のように、かれらはただ「主人の言葉」だけに耳を傾ける。


アメリカ外交50年史を読み解くと、もし彼が駐北京米国大使館員であれったとしたならばそうしたであろうと読み取ることができる。彼はリアリストだ。

リアリストとは、イデオロギーとか宗教に関係なく、
米国が置かれた状況を的確に判断し、国益を考え、正しい行動をとろうと考え、過去の過ちも過ちとして修正できる人物である。

さて、本書が書かれた1953年とは朝鮮戦争(1950年6月25日 - 1953年7月27日;休戦中)が一旦停戦となった年であり、帝国日本陸海軍が朝鮮半島から消え、朝鮮人同士の内乱に中ソ、米英が巻き込まれた米国にとって悪夢の日々であった。米軍は半島は日本軍に任せていればよかったと後悔し、日本の立場をようやく理解していた時期だった。

p81-83

第二次大戦のずっと以前から、権威ある観察者で、中国大陸における日本の利益を零し、また中国における外国政府の地位を毀損する傾向をますます強めていた政策の妥当性を疑問視していたものがいたからである。

われわれの最も消息通の職業外交官の一人であったジョン・Ⅴ・A・マックマレー氏は、引退されてから数年になるが、1935年に極めて思索的で予言的な覚書を書いた。その中で、もしわれわれが現にとりつつある方向にこのまま進んで行くならば、日本と戦争が起るであろうと指摘した後、彼は、かかる戦争においてわれわれの目的を徹底的に貫徹したにしても、それはロシアにうまい汁を吸われるだけであり、山ほどの新しい問題をつくるだけであると述べた。

 日本を敗北させたからといって極東問題から日本を排除したことにならないだろう。
……活力のある国民は……敗戦や国家的恥辱によっておとなしくなるものではない。むし ろかれらは、自尊心という激情的衝動にかられて、かれらの帝国的権力の全盛期に揮った実力とほとんど少しも劣らぬばどの「厄介者の価値」を発揮するような諸手段を用いて自己の存在を再び主張するに至る。しかしながら、日本を抹殺することが可能であるにしても、それすら極東ないしは世界にとて祝福すべきこととはならないであろう。それは単に新たな一連の緊張状態をつくり出立だけであり、日本に代ってロシア帝国の後継者としてのソヴェト連邦が、東アジア制覇の競争者として(そして少くとも日本と同じくらいに無法なかつ危険な競争者として)立ち現れるだけであろう。

かかる戦争におけるわれわれの勝利から利益をうるものは、恐らくロシアの外にないであろう。

……かりにわれわれが中国を日本から「助け」てやらねばならないにして、……われわれが中国人に感謝を請求する権利があることを認めないことは、中国人にとってなんら不面目なことでない。国家や民族というものは、集団的にこのような感情に動かされないのがあたりまえのように思われる。……かれらはわれわれに対してなんら感謝することもないし、また利他的な意図についてわれわれを賞揚することもないであろう。却って、かれらは、われわれが引き 受けた責任を果たそうとする場合、これに抗争しょうと試みるであろう。

今日われわれが当面している朝鮮の情勢をみるならば、これらの言葉につけ加えて論評する必要はない。アジアにおけるわれわれの過去の目標は、今日表面的にははとんど達成されたということは皮肉な事実である。遂に日本は中国本土からも、満州および朝鮮からもまた駆逐された。これらの地域から日本を駆逐した要は、まさに賢明にして現実的な人びとが、終始われわれに警告したとおりのこととなった。

今日われわれは、ほとんど半世紀にわたって朝鮮および満州方面で日本が直面しかつ担ってきた問題と責任とを引き継いだのである。もしそれが他国によって引き受けられたならば、われわれとして軽蔑したような重荷を負って、現にわれわれが苦痛を感じているのは、たしかに意地悪い天の配剤である。とりわけ最も残念なのは、ほんのわずかの人びとにしか、過去と現在との間の関係が目に見えないように思われることである。もし、われわれが自らの過誤から教訓を学ばないとしたならば、一体何からわれわれはそれを学びとることが出来ようか。

p235-237

第三回の講演では、一九〇〇年から一九五〇年まで半世紀に及ぶ、われわれの中国および日本との関係について述べた。この講演の結論として私は、それら両国との関係が、中国に対するわれわれの奇妙ではあるが深く根ざした感傷を反映してきたことを指摘した。

この感傷が、自分たちほど恵まれず、より後進的と思われる他の国民に対する慈悲深い後援者、慈善家または教師をもって自任することによって得られる喜びから生じているのは明らかであった。

またこの自己満足の中に、私はアメリカ人が陥りやすいものであるように思われた国民的なナルシシズムー集団的自己賛美-を見ないわけにはいかなかった。この自己讃美の傾向は、われわれの大げさな対外的行動と著しい対照をなす、深い潜在意識的な不安感-自分たち自身にっいての確認の必要-を隠すことができただけであると思われた。

同じ講演において、次に私は、アメリカ人の日本に対する否定的で批判的な態度を取りあげた。それはもちろんわれわれが中国に対してとった後援者的・保護者的な態度の裏返しであった。

われわれの日本に対する不満は、日本が当時東北アジアで占めていた地位1-朝鮮と満州で支配的な地位-に主として圃わっていたように思われる。それらの地域は正式には日本の領土ではなかったから、日本による支配は法的にも道徳的にも不当であるとわれわれは考えたのである。

私はこのような態度に異議を唱え、それはわれわれ自身の法律家的・道徳家的な思考基準を、それらの基準とは実際には怯アーんど全く関係のない状況打当てはめようとするものであったと批判した。そして私は、この甜域における活動的な力であるロシア、中国および日本という三つの国は、道徳的資質という点ではそう違わなかったのだから、われわれは他国の道義性を審判する代りに、それら三者み間に安定した力の均衡が成り立つよう試みるべきであったと論じたのである。

日本をアジア大陸で占めていた地位から排除しょうとしながら、もしわれわれがそれに成功した場合そこに生ずる空白を埋めるものは、われわれが排除した日本よりもさらに好みに合わない権力形態であるかもしれないという大きな可能性について、われわれはなんら考慮しなかったのだと私には思われた。そしてこれは実際に起こったことなのである。

 このことに関連して、私がいま言及している講演が、朝鮮戦争中に行なわれたものであることを指摘したい。私は当時、朝鮮半島においてわれわれが陥っていた不幸な状態の中に、われわれが以前、日本の国益について理解を欠いていたことへの、また日本に代る望ましい勢力があるかを考えもせずに、日本をその地位から排除することにのみ固執したことへの、皮肉な罰ともいうぺきものを認めないわけにはいかなかった。この例によって、私は、外交政策におけるわれわれの選択が必ずしも善と悪の間で行なわれるわけではなく、むしろより大きい悪とより小さい悪との間で行なわれる場合が多いことを指摘しようとしたのである。
つまり、マッカーサーと同じく日本の立場を理解し、日本を追いやり朝鮮半島を抱え込んだことを後悔しているのである。

ジョージ・F・ケナンは、封じ込め作戦において日本を非武装地帯としようと目論んでいたが政府の方針変換で米国政府は日本に基地を恒久的に基地を置き、共産圏への攻撃基地とし、日本に武装させると1949-1950年に方針が変わった。

P240-243

しかし一九四九年の終りまでには、ワシントンで何かが起こっていたのであり、それはアメリカの戦後政策全体に深刻な影響を及ぼすことになったのである。

「封じ込め」の概念は、私が一九四七年に誠に大胆に捷喝したもので有るが、それは私や他の人々がスターリン的共産主義の政治的拡大の危険と信じていたもの、ぞしてとくにモスクワによって指導され操作される共産主義者たちが、ドイツおよび日本という敗北した大工業国で支配的地位を築く危険に対処するものであった。

私にしてもソ連をよく知っている他の人々にしても、ソ連が西側主要国あるいは日本に軍事的攻撃を加える危険があるとは、いささかも信じてはいなかった。

ソ連からの危険は、いわば政治的危険であって軍事的なものではなかった。そして歴史の記録もそのような見方が正しかったことを示している。しかし私がいまだに十分理解できないでいる理由によって、一九四九年までにワシントンーすなわち国防省、ホワイト・ハウスおよび国務省-の大多数の人々は、ソ連がかなり近い将来、第三次大戦となるかもしれをい戦争を始める危険が現実に存在するという結論に達したように思われる。

 なぜあの時期のワシントンでそのような結論がそれほど支配的になったのかという問題は、今日においてもなお、歴史的研究にとってもっとも興味深い問題の一つである。

私はそのような見方に反対であったし、私の同僚のチャールズ・ボーレンも同じであったが、二人とも説得に成功しなかった。

私はただその原因を、多くの.アメリカ人にとって、強力な軍事力をもつ国の場合でも、その国がも齎す政治的脅威がつねに軍事的脅威と結びついているわけではなく、一義的に軍事的な脅威ではない場合もあるという考えかたは受け入れ難いものにみえたことに、求めることができるのみである。

とくに軍関係者の間では、スターリン時代のソ連指導者がアメリカに敵意を抱いていたために、彼らが強大な軍備を持っていたために、そしてまた彼らがアメリカの世界における指導力に激しく挑戦していたために、ソ連の指導者は記憶も生ま生ましいナチのような連中であり、アメリカに対する戦争を欲し企んでいるのだと考える傾向があり、またそれゆえにソ連に対する政策は、一九三九年に戦争が勃発する以前にナチに対してとるべきであった政策のモデルと一致しなければならないという結論に飛躍する誘惑が強かったように思われる。その考え方はどちらも誤っていた。

 いずれにせよ、アメリカの指導層の意見にあらわれたこの変化は、私が述べた時期-一九四九年終りから一九五〇年初めにかけて起こった。そしてそこから生じた最初の結果は、アメリカの軍部および政府の上層部に、日本を非武装のままにしておくことはできない-むしろアメリカは、たとえそれがソ連の賛成しない講和を日本との間で結ぶことを意味するとしても、無期限に日本に軍事力を配置しておかねばならない--という強い感情がたかまったことであった。

この見解は一九五〇年初めにさまざまな方法で公的に表明されたが、その時期はちょうどアメリカが在韓米軍を大幅に削減した時期であった。これらすべてに対するソ連の直接の反応は何であったかと言えば、それは北朝鮮に対して、共産主義の支度を全朝鮮半島に拡大しようという意図をもって韓国尊攻撃することを、奨励はしないにせよ、許容する姿勢をとることだったのである。

もし日本が無期限にアメリカの軍事力の根拠地であり続けるとすれば、もし対日全面講和が結ばれないとすれば、またもしモスクワは日本の情勢を左右できる見込みが全くないのであれば、モスクワは、その見返りとして、アメリカがとにかくさほど関心を示しているように見えなかった朝鮮において、その軍事的・政治的地位を強化しようという気になったのである。

 これが、私の見るかぎりでの朝鮮戦争砂の起源であり、その後のことはあなた方も知っている通りである。三年をかけ、五万四千のアメリカ軍死傷者を出したあとで、この戦争は終結したが、その結果は、戦争前にあった状況と非常によく似た朝鮮半島における手詰り状態を再現したにすぎず ー そしてアメリカの介入の度合がさらに深まったのみであった。その状態は現在も続いている。

 さて、この出来事について、注意しなければならないと私が思うのは、次の諸点である。第一に、われわれがその地域の問題、とくに日本における米軍駐留に終止符を打ったであろうような、この地域の問題の政治的解決についてソ連と交渉することに何の関心ももっていなかったことである。それでは、われわれはなぜこの間題にこれほど関心がなかったのであろうか。

思うに、主としてわれわれはソ連が新たな世界大戦に突入する決意を抱いていると信じて疑わなかったからであろう。これに対抗するためにわれわれは、軍事的前進基地として日本を必要としていた。しかし同時にソ連はすでに悪の体現者と同義されていたために、国内政治の観点からすれぼ、悪と交渉し妥協することが尊いこととは思われなかったのであろう。

私が指摘したい第二の点は、ソ連が次に北朝鮮の攻撃行動を承認-あるいは黙認-するという形で、アメリカの対日政策への反応を示した時、われわれは、アメリカが日本でとった政策と北朝鮮の共産主義者が朝鮮でとりつつあった行動との間の関連を決して認めようとせず、あるいはそれを考えることさえできなかったということである。

反対に、北朝鮮の侵略が行なわれたとき、ワシントンがただちに下した結論は、この行動はナチがヨーロッパ制覇の目的で行なった最初の行動であるとしばしば考えられていた、1928年のミュンヘン危機に比すべきもので、ソ連の軍事力による世界征服の第毒手なのだというものであった。

ボーレンと私とは、再びこの解釈に反対した。しかし二人ともそうした考えを改めさせることはほとんどできなかった。軍部の解釈が支配したのである。
ジョージ・F・ケナンは、いったい何を隠したいのか?
アメリカの指導層の意見にあらわれたこの変化は、私が述べた時期-一九四九年終りから一九五〇年初めにかけて起こった。
1949年から1950年にかけて起きた重大事件とは、1949年8月ソ連は原子力爆弾の開発に成功したのである。

唯一の核保有国ではなくなった米国が、方針転換するのは当たり前である。

以上が「アメリカ外交50年」の気になる点であった。

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工作員の「市民の目」君、討論時間だ。

>相手国を変えられるのは、他国(外国)ではなく、その国自身に他ならないとのケナンの言は、外交における箴言であると評価してもよいぐらいです。

たしかに、いい外交における教訓だね、それに近いことは書いてありましたが、いったいこの本のどこに書いてある?見逃したかもしれないんで、教えてくれないかな?

何ページの何行目?もしかしたら版が違うかもしれないから、何部の何章のどのあたりかでもいいけど(笑)

>それは、相手国を蔑む(例えばヒトラーの語を安易に用いる馬鹿!etc)情緒論や相手国を徹底的に叩き潰す「無条件降伏」主義を戒めるものです。

この本を読んで、それに近い表現がまったく見当たりませんが?

解釈の違いかもしれませんので、何ページのあたりでそのようなことを書いてますか?
討論しましょう!どこ?

この記事読んでるよね、もちろんこの本も読んでいるよね・・教えてくれないかなぁ?
 


σ(´┰`)


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「正直で賢い人は絶対に左派になれない。
正直な左派は賢くなく、賢い左派は正直ではない。
矛盾だらけの社会主義の本質を知らねば明晰ではなく、
知っていながら追従するなら嘘つき(偽善者)だ」
レイモン・アロン