2021年5月23日(日)私はブログ更新メインテナンス中突如左手が動かなくなり椅子から転げ落ちる救急車を呼んでくれ!と家族に叫んだ。
救急搬送された。能溢血だった。救急車で搬送される自分病院での検査おぼろげに覚えている。部屋の上から自分を俯瞰しているわけではないので魂が抜けてい状態じゃないと何故か冷静だった。
翌朝だったとおもうベットにおむつをされ寝かされていた、かなり重いようだ。左手左足が動かない。家に帰りたいと思った、何故か家にいた。
私は倒れる直前もラインしていたフリン不倫相手の彼女に連絡しようとした、何故かラインが表示されない、やむを得ず電話をかけたが出ないので切った、携帯財布手帳鍵をまとめていたがその次気がつくとまた病院だった。リアルすぎる夢だったのだ。
ほどなくして家内が面会に来てもう体が元に戻らないこと、そして私が不倫していたことを糺しに来た、携帯に残ったラインを読まれてしまった。リアルな夢は重要な意味があったのだ。携帯は返ってこなかった

そのあとリハビリ病院に転院し半年入院しその後老健(介護老人保健施設)に1年2ヶ月老健の生活は地獄だった刑務所に収容されたかのと違わなかった。コロナ禍で誰とも会えず外出禁止、一日中ベットに寝てテレビを視るだけの生活。
家内に出所して家に帰してくれと頼むが、不倫をしていたことを絶対許さない、一緒に絶対住みたくないと頑なだった。
老健(介護老人保健施設)で時間を過ごしていると死んだのと変わらなかった。家内は家に帰らさないと言う。家内の合意が無いと出所出来ない。60歳になるまでに会社に復職しないと65まで雇用延長はない。
私は復職し社会復帰したかった。そこで、自分でもかなり厳しいとは思ったが独り暮らししても老健を出たかった。身障者1級要介護2の状態だが一人暮らしを決意した。
いきなり普通のアパートは無理なのでご飯だけ出してくれる見守り付き老人アパートと言うのがあった。目の前にバス停がある。ので今のアパートに決めた。
1/21家内と娘が老健に迎いに来た、昼飯を久しぶりに食べたが、これが家族で食べる最後の晩餐だと言う。荷物と私をただ置いて去っていった、翌日妹二人が部屋を片付けに来てくれた。カラーボックスを組み立て当面必要な細々しいものを買ってくれた、また来てくれると言ってくれた。
翌日杖だけでバスに乗って駅に出かけ駅ビルで買い物をしてバスで帰った。バス停まで普通の人は1分だが私は15分かかった。帰りは20分だった、その翌日電車に乗って町田まで行った、駅で車椅子に載せてもらい、後は杖で歩行したが、ほとんど動けなかった、杖での外出はかなり難しいことを悟った。無能なケアマネは、車椅子でバスに乗ることができることを知らなかった。ネットで調べて電話で確認した。何だ車椅子で乗れるのか!
その後介護保険げ電動車椅子にしてもらいコンビニエンスストアにも気軽に行けるようになった。
しかし、日々入浴したり洗濯、かたずけ、何するにも従来の何倍も苦労している。
日々希望が削がれていく、妻の携帯はを私を着信拒否にした、風邪をひいてしまったケアマネジャーに助けを求めた。
何もできないと言う。葛根湯があるので飲んで寝れば何とかなるかもと私は言った、そしたらお大事にと言って電話を切られた、葛根湯は偉大であった。2.3日で完治した。しかし、心が折れ命の電話に電話をかけ折れた心を癒してもらった。
次の不幸は、復職の為産業医と面談したが,復職は不可であった。老健の医師の診断書に復職は難しいと書いてあったとのことで、別の医師から復職可の診断書を貰ってくれと言う。以前入院していた病院には1年以上診てないから書けないと言う。いきなり書いてくれる病院などあるはずもなく、復職は断念した。
水戸の実家へ帰ろうかと思った。
ところが、頼りの妹、そのの旦那が糖尿病で緊急入院する事となってしまった。
考えてみれば妻と娘が見捨てた身体障害者の私の面倒をみるなど期待する方が間違いだ。
私は、身体障害者になった現実を受け入れ一人で生きていかなくてはならない宿命を背負ってしまったのだ。これは試練であり私なら乗り越えることができると神様から与えられたのだ。有難いことなのだと思う。
しかし、毎日毎日ただ生きることだけでとても厳しい。当初ご飯さえ自分でつくろうかとおもっていたが、とてもできない。ご飯を出してもらっているだけ何とかやっていられる。

健康な体を無くし、家族と家、仕事、恋人全て無くしてしまった。
私の絶望的状態はかなりハードなものだと思う。自死も選択肢だが・・・・・
私は何の為に生かされているのか?考えた
私のような弱者に寄り添う相談員になろう、仕事を見つけ資格を取得しよう!
今の私のささやかな希望である