Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ

政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、脳の外部記憶媒体としてこのブログを利用しています。2020/11/30以前はGoogle検索でキーワードを入れると常に上位にありましたが、日本のトランプ大統領デモを紹介した記事が米国でバズって以降検索アルゴリズムから排除され検索ヒットされにくい状態です。是非ブックマークをお願いします。このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

カテゴリ: イベント・映画・芸術

9月18日明治安田生命J2リーグ 第33節FC町田ゼルビアVSモンテディオ山形 戦を町田市立陸上競技場にて観戦いたしました。

2017明治安田生命J2 第33節 モンテディオ山形vs.FC町田ゼルビア ハイライト動画

互いに中盤でのつぶし合いが続き、一進一退の攻防となった試合は後半の中盤を過ぎてもスコアが動かない。きっ抗した展開が続く中、ホームの町田は戸高 弘貴と吉田 眞紀人に代えて、平戸 太貴と鈴木 孝司を投入。対する山形も安西 海斗に代えて、汰木 康也を起用して局面の打開を図った。

先に動いた町田は、平戸が自慢の右足でセットプレーからチャンスを創出するも、ゴールならず。一方の山形はトップ下の佐藤 優平が浮いたポジションを取りながら、サイドに開いた汰木を活用するが、ゴールを決め切るまでには至らない。

終盤に入ってもスコアボードが動かない展開に、両指揮官はさらに交代カードを切ってゴールをこじ開けようとした。町田の相馬 直樹監督は谷澤 達也に代えて遠藤 純輝を投入し、対する山形の木山 隆之監督は瀬沼 優司と佐藤に代えて、永藤 歩と太田 徹郎を起用。ともに交代カードを切り尽くし、試合は終盤を迎えた。

そして表示された後半のアディショナルタイムは4分。互いにロングボールを入れてゴール前でのチャンスを増やそうとする展開の中、町田は93分に平戸のCKから井上 裕大と遠藤がシュートチャンスを作り出したが、相手DFのシュートブロックとシュートミスでゴールならず。

結局、試合はスコアレスドローでタイムアップ。町田はホームの連敗を『4』で止め、アウェイの山形は5戦連続のドローゲームに終わる。ともに死力を尽くした雨中の激戦は、勝点1を分け合う結果となった。

[ 文:郡司 聡 ]
イメージ 1

生まれて初めてのVIP席でのサッカー観戦でした。

日本証券業協会はJリーグのスポンサーで、日本証券業協会に所属する我が社にVIPチケットが回ってきたらしいのだが、J-1の試合であれば我社役員あたりが、取引先とでも観戦に行ったのであろうが、現在J-2リーグの12位Vs13位の試合で、オマケに台風が迫っていて、天候不良も予想され、まあ・・・役員も熱心なサッカーヲタクか、よほど暇でもなければ町田までわざわざ出掛けて観るような試合ではない。

ということで、木曜日、町田支店にVIP席4席とSS席16名のチケットが回ってきたのだ。(正確にはS席はチケットだが、VIP席チケットではなく、名前を登録するだけ)
年の功で、4名分のVIP招待券を私が頂き観戦してきました。

娘は浦和でグラススキーに行く約束であったので、義父母と家内の4人で行こうとしたが、あいにくの雨で、義父は面倒になったのか行かないとのことで、3人で行った。

試合は18時キックオフであったので、通常車で30分程度で行けるので、16:30家を出た。いつになく渋滞していたので、義母はおもむろに車内でおにぎりを食べ始めた。海苔と鮭の美味しい匂いに誘われ家内も1つ食べた。私も勧められたが、なぜか食べなかった。

鶴川街道や小野字の交差点が難所で、到着は17:40になってしまった。

イメージ 2
VIP席関係者はスタンドに近い多目的広場が駐車場として用意され、無料で駐車することができた。
VIP専用入り口から入り、エレベーターに乗って、4階に到着すると、町田ゼルビアのマスコットキャラクター「ゼルビー君」にお出迎えしてもらいました。

イメージ 9
イメージ 10

VIP席の裏には・・・食事と飲み物が用意されていました。

ラッキー・・・テヘペロ・・・
妻と義母は・・・しまった感漂っていました・・・
知らなかったなぁ

イメージ 3


それほど豪華というわけではありませんが、カレーに牛煮込み、サンドイッチ、チョコケーキ、かぼちゃポタージュにキヌアときゅうりのサラダ、魚のローストと肉料理と10品以上はありました。

見た目はホテルビュッフェから比べれば質素でしたが、一つ一つ丁寧に料理され、昼にタイカレーを食べたにもかかわらず、美味しいカレーでした。特にかぼちゃのポタージュは今まで飲んだかぼちゃのポタージュの中で一番おいしかった。(手作りだと思いますが案外冷凍だったりして・・・

VIP席にはJ-2の試合でもフリードリンク・フリーフードのようです。
J-1とか、日本代表のVIP席はさぞや豪華なのでしょうね・・・・

イメージ 4

席の後ろがVIP控室・・・たとえJ-2とはいえ、地元の有力企業の経営者家族とおぼしき人たちがいて、富気が漂っていました。
短パンにTシャツではなく、小奇麗な格好をしていって正解でした。

イメージ 5
あいにくの雨でも雨にも濡れず快適です。
収容人員は10,600人 (メインスタンド1,666席、バックスタンド他8,034席)
観客数は2,519人とのことでしたが・・・・雨にもかかわらず熱心なファンで会場は埋まっていました。
イメージ 6
子供達と手を繋いでの入場

イメージ 7
記念撮影
・・・で、試合開始・・・・

実は、前半が終わりハーフタイムになった際、場内アナウンスでVIP席にサッカー連盟の誰々様が見に来ています!~といって紹介され、その方が立って手を振って挨拶されたのだ、次に、町田スポーツ連盟の誰々さん~で挨拶、次にスポンサー社長の誰々様が見に来ていますと言って紹介挨拶・・・・・

おいおい聞いてないよ~まさか~日本証券業協会のDdog様と言われるのか???
一瞬焦ったが、紹介者は5人で終わった・・・・(笑)

せっかく立ち上がって手を振る気になっていたのに・・・(笑)

イメージ 8
双方決定力不足の0-0ドローの試合でしたが、飽きることなく、町田ゼルビアを応援できました。

実は応援団は山形の方が沢山来ていて、どちらがホームなのかと思うくらいでした。
3連休東京に遊びに行くぞと決めて山形から応援に来た方々は気合が違うのかも。
入場料と交通費を入れると安くても1万円以上かかっているだろう。

かたや、地元は今日は雨だからと・・・止めた方も多いのかもしれません。
それでも、雨の中応援しに来ていたサポーター達は、山形サポーターの数に押され気味でしたが、雨の中飛び跳ねて頑張って応援していました。

山形のサポーターは時間とお金を掛けた分、気合を入れて応援するのは当たり前とは言え前半45分、と後半45分間飛び跳ね続け、タオルを振り、消費エネルギーは凄い!試合に出ていた選手ほでではないが、ウォーミングアップしていた控え選手と変わらないエネルギーは消費していたと思います。まあ、花笠祭りで鍛えているのかもしれませんね。

私達家族は、会社、協会のお金でVIP席に座わらせてもらって、雨にも濡れず、飲み物と食事まで頂いて・・・・私の負担は競技場までのガソリン往復200円相当ほど 
・・・駐車場もタダで、なんだか申し訳なく感じてしまいました。

イメージ 15
雨に打たれて応援するサポーターはただのファンではない。
サッカーサポーター教という宗教に身を投じ・・・・

修行(苦)と法悦悦楽)を共有する宗教と僧侶(熱心な信者)の関係に近いのだなぁと関心してしまいました。

それにしてもVIP(Very Important Person;非常に重要な人物)をVIP待遇と言いますが・・・自分でVIP待遇を受けておいて、少々おかしいかもしれませんが、正直なところVIPという言葉に違和感を感じてなりません。

VIPの存在は資本主義社会、お金が絡む世界では当たり前なのかもしれませんが、人は金を持ち、金を出資する見返りに、優越感を伴う待遇を受ける。・・・これはやむを得ない人間社界の原理なのか?

違和感を感じるのは、私は、平等主義を徹底された戦後教育の申し子だからなのでしょか?それとも日教組で共産党員だった父という特殊な環境に育ちひねくれた性格だからでしょうか?

イメージ 12
VIPに普段は無縁なわたくしでも、そういえば私は、VISAのゴールドカードを所有していますので、VIP待遇を受けました。海外旅行に行くときに、空港でVIPルームを利用していました。高い会費を払っても、海外旅行保険が入っているので、高い会員カード分年一回以上海外旅行に行けば元を取れるので入っています。

ゴールドカードの上には、なにやら本当に特別なブラックカードがあるらしいので、ゴールドカードでは特に優越感はありませんが、それでも・・・VIPルームを利用するとちょっとだけ気分がいい気がします。

イメージ 11
友人に親の代からデパートの外商さんを利用される方がいますが、外商さん利用顧客は何かと厚遇され、7月に銀座三越のハロッズ ザ プランテーション ルームでアフタヌーンティを頂いた際も、外商カードの威力で、窓際で一番奥の良い席に案内されました。少なくとも悪い気分ではないが・・・・これが当たり前に感じると人間というのは堕落してしまうような気がします。

これは、資本主義社会に限った話ではありません。社会主義国のはずの中国や北朝鮮でも共産党や労働党の幹部は資本主義国以上に厚遇され、体制維持に利用されています。

VIP待遇とは、古来より、相手を普通の人より特に厚遇し、その引き換えに、何かを引き出すために利用してきました、また逆に対価を払って厚遇してもらう、この行為自体は人類の普遍の行動原理かもしれません。

JRにもグリーン車があるように、お金を払えば相当の対価をしてもらえるわけで、それなりのサービスを受けたいのなら対価を払うのは、当たり前ですが、VIP待遇という言葉が、どうしても個人的に違和感を感じてしまうのです。VIPという言葉が成金的で嫌なのかもしれませんもしれません。「VIP待遇」改め「要人待遇」だと言葉が大げさかもしれませんが、まだましなような気がします。

少し成功し、社会的な地位を得た時に、人は「実るほど頭を垂れる稲穂かな」といった、謙虚で出来る人と、ふんぞり返ってしまう人、大きく分けると二つに分かれるとは思います。どちらかというと、謙虚でいられる魂の持ち主が少数派だからこそ、VIP待遇が存在するような気がします。

イメージ 14
私がVIPという言葉を知ったのはまだバブル前の1980年代初頭、上京して間もないころでした。「ディスコに行くとVIPルームと称する特別な部屋があって、そこに出入りする男は女子を入れ食いで掻っ攫えるらしい・・・」「へっ~VIPって何?」と聞いたのがはじめて聞いたVIPだったと記憶しています。((笑))

VIP待遇というのは、人間の業ですね。人間が社会生活を営む上で生じる些細な心の隙間なのでしょう。例えば商売において、人間が人間を相手にしているのだから、人間の弱さを利用しようと考えて、VIP待遇を行っているのかもしれません。

私のようにVIPという言葉にに違和感を感じ、VIP待遇を設ているサービスに対し、ひねくれた見方をすると人間からすれば、「お金を運んでくる人か、そうではない人か」という二種類のものさしで見ているような気がして、なんだか失礼にも感じててしまう。やはり私の感性が間違っているのでしょうか?

VIP待遇を受けたのなら、それはおもてなしを受けたと考え、私のように、ひねくれて考えるのではなく、素直に感謝したうえで、謙虚に振る舞える人間が本当の大人なのかもしれません。


    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

オランダ博物館所蔵の作者不詳の絵画が北斎の肉筆洋画であると研究発表される その1ライデン国立民族学博物館・シーボルト だけではブログの画像容量を超えてしまい北斎(北斎工房)の肉筆西洋画を網羅することができませんでしたので、その2としてフランス国立図書館蔵を中心とした北斎(北斎工房)の肉筆西洋画を紹介します。

フランスと日本 日本風俗図絵より (デ・ステューレル・コレクション)
江戸時代の古き良き日本の風景や日常が、リアルに感じ取ることができます。
凄いコレクションです。








イメージ 8
雨中の漁   


イメージ 10
海女 







以上 ブログの容量の関係で、その1に掲載した作品は載せることが出来ませんでしたので、タイトルの方をクリックしていただければ、フランスと日本 日本風俗図絵の画像とリンクしてあります。

一昨年、大規模な北斎展が東京国立博物館で開かれた。そこには多くの里帰り作品も出ていた。ものすごい混雑だったが、前期・後期の2度観にいって北斎の全貌を知ったと思っていた。

ところが、それはまったくの誤りであることが、今回の東京江戸博物館の北斎展でわかった。

 出島に滞在したオランダ人たちが、北斎の肉筆風俗画を入手し、祖国に持ち帰っていたのである。

 これらの風俗画は、現在、オランダ国立民族学博物館とフランス国立図書館に所蔵されており、今回これらが初めて同時に里帰りしたので、今まで知らなかった北斎を知ることになったのである。

 展覧会は、第一部「北斎とシーボルト」と第二部「多彩な北斎の芸術世界」の2部構成。第二部は「今まで知っていた北斎」、第一部が「今まで知らなかった北斎」である。

 確かに第一部の肉筆画は今まで観てきた北斎の絵とはかなりの距離がある。画題は人間中心である。色鮮やかである。一部の絵では、遠くのものが小さく描かれており、しっかりとした水平遠近法がとられている。

 「本当にこれが北斎か?」と一瞬思うが、会場には北斎の類似作品が並列に展示されており、だんだん「やはりこれも北斎なんだ」と自分にいいきかせるようになってくる。

 図録の冒頭の論考「葛飾北斎とシーボルトの出会い」を読んでその思いをいっそう強めた。この論文の著者は、今回の展覧会の学術協力者となっているオランダ国立民族学博物館のマッティー・フォラー氏 Dr Mathi Forrerである。まとめると次のようである。

1.出島のオランダ商館長ブロムホフと書記官フィッセル: 二人とも日本の文物のコレクションを行っていたが、1822年の江戸参府の際、北斎に絵画作成を依頼し、オランダ製の紙を提供した。

2.その頃の北斎: 1822年に一人の娘を失い、年長の娘の離婚などもあって、絵の制作状況はスランプ状態であった。この依頼品の作成は1824年暮ごろから始まったと考えられる(今回の絵の一つ《節気の商家》の大福帳にこの年号が描き込まれているため)。

3.次のオランダ商館長デ・ステューレルと商館医シーボルト: 4年後の1826年に北斎より依頼の絵を受け取っている。二人はこれを欧州に持ち帰り、現在パリとライデンに保存されている。

4.シーボルト・コレクション: 15点すべてがオランダ紙に描かれ、現在「ライデン国立民俗学博物館」に保管されている。これらにはすべて西洋画の影響がある。一部には魚屋北渓が描いたと思われるものもあるが、ほとんどは北斎本人によって描かれたものとされている。欧州人の依頼だったので、自分にも洋風画は描けるといった北斎の気概が感じられる。

5.デ・ステューレル・コレクション: 25点がフランス国立図書館に寄贈されているが、1点を除いた24点は和紙に描かれている。パリのものでは、肖像画↓のような一部の例外を除けば、西洋の影響が観られない。これらパリ作品の下絵が、今回大英博物館から出展されているが、これらは魚屋北渓が描いたもののようだとのこと。

6.後期北斎作品への影響: 欧州注文作品に出ているイメージはその後数多く使われており、北斎の大発展の契機となったのではあるまいか。

所蔵の経緯や、文献、4年ごとに江戸を訪れる商館長の慣習などから、多くは1822年に発注、1826年に受け取ったものとみられている。

日本の風俗を欧州に伝えるために依頼されたのだろう。北斎は当時60代。「北斎漫画」などで名声を得ていたが、北斎の代表作「冨嶽三十六景」の「神奈川沖浪裏」(1836年)製作前である。

 
本人の手によるものも、弟子の魚屋北渓とあるが、その1でも述べたが、西洋絵画では中世から続く徒弟制度が依然として続けられていた為、例えばレンブラント筆とされる大作の絵画の多くはレンブラント工房の製作、であるように、北斎工房製の絵画はやはり北斎の絵として判断していいかもしれません。

 
その1で引用させてもらった神谷浩・名古屋市美術館学芸課長は「「俺たちだって、あんたたちみたいな写実的な絵が描けるんだよ」という対抗意識から、西洋画の特筆である陰影を作品に施したのかもしれません。」と言っておりました。ただ、西洋画を西洋画家から学んだのではなく、西欧近代絵画に挑んだが陰影の西洋表現への全体的理解は不十分だったかもしねい。その1の驟雨(しゅうう)(夕立)などはちょっと過剰に感じる。

 だが、
比類なきデッサン力を誇った北斎もしくは北斎工房が描いたこの絵画に描かれた人間は生き生きと描かれ、さすが北斎であり、その後の冨嶽三十六景などに大きく影響を与えた仕事だったと思う。



イメージ 18

イメージ 19
隅田川両岸景色図巻 の吾妻橋付近(東京都墨田区提供))

イメージ 20
隅田川両岸景色図  三囲神社(右奥)と牛嶋神社付近(東京都墨田区提供)


イメージ 22




    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


イメージ 1
葛飾北斎が江戸の日本橋を描いた水彩画=ライデン国立民族学博物館提供
オランダのライデン国立民族学博物館所蔵で、長年作者不明とされてきた6点の絵が江戸時代後期の浮世絵師、葛飾北斎(1760~1849年)の作品である可能性の高いことが22日、分かった。西欧の水彩画の技法を使った異色の作品で、当時交流があったとされるドイツ人医師、シーボルトらの影響を受け、描いたとみられる。

 長崎市で開かれた「国際シーボルトコレクション会議」で、同博物館シニア研究員のマティ・フォラー氏が報告した。6点のうち5点は和紙に江戸の街並みを描いた風景画で、残る1点は版画。これも江戸の風景が描かれている。

 同博物館はシーボルトが日本からオランダに持ち帰った絵画などのコレクションを所蔵。2年前、シーボルト直筆のコレクションの目録が見つかり、フォラー氏が照会したところ、今回の6点に関し、「北斎がわれわれ(欧州)のスタイルを使って描いたもの」との記述があった。絵の特徴も細かく記されており、北斎作の可能性が高いとみている。(共同)

イメージ 4
葛飾北斎が描いた水彩画。江戸の品川周辺とみられる=ライデン国立民族学博物館提供
イメージ 6
葛飾北斎が描いた水彩画。江戸の赤羽橋周辺とみられる=ライデン国立民族学博物館提供
イメージ 7
葛飾北斎が描いた水彩画。江戸の両国橋とみられる=ライデン国立民族学博物館提供
イメージ 8
葛飾北斎が描いた水彩画=ライデン国立民族学博物館提供
イメージ 9
葛飾北斎が描いた石版画。江戸の永代橋とみられる=ライデン国立民族学博物館提供
イメージ 10
葛飾北斎が江戸の日本橋を描いた水彩画=ライデン国立民族学博物館提供
イメージ 5
江戸時代の出島を描いた絵、これは?・・・・http://www.webkohbo.com/info3/nagasaki/nagasaki3.html

北斎の肉筆画と判明 「作者不明」西欧の水彩画風の6枚
【YahooNews】西日本新聞10月22日(土)10時10分配信

長崎のオランダ商館で働いていたシーボルトは1826年に江戸に上った際、北斎らと面会したことが分かっている。同博物館には、この6枚とは別に、北斎の肉筆画と認められた11枚が伝わっている。
調べてみたら11枚どころではなく、もっと沢山の北斎肉筆画が海外に流失しておりました。

シーボルトと北斎はなんと交流があり、沢山の肉筆絵画を注文していたと言うのです。
ただし、娘の応為であるとか弟子の魚屋北渓などが画いた北斎工房の作品が混ざっている。
しかしながら、西洋絵画では中世から続く徒弟制度が依然として続けられていた為、例えばレンブラント筆とされる大作の絵画の多くはレンブラント工房の製作、であるように、北斎工房製の絵画はやはり北斎の絵として判断していいかもしれません。
 1999年、アメリカの「ライフ誌」が行ったアンケート調査「この1000年でもっとも偉大な業績を残した世界の100人」で、日本人で唯一選ばれた江戸の浮世絵師・葛飾北斎(1760-1849)。印象派などヨーロッパの近代絵画に大いに影響を与えたことが知られる彼は、実は、長崎出島の医官シーボルトとも交流があった!? 現在、江戸東京博物館では、北斎の芸術を一望しながら、彼と出島の外国人たちとの交流も紹介する「北斎―ヨーロッパを魅了した江戸の浮世絵師」が開催中だ(2008年1月27日まで開催)。この北斎とオランダ人との交流の謎を、展覧会の代表者である名古屋市美術館学芸課長の神谷浩氏に聞いた。

 (2008年2月9日~3月23日に名古屋市美術館に巡回、4月5日からは山口県立萩美術館・浦上記念館に巡回する)

展覧会は2部構成


 この展覧会は、オランダ国立民族学博物館のキュレーターであるマティ・フォラーさんが「北斎と長崎出島のオランダ人との交流を紹介したい」と提案したことから始まりました。

 というのは、彼の職場であるライデンのオランダ国立民族学博物館とパリのフランス国立図書館に、北斎が描いたという不思議な絵があったんです。これが今回ご紹介している作品群で、ライデンの方が長崎出島の医官だったシーボルトが民族資料として持ち帰った15点、パリの方が出島の商館長(カピタン)を務めた後、フランスに移住したヨハン・ヴィレム・デ・ステュルレルが持ち帰った25点。北斎画というにはその出来にかなりばらつきがあるので、研究者たちは、この中のどれが北斎の絵で、どれが弟子の絵なんだろうか、なんて首をひねっていたんですが、それをフォラーさんが、とりあえず作者の推定まで一生懸命やってくれたんです。

 そこで、この研究の成果をぜひ日本で紹介したい、ということになりまして、まず第一部で、彼の研究に基づいた展示を行い、第二部で、有名な《冨嶽三十六景》や、新発見の《四季耕作図屏風》などを含めて、北斎の芸術を一望できる展示にした、というのが今回の展覧会の構成です。

イメージ 2

北斎 《四季耕作図屏風》 文化年間(1804-18)中期 紙本著色 107×292センチ 個人蔵

北斎とシーボルト

 展覧会の第一部では、北斎とシーボルトの交流に焦点を当てています。しかし、北斎とシーボルトの接点を物語るような決定的な記録は、残念ながら出てきていません。ただ、いろんな状況証拠から、どう考えても2人は出会っていただろう、と思わざるを得ないんですね。

 例えば、当時、長崎出島のカピタンは、4年に1度の江戸参府が義務付けられていました。北斎も1700年代後半、まだシーボルトが来日する前に、すでに『東遊(あづまあそび)』という狂歌絵本の中で、出島の外国人たちが江戸で定宿としていた「長崎屋」の様子を描いているのですが、ちょうどこの頃、彼は出島のカピタンとトラブルを起こしているんです。

 『古画備考(こがびこう)』(1845年から50年にわたって編集される)という本に書かれている記事には、この頃、北斎はカピタンと彼に同行してきた医者に、日本人の男女の一生、つまり生まれた時からお葬式までの様子を2巻1セットの巻物を2セット描きました。出来上がった絵を彼らの宿に持参すると、カピタンは約束通り150金を支払ったのですが、医者の方は「自分は貧乏だから75金にしてくれ」と値切ってくる。そこで、北斎は、「金がないなら、ないと最初に言ってくれれば、絵の具を安くするとかいくらでもコスト削減の手立てがあったのに」と怒ってね、医師には絵を渡さずに帰ってしまった。すると、奥さんから「なんで75金でOKしなかったのよ」と叱られた、という記事なんですね。

 つまり、北斎は、長崎出島のカピタンのために絵を描いていたことが分かる。そして、もしかしたら、この医師はシーボルトかも知れないんです。シーボルトと北斎が出会っていたとしたら、彼らを引き会わせたのは、おそらく1800年代の初めごろに「出島出入絵師」となっていた川原慶賀(1786-1860以降)だったろう、ということも推測できるんです。

 この人は、シーボルトの資料収集のために、日本の植物や風俗を描いた人で、文政9(1826)年の江戸参府の時にも、彼はシーボルトとともに江戸に来ています。第一部で紹介している北斎の風俗画も、おそらくこの時に同じ絵描きの慶賀がシーボルトを北斎先生に紹介したことで生まれた、と考えると大変自然なんですね。

北斎と北斎工房

 それにしても、カピタンたちは、数多くいた江戸の絵師たちの中で、なぜ北斎に江戸の生活の記録を描かせたのか? シーボルトの「お抱え絵師」であった川原慶賀の存在は無視できないとは言え、これは僕も一番知りたいナゾの1つです。

 もちろん、彼らが北斎を選んだことは大正解でした。よく言われるように狩野派の絵師は、お手本通りに描くことしかやっていなかったわけですから、生きている人間を生きているように描くという点では、北斎は群を抜いていた。その頃に出回っていた画工の見立番付などを見ても、北斎は最上位の「横綱」になったり、それを通り越して「行司」になったり、と、非常に評価が高いんです。江戸でトップの絵描きで、何でも描けて、しかも流派に属さない一匹オオカミ的な存在だった、というところで、外国人たちも頼みやすかったのかもしれません。

 さて、今回、第一部の風俗画は、「北斎工房」の作ということでご紹介しています。「工房」というと、アトリエの中に先生がいて、弟子がいて、分業制で制作しているような西洋の工房を思い浮かべる人が多いと思うんですが、北斎の場合、そこまで厳密ではなかったと思う。まあ、彼は引っ越し魔でしたし、家の中も散らかし放題でぐちゃぐちゃだった、という記録もありますから、彼の家が西洋的な意味での「工房」だったとは思えません。

 たぶん、北斎が受けてきた仕事を、どんなふうに描くか、というところぐらいは皆で相談したとしても、あとは適当に割り振った絵を弟子たちが描いたのではないでしょうか? その時に、北斎が中心に描いたり、娘の応為(おうい)がかかわっていたり、ということで、自然といろんなタイプが出てきたのでしょう。ただ、北斎が確認して「よっしゃ」とOKのハンコを押した時点で、これらは立派な「北斎ブランド」となるわけです。このあたりのニュアンスが伝わりくいようで、「弟子が描いたのなら偽物では?」と聞かれることがあるんですが、これは、北斎がプロデュースした一種のブランド商品、と考えていただければいいかと思います。

「燃える男」北斎の陰影法

 西洋画の技法にも大変興味を持っていた北斎は、自分で油絵の具を作ったこともあるようで、最晩年に出版した『画本彩色通』という本の中で、彼は、油絵の具の作り方を丁寧に説明しています。カピタンたちに発注された風俗画も、絵の具は日本の顔料を使っているんですが(シーボルトのコレクションに関しては、紙はオランダ製)、西洋の絵画をまねて陰影法を採用するなど、従来とは明らかに違った技法で絵を描いていますね。

 実は、当時の日本において、絵に陰影を付けるということはとんでもないことなんです。でも、北斎は「燃える男」なので(笑)、「俺たちだって、あんたたちみたいな写実的な絵が描けるんだよ」という対抗意識から、西洋画の特筆である陰影を作品に施したのかもしれません。

 面白いことに、シーボルトが日本にいた文政年間、北斎は目立った活動をしていません。つまり、この時期は年表に記述が少ない部分なんです。ところが、今回詳しく調べてみると、不毛の時期と思われていた時こそ、この展覧会でスポットの当たる時期だった。それで、マティ・フォラーさんなどは、この時期、北斎は娘の応為が離婚したり、彼自身の老齢(当時60代)がこたえたり、いろんな意味でどん底だった。だから、出島の外国人のために仕事をすることで、次のステップを踏むことができたのではないか、と言っています。

 しかし、僕はその逆で、むしろ北斎は、この時期、出島の外国人たちの仕事に没頭していたのではないかと思っている。立証はできないですけどね。でも、先にも言ったように、北斎はカピタン相手に150金という画料をとっていた。これが「両」とすると大変です。当時、文人画などは、絵の具料込みで10両ぐらいで描かれていた例を思うと破格ですよね。江戸時代後半の貨幣価値を現在の貨幣価値に換算すると、おそらく1両が数万円だったと思いますから、150両といえば数百万円。シーボルトの仕事も量は多いし相当な金額をもらっているはずなので、ほかの仕事をしなくても経済的には全く問題なかったと思われます。それに北斎って、酒も女性もバクチにも興味なさそうだし、一体何にお金を使ったのかと思うんですが、使ったとしたら、おそらく絵の具に相当つぎ込んでいる。今回出品されている作品も、僕の同僚が「何これ。本当に日本の絵の具なの?」と驚いたぐらい、発色のよい、高級な絵の具を使用していました。

 文政11(1828)年、「シーボルト事件」とともに、シーボルトが日本を去った後、北斎は《冨嶽三十六景》、非常に出来の良い『北斎漫画』12編といよいよ傑作を連発してくのですが、これはシーボルトたちの仕事が北斎に様々なインスピレーションをもたらしたとともに、この仕事に没頭するために、いろんな仕事を中断していた、とも考えられるのではないかと思います。

第二部の見どころ

 第二部でまず、見ていただきたいのは『北斎漫画』です。ライデンから借用したこの本の初編から10編までは、文政9(1826)年の江戸参府の折にシーボルトが江戸で購入して、そのまま博物館に入ったもので、「シーボルトと、マティ・フォラーさんの指紋しかついていないんじゃないか」という冗談が出るくらいにピカピカなんです。本の入っていた袋まで大事にとってあるので、こういったものを見るのも面白いと思います。

イメージ 3
北斎 《美人夏姿図》 文化年間(1804-18)中期 絹本著色 85.5×29.4センチ 個人蔵(後期展示)

 また、北斎と言うと、どうしても「赤富士」や「波」が描かれた《冨嶽三十六景》を思い浮かべる人が多いと思うのですが、彼が力を入れたのは、むしろ《冨嶽百景》の方だったと僕は思っている。これは北斎が70代半ばに出版した版本なんですが、構図も素晴しいし、彫り師も、北斎が選んだ当時最高の人を使い、跋文(ばつぶん)では、自分の人生を回顧して、「俺はまだ頑張るぞ」とさらなる決意表明までしています。墨一色の本であるにもかかわらず、状態のいいものを見ると、モノクロームってこんなに表情が豊かなのか、と改めて感心できると思います。

 それから、今回出ている肉筆画に関しては、僕ははっきり言って自慢しますよ。特に今回は新発見の《四季耕作図屏風》や、約30年ぶりに公開される《生首図》、そして《松下群雀図屏風》など、あまり手垢(てあか)の付いていない作品を紹介することができました。その中でも、僕の一番のお気に入りは、東京では後期(2008年1月2日~27日)に展示される《美人夏姿図》。壮年期の北斎が描いた美人画なんですが、ピンクの襟とか、衣が透けている感じが素晴らしくて、どうすればこういう風に描けるのか本当に不思議です。まさに神業というか……。この美人は僕の恋人といっていいぐらいの作品です。

 今回展示室の出口の近くに「悪玉」の面をつけた人間が踊る『踊独稽古』をパネル展示しています。閉館近くなって周りに人が少なくなると、実際にこれを見て踊りだす人がいるんですよね(笑)。試しに踊りたくなってしまうほど、北斎の絵は、骨格がきちんと描けていて、デッサンがしっかりしているんです。

 僕は、北斎に会いに来たのが、シーボルトでなくゴッホだったら、絶対に「素描を描いてください」と言ったと思っている。後世の話ですが、ゴッホは北斎のデッサン力を、大変評価していました。確かに北斎は、眼と手の神経が直結しているのではないか、と思うほど優れたデッサン力の持ち主でした。それに加えて、北斎のコンポジション(構図)とイマジネーションの力も素晴らしい。そして、彼が描いた絵の「量」も考えなければならないと思います。「質より量」というのではなく、北斎は、描き続けるうちに、画力がどんどん上がっていった画家でした。そういった彼の芸術的な特質を、じっくりと考えながら見ていただければ、と思います。
さて、北斎の肉筆洋画発見とのニュースで、海外に流失した北斎の肉筆絵画を検索してみたところ、非常に沢山の画像を発見することができました。

その多くは私が知る北斎の浮世絵や肉筆画と異なり、同時代の印象派画家に影響を与えるだけのことはあって、驚き感動しました。北斎の絵を見たシーボルト達は西洋画家から学んだことが無い極東の端の島国の老画家が生き生きと描く西洋画に唯々驚いたと思います。そして、美しい生の日本そのものを、天然色で本国に伝えたかったのだと思います。



イメージ 13
       年始回り



イメージ 17
    武家 

イメージ 18
     町屋の娘







イメージ 26
            武士と従者 



    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック




PHOTOGRAPHS BY KAZUMA OBARA
TEXT BY AKIHICO MORI

イメージ 1
イメージ 2
イメージ 3
イメージ 4
イメージ 5
イメージ 6

2016年、オリンピック、パラリンピックに次ぐ新たなスポーツの祭典が誕生した。その名は「サイバスロン」。障害をもった人々とスポーツのまったく新しいつながりが生まれた現場をレポートする。

その時、サイバスロンの会場では、観客の視線が中央の巨大なスクリーンに集中していた。映し出されていたのはゲームの映像。10秒も見ていればルールが分かるような単純なもので、4体のアヴァターが「かけっこ」を繰り広げ、より速くゴールした者が勝ちとなる。

しかし、プレイヤーの手元にジョイスティックなどの見慣れたゲームコントローラーはない。代わりに、その頭にはドレッドヘアのように複雑に編み込まれた電極とコードがつけられていた──。

スイス・チューリヒ空港にほど近い街、クローテンにある「スイスアリーナ」。こぎれいなスイスの街並みのなかにあって、国民的スポーツであるアイスホッケーの試合会場として親しまれているこの会場に10月8日(現地時間)、約4,000人の観客がサイバスロン目当てに世界中から集まり、チケットは売切となった。

冒頭のゲームは「脳コンピューターインタフェイスレース」。パイロット(競技に参加する障害をもったアスリートはこう呼ばれる)は頭部の電極から読み取られる脳波でアヴァターをコントロールし、レースを展開する。パイロットは首から下の運動機能のすべてを失うかまたは重度の麻痺を患っている。彼らは動かない身体から飛び出して、ヴァーチャルな世界を自由に動いてみせる。そんな体とテクノロジーの奇跡の先に成立する競技に会場は熱狂した。

能動義手 V.S. 筋電義手

サイバスロンの種目は6つ(脳コンピューターインタフェイスレース、機能的電気刺激自転車レース、強化型義手レース、強化型義足レース、強化型外骨格レース、強化型車椅子レース)。チームはF1レースのように、エンジニアリングを行うスタッフと、実際にレースに出場するパイロットによって構成される。専門分野を持つチームが世界各国から集まり、それぞれの競技で世界一を競い合った。

イメージ 7
日本から「強化型義手レース」に参加したチーム「メルティンMMI」。筋肉の電位を測定することで装着者の意思を読み取り、繊細な動きを実現する。                     
会場のブースでは、先述の脳コンピューターインタフェイスレースを実際に体験できた。「物事を考えず、リラックスすること」と「さまざまな物事を考え、頭を働かせること」が、このゲームにおける“コマンド”になる。レースはこうした意識のモードを瞬時に切り替えることで、アヴァターを加速させて競い合う。プレイしてみたところアヴァターはさんざん停止を繰り返した。脳コンピューターインタフェイスレースのパイロットは何年間ものトレーニングを行っているからこそ、サイバスロンの舞台に立ち、人々を熱狂させる試合ができるのだ。

サイバスロンには先述のヴァーチャルな世界だけではなく、現実のフィールドをつかったレースも多数存在する。たとえば「強化型義手レース」だ。

さまざまな義手を身に着けたパイロットたちは、日常生活に求められる作業をいかに速く、正確にこなせるかを競い合う。たとえば球や円錐、針金のような突起物などを義手でつまみ、適切な場所へ移動させるパズルや、日用雑貨をトレーに載せ、トレーから落とさないように運び、ドアを開ける、といったタスクだ。

日本からは「メルティンMMI」のチームが参加していた。「メルティンMMI」の強みは筋肉の活動電位である「筋電」を測定し、独自のアルゴリズムによって動作する「筋電義手」だ。意のままに指を1本だけ曲げ、手首を回転させるといった、自分の手指のように義手が動かせ、繊細な動作を実現できる。

10チームで繰り広げられたレースに優勝したのは「能動義手」を使ったオランダのデルフト工科大学のチーム「DIPO Power」だった。能動義手は、筋電義手などのように電気を動力とせず、使用者の正常な機能が残された体の動きを動力とする、古典的な義手だ。

レース終了後、メルティンMMI取締役執行役員粕谷昌宏に今回の能動義手の優勝についてインタヴューする機会があった。

「今回のレースでは、主にグー/パー動作による日常生活の基礎的なタスクの成功率が勝敗を左右した。能動義手は日常生活タスクに長い研究の歴史をもつからこそ、優勝を手にしたのではないか。また、『メルティンMMI』の義手の長所は繊細な動きによる自然なジェスチャーができること。次回のサイバスロンではそうした部分も評価してくれることを期待する」(粕谷)

そこに境目はなかった

『WIRED』日本版は、サイバスロンが開催される数日前から現地に入り、参加チームに密着した取材を行っていた。そのひとつが「強化外骨格レース」にエントリーしていたアメリカのチーム「IHMC」だ。

強化外骨格レースでは、パイロットは自らの脚にロボットの脚「エクソスケルトン」を装着し、タスクの達成ポイントと時間を競い合う。タスクでは、ドアを開けて通過する、コース上の予め決められた場所のみに足を置いて歩く、階段を昇って降りるといった、日常生活に必要とされる歩行能力が試される。                                                                
イメージ 8
サイバスロンの主催であるETHZ(スイス連邦工科大学チューリッヒ校)から「強化外骨格レース」に参加した「VARILEG」。研究者と学生で混成されるチームだ

エクソスケルトンは「パワードスーツ」の一種であり、いわば人工の筋肉だ。内部のモータなどを動力源としたアクチュエーター(エネルギーを動きに変える駆動装置)によって、使用者の身体機能を補強・拡張する。パイロットは下半身に麻痺があり、日常では一歩も歩くことはできない。

パイロットのマーク・ダニエルは、試合の2日前、滞在先のホテルのロビーで、突然のインタヴューオファーにも気さくに応じてくれた(『WIRED』日本版では12月10日発売予定のVOL.26にて「IHMC」の密着レポートなどをお伝えする)。

「サイバスロンには、2つの側面がある。1つは、身体の不自由な人々が求めているテクノロジーの開発に、人々の関心を惹きつけることのできるコンペティション。ぼくたちが戦い、勝ち負けが決まることで観客は興奮を覚える。人が興奮を覚えればそれはエンターテインメントになる。するとぼくらをサポートしてくれる出資者も現れ、開発が活発化することが期待できる。もう1つは、チーム同士の交流の場。ほかのチームのテクノロジーを知り、自分のテクノロジーを教えることで、障害者を支援するマシンは次のレヴェルに行くことができる」(ダニエル)                                                         
イメージ 9
米国から参加した「IHMC」のパイロット、マーク・ダニエル。「IHMC」は強化型義足レースで準優勝を果たした。

「ぼくはサイバスロンがスポーツとテクノロジーにとってのアイスブレイクになることを願っている」ともダニエルは話してくれた。サイバスロンのパイロットはみな、こうした気持ちで競技に参加している。優劣を競うアスリートであり、最初のサイバスロンをつくってゆくイノヴェイター。彼らについて説明するために、もはやそれ以外の言葉は必要ない。

先述のメルティンMMIのパイロットである前田和哉は、サイバスロンが、いわゆる「障害者スポーツ」という枠組みを壊し、まったく新しい時代をつくろうとしていることに期待を抱いているという。

「観客のみなさんが、障害者という目ではなく、競技として見てくれていることを、歓声に包み込まれて感じました。面白ければ賞賛するという、スポーツとしてとても自然なことが実現されていると感じました。とても気持ちよくレースに臨めましたね」(前田)

サイバスロンに、障害者と健常者の区別はなかった。観客も参加者もみな、眼前で繰り広げられるスポーツに熱中し、いまつくられつつあるサイバスロンの歴史に興奮していたのだ。

IHMCは決勝戦でドイツのチーム「ReWalk」と激戦を繰り広げ、準優勝を果たした。その試合の直後、控室で他のチームとの交流を行いながら、ダニエルは「これは始まりにすぎない」と何度も語っていた。

次回のサイバスロンは2020年。東京オリンピックと同時に日本で開催されると噂されている。


わかやま845 サイバスロン ロボット車いす


第1回サイバスロン熱闘 身障者とロボ技術開発者が一丸に
【スイス便利ノート】2016-10-10 17:11大野瑠衣子

スイスのチューリヒで8日に開催された国際競技大会「サイバスロン」には、ロボット工学の研究者やベンチャー企業など、世界25カ国から70以上のチームが参加。選手と開発チームが一丸となり、それぞれが開発した身体障害者のための補助器具の性能を競った。参加した7つのスイスのチームのうち、脳コンピュータインタフェースレース部門で「ブレイン・トゥイーカーズ(Brain Tweakers)」が、電動車いす部門では「HSR・エンハンスド(HSR Enhanced)」がそれぞれ優勝し、FESバイク部門では「IRPT/SPZ」が3位に入賞した。                   
 観客席から「わあっ」と歓声が起こった。強化義手部門のレースで、米国選手でパイロットとよばれるロバート・ラドシーさんが、電気スタンドに電球をくるくると手早く付けた瞬間だった。彼の義手は、人の手の形に似せようとした従来の義手とは異なり、白と青でデザインされた、美しいカーブを描くフック型の義手だ。
 ロバートさんは手元を慎重に見つめ、確実に課題をこなしていく。缶詰を開け、砂糖を包み紙から取り出し、パンを厚さ2センチにスライスした次の課題は、洗濯干しだ。会場の観客も、大スクリーンに映し出されたロバートさんの義手が動くようすを一心に見つめている。                                 
 固唾を呑んで見守るのは、ロバートさんの義手を開発したチームも同じだ。時に声を掛け、大スクリーンを見つめながら競技の様子を追っている。最後の課題である日常生活用品が入った箱を持ち運び終え、ロバートさんがゴールし優勝が決まると、会場の歓声がさらに大きさを増し、割れんばかりの拍手がスタンド中に響いた。
 「簡単に課題をこなしているように見えましたが、実際はどうでしたか」との優勝インタビューの問いに、ロバートさんは少しはにかみながらこう答えた。「もちろん、簡単でしたよ」

 スイスは、脳コンピュータインタフェースレース部門と電動車いす部門で優勝し、FESバイク部門は3位に入賞するという目覚しい活躍ぶりだった。日本からは3チームが強化義手、強化義足、電動車いす、FESバイクの4部門に出場し、和歌山大の中嶋秀朗教授によるチームは電動車いすレース部門で4位と健闘した。                                                    
ロボット技術開発の発展、心と身体の「バリアフリー」を目指して           
 同大会を企画したスイス連邦工科大学チューリヒ校のロバート・リーナー教授は、「6千枚以上あった観戦チケットは大会前に完売したが、資金集めやルール設定など開催までには苦労がたくさんあった」という。また、今回のサイバスロンをただの競技会にはしたくなかったと話す。「同大会の開催を通して、身体障害者の補助器具に応用できるロボット技術をさらに発展させ、開発研究者たちのネットワークが広がる場所を提供したい。またこのような機会によって人々の心の『バリア』もなくなれば」。大会前には出場者の交流会を開催し、会場の入り口には最先端ロボット技術や補助装具の歴史を紹介するブースを用意した。大会当日、ブースのまわりには来場者の人だかりができた。

プレッシャーを乗り越え健闘するパイロットたち                                 8日に開催された第1回「サイバスロン」のようす。ビデオは大会中にオンライン配信された内容のハイライト。(SRF)

 「とにかく面白そうで観に来た」と話すフィリックス・タウブナーさんとマルコ・ビューレさんは、共に連邦工科大学チューリヒ校で機械工学を学ぶ大学2年生だ。「次の学年になれば大学の『フォーカス・プロジェクト』に参加できる。そこでサイバスロンに出場できるようなロボット技術にも取り組んでみたい」と話す。

惹き付けられるパイロットたちの圧倒的な熱意

 レース会場では、観客席から歓声が上がっていた。電動車いすレース部門の決勝で、パイロットたちが最後の課題に差し掛かったところだった。机を動かさないよう、いすを上げ下げし、スラロームを進み、スロープを上がってドアを開閉し、でこぼこ道や傾斜のついた道を進むという課題を乗り越えてきたパイロットたちが、3段の階段を登降するという最終課題に取り組む。パイロットたちはそれぞれ真剣な表情で、電動車いすを操作するためのコントロールパネルを手に握る。転倒の危険をはらむため、パイロットの横には2~3人の補助が付いている。
 「キュイーン、キュイーン」。電動車いすに乗ったパイロットたちが進む速度は、実にゆっくりだ。コントロールパネルの操作に手惑い、じっと止まってしまう場面も多い。オリンピックやパラリンピック競技と比べれば、躍動感に欠けると言える。しかし、そんなことなど忘れてしまう圧倒的な熱意が、パイロットたちにはみなぎる。観客も緊張気味にレースを見守っている。ひとりのパイロットが最後の階段を降り切ると、「やった!」と大きな声が一斉に上がった。

パイロットたちのプレッシャー

 しかし、時には課題をうまく達成できず、悔し涙を流すパイロットもいたようだ。FESバイク部門で1位になったマーク・ムーンさんもまた、「ミスをしてチームを落胆させないようにするプレッシャーがあった」と優勝インタビューで話した。
 今大会ではモチベーション・コーチとしてパイロットたちをサポートしたリューディガー・ビョーンさんは、観客席で競技を見守った。自身も事故で両足を無くしたというビョーンさんは、パイロットたちについて、「試合前のパイロットたちの目を見たんだ。本当にきらきらと輝いていた。それからそれを見守る観客の目も見てみた。同じようにきらきらと輝いていた。すごいことじゃないか」と讃えた。

 リーナー教授は、「全てのチームが優勝できる可能性を持っていた」と全チームの健闘を称え、出場した日本のチームについては「すばらしいロボット技術を開発した。最先端のテクノロジーを駆使し、動作もしっかりとしている。もちろん新しい技術ゆえ、まだ修正していかなければならない箇所はいくつかあるが」と今後の発展への期待を述べた。また、大会中については「日本チームは応援団から『ニッポン』コールが起こりとてもアクティブな印象を受けた」と語った。

 「開発研究者同士の交流によって、新しいコラボレーションも始動した。今後は身体障害者が必要としている本当の補助器具の開発に尽力したい。また、サイバスロンは引き続き開催する予定だ。スイスだけでなく、ほかの国でも開催を考えている。既にドバイや韓国などから開催のオファーが来た。日本も開催地候補として検討している」


古くは「600万ドルの男」「サイボーグ009」現代においては「攻殻機動隊」で活躍した、サイボーグもしくは義体(化)がかなり現実のものとなってきた。「ブレードランナー

2012年ロンドン・パラリンピック陸上男子走り幅跳び覇者で「ブレード・ジャンパー」の異名を持つマルクス・レーム(27)選手=ドイツ=は2月、英国での国際競技会で健常者を抑えて優勝を果し、リオパラリンピックにおいてパラリンピック男子1500m(視覚障害)、4人がオリンピック金メダル記録を超える記録を作った。

卓球や、アーチェリーなどはパラリンピックとオリンピック両方に出場する選手が出始めた。

最近では、障碍者と健常者の差は縮まる一方である。将来的にはサイバスロン大会の出場者が技術の発達で、オリンピック記録を上回る可能性もあるだろう。
電脳や義体といった表現が説明不要で受け入れられるようになった現在、サイバスロン大会は、フィクションがリアルに変わる大きな原動力になるかもしれません。

小型のモーターなどを搭載し動作をサポートするバイオニック義肢・義足を使うアスリートが100m走タイムがウサインボルト記録を遠からず超えるだろうし、2020年の東京パラリンピックではオリンピックの選手を超える記録を出す義足が出現するかもしれません。それがもっと進んで義体化が日常になった時、我々の身体に対する考え方はどう変わるのだろうか?

2020年サイバスロン大会が東京で開かれることを期待したい。そして、オリンピック、パラリンピックと融合していくことも期待したい。





    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


イメージ 4

イメージ 3

熱戦を繰り広げた
リオデジャネイロオリンピック2016は、間もなく閉会する。
私も御多分に漏れず、朝目覚めたら、今日は日本がメダルを獲得しているか確認するのが何よりも楽しかった。

しかも、内容が逆転に次ぐ逆転、見応えのある充実した大会であった!

日本はメダル41個も獲得できて、本当に良かった!メダルには至らなかったが世界の印象に残る大金星も競技でも競技以外でも日本は獲得した!

テロも起きず、当初わたしが抱いていた期待よりも大きな感動ドラマを次々に観ることができた。さすが4年に一度の人類最大、最高のスポーツの祭典である。

1.難民選手団が結成されたことが何といっても印象的だった。
イメージ 1


日本にいると、肌で感じることの少ない難民問題であるが、2015年9月、海岸に打ち上げられ横たわるシリア難民の男児写真を見た時は、心が張り裂けそうになったが、その後私はまた無関心になっていた。だが、リオ五輪で再び難民問題を考えさせられた。

米ソ冷戦が集結して20年、米国の一極集中によるポスト冷戦は、愚かな米国オバマ大統領によるの世界警察官辞職宣言によってポスト冷戦期と言う米国一極集中による平和な時代は終焉を迎えた。

今、世界は秩序なき世界になりつつある。ISやボコハラムなど暴力集団の発生と増殖し、既存世界秩序を無視する暴力集団から逃れる大変な数の難民が発生したのである。

増えすぎた人類は狭い地球で行き場を失くしている。愚かなドイツのメルケル首相は、EU周辺諸国の国情も考えずエゴイスティックにきれいごとで難民受け入れを表明した。もはや難民問題は博愛精神で簡単に片づけられる問題ではなくなった。

気の毒な難民を支援するということは、呑気に暮らす我々がその平和を手放す覚悟がない限り安易に支援すべきではない。狭い地球で、非難民である先進国の市民がその平和を犠牲にせず、気の毒な難民を救うことができるだろうか?先進国の市民が平等に貧しく悲劇を背負って生きる覚悟を持てるか否かである。

先進国と言われえる欧州も日本も、中世から近代を実現させる為に、血で血を洗う内戦(シビルウォ-)を経験して、近代社会を建設してきたのだ。中東やアフリカは真の近代社会を実現させる為に、血を血で洗うシビルウォーの真っ最中であるという考え方も成り立つ。近代技術によって移動手段があるからこそ難民という問題が発生してしまったのかもしれない。

大変なお叱りを受けるかもしれないが、難民は、自国に留まって内戦(シビルウォ-)を経験しなければ、真の難民問題は解決しないのではないか?とも考えてしまう。

難民選手団は、どこか春の甲子園の21世紀枠のような、匂いがする。オリンピックに努力を重ねたにもかかわらず出場できなかったアスリートに対して失礼な気もするが、日々生きることすら大変な努力が必要な難民アスリート、その努力にも敬意を払わなくてはならないことを考えると、否定もできない。

リオの難民選手団は、難民問題を敢えて無視している私が、とんでもない人でなしであることを自覚させてしまった。生活に余裕がない先進国中流市民にとって、なんと迷惑なことか・・・私は心の余裕がない貧しい人間であると改めて自覚した。

2.組織的ドーピングで多数のロシア選手が出場できず
戦後の近代オリンピックは私が物心がついた頃ソ連や東ドイツは圧倒的な強さを誇っていた。ロシアになり、東西ドイツが統一された後も強さを維持していた。
それがドーピングの力に因るならば、恥ずべき行為であると思う。

だが、大会目前に出場を拒んだIOCの決定には些か納得がいかない。ロンドン五輪以降ドーピングをしていた選手は当然出場停止となっても仕方がないだろう。だがなぜ、パラリンピック選手まで出場停止には納得がいかない。パラリンピック選手がどうドーピングをしているかの納得のいく説明がない。例えばパラリンピック選手が腕の筋肉に筋肉増強剤を使ったとしても・・・ドーピングなのか?リハビリや治療の一環なのか・・・区別がつくのか?私は些か出場できなかったロシア選手に同情してしまう。

しかし、現代科学はips細胞など、神の領域に踏み込んでいる。
米国のDARPA国防高等研究計画局サイボーグ兵士の開発に着手している。
ドーピング問題をここで止めなければ、やがてアスリートの遺伝子を操作するサイボーグ選手が出現するのも時間の問題かもしれない。ショッカーの改造人間ではないのだから、ドーピング問題は多少強権的かもしれないがここで遮断しなくてはならない。

3.日本.競泳陣の活躍メダルラッシュ!
競泳・女子200m平泳ぎ金藤選手の金メダル、男子400m個人メドレー荻野選手の金と瀬戸選手の銅 男子200m個人メドレーでも荻野選手の銀、男子200mバタフライ坂井選手の銀、女子200mバタフライ星選手の銅、何といっても男子800mの52年ぶりの銅メダル水泳日本!東京では幾つメダルを取るのか!素晴らしかった。


4.陸上男子400mリレーウサインボルトに迫った韋駄天日本の銀メダル
奇跡のバトンリレーに世界が興奮した

第一走者山県亮太選手、 第二走者飯塚翔太選手 第三走者桐生祥秀選手 アンカー ケンブリッジ飛鳥選手は掛け値なしに速かった。賛辞にを語る言葉は幾つあっても足りはしない。通称「4継」、陸上男子400メートルリレーで日本が銀メダルを手にした。前を行ったのは短距離3冠のボルト選手が率いるジャマイカだけで、37秒60はアジア新記録の快事である。

日本のバトンパスが世界から称賛されている。研究と練習を重ねて無駄を排したバトンパスは、〈人類最速〉のボルト選手を脱帽させたという。未到の領域とはいえ、日本人ランナーが100メートルを9秒台で駆け抜ける日もそう遠くはあるまい。4年後の東京五輪が楽しみだ。

大げさであれ何であれ、賛美の言葉は惜しまない。

5.羽根田卓也、カヌーで日本初アジア人初の銅メダル!
日本ではマイナー競技のカヌー、アジア人初のメダリストとなった羽田選手はすごい。高校卒業後、単身スロバキアに渡って競技を続け、初出場の2008年北京で14位、2012年のロンドンでは7位に入賞した。3度目のオリンピックで悲願のメダルに輝いた 単身スロバキアにカヌーの為に渡り、結果を出したのだから凄い。
野球の野茂選手とか、サッカーの奥村選手、三浦選手、単身海外の強国へ乗り込み武者修行に飛び込んだ武者としてカヌーの羽田選手は同列である。何事もパイオニアは尊敬に値する。

6.逆転でつかんだ体操男子団体12年ぶり金、レジェンドとなる内村選手の逆転個人総合2連覇!男子種目別跳馬白井選手の銅!
団体の金メダル、個人総合の白井選手2連覇、感動した!

でもなー欲を言えば、種目別でもう少しメダルを期待していたのに白井選手の跳馬だけに留まり、残念だった。

7.ラグビー男子が強豪NZ破る、Wカップ再来のジャイアントキリング!

ベスト4にメダルが無いのが残念・・・金星連発の大活躍に興奮しました。

8.柔道・ベイカー選手、田知本選手が金メダル。メダルの宿命を背負う日本柔道選手たちの活躍




9.卓球女子団体が独との熱戦の末に敗れるが、銅メダルは分解すると金と同じ!


10.男子卓球団体銀、水谷選手の個人銅メダル。卓球日本の復活!


【高画質動画】リオ五輪・卓球)水谷選手!銅メダル!現地時間2016年8月11日

11.テニス錦織が銅、日本人選手のメダル獲得は96年ぶり

12バドミントン女子、高橋・松友組が金メダルシングルス奥村選手の銅


13レスリング女子が4階級で金メダル、伊調が4連覇達成
14レスリング吉田4連覇ならず、涙の銀メダル

15.男子レスリングも復活のグレコローマン男子59kg級太田選手、フリースタイル男子57kg級の樋口選手の銀メダル


16.シンクロペアと団体銅メダル。井村ジャパン!


17.陸上男子50km競歩の荒井選手のデットヒートは手に汗を握った!勝てて良かった初の銅メダルそして4位のカナダ選手のフェアプレイ精神にアスリート精神を感じた。
「3時間半レースの疲労を知る人は少ない。接触はよくあること。彼が故意だったとは思えない」
「CASへ抗議することもできたけど、これ以上続けることは誠実だとももふさわしいことだとも思えなかった」
「荒井も同じく苦しんでた。彼が僕の肩にかすったけど、僕はアグレッシブに歩くから、もしかしたら彼のほうへ近寄ったのかもしれない。ビデオを見てみても、彼がわざとだとは思えなかった」
「自分自身に問いかけたんだ。このメダルを受け取って誇れるだろうか。夜眠ることはできるだろうか。そして決めた。レースにはすごく誇りを持ってる。彼の結果を奪い去ることなんてできないよ」

18.予選敗退した男子サッカーだったが、惜しかった。それより緒戦日本の相手国、窮状のナイジェリア選手団を救った高須クリニック医院長が金メダルだった!
美容外科「高須クリニック」の高須克弥院長は21日、リオデジャネイロ五輪サッカー男子で銅メダルを獲得したナイジェリア代表チームに、支援金とボーナスとして計39万ドル(約3900万円)を手渡した。高須氏は、資金難からさまざまな問題に直面した同代表チームへの金銭的支援を表明し、直接手渡すために現地を訪れていた。

同代表チームは大会第16日の20日(日本時間21日)、高須氏の太っ腹に勇気づけられたのか、3位決定戦でホンジュラスを下し、ナイジェリアにとって今大会で初めてとなるメダルを獲得。スタジアムで観戦した高須氏は試合後、自身のツイッターで、シアシア監督とミケル主将に支援金20万ドル(約2000万円)と選手19人への銅メダルボーナス19万円ドル(約1900万円)の小切手を手渡す写真を公開した。

また、銅メダルを手にするミケルと満面の笑顔で収まったツーショットや、高須氏の演説に耳を傾ける選手たち、上機嫌な同国のスポーツ相の写真も掲載している。

同代表チームをめぐっては、給料の支払いが遅れたり移動費を選手が立て替えるなどの問題が起き、準々決勝前にはボイコット騒動が発生。ナイジェリアのファンだという高須氏はツイッターで「本当に気の毒だ」とし、20万ドルの寄付とメダル獲得時のボーナスを支払うと表明。19日、リオへと飛び立った。

ナイジェリア国内からは高須氏に対し、「ナイジェリアへの愛を示してくれてありがとう。イエス・キリストの名において天国へ召されることでしょう」「ドリームチームへのあなたの愛に感謝します」といったメッセージが寄せられている。

(五輪速報班)

19.重量挙げの三宅選手の銅も賞賛に値する。

20.メダルに一歩及ばなかったが、女子バレーと女子バスケット、女子ラクビ―どれも女子球技は見ごたえがあった。



21.女子ゴルフの野村選手は惜しかった!

22フェンシング太田、初戦敗退・・・剣道がオリンピック種目なら・・・空手はどうせやるなら、種目として極真空手方式の直接打撃種目も設けるべきだろう。

競泳・フェルプス(米)が五輪通算23個の金メダル獲得し引退

伝説のボルト、陸上100mなどで3連覇達成

流れ弾、緑色のプール、テレビカメラ落下…会場めぐるトラブル相次いだが、予想を覆しての大成功だった。


リオ五輪で最も記憶に残った出来事は数多くの逆転劇だっただろう。大切なのは
諦めない気持ちだと我々に伝わったような気がします。

一番逆転したのは、事前の悪評から成功したリオオリンピックだったかもしれない。

追記
ふがいない日本マラソン陣であったが、最後の最後にカンボジア代表元日本人芸人
「猫ひろし」が139位で完走した!なんと客席から「カンボジアコール」が巻き起こり、サインまで求められる人気!ゴール地点のブラジル人を盛り上げる金星をあげた。


客席から起こるカンボジアコールに、「にゃー!」とお決まりのギャグで応えた。
その直後、猫ひろしのもとには写真やサインを求める人々が殺到!
まさかの人気ぶりに、Twitterブラジルで売れた!と呟いている。
ゴール後、客席から『カンボジアコール』がきたので、これでもかって位盛り上げたら、終わった後まさかの大人気でサイン会。ブラジルで売れた!」

イメージ 5
イメージ 7




38歳、身長151cmの芸人猫ひろしのベストタイムは2時間31分58秒日本統治時代の朝鮮出身の日本の男子マラソン選手 孫 基禎(そん きてい、ソン・ギジョン、1912年8月29日 - 2002年11月15日)選手が1936年のベルリンオリンピックで、アジアの選手として初めてマラソンで金メダルを獲得した時のタイムは2時間29分19秒。
ベルリンオリンピックであればメダル圏内の実力である。

芸人ごときと侮蔑する話ではなく、立派なアスリートとして、五輪に出場した元日本人として、尊敬すべき話だったと思う。


リオ閉会式の安倍マリオの海外反応は大好評のようだ!




絶賛である!
閉会式安倍首相は最高だったが、旗を受け取る都知事が和服の小池知事で絵になった!もしチャイナ服の舛添だったら最低だったかも(笑)舛添じゃなくって本当によかった!私も世界中の人たちと同じく4年後を期待しようと思う。

小池知事 頑張って下さい!




韓国・中国の金メダル激減の理由 ビデオ判定で八百長困難に
【世界のニュース トトメス5世】2016年08月18日17:00

ロンドン五輪で海老沼は審判買収で敗れたが、買収されなかった審判が異議を唱え判定は覆った。
この事件がおそらく八百長試合撤廃の転機になった。                                                                  
イメージ 8
          http://blog-imgs-53.fc2.com/t/o/r/toriton/judo48560e50.jpg

リオ五輪で驚くべき事態が起きていて、それは審判の誤審がいつもよりとても少ないことです。

過去の誤審が実は審判買収であり、わざとやっていたのは明らかでした。


常勝国家に異変

書いている時点でリオ五輪も残り3日ほどになったが、今回は各国のメダル獲得数に大きな変動が起きている。

目に見えて減少したのがロシア、韓国、中国の東側(?)3カ国で、それぞれかなり酷い。

まずロシアはソチ五輪の組織的ドーピングで多くの選手が出場禁止になり、メダル数も激減しました。
2012年ロンドンでは金24個、合計81個だったが、今回は残り3日の時点で金6、合計14と4分の1ほどに止まっている。

次に惨敗ペースなのが中国で、ロンドンでは金38個、合計88個だったのが、今回は金17個、合計34個に止まっている。

中国は出場禁止こそ受けなかったが、80年代から90年代にかけて「無敵の馬軍団」と呼ばれた陸上などで、組織ドーピングの内部告発があった。


つまり今までばれていなかっただけで、やっている事はロシアと同じだったのでした。

そもそも中国の五輪メダルは不自然で、それまでゼロだったのが、1984年ロサンゼルスから爆発的に勝ち始めました。

中国が勝っているほとんど全ての種目で、国家ドーピングが疑われています。


3つ目が韓国で、2012年ロンドンでは金13合計28だったが、今回は残り3日で金6、合計14個に止まっています。

旧ソ連を起源とするドーピングは東側(共産国側)で盛んだったが、比較すると西側では少なかった。

西側が良心的なのではなく、国家が強権を持つ共産国に対して、民主主義国ではやりにくかったからでした。



買収と八百長で得たメダル

代わりに韓国が精を出したのが審判の買収で、審判が得点を決める競技では無敵と言えるほど強いです。

代表選手が冬季五輪のフィギュアスケートのキムヨナで、現役時代ほとんど負けたことがありませんでした。

その勝ち方は不自然で、転倒しても最高得点、ジャンプに失敗しても最高得点を連発していました。


フィギュアスケートは他の競技と違い、協会が秘密主義で役員の名簿すら公表されていません。

そして審判の選出方法もまったくの謎で、誰が決定しているのかも非公開です。

そしてキムヨナがメダルを獲得した全ての大会では、キムヨナのコーチが審判をしていました。


日本柔道の監督は井上康生で、井上が日本選手が出場する試合で審判をやって手心を加えたら、全員金メダルを取れますが、そういう事でした。

キムヨナが何度転倒しても最高得点だったのは、キムヨナの元コーチが必ず最高得点を入れ、他の審判にも高得点を強要していたからです。

2012年ロンドン五輪は韓国がらみの不自然な判定が特に多く、サッカー、柔道、フェンシングなどほぼ全ての競技で「韓国がらみのおかしな事件」がおきていました。


最悪だったのが日本の海老沼とチョ・ジュンホとの試合で、海老沼が勝ったのに審判が取り消して韓国選手が勝ちました。

柔道では世界的に有名な「日本を絶対に勝たせない審判グループ」が存在し、海老沼はその連中に当たったのでした。

韓国が過去に獲得した判定がらみのメダルは、全てがこうした不正、八百長によって手に入れたものです。


キムヨナが金メダルを取った全ての演技で、キムヨナの元コーチが審判をしていた。
原辰則が巨人の試合で必ず主審をするようなもの。                  
イメージ 9
http://rr.img.naver.jp/mig?src=http%3A%2F%2Fimgcc.naver.jp%2Fkaze%2Fmission%2FUSER%2F20140205%2F11%2F1209751%2F8%2F247x331xcd5ab15285b45e0893c71a79.jpg%2F300%2F600&twidth=300&theight=600&qlt=80&res_format=jpg&op=r
                                                   増えた日英

ところが今回IOCは八百長禁止のためビデオ判定を導入し、相手が異議を唱えるとビデオ審査する事にしました。

「韓国による八百長を防止する為」とは言っていませんが、そうである事は誰の目にも明らかです。

この結果韓国は今回の五輪で、審判が判定する競技で全く勝てなくなり、柔道では金メダルゼロに終わりました。


6個の金メダルのうち5個はアーチェリーと射撃で、審判が関係する種目ではフェンシングだけでした。

過去に韓国選手はサッカーで相手選手の顔面を蹴飛ばしたり、柔道で殴る蹴るの反則をしましたが、審判を買収していたので一度も咎められませんでした。

例え試合で負けても海老沼のように無効を宣言して、試合結果をひっくり返していました。


IOCでは誤審防止のためと言っているが、誤審とは買収の事であり、買収は西側諸国のお家芸です。

最近欧州や南米ではサッカーの八百長や買収が次々に発覚し、全ての欧州プロチームが過去に八百長をやっていたのが分かりました。

サッカー日本代表監督のアギーレも八百長試合で解任され、有名選手の大半も八百長に関与したといわれています。


不正撲滅でメダルを減らしたのはロシア、中国、韓国でしたが、メダルを増やしたのはイギリス、日本でした。

アメリカは前回金46個、合計104個で今回は金28個、合計86個になり、金は減りそうだが合計では同じくらいでしょう。

ドイツは前回金11合計44だったが、今回は金11、合計28とメダル数を大きく減らしそうです。


因みにドイツは「ドーピング超大国」東ドイツと合併した1992年大会では82個もメダルを取っていて、大半がドーピングによる成果だと思われます。

その後ドイツのメダル数は大会の度に減少し、今回は30個台に止まるでしょう。

日本は今回、過去最高のメダル獲得ペースで、どの国が八百長や審判買収、ドーピングでメダルを得ていたのかが推測できます。



    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック




コクリコ坂からをはじめて観た・・・あまりに画もストリーも素晴らしくて録画をしてもう2度も観てしまった!世間の宮崎吾郎評は間違っているような気がする。

宮崎吾郎は宮崎駿の息子であるが、駿ではない。吾郎作品を悪く言う人がいるが、私はこの作品は傑作だと思う。確かに同じ青春恋愛アニメ「耳をすませば」は大傑作ではあるが、それに劣らないくらい傑作だと思う。

私が生まれた昭和38年の物語、横浜を舞台とした高校生の青春恋愛物語。

出生の秘密を縦糸に、戦後から高度経済成長期を背景として描き、経済大国へ向かった東京オリンピック前の生き生きと活力にあふれる懐かしい日本が舞台が織り込まれている。生きるのがのが難しく、みんなが下を向いている今、上を向いていたあの頃を思い出させる秀作だと思います。

イメージ 3
イメージ 14

文化部の部室が集まる、明治の終わりに建った文化財のような洋館カルチャラタン。物語は、そのカルチェラタン解体反対運動の先頭を走る、週刊カルチェラタン編集長”風間俊”が、建物の屋根から抗議の飛び降りから始まる。

カルチェラタンは、そこに部室を持つ文化部のヲタクの住人が好き放題に使い、無秩序に荒れ果てていた。

昭和38年、当時は翌年の東京オリンピックに備え、古い建物を次々に壊し、新しい近代ビルに建て直すのが当たり前の、高度成長時代の日本であった。

イメージ 32

イメージ 42
自分も明治の古い洋館に住むヒロイン
”メル”こと”松崎海”は、妹の松崎空が、抗議事件で一躍ヒーローとなった風間俊のサインが欲しいというので、カルチェラタンを訪れることになった。

カルチェラタンが気に入ったメルは、駿に大掃除をすることを提案する。

イメージ 43

イメージ 44

イメージ 33

大掃除を機に惹かれあう二人・・・・いやいや筆者(Ddog)から見れば、駿は初めからメルを口説きたくてしかたがなかったと思う。週刊カルチェラタンに詩を書いたり、毎日メルが昼ご飯を食べるであろうテーブルの前に飛びこむなど、色気ついた男子高校生なら、その位の計画は平気で企てる。

週刊カルチェラタンの詩は、確かに吉野君が言うように、大海に投げ入れたボトルだった。が、見事メルの心に届いた!愛の奇跡の始まりだ!

                                                  少女よ 君は旗をあげる
なぜ
朝風に想いをたくして
よびかける彼方
気まぐれなカラスたちを相手に
少女よ今日も紅と白も
紺に囲まれた色の
旗は翻る                                                  
―――― 風 ――――                              
イメージ 47
                                             

イメージ 17
この場面ななど恋する高校生男子の基本行動だ、好きな女子の家の前を自転車でわざわざ通っていた・・・・

その甲斐あって、徐々に憑かれ合うふたりに、ある試練が襲いかかる。



Studio Ghibli - La colline aux coquelicots (Kokuriko Zaka Kara) - Bande annonce JAP [VO|SD] 

イメージ 24

イメージ 18
突然態度が変わった駿に対し雨の中待っていた”メル”が切りだす

「嫌いになったのなら、はっきりそう言って」

何も言わず、一枚の写真を胸ポケットから取り出す”駿”。

その写真は、メル(海)が駿を自宅に招いた時に見せた父親の写真と同じ写真であった。
「え」!驚くメル
駿が語りだす「澤村雄一郎、俺の本当の親父」
メル「え?」
駿「まるで安っぽいメロドラマだ」
メル「どういうこと」
駿「俺たちは兄妹ってことだ」
メル「どうすればいいの?」
駿「どうしようもないさ、知らん顔するしか・・・・今まで通り、ただの友達だ」
一瞬抱き寄せる素振りをみせて別れる駿
メル「あっ!」
そして走り去る駿・・・

何度見ても心打たれ、些細な動き表情に、二人の心情がアニメなのに、生身の名優が演じるよりも私には二人の心の葛藤を感じさせ、伝わるものがあった!

自分たちは兄妹かもしれない。
それでも、ふたりは現実から逃げずにまっすぐに進んだ。

イメージ 13
『コクリコ坂から』の「コクリコ」はフランス語で「ヒナゲシ」の意味、劇中で父親の写真の脇の花瓶になにげなく挿してあった。

ヒナゲシの花言葉は 慰め、いたわり、思いやり。

ここに原作者が言いたかった「コクリコ」の花言葉「思いやり」「いたわり」が生きてくる。

江戸時代、近松門左衛門であれば、まちがいなく心中ものとなっていたろう。
原作は1980年の少女マンガ、昭和50年代出生の秘密にあ関わるTVドラマ山口百恵の赤いシリーズがヒットしていたせいもあったが、原作では、ハッピーエンドにはならず、兄妹決定であった。バブルが始まる1980年代初頭、出生の秘密では少々古臭くなっていたせいもあり、話が行き詰ってしままい、平凡な少女漫画として忘れ去られていた。

イメージ 19

10年ほど前、一時的に人気があったとされる韓流ドラマであれば、安っぽいメロドラマでも受け入れられていたかもしれえないが、2011年のこの作品は兄妹ではないと確認できて、
ハッピーエンドとなり、本当に良かったと思う。

公開された2011年、民主党政権下、際限のない不況が続き、世の中は閉塞感が高まり、追い打ちを掛けるような東日本大震災・福島原発事故。

下を向く俯いた時代に、オリンピックを前にした誰でも上を向いたあの時代、明るい未来を信じている時代を描くのだから、ハッピーエンドにしなくてどうする?

宮崎駿、吾郎親子は前作のゲド戦記で不評だった掟破りの原作無視のストリー変更を再びやってのけた!

イメージ 12
結果は大成功だったと私は思う。

右の画像は、原作漫画で、そこにはカルチェラタンなど登場しないそうだ!

原作者と漫画家が洗練できなかったストリーを見事に傑作な手直しをした宮崎駿・宮崎吾郎親子は今回は勝負に勝った!

まるで、最近人気のTV番組プレバト!!で、駄作の俳句をちょっと手直ししただけで、名句に変えてしまう
夏井いつき先生を彷彿します。

イメージ 45
・・・正確にはプレバトの夏井先生の手直しがコクリコ坂の手直しをした宮崎駿親子を彷彿させるのか・・・





イメージ 1
1980年頃『なかよし』に連載され不発に終った作品である(その意味で「耳をすませば」に似ている)。高校生の純愛・出生の秘密ものであるが、明らかに70年の経験を引きずる原作者(男性である)の存在を感じさせ、学園紛争と大衆蔑視が敷き込まれている。少女マンガの制約を知りつつ挑戦したともいえるだろう。

結果的に失敗作に終った最大の理由は、少女マンガが構造的に社会や風景、時間と空間を築かずに、心象風景の描写に終始するからである。

少女マンガは映画になり得るか。その課題が後に「耳をすませば」の企画となった。「コクリコ坂から」も映画化可能の目途が立ったが、時代的制約で断念した。学園闘争が風化しつつも記憶に遺っていた時代には、いかにも時代おくれの感が強かったからだ。

今はちがう。学園闘争はノスタルジーの中に溶け込んでいる。ちょっと昔の物語として作ることができる。

「コクリコ坂から」は、人を恋(こ)うる心を初々しく描くものである。少女も少年達も純潔にまっすぐでなければならぬ。異性への憧れと尊敬を失ってはならない。出生の秘密にもたじろがず自分達の力で切りぬけねばならない。それをてらわずに描きたい。

「となりのトトロ」は、1988年に1953年を想定して作られた。TVのない時代である。今日からは57年前の世界となる。                                                                    
イメージ 35

イメージ 37

「コクリコ坂から」は、1963年頃、オリンピックの前の年としたい。47年前の横浜が舞台となる。団塊の世代が現代っ子と呼ばれ始めた時代、その世代よりちょっと上の高校生達が主人公である。首都高はまだないが、交通地獄が叫ばれ道も電車もひしめき、公害で海や川は汚れた。1963年は東京都内からカワセミが姿を消し、学級の中で共通するアダ名が消えた時期でもある。貧乏だが希望だけがあった。
イメージ 36

 新しい時代の幕明けであり、何かが失われようとしている時代でもある。とはいえ、映画は時代を描くのではない。
イメージ 20

 女系家族の長女である主人公の海(うみ)は高校二年、父を海で亡くし仕事を持つ母親をたすけて、下宿人もふくめ6人の大世帯の面倒を見ている。対する少年達は新聞部の部長と生徒会の会長。ふたりは世間と大人に対して油断ならない身がまえをしている。ちょっと不良っぽくふるまい、海に素直なアプローチなんぞしない。硬派なのである。

原作は、かけマージャンの後始末とか、生徒手帖が担保とか、雑誌の枠ギリギリに話を現代っぽくしようとしているが、そんな無理は映画ですることはない。筋は変更可能である。学園紛争についても、火つけ役になってしまった自分達の責任を各々がはっきりケジメをつける。熱狂して暴走することはしない。何故なら彼等には、各々他人には言わない目標があり、その事において真摯だからである。

少年達が遠くを見つめているように、海もまた帰らぬ父を待って遠い水平線を見つめている。
イメージ 15

 横浜港を見下ろす丘の上の、古い屋敷の庭に毎日信号旗をあげつづけている海。 「U・W」旗――(安全な航行を祈る)である。

丘の下をよく通るタグボートのマストに返礼の旗があがる。忙しい一日が始まる朝の日課のようになっている。

ある朝、タグボートからちがう信号が上る。
イメージ 16

 「UWMER」そして返礼のペナント一旒(いちりゅう)。誰か自分の名前を知っている人が、あのタグボートに乗っている。MERはメール、フランス語で海のことである。海はおどろくが、たちまち朝の家事の大さわぎにまき込まれていく。
父の操るタグボートに便乗していた少年は、海が毎日、信号旗をあげていることを知っていた。
イメージ 21

 (ちょっとダブりますが)
舞台は、いまは姿を消した三島型の貨物船や、漁船、はしけ、ひき船が往来する海を見下ろす丘の上、まだ開発の手はのびていない。祖父の代まで病院だった建物に、和間の居住部分がくっついている。

学校も一考を要する。無機的なコンクリート校舎が既にいくらでもあった時代だが、絵を描くにはつまらない。登校路は、まだ舗装されていない道も残り、オート三輪やらひっかしいだトラックが砂埃(すなぼこり)をあげている。

が、ひとたび町へおりると、工事だらけの道路はひしめく車で渋滞し、木製の電柱やら無秩序な看板がひしめき、工場地帯のエントツからは盛大に黒煙、白煙、赤やらみどり(本当だった)の煙が吐き出されている。

大公害時代の幕がきっておとされ、一方で細民窟が存在する猛烈な経済成長期にある。横浜の一隅を舞台にすることで下界の有様がふたりの直面する世間となる。その世界を俊と海が道行をする。そこが最後のクライマックスだ。

出生の秘密については、いかにもマンネリな安直なモチーフなので慎重なとりあつかいが必要である。いかにして秘密を知ったか、その時ふたりはどう反応するか。
ふたりはまっすぐに進む。心中もしない、恋もあきらめない。真実を知ろうと、ふたりは自分の脚でたしかめに行く。

簡単ではない。そして戦争と戦後の混乱期の中で、ふたりの親達がどう出会い、愛し生きたかを知っていくのだ。昔の船乗り仲間や、特攻隊の戦友達も力になってくれるだろう。彼等は最大の敬意をふたりに払うだろう。

終章でふたりは父達の旧友の(俊の養父でもある)タグボートで帰途につく。海はその時はじめて、海の上から自分の住む古い洋館と、ひるがえる旗を見る。待ちつづけていた父と共に今こそ帰るのだ。そのかたわらにりりしい少年が立っている。

原作のエピソードを見ると、連載の初回と二回目位が一番生彩がある。その後の展開は、原作者にもマンガ家にも手にあまったようだ。

マンガ的に展開する必要はない。あちこちに散りばめられたコミック風のオチも切りすてる。時間の流れ、空間の描写にリアリティーを(クソていねいという意味ではない)。脇役の人々を、ギャグの為の配置にしてはいけない。

少年達にいかにもいそうな存在感がほしい。二枚目じゃなくていい。原作の生徒会会長なんか“ど”がつくマンネリだ。
イメージ 22
イメージ 23


少女の学校友達にも存在感を。ひきたて役にしてはいけない。海の祖母も母も、下宿人達も、それぞれクセはあるが共感できる人々にしたい。            
イメージ 34


観客が、自分にもそんな青春があったような気がして来たり、自分もそう生きたいとひかれるような映画になるといいと思う。




イメージ 2

宮崎駿から宮崎吾朗へのリレー

イメージ 4
今回、宮崎駿が作った<シナリオ>を宮崎吾朗監督が<絵コンテ>に起こしていった。出来上がった<絵コンテ>と<シナリオ>を比較すると変化があった。鈴木プロデューサーは「宮さんの作ったシナリオを、吾朗くんが"現実的なもの"にした」と言う。

大きな変化があったのは、海と俊の雨の帰宅シーン。「嫌いになったのならはっきりそう言って」「澤村雄一郎 俺の本当の親父」「えっ?」「まるで安っぽいメロドラマだ」「どういうこと……?」「俺たちは兄妹ってことだ……」「……どうすればいいの?」。この一連、脚本では「……」が書かれ、ふたりの会話に「間」「余韻」があった。しかし、吾朗監督は、余韻をカット。会話をテンポアップさせ、ふたりの気持ちをストレートにぶつけ合わせた。そのことにより、観客にふたりの会話がよりリアルなものとして届けられることになった。
 
ヒロイン・海のキャラクターについても宮崎駿と宮崎吾朗では、捉え方が少し違った。今回、宣伝ポスターを描いたのは宮崎駿。本編では出てこないストライプのエプロン姿の海をファンタジックに描いている。一方、吾朗監督は、「普通にいそうな女の子」として海を映画の中で演技づけしている。

さらに、絵コンテの段階で吾朗監督が追加したセリフがいくつかある。中でも印象的なのが、古い歴史ある校内の建物を壊すか保存するかについて生徒たちが討論するシーンの俊のセリフ。

「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?」「人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!?」「新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!」。吾朗監督がこの映画を作るにあたって「過去の中から、未来が生まれる」という思いを強くしたことが、このセリフに表れている。
宮崎駿から宮崎吾朗へ受け渡された「コクリコ坂から」は、新たなジブリ作品の誕生といえる。

親子二世代にわたる青春を描く

イメージ 5
「コクリコ坂から」は、青春映画であり、歴史ドラマでもある重層的な作品である。太平洋戦争が終わって18年、日本は焼け跡から奇跡の復活を遂げた。

そして、高度経済成長の只中、復活の象徴として、日本は東京オリンピックの開催を目前に控えていた。人々は古いものはすべて壊し、新しいものだけが素晴らしいと信じていた。煙突から吐き出される煤煙。道路にひしめく車の土埃。人々でごった返す街。工事や建物の解体作業の騒音。しかし、それでも海は青く、緑は輝き、空は広く、世界は希望に満ちてキラキラと輝いていた。貧しいけれど、みんなが上を向いて歩こうとしていた時代を生きた海と俊たちの青春。

そして、主人公たちの出生の秘密に焦点を当てていくことで、両親たちの戦争や戦後の青春まで遡ってゆく。混乱の中で、親を亡くした子を自分の子として育てる。そんなことが当たり前だった時代。自分と他人の境界線が曖昧で、いろんなことに寛容だった時代の青春—。

<高度成長期>と<戦争と戦後の混乱期>、親子二世代の青春を描くことで、自分たちの歴史がこうやって続いてきたというテーマが浮き彫りになってくる。観客に「自分たちがどういう時代に生きているのか—。」を問う映画になっている。

設定は“海の見える坂道”と“歴史ある古い建物”

イメージ 6
主人公の海が暮らす家、そして海と俊が通う高校、ともに海の見える坂の上に建つ。坂を上る時、その目の前には青い空が、振り返れば海が見える。坂の向こう、そして広がる海の向こうに「希望」や「未来」を感じることができ、想像するだけで心が沸き立つ設定である。

そして物語の重要な舞台となる古いけれど思い出のつまった歴史ある2つ建物の設定は宮崎駿が作り上げた。1つは、海の自宅である「コクリコ荘」。もともとは病院だったところを自宅兼下宿屋として、海が切り盛りしている。1階には食堂があり、そこで海の家族と下宿人たちで食卓を囲む。離れがあり、そこに海の祖母が暮らしている。古いけれど、手入れが行き届いている。そして庭にはたくさんのコクリコ(ひなげし)の花が咲いている。海が祈りを込めて揚げる信号旗のための旗竿もある。

もう1つは、高校にある壊すか保存するかの議論の対象となる文化部部室が集まる擬洋風の建物、通称「カルチェラタン」。埃まみれだけれど、使っている男子学生たちの愛情が詰まった、素敵な魔窟。海と妹の空が初めてカルチェラタンに足を踏み入れるシーンは、まるで不思議の国に迷い込んだアリスのように見える。

そして面白いのが、「コクリコ荘」は女性の巣で、「カルチェラタン」は男の巣として描かれている点である。「コクリコ荘」は海の弟・陸を除いて全員が女性。女性の下宿人たちは、研修医に画家の卵、ビジネスガール(当時のOL)。きちんと家事をこなす海も含め、自立する女性たちが生き生きと描かれる。対して「カルチェラタン」に登場するのは、考古学研究会、天文部、哲学研究会、化学研究会、無線部、現代詩研究会、弁論部、新聞部、数学部の男子学生たち。好きなことに熱中する愛すべき変人たち。「コクリコ荘」「カルチェラタン」どちらも、魅力的な住人で溢れている。

ちなみに舞台となる港が見える町とは、横浜。コクリコ荘があるのは、神奈川近代文学館のあたりのイメージ。さらに山下公園、ホテルニューグランド、マリンタワー、氷川丸、桜木町駅などが出てくるのも、見どころである。

参考にしたのは日活の青春映画

イメージ 7
1963年は宮崎吾朗監督が生まれる前の時代。ということで吾朗監督は、その時代に制作された日活の青春映画を参考にしたという。 その中でも特に参考にしたのが、吉永小百合主演で世に送り出された「赤い蕾と白い花」(1962)、「青い山脈」(1963)、「雨の中に消えて」(1963)、「美しい暦」(1963)。主人公たちの言葉には裏がない。そして話すテンポが速い。

自分の思いを躊躇なく伝える。そういった当時の日本人の話し方、コミュニケーションの仕方が「コクリコ坂から」に反映された。海や俊、そして他の登場人物たちもみんな、自分の気持ちをストレートに伝え、ストレートに相手の言葉を解釈する。自分の気持ちからも、相手の辛い言葉からも決して逃げない。自分の本当の気持ちをごまかさず伝える力、相手の気持ちをそのまま受け止める強さ、これは本来日本人が持っていたものなのではないだろうか。「コクリコ坂から」の登場人物たちは、そんな正直なコミュニケーション方法を忘れてしまおうとしている私たちに勇気を与え、人と人がつながることの素晴らしさを再認識させてくれるはずだ。

新ヒロイン長澤まさみとジブリ2作目の岡田准一

イメージ 8
主人公の16才の少女・海を演じるのは、長澤まさみ。過去にゲーム「ニノ国 漆黒の魔導士」(2010)でのアフレコ経験はあるが、アニメーション長編映画でのアフレコは初挑戦。17才の少年・俊を演じるのは、岡田准一。「ゲド戦記」に続き再び、宮崎吾朗監督とタッグを組む。長澤・岡田のふたりは、今回が初共演となる。アフレコに際して、鈴木プロデューサーがふたりに贈った言葉がある。長澤には「無愛想」、岡田には「無器用」。その言葉を受け取った長澤は人に媚びない凛とした強い女の子として海を演じ、岡田は硬派で無鉄砲だけれども優しい男の子として俊を作り上げていった。

ふたりの脇を固めるキャスト陣として、竹下景子、石田ゆり子、柊瑠美、風吹ジュン、内藤剛志、香川照之、といったスタジオジブリ作品常連組から、ジブリ作品初参加となる風間俊介や大森南朋まで実力派が顔を揃えた。

そして、今回主題歌を歌う手嶌葵が海のクラスメートの悠子、「崖の上のポニョ」の主題歌を歌った藤岡藤巻の藤巻氏が徳丸ビル受付の男性、宮崎吾朗監督自らが世界史の先生の声で参加し、さらに作品を盛り上げている。

歌と音楽に溢れた映画

イメージ 9
「コクリコ坂から」は、主題歌「さよならの夏〜コクリコ坂から〜」の他に、挿入歌の「上を向いて歩こう」、「朝ごはんの歌」、「初恋の頃」、「白い花の咲く頃」、「紺色のうねりが」、「赤い河の谷間」、そして武部聡志のジャジーでポップな音楽と、歌と音楽に溢れた映画である。

宮崎駿は主題歌に森山良子の「さよならの夏」を推薦した。吾朗監督のアイデアでこの曲を手嶌葵が歌うと映画のイメージにぴたりとはまった。さらに、作詞家・万里村ゆき子に依頼し、新たに2番の歌詞を書き下ろしてもらい、より映画とリンクした主題歌「さよならの夏〜コクリコ坂から〜」が誕生した。

挿入歌は映画が描く時代に、世界的に大ヒットした坂本九の「上を向いて歩こう」。1961年に誕生したこの曲は、1963年にアメリカで「SUKIYAKI」として発売され、ビルボード誌で1位を獲得するという快挙を成し遂げ、これまでのセールスは全世界で1000万枚以上という驚異的な数字を達成している。映画本編の中で、テレビから"歌"が流れてくるシーンがあり、1963年当時青春時代を過ごした鈴木敏夫プロデューサーの推薦でこの曲を使うことに。今回、オリジナルの「上を向いて歩こう」は本編中で2回使用されるが、既成曲を本編中に2回使用するのは、ジブリ作品では異例のこと。伝説の曲「上を向いて歩こう」誕生50年目という節目の年に、ジブリ映画の中で"歌う九ちゃん"が蘇ることになった。

朝ごはんのシーンに流れる「朝ごはんの歌」と海と俊の心が近づくシーンに流れる「初恋の頃」は、作詞が宮崎吾朗と谷山浩子、作曲が谷山浩子、編曲が武部聡志、そして手嶌葵が歌う。手嶌のピュアな歌声が本編を美しく彩る。手嶌も参加している合唱曲「紺色のうねりが」は宮沢賢治の詩「生徒諸君に寄せる」に触発を受けて1番の歌詞を宮崎駿、2番の歌詞を宮崎吾朗が作詞。「赤い河の谷間」は宮崎駿が高校の頃、合唱で歌った曲で、吾朗監督が新たに訳詞をあてた。「白い花の咲く頃」の冒頭は、水沼役の風間俊介が独唱している。
イメージ 25
でも、ジブリでなければ、禁断の愛を貫くテーマでアナザーストリーも観て見たかったような気がする。戦争と戦後の混乱期の中で、親たちがどう出会い、愛し、生きたかを知っていく。そして、禁断の愛を貫くストリーも観てみたい気になった。

「私、風間さんが好き!血が繋がっていても、例え兄妹でも、風間さんが好き!」「俺も、お前が好きだ!!」
イメージ 39

なんという純愛なのか!この映画最大の萌えシーンだった。私はこの子らより何倍も恋愛経験をしたけれど、これほどの至誠の愛を持ったことが無い。勿論血が繋がった従妹や、まして妹にに恋愛感情など持つことなどありえないのだが、原作通り実の兄妹の至誠の愛のストリーをジブリアニメで観てみたい気もした。

筆者が勝手に妄想するアナザーストリーでは・・・・

人間の業とは、実の娘も騙すかもしれない。港港に女有の船乗りに呆れかえり、実は死別ではなく離婚していた母親、昔馴染みの風間の父親と組んで嫡子を押し付けていたとか。実は父親はフィリピンで別な家庭を作り、飲んだくれの最低な親父だったなんて、ストリー展開・・・・最後は駿に捨てられ・・・絶望するメル

やはり、そんな話はやはりジブリでは観たくは無いなぁ・・・

この映画で沢山の印象的な名言や言葉があった。

名言は、駿の演説
イメージ 40
「古いものを壊すことは過去の記憶を捨てることと同じじゃないのか!?」「人が生きて死んでいった記憶をないがしろにするということじゃないのか!?」「新しいものばかりに飛びついて歴史を顧みない君たちに未来などあるか!!」。



水沼生徒会長「ぼらんてぃーあの皆さん、カルチェラタンへようこそ。」「この文化財と言うべきカルチェラタンの保存の為に手を貸していただいて、本当にありがとう。」
「男どもは危険な作業を率先してこいなすべし」かかれ・・
別なシーンだが、仲が険悪になった後、駿が男子生徒に向かって、「残すか捨てるか悩んだら、燃やせとの水沼殿のお達しだ!」と言った。この言葉の意味は深い。悩んだら青春を燃やせと映画には出てこなかったが、裏で水沼が駿にアドバイスをしていたようなシーンが浮かび、市電の前の告白の伏線なのだ。
Aoi Teshima - Escape [Esukeepu] 
水沼生徒会長「閣下、二人は人生における一大事が発生し、エスケープしました」
徳丸理事長「いいなぁ青春だなぁ!」

Sukiyaki - 上を向いて歩こう (Kyū Sakamoto, 坂本 九)

さよならの夏 森山良子 1976


イメージ 26
DJみそしるとMCごはんさんの元ネタ、いや源流はこれか!・・・・ちなみに女子栄養大学の卒業研究として 、「DJみそしるとMCごはん -くいしんぼうHIPHOPー」を発表したのは、2012年3月・・・パクリとはいいません。インスパイアーされて突き詰めた結果売れたのであって、DJみそしるMCごはんさんの勝ちである。

高校時代は田舎の進学校だったせいか・・・まったくもてませんでした・・・
今から比べれば純粋だった高校生時代、駿君とメルのような恋をしたかったなぁ

イメージ 28
イメージ 27

イメージ 29



イメージ 10

イメージ 31


イメージ 30
50を過ぎたおじさんでも、胸キュンで、恋っていいなぁって感じてしまった。
いかん、ヤフーの広告を危うくクリックしそうになった。(笑)

イメージ 38映画のクライマックス直前、財閥の理事長が彼らの訴えに耳を傾けた。
そこで、生徒会長の水沼が、
「いい大人っているんだな」・・て、
俊「まだわからないよ」
メル「でもよかった」
何時の時代でもそうだが、特にあの時代の大人は若い人のエネルギーを
インキュベートしていたような気がする。活力がある社会とは、そういう時代のことかもしれないとふと思った。

その理事長を大掃除が済んだ清涼荘=カルチェラタンに歓迎する合唱がこの映画の挿入歌の中で最も印象的だった・・・

イメージ 11

紺色のうねりが
のみつくす日が来ても
水平線に君は没するなかれ

われらは山岳の峰々となり
未来から吹く風に頭をあげよ

紺色のうねりが
のみつくす日が来ても
水平線に君は没するなかれ

透明な宇宙の
風と光を受けて
広い世界に正しい時代をつくれ

われらはたゆまなく進みつづけん
未来から吹く風にセイルをあげよ

紺色のうねりが
のみつくす日が来ても
水平線に君は没するなかれ

イメージ 46

手嶌も参加している
この印象的合唱曲は「紺色のうねりが」は宮沢賢治の詩「生徒諸君に寄せる」に触発を受けて1番の歌詞を宮崎駿、2番の歌詞を宮崎吾朗が作詞。かなり長いので全文はリンクで読んでほしいが、かなり良い詩である。
最初の一部を抜粋
中等学校生徒諸君
諸君はこの颯爽たる
諸君の未来圏から吹いて来る
透明な清潔な風を感じないのか
それは一つの送られた光線であり
決せられた南の風である

(略)

むしろ諸君よ
更にあらたな正しい時代をつくれ

諸君よ
紺いろの地平線が膨らみ高まるときに
諸君はその中に没することを欲するか
じつに諸君は此の地平線に於ける
あらゆる形の山嶽でなければならぬ

(略)

岩手県出身の宮澤賢治はおそらく三陸津波の記憶があるのだろう。
「紺色のうねりが のみつくす日が来ても」というのは字義的には津波のことで、比喩的には若者が立ち向かう困難を指している。 

ところが、大津波は比喩ではなく本当に来てしまった。7月に公開したコクリコ坂から、紺色のうねりがの製作はどう考えても2011年3.11の東日本大震災以前に製作されていただろう。宮崎監督は、別な世界を観ることが出来る能力があるのではないか?と言われていますが、2008年公開の崖の上のぽにょといい、この作品を製作したのは・・・偶然だったのだろうか?

あと挿入歌で生徒会長の水沼が先生の集会の監視の時間に合わせて歌い出した岡本 敦郎の昭和25年のヒット曲”白い花の咲くころ”ナイスな曲だと思った。
イメージ 41
大奥様(メルの祖母)役の倍賞千恵子バージョンで





金曜ロードSHOW! 2020年8月21日「コクリコ坂から」3週連続 夏はジブリ★本編ノーカット




    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック



5月1日は朝の6時に家を出発して、関東の強力パワースポットの一つ秩父の三峯神社に参拝してきました。

GWに行楽地に車で行くと言うことは行も帰りも散々な渋滞に巻き込まれることを覚悟しなくてはいけないということでした。

三峰神社は毎月1に白い御守りを配布しており年に数回ある土日の休みと重なる時は駐車場に入る為の大渋滞になるのです。


今年は5/1(日)と10/1(土)がその日で大渋滞が予想され夜中の3時出発の予定でしたが・・・・

午前2時に起きたのですが、あと30分と思って寝てしまい、午前3時出発予定が起きれず出発が6時になってしまいました。

東名~圏央道~中央高速勝沼インター~国道140号雁坂有料道路を抜け、朝の8時に麓の秩父湖に到着。ここまでは渋滞知らずの快調ドライブでした、山頂にある神社の麓駐車場まであと10Kmの付近から渋滞が始まり、いきなり20分まったく動きませんでした。

5分から10分動かなくて少し動くの繰り返し。あまりに酷いのでエンジンは止まる度切る始末・・・・それでも12時前には入れるだろうと思っていましたが・・・・甘かった。

イメージ 5
駐車場まであと5Km付近からちらほら車を乗り捨てる人が出始めました。

イメージ 6

渋滞しだして3時間11時を過ぎ6Km付近そろそろ車を捨てるかどうか悩みだしました。

イメージ 7

12時前の時点で渋滞より4時間で7Km進み、あと3Kmの地点で停められそうな場所がありました。

イメージ 31

駐車場まで5km付近から途中で車を途中の休憩スペースや止められそうなスペースに車を止め歩く人が出始めていたましたので、私達夫婦も遂に歩くことにしました。
イメージ 30

山道を途中道なき斜面をショートカットしたりしながら登ること45分、
13時前にようやく駐車場付近に到着しました。

イメージ 4

駐車場 あのまま乗っていたら到着は15時すぎだったかもしれない。


イメージ 8
駐車場からの階段

イメージ 9
鳥居付近に立つ宮司さんより白い御守りを買う整理券をいただきます。

イメージ 10


イメージ 11

三峯神社は元々は狼=大神信仰の神社の為狛犬は狛狼です。

イメージ 12
随身門
イメージ 13


イメージ 14


イメージ 15

参道
イメージ 16

           夫婦杉
イメージ 17


イメージ 18
参拝の列は
イメージ 19
右に伸びていました

イメージ 32
いよいよ参拝

イメージ 20

なにやら石畳に水を掛ける人の列・・・・これが最近出現したと噂の龍神様

イメージ 33
2012年、辰年に突如出現したという「龍神様」。本殿の左側にある石畳の一角に出現。乾いていると、龍の姿が見えづらいので、常に水がかけられるよう、お水と柄杓が置いてあります。大きさは全長50cmほどで、赤い目と細長く伸びた龍神様です。

イメージ 24
 白い御守りを買ってから

本堂の左右にあるご神木から氣をいただきます。

イメージ 21

イメージ 23


イメージ 22



イメージ 25


イメージ 26


イメージ 34


イメージ 27

最後に大和武尊像を拝んで15時過ぎ神社をあとにしました。
イメージ 28
帰りも依然駐車場待ちの大渋滞

イメージ 29

愛車は無事でした。



三峯神社の帰り、秩父市内で芝桜で有名な秩父の芝桜の丘(羊山公園)帰りの大渋滞に遭遇してしまい、家に辿りついたのは9時前でした。

普段”お前はNEXCO 東日本の回し者だろう!”と思うくらい直ぐに高速に乗りたがる私のカーナビなのですが、当初秩父市内から皆野寄居有料道路経由関越で帰る道順を示していました。高速を使い早く帰るで設定していましたが、”交通状況が変化しました”とのことで、下道の国道299号を70kmも走り圏央道に乗りました。圏央道に乗ったと思ったのもほんのつかの間、今度は圏央海老名で降り、246で帰る道順でした。それだけ高速が渋滞してたってことなのだろう。



今年のGW、4/29に桜の会の河川敷の草刈り。

イメージ 1


イメージ 2



イメージ 3


30日は自宅の庭の庭木の剪定作業と読書

5月2日は会社~自宅まで7km歩いて帰りました。


    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


水戸の実家に帰ったついでに、水戸芸術館に行った。玉石混淆の現代アートはあたり外れが激しい。今回の展覧会は私の感性と相性がわるかった。平たく言うと「ハズレ」であった。

イメージ 1
水戸芸術館

イメージ 2


イメージ 3

イメージ 4

イメージ 5

イメージ 6


イメージ 7

田中功起 共にいることの可能性、その試み
2016年2月20日[土]~ 2016年5月15日[日]

本展は、田中功起による国内初の大規模な個展です。田中は、映像記録、インスタレーション、執筆、パフォーマンスおよびイベント企画といったさまざまな方法を通して、現在の社会状況や既成の枠組みに対し、別の視点やあり方を模索する活動で近年、注目されています。2013年の第55回ヴェネツィア・ビエンナーレでは、5名の陶芸家がひとつの陶器をともにつくる様子をとらえた映像作品などで、複数の人びとがひとつのことにともに携わるときの、その行為の美しさと難しさを表し、国際的に評価されました。
本展では、協働による営みに関心を抱くようになった2010年以降の田中の活動に焦点をあて、新作を中心に、近年の取り組みとあわせて紹介します。
本展のために制作された新作は、一般参加者とファシリテーター、撮影チームらと一つ屋根の下をともにした6日間の滞在とそのなかでのワークショップがもとになります。朗読、料理、陶芸、社会運動にまつわるワークショップ、ディスカッション、インタビューなどで構成された6日間を通して、移動や共同体についてそれぞれが考え、また対話し、実践する機会が設けられました。本展では、これらのワークショップの記録映像をもとにつくられた複数の映像に、作家が制作中に書いたノートなどが添えられ展示されます。

※ 新作映像は全編でおおよそ230分になる見込みです。


【2015年11月8日のメモ(ステイトメントとして)】

あなたはどのような場面でまったく初対面のだれかに心を開くだろうか。
あなたは隣にいるだれかとどのようなとき、共に助け合おうとするだろうか。
あなたは何を根拠にだれかを信頼し、あなたの傷つきやすさを預けようとするだろうか。

山の中での非日常的な共同生活とワークショップ。そこには撮影隊も共に寝泊まりをしていて、その光景を記録している。ぼくも、あなたもそこにいて、私たちは、まだそれが何を意味するのかを知らない。私たちは、料理をし、朗読をし、発声し、動き回り、会話をし、社会について考え、陶芸を行い、話し合う。そして私たちは、その小さな社会の中で、自分の位置を確認し、自分の役割を問い直し、ときに自分を見失う。そのようにして他者に出会い、その相手を気遣う。ほとんど見ず知らずのだれかと、もしかすると理解しがたい他者と、共にいることを試みる。それはあるひとからすれば当然の、あたり前の状態であり、別のひとからすれば受け入れがたき状況だろう。この状況は、仮の、作られた、一時のものでしかないかもしれない。だけれども、一時的にでも可能であるならば、それはいつ、どこで、どんななにものかとであっても、可能ではないだろうか。(田中功起)
▼田中功起 略歴

たなか こおき。1975年生まれ。アーティストとして活動し、ARTISTS' GUILDと基礎芸術に参加/協働する。近年は出来事の組織化や集団による営み、その記録に興味を持ち、それにまつわる制作活動を行っている。2013年、第55回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展の日本館における展示で特別表彰を受賞、2015年にはドイツ銀行のアーティスト・オブ・ザ・イヤーに選出される。プロジェクトの記録や過去のテキストを再録した書籍に、『Precarious Practice』(Hatje Cantz、2015年)、『必然的にばらばらなものが生まれてくる』(武蔵野美術大学出版局、2014年)、『質問するその1(2009 - 2013)』(ART iT、2013年)、『Abstract Speaking - Sharing uncertainty and collective acts』(NERO Magazine、 国際交流基金、2013年)などがある。
ツイッター: @kktnk
ウェブサイト: http://kktnk.com/

▼開催概要

展覧会名

田中功起 共にいることの可能性、その試み

会場

水戸芸術館 現代美術ギャラリー

開催日

2016年2月20日[土]~ 2016年5月15日[日]

開館時間

9時30分~18時(入場時間は17時30分まで)

休館日

月曜日※3月21日(月・祝)は開館、翌3月22日(火)は休館

入場料

一般800円、前売り・団体(20名以上)600円
中学生以下、65歳以上・障害者手帳をお持ちの方と付き添いの方1名は無料
※本展に限り、1枚の入場券で会期中3回まで入場可
【一年間有効フリーパス】
・「ハイティーンパス」(15歳以上20歳未満 ):1,000円
・「おとなのパス」(20歳以上):2,500円

主催

公益財団法人水戸市芸術振興財団

助成

公益財団法人花王芸術・科学財団、公益財団法人朝日新聞文化財団

協賛

Vitamin Creative Space

協力

青山|目黒、アサヒビール株式会社、ARTISTS' GUILD、国際交流基金

企画

竹久侑(水戸芸術館現代美術センター学芸員)
いやいや・・・いやや・・・Mumumumu・・・なんだかんだで二時間半時間を費やしてしまった・・・・有意義だったかと言えば違う。なんだろう改めて、アート体験とは時間の浪費を楽しむことだと改めて確認したようなものだ。本作品は、私にとって上から目線でアーティストと参加者を見下すことにおいてのみ鑑賞に値する作品であった。

この試みはできそこないの原始共産制体験をする怪しい自己啓発セミナーを覗き見たようだと感じたのは、私だけではないだろうか?6日間で何が生まれるのかというテーマであったが、結果がショボ過ぎて補助金分の体裁を何とか整えさせるのに四苦八苦した軌跡が生々しかった(笑)

そもそも企画が悪い。国籍や年齢階層がまるで違って価値観が違う6人であればおもしろかっただろうに、比較的似たような穏健な価値観を持つ中年の日本人が集まって何がおきるか?期待する方がどうかしている。しかも草食系中年男性、勘違いの左翼女性・・・それぞれに人格があるようにそれぞれ個性はある豊かな参加者だ。でも本作品は普通の人のいかがわしい自己啓発セミナーの体験談ビデオ放映大会だった。

よっぽど昔
フジテレビで1999年から~2009年まで放送されていた日本の恋愛バラエティ番組”あいのり”の方がアートだろう。男女の愛憎は昔からアート作品のメインテーマだ!しかしながら、妙齢の男女の六人が山奥の研修所で寝泊まりしていて何も起きないなんて、なんと下らない。本当は何かしらあったかもしれないが、一切人間の欲望や妄想に触れず、うわべだけの人の集まりが共同体と言えるのか?

共同体とはご飯を食べるために利害関係を一にした人の集まりである。その共同体内での利害関係愛憎やどろどろした人間関係があって共同体なのだ。

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
共同体 きょうどうたい
Gemeinde; community

利益,目的を同一にする人々の結合体。 (1) 社会学では,アソシエーションに対する用語として,自然発生的に共同体意識,共属感情をもって生活している人々の生活体もしくはその地域社会をさして使用される。


そんな醜い部分を排除したビデオやインタビューに鑑賞者は興味を抱くはずもなく、企画した田中氏の才能はその程度と思わせた時点でこの作品の評価は決まってしまった。申し訳ないが私にとって村上隆と同じかそれ以上に現代アートの醜い現実を感じさせる。

このアート作品を有難がる必要があるのか?公共の現代アートホールで現代アートに関心がある来館者に金と時間を浪費させる価値があるのか???

アートであることは間違いないのだが、個人的にネット上で発表すればいいじゃないかという作品だと思った。アートホールを何ヵ月も占有する価値がない作品だと思う。

現代アートはある意味で思想表現になりつつあるのだが、6人の男女が山奥の研修所で6日間一緒にすごした日常にすぎない。撮影隊を含め18人だそうだが、彼らのインタビューから共同体が生まれるだろうかって・・・・無理がありすぎたのだ。

参加者のインタビューも、私にとってはあまり中身がなかったように感じた。
インタビューを受けた参加者は一生懸命それぞれの方の思想を語ってくれたのだが、自分とは価値観が違い過ぎて、初対面の素人さん達の話を聴くのはけっこう難行苦行である。素人に現代アートの核心部分である作品の思想を語らせるのは反則、もしくは手抜きだ!結局だからなんだ???何が言いたいのか焦点が絞られないまま、朝まで生TVのように延々結論が出ないビデオを鑑賞者にみせて面白いのか?私には理解できない。

同じ山奥でも、テントを張ったサバイバル生活の6日間と、文明的な研修所で過ごす6日間ではまるで違うだろう。企画が最悪だったと思う。

昨年私は10日間バスでトルコ全土を一周するツアーに参加した。10日間見ず知らずの老若男女が同じバスで、人類文明の偉大な遺跡を見て回るツアーだった。参加者同士わざわざ交流する仕掛けのようなプログラムがなくとも最終日は皆さんと別れを惜しむ感情が自然と湧いた。利害関係の無い人が集まれば、仲良くなるのは試さなくれもわかるというものだ。

陶芸したりご飯を作ったり、田舎道を夜歩きして、ディスカッションする・・・それなりに相手の人となりも理解できるだろうが。出来上がった共同体とは、ただ6日間そこにいた、それだけのこと・・・・共同体の可能性なんか大それたテーマは欺瞞以外なにもない。「非日常体験を体験した人たちの日常を切り取る」というテーマがふさわしい。

それを第三者である観客に見せ、さあどうだ?と言われても、この参加者達と観賞者は共感などできない。特に、皇居前のデモに価値があると言い張る左翼っぽい女性の言ってることが違うんじゃないか?と、罵倒したくなる衝動にかられてしまった。しかしながらフランス人女性を妻に持つ中年男性に冷静に言いくるめられ、反論できない左翼女性を見て、ニヤリとできたのが良かった。まあ参加者にとって普通の日常とは違う非日常ではあるが、鑑賞者からすれば他人の日常に過ぎない。これが田中氏と私の作品に対する温度差なのかもしれない。

日常を切り取ることはアートと認めるが、公共のスペースを偉そうに占有する意義が見いだせない。

5人のピアニストのアイデアはアイデアとしては悪くは無いが、できた音楽は現代音楽なのだろうが、洗練さには程遠いキメラか鵺のような品物だ。

共同陶芸に至っては陶芸への侮辱であると私は感じた。

人のDNAには田中氏が可能性があるかなどと実験しなくとも共同で作業する遺伝子が入っているから、試みることなど不要です。

本作品において田中氏が過去の市民運動についてかなり肯定的な文章を参加者に朗読させる作品が有った。イカガワシイ市民運動を肯定的に賛美するかのような左翼臭がするワークショップが最悪であった・・・作者の思想的薄弱性が確認できる作品であった。
アート作品が思想的腐臭を感じさせるようでは、アート作品と呼べる品物ではなくなる。プロパガンダに徹底した場合は潔くってかえって良いのだが、市民う装うプロ市民は生理的に受け付けない。アートが純粋に面白いとか、斬新だと言ったのではなく、裏に思想的勧誘が隠れているものが見え隠れしていると感じた瞬間に興ざめしてしまうのだ。

この作品の後ろにはエゴイスティックな市民運動を賛美する腐臭が漂っていた。しかしながら、サイレントマジョリティに属する良識ある参加者に粉砕された。この作品が企画倒れになって、まずはめでたい!

非常に狡い立場なのだが、他人の作品をボロカスに書くことは簡単で、一方的に書いておいて私は、何の被害も受けない。他人のアート作品を罵倒するのはある意味とても気持ちが良い。
アーッすっきりした!

厳しい批判を受けるのもまたアートなのである。






    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


イメージ 1

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。
相場の格言で 辰巳天井、午尻下がり、未辛抱 申酉騒ぐと申しますが、今年は申年です。
できることなら、あまり大騒ぎが起きない落ち着いた申年になってほしいものです。
落ち着いた申と言えばちょいと懐かしいのですが、昔のソニーのCMの猿を思い出しました。貼っておきます。

ウォークマン
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック



あれから30年が経った、ネクタイを2本するファンションが流行らなくてよかった。

車は空を飛ばないし、ホバーボートも・・・まあぁ一応できたか。
3D映像フォログラムや指紋認証装置は出来たし、TVやスマートフォンは映画で
の予想を超えているし、マイケル・J・フォックス演じる主人公マーティ・マクフライ
の敵役ビフ・タネンのモデルのドナルドトランプがいまや米国大統領の有力共和
党候補というのはいったい誰が想像しただろうか(笑)。

私ごとだが、昨晩久々に横浜ケントスへ行って30年前へBack to the Pastしてきた。
ハマの40代から60代の大人が皆周りを気にせず踊り狂っていた。中には70代と
思われるご婦人と老紳士も交じっている。

S・A・T・U・R・T・U・R・DAY Night!S・A・T・U・R・T・U・R・DAY Night!

踊り狂っているうちにあの頃に気分はタイムトリップしていた・・・
The power of love is a curious thing 
Make a one man weep, make another man sing 
Change a hawk to a little white dove 
More than a feeling that's the power of love♪

1985年10月就職も決まって、卒論を書いていた頃だった。ちょっと自慢の彼女と
エデンの園に住んでいた、なにもかにもが輝いていた。that's the power of love♪
踊りながら古き良き時代1985年10月21日にもし戻れたならと・・・思ってしまった。

Back to the Past

1985年強いアメリカを目指していたレーガン大統領のレーガノミクス1.0において強いドル政策を断行1ドル235円前後だった。その為、米国の自動車産業を筆頭にし
た輸出産業が日本の輸出攻勢で壊滅状態となり、1985年9月22日、行き過ぎたド
ル高の是正を目的としてニューヨークのプラザ・ホテルでG5(米国、英国、西独、
フランス、日本の5カ国蔵相会議)が開催された。

主要通貨の米ドルに対する秩序ある上昇が望ましいこと、為替相場は対外不均衡調整のための役割を果たす必要があること、G5各国は協力してドル安にすること
を合意した。いわゆるプラザ合意である。レーガン政権はこれにより小さな政府、
強い軍隊、弱いドルのレーガノミクス2.0に変わり、遂にはソ連との冷戦に勝利した
大きな時代の転換点だった。

プラザ合意の本当の狙いは米国の次の世界覇権国候補だった日本潰し以外の何物でもなかった。

ドルは円、マルクなどの主要通貨に対し急落、ドル相場の大幅な下落は国際収支の不均衡是正にある程度役立ったが、逆に米国内に深刻なインフレ懸念を生むなどの弊害をもたらし、為替相場安定を目指すルーブル合意につながったのだが、
それでも1987年はいまより円安の1ドル140円台だった。

ところが、日本はプラザ合意の円高も脅威の対応力を示し、工場の海外移転をは
じめ、驚異の順応力で、円高を止めるために行った金融緩和がバブル経済を引き起こし未曽有の好景気となってしまった。

しかし、これが後の日本の20年デフレの元凶だった、そして世界経済に与えたインパクトは後の経済史で大きく取り上げられるだろう。

Back to the Past

私は、バブル経済当時、政・官・財界まして、マスコミに国益とか国家戦略にまる
で無関心であったことに強い憤りを覚えた。国益に関心があったとしても経済的な
目先の利益にすぎないことしかマスコミには載っていなかった。

悪の論理―地政学とは何か 倉前盛通/著を読んだのもこの頃だった。いまは「地政学」とか「インテリジェンス」についてネットでも関心を持つ日本人も増えましたがが、当時の日本には「戦略思考」という発想で、維新の元勲たちと異なり国家百年
の計を俯瞰できる政治家が居なかった。当時ほどではないが未だに長期的な視点で、未だにマクロで考えることが巧くないようだ。インドネシア新幹線を中国がほぼ
寄付するようなことまですると気がつかないようでは、未だインテリジェンスの力も
整備できていないようだ。

1985年のプラザ合意から始まったバブル経済は21世紀は日本の時代じゃないかと私を含め多くの日本人は夢想していた。だが所詮妄想にすぎなかった。

当時憲法九条を改正して軍事力を持てば日本が世界の覇権を握る可能性もある
のでは無いかと思い、無能な政府をを罵った。軍事力もなければ核兵器もない。
例えあったとしても、覇権を握る意思もなければ長期的国家戦略もない国が覇権
を握れるはずがない。

でも、日本は1985年より国家としては少しだけ普通の国家らしくはなってきたかも
しれない。

プラザ合意の円高でもびくともしない日本経済に驚いた米国に日本のアキレス腱
を徹底的に研究したとの話だ。アキレス腱は土地本位制による信用の創造の循
環の帯をき国際決済銀行基準(BIS規制)の強化で断ち切ることだった。米国は日
本のバブル経済崩壊スイッチを入れた。

土地の総量規制が行われ銀行の貸し剥がしが始まった。地価は下落し担保不足
でバブル崩壊・・・・GDPが世界一であることは、覇権国家であるための必要十分
条件ではない

日本は21世紀以降覇権を握る確率は潰えた・・・(かに見えた?)
2003年のBRICsリポート以降~つい2.3年前まで次のヘレモギー(覇権)をGDPが
急伸中成長中の中国が握ると信じきっている愚かな人達がいたし、今でもいる。
GDPが世界一であることは、覇権国家であるための必要十分条件ではない。なぜ
なら200年ほど前の1820年中国は推定世界のGDPの33%を占め世界一だったが、覇権国ではなかったではなかった。(※インド24.44%+英国2.88%=27.32%)
当時の最先端の科学技術、最先端産業を持っていたのは覇権国である英国であ
った。石炭火力と蒸気機関による鉄鋼などの産業は中国には無く、今の中国にも
世界先端産業もしくはその芽などは見当たらない。覇権国は軍事技術と直結する
最先端産業の主導権を握った国が覇権を握るのだと私は思っている。中国が覇
権を握る可能性は低いだろう。

Back to the Past

1985年ソ連は短命のアンドロポフ・チェルネンコ政権後、穏健なゴルバチョフが政
権に就いたばかり、米ソ冷戦による核戦争の危機は依然危惧されていた。
ノストラダムスの大予言「1999年7の月 空から恐怖の大王が来るだろう、アンゴル
モアの大王を蘇らせ、マルスの前後に首尾よく支配するために。」は30歳以下に
人には信じられないかもしれないか、常に新人類世代と言われた我々世代には完全に刷り込まれているものと思う・・・バブルの時の狂演は無意識に刹那に生きた
時代だったと思う。

1957年毛沢東は社会主義陣営の国際会議で「われわれは西側諸国と話し合いす
ることは何もない。武力をもって彼らを打ち破ればよいのだ。核戦争になっても別
に構わない。世界に27億人がいる。半分が死んでも後の半分が残る。中国の人
口は6億だが半分が消えてもなお3億がいる。われわれは一体何を恐れるのだろ
うか」と演説し、フルフチョフ書記はじめその場にいた各国首脳が呆れかえった。

2015年その毛沢東主義に回帰する習近平が中国の指導者だ。中国は世界の工
場としての役割を終えた。残された道は、内需を喚起して金融立国へ国家の構造
転換を図ろうとしているという情報もあるが、絵に描いた餅もいいところだ。もし、
中国が金融立国になるのなら、自国の官僚や富裕層が横領した人民元をドルに
換え海外に持ち逃げしないだろう。

Back to the Past

自分が若かったせいもあるがあの時代は本当に良かった・・・そう思うのは歳をと
ったせいなのだろう。

また年がいもなく踊りに行こう・・・一緒に誰か行きますか?












    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


イメージ 1


5/21木曜日原宿某所で開かれた、小野寺元防衛大臣の話を聞く会に出席した。
元上企業会社役員とか、新聞の元論説員の方々が出席されていた。

イメージ 2

資金集めのパーティではなく日本を憂う方々の勉強会である。

小野寺元防衛大臣は防衛族ではなく、外務畑であったが、2012年第二次安倍内閣で防衛大臣を務め2014年内閣改造で大臣を退任。私は、自衛隊をより合理的に現実的な戦える集団に近づけた有能な大臣であったと評価していた。

冒頭、私は実は防衛問題に素人だったと告白、でも前々任の民主党大臣(一川 保夫)が「安全保障に関しては素人だ」と発言してバッシングされたので、黙っていたとのこと(笑)。

戦争はなぜ起こるか?戦争は戦争を遂行し勝利すれば利権を得ることができるから戦争を選択すると持論を披露された。

戦争論のクラウゼヴィッツは「戦争は外交交渉の代わりに”他の手段”、つまり武力が行使されているのであり、それは政治的交渉の一つの手段にすぎないのである。」だと言った、政治は経済の延長でもある。戦争とは経済の延長であり、経済史的流れを理解なくして戦争は理解できないということでもある。戦争とは、経済問題の一解決手段に過ぎないということを話された。

中東で紛争が絶えないのは石油があるからであり、米国が北朝鮮を放置するのは、何も利権が無いからである。中国が尖閣の領有を主張し始めたのは1968年国連の海洋調査の結果石油の埋蔵の可能性があると発表した結果1970年から突然領有を主張しだしたものです。


幸いなことに、尖閣から石油は出そうもないと中国が悟った結果、中国は尖閣から興味を失くし始めている。

東アジアでは戦争をしても得する国は無く、戦争が勃発するの選択肢はほとんどない。当然のことである。中国に対して偶発的な戦闘を起こさせないよう、戦争行為は誰も得しないと、対話を常に呼びかけ続けていたとのこと。

ただし、自衛隊が戦える実力がなくなれば、当然つけこんでくるので、抑止力として、戦える自衛隊を作らなくてはならない、その為に、自衛隊の統合運用を重視したと、どういう仕事をしてきたか説明された。

自衛隊の統合運用の考え方は小野寺元大臣が始めたわけではない。そもそも自衛隊の設立時、既に大東亜戦争敗戦の原因の一つが、陸海軍の反目対立が大きかった。明治憲法下において統帥権の独立により、国務と統帥が分立しており、「両者を統合する機能、すなわち戦争指導を管掌すべき制度、機構は存在しなかった」統合運用は、帝国陸海軍のアキレス腱であった。自衛隊は長年統合運用を目指してきたが、素人であった小野寺元防衛大臣には、全く統合運用しているように見えなかった。

小野寺元大臣が大胆に進めたと私は評価している。小野寺大臣は宮城県気仙沼で旅館を経営している父母の元に生まれ3.11では被災している。

3.11の救援には関東、九州や関西の部隊が駆けつけたが、北海道の部隊が少なかったと言う。理由は、海がしけていたことと、自前の輸送手段を海自のおおすみ級、
しかなく、部隊ごと輸送するには圧倒的能力不足で民間フェリーに依頼するしかなかったのだ。

しかも、おおすみ、ひゅうが級は自走で積めるのはトラックに限られ、重機は自走できず、クレーンで搭載するしかない。これでは役に立たない・・・

そこで、可能な限り小野寺元大臣は動いた。


おおすみ級やひゅうが級が陸上自衛隊のCH-46を搭載し、フィリピンの台風被害救援に出動した際、ブレードを外しラッピングするのに、2日を要したという。
これでは有事には使えない。

ところが、オスプレイであればボタン一つで収納するのに2分で済む・・・オスプレイ導入の最大の理由だそうだ。

オスプレイの導入は父島の村長からも強い要請があったという。
小笠原で島内で措置できない急患が出た場合、硫黄島まで一旦ヘリで運び硫黄島から飛行機で東京まで搬送していたという。オスプレイであれば東京まで直行で搬入できるという。オスプレイ反対を叫ぶ爺婆達はそのことを解っているのだろうか?

次に10式戦車を葬ったのは残念ながら小野寺元防衛大臣のようだ。
そもそも、敵戦車が本土上陸するシチュエーションはほとんど日本が追い詰められた状況であるし、その戦車を戦場に運ぶのは自衛隊ではなく日通のトレーラーだそうだ。10式は世界的な高性能戦車であるが、北海道・九州以外の本州は10式の性能に劣らない機動戦闘車を重用することに決めたのは私だと言う。


ミリオタからすると残念な決定であったが、限られた予算を考えればやむをえな。
上陸地点が変われば、いちいち日通のトレーラーで動くのか?それよりも自走式で時速100Kmで動ける装輪式の方が現実的だ。でもでも・・・

防衛統合運用の最たるものはBMD運用だ。
政府情報収集衛星、米軍の衛星、航空自衛隊のレーダーで感知した情報で、海上自衛隊のイージス艦と航空自衛隊のPAC-3で迎撃する。着弾と同時に活動するであろう在日外国人によるゲリラ行動を陸自が阻止する。(実はこの部分上陸するかもしれない部隊対応と発言したのだが、その前に上陸の前に言葉を濁した)

BMDで統合運用が可能なのは世界で日本と米国しかできないそうだ。

統合運用の要としてこの秋に発足する「防衛装備庁」の意義にもふれていた。結局陸海空それぞれバラバラに装備品を発注するから、重複してコスト増になるうえ、実際統合訓練をするとその不統一の欠点が露呈するのだそうだ。装備を導入する時点で陸海空の統合運用を考え導入するのは実にあたりまえ、合理的な考え方だ。
今までがおかしかったのだ。」

さて、話は26日から始まる国会で議論される安保法制の重要性についてです。
なによりも印象に残ったのは安倍総理の決意です。

国のことより自分のことしか考えない総理であったのなら、自分の支持率が下がる安保法制をわざわざ着手しないであろう。わがには祖国のことより自分のことしか考えない総理な何人もいた・・・鳩に菅、純一郎君も自分に酔っているだけの男であった。
安倍総理は自分の支持率が下がるのを解っていても日本が普通の国になる為に決断したのだという。

安倍政権発足直後2013年1月発生したアルジェリアの日本人エンジニア惨殺事件で決断の切っ掛けだと言う。

現行法下ではもし、大量に捕虜として拘束され武力的解放以外救出手段が無かった場合でも見殺しにするしかったと言う。現行法では緊急輸送機を飛ばすことまでは出来るが、そこまでで、人質は空港まで自力で逃げてきてくださいというのだ。
こんな無責任な話はあるだろうか?自衛隊は陸上輸送もできないし、まして武力行使は出来ない。

PKOで派遣された自衛隊員も同じだ、まずは撃たれなくては武力行使ができないのだ。現行法では目の前で民間人がテロリストに惨殺されようとしても救出できないのだ。

実際まだ発生してはいないが、もし、そのよな事態に遭遇した場合現地司令官はどう反応するかアンケートがとられた。
人命救出の必要性があった場合、発生地点まで散歩に行き偶然巻き込まれたとして行動を起こす。そしてテロリストと人質の間に割ってはいて撃たれなければならないという。

パナマ船籍で日本人乗組員が領海外で海賊に襲われていても助けることができない。こんな状態を脱するのが今回の安保関連法案の改定なのだ。

とはいえ、一定の歯止めも必要であり、今回の安倍首相の国会での答弁は自衛隊で何ができて何ができないか・・・重要な判断材料となる。26日からの安倍首相の国会答弁は極めて重要とのこと。わたしも国会答弁は注目したい。

最後に小野寺元防衛大臣は昨年の小笠原沖に大量襲来した中国漁船は予測していたとのこと。

彼らは珊瑚を密漁する為だけではない。

日本近海に予想以上に豊富な資源が眠っていることが明らかになってきた。海洋研究開発機構と東京大学の研究チームは21日、小笠原諸島・南鳥島沖(東京都)の海底の泥に含まれるレアアース(希土類)は、海底から浅い場所に最高で中国鉱山の30倍超の高濃度であることが分かったと発表。採掘する技術やコストに課題は残るが、国産資源が乏しいだけにメタンハイドレートなどと合わせ海洋資源に期待が高まる。
http://www.nikkei.com/content/pic/20130321/96958A9C93819595E0E3E2E29F8DE0E3E2E1E0E2E3E19F9FE2E2E2E2-DSXBZO5304272021032013I00001-PN1-8.jpg
 東大の加藤泰浩教授らの研究チームは昨年6月、日本の排他的経済水域(EEZ)の南鳥島沖の海底の泥に、レアアースの中でも特に希少でハイブリッド車(HV)のモーターなどに使われる「ジスプロシウム」が国内消費量の約230年分あると推定されると発表した。今回の調査で加藤教授は「230年分以上、数百年分埋蔵している可能性がある」と話した。

 今年1月、海洋研究開発機構が深海調査研究船「かいれい」を使って同海域で調査。水深5000メートルを超える海底から採取した泥を分析した結果、レアアースが最大約6600PPM(PPMは100万分の1)の濃度で含まれていることが分かった。

ジスプロシウムは中国鉱山の32倍の濃度に上るという。高濃度であれば採掘コストも下がり、商用化の可能性が高まる。海底下3メートルと浅い場所にあることも判明した。

 レアアースの生産は9割超を中国が占め、輸出規制による供給や価格高騰に不安がつきまとう。経済産業省は来年度から南鳥島沖の調査を本格化し、3年間で約40カ所を試掘する予定で、政府は商用化に向けた技術開発も急ぐ。

 政府は今月12日、愛知・三重県沖の海底のメタンハイドレートから燃料用のメタンガスを取り出すことに世界で初めて成功。同沖合には日本の液化天然ガス(LNG)輸入量の11年分の資源量が確認されており、今回は事前の陸上実験の約9倍を産出した。

 メタンハイドレートは日本海側の浅い海底でも確認され、比較的安く採取できる可能性もあるとして研究が進んでいる。

 このほか新潟県佐渡南西沖では原油・ガスがたまりやすい地層を確認しており、石油と天然ガスの試掘調査が始まる。総額98億円を投じて埋蔵量などを調べるが、国内最大との見通しもある。

 日本近海では、海底から噴出する熱水の金属成分が沈殿してできた海底熱水鉱床の探索も進む。銅や亜鉛、金、銀、ガリウムやゲルマニウムなどのレアメタルを含む「宝の山」だ。伊豆諸島や小笠原諸島、沖縄の近くに分布することが分かっており、比較的浅く分布するため技術的に有利とする見方もある。

 ただ、いずれも現時点では採取コスト高が課題で、商用化には今後の技術革新が不可欠だ。新興国や途上国の急速な経済成長に伴い資源価格が急騰すれば、海底資源も現実味を帯びてくるとみて、米国やフランスなど海外でも海洋資源は注目されている。日本は領海とEEZを合わせると世界6位の海洋大国で、政府は海洋資源を効率よく探査し、安価に採取する技術開発を加速する。
中国は米国に太平洋を二分しようと持ちかけている。その理由が浅ましいことに尖閣と同じく日本の海底資源である。

南シナ海は石油が出そうなので米中の戦争理由が発生した、小笠原沖の海底資源も今後中国の侵略対象である。

中国はまず漁船を大量に派遣、そしてそれを取り締まる公船を派遣、そして軍艦がやってくる。

今後日本は中国と尖閣だけではなく小笠原沖での攻防が始まるであろう。






    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


THE STRUGGLE WITHIN
韓国「勘違い外交」のツケ 【NEWSWEEK2015/3/24】

【東アジア】 アメリカと中国の間を迷走する 「自主外交」の行き詰まり 
日中韓の和解を妨げる 朴政権の「反日」は終わるのか

http://www.newsweekjapan.jp/magazine/assets_c/2015/03/0324cover-thumb-200xauto.jpgマクーリッパート駐韓米大使が今月初め、反米思想を掲げる韓国人に突然ナイフで切り付けられ、右頬を80針縫う大けがを負った事件は、それまで自分たちも「反米」気分で盛り上がりかけていた韓国国民に冷や水を浴びせ掛けた。

 それだけに、襲撃から5日後にソウル市内の病院を退院し、記者会見で「事件は(米韓の)壊すことのできない絆を強めただけ」と語ったリッパートの様子は、彼らを大いに安堵させた。

バラク・オバマ米大統領の側近であるリッパートは、息子のミドルネームに韓国名をつけた親韓派でもある。

 それでも、韓国国民の対応はどこかちぐはぐだ。民族服のチマチョゴリを着た女性たちがソウル市内でリッパートの回復を祈って踊ったのは、やや場違いだが彼らなりの危機感の表れだろう。事件後、ある韓国国民はリッパートに英気を養ってもらうため、病院に見舞い品として犬肉を届けた。確かに犬肉は韓国では栄養食材だが、犬の肉を食べることに対して世界の目は厳しい。何より、リッパートはハウンド犬を飼う愛大家である。病院関係者がこの贈り物にストップをかけず、犬肉がリッパートの手に渡っていたら?

 犬肉を届けた人物に他意はなかっただろう。だが、周囲が見えない「勘違い」は時に単なる個人の行動にとどまらない。それが外交に及んだ場合、特に韓国では、その「勘違い」が長らく緊張の続く東アジアに訪れた雪解けムードに水を差しかねない。

 現在、日中韓の間では外相会談が3年ぶりに開催される方向で調整が進んでいる。日中は昨年11月、北京APEC(アジア太平洋経済協力会議)で、ぎこちなかったとはいえ2年半ぶりの首脳会談を実現。今月19日には4年ぶりの安保対話も予定されている。

アメリカがついに見せた本音

 しかし韓国は依然、日本に対して歴史問題を理由にかたくなな態度を取り続けている。大国がひしめく東アジアで韓国が生き残るためには、「日中韓」「日米韓」という2つの三角関係のバランスをうまく取る必要がある。日本は韓国にとってそのための重要な隣国のはずだが、批判一辺倒の外交姿勢は東アジアの安定を損なっているだけでなく、韓国自身をも追い込んでいる。

 実際、リッパート事件の直前、韓国はその代償を払う事態に陥っていた。

 先月末、アメリカのウェンデイ・シャーマン国務次官(政治担当)が北東アジア情勢に関する講演で、「旧敵国を中傷して安っぽい称賛を得るのは難しいことではない。だが、こうした挑発は前進ではなく、停滞をもたらす」と発言。日本バッシングを続ける韓国政府を暗に批判した。

 韓国世論はすぐ「日本に肩入れした」とアメリカを非難。10余りの市民団体が米大使館前に集まり、「アメリカが自国の利益のために日本をひいきすることに驚きを禁じ得ない」と、公開謝罪まで要求した。韓国政府は慌ただしく行った記者会見で「米韓関係に変化はないことを確認した」と強調し、事態の収拾を図ろうとした。

 ただ韓国がどれだけ怒り、取り繕っても、アメリカの「真意」は変わらない。「シャーマンは本音を語った。これまで日本と韓国のバランスを考え建前を使うこともあったが、今回は違う」と、元米国防総省安全保障局日本部長のジェームズ・アウアーは言う。
「シャーマンは日韓関係の改善に努力しない韓国に失望した。オバマも同じだと思う」
 もちろん、シャーマン発言が米韓関係を大きく揺るがす事態に発展するわけではない。しかし、アメリカの韓国に対する不信感が強まっていることは確かだ。その背景には一昨年来、アメリカー辺倒のリスクを避けるかのように、対中関係を強化しようとしてきた韓国外交の「変節」がある。

 ところが、中韓関係もこのところぎくしゃくしている。13年6月、慣例を破って初めて日本より先に中国を訪問した韓国の朴様恵大統領は、北京で得意の中国語を披露し、両国の友好ぶりをアピールした。中国にとっても、韓国の急接近はまんざらでもなかっただろう。外交カードとして利用してきた北朝鮮が国際社会の挑発を繰り返し、次第に手に余るようになっていたからだ。韓国を新たな「外交カード」にできれば、アメリカだけでなく日本への牽制にも使える。

 だが、韓国にとって蜜月の先には深刻なジレンマが待ち受けていた。米国防総省のジョンーカービー報道官が先月、THAAD(高高度防衛ミサイル)の韓国配備に関し、「同盟国である韓国と持続的に協議をしている」と記者会見で突然発表したのだ事前に何の情報も得ていなかった韓国政府は焦り、韓国国防省の当局者がアメリカ側に真意を問いただした。

 THAADは米陸軍が開発したミサイル防衛システムで北朝鮮、さらには中国からのミサイルを想定しているとみられる。韓国世論が消極的なこともあるが、中国の顔色をうかがう韓国政府はこの問題を「存在しないこと」にしようとしてきた。

韓国を外交カードとして利用する中国が、アメリカの揺さぶりを指をくわえて眺めているはずはない。米国防総省会見の1週間ほど前、中国の常万全国防相が韓国国防省のトップと会った際にこの問題について懸念を示していたという。また米安全保障専門誌は「THAADを拒否するなら、経済的見返りを与える」と、中国の習近平国家主席が朴に「踏み絵」を提示したという米高官のコメントを掲載した。

日韓外交は韓国の内政問題

 アメリカと中国ににらみを利かされ、朴政権は身動きが取れなくなっている。
実は、韓国が窮地から抜け出すための「出口」は、すぐそこにある。これまで激しく罵ってきた相手の日本にほかならない。日本と韓国は本来、民主主義や人権という価値観を共有する国同士のはず。日本との関係が良好なら、米中の間でうまくバランスを取ることも不可能ではない。にもかかわらず、韓国は自らその出目を閉ざしている。

 シャーマン米国務次官の発言に対し、韓国与党セヌリ党の羅卿瑗(ナ・ギョンウォン)外交統一委員長は「日本が攻撃的な外交を仕掛けている」と発言。背後に日本のロビー活動があったと示唆した。日本のロビー活動がそれほど活発なら逆に頼もしい限りだが、シャーマン発言に限っては羅の「被害妄想」にすぎないだろう(羅は発言の根拠を問う本誌の取材に回答しなかった)。

 そもそも日韓関係がこじれた直接の原因は、韓国自身による一方的な「現状変更」にある。それまで日韓関係は、歴史問題や竹島(韓国名・独島)問題を抱えつつも、外交関係も民間同士の交流も比較的良好だった。

 しかし11年8月にいわゆる従軍慰安婦問題の解決に韓国政府が努力をしていないと、韓国の憲法裁判所が違憲判決を出して大きく流れが変わる。政権の終わりが近づき、レームダック化の兆しが見え始めていた李明博大統領は、判決を契機に「反日」を自らの求心力強化に利用し始めた。

 李は11年12月に行われた日本の野田佳彦首相との首脳会談で、「従軍慰安婦問題が両国関係の障害物となっている」として日本の誠意ある対応がなければ、在韓日本大使館の前に設置される慰安婦像が増えると迫った。さらに翌年の8月には、韓国の大統領として初めて竹島に上陸。さらに日本の天皇に対して「韓国を訪問したいなら、心から謝罪すべき」と要求した。

 李はかつて、歴代の韓国大統領が支持率の回復に反日を利用してきたことを認め、「自分はそういうことはしない」と野田に約束していたはずだった。李の後任である朴も、負の遺産を清算するどころか、「告げ口外交」と擲楡されるほど、外遊先で日本への批判を繰り返す。それは、内政への不満を募らせる韓国国民の矛先をかわすためでもある。

 「反日」はこれまで韓国の国益になるどころか、対外的に大きな負債として積み重なっている。日本もついに韓国に対して本音を出し始めた。

 日本の外務省は今月初め、同省のウェブサイトで韓国との関係を説明する文章から「自由と民主主義、市場経済等の基本的価値を共有する」という記述を削除した。菅義偉官房長官は「(説明文は)固定化されたものでなく、適宜更新されるもの」と説明した。しかし、真意が韓国に対する日本政府のいら立ちにあることは明らかだ。朴への名誉毀損に当たる記事を執筆したとして産経新聞前ソウル支局長が在宅起訴されたことも背景にあるだろう。

 冷え込んだ日韓関係は、実は外交問題ではない、という指摘もある。「日韓の問題は韓国の『内政問題』だ」と、元国防総省のアウアーは言う。「日本ができることは何もない。朴が、98年の小渕恵三首相と金大中大統領の会談で合意された『未来志向の精神』に立ち返ることが、唯一の解決方法だ」

 韓国の知識層からは、朴政権のやり方に対する疑問や嘆きの声も出始めている。「朴大統領はかつて、日本とは未来志向で歩もうと自著で述べていた」と、韓国国防大学の朴栄溶教授は言う。「しかし政権のトップになって以降は、従軍慰安婦問題などばかりを強調している。残念なことだ」

朴槿恵も「やり過ぎ」を自覚?

 朴大統領自身もやり過ぎを自覚し始めたのか、軟化を見せている。韓国の中央日報は最近、日本からの独立運動を記念する3・I独立運動式典と夏の独立記念日で朴が行った過去5回の演説で使われた単語や言い回しを分析した。記事によれば、朴の対日発言はこれまでの一方的な叱責から、改善を求める緩やかな表現へ変化し始めている。

 だからといって、落ちるところまで落ちた日韓関係が今後改善すると楽観できるわけではない。

 日本と中国の間には、まだ互いの価値を認め合える部分が存在する。有害な微小粒子状物質PM2・5に代表される環境問題に中国は苦しんでいるが、高度成長時代の公害問題を乗り越えた日本は中国に技術協力する余地がある。世界第2位の経済大国である中国の生産力は、日本経済にはまだまだ必要だ。

 ただ韓国と日本にはそういった大人の関係を築く余地は見当たらない。安全保障上の「共通の敵」だった北朝鮮の存在感が薄まり、強力なソフトパワーのはずだった韓流ブームも下火になった今、反日バッシングを続ける韓国は日本にとって「価値観を共有しないただの隣国」になってしまった。

 客船セウォル号の沈没事故や閣僚人事の迷走、政権スキャンダル、低迷する経済……。朴様恵は政権発足以来の内政の「負債」をほとんど返済できていない。国内の矛盾から国民の目をそらすため日本を敵視し続けるなら、そして自らの「被害妄想」に固執し続けるなら、結局損をするのは韓国だ。

前川祐補(本誌記者)、朴辰蛾(ソウル)
中国と米国に蝙蝠外交で行き詰まり、支持率の低下でレームダック化が進む 朴槿恵大統領が、支持率上昇の秘策として、起源登録法を制定する動きがあると、USO通信[ソウル支局]が伝えている。


全世界に活版印刷、羅針盤、論語や漢字が、韓国起源であることを全世界に知らしめるとともに、茶道、剣道が日本起源であると間違った情報をネット上から一掃するのが目的である。

例えば日本のソメイヨシノは済州島の王桜が起源であるということに、日本で品種改良で誕生したという日本人と同じ意見を言う者はそのまま朴槿恵大統領不支持者であることが多い。

そこで、 朴槿恵不支持者の言論を封鎖する目的で 起源登録法が制定される動きが出てきた。

登録された韓国起源について、異なる見解を発表したりネットに書き込んだ者は、最高一億ウォン懲役五年となる見込みである。韓国起源がたとえ荒唐無稽であろうとも、韓国起源に異論を唱える者の言論を封殺することで、朴槿恵批判を減らそうという腹積もりらしいのだ!

登録が予定さてているもの
日本起源
侍、日本刀、剣道、空手といった武 術・武道関連、歌舞伎や折り紙といった 伝統文化、寿司や沢庵といった和食、 「わっしょい」等の様々な日本語の語 源、東洲斎写楽や天皇などの著名人 物、熊本城や日本庭園や勾玉といった有 形文化財、ソメイヨシノや秋田犬のよう な動植物、にいたるまで、分野や有形無形を問わ ず、日本のアイコンとされる様々なもの。

中国起源とされているもの
易学 八卦 河図洛書 漢字 漢方医/薬           

韓国起源論 韓国起源説の一覧 




(注意)以上は2015年のエ-プリルフールネタです。4/2記
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

“侍”錦織圭が木刀でエアK! 日清カップヌードルCM 

なんて凄い技なんだと感心したので、今日はこのことでも書こうと思います。ネット検索をしていたところ、このCMの錦織圭の技を超えるビデオを見つけてしまった。

下のビデオだ。ブルースリーがヌンチャクを使った卓球の技が錦織を超える神業だった。


どうも実写ではなく残念ながらノキアの携帯電話広告用のCG映像らしい?
まぁ本物とかCGとかそういう話は置いといて、とにかくかっこいい(笑)
ブルースリーだったらできるだろうと今でも思えるからブルースリーは一種の神話だ。もしかしたら”侍”錦織圭が木刀でエアK!は、これのオマージュかもしれない。
けどれど錦織のはCGではないらしいので、凄い!いずれ神話になるかもしれない。
テニスサムライ

CMでは僅かな時間でいかに視聴者の心に自社の名前・製品のタイトルを残すか、というところがポイントです。そのためにクリエイターたちが色々なアイディアを出し合ってユニークなCMが生まれていくわけですが、ときに斬新なものを作ろうと考えすぎてしまった結果でしょうか、あまりにも破天荒すぎるという作品もチラホラ・・・。 

そんな中、カップヌードルでお馴染みの日清から新しいCMが公開されていました。 


Credit : YouTube/日清食品グループ公式チャンネル

日清といえば、ここ最近「SAMURAI,FUJIYAMA,CUPNOODLE」キャンペーンなど日本の文化を盛り込んだユニークなCMを公開しており、日本のみならず国外からの反響も集めていますが、とくに先日公開された「サムライ in ブラジル」は甲冑を纏ったサムライとその姿からは想像も出来ないような巧みなリフティングに大きな話題となりましたね。今回公開されたCMはサッカーではなくテニスのサムライが登場しているのでした。 

「SAMURAI-K 篇」の名づけられた今回のCMはニューヨークの巨大な街並みに向かう小船が映されると、昨年数々の偉大な記録を打ち立てた錦織圭選手がテニスコートに登場するのですが、そこには普段のプレイの際とは異なる姿の錦織圭選手が。テニスユニフォームではなく立付袴に身を包んでいることに加えて手にはラケットの代わりに木刀があり、さながら巌流島の戦いに向かう宮本武蔵のような雰囲気です。 

格好は試合前のパフォーマンス?・・・と思いきや、錦織圭選手はそのまま試合に突入。ラケットに比べて圧倒的に面積が狭い木刀にもかかわらず相手選手のサーブに強烈なリターンを決めると、それを皮切りに代名詞であるエアKやラケット回しも披露するなど世界ランカーの力を見せ付けるのでした。ちなみにこのCMの木刀でのプレーシーンは合成ではなく実際にやってのけたそうで、見て知って2度驚かされるものとなっています

この光景に海外のネットユーザーの方々からもコメントが多く寄せられています。これに対しての海外の反応を見ると、
海外の反応

・・・これはマジで木刀でテニスをしているのか

これはすさまじいな

↑もしこれがフェイクじゃないとしたら更に凄いものだな

これは・・・これはすごい!自分もこれからじっくりテニスを学ぼうと思ったよ

"日清はアメリカでも木刀でテニスしちゃうくらい日本的なんだぜ"とかって言いたかったのかな

ブルースリーがヌンチャクで卓球するノキアのCMを思い出したよ

これはスティックボールとかハーフボールって感じだね・・・俺たちも子供のころは田舎で箒の柄とテニスボールで遊んでいたよ・・・仲間で一番上手いやつはいつもワンハンドだったな

クールなコマーシャルだね、忍者外伝を参考にした感じもいいな

新しい売り上げトップのアニメ/漫画の誕生だな。バトルサムライテニスでホストクラブな高校のお話だ

ラーメンなんだよね・・・あぁそれなら言うまでもなくスポーツをするべきだな 

今度はボールを切ろうぜ! 

Lethal Leagueが現実のスポーツとなるのか・・・

Samurai in Brazilのコマーシャルに続く素晴らしい日清のコマーシャルだねhttps://www.youtube.com/watch?v=msJvU8BI3Rw

ハハ、すごいな。木刀でテニスをする新しいスポーツを開発しようぜ

等々の声がありました。
日本のテレビCMは間違いなく世界で一番おもしろいと思う。・・・・といっても上に貼った「おたほー」でこのCMを見た外人さん達にこの面白さ、レベルの高さを本当に理解しているのだろうか? 

外国のCMではその商品が‟CMを観ている人”どんなに良い効果をもたらすかをストレートに強調するものが多い。コカコーラよりうちのペプシを飲むと調子いいぜ!とか、いっぱい食べてもダイエットになる!とか。その商品がどれだけ役に立つものかをストレートに説明し消費者の購買意欲を喚起するタイプが多い。でも外国のコマーシャルなんか私からすると単純すぎるように見えます。もっとも笑いとは文化の違いの最たるもので、日本人には理解できないだけかもしれない。

日本は昔ほどではないが均質な文化や価値観が比較的均質なために直接効能を連呼しなくとも理解ができる。ある程度のキーワードやイメージを投影するだけで日本人はその商品のイメージを固定できる故に外国のCMとは一線を隔しているのだろう。

この日清のCMは日本人にとっても わかりやすい宣伝ではなく、ちょっと笑ってから考えると更に笑うような高レベルだと思っています。日清カップヌードルと錦織が木刀でテニスをすることが何を意味するかよくわからない。

錦織は日本を代表する世界に誇るアスリート、そのアスリートが剣の達人宮本武蔵の巌流島のような戦いをして勝利する・・・SAMURAIの国日本は貴方、貴方は勝つ、日清カップヌードルはグローバル社会においても勝つことができますといった良いイメージを植え付け、たかがカップヌードルだが、商品のイメージアップを行い後日視聴者が商品を見た時購入意欲を高めるといった高度なものだ。

侍サッカーも、外国の文化であるサッカーを日本人の投影である鎧武者が華麗にボールを扱い、世界に勝つと言ったイメージを宣伝している。もともと外国(中国)の食べ物であったラーメンを、日本人の力で新たに手を加え、グローバルな新しい食べ物に進化させている。そういった物語を視聴者の無意識に訴えている高度なものだ。

日本のCMは錦織に限らずテレビや雑誌などで何度も見たことがある芸能人やタレントをCMに多く起用している。芸能人やタレントは自分と似た部分を重ね、自己投影しているのではないだろうか。芸能人やタレントは、自分そのもの、その芸能人やタレントが利用している商品は自分も使おうという無意識に訴えるのが日本のCMの特徴だと思う。

日本のコマーシャルのレベルはおそらく世界一だと思う。その日本のCMを代表するカップヌードルのCMシリーズは世界的なCMということだろう。

それでは 現代のサムライ篇のその他もちょと見てみたくなったので貼っておきます。



ガンダム編 就職氷河期編 カップヌードルロボタイマー編 グローバリゼーション編 はじめての合コン編 


あまりの面白さについつい日清カップヌードルのCMに見入ってしまいました。もうちょっと昔のバージョンも貼っておきます。





日清カップヌードル CM集(16連続) 10:00



    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


イメージ 1

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック



イメージ 1

お盆に帰郷したおり水戸芸術館に”鈴木康広展「近所の地球」”を観てきた。観てきたというより体験してきたという言葉が適当であろう。

鈴木康広氏は芸術家・アーチストとして久々に私に革新性という言葉を想い起こさせた。彼は現代芸術の秀才ではなかろうか?天才ではなく秀才である。
天才とは一瞬のひらめきで常人が思いつかない発想に至るが、彼は膨大なノートに
彼のひらめきを書き綴り、そのひらめきを芸術へと昇華させていくアーチストであるように思える。ある種我々も子供の頃もっていたかもしれない自由な発想やひらめきを芸術作品として具体化させているのだが、そういった意味ではまちがいなく天才である。



イメージ 3


イメージ 2

イメージ 16

イメージ 18


イメージ 4

イメージ 5

イメージ 14
遊具の透視法2001
昼間遊んでいる子供たちを撮影したものを、夜のジャングルジムへ投影。
残像を利用した透き通る景色が浮かび上がる。

イメージ 15
無限の池2014

イメージ 10
気球の人2014

イメージ 11
水平線を描くドローイング2002

イメージ 6
日本列島の方位磁石2011

イメージ 12
実際に現在の日本列島の方向が水に浮いた磁石で表示されています。すごい!

イメージ 7
空気の腰掛け2014
座ってみてとても心地よかった。空気の人を鑑賞するにはもってこいだった。

イメージ 13
まばたきの葉2003

イメージ 8

イメージ 9



表に開いた目、裏に閉じた目が描いてあって、ひらひら舞い降りると無数のまばたきに見える




イメージ 17
鈴木康広氏の代表作「りんごけん玉」
ですが、けん玉とは重力をあそぶおもちゃであるが故に、赤い球をニュートンが重力を発見するきっかけとなった(と、される)りんごに見立て、木製のリンゴ玉のけん玉をつくった。
ありそうでなかった、アメリカではなぜかけん玉ブーム。
これを全米で売り出せばひと財産できるかも。

新しい「言語」を生み出す 鈴木康広のつくり方

紙の葉っぱの表と裏に、開いた目と閉じた目が描かれており、それが空から舞ってくるとクルクルと回転しまるでまばたきをしているように見える「まばたきの葉」。船が海の上を走っている時に描く波紋が、まるでファスナーで海を開いているように見えたという経験から、ファスナー型の船を造ってしまった「ファスナーの船」。けん玉遊びをしている時に重力と引力を感じる、それをニュートンのリンゴになぞらえた「リンゴのけん玉」......。挙げていけばきりがない、アーティスト・鈴木康広さんの作品は、パッと見は誰もが知っているような事象を、遊びと驚きに満ちた視点で組み換えて、私たちに提示してくれる。ものすごく普通でありながら、人の価値観を揺るがし感動させる「視点」を持つ鈴木さんは、いったいどんなこども時代を過ごしたのだろう。そして、どんなラーニングを受けたのだろうか。
「たぶん、いろいろとものを作り出したのは、幼稚園時代だったと思うんですが、一番大きいのは、家がスーパーマーケットだったことでしょうか。自宅とお店が一体化していて、しかも年中無休。両親はいつも忙しかったので、ほとんど相手にしてもらえませんでした。でも、従業員の人や親戚も店で働いていて、常に家や店に人がいっぱいいて、暇を見つけて遊び相手をしてくれたんです」。
鈴木少年の遊び場は、もっぱらお店の中にある包装台だった。包装紙や段ボール、リボンやハサミ、シール、輪ゴム、材料はすべてそろっている。廃棄となる段ボールなどを集めてきて、包装台の上で、紙や段ボールを使って紙飛行機やボールなどをつくっては、その場にいる大人たちに見せていた。
「安心できるんですよね。みんながいる所でつくるのが好きだった。ちょっとお客さんが途絶えると、親戚のおじさんにボールを投げたりして。すごく面白いおじさんで、僕の相手をしてくれたんです」。
「おじさん」。鈴木康広をつくり上げるうえで、これはキーワードになりそうだ。鈴木少年の兄妹は、姉と妹。ご両親に兄妹が多かったことから、いとこもいっぱいいたそうだが、一番年上であったため、遊び道具を作り出すのは主に鈴木さん。ボールや折り紙の手裏剣などをつくっては、友達やいとこに配っていたという。
「つくるのは" 機能"があるものが好きだった。それは簡単な話で、遊び道具として使えるもの。例えば折り紙も、パンダとかも嫌いじゃないんですが、そこで終わっちゃう気がして。でも手裏剣だったらつくった後に投げて遊べる」。

見えないものを想像する
釣りという遊び

もうひとりのおじさんは鈴木少年を釣りに誘った。少年は毎週の誘いが楽しみで、前日は寝られないほどワクワクしたという。
「釣りってボーッと気長に魚を待っているイメージがあるんですが、そうじゃないんです。あれは気が短い人がやるスポーツ。水の中の見えない魚が、どういう気持ちなのかを考えながら手を替え品を替えて様子をうかがうというか。自分がお腹空いてきたから魚もそろそろお腹空いてきたかなーとか、こどもの頃は真剣に考えていました。浮き釣りが一番繊細な世界なんですが、浮きの動きひとつで魚の振る舞いがわかる。しかもそれが糸を伝って手で敏感に感じ取れる。そういう身体的な感覚もありますね」。
言葉の通じない相手に対し、どう工夫したらコミュニケーションがとれるか、鈴木少年は釣りからたくさんのことを学んでいたようだ。段ボール遊びと釣りともう一つ、鈴木少年を形成するうえで忘れてはならない道具がある、けん玉だ。自身の作品にも活かされている。
「けん玉は中学生の時に出会ったんですが、いまは目が合った時にだけやっています。毎日やり続けると誰でもうまくなるんですが、僕はけん玉をやらない時間がある方が、イメージを広げられて、実際にも成長しているんじゃないかって思っていて。それは別のことにも言えるんですが、やってみようと思える瞬間まで待つ。それがけん玉と目が合う瞬間なんですが、
その瞬間は自分が一番楽しく、いつもの自分以上に集中できる。成長の生まれる瞬間ってこういうものなのかなって」。
鈴木さんはマイペースだ。それは、作品をつくるときだって同じこと。こどもには、それぞれが持っているスピードがある。幸いあまり大人には邪魔されず、自分のペースを守りつつ、やりたいことをサポートできる環境、それが鈴木康広を作り上げてきたのだろうか。

国語と数学ができない
「アート」という言語で対話する

しかし、そんな鈴木少年にも苦手なことがあった。国語と数学だ。
「勉強は苦手でしたね。特に国語と数学。ある意味でコミュニケーションの根本ですよね。国語は言うまでもありませんが、数学も自然の原理を記述する方法です。でも、その2つが小学校の時から苦痛でした。コンプレックスというか、人に何かを伝えたいと思っているのに、伝える術がないというもどかしさが常にあって。だから、僕は得意な絵を描いたり工作をしたりして、人とコミュニケーションをとろうとしたんだと思う。いま、作品をつくっている最中やつくった後にスケッチを描くんですが、それも同じ。作品だけで伝わり切っていない気がすると思って描くわけです。伝えたいから。言語にできないもどかしさみたいなものは、その子ならではの能力を引き出すんだと思います。端から見たら欠点かもしれないけれど、そこには生きる可能性がたくさんある」。
国語と数学が苦手。しかし、絵を描いて相手に伝えたり、道具をつくって誰かに使ってもらったり、人との媒介となる「言語」の可能性をアートは広げてくれたのだ。
そして、鈴木さんは美大に入り、作品づくりの道を歩み続けることになる。美大進学の際にも、ご両親は反対しなかったという。「わがままを許してくれた」と鈴木さんは言うが、そうした周囲の大人たちの大らかさも、彼が生きやすい道への一歩を踏み出す大切な環境だったのだろう。
そして現在、一児の父となった鈴木さん。もうすぐ3歳になろうとする息子には、どのようなラーニングを構想しているのだろうか。
「いやあ、難しいですね。本当に僕は、親からの教育というよりは、環境で育っていて。親戚のおじさんに育ててもらったようなところもあるし。親とべったりなのではなく、親以外の大人とどうやって関わりが生まれるのかを考えていきたいですね。最近ひしと感じていますが、こどもはびっくりするくらいいろんなことがわかってる。言葉に出されることなんて、本当に少し。自分がそこで苦しんだのもありますが、言葉にならない部分を大切に考えてあげられたらと思います」。
鈴木康広展「近所の地球」
開催日:2014年8月2日[土]~ 2014年10月19日[日]
開館時間:9時30分~18時(入場時間は17時30分まで)
休館日:月曜日 *ただし9月15日、10月13日(月・祝)は開館、9月16日、10月14日(火)は休館
入場料:一般800円、団体(20名以上)600円 中学生以下、65歳以上・障害者手帳をお持ちの方と付き添いの方1名は無料
会場:水戸芸術館 現代美術ギャラリー
住所:茨城県水戸市五軒町 1-6-8 
電話:029-227-8111
主催:公益財団法人水戸市芸術振興財団
会場構成:ワンダーウォール
企画:浅井俊裕(水戸芸術館現代美術センター芸術監督)
https://arttowermito.or.jp/

鈴木康広
1979年静岡県浜松市生まれ。2001年東京造形大学デザイン学科卒業。
日常のふとした発見をモチーフに記憶を呼び起こし共感を生み出す作品を制作。国内外の展覧会をはじめ、パブリック・スペースでのコミッションワーク、大学の研究機関や企業とのコラボレーションにも積極的に取り組んでいる。著書は作品集『まばたきとはばたき』(青幻舎)、『Digital Public Art in Haneda Airport 空気の港テクノロジー×空気で感じる新しい世界』(共著/美術出版社)。
武蔵野美術大学空間演出デザイン学科専任講師、東京大学先端科学技術研究センター中邑研究室協力研究員。
http://www.mabataki.com/

執筆中














    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このページのトップヘ