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カテゴリ: 書評・読書感想


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朝の8時過ぎから会社を休み本日は病院へ出掛け検査三昧であった。待合室で待つ間、一気に読んでしまった。本書を読みながら周りを見回すと、待合室は老人だらけ、カンベイ氏(双日総合研究所:溜池通信管理人の著者 吉崎 達彦)には申し訳ないが、この本の主張である殖産遊民興業は・・・確かにそうかもしれないが、それでも老人が金を使うのはギャンブルとかツーリズムじゃなくて、医療費と健康食品なんだよね・・・って、ちょっと批判的に思ってしまった。

もくじ
第1章 いつの間にか先頭を走っていた日本 7
 経済の中心が「パンよりサーカス」に
 長期停滞時代の勝ち組は日本である
 アベノミクスは世界のお手本?

第2章 ツーリズムを「大産業」に育てよ 45
 インバウンドをどう活かすか
 JR九州は遊民経済学の優等生
 フェイスブックが旅の道連れに

第3章 地方には無限の可能性が眠っている 71
 富山出身者が見た金沢の強み
 水木しげると出雲大社
 「司馬遼太郎」が上げた四国の価値
 「フロンティア」でなくなった北海道の生きる道

第4章 おもちゃとゲームとお葬式 110
 「遊民経済学」を先取りしているおもちゃ業界
 ゲーム産業は「搾取される小作人」?
 サービス業化する「お葬式」
 ソニーとディズニー

第5章 ギャンブラーは経済の救世主 151
 ギャンブルとバブルと金融不安
 産業としての競馬の可能性
 日本版カジノ法案の本当のところ

第6章 それでも私は「二郎」に通う 179
 ラーメンはなぜ快楽なのか
 台湾で選挙見物を楽しむ
 夏は福島競馬に通う理由

第7章 第2の人生こそ本物の人生だ 209
 ピケティ、金持ち父さん、漱有
 どうすれば高齢者はカネを使うのか
 「第2の人生の達人」伊能忠敬
 「50代のお父さん」になった日本経済

あとがき 246
本書のタイトルである、”気づいたら先頭に立っていた日本経済”ではあるが、グローバルな経済学の話は第一章のみで、二章から遊民=富裕層老人にいかに金を使わせ、デフレを脱却するかという具体的アイデアの本である。

失われた10年の原因にはバブル崩壊、ソロス氏が大立回りをした1992年のポンド危機、1997年のアジア通貨危機などがあり大手金融機関の不良債権処理の先送りによる度重なる破綻は市場に大きなショックを与え、企業が採用を削減したことから、世代人口の多い1970年代生まれは深刻な就職難に直面、就職氷河期と呼ばれる時代が続いた。また、不況が長引くとデフレが発生し、賃金は下がり続け、非正規雇用が増加した。

デフレによって、コスパの良いユニクロや100円均一、食べ放題などバブル以前にはなかった真新しいサービス・販売方法が確立され、不況⇒賃金低下/リストラ⇒需要減⇒物価安⇒業績悪化⇒賃金低下のデフレスパイラルに陥ってしまった。

その後一時回復しかけたが、リーマンショックなど世界的不況に襲われ、失われた20年=長期停滞時代と呼ばれるに至った。この長期停滞経済は、日本固有の現象ではなくいまや世界的な現象となっている。

長期停滞時代の勝ち組は日本である
p17-25
米外交専門誌の『フォーリン・アフェアーズ』誌最新号(2016年3/4月号)が長期停滞論の特集をやっている。この雑誌、ジョージ・ケナンの『X論文』からサミュエル・ハンティントンの『文明の衝突』論文まで、以前から時代を画するような論考を掲載することで知られている。

 今回もちょっと気が利いていて、特集テーマが“The World Is Flat.”という。この表題、今から10年前にニューヨークタイムズ紙の売れっ子記者であるトマス・フリードマンが書いた本の題名と同じである。フリードマンの著書は、日本では『フラット化する世界』という書名で日本経済新聞社から出版されている。ひとことで言ってしまえば、グローバル化とIT革命を礼賛するような内容であった。ほれ、インドのバンガロールには、英語のコールセンターがいっぱいできましたよ、ぼやぼやしちゃいられませんよ、みたいなことが書いてあった。あれを読んで、「日本はまだ言語の壁があってよかった」と思った人は少なくなかったのではないかと思う。

 ところが『フォーリン・アフェアーズ』誌の“The World Is Flat.”は、「世界がペシャンコになった」とでも訳するのがお似合いだろう。英語のFlat(たいらな)には、「パンクした」という意味もあるからだ。つまり世界経済は、どこもかしこも大変なことになってしまった。「あそこはうらやましい」と言えるような存在が見当たらなくなって久しい。

2006年当時、『フラット化する世界』に対する批判として、「ビジネスクラスから見たグローバル化論」という指摘があった。トーマス・フリードマンはニューヨークタイムズ紙の花形記者であるから、きっといいホテルに泊まって、ビジネスクラス以上のフライトで世界を駆け回っているのであろう。でも、そんなことで、本当の世界経済の姿が見えるもんですかね、という嫌味である。

 10年後の今になって考えてみれば、確かにあの本は楽観的過ぎた。相次ぐテロ事件、難民問題の発生、過激なイスラム思想の浸透、主権を取り返せ、という声の高まりとイギリスのEU(欧州連合)離脱、そしてアメリカにおけるドナルド・トランプ現象……。

グローバル化やTIT時代の「負の側面」を「これでもか」と見せつけられるような口々が続いている。仮に2006年に格安ホテルとLCCで世界を、特にイスラム圏を重点的に回るジヤーナリストがいたら、『フラット化する世界』とはまったく違う、より悲観的な世界経済の未来像が描けたかもしれない。

 世界経済の雰囲気全体も、10年前とは一変している。2006年当時は米国では住宅バブルがまだ健在であったし、中国は資源爆食型の経済成長を続けていた。そして日本経済も、輸出主導型の「いざなみ景気」の最終局面にあった。世界貿易量は毎年のように2桁増を記録していたし、石油価格はIバレル60ドル台でまだ上昇途にににあった。

 ところが10年後の今日、世界経済はすっかり沈滞ムードにある。とにかく2008年のりーマンショック後の国際金融危機の痛手が大きかっと。そこから中国が4兆元の財政出動を行い、一種の「新興国バブル」を起こすことで世界経済はかろうじて回復してきた。FRB(米連邦準備制度理事会)がデフレ回避に向けて数次にわたる量的緩和政策に訴え、低利の資金が新興国に流人したという背景もあった。しかるに今では中国経済が減速しつつあり、ましてやブラジルやロシアは息も絶え絶えといったところである。
 
アメリカ経済はいちおう好調ということになっている。失業率はピーク時の2桁から5%以下にまで改善した。とはいえ国民が満足しているかというと、とてもそんな風には見えない。量的緩和政策からの出口は簡単ではなさそうだ。米大統領選挙を見る限り、これまで溜め込んできた不満がばとばしっている感がある。

 ヨーロッパ経済はようやく立ち直りつつある。が、そこヘパリやブリュッセルヘの度重なるテロ攻撃である。さらに愛想を尽かしたイギリスが国民投票でEU離脱を決めてしまった。そんな中で、ギリシヤの財政問題も片付いてはいない。むしろ当面はイタリアの銀行の不良債権問題が焦点となっている。どこまで続くぬかるみぞ。

 中国などの新興国経済にはかつてのような勢いがない。中国はまだ「減速」などと言っていられるが、ブラジルやロシアの経済はインフレも伴って惨價たるものだ。一世を風扉したBRICs経済でも、今では元気がいいのはインドくらいである。これを商社業界などでは、「BRICsは死んだが、愛(I)だけが残った」と呼んでいる。

 かくして世界中どこを見渡しても不機嫌になっている。これを称して「長期停滞論」と呼んでいるわけだ。『フォーリンーアフェアしス』誌に巻頭論文を寄稿したローレンス・サマーズ教授(ハーバード大学)によれば、これは世界的な過剰貯蓄、過少投資の結果であるという。

 貯蓄が過剰になる理由はよくわかる。先進国はとこでも高齢化が進んでいて、高齢者が資産を持っている゜それらの多くは安全資産に滞留してしまう。真面目な話、余生か短い人たちに、あんまりリスクを取らせるわけにはいかないだろう。

 それから所得格差が拡大して金持ちの資産が急増していることも、貯蓄増加の一因であるだろう。 一人の人が持つ100億円と、100人の人が持つ1億円では、当然後者のおカネの方が使われやすいっ大金持ちは得てして忙し過ぎるので、おカネを使う暇がなかったりするのである。

 過少投資になるのはなぜか。ひとことで言えば、フロンティアが枯渇したからであろう゜今世紀に入って、すぐに起きたのがハイテクバブルの崩壊であった。次にアメリカの住宅バブルがサブプライム問題となって炎上した。2008年のりIマンショック後は中国を中心とする新興国バブルで息をつないできたが、今ではそれさえも怪しくなって、2014年夏からは石油価格の暴落が始まった。つまりニューエコノミーもオールドエコノミーもダメ、先進国も新興国も失速して、いよいよ見込みのある投資先がなくなった、ということになる。

 サマ-ズ論文には、「ニューエコノミーは投資を減らす」との指摘もある。言われてみればその通りで、ネット上でほとんどの用事が済むようになると、有形資産に投資する必要がなくなってくる。

アマゾンは書店を不要にし、フェイスブックは「久しぶりにお目にかかって一杯」を省略し、Airbnb、すなわち日本でいう「民泊」は、ホテル建設の需要を減らす。ウーバーという自動車のシェアサービスは、使っていないクルマを活用してくれるわけだが、結果として新車が売れなくなってしまう。ヴァーチャルな経済が発展すると、得てしてリアルな経済を代替してくれてしまうのだっそれもお安く。

 しかも技術の進歩はむちゃくちゃ早いから、下手に箱モノを作ったりしていると後で陳腐化したり、コストが掛かったりして泣きを見るかもしれないっかくして貯蓄は増えるのに投資が増えない。結果は低成長、低インフレ、低金利である。「日本式の経済停滞は既に他人事ではない」とサマ-ズ教授はのたまう。

 そこで解決策をどうするか。マイナス金利などの金融政策ではもはやどうにもならない。サマ-ズ氏の処方箋は財政政策の発動である。世界経済の需要を管理する必要があって、足りなかったら政府が補うしかない。財政赤字が拡大しても、未来の世代には低利の長期国債という資産が残るからいいじゃないか、というのである。

 さて、それでは本当に財政政策で世界経済の夜は明けるのか、そこは何とも疑わしいと筆者は考えている。民間投資が足りない時に、政府部門が一時的に公共投資を増やして対応するのは経済政策の常道である。が、財政出動だけで今の構造的な「過剰貯蓄、過少投資」を解消できるとは考えにくい。それは財政赤字を増やしてしまうし、投資そのものも非効率であるし、持続可能でもあるまい。だいたいおカネの使い方というものは、政府よりも民間の方がよく知っているものだ。

 マネーはつまるところ、なるべく無理のない形で使ってもらう必要がある。無茶で無謀な公共投資は、あとあと緑でもないことにつながる。日本国内だけでも、その手の例は嫌というほどある。「長期停滞論」がでてきたということは、いよいよ経済政策のアイデアが枯渇してきた、ということなのかもしれない。

 「長期停滞論」特集には、ほかにも面白い論文が載っている。投資家のザチャリー・カラペルという名前は初耳だが、『フォーリンーアフェアーズ』誌はときどきこういう「抜擢」をやってくれる。題名は、『停滞を愛せよ~成長は万能ならず。日本に尋ねよ』である。

 いわく、世の中が長期停滞に見えるのは、政治家やエコノミストがあいかわらずGDP(国内総生産)中心で世の中を見ているからだ。しかしこの間に、世界的に生活に不可欠な財やサービスの価格が低下している。つまり賃金レベルが停滞しても、生活レベルを維持するか、向上させることができる。デフレと低需要は成長を抑之込むかもしれないが、それが必ずしも繁栄を損なうとは限らない。その何よりの証拠が日本経済だ。

 日本は長らく世界経済の反面教師と見なされてきた。それでも世界有数の豊かで安定した国である。平均寿命は長く、犯罪率は低い。医療と教育も優れている。所得格差は他国と同様に拡大しているが、多くの人の生活レベルが悪化したわけでもない。公的債務が金融崩壊を引き起こしたわけでもない。

 おいおい、よしとくれよ、と言いたくなるところだが、「長期停滞の世界経済における勝ち組は日本である」という見方は、意外性があってちょっと面白い。低成長で、マイナス金利で、少子・高齢化で、ちっとも明るいとは思えない日本経済だが、今のところ物価は安く、メシは旨く、公的サービスもちゃんとしている。移民や宗教やテロといったややこしい問題もとりあえずは対岸の火事である。なにより国政選挙をやれば毎度キチンと与党が勝つ、という点が今どきの先進国においては稀有の安定度と言える。

アメリカ経済は人口が増えている。それは確かに結構な話だが、移民が増えるということはいろいろ社会の負担が増える。米国の失業率は確かに改善しているが、それではなぜドナルド・トランプが大統領に当選したか説明できない。アメリカ国民が溜め込んできた不満がほとんど爆発している感がある。とりあえず、ウォルマートの店員として働き口が有っても、それでは満足できないのである。

ドイツの繁栄の為にEUがあることがバレバレになってきて、そこへ難民の増加に加えて、テロ攻撃である。イギリスが国民投票でEU(欧州連合)脱退を決め、一時はブリックスが通過して慌てたが、最近英国世論は離脱容認派が増えつつある。ギリシャの財政問題も片付いてはいない。ヨーロッパ経済はどこまで続くぬかるみぞ・・・。

 中国などの新興国経済にはかつてのような勢いがない。中国は表向き統計発表上6.5%成長となっているがまともなエコノミストは「中国はマイナス成長」だと思っている。ブラジルやロシアの経済はインフレも伴って惨憺たるものだ。一世を風靡したBRICs経済でも、今では元気がいいのはインドくらいである。これを商社の人達は「愛(I)だけが残った」というのだそうだ(笑)。でも、愛だけではご飯が食べられない。

 かくして世界経済全体が日本が最初に突入した「長期停滞」に突入しているのである。ローレンス・サマーズ教授によれば、これは過剰貯蓄、過少投資の結果であるという。

 貯蓄が過剰になる理由はよくわかる。先進国はどこでも高齢化が進んでいて、高齢者が資産を持っている。それらの多くは安全資産に滞留してしまう。所得格差が拡大して金持ちの資産が急増していることも、貯蓄増加の一因であろう。今更バブルを起こせないのである。

さらに、社会が成熟してくると、プライスレスな「お金に換算できない価値」に人々は情熱をかけるようになってくる。それは、GDPに換算できないものである。

日本は確かにバブル崩壊後、GDP上成長はしていないが、「お金に換算できない価値」は確実に増え、世界から尊敬され羨望される社会を形成している。

そして、どん底だった民主党政権の日本を復活させたのが安倍首相でありアベノミクスであって、アベノミクスは世界のお手本?かと、カンベイ氏は問いかける。

アベノミクスには色々な側面と範囲が有って、人々はその人の価値観から成功か失敗か見方が分かれ、成功か失敗かという議論がなされている。
P37
積極的な金融政策と財政政策の組み合わせ、ということになると、「4年たっても2%という物価安定目標は達成されていない。だから失敗だ」と断じるべきか。それとも「4年も続いていること自体が成功であるし、そもそも失敗していたら速やかに忘れ去られているはず」と見るべきだろうか。

 カンベイ氏は英国の高級誌『エコノミスト』が取り上げたアペノミクスに対する特集記事を紹介している。

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   The Economist 2013年5月18日号     2016年 8月5日号
表題2013年”Is it a bird? Is it a plane?  No...It's Japan!
                   (鳥か?飛行機か?日本だ!)
副題2013年”Abenomics,nationalism and the challenge to China”
                  (アベノミクス、ナショナリズム、中国への挑戦)
表題2016年“Abenomics―― What it can teach the world”
        (アベノミクスが世界に教えられること)
副題2016年“Overhyped underappreciated”
        (誇張され過ぎだが、過小評価されている)
P37-44
これまで何回かカバーストーリーで取り上げているのだが、典型的なのが2013年春と2016年夏の号である。

 2013年春にアペノミクスが始まったばかりの頃は冷やかし半分で、スーパーマンに扮した安倍首相を表紙に使っている。その上で、「ナショナリストの安倍は、明治時代のスローガン『富国強兵』の通り、豊かな日本だけが中国に対抗できると考えている。

アペノミクスは経済政策であるとともに国家安全保障政策である」などと評していた。
その上で、「安倍は厳しい国内改革を実現できるのか、そして経済だけに専念できるのか(中国に不要な喧嘩を売るのではないか)」と少々、上から目線で疑問を呈している。

これに対し、2016年夏の号では日の丸に安倍首相、その後ろを飛ぶ3本の矢、と
いう真面目な絵柄を掲げ、「アペノミクスが世界に教えられること」と題している。このタイミングで取り上げるのだから、てっきり悪口を言うのかと思ったら、逆にアペノミクスを持ち上げている。「安倍首相は誇張しがちだけれども、今のアペノミクスヘの評価は低過ぎる」と結論付けている。はて面妖な。

 2013年にアペノミクスが始まったばかりの頃は茶化して、2016年に皆が疑い始めた頃になって持ち上げている。この3年間で何か変わったかと言えば、もともとは「日本に特有の現象」だと思われていた低成長、低インフレ、低金利が、いよいよ先進国経済全体の現象になってしまい、日本経済が欧米にとって「貴重な先行事例」になったからであろう。つまり「アペノミクスが成功してくれないと、俺たち欧米経済も困る!」と思い始めたのではないか。

 実際のところ、「緩和的な金融政策」は欧米でもできないことはないが、「拡張的な財政政策」を実行できるのは日本くらいである。米国では議会が反対するし、欧州ではEU内がまとまらない(特にドイツの反対を押さえられない)。両者を組み合わせるという経済実験は、簡単そうに見えて実はそうではない。「長期停滞論」を唱えるサマ-ズ教授が、「主要経済国は協調してインフラ投資を」といくら呼びかけても、アメリカ政府自体がおいそれとは動けない。そしてまた、財政状況が悪い日本の方が公共投資に積極的、というのは皮肉な図式と言える。

 ゆえに欧米各国から見れば、「アペノミクスが成功して、日本経済がデフレから脱出してくれれば大いに結構。後から自分たちが真似することができる。仮に日本が失敗したとしても、それは自分たちには関係ない話だ」ということになる。いや、勝手なものですな。

 そこで日本としてはどうするのか。やはり財政政策を成功させなければなるまい。つまり使ったお金がちゃんと生きるようにする、ということで、これは言うは易く行うは難い。考えてみれば、日本は過去に「景気刺激策としての」公共事業をたくさんやってきた。その結果がどうであったかと言えば、あまり高い点数はつけられないだろう。維持費のかかる箱モノや、交通量の少ない高速道路や、津波の際に役に立だない防潮堤などが作られてきたのではなかったか。

 せっかく税金を投じるからには、ちゃんとその後で民間投資を誘発するようなものであるべきだろう。財政支出は永遠に続けることはできない。政府のおカネが終わったらそれでおしまい、では困る。それではデフレに逆戻りになってしまうだろう。テーマを絞った公共投資でなければならない。それはどんなものであるべきか。

 2016年5月19日、筆者は自由民主党の日本経済再生本部(本部長一稲田朋美政調会長=当時)の有識者ヒアリングに呼ばれた。余計なことだが、自民党本部で行われる朝食会にはひそかな楽しみがある。朝飯、特にコメが旨いのである。たぶん農水族のメンツが懸っているからであろう。その日はG7伊勢志摩サミットの直前で、「国際協調はどうあるべきか」がテーマであった。

 そこで筆者はひとしきり「長期停滞論」を紹介し、「政府が財政出動すべきテーマ」として、①アジアのインフラ投資、②ツーリズム(観光産業)への投資の2点を挙げた。

前者は海外の話で、おカネは需要が強くてリターンが高そうなところに投入すべき、という当たり前の話である。後者は国内で、ツーリズムという産業を育てることを国策として考えるべきであり、そこに税金を傾斜配分すべき、というものである。

 「観光立国」と言われ始めて既に久しいので、それ自体は珍しい提言ではないと思う。ただし普通のツーリズム投資といっても、道路や鉄道、ホテルといったものはちゃんと民間の資金が流れる。誰が見たって儲かる事業には、かならず手を出す人は居るものだし、おカネを出してくれる人だって見つかるのである。国費を使うからには、放っておいたらおカネが流れないところ、例えば文化財の保護という形で使ってはどうか、と言ってみた。

 おそらく「古い城を修復するプロジェクト」といった形では、いわゆる「乗数効果」
は期待しにくい。古いお城が、ある日突然、おカネを生んでくれるようになるわけではないからだ。しかし立派になった文化財を見に来てくれる人が増えるのであれば、これは立派な成長戦略ということになる。「あそこはいいぞ」という評判は、それこそGDPなどにはカウントされないが、地域のブランド価値を高めてくれるはずである。

 このアイデアは意外と好評であった。それというのも国会議員の先生方は、皆さん地元にひとつか2つ、「立派な観光資源であるはずなのに、あまり他所から客が来てくれないし、地元もありがたみを感じていない」文化財をお持ちであるからのようだった。

それでは宝の持ち腐れというものである。高速道路網が全国ほとんどできてしまい、いまさら工業団地を作るのもピント外れという今の日本では、ツーリズム投資こそが最も効率の良い投資ということになるのではないだろうか。

 本書の問題意識を改めてまとめておこう。
 今の日本経済は必要性の経済学から一歩抜け出して、遊民経済学へと踏み出すべき段階にある。そこで一番わかりやすいテーマがツーリズムであろう。幸いなことに、観光客は世界的に増えつつある。それは「インバウンド」(外国人訪問客数)の増加という形で、わが国にとっても現実のものとなりつつある。

 現在のアベノミクスは確かに途半ばであろう。金融も財政も大胆に使って、それでなおデフレから脱却できない恐れがあるとしたら、それは「こういう方向で日本経済を発展させていく」というテーマ性、もしくは物語性に欠けているからではないかと思う。

 2016年8月に閣議決定された2次補正予算においては、「訪日外国人客が利用する大型クルしス船に対応した港湾などインフラの整備などに1兆4056億円」が盛り込まれた。これなどは、まさしくツーリズム投資であり、景気対策としての「ツボ」だと思う。ただし惜しむらくは、「1000本の針」と呼ばれかねない細かな事業である。
 
もっと骨太なストーリーを描けないだろうか。それは「がっては安くて良い製品を作ることに長けていた日本経済が、遊びを軸とするサービス産業中心の経済に生まれ変わる」という大胆な絵柄である。成熟した自由主義経済であり、世界有数の金融資産を持ち、世界でもっとも高齢化した人口を持つ日本こそが、遊民経済学の時代の先頭ランナーとなる資格を有している。

と、こんな風に大きく訴えれば、デフレからの脱却も見えてくるのではないだろうか。

英エコノミスト誌の記事は次のように結んでいる。

 「ある意味で(アベノこヘラスの)誇張は必要であった。日本の停滞は自己実現的な予言の結果であった。だとしたら、アペノミクスは皆が十分に実現を信じたときこそ、成功することになる。これこそ日本の経済実験が、世界に伝えられる究極の教訓となる。それは目標は高く、ということだ」


夏目漱石は、「こころ」や「それから」といった作品の中で描いた、高等教育を受けながら、時代の風潮を受けきれず、仕事にもつかずにぶらぶらして暮らしている人たちを、「高等遊民」と呼んだが、今の富裕層の老人達はまさに21世紀の高等遊民なのかもしれない。 

特集:遊民経済学の時代?
【溜池通信】July 25, 2014 双日総合研究所 吉崎達彦

このところ日本経済において、「ツーリズム」が占める地位が高まっています。成長戦略としての「観光立国」は誰もが認めるところでしょうが、モノづくりならぬ「思い出作り」の観光ビジネスは、従来の発想が通用しない面が多々あります。

しかし割り切って考えてみると、今は経済活動全体が変質しているのかもしれません。
消費者が「生活に必要なもの」を求める機会はじょじょに減り、むしろ「感動できるもの」を求めることが多くなっている。いわば「遊び」の観点が重要になっている。

こういうときは、既存の発想の体系を一度投げ捨ててないと、「今風の経済」は見えてこないのではないか。ということで、以下は少々大胆な「試論」です。

●鳥取と島根~「遷宮」が地方経済を救う

仕事柄、地方に出張する機会をよく頂戴する。今月は、山陰中央新報紙の政経懇話会の講師として、鳥取県米子市と島根県松江市を訪れた。筆者にとっては、地方経済の現場を観察する絶好の機会である。

よく「一票の格差」問題などで引き合いに出される両県は、鳥取の人口が 57.5 万人、島根の人口が 69.8 万人である。つまり鳥取は杉並区(55.7 万人)なみ、島根は足立区(68.8万人)なみの人口に過ぎない。ただし山陰両県を昔の区分(令制国)で見ると、東から順に「伯耆」「因幡」「出雲」「石見」となり、さらに「隠岐諸島」をも含んでいる(竹島も!)。単に広いだけでなく、文化的にも多様な地域を包摂していると言える。

過疎の人口減少県である山陰地方は、今後の日本経済を考えるヒントを提供してくれそうだ。さて、どんなことが起きているのだろう。

ここでは地元の『山陰経済ウィークリー』誌 7 月 15 日号が、「大遷宮特需」を特集していることをご紹介したい。

昨年は伊勢神宮が 20 年に 1 度、出雲大社が 60 年に 1 度という、非常にめずらしい「ダブル遷宮」の年であった。伊勢神宮には史上最高の 1420 万人が訪れたが、出雲大社も 804万人が訪れ、例年の 250 万人程度を大きく上回った。普段は西日本からの参拝客が中心の出雲大社であるが、昨年は東京からの女性客が目立ったという。さすがは「縁結び」の神様というべきか。

お陰で島根県内の宿泊、運輸、食品工業などで好決算が相次いだ。日本銀行松江支店の試算によると、県内の経済波及効果は 344 億円で、県内成長率を 1%押し上げたとのこと。
県内の玉造温泉はもとより、鳥取県の皆生温泉にも好影響が及んでいたという。

ツーリズム(観光産業)の底力を思い知らせるような話であるが、それというのも島根県の人口が少なく、観光客受け入れのキャパシティも小さいからこそ、経済効果が大きく感じられることになる。早い話、東京ディズニーランドの年間 3129 万人(2013 年)の入園者数が、首都圏にいかなる経済効果をもたらしているかといえば、話が大き過ぎて見えなくなってしまう。が、地方経済の活性化という観点でいえば、観光客は少なくても確実なプラスをもたらしてくれるのである。

同様な例を挙げるならば、鳥取県の境港は近年、日本有数の漁港というよりも、「水木しげるロード」で有名である。こちらは 2010 年のピーク時(NHK の朝の連続テレビ小説が『ゲゲゲの女房』だった年)には、年間 370 万人が訪れたという。実に県の人口の 6 倍以上、地元境港市の人口の 100 倍以上である。これだけの訪問客があれば、シャッター通りも復活してくるし、「何か面白い仕事を試してみよう」と外からやってくる人もいる。
さらには商店街が、「観光地価格」のメリットを享受することができる。

思うに、「急激な人口減少」はもちろん経済にとっては痛手であるけれども、「少ない人口」で安定してくれれば、それから先の問題は意外と少ないのではないか。先般、日本創生会議(増田寛也座長)が、「2040 年までに全国の 896 自治体の半分が消滅する」という衝撃的な報告を行った。あれは「若い女性に見離された自治体は滅びる」という指摘に値打ちがあるのであって、字面通り自治体の消滅を恐れるのは過剰反応ではないかと思う。

地方都市の人口構成は既に高齢化がかなり進んでおり、今後も無制限に続くわけではない。今後はむしろ大都市圏の高齢化が本番を迎える。特に団塊世代が後期高齢者になったときに、首都圏の自治体における医療・介護の負担は相当に深刻なものになりそうだ。

もちろん、観光旅行が一過性のブームに終わってしまっては困るのだが、出雲神社にせよ水木しげるロードにせよ、他所にはない「オンリーワン」の観光商品である。特に境港市は、ありきたりな「漁業による街づくり」ではなく、「妖怪による街づくり」を目指したことがロングセラーの秘訣となった。「ナンバーワン」を目指す努力はいつか誰かに抜かれてしまうが、「オンリーワン」はそもそも誰も追いかけてこない。地方都市は弱者であるからこそ、この手のリスクを取ることができるとも言えるだろう。

●道後温泉~なにが人気になるかわからない

他方、有名な観光地だからといって安閑としてはいられない。その点で面白かったのが、5 月 22 日に愛媛日経懇話会の際に訪れた松山市道後温泉の事例である。

おそらく国内の温泉地の中でも、道後温泉ほど条件的に恵まれたところは少ないだろう。

1. 知名度:「聖徳太子が入った」と伝えられるほどに歴史が古い。
2. アクセス:松山空港から市内までクルマで 20 分。道後温泉まで市電で 15 分程度。
3. 話題性:夏目漱石『坊ちゃん』の舞台として知られ、その後も道後温泉本館が宮崎アニメ『千と千尋の神隠し』のモデルになり、さらに NHK ドラマ『坂の上の雲』で松山市が注目を集めるなど、話題が尽きない。

いわば「鉄板」の観光地なのだが、いつまでも過去の人気には頼っていられない。それというのも、道後温泉本館は国の重要文化財で、最近では近代化産業遺産にも指定されているが、今年で120周年を迎える。大還暦を機に間もなく大改修を行うことになっている。
街のシンボルが使えない間、集客をどうするかが課題になっていた。

そこで道後温泉では、温泉とアートを組み合わせたイベント「道後オンセナート」を開催中である。何か所か見学させてもらったのだが、いちばん驚いたのは宝荘ホテルだった。
国際的アーチストの草間彌生氏が内装した部屋が、海外の雑誌が取材に来るほどの反響となっている。内外の現代美術ファンがやって来るので、一泊 7 万 8000 円もする客室の稼働率は 6 割もあるとの説明であった。

○宝荘ホテル×草間彌生(5 月 22 日、筆者撮影 http://www.takaraso.co.jp/
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昔はヒット商品と言えば、見た瞬間に誰でも「ああ、これは売れるだろう」と分かったものである。最近は、「なぜこれが売れるのかサッパリ分からない」ものが多くなっている。ちなみに宝荘ホテルの社長さんは、「私は分かりませんから、全部草間さんにお任せします」と最初から言っていた由である。


こうしてみると、「どうやったら観光客を増やせるか」はそう簡単な課題ではない。「モノづくり」では直線的で地道な努力が効果を発揮するが、「感動を売る商売」には「逆転の発想」的なセンスが必要になる。「他所でうまく行ったこと」の真似をすればいいのではなく、「他所がまだやっていない面白いこと」をやらなければならない。

最近は成長戦略としての「観光立国」の議論が盛んだが、観光客を増やす努力においては、「成功のひな型」がどこかにあると錯覚してはならない。観光業における他人の成功例とは、もはや使えなくなってしまった古い手口に過ぎないのである。

●観光立国~なぜ人は旅に出るのか

かねてからの筆者の持論として、わが国では産業としてのツーリズムが過小評価されてきた。普通の国では、観光産業は GDP や雇用の 10%程度を占めるが、日本のそれは 5~6%にとどまっている。いわば「使っていない筋肉」のようなものであり、裏を返せばビジネスとしての伸び代は大きいはずである。

都市と地方の格差を縮小する、という政策課題を考える上でも、ツーリズムの有効性は明らかである。都市部のマネーを地方に再分配するために、かつて「米価」が使われた時代があった。都市住民が国際価格よりも高いコメを買うことで、「国土の均衡ある発展」
を図ったのである。あるいは「公共事業」によって、全国各地にランドマーク的な「箱モノ」が乱立した時期もあった。これらの施策には、どうしてもさまざまな弊害が付随する。
それに比べれば、ツーリズムは「人の移動を盛んにする」ことで、より健全な形でマネーの還流を加速し、地方経済を活性化することができる。

さらに外部環境も改善している。たまたま今週は、今年上半期の外国人訪問客数が史上最高の 626 万人に達したことが報じられた。前年同期比 26.4%増というから、昨年の好調さが持続しているようだ。①円安の定着や、②東南アジア向けのビザの発効要件の緩和、③LCC の普及などの効果が浸透しているのであろう。日本を訪れるリピーターも、着実に育ってきているのではないだろうか。

小泉政権が「ビジットジャパン・キャンペーン」を始めた 2003 年には、同じ上半期の訪問客数は 229 万人に過ぎなかった。おそらくこの 10 年ほどで、「世界を旅する」人口が飛躍的に増えているのであろう。

近年の新興国における経済発展は、特にアジアで分厚い中間層を勃興させつつある。航空会社の数も増えて、ネットワークも充実しつつある。それと同時に、「世界遺産」なるものが注目を集めるようになってきた。さらに言えば、スマホで撮影した観光地の写真を、SNS を通して友人たちに見せる、という新習慣も広がっている。いろんな意味で、ツーリズムは国際的に急成長しているのである。

ところが、国内の観光業者の意識はたぶんに古い時代を引きずったままである。
「奈良の大仏商法」という言葉がある。奈良には大仏があるから、放っておいても修学旅行が来てくれる。ところが修学旅行ほど、旅客業をスポイルするものはない。何しろ、大勢を狭い部屋に泊めて、お仕着せの料理を出して、去年と同じサービスで良くて、なおかつクレーム処理は学校の先生がやってくれるのである。こんな楽な商売をやっていたら、サービス業としての競争力がつくはずがない。

必然的にフリーのお客は、奈良は昼に通過して、夜は京都や大阪で宿泊することになる。
「義務で来てくれる」客が居るものだから、「遊びで来てくれる」客の気持ちが分からなくなってしまうのである。

●遊びビジネスの時代と「長期停滞論」

今日のビジネスを考える上で、最も重要なのがこの「遊び心」を読み解くことであろう。
「……しなければならない」と考えている消費者のニーズは、比較的容易に把握することができる。ところが、「何か面白いことがあればいいのに……」と思っている消費者は、どうしたらカネを使ってくれるのかが分からない。非必需品を売るときは、必需品を売るとき以上に知恵が必要になる。そして利益率は、得てして必需品よりも非必需品の方が高いのである。

最近になって誕生するネット関連の新しいビジネスには、遊びに関するものが目立つ。
フェイスブックは「社交」を商売にしてしまったし、スマホという道具が定着したことで無料ゲームの配給会社が数多く誕生し、最近では「面白いニュース」を勝手に拾い集めてくれるキュレーションメディアも誕生しつつある。

これらはすべて、生活する上で必要欠くべからざる存在ではない。強いて言えば、平凡な日常をちょっとだけ楽しくしてくれる商品やサービス群である。ゆえに料金を取るわけにはいかないので、収益は広告モデルが多くなる。が、とにかく人々の生活を変えつつあることは間違いない。

語弊を恐れずに言ってしまうと、今日の消費者は良く言えば「思い出作り」、悪く言えば「暇つぶし」のためにおカネと関心を払うようになっている。逆に「生活の上で必要欠くべからざるもの」に対する支出は、以前とそれほど変わっていない。となれば、ビジネスは当然、前者の開拓を目指すべきであろう。

ここで、「どうすれば遊び関連ビジネスを成功させられるか」という知恵は筆者にはない(あったとしても、こんなところではもちろん公表しない)。逆に関心があるのは、「日々の生活の糧を追い求める時代につくられた経済学は、これからの時代にどこまで通用するのか?」である。

昨今、景気回復途上の米国で話題になっているのが「長期停滞論(secular stagnation)」である。以下はその代表的論者であるローレンス・サマーズ御大の主張である。

* リーマンショック後の米国経済の低成長は、需要不足が顕在化したから。そしてリーマンショック以前のバブル期においても、超過需要は発生しなかった。

* その原因としては、「生産性の鈍化」「格差の拡大(富裕層は消費性向が低い)」「金融危機後のリスク回避傾向」「技術革新」などが考えられる。
* そこで考えられるのは、①サプライサイド政策(構造改革)、②金融緩和、③需要創造政策の 3 点である。①は時間がかかるし、②はバブルの危険がある。長期停滞を回避するには③が必要だ。
* 大規模な雇用の創造が喫緊の課題である。かつてのグラッドストーンやビスマルクのように、政府の役割の大変化が必要である。

米財務長官も務めた大経済学者に対し、こう言っては失礼かもしれないが、「分かっちゃいないな」である。これぞ「必需品を売る」時代の経済学の典型的な発想ではないか。
「遊び」を主要なニーズとする時代に、どうやって政府が需要を喚起できるのか。「遊び」に対する思いは、人それぞれに違っている。それらを一緒くたにして、「大規模な雇用の創造」に結び付けられるとはとても思えない。

かかるケインジアン的な発想は、筆者にはまるで「修学旅行が大勢来てくれた時代を懐かしがっている旅館の繰り言」のように思えてしまう。おそらく新興国経済であれば、まだまだ有効な思考なのかもしれない。が、これからの先進国経済を考える上では、早々に捨て去った方が良いのではないだろうか。

●「遊民経済学」へのはるかなる道

必要性ではなく、「遊び心」を主な需要とする経済を読み解くには、いわば「遊民経済学」的な発想が必要になるだろう。もちろんそんなものは現時点では存在しない。「ミネルヴァのふくろうは夕暮れに飛び立つ」というくらいだから、たぶん「遊民ビジネス」がいくつも花開くようになった後になって、ようやく理論化されるのではないか。
ところで社会学の世界では、「遊び」をテーマにした古典的名著が 2 つある。ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』と、ロジェ・カイヨワの『遊びと人間』である。最近になって知ったのだが、カジノ・ビジネスの世界ではこの 2 つの本が活用されている。つまりラスベガスにおいて、原始的なカジノが広い意味の総合エンタテイメント産業に育つ過程において、「遊びとは何か」が事細かに検討されているのである。だとしたら経済学はともかくとして、「遊民経営学」は既に産声を上げているのかもしれない。

遊民経済復興安のなかで是非ともと思ったのが、食堂車の復活である。
p54-55
国鉄がJRになり、ブルートレインがなくなり、いろんな路線が廃線となった中で、
食堂車もほとんど姿を消したっ軽食を提供するビュッフエくらいはまだ残っているけれども、古きよき旅の習慣は失われていった。どうせ新幹線には長時間は乗らないんだし、お弁当は種類がいっぱいあるんだし、車両を増やすとそれだけコストもかかるし、食堂用の従業員確保も手間である。それに、自出席代わりに一杯のコーヒーで粘るような客もいるしねえ、ということで合理的な経営判断なのであろう。

 その一方で、この国が本気で「観光立国」を目指すのであれば、そろそろJRは食堂車の復活を真面目に考えるべきなんじゃないか、という気がしている。

 とにかく日本という国は、弁当や軽食が異常に発達している。そのこと自体はもちろん結構なことである。実際に筆者なども、電話も来客もない新幹線車内はとっても仕事がはかどるオフィス空間だと思っていて、食事にはさほど時間をかけないのが常である。

とはいうものの、外国大観先客の身になってみたら、今の新幹線、特に東海道新幹線はちょっとビジネス仕様に過ぎるような気がする。冷たいご飯とお茶を好まない中国人観光客は、物足りない思いがしているのではないだろうか。

最後の部分は診察が終わって、最後の部分は病院のカフェテリアで読み終わった。
最終章の伊能忠敬の人生を読み、少し考えてしまった。

「第二の人生」の手本とされている伊能忠敬が50歳になってからライフワークとして『大日本沿海輿地全図』を作成した彼の生き方を、通説とは違う突っ込んだ形で紹介している。

彼の名を遺した『大日本沿海輿地全図』の測量に出掛けたのは55歳、当時の55歳はここにいる70代の老人と同じくらいの年齢感覚であったであろうし、実年齢でも私とさほど差がない・・・私も第二の人生を何に懸けるか悩みどころである。

能忠敬は隠居した時に資産が3万両あったという、現在に換算すると30億円~50億円に相当すると言う。(p234まあ・・・ということで、自分が伊能忠敬になろうなどとは思ってはいない。伊能忠敬のようなリッチな隠居になるにはまず億萬長者にならなくてはならないようだ。

日本経済の活性化は元気な老人をいかに躍らせるかである・・・カンベイこと吉崎 達彦氏の老人の高等遊民化案は、医療費と健康食品にしか金を使わない老人達を躍らせる為の提案をしているかもしれません。


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就任して10日、世界中はトランプ新大統領が次々と繰り出す大統領令にただ茫然自失としている。

しかしながら、大統領令はトランプ新大統領が、選挙公約として掲げ、選挙活動を行い、米国民が正当な手続きを経て選らばてたのだ。そして、選挙公約をオバマ前大頭領と違い有言実行しているだけなのだ。

トランプ新大統領が連発している大統領令は、大いに問題はあるけれど、民主主義を尊重するならば、トランプに抗議する団体は民主主義を否定するテロリストと同列なのだ!かくもテロリスト予備軍を擁護するリベラルマスコミは米国を韓国のような情緒優先の約束事を守れないような国にしてしまうつもりなのだろうか?

韓国はテロリスト安重根を英雄とする国で、テロリストを英雄視することで、過激な意見を持ち、非民主主義的な行為が正当性を持つことになる。選挙ではなくデモで国政が覆すことが常態化すれば、国政は混乱しどこかの国のようになってしまう。

皮肉なことに反トランプを叫ぶ側が民主国家アメリカ合衆国を破壊する可能性がある。その延長線にはトランプ大統領暗殺の可能性を感じるのである。選挙期間中トランプ大統領の暗殺計画が盛んにささやかれた。

トランプ暗殺計画の信憑度 2016/6/12(日) 午後 11:31

大統領になるとシークレットサービスがつき暗殺しにくくなるからだという。

しかし、シークレットサービスが警護してもケネディは暗殺されたし、レーガン大統領も暗殺未遂事件に遭遇した。

トランプがCIAを必要以上に持ち上げている。噂では、何かしらの弱みを握られているとか、トランプ自身への暗殺計画だという話もある。ちょっと信じがたいが元CIA長官であったブッシュ前大統領(父)のケネディ事件関与に関する情報が昨年あたりからネット上に流布されている。まだ信憑性が高いとは思わないが興味がわく。

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リンカーンとケネディ、レーガン暗殺の共通点がある。点と線だが、語れば陰謀論になってしまい、怪しいと言われても仕方がないのだが、考えさせられるものがある。

トランプ暗殺の可能性を信じるのは「『ようやく「日本の世紀」がやってきた』日下公人・馬渕睦夫著」を読んでからだ。

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【夕刊フジ 】 2016/10/26 10:00
日本の未来を読み解くことに定評がある評論家で作家の日下公人氏と、世界の事象に精通する元ウクライナ大使、馬渕睦夫氏による初めての対談が実現した。
英国のEU離脱に始まる世界の大変動期を迎えた現代、グローバリズムの「ひずみ」と「きしみ」があちらこちらから聞こえてきている。この世界の成り立ちと、その背後にある巨大な金融ユダヤの存在について、両氏は喝破する。国家に金を貸し牛耳ってきた者が、歴史を作ってきた。だが、マイナス金利で世界は変わる。そして、その潮流の中で、日本型信用社会こそが理想だと説く。契約社会と信用社会の折り合いが絶妙なのだ。
「世界で今、まともな国は日本しかない」-本書に込められた、このメッセージこそ、現代の福音(ふくいん)となる。先行き不透明な時代に生きる現代人にとって必読の一書といえるだろう。

この第三章を読んでいただきたい。

 日本人が考える国とユダヤ人が考える国はまったく違う
p72-75
馬渕 資本家、とくに金融資本家は、お金を回して利益を上げるにはどうしたらいいかだけにしか関心がなく、いい製品をつくることなどには関心がない。関心があるのは、人がつくった製品やお金を右から左に動かして、どう自分が儲けるかだけです。

 だから世界経済は、どんどん悪くなっていく。実際、アメリカの労働者の実質賃金はどんどん下がっている。彼らは、雇用や消費などに関心がないからです。

 共産主義も同じです。それは、「サプライサイドエコノミクス」(供給力を強めることで経済成長を達成できると主張する経済学)で、つまり、供給側の企業、生産者のことだけを考える経済です。

 共産主義時代のソ連に赴任していたときに経験したことですが、企業に課されたのは、「生産量をこれだけ上げろ」というノルマだけで、需要や消費者のことは考えない。
供給が需要を決める。これでは、決して質のいいものをつくることはできない。
 サプライサイドエコノミクスは、共産主義と同じ発想だから絶対に経済が発展しない。それは、自由な市場の実現のためには「政府による介入は不要」とする今の「新自由主義」の考えも同じです。ひところ、新自由主義が流行って、ハンガリーからのユダヤ系移民の子どもである、ミルトン・フリードマン(一九一二~二〇〇六年 アメリカの経済学者。マネタリズムを主唱して、新自由主義を代表する経済学者)などがもてはやされました。

 大先生の前で恥ずかしいのですが、お金の供給量の多寡によって、経済を運営するというマネタリズム(貨幣供給量や貨幣供給を行なう中央銀行の役割など、経済の貨幣的な側面を重視する経済学の理論)なんて、ごまかしです。

 雇用の維持や賃金を上げることをしないと需要が伸びないというのは当たり前です。
だから新自由主義方式でやったらダメなんです。私は、アベノミクスも、残念ながら間違っている点は、まさにその点で、いくら企業の減税をしても、経済はよくならないと思います。

 彼ら(ユダヤ人)の発想から言えばそうなるのです。彼らはFRB(アメリカの連邦準備制度理事会 大統領が任命する七人の理事で構成され、そのうちの一人が議長として統括。中央銀行として公定歩合の変更などを行なう。実際のドル紙幣の発行などの中央銀行業務は下部組織である全米十二の連邦準備銀行が担当)を支配していて、通貨の供給量を握っているからです。
  
 民間人である彼らが握っているから、彼らの好きな通りに通貨供給量を増やしたり減らしたりできる。それが新自由主義経済です。これは共産主義経済と同じことで、グローバル市場は一握りのエリートがすべてを支配するという体制になってしまう。

日下 歴史的には同じことは何回もありました。ユダヤ人は昔からいるのだから、同じことをやってきた。国家に抱きついて国家から儲けるというのは、そもそも十八世紀後半にフランクフルトのゲットー出身のマイアー・アムシェル・ロートシルト(ドイツ語読み、英語読みでロスチャイルド)が銀行家として成功して、その五人の息子、長男(アムシェル)がフランクフルト、次男(ザロモン)がウィーン、三男(ネイサンがロンドン、四男(カール)がナポリ、五男(ジェームス)がパリと、それぞれに分かれて銀行業を拡大したときから同じです。

そのときやったことは、本にいっぱい書いてある。ただし、日本人はほとんど読んでいないんじやないかな。それを読めば、馬渕さんの言うことは「なるほど」となる。

 私は銀行員だったから、ロンドンに支店を出したり、ニューヨークに支店を出したりすると、ユダヤ人がたくさん寄ってくる。彼らと一杯飲んだり食べたりして、それで、「ああ、彼らはこんな人間なんだ」とわかった。

 日本人は国際感覚がまったくない。日本人は、国といったら同じように考えている。
彼らが考える国と日本人が考える国とは全然違う。日本人が考える国は、二〇〇〇年ぐらい前から続いていて、聖徳太子から千数百年以上続いていることが、みんな当たり前だと思っているから、何も考えない部分がある。


 国家に金を貸して国家を牛耳る金融ユダヤ
p75-78
馬渕 言ってみれば、結局、世界史はなにかというとユダヤ史なんです。
一九九一~九三年まで欧州復興開発銀行初代総裁を務めたジャック・アタリ(一九四三年~ アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。フランスの経済学者、思想家、作家、一九八一年~九一年フランソワ・ミッテラン大統領の補佐官)は経済学者と言われていますが、金融ユダヤ勢力の世界計画を代弁しているだけなのです。逆に言えば、彼の著述や発言を読めば、彼らがどう考えているかというヒントになる。彼は本の中で「国家の歴史は債務の歴史だ。国家は債務、つまり借金によって栄え、借金によってつぶれる。その繰り返しだ」と言っています。

事実そうなのですが、それはびっくり返してみれば、国家の歴史は、国家に金を貸す者の歴史ということになる。では、誰が金を貸しているかというと、ほとんどはユダヤ金融勢力です。

ユダヤ金融勢力は国を持っていないから、国家に金を貸して、その国家を牛耳る。
その走りは「イングランド銀行」(イギリスの中央銀行 一六九四年に設立)です。
今は別にユダヤ資本の専売特許ではないですが、彼らの金の貸し方は、敵味方の両方に金を貸すということです。

イギリスで言えば、ピューリタン革命(一六四〇~一六六〇年にイギリスで起こった革命。クロムウェルらピューリタンを中心とする議会派が一六四九年国王を処刑し共和国を樹立。クロムウェルの革命独裁を経て、一六五九年彼の死後、共和国は崩壊し、一六六〇年に王政が復活)があって、チャールズ一世が斬首され、息子(のちのチャールズ二世)はフランスに亡命した。

クロムウェルを扇動して、チャールズ一世を処刑させたのは、オランダなどにいたユダヤ系の金貸し業者です。ところがそういう勢力がフランスに亡命したチャールズ二世に金を出してやり、のちにイギリスの国王に戻している。彼らは、そういうことを平気でやっている。

我々はクロムウェルのピューリタン革命は、「イギリスの民主主義の実現だ」などと教えられていますが、あれはユダヤ人がイギリスに合法的に戻ってきた革命だったということです。ヒレア・ベロック(一八七○~一九五三年 フランス系イギリス人の作家、歴史家、社会評論家)など、イギリスでユダヤの歴史を勉強している人がそう言っています。

日本人は、歴史教科書でイギリス史の重要なポイントとして習うのはピューリタン革命と名誉革命(一六八八~一六八九年)ですが、そんなことよりも重要なことは、一六九四年にイングランド銀行ができたことです。

これはユダヤ人の金融業者が当時のウィリアム三世に、フランスとの戦費(当時イギリスはフランスと交戦していた)を賄うために、百二十万ポンドの金を貸して、その代わり百二十万ポンドの通貨を発行する権限を得たのです。

王様はなにもわからないから、「どうぞ」と。これが世界の悲劇のはじまりです。以後、金貸し連中が民間人支配の中央銀行をつくるというのが、世界の歴史になっていった。

 金を貸す者が歴史をつくつてきた
p78-81
馬渕 アメリカの中央銀行に当たるものは、もともと「イングランド銀行」を真似た、公債と統一通貨を発行する「第一合衆国銀行」を、一七九一年に初代財務長官のアレキサンダー・ハミルトン(一七五五~一八〇四年)が二十年の期限付きで、つくりました。その資本金一千万ドルの株式の八〇%の八百万ドルを民間、二〇%の二百万ドルを国が持っていた。

「第一合衆国銀行」は一八一一年に期限が切れたのですが、アメリカ議会は更新しなかったのです。そこで一八一二年に米英戦争(一八一二年六月~一八一四年十二月 「第二次独立戦争」とも呼ばれる)が起こった。これは明らかに、アメリカ政府に借金をさせるために起こった戦争です。中央銀行をもう一度樹立させるために起こした戦争で、二年間戦って、結局アメリカは借金で首が回らなくなって、一八一六年に、同じ条件で「第二合衆国銀行」ができたのです。その期限がまた二十年です。

一八三六年に期限が来た。そのときに、あくまで反対したのが当時のアンドリュー・ジャクソン第七代大統領(一七六七~一八四五年 任期一八二九年五月~一八三七年三月)です。アンドリュー・ジャクソンは、最後まで認めなかったから、彼がアメリカの大統領史上最初の暗殺のターゲット(一八三五年一月三十日の暗殺未遂事件)となったのです。銃が不発だったから助かったのですが、その犯人であるリチャード・ローレンズは精神異常者ということで片付けられました。

アメリカ史は、イギリスの金融資本家が、いかにアメリカの金融を支配するかとい
う歴史でもあったのです。ところが世界の歴史家や国際政治学者は勉強していないから、絶対に、このことを言わない。

 だから、なぜ南北戦争(一八六一~一八六五年)が起こったかもわからない。一言でいえば、アメリカが強大化することを恐れたイギリス(シティ)が南部諸州をたきつけて合衆国から離脱させようと図ったのです。ロンドン・シティは南部連合に戦争資金を高金利で融資しました。これに対し、北部のエイブラハム・リンカーン(一八〇九~一八六五年 第十六代アメリカ大統領 任期一八六一年三月~一八六五年四月)はシティからの借金を拒否して、自ら政府紙幣を発行しました。面白いことに、南北戦争が起こって、リンカーンを支援したのはロシアです。当時のロシアのアレクサンドル二世(一八一八~一八八一年 在位一八五五~一八八一年)がリンカーンを支援しています。サンフランシスコとニューヨークに軍艦まで派遣しています。

 だから、金を貸す者が歴史をつくってきたといえます。そういうことをジャック・
アタリが公言しているのですが、誰もそれを読みきれない。

日下 日本の金融は”優等生”だから、そういうものがわからないからね、だからわからせるには、だいぶ書かなければいけない。
「アレグザンダー・ハミルトン伝」副題:アメリカを近代国家につくりあげた天才政治家 ロン・チャーナウ著[日経BP社](上)(中)(下)を読了して。
2009/10/14(水) 午後 11:33
なんという皮肉か❗
暗殺されたリンカーンはユダヤ人の利益に敵対し、ロシア皇帝に支持友好関係者にあった❗なんということだ、トランプ大統領は暗殺される可能性が高いではないか!

 政府が通貨を発行しても問題ない
p81-82
馬渕 政府の税収が不足したらヽ支出を抑制して緊縮財政にするか、国債を発行して借金をするしかないとヽ我々も洗脳されているから、そう思っているわけですよ。

 しかし、もうひとつある。政府が円を発行すればいいのです。そうしたら全部解決する。こういうことを言うと、経済学者は、「そんなことをしたら日本はハイパーインフレになってヽとんでもなく円の価値がなくなって、世界から総スカンを食らう」と言って、みんな揃って反対するわけです。

 前述しましたが、リンカーンが、一八六二年から一八六三年にかけて、政府ドル四百五十億ドルを直接発行しました。最終的には、彼はそのために暗殺されました、が、アメリカは決してハイパーインフレになっていない。

当時、ロンドンタイムスが、「政府が通貨を発行なんかしたら、その国は借金がな
くなって繁栄する。世界の富はアメリカに集まる。そういう政府は倒さなければならない」と書いている。

 ということは、政府が通貨を発行すれば、その国の借金の問題は全部解決する。もちろん政府はしっかりしていなければいけない。勝手に増刷したらインフレになりますが、生産性の範囲内で増刷すればいい。しかし、日本の経済学者はそういうことを言わない、言えないんですよね。

日下 だってみんな、貧乏育ちなんだよ、本当に。


 日銀券とはなに
p82-86
馬渕 日銀の場合は、四五%しか民営化されていないと言うことも可能ですが、日銀券とは、要するに政府機関でない一銀行が発行してくれた銀行券です。それをありかたく我々は使っている。

日下 私か銀行の企両部にいたときに、日銀から「来月何日、朝何時に検査官が行くから、金庫の前にずらっと並んで待っていろ」という手紙が来る。「金庫を開けて待っていろ」というのは、べらぼうな話なんだよ。だから「これは確かに日本銀行から来た手紙である」、「なぜうちの銀行が、その命令を聞かなければいけないのか」ということまで、私は調べた。

 結局その手紙には日本銀行総裁の印という印が押してあるわけ。これが偽物か本物かを、私か鑑別して、「これは本物に間違いない」と私か書いて自分で判を押した。そこまで働いたやつは、過去ひとりもいないんだよ。だけど私は係になったからやったのですけれどね。

 そのとき、「私かどうやったかわかりますか」と日銀の理事に聞いたら、ひとりもわからない。「あんたらが印刷して日本中に配っている銀行券ですよ。それ、か本物だというのは、日銀総裁の印が押してあるというだけです。自分の持っている千円札に、日銀総裁の印、かおるから、それと比べて、千円札と同じハンコです」と。

 日銀理事が「へーえ」と信じない。日銀総裁の印が押してあるのを私が疑って確かめるなんて思っでいない。

 バンクというのは、ユダヤ人が道にテーブルを出して、そこに流通しているお金をザーツと並べておく。それが堤防(イタリア語のbanca)のようになっているからバンクという。それで、人が来たら両替してやるというのがはじまりなんだ。

 日本銀行も、最初はそういう民間の銀行なんだよ。お役所の金は一円も入っていない。田舎の親戚が「日銀の株を買った」と言っていた。それを額に入れて、「日銀の株主だぞ」と威張っていた。

馬渕 当時は一般の人が買えたんですか。

日下 買えた。

馬渕 今は株主が誰かわからないですよね、誰が持っているのか。

日下 それはわかりません(日銀はジャスダックに上場。五五%は政府所有、議決権はなし、株主配当は五%以下。お札を発行しているところは日本銀行、硬貨を発行しているところは日本財務省造幣局)。

馬渕 そうですか。
 政府が円を発行することの是非について、もっと真面目に議論すべきです。ところが、そんなことしたらとんでもないことになると、頭から否定するわけです。それが一種の洗脳なんです。

 市場というのは、インサイダーが取り仕切っている。我々が儲けようとして株をやるのは、絶対やめたほうがいい。儲かるはずがない。情報は彼らが独占している。市場経済が民主的というのは、全部嘘です。

 インサイダーが取り仕切って、アウトサイダーにはわからないような仕組みにして、アウトサイダーから金を集めて、アウトサイダーの金を奪っているだけです。

 フリードリヒ・ハイエク(一八九九~一九九二年 オーストリアーウィーン生まれの経済学者、哲学者)など、世界の著名な経済学者が「市場の選択」などと言って、「みんなが市場で選択をすることによって経済がうまくいくのだ。だから、政府は介入してはいけない」と言っている。

 それはまったくの嘘で、選択をするにしても、情報が不公平です。私か持っている情報と、インサイダーの持っている情報は、格段の差かおる。だから私か正しい選択をできるはずがない。それが市場の実態です。
                   
 ジャック・アタリが「市場の力というのはマネーの力なのだ。だから市場の勝利はマネーの勝利であって、それは個人主義の勝利だ」と言っている。なぜ、市場の勝利が個人主義の勝利なのかということになると、我々にはまったくわからない。

日下 それは、私は戦争中を知っていて、日銀券は流通を断られたことがあったからわかる。昔は、たとえば陸軍が馬を買うために、農家に日銀券を渡したら、「こんなものはいらない。それより馬の餌をくれ」という時代があった。

 我々が「米とか豆とか売ってくれ」と買い出しに行く。すると、農家は「日銀券の
代わりに着物でも持ってこい」と。だからみんな嫁入りのときの衣装などを農家へ
持って行く。そこで、農家へ行くと、嫁入りのための着物がいっぱいめった。

 そのころは、日銀券は流通を拒否された。流通しだのは着物などだ。このへんから通貨の話を書かないと、「EUがどうした」といっても、みんなわからない。



 ユダヤの意図に背いた人間は、みなつぶされている
p87-98

馬渕 今のお話は非常に面白くて、アドルフ・ヒトラー(一八八九~一九四五年 総統在任期間一九三四~一九四五年)は、ホロコーストなどで我々も学校で極悪人と教えられますが、必ずしもそうではない。

 そんな極悪人が、なぜアウトバーン(ドイツの高速道路 一九三三年首相になったヒトラーは、失業者雇用促進のため、全長七千キロにおよぶ「帝国アウトバーン」計画を発表)をつくることができたのかということです。アウトバーン建設に参加した労働者は一九三三年末には千人以下でしたが、一九三七年には約十万人、一九三八年には約十二万人に達しています。それによって、ドイツはワイマール共和田の混乱から抜け出して、経済発展をすることができた。

 それがなぜ可能だったのか。そのひとつが、今、先生がおっしやったように、ヒトラーは物々交換で貿易をやったからです。お金を使わずに経済活動をやられたら、お金を発行している人が困る。

 ヒトラーはそういう意味ではドイツ国民のためになることをやった。やったがゆえにつぶされた。これが歴史の皮肉というか逆説ですよ。国民のためにやった人は、みんなつぶされた。日本でも田中角栄がつぶされたのは、基本的には同じです。

 それまではヒトラーは英米の金融資本家が育てたんです。だから、育ててつぶすということだったかもしれませんけれど。

 J・F・ケネディ大統領(ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ ー九一七~一九六
三年 一九六一年一月に第三十五代アメリカ大統領に就任)が在任中の一九六三年十一月二十二日にテキサス州ダラスで暗殺されたのは、リンカーン同様に、政府が紙幣を発行したからです。

 一九六三年六月四日にケネディは政府紙幣の発行を財務省に命じました。その紙幣はFRB発行の銀行券とほぼ同じデザインで、ただFRBのマークの代わりに「United StateS Note(政府券)」と印刷してあるものです。二ドル札と五ドル札を発行し、次に、十ドル札、二十ドル札を刷っていこうとしたときにケネディはテキサス州ダラスで暗殺されています。

 ケネディは最初からFRBに対する問題意識があったのでしょう。通貨発行をめぐる争いがケネディ暗殺の背景にあったということは通説にはなっていませんが、財務省によって発行された総額四十二億ドルの政府券は、ケネディ暗殺後、副大統領から大統領に就いたジョンソンによって速やかに回収されています。

日下 そう、すぐに回収されてしまった。


秘密裡にできたFRB
p89-93

馬渕 前提としては、アメリカのドル発行の権限を持っているのはFRB、すなわち連邦準備制度理事会のもとの連邦準備銀行ということがあります。

 これは一〇〇%、民間銀行です。株主は公開されていないのですが、ゴールドマン・サックス、J・P・モルガン、チェース・マンハッタン銀行、ロスチャイルド銀行など、アメリカやイギリスの大手銀行です。

アメリカ政府が、たとえば十億ドルが必要だとなったら、アメリカは十億ドルの国債をFRBに預けてドル紙幣を発行してもらう。国債なので利子が付くので、FRBは、なにもしなくても儲かる。一九一三年に、そういう仕組みをつくったのです。

日下 秘密の島へ行って、そこで銀行設立株主総会をやった。

馬渕 一九一〇年十一月二十二日にTJ・P・モルガンが所有するジョージア州の沖にあるジキル島クラブで、秘密会議が聞かれて、FRB設立についての計画が討議されたのです。彼らは汽車で移動したのですが、新聞記者など誰にも知られないようにバラバラに乗り込んで現地に行った。

 そのメンバーには、J・P・モルガンの創設者のジョン・ピアポント・モルガンなどの銀行家と、ロスチャイルドの代理人ポールーウォーバーグという有名なドイツ系ユダヤ人や共和党上院議員で院内幹事のネルソン・オルドリッジ(娘がジョン・ロックフェラ・ジュニアと結婚している)が入っでいます。

 当時はウッドロー・ウィルソン大統領(一八五六~一九二四年 第二十八代大統領 任期一九一三~一九二一年)で、金融のことは何もわからない人だから、「署名しろ」と言われて署名し、それでできた。 

ケネディは虎の尾を踏んだのです。同じように踏みそうになって、暗殺未遂になったのがロナルド・レーガン(一九一一~二〇〇四年 第四十代大統領 任期一九八一~一九八九年)です。一九八一年三月三十日に起こったレーガンの暗殺未遂も不思議な事件です。

 銃撃した犯人は、ジョン・ヒンクリーという、女優のジョディ・フォスターの追っかけで、彼がやったということになっています。しかし、どう考えてもおかしい。彼も「精神の病気にかかっており、責任能力がない」との判断で一九八二年六月に無罪放免になっています(その後、強制隔離入院させられ、二〇一六年七月釈放が許可された)。

 レーガンは大統領選挙のときから、「FRBがなぜ必要なのかがわからない」と言っていた。当時はFRBの議長はポール・ボルカー(一九二七年~ 一九七九~一九八七年FRB議長)で、レーガンは大統領になってから、彼と話をしようと言っても、ボルカーが応じなかった。

 当時の記録を読んでみると、リーガンという財務長官のオフィスにレーガンが出向いて、そこにボルカーも来て、そこで会って話をしたという。アランーグリーンスパン(一九二六年~ 一九八七年~二〇○六年FRB議長)が自分の回顧録の中で、そのときに、レーガン大統領が開口一番、「自分はよくFRBがなぜ必要なのかと質問されるけれど、なぜなのか」と質問して、ボルカーが飛び上かったという話が出てきます。
 
実際どのような会話があったのかわかりませんが、「最後にはふたりは協力するようになった」と書いてあります。つまり、レーガンは言い含められて、「FRBに手を突っ込むな」と言われたと思うんです。

 だから、レーガノミクスというのはなにかというと、つまりボルカーに好きにやらせたということです。どの大統領のもとでも、FRBの議長は好きにやるのですが。

 そこでボルカーが高金利政策をやって、世界からドルを集めて、それでアメリカのインフラ投資がなくなってしまった。当時、私が勤務していたニューヨークの道はデコボコでひどかったoそれがレーガノミクスなんです。高金利をやれば、世界の金が集まってくる。その代わり、金を借りて投資する人がいなくなってしまう。

 それで一九八〇年代はじめにブラジル、メキシコなど中南米諸国が高金利で増加した金利負担で対外債務の返済が困難になるなどの財務危機、が起こったのです。日本では一所懸命、いかに中南米の銀行を救うかなどとやっていた。バカらしい話で、救うために日本、が出した金はみんなウォールストリートに行ってしまっていたのです。
 

マイナス金利で世界は変わる
p93-95
日下 今年二一〇ニ八年)が本当に画期的な年だというのは、マイナス金利だから、そういうメカニズムが全部壊れてしまう。

馬渕 FRBは金利を上げたいけれど、もしLげたら、世界経済に影響するから上げるに上げられない。しかし上げなければ、彼らは儲からない。マイナス金利になったら、ドルを発行するたびに自分の持ち分か減っていくことになる。

日下 日本は、政府が五〇%以上の株を持っている日本銀行という原子爆弾を持っている。

馬渕 どんどん金融緩和して世界の金利を下げれば、金融資本家が儲からなくなる。通貨を発行している中央銀行が儲からなくなる。

 私は今回のイギリスの離脱を奇禍として、今の金融システムを廃止するというと大げさかもしれないけれども、少なくとも改革する契機にすればいいと。つまり、民間の中央銀行はいらない。

日下 すると、これからの百年はどんな百年になるのか。この根本的な違いは日本のゼロ金利なんだ。

 利息をもらえたのが逆に出さなければいけない。大逆転をすでに起こしているのに、だいたいそれを言う学者がいないのはおかしい。

馬渕 彼らが今まで勉強してきた経済学が成り立だなくなっているからでしょうね。

日下 地域通貨だけでいい。ヨーロッパにおける地域通貨って面白いよ。
 イギリスで言うと、真っ平らな土地だから、道路をつくるより運河を引くほうが簡
単なんです。そこに、細長いボートが浮いていて、そこで寝泊まりする人もいる。
 
ころどころに「タバン」という、飲ませたり、食べさせたりする旅館兼食常がある。
この名称はギリシアーローマの時代から続いている。ターバンでも良い。

 そこが回数券を発行すると、これが通貨。だやら地城通貨のはじ1りはタバン。大体庶民はそれで暮らせる。

馬渕 おそらく地域通貨は貯金しても意味がない。しかもその地域以外では通じないから、地域の中で消費する。

日下 だから「また来週飲みに行くから」と言うんだな(笑)。

馬渕 今、為替の取引で儲けているということ自体が、実はおかしい。つまりお金が商品になっているわけです。お金は商品であってはいけない。でも、そういう基本的なことは、今、まったく議論しない。

 地域通貨は、銀行に持っていっても預金として受け入れてくれない。使うだけですから。そのもとに戻ればいい。すると利子もなくなる。そうすると銀行業が成り立だなくなるのですが、それでいい。

日下 こんなにいらないものね。


戦争は金貸しの金儲けのため
p96-98

馬渕 利子というのは、結局我々が洗脳されていて、そういうものだと教えられている。「今使わずに、あなたにこの金を貸すから、自分が使えなかった代償として、その分だけ余計に返してもらう」というわけですよ。

 それなら、他のものでも、何を貸しても、本来そうなるはずですよね。でも、他は
別にそうならない。友人に自動車を貸してもらっても、ガソリン代を返せばいいだけで、自動車にプラス利子を付けて返す人はいない。せいぜい、お礼をするだけですね。
 ところが、なぜ通貨だけはそうなのか。それは通貨というものを発明した人が、そういうものだと最初に決めてしまったのでしょうね。これは紀元前にまでさかのぼるのですが。

日下 これを面白おかしく書いていけば、明治維新のころ、西郷隆盛の軍隊がストップして、全然動かなくなって、江戸城に入れなかった。それは金がなくなったかららしい。

 その金を三井組と小野組とかが出さなかった。それで勝海舟と相談して、ともかく「金をちょっとくれよ」と。それで入城した。別に秘密でもなんでもない。

馬渕 あの会談はそれだったんですか。

日下 そう。

馬渕 その勝海舟も面白いことを言っている。『氷川清話』『海舟座談』などを読みましたが、彼は何度も「外国から借金はしてはいけない」と言っている。だから勝海舟こそ、日本の救世主だったと私は思う。

 あのとき、ご承知のように、フランスが幕府に金を貸そうと言った。それを断った。
もしフランスから金を借りていたら、日本の国内で内戦が起こって、英仏の代理戦争をやらされていた。そこでジャック・アタリが「借金をさせれば、その国を牛耳ることができる」と言っていることに結びつく。だから、私は明治維新の英雄は勝海舟だと思いますよ。

 戦争をするのに膨大な金が必要になる。資金が足りなくなるから、誰かが金を貸す。第一次世界大戦も、第二次世界大戦も、要するに金儲けのための戦争なんです。こういうことを、我々は一切教えられない。

日下 歴史家も経済学者もみんな貧乏人の子供。家が金持ちだったという人はいないからね。だから実感が湧かないんだろう。湧かん人は黙っている。

馬渕 戦争というのは、お金のため、つまり儲けるためにやってきた、やらされてきた。戦争というのは、挑発に乗ってやったら、バカらしいんです。
トランプ大統領が暗殺されるかもしれないと考えるのは、当然の帰結である。















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【NYTimes】JAN. 23, 2017
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If Choi Soon-sil, President Park Geun-hye’s confidant, is arrested, it will be a milestone in South Korea’s efforts to fight corruption.
大統領の親友である崔順実被告が逮捕されたら、韓国の腐敗防止の戦いの中で画期的な事件になるだろう。

糞NYタイムズはあいかわらず上から目線で韓国を見下している。米国人が韓国大統領を猿に例え、財閥から金を無心して、チェスンミンに貢ている。まあ、よく出来た漫画だが、糞NYタイムズにとって、韓国の大統領は猿と同じに見えるらしい。

西洋人の目に映る朝鮮は、記録を読む限り昔から悲惨で地獄のような社会、嘘をつく朝鮮人はまったく今も変わらない。未開な猿そのものだ!・・・・いや猿の方が社会秩序があるかもしれない。

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15世紀に発明されたグーテンベルグの活版印刷だが最大のベストセラーの聖書の次に印刷されたのが13世紀末の中国日本を紹介したマルコポーロの東方見聞録であった。黄金の国ジパングやインドネシアのジャワなどは詳しく書かれているのだが、高麗のことはほとんど触れられていない。
東方見聞録は4冊の本からなり、以下のような内容が記述されている。
1冊目 - 中国へ到着するまでの、主に中東から中央アジアで遭遇したことについて。
2冊目 - 中国とクビライの宮廷について。
3冊目 - ジパング(日本)・インド・スリランカ、東南アジアとアフリカの東海岸側等の地域について。
4冊目 - モンゴルにおける戦争と、ロシアなどの極北地域について。
当時元は100年ちかく高麗を支配下においていたが、フビライに信頼され高官に出世していた商人のマルコポーロがまったく関心を払わなかったのだ。商売に値する物資や文化が無かったとしか思えない。

16世紀の宣教師ゴンザレス・デ・メンドーサによって書かれた『支那大王国誌』は16世紀を代表する中国研究書であったが、朝鮮についてまったく触れていなかった。

ようやく朝鮮が西洋人の目が向けれられるようになったのが17世紀になってからだ。オーストラリア宣教師マルティーノ・マルティニによる「韃靼戦争記」1654年からだ。さらに詳細なのがヘンドリック・ハメル朝鮮幽囚記(1667年)である。
ヘンドリック・ハメル (Hendrik Hamel) は、1653年7月に難破し済州島に漂着したデ・スペルウェール号の乗組員で、同僚七人と1666年8月に日本に脱出するまで13年間朝鮮に幽閉された。
南蛮人36名漂着の報を受けた朝廷は、1627年に慶州で捕えられたオランダ人朴延(ヤン・ヤンセ・ウェルテフレー)を派遣した。朴延は訓錬都監で中国人・日本人からなる部隊の隊長をつとめていたが、25年を超える朝鮮生活のうちにオランダ語をほとんど忘れており、改めて漂着者たちから学び直した。漂着翌年の1654年5月、死亡者1名を除く全員がソウルに入り、訓錬都監に配属された。朝廷はオランダ人の存在が清国にもれることをおそれ、清使の来訪時には軟禁して監視をつけた。しかし1655(孝宗6)年4月、オランダ人2名が清使にとりすがって帰国を訴えた。朝鮮側は清使に多額の賄賂を贈り、この事件をもみ消した。訴え出たオランダ人2名は獄死した。
朝廷は生存者33名を全羅道に送り、兵役に従事させた。人治主義の国らしく、温厚な長官が赴任して来たときはよかったが、冷酷な長官が来ると悲惨で、食糧も衣服も十分に供与されず、物乞いで糊口をしのぐはめになった。1666(顯宗7)年時点で生存者は16名となっていたが、この年の8月にハメル以下8名は船で脱出し、五島列島で捕えられ長崎奉行所に送られた。翌年幕府はハメル一行の帰国を認め、一行は11月にバタビアに到着した。また幕府は、残るオランダ人の引渡しを朝鮮側に求め、生存者7名は1668年6月に釜山で引き渡され、出島のオランダ商館に入った。
ハメルは手記の中間部で朝鮮の政治・社会情勢を記述しているが、当然あまりよくは言っていない。後に朝鮮のステレオタイプとなる項目のうち、刑罰の恣行や男尊女卑や家屋の貧弱さ等が既に現われている。後進性については、日本や清の侵略のせいだという朝鮮人の見解を伝えている。

p90-92
『朝鮮幽囚記』にもどると、1660年の飢饉について次のような記述がある。

「この年も翌年も雨が降らなかったので、穀物も他の作物もたいへんな凶作でした。一六六二年も新しい収穫かあるまではそれが続き、何千人という人々が餓死しました。・・・・生き延びて いた普通の人々の食料はどんぐり、松の樹皮および野草でした」
「私たちは二、三千人の奴隷を所有する大官を見たことがあります。また彼等はいくつかの島や領地を与えられていますが、彼等が死亡すると、すぐにそれらは国王の手に収められてしまいます」
「奴隷の数は全国民の半数以上に達します。というのは、自由民と奴隷、あるいは自由民の婦人と奴隷との間に一人または数人の子供が生まれた場合、その子供たちは全部奴隷と見なされるからです。奴隷と奴隷との間に生まれた子供は(女奴隷の)主人に所属します」
「彼等は盗みをしたり、嘘をついたり、だましたりする強い傾向があります。彼等をあまり信用してはなりません。他人に損害を与えることは彼等にとっては手柄と考えられ、恥辱とは考えられていません」

同書には長崎奉行との会見の記録もあり、ここで朝鮮の経済事情について報告されている。

「彼等は銅銭の他には貨幣を知りません。それは単にシナとの国境でだけ流通しています。彼らは銀を重量でやり取りします。それは大小さまざまの細片で、日本のスホイト銀(丁銀=明治維新まで流通していた銀貨)と同じものです」
「首都では大官は多くの取引を銀で行ないます。一般の人々は、他の都市でも同じですが、それぞれの価格に応じて布や米やその他の穀物で取引をします」
「彼等は同地(シナ)に人参根やその他の器物を持って行って、生糸などの私たちが日本に持って来るのと同じような品物を入手します」

東洋文庫の「朝鮮幽囚記」にはオランダ人ニコラース・ウィットセンによる「朝鮮国記」が併録されている。これは当時知りえたアジアの情報をまとめた「北および東タルタリア誌」の一部で、1692年に初版が出ている。

こちらにも半島に関する伝間として、「商人はまったくおらず、漁業と農業で生活を立てている貧しい人々がその一部に住んでいるだけ」「(人参の)クルクル語の名称は『貨幣』という語から出たもので、彼等はそれで買い物をします」とある。

訳注によれば、クルクル語=満州語で人参を表す「オルホダ」には貨幣という意味はないものの、貨幣の代用だった可能性は高いという。

20世紀の初頭になっても状況はさほど変わらなかった。白銅貨や葉銭(ようせん)といった貨幣はあっても、交易は限定的なものであって、物々交換とほとんど変わらない。そもそも旧通貨の葉銭を整理する通貨改革のためにつくられたのが白銅貨だったが、一部の地域でしか流通せず、葉銭は放置されていた。そのため朝鮮国内で、葉銭と白銅貨の2種類が流通する結果となったのだ。

日本円やロシアルーブル、清国銅銭、メキシコ銀貨などの外国通貨も一部地域や特定業者のあいだで流通していたが、朝鮮の税関において、変動の激しい白銅貨での納付は認められなかった。そんななか、いちばん信頼されていたのが日本円だったのである。

台湾も最初は朝鮮と似たような状況だったが、日本領行以後は貨幣経済や商品経済が発達し、人流・物流が盛んになって銀行も生まれた。

しかし、朝鮮はなおも原始時代のような状態で、市も午後からの短期間の定期市しかなかったのだ。貨幣や金融、財政制度全般が確立し、原始社会から抜け出しだのは朝鮮統監府・朝鮮総督府の尽力によるものだった。
日本が統治するまで朝鮮には貨幣が流通しない未開な社会だったのだ。

15世紀に日本に派遣されて帰国した朝鮮人のレポート 

バンダービルド

1428年12月、使臣として日本に派遣されて1429年12月に帰国した「朴瑞生」(正3品、大使のような役職)という人物が世宗大王にあげた「日本関連報告書」の中の一部内容。


1)水車を朝鮮は使用していないので、一行は原理を把握しようとしましたが、、日本の水車は水の落ちる力を活用して水車が自然に回るようにしていて、水を汲み上げて田畑に水を供給しています。

私たちの川は流れが弱いですが、日本のように水車を作り、足で踏んで水を吸い上げれば、釣甁(桶)を使うよりも人の力を大幅に削減することができるでしょう。
日本の水車の様子を絵に描いてきたので、そのまま作って使用すればよいと思います。

2)私たちが綿布や穀物などで主に交易するのとは違って、日本では硬貨を一般的に使用しているため、遠くへ旅行に行く人も食料を持参せず、硬貨だけを腰につけて旅をしています。

また沿道には、旅行者が食べて寝ることのできる施設(旅館)が設置されていて、旅行者を客として迎えています。
宿屋の主人は旅行者から受け取った硬貨に対応する金額ぶんだけ、お客様に利便性を提供しています。
川沿いに住む住民たちは、船を互いにつないで橋を作っていて、橋を渡る人々からお金を取って生活費として使ったり、橋を補修する費用などにも使っています。

日本は、土地税から通行料に至るまで、すべてにおいて硬貨を使うことが習慣化され、定着していて、重い荷物を持参して長い道のりを移動する苦労をする必要がありません。

3)家ごとに風呂があったり、町ごとに銭湯があったりして、住民は銭湯を利用するときにお金を出して便利に利用しています。

私たちも、濟生院、惠民局などの医療機関や、人がたくさん通っている廣通橋と地方の診療所に風呂を設置すれば、人々の体もスッキリするし、お金を使う方法も学習できるので、良いと思います。

4)日本の商店街は、商人それぞれが自分の店に看板をかけ、棚を作り、その上に商品を陳列し、客は商品を確認し、簡単に選んで購入することができます。
陳列された商品は、お客様の身分の貴賤に関係なく、誰でも自由に買うことができます。

私たち朝鮮の市場は、乾いたものや濡れたものを区別せず、陳列もしておらず、魚や肉や野菜などすべてを地面にそのまま置いて売っていて、歩行者が商品の上に腰掛けたり、踏みつけて通過することもあります。
今後は鍾路から廣通橋までの店に陳列台を設置して、商品名を付けて配置することによって、どの棚にどの商品があるのか簡単に分かるように並べて、お客様が便利に商品を見て選んで買うことができるようにしなければなりません。

世宗46巻11年(1429年宣德4年)12月3日乙亥


P93-100
告げ□と裏切りが朝鮮社会の本質と論じたダレ神父
 19世紀末まで続いた鎖国状態下の朝鮮に対する西洋大の朝鮮人観に大きな影響を与えたのが、『朝鮮事情』(金容権訳、平凡社東洋文庫)である。これはフランス人宣教師クロード・シヤルル・ダレによる『朝鮮教会史』の序論(全体を約6分の1に圧縮したもの)の全訳で、1876年の江華島条約(日朝修好条規)締結直後には榎本武揚も抄訳し『朝鮮事情』(原名・高麗史略)と題して刊行している。

1852年にパリ外邦伝教会附属神学校を卒業したダレは、インドをはじめアジア各地に伝道した。パリ本部にもどり、1872年に朝鮮教区が収集・整理していた資料をもとに74年に川行したのが本書である。その後77年に再びアジアに出向し、ベトナムを経て東京まで来たところで病没した。

(略)

あらためて『朝鮮事情』をくわしく読んでいこう。 まず、朝鮮の特権階級である両班について。 「朝鮮の貴族階級は、世界でもっとも強力であり、もっとも傲慢である」
「朝鮮の両班は、いたるところで、まるで支配者か暴君のごとく振る舞っている。大両班は、金がなくなると、使者をおくって商人や農民を捕えさせる。その者が手際よく金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行されて投獄され、食物も与えられず、両班が要求する額を支払うまで鞭打たれる。両班のなかで最も正直な人たちも、多かれ少なかれ自発的な借用の形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者は誰もいない。なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかつてないからである。彼らが農民から田畑や家を買う時は、ほとんどの場合、支払無しで済ませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止できる守令(知事一著者注)は、一人もいない」

こうした社会の腐敗に輪をかけて深刻だったのが自然の荒廃で、新渡戸稲造のいう「枯死国朝鮮」の姿たった。山河の崩壊により旱魃や水害がたび重なり、飢饉や疫病が日常化していた。

17世紀中ごろから、平均2・6年に1回の割合で疫病が大流行している。趙珠『一九世紀韓国伝統社会の変貌と民衆意識』によると、17世紀中ごろから19世紀までに、年間10万人の死者が出る疫病流行が6回あった。1719年の全国規模の大疫病では、死行数は50万人以上と記録されている。民乱や倭乱、胡乱といった戦乱以下に、こうした疫病と飢饉が半島の人命を奪っていたのだ。

「一八七一年から一八七二年にかけて、驚くべき飢饉が朝鮮半島を襲い、国土は荒廃した。あまりの酷さに、西海岸の人びとのなかには、娘を支那人密貿易者に一人当たり米一升で売る者もいた。北方の国境の森林を超えて遼東半島にたどり着いた何人かの朝鮮人は、惨たらしい国情を絵に描いて宣教師たちに示し『どこの道にも死体が転がっている』と訴えた」(『朝鮮事情』)

そんなときでさえ、朝鮮国王は、中国や日本からの食糧買い入れを許すよりも、むしろ国民の半数が死んでいくのを放置しておく道を選んだという。しかし、国王が無慈悲だったというより、国家はすでに破産していたのだ。

李朝時代の農民の悲劇については丁若鏞の経論書『牧民心書』にくわしい。苛斂誅求のもとで「切骨の病」「骨髄を剥ぐ」にあえぐ悲惨な姿が描かれている。ダレ神父によると、朝鮮に大部落はほとんどなく「彼らに残された生きる糧といえば、ただ塩水で煮つめたわずかばかりの草本だけ」という状態だった。

半島の山野は火田民(焼畑農民)に荒らされ、漢城府には土幕民(流民)があふれる。搾収から逃れるために故郷を捨てた農民は、満州やシペリアに流出せざるをえない。こうした餓死寸前の農民に救助の手を差し伸べたのが日本であった。それがのちに「日帝36年の七奪(国土、主権、生命、土地、資源、国語、姓名を日韓合邦によって奪われたという主張)」とされてしまったことは想定外であり、日本の不覚というべきものだった。

ダレ神父の報告にもどると、まず朝鮮史については「主に日本や中国の文献を通してはじめて集め得る」という。朝鮮の学者たちは、中国の歴史書以外を読むことはない。それは「現王朝の歴代の歴史を出版することが厳しく禁じられているからだ」。

つまり、本当の歴史など知りたくないということである。現代でも朝鮮人が史実よりも伝聞やファンタジーを信じたがるのは、こうしたタブーと関係があるのかもしれない。

また、朝鮮の女性は「男性の伴侶としてではなく、奴隷もしくは慰みもの、あるいは労働力にすぎない。法と慣習は女性に対してなんの権利も与えず」名前がなく、族譜(家系図や家訓などを記した文書)でもたいてい女性は除外されている。結婚すると、「ほとんどいつも自分の部屋に閉じこめられて、夫の許可なしには外出することも戸外に視線を投じることもできない」

朝鮮人の性格については、「男女とも非常に熱情的である。しかし真の愛情は、この国には全く存在しない。彼らの熱情は純粋に肉体的なものであって、そこにはなんら真心がない」と記している。

「一人旅をしている女性が旅宿で夜を過ごしたりしたら、見知らぬ者の餌食になることは間違いない。ときには男の同伴者がいるときでさえ、男がしっかりと武装していなければ、彼女を十分に守ぶことはできない。売春が白昼いたるところで行なわれ、男色やその他の自然に反する犯罪が、かなり頻繁にある。街道筋では、いたるところの村の入り口に身分の低い娼婦が米焼酎瓶を手にしており、それを旅人に供する。・・・・仮にある男が女たちを無視して通り過ぎようとすれば、彼女たちはためらわずに男の服をつかんで道を塞ぐ」

このように、19世紀の朝鮮の村々は娼婦だらけだったという。「人びとの過半数は、自分たちの真の両親を知らない」とも記述している。

「朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。それは、彼らがいまだ浸っている半未開性のせいである。異教徒のあいだには、なんらの倫理教育も行なわれていないし、キリスト教徒の場合も、教育がその成果をあらわすまでには時間がかかる。大人が不断の怒りを笑って済ませるから、子供たちは、ほとんど懲罰を受けることもなく成長し、成長した後は、男も女も見さかいのないほどの怒りを絶え間なく爆発させるようになる。・・・・彼らは、怒りっぽいが、それと同程度に、復讐心に満ちている。たとえば、五十の陰謀のうち四十九までが何人かの陰謀加担者によって事前に曝露される。これらはほとんどいつも個人的な恨みを満足させるためのものであったり、かつての少し辛辣な言葉に対する仕返しのためであったりする」

こうした告げ口と裏切りこそ、朝鮮人の伝統的な国民性だという。日本人とは基本的に真逆な性格なのだ。

「しかし不思議なことに、軍隊は概して非常に弱く、彼らは重大な危険があるとさえ見れば、武器を放棄して四方へ逃亡することしか考えない」

実際に朝鮮史を見るかぎり、戦争に勝ったことがほとんどない。いざとなるとたいてい国王が真っ先に逃げ、兵士もそれに続く。だからこそ、「下の下国」扱いであっても宗主国に「事大一心(ひたすら強者に従うこと)」しなければならない。奴隷というのは、たいてい敗戦国側の国民・民族である。

金貨や銀貨が存在せず、ろくな市場もないことはハメルの記録で見たとおりだ。この国の伝説によれば、前王朝の時代には、およそ紙三枚に値する矢鏃形の紙幣があったという。北京の清朝の隷属下に置かれてからというもの、朝鮮王朝は貨幣鋳造権を剥奪された」という。自前の貨幣の存在はもはや「伝説」だったのだ。

「朝鮮人は一般に、頑固で、気難しく、怒りっぽく、執念深い。・・・・怒りが爆発したりすると、人びとは不思議なほど安易に首を吊ったり、投身自殺をしたりする。些・細な不快や、一言の蔑視、ほんのなんでもないことが、彼らを自殺へと追いやっている」

最近の研究でも、こういった民族特有の気性=「火病」の存在が明らかになっている。自殺者が愛国者として美化されることも多い。

「朝鮮事情」は宣教師たちの体験と朝鮮人からの伝聞によって構成され、欧米人や日本人の朝鮮像・朝鮮観に大きく影響している。ダレ神父自身は朝鮮に入国していないものの、開国前の厳しい国情を伝える貴重な資料だ。
 
シャルル・ダレ (Charles Dallet, 1829~1878) は、1866年にソウルで処刑されたダヴリュイ (Maeir-Nicolas-Antonie Daveluy, 1818~1866, 朝鮮名・安敦伊) らが収集した資料をもとに『朝鮮教会史』を書き、1874年に出版した。東洋文庫版の『朝鮮事情』は、その序論に当たる。ダレ自身はインドやベトナムで布教に当たったが、朝鮮に行ったことはない。
(略)
本書は李朝末朝鮮の後進性、政治的腐敗、社会的混乱、文化的貧困等を完膚なきまでに暴き、欧米における朝鮮のイメージを確定した。後のバードやグリフィスに与えた影響も大きい。実際、朝鮮の絶望的な状況は、中国や日本との比較において際立っていたのだろう。将来についてはロシアへの併合を予想しているが、この時点では日本が中国とロシアを退けるかも知れないなどと言っても、馬鹿にされるだけだったろう。

この山国では、道路と運輸機関とが実に不足し、それが大規模な耕作を妨げている。人びとは、各自の家の周囲とか手近なところを耕作するだけだ。また、大部落はほとんどなく、田舎の人びとは三、四軒、多くてせいぜい十二、三軒ずつ、固まって散在している。年間の収穫は、住民の需要をかろうじて満たす程度であり、しかも朝鮮では、飢饉が頻繁にみられる。 (p. 20)

一六三七年に締結された条約は、清に対する朝鮮の実際上の隷属条件を加重することはなかったが、形式的には、これまでよりいっそう屈辱的な従属関係のものとなった。朝鮮国王は清国皇帝に対して、たんに叙任権を認めるばかりでなく、身分上の直接の権限、すなわち主従(君臣)関係まで承認しなければならなくなった。 (p. 34)

朝鮮の王宮は、パリの少しでも余裕ある年金生活者でも住むのを嫌がるようなつまらない建物である。王宮は、女と宦官で充ちている。 (p. 53)

ソウルは、山並みに囲まれており、漢江の流れに沿って位置し、高くて厚い城壁にかこまれた人口の多い大都市であるが、建築物には見るべきものはない。かなり広いいくつかの道路を除いては、曲がりくねった路地だけがあり、この路地には空気も流れることなく、足にかかるものといえばごみばかりである。家はふつう瓦で覆われているが、低くて狭い。 (p. 64)

官吏の地位は公然と売買され、それを買った人は、当然その費用を取り戻そうと努め、そのためには体裁をかまおうとさえしない。上は道知事から最も下級の小役人にいたるまで、徴税や訴訟やその他のすべての機会を利用して、それぞれの官吏は金をかせぐ。国王の御使すらも、極度の破廉恥さでその特権を濫用している。 (p. 71)

その一つは、朝鮮における学問は、全く民族的なものではないという点である。読む本といえば中国のもので、学ぶ言葉は朝鮮語でなく漢語であり、歴史に関しても朝鮮史はそっちのけで中国史を研究し、大学者が信奉している哲学体系は中国のものである。写本はいつも原本よりも劣るため、朝鮮の学者が中国の学者に比べてかなり見劣りするのは、当然の帰結である。 (pp. 130-131)

昔日のことはさておき、こんにち公開試験〔科挙〕が極めて堕落していることは確かである。こんにちでは、最も学識があり最も有能な人に学位免許状が授与されるのではなく、最も多額の金を持った者や最も強力な保護者のいる人びとに対して与えられている。 (p. 135)

朝鮮の貴族階級は、世界中で最も強力であり、最も傲慢である。他の国々では、君主、司法官、諸団体が貴族階級を本来の範囲内におさえて、権力の均衡を保っているが、朝鮮では、両班の人口が多く、内部では対立しているにもかかわらず、自分たちの階級的特権を保持し拡大するために団結することはよく心得ており、常民も官吏も、国王すらも、彼らの権力に対抗することができないでいる。 (p. 192)

朝鮮においても、他のアジア諸国と同じように、風俗は甚だしく腐敗しており、その必然的な結果として、女性の一般的な地位は不快なほどみじめで低い状態にある。女性は、男性の伴侶としてではなく、奴隷もしくは慰みもの、あるいは労働力であるにすぎない。 (p. 212)

朝鮮人の大なる美徳は、人類の同胞愛の法則を先天的に尊重し、しかも日々実践していることである。われわれは先に、いかにさまざまの同業者組合や、とくに親族一家が、互いに保護し合い、援助し合い、支援し合い、そして助け合うために、緊密な団体を形成しているかを見てきた。しかし、この同胞に対する交誼の感情は、親族や組合の限界をはるかに越えて拡大される。 (p. 263)

この世では、もっとも良いことでも、常に悪い反面を伴っている。これまで述べた質朴な習慣にも、いくつかの不都合な点がある。その中でももっとも重大なことは、それらの習慣が、一群の悪い奴らの怠けぐせを野放しにすることである。これらの者は、人びとの歓待をあてにして、全く仕事をしないで、あちこちをぶらぶらしながら生活する。もっとも図々しい者になると、豊かな人や余裕のある人の家にまるまる数週間も身を落ち着け、服までも作ってもらう。 (p. 265)                         
(略)

朝鮮人は、金儲けに目がない。金を稼ぐために、あらゆる手段を使う。彼らは、財産を保護し盗難を防ぐ道徳的な法をほとんど知らず、まして遵守しようとはしない。しかしまた、守銭奴はほとんどいない。いるとしても、富裕な中人階級か商人のあいだにいるにすぎない。この国では、現金の二、三万フランもあれば金持だといわれる。一般に彼らは、欲深いと同時に、無駄づかいも多く、金を持てば余すところなく使ってしまう。 (p. 272)

朝鮮人のもう一つの大きな欠点は、暴食である。この点に関しては、金持も、貧乏人も、両班も、常民も、みんな差異はない。多く食べるということは名誉であり、会食者に出される食事の値うちは、その質ではなく、量ではかられる。したがって、食事中にはほとんど話をしない。ひと言ふた言を言えば、食物のひと口ふた口を失うからである。そして腹にしっかり弾力性を与えるよう、幼い頃から配慮して育てられる。母親たちは、小さな子供を膝の上に抱いてご飯やその他の栄養物を食べさせ、時どき匙の柄で腹をたたいて、十分に腹がふくらんだかどうかをみる。それ以上ふくらますことが生理的に不可能になったときに、食べさせるのをやめる。 (p. 273)

朝鮮の家屋は、一般に、非常に小さく不便である。台所の煙を送りだす通管〔房管〕を下に通す必要上、地面よりも少し高く建てられているが、しかしソウルでは、必ずしもこの方法が一般的とはなっていない。これは、冬場をしのぐにはかなり便利であるが、夏場になると、熱気が屋内にこもって、まるで人びとに耐えがたい体罰を課していると同じような状態になるからである。で、おおかたの人は戸外で眠る。 (pp. 300-301)

衣服は、白衣ということになっているが、しかし、ちゃんと清潔さを保っているのはとても労力のいることなので、たいていの場合、濃厚な垢のため色変わりしている。不潔ということは朝鮮人の大きな欠陥で、富裕な者でも、しばしば虫がついて破れたままの服を着用している。 (pp. 303-304)

朝鮮では、ある種の科学研究は国家が保護しているし、またそれらの発展を奨励するため政府によって建てられた専門の学校がある。にもかかわらず、研究はほとんど取るに足りない。正式の天文学者は、毎年北京からもたらされる中国の暦を利用するに必要な知識をもっているくらいで、あとはばかばかしい占星術のきまり文句を知っているだけである。……ただ、医学だけは例外となっている。朝鮮人は、中国医学を採用しながらも、それに改良を加える仕事に真剣に取り組んだようであり、朝鮮の最も有名な医学書である『東医宝鑑』〔許浚編著。一六一三年刊〕は、北京においてさえ、堂々と印刷上梓されたくらいである。 (p. 307)

朝鮮人は、科学研究の分野においてほとんど進歩のあとを見せていないが、産業の知識においては、なおさら遅れている。この国では、数世紀もの間、有用な技術はまったく進歩していない。 (p. 309)

しかし、朝鮮人が中国人よりも優る産業が一つある。それは紙の製作である。彼らは、楮の皮で、中国のものよりもかなり厚くて強い紙を作る。それはさながら麻布のようで、破れにくく、その用途は無限に近い。 (p. 312)

商業の発達に大きな障害になっているものの一つに、不完全な貨幣制度がある。金貨や銀貨は存在しない。これらの金属を塊にして売ることは、多くの細かい規則によって禁止されている。例えば、中国の銀を朝鮮のものと同じ棒状に鋳造して売ってもいけない。必ずや見破られ、棒状の銀は没収されたうえ、その商人は重い罰金をとられ、おそらく笞刑に処せられるだろう。合法的に流通している唯一の通貨は、銅銭である。 (p. 313)

商取り引きにおけるもう一つの障害は、交通路のみじめな状態である。航行の可能な河川は非常に少なく、ただいくつかの河川だけが船を通すが、それもごく制限された区域の航行が許されているだけである。この国は、山岳や峡谷が多いのに、道路を作る技術はほとんど知られていない。したがってほとんどすべての運搬が、牛か馬、もしくは人の背によって行われている。 (pp. 314-315)

(略)

アジアの北東部から日増しに侵略の歩を進めているロシア人によって、いずれその難関は突破されるだろう。一八六〇年〔北京条約のこと〕から、彼らの領土は朝鮮と隣接するようになり、これら二国間で、国境問題と通商問題に関してさまざまな難問が起こった。これらの問題は、今後も間違いなく繰り返されるであろうし、いつの日にか、朝鮮はロシア領に併合されてしまうであろう。 (p. 323)

執筆中

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満州国とは関東軍最高参謀の板垣征四郎大佐、関東軍作戦主任参謀の石原莞爾中佐が中心となり満州事変を起こし。わずか1日で奉天や長春などの満州鉄道沿線の主な都市を制圧するとハルビンも占領。1932年2月までには満州のほぼ全土を制圧、満州国という日本の傀儡政権を作り上げたものだと思いましたが、そんな単純な話ではなかった。

満洲国建国に至る過去30年以上の間の支那本土と満洲の事情に極めて詳しい米国人が、満洲国建国に至る日本の行為は、世界から非難されるいわれはなく、米国の日本及び支那に対する行為と態度こそが非難されるべきであって、満洲国建国には極めて正当な理由が存在すると本書で主張している点に、大きな驚きがあった。久々に私の脳味噌の中で残っていた東京裁判史観が除去された気がする。

本書は満洲国建国3年後の1935年に出版された書籍の訳本である。著者ジョージ・ブロンソン・レ―は、米国新聞社の特派員として、1898年、米西戦争により、米国がキューバ、フィリピンを獲得する手法を観察した。レーは、極東に30年以上滞在し、第一次大戦では米国陸軍情報部大尉も務めた。東洋の政治状況に詳しく、袁世凱、孫文の技術顧問として、支那における鉄道建設と外国からの資金調達に代理人として深く関与した。 そして、1932年に満洲国が建国されると満洲国政府顧問に就任した人物だ。

日清日露戦争から遡り、丁寧にその間の事情を現代の私達に教えてくれる。

1911年に征服王朝である清朝が崩壊後は、各地で独立運動が展開され、軍属、匪賊による虐殺が横行し、戦乱状態が長い間継続した。関東軍による張学良軍の制圧を好機と捉えた満洲人は、満洲国皇帝を迎え、支那から独立し、満蒙朝華日の五族協和王道楽土を建国の理念として、満洲国を建国したのである。

満洲国建国をめぐって、日本が国際連盟脱退に至る歴史は、一般的解釈とされている「日本の侵略」ではなく、清国の復興独立であったのだ。中国大陸利権を狙う、アメリカを筆頭にソ連を含めた欧米列強の謀略であり、国際的な「日本叩き」だったのである。本書は、満洲国の顧問を務めていた著者ジョージ・ブロンソン・レ―が、列強の言動のあまりの理不尽さに憤慨し書き残した、「満洲国をめぐる真実」である。「アメリカの意図はいったいどこにあるのか」を厳しく追及している。

米ソ国民党のプロパガンダに世界は惑わされ日本が侵略したとされる、満州国の歴史を根本から見直す必要がありそうです。

『「満洲国建国」は正当である』新訳版刊行に寄せて
                                  竹田恒泰


「満洲国は、悲劇に見舞われ続けた広大な支那の土地に明るく輝き始めた光である。満洲国の樹立という先例は、地球の西半球の全人口も超える一大民族にとって幸福を得られるかもしれないという希望となっているのだ」

 「日本が満洲国三千万の民の独立の権利を認め、強力で自立可能な国家の樹立を助けることを選択し、さらに彼らの正統な統治者(溥儀)を復活させ、国内外の敵に対する相互防衛のために、その政権と同盟を結んだことは、侵攻でも征服でもなく、国際社会によって合法と認められた他の仕組みと何ら変わりない。『日本は捌け口を見つけたのだ』。今のところ、満洲国は自由で独立した主権国家であり、その歴史と伝統を誇りにしている」

 満洲国に関するこの記述は、戦前の国定教科書の文言でもなければ、帝国陸軍将校の言葉でもない。満洲国建国から三年になる昭和十年(一九三五年)に米国人ジャーナリストのジョージ・ブロンソン・レーが書き記した本書『「満洲国建国」は正当である』に記されていることである。レー氏はアジア在住期間が長く、孫文とも親交があり、満洲国の顧問も務めた人物である。

 戦後の国際社会では、満洲事変は日本の「侵略行為」であり、その後建国された満洲国は日本の「傀儡国家」であるとされ、日本でもそのように教育されてきた。これは、満洲国建国直後から欧米列強によって主張されたことである。その後、東京裁判で連合国側か主張し、そのまま定着し現在に至る。

 敗戦国であり「裁かれると側に立だされた日本が、満洲国建国の正当性を述べたところで、国際社会がそれに耳を傾けるわけもなく、日本には十分な反論の機会も与えられなかった。

戦後の日本人がこれに反論を試みたところで、直ぐに「軍国主義者」のレッテルを貼られるのが関の山であろう。

 東京裁判では、日本側が満洲国建国の正当性を立証するために、『「満洲国建国」は正当である』を証拠として提出しようとしたところ、認められなかった。もしこの本の提出が許されたなら、戦後の満洲国の評価は違ったものになったと思われる。

 同書は、本文に「米国世論に訴えることが目的」と明記されていることから、レー氏が米国の反日一辺倒の論調に危機感を覚え、そこに一石を投じるつもりで書かれたことがわかる。

米国人が読んでわかりやすい事例やたとえ話が豊富に紹介されていることからも頷ける。
たとえば、「満洲国の独立は、日本人による働きかけと援助がなければ決して行われなかったと言われており、その点は認める。しかし、日本の援助が何だというのだ? 米国自体、フランスの支援なしに独立を勝ち得ただろうか?」 というように、愚の音も出ないような説明をしている。

また、日本が満洲国を建国に導いたことを、米国がテキサスを併合したことを引き合いにし、「満洲で日本が果たした役割は、テキサスでの米国の役割と同一であり、しかも日本は保護下の満洲国を米国のように『併合』したりはしていない。(中略)米国によるテキサス併合の狙いよりはるかに考慮に値する正統な理由があったのだ」

 とも述べている。たしかに、併合もせず植民地にもしないというのは、当時の世界の常識に反することで、満洲を「傀儡」という人たちは、自分たちならそうするという前提で語っているに過ぎないのではないかと思える。

 また、溥儀皇帝は「中国人」ではなく「満洲人」であり、満洲国が「支那共和国」から分離したのではなく、もともと満洲国が支那を領有していたところ、辛亥革命によってそれが解消されただけであって、溥儀が満洲国皇帝となったのは自然な流れであるという説明も納得がいく。

 そして、レー氏は、満洲国建国は、満洲人民が張学良軍閥の支配から脱出しただけのことであり、そもそも中国大陸に統一政府は不存在であったのだから、なぜ満洲人民が日本の援助のもとで満洲国を建国するのがいけないのかと畳みかけていく。              

 本書は、当時の米国人が、当時の条約や国際法、歴史的経緯などを踏まえて、様々な角度から論理明快に満洲国建国の正当性を立証していることに重大な価値がある。すでに出版から八十年以上が経過したが、むしろ今読むことで、時の政情や世情そして空気を手に取るように知ることができる。

 この本を読むと、当時の日本のことを「侵略国家」と思っている人は、その根底が揺らぐのではあるまいか。満洲国建国が当時の日本にとって国防のために正当で、合法な行為であったなら、先の大戦における日本の評価も、大きく変わってくるに違いない。我が国の名誉を回復するのは骨の折れる作業だが、まずは満洲国建国の正当性あたりから着手するのも良かろう。

 それにしても、本書がなぜもっと米国人に読まれなかったのか、実に残念でならない。当時の米国が日本と敵対してソ連の手先となったことは、日米戦争の条件を整えてしまった。

このままだと本当に日本と戦争になってしまうというレー氏の予言は、六年後に的中してしまう。


まえがき

 このたび、一九三五年(昭和十年)当時、満洲国政府外交顧問を務めていた米国人ジョージ・ブロンソン・レーの書いた満洲国擁護論を再度翻訳出版した。レーについては序文で本人が自己紹介をしているので、人物紹介はそちらに譲る。

 この本が書かれてからすでに八十余年経っているし、その間、日本の国も激変しているので、ここで改めてこの時代の日本の歴史を簡単に記して、これからレーの本書を読むにあたっての参考に供したい。

 日本を縛りつけたワシントン体制

 日本は、日清戦争で清国に勝利し、下関条約で手に入れた戦果を、梶棒で殴られて奪い取られた(レーの表現)。日本はポーツマス条約交渉では露清密約の存在を知らされず、騙されて、賠償金はおろか、それに相当する領土も得られなかっただけでなく、清国の領土でロシアと戦ったことで、清国に迷惑をかけたと謝罪するよう強いられた。

 第一次世界大戦では国際連盟の一員としてドイツと戦い、連盟側の勝利に貢献したにもかかわらず、パリ講和会議では、まるで審判を受ける被告席の立場に立だされた。

 大戦中、極東とオーストラリアの通商ルートを、ドイツの攻撃から守ったことに対する報酬として約束されていた、微々たる戦果(ドイツが占領していた山東半島の権益)まで、密約を交わした英仏がいなければ、放棄するよう強要されただろう。

 ところが、後のワシントンでの軍縮会議に呼ばれた日本は、そこで辛辣で情け容赦ない判事によって非難され、告発され、厳しく責められ、満洲における権利を確保するための切り札として使う機会もないまま、結局山東半島を支那に返還せざるを得なかった。

 日本は、三度戦争に勝ち、三度戦果を奪い取られた。日本の陸海軍が払った犠牲と引き換えに、国民に示すことができたのは、満洲への二十億円の事業投資が全てであった。

 国際連盟規約、九ヵ国条約、そして不戦条約という盾に守られた北京政府(蒋介石軍閥)は、日本はあえて武力を行使しないだろうと高を括り、日本の投資に損害を加え、日本人を全部一緒に国から追い出す準備をしていた。

 一九二二年(大正十一年)、日本は極東の平和を希望して九ヵ国条約を締結した。これはワシントン会議に出席した九ヵ国、すなわちアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ペルギー・ポルトガル・日本・中華民国(支那)との間で締結された条約である。

 この条約は、支那に関する条約で、支那の門戸開放・機会均等:主権尊重の原則を包括し、日本の支那進出を抑制するとともに、列強の支那権益の保護を図ったものである。

 日本は、この九ヵ国条約を締結したことによって、第一次世界大戦中に結んだ石井・ランシング協定を解消し、機会均等を受け入れ、この条約に基づいて別途支那と条約を結び、山東省権益の多くを返還した(山東還付条約)。

 これ以後の国際体制がワシントン体制と呼ばれる支那権益の侵害を排除する体制となった。

 しかし、この九力国条約の根本的誤謬は、まだ責任ある国家でもない支那共和国(中華民国)の国境を明確に定めないで、その領土保全を認め、清朝に忠誠を誓ったモンゴル人、満洲人、チベット人、回教徒、トルキスタン人らの種族がその独立権を、漢民族の共和国に譲渡したと一方的にみなしたことである。従ってここで、実体と全くかけ離れた極東アジアの状況を作り出した。

また、この九ヵ国には支那に強大な影響力を及ぼし得るソ連が含まれておらず、そのソ連は、一九二四年(大正十三年)には、外蒙古を支那から独立させてその支配下に置き、また国民党(蒋介石軍閥)に多大の援助を供与するなど、九ヵ国条約に縛られず、自由に活動し得た。その結果、同条約は日本に極めて不利となった。支那とソ連に自由を与え日本を縛ってしまった。

  ワシントン体制はワシントン会議で締結された九ヵ国条約、四ヵ国条約(アメリカ・イギリス・フラ ンス・日本)、ワシントン海軍軍縮条約を基礎とする、アジア・太平洋地域の国際秩序を維持する体制であるが、日本では、この体制を基盤とする外交姿勢を協調外交(幣原外交参照)と呼び、代々の立憲民政党内閣の外相・幣原喜重郎らによって遵守されてきた。

 しかし、一九二六年(大正十五年〈昭和元年〉)に蒋介石の北伐が開始され、この年に万県事件、翌一九二七年(昭和二年)に南京事件(一九三七年〈昭和十二年〉のいわゆる南京大虐殺といわれる南京事件ではない)や漢口事件が発生すると、日本国内では邦人に対するテロ行為を容認する結果となった協調外交に対する不満が大きくなり、とりわけ軍部は「協調外交」による外交政策を「弱腰外交」と して強く批判した。

 義和団の乱後に締結された「北京議定書」で、日本を含む列強各国は支那大陸の自国民保護のための軍を駐留させていた。支那大陸の邦人がテロの被害に遭うたびに、「軍は何をしているんだ」と日本軍は国民から突き上げられていたのである。

満洲の独立を支援した日本の狙い

 満洲に跋扈していた張学良軍閥の日本人に対するテロ行為が頻発し、ついに日本軍(関東軍)は一九三一年(昭和六年)、柳条湖事件をきっかけとして、この張学良軍閥を討伐し駆逐した(満洲事変)。

 ところが、この軍事行動(満洲事変)は九ヵ国条約で定められた支那の領土保全の原則に違反しているとして、各国から非難を受けた。それ以後もたびたび日本の行動は同条約違反と非難されたが、日本側は非難を受けるたびに、本条約を遵守する声明を出し続けたのである。

一方満洲の民は、これで日本軍が張学良軍閥というゴロツキ集団を追放してくれたので、これを好機と捉え、独立を果たしたのである。

 翌一九三二年(昭和七年)に成立した満洲国は、中華民国が負った義務を継承するとし、また満洲国承認国に対しても門戸開放・機会均等政策を実行した。

 しかし、一九三四年(昭和九年)十一月に満洲国において石油専売法が公布されると、イギリス・アメリカ・オランダの三ヵ国は(未承認の満洲国にではなく)日本に抗議した。それに対し日本は、日本にとって満洲国は独立国であるため干渉することはできないこと、そもそも門戸開放・機会均等は特定の第三国に通商上の独占的排他的特権を与えないことに過ぎないことなどを伝えた。

 しかし、一九三七年(昭和十二年)七月七日に起きた盧溝橋事件に始まる支那事変で、日本は不拡大方針を発表しているにもかかわらず、蒋介石軍閥と支那共産党が邦人に対して起こす連続テロ事件で、戦線が徐々に拡大していった。ソ連や欧米列強が蒋介石軍閥に対日テロを指喉し支援していたのである。

 列強は蒋介石軍閥と支那共産党を支援して日支和平を仲介すべく、一九三七年十一月にブリュッセルで九ヵ国条約会議(ブリュッセル国際会議)の開催が急遽決定された。

 しかし日本側は、この会議が支那側を支援している欧米列強国の日本糾弾会になることがわかっているので、会議への出席を拒否した。これにより本条約は事実上無効となり、ワシントン体制は名実ともに崩壊した。

 欧米列強はこれを日本の所為にしているが、真相は真逆である。日本の外交政策と自衛手段をことごとく妨害し、日本は生存権すら奪われかけたのであった。

 その後も、日本やその他加盟国との和平の道を探るも、列強に支援された蒋介石軍閥と支那共産党は邦人に対するテロを繰り返し、条約は破り、条約の交渉さえ妨害した。

 そしてついに、日本は一九三八年(昭和十三年) 一月十六日、「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とする第一次近衛声明を発表し、和平への道は閉ざされた。

 さらに、蒋介石軍閥に愛想を尽かした汪兆銘が、蒋介石軍閥を離脱して汪兆銘政権を樹立し、この政権が支那大陸の大半を支配する。日本と協調して支那大陸の正統国家樹立を目指した。昭和十二年に始まった支那事変は、翌十三年にはほぼ終結する。

 後に日米交渉の後、アメリカの出したハルノートでは、この汪兆銘政権ではなく、支那事変の日本の敵対勢力である蒋介石軍閥を、正統政府と認めることを日本に強要してきた。

 満洲国は一九三二年(昭和七年)に建国され、一九四五年(昭和二十年)にソ連の軍事侵略で消滅した。この地域は一九一一年(明治四十四年)の辛亥革命で清朝が滅亡した後は、張作霖軍閥が支配していた。そして、一九二八年(昭和三年)に起きた張作霖爆殺事件で張作霖が死去してからは、息子の張学良が父を継いで支配していた。

 日露戦争当時、清国は露清密約(軍事同盟)を隠蔽していた。日露戦争は、実際はロシア・清国の連合軍と日本との戦争であった。従って日本にとっては清国も敵国だったので、ポーツマス条約では、日本は満洲を併合することもできたのである。

 張学良軍閥が満洲の人民を搾取し、苛斂誅求がひどかった。そして、張学良軍閥は、日本が運営する満洲での満洲鉄道とその付属地で、日本人を襲撃し、鉄道やその沿線の日本人の施設を破壊するテロ行為を繰り返し、前述の通り、ついに関乗車が柳条湖事件をきっかけに、張学良軍を攻撃し、これを満洲地域から追放した(満洲事変)。

 当時の極東アジアの真実を示した書

 これを好機と捉えた満洲人民は、支那から独立し、満・蒙・朝・華・日の
五族協和王道楽土を建国の理念として、満洲国を建国した。

 軍閥・張学良を追放して建国された満洲国は、わずか十三年でソビエト連邦の侵略で消滅したが、この短い間に目覚ましい経済発展を遂げ、アジアの大国に育っていた。世界が寄ってたかってこれを潰していなければ、この国はアジアの大国に成長していたはずである。だからこそ、早いいうちに潰しておこうとなったのであろう。

 実際、この満洲国は建国直後から、米国と国際連盟の様々な干渉を受け、苦難の船出をしたのである。満洲国の顧問を務めていた片荷のブロンソン・レーは、その理不尽さに憤慨し、特に米国の意図が奈辺にあるのかを本書で厳しく追及している。

 日本が誠実に平和を希求し、欧米列強に対し、妥協に妥協を重ね、隠忍自重しているのに、米国は嵩にかかって日本を追い詰めていく。このままいけば日本と戦争になると、ブロンソン・レーは警告している。

 そして現に戦争になってしまった。彼は本書で、満洲国建国前後からの列強の日本虐めを本書でつぶさに書き残している。

 欧米列強は満洲国を承認しなかった。リットン調査団を派遣し、できたばかりの満洲国を、日本の傀儡国家であって、国家としては認められないと決定した。

 民族が権力者の圧政に苦しんでいる間に、機会を捉えてその権力者を排除して独立する権利は、あらゆる人民に認められている。この点は本書でも詳細に記している。他国がその独立を承認することと、その国の独立とは全く無関係である。

 現に、満洲国は、建国以来目覚ましい発展を遂げ、毎年百万人の移民が、主として華北から万里の長城を越えて流入した。それに、当時の独立国は六十ヵ国未満であったが、そのうちのおよそ三分の一の二十ヵ国が満洲国を承認している。承認しないといっている米国やソ連ですら、満洲国と協定を結び、支社などの出先機関を置いていた。

 ソ連はチタとブラゴヴェシチェンスクに満洲国の領事館設置を認めていた。また、北満鉄道譲渡協定により北満鉄道(東清鉄道)を満洲国政府に譲渡するなど、満洲国との事実上の外交交渉を行っていた。

 先の大戦後は、満洲国は存在しなかったことになっている。寄ってたかって列強が満洲国を潰してしまったので、その存在を認めると世界は困るからである。この地域を現在統治している中華人民共和国は、この満洲国のことを偽満洲国といい、東北三省といっている。

 中華人民共和国を建国した毛沢東は、蒋介石率いる国民党に追われ、延安まで逃げるが、「満洲さえ取れば何とかなる」といって満洲侵略を狙っていた。

 満洲事変からの日本の支那大陸における行動を、日本の支那侵略(満洲侵略)という。支那の軍閥が行った日本に対する不法は一切隠蔽し、日本の行動だけを侵略というのである。日本軍(関東軍)は自衛行動しか取っていない。

 日本の大陸における権利・権益は令て条約に基づいた正続なものであるにもかかわらず、今では日本人ですら、この権利・権益を防衛する日本の行動が侵略であったという。

 この時代の歴史を知らないからである。日本の総理で「日本は侵略戦争をした」と最初に発言したのは細川護煕元総理であった 無知も甚だしい、彼はこのブロンソン・レーの本を読むべきである。

 ブロンソン・レーは、満洲国の存在とその前後の極東アジアに関する極めて重要な歴史事実を明確に書き残している。彼がここで書き残した。歴史事実を理解しなければ、当時の極東アジアの真相は決して理解できるものではない 当時の日本の行動も理解できない。

 その意味では、本書はアジアの近現代史を理解しようとする人にとっては必読のに書といって良い。

                               企画・調査・編集  吉重丈夫

「満州国建国」は正当である 目次
『「満洲岡建国」は正当である』新訳版刊行に寄せて/1
    
    まえがき/5

    新訳に際して/27

    序文/29

第一部 米国はアジアに何を求めるのか?・

    第一章・不承認主義
        スティムソン・ドクトリン/34 気まぐれな承認方針/37 法の紛い物
        /41 戦争の火柱/43 極東における米国の責任/46 米国の対極東政
        策とは何か?/49 「強力な支那」とは何か?/52 人道主義と基本政策
        /56 ジョン・クウィンシー・アケダムズの対支政策/58 流れ着く先は戦
        争状態/62

    第二章・戦争を企てる者
        日米戦争への宣伝工作/65 米支秘密同盟/68 卑劣な手段/70 巧妙
        化する企て/71

    第三章・日本の軍国主義
        評決を覆せた重要な鍵/75 露清密約/77 一九一五年の満洲に関する
        条約/78 北京政府の自白/79 審理を経ない有罪判決/80 安全保障
        の値段/82

    第四章・満洲に関する法
        乗っ取り屋の三国/84 存在しなかった不法行為/86 同じ鋳型/88

    第五章・アジアの根本的な問題
        日本とはどういう国なのか/90 多子多産の人口問題/93 二十年で二
        億人増加のアジア人/94 米国は日本と戦うべきか?/96

    第六章・門戸開放という神話
        数字が示す客観的事実/98 赤字の海/100 貢献度が低い米国の対支投
        資/104 日本が作った米国産綿花市場/106 奇妙なポーカーゲーム/107

    第七章・支那の門戸を閉ざす米国
        門戸を閉ざした米国による独占/110 国策遂行手段としての独占/113
        自力復活の唯一の機会を奪ったウィルソン/115 再びウィルソンに否定
        された国家主権/117 再び不利益を被る支那共和国/118 日本は米国の
        パートナー/119 抗日運動の展開/122 独占はいつ非独占となるのか
        /125 主権の弱体化/129 日本の登場/132 ウィルソンの方針転換/133
        支那の棺に打ち込まれた最後の釘/134 鉄道に代わった爆撃機/135 求
        む「政策」/137

    第八章・国際的な儲け話
        「支那の友人」たちの思惑/140 日本の無私かつ利他的政治行為/142

第二部 問われる判事の中立性

    第九章・審問なしの有罪判決
        法が機能しない政治的法廷/146 普遍的な基本原則/147 諧謔精神の欠
        如/148 残るは世論という法廷のみ/150

    第十章・支那ではない満洲国
        説明のできない干渉する権利/153 先例のない領土主権の概念/154 西
        洋の基準で測る東洋の状況/157

    第十一章・移住は主権を伴うのか?
         満洲民族と漢民族の違い/159 日本人のハワイ領土主権/162 判事失格
         の米国/164 移民法の抜け穴/165 米国が学ぶべき教訓/167

    第十二章・自発的な革命とは何か?
         独立前の米国と似た満洲国の状況/168 満洲国で繰り返される米国の歴
         史/170 民の声は神の声/172 危機に瀕する日本の名誉/173

    第十三章・少数派による革命の妥当性
         国民党が軍事独裁政権となった理由/175 満洲人が立ち上がるとなぜ非
         難されるのか/176 矛盾だらけの条約/178

    第十四章・法と自由との対峙
         新国家樹立の合理性とは/180 満洲国の正当なる主張/182 追悼の壁
         /184 神の御業/187 法の機能不全/188

    第十五章・革命に定則なし
         再び権限を手にした満洲人/190 国家主権を巡る支那の革命/192 支那

    第十六章・援護あってこその反乱
         テキサス併合の正当性と満洲問題/197 大英帝国の役割/200 なぜ独立
         を宣言したのか/201 判事の資格があるのは誰か?/203 ウェスト
         ヴァ-ジニアと満洲国/205

    第十七章・虚構の国家
         支那の共和制の意味/208 人道主義に反する行為/209 犠牲にされた自
         由/211 連合規約のない支那国家/212

    第十八章・第一原理の否認
         共産主義者のマグナ・カルタ/214 真実に対抗できない擬制/216 第一
         原理の否認/217

    第十九章・判事の中立性を問う満洲国
         必要性の前に法は存在しない/119 承認は米国人の責務/220

    第二十章・いたるところに傀儡政権
         主権国家とはいったい何か/222 人形芝居の資金/223 支那に停泊する
         米国砲艦/224

    第二十一章・条約に違反していない満洲国
          米国が満洲問題に干渉できる唯一の根拠/227 効果を失った九力国条約
          第七条/229

    第二十二章・支那共和国の根本法
          いかなる条約にも優先する協定/232 詩的正義(ポエティック・ジヤスティス)の            主張/235 厚顔無恥の訴え/236                               
    第二十三章・満洲国の権利の確認
          自由のために戦う決意/240

    第二十四章・鍛冶屋の合唱
          満洲国獲得計画の考察/243 不満のない住民/245 信用できない支那の
          証言/247

    第二十五章・手本は米国
          米国のキューバ支援と日本の満洲支援/249

    第二十六章・法に立ち戻れ
          与えた者は処分することもできる/252 満洲人はなぜ抗議しなかったの
          か/255

    第二十七章・常に独立している満洲
          南京政府に干渉する権利はない/258 違法な条約を根拠とする支那の主
          張/260

第三部 条約について

    第二十八章・日本は不戦条約に違反したのか?・
          自衛権は国の基本的義務/264 一九三一年九月十八日夜/266 米国の自
          衛権を否定する連盟裁決/268 調査団を招いた日本/271 メイン号の惨
          劇/272 最初から結論ありきの調査団/275 モンロー主義が定めた法
          /278 日本には認められない自衛権/279 領土王権を国際裁判に掛けた
          ことの罪/281

    第二十九章・九力国条約と決議
          無視された「十三件の決議」/282 条約侵犯者は誰か?/284

    第三十章・ 公認された放蕩者
          支那からはぎ取られた蒙古/289 広東政権とソ連の謀略/290 赤の脅威
          /291

    第三十一章・合法的殺人
          支那の内戦の合法性とは何か/297 列強諸国の責任と告発/298 フィリ
          ピンの利他主義と支那の利己主義/300

    第三十二章・内政干渉の歴史
          覇権は再び東洋に戻る/302 眠っている犬を起こすな/304 儲けるのは
          武器商人/305

    第三十三章・自存権の法
          日本の自衛手段を禁ずる条約/307 ロシアに与えられた白紙委任状/308
          自存権の法/309 フロリダと満洲国/312

    第三十四章・自己犠牲の法
          阻止された改定/315 優先されるべき常識/317

    第三十五章・国家ではない支那
          省の独立/318 人道主義に対する犯罪/320 何か国家を作るのか?/322

    第三十六章・国家の分解
          人道的解決/325 民族主義の原則/327

    第三十七章・妄信が導く戦争
          武力統制で秩序を保つインド/329 さらに賢明なトルコ人/332 英国と
          オスマン帝国/96 支那には適用されない大迫土義//337

    第三十八章・列強の利益優先
        比較優位を保つ米国/339 追い詰められた日本/342

    第三十九章・共産主義への道
          もう一つの共産主義国家による支配/345 モスクワの真の目的/346 日
          本は自殺すべきなのか?/347

    第四十章・支那が留保した権利
          除外された日支間の意見対立/349 なぜ支那は連盟に訴えたのか?/351

第四部 真の問題は日本対共産主義

    第四十一章・日本の存亡の危機
          直面する真の極東問題/354 ピョー・トル大帝の遺言書/356 独立を巡る
          日本の戦い/358 ソ連のむき出しの帝国主義/360 脅威はどちら側から
          やってくるのか?/361

    第四十二章・田中上奏文とされるもの
          シオンの議定書と世界革命計画/363 抵抗し難い勢力/366 数の重荷
          /368

    第四十三章・田中男爵の正当性
          日本への嫌悪感を執拗に訴える/371

    第四十四章・英米に追随する日本
          予防手段に出た日本陸軍/374 大英帝国の防衛方針/376 国際法は日本
          には適用されるのか?/379 新生国家の承認を拒む米国/381

    第四十五章・いわゆる「広田原則」
          至極当然な自国防衛宣言/384 支那の分割/386 幻滅した日本/387

    第四十六章・ソ連外交の目標
          日本への対抗を目的に加盟したソ連/389 迫りくる最終決戦/392 保安
          官になった無法者/392 日本対共産ド義/川 米川はシベリアで何がし
          たいのか?/396

第五部 選択を迫られる米国

    第四十七章・共産主義のためにシベリアを救った米国
          固い頭では到底理解できない/398 逆行する歴史/401 長江流域を勢力
          圏とした英国の思惑/405 秘密外交がもたらしたもの/407

    第四十八章・立場を宣言した日本
          公平な判断が下されると信じた日本/410

    第四十九章・記録を調べるべし
          日本の戦果を奪い去る米国/414 米国にとって最も危険な敵は米国自身
          /417 米国は「苦境に立っている」のではないか?/420 馬鹿げた戦争
          /422

    第五十章・ 米国民は忘れるな
          着実に触手を広げるソ連/427 米国に対して扉が閉ざされた理由/430
          終わらない覇権争い/433 日本を支持する英国/434

    第五十一章・選択を迫られる米国
          帝国主義的意図を隠す大義名分/438 世界の指導者としての判断/442

    第五十二章・増強せよ
          日本の封じ込め政策/445 行進を続ける日本/448 天秤に掛けられた文
          明の未来/453

支那の難問を解く鍵
   「参考資料1」露清秘密条約(一八九六年〈明治二十九年〉五月二十二目調印) 455
   「参考資料2」ピョートル大帝遺言書 458
   「参考資料3」清国皇帝退位協定二十二年〈明治四十五年〉二月十百調印) 461
   「参考資料4」支那に関する九ヵ国条約 463


あとがき 467
満州国建国当時3000万人の人口を擁していたが1940年の時点で4000万人強であった。五族協和を唱えてはいたが満州族が95%を占めていた。

第二次大戦後、漢族が侵入し民族浄化に近い形で漢族との同化が行われ2010年の中国の国勢調査では1,038万人に減ってしまっている。

現在はごく少数の老人を除いて満洲語を話す者は殆どおらず、伝統宗教のシャーマニズムの信仰もほとんど残っていない。このような状況から、満洲民族は、言語的・文化的に中国社会に同化され、失われつつある先住民族であるとも見なされうる。

1980年代以降は政府の少数民族優遇政策から積極的に民族籍を満族に改めようとする動きがあって、満族の人口は10年あまりのうちに3.5倍以上に増加しているが、これは満族になる事で少数民族として優遇措置の恩恵を受けようとする人が多いためといわれており、満洲語を話す満州族が増加している訳ではない。

毛沢東時代中華人民共和国内では大躍進の飢饉死者5000万8000万の死者の死者、文化大革命の死者2000万において満州族の被害がどの程度なのか資料がないが、純粋の満州族が改革開放直前に300万人程度しか満州族を自称する人がいなかったことになるので、同化による減少だけではなかったと思う。清国時代~満州国時代において満州族は漢族より高い教育水準を誇っていた為、インテリを敵視する毛沢東/紅衛兵により民族浄化された可能性は否定できない。

民族として満州国を建国したにもかかわらず中国に呑み込まれた民族の末路としてチベット同様、日本は満州国について強い関心を持つべきではないだろうか?

特に満州国建国の正当性は、戦後レジームの脱却する重要なファクトになるかもしれない。

本書は、満州国建国の実態を東京裁判というフィルターを通さずに正しく後世に伝える本として非常に有益な本であると思います。



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世界はなぜ最後には中国・韓国に呆れ日本に怖れるのか――目次

     はじめに 1

 第一章世界は古代から日本に憧れていた    13

     ○孔子も日本に行きたいと望んでいた
     ○古文書(梁職貢図)には「新羅は倭の属国だった」と書かれている
     ○マルコ・ポーロ以前にも世界中にあった「日本=黄金の国」伝説
     ○大航海時代を開いた「ジパングヘの夢」
     ○日本に魅了された戦国時代の宣教師たち
     ○「故郷を捨ててもこの地を選びたい」と記したロドリゴ
     ○日本人の誠実さを記した『日本大王国志』(子供の教育
     ○「中国より日本が優れている」と喝破したシドッチ
     ○日本人に高潔さを見たドイツ人医師
     ○ロシア人捕虜が憧れた徳川日本
     ○初代イギリス公使が賞賛した日本人の能力
     ○中華と日本のあまりの違いに驚嘆したシュリーマン
     ○日本を愛した清朝外交官(黄道憲)
     ○イザベラ・バードの日中韓比較
     ○ミシェル・ルヴォンの日本文明史論
     ○「日本人は善徳や品性を生まれながらに持っている」
     ○西洋人が見た日本人の容貌と性格
     ○西洋人が比較した日本・中国・韓国の美
     ○世界を魅了する日本文学
     ○西洋人の目に映る「日本精神」のすばらしさ

第二章外国が見て感じた朝鮮の悲惨な本質――――83

    ○朝鮮建国は中国人が始祖だった?
    ○西洋においてようやく朝鮮が認識されるのは17世紀
    ○宣教師が伝えた朝鮮半島の惨状
    ○告げ□と裏切りが朝鮮社会の本質と論じたダレ神父
    ○ハゲ山ぽかりたった朝鮮半島
    ○迷信と搾取が蔓延する開国後の朝鮮
    ○バードが見た「死者の国」の死相
    ○アーソン・グレブストの『悲劇の朝鮮』
    ○朝鮮人の「外華内貧」を示した『朝鮮亡滅』

第三章世界が驚いた中国の野蛮と没落 ―――― 139

    ○西洋人の「支那」発見
    ○世界の中国観の移り変わり
    ○マルコ・ポーロ以外の中国見聞
    ○中国人商人の良心のなさを記したクルスの『中国誌』
    ○マテオ・リッチが見た中国人の人間不信
    ○外国文化を受容する日本と拒否する中華
    ○西洋人の中国皇帝に対する異なる評価
    ○奴隷になりたがる中国人
    ○「無官不貪」の伝統文化
    ○西洋人が驚愕した中国人女性の風習
    ○傲慢な中国の内貧ぶりを見た英使節
    ○「儒教が中国の精神的発展を阻害した」
    ○中国人の「醜さ」を見抜いたアーサー・スミス
    ○中国を見誤ったヨーロッパの知性
    ○賛美から侮蔑へ変化する西洋の中国観
    ○人民への圧政こそ中国の原理と論じたモンテスキュー
    ○「嘘つき」の国民性を分析
    ○中国が後進国となった理由を探ったコンドルセ
    ○官僚の腐敗が発展阻害要因と見たアダムースミス
    ○「不変と停滞」を中国の本質としたヘーゲル
    ○「中国人は未来の利益を考える理性がない」と論じたミル
    ○中国には変革のエネルギーがないと評したウェーバー

第四章戦後の日中韓は世界からどう論じられてきたか――――213

    ○戦後の日中韓の比較
    ○ポールーリシャルの日本讃歌
    ○「恥」を語るルース・ベネディクトの『菊と刀』
    ○アメリカきっての日本通から見た戦後日本
    ○中国の時代を予見しながらも日本神道を賛美したトインビー
    ○戦後韓国人の精神を分析した『朝鮮の政治社会』
    ○戦後韓国の繁栄を日本のおかげだと論じた『帝国50年の興亡』
    ○朝鮮半島への日本の貢献を論じた『新朝鮮事情』
    ○日本の教育制度に感嘆したパッシン
    ○現代のイエズス会士が見た日本
    ○日本警察にっいての見方の変化
    ○「21世紀は日本の時代」と予言した米国の未来学者

おわりに 258

本を読むのは楽しい。良い本は全て紹介したいが、全て読んだ本をブログで紹介していては身が持たない。しかし、元中国人の石平氏・元台湾人の黄文雄氏の本は興味を持って読める本が多く、ついついブログで紹介したくなる。

高校生の頃に読んだ上古代史の歴史について書かれたとされる竹内文書について書かれた本「謎の竹内文書」の中に、古代日本にはイエスキリストやモーゼ、孔子がやってきて学んだと書かれていた。まあ、ロマンあふれるファンタジーで、そうであったら良いな~おもしろいと思っても、さすがに真実であると思うことはできませんでした。(ちなみに同じ偽書でも秀真伝:ホマツタエの方が失われた古史・古伝のエッセンスが入っていると思う)

が、三十数年ぶりに、本書を読んで、竹内巨麿によって不幸にも書き加えられた竹内文書の元ネタの一つは中国の日本に関する歴史書が日本を理想郷のように書かれていたことから、日本国内の国学者達が気がついていたことによるような気がします。

p14-15
孔子も日本に行きたいと望んでいた

 世界はなぜ日本に魅了されるのだろうか。

 日本の名が世界で最初に歴史書に登場するのは、いまから1940年近く前の後漢の章帝(在位75~88年)の時代に完成した『前漢書』(班固)の「地理誌」である。そこには、「夫れ楽浪海中に倭人有り、分れて百余国となる。歳時を以て来たり献見すと云ふ」と書かれている。

それ以前にも、中国古代の戦国時代に書かれた『山海経』などに記述があるが、それが日本を指しているのかどうかは判然としない。中国の正史二十四史(清朝の乾隆帝によって定められた中国王朝の正史24書)に日本の名が記述されたのは、この『前漢書』が初めてである。

 この一文の前には、「東夷の天性柔順、三方の外に異なる。故に孔子、道の行われざるを悼み、設し海に浮かげば、九夷に居らんと欲す。以有るかな」とある。つまり、東夷は性格が柔順であり、孔子は中国では道徳が行われないので、九夷(日本を指すと思われる) へ行きたいと述べていた、というのである。

 これについては、『論語』にも「子、九夷に居らんと欲す」(子草第九)、「子曰く、道行われず、俘(いかだ)に乗りて海に浮かばん」(公冶長第五)などと書かれている。

 司馬遷の『史記』には秦の始白五帝の天下統一直後の紀元前219年に、徐福(徐芾)が童男 童女を率いて 「蓬莱仙島」に不老長寿の仙薬を探し求めたとある。この仙島は日本だと目されており、日本でも類似の伝説を伝えている。

  中国の正史上で、初めて日本に関するまとまった記述があるとされているのが『三国志』 (3世紀末成立)「魏志倭人伝」(通称)である。著者は西晋の陳寿(233~297年)であ り、3世紀末の280~290年に書かれたとされる。邪馬台国の見聞録については「魏志倭 人伝」が初めてである。

  魏志倭人伝の正式な名称は『三国志』「魏書東夷伝倭人条」で、そこには倭国の風土や様子、 邪馬台国までの行程が示されている。さらに、「婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、静訟少なし」と記述され、窃盗や争い事の少ないことが述べられている。現在の日本もそうだが、当時から特筆されるほど安定した社会だったのだろう。

 『後漢書』(432年完成)には、57年に奴国王が光武帝から冊封(爵位を授ける書状)を受け、「漢委奴国王」の金印を授かったことが書かれている。その後も、『末書』(502年完成)、『南斉書』(502~519年完成)などの正史にも日本の記述がある。

  聖徳太子が「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す」という有名な国書を送ったことが記されている『隋書』(656年完成)「東夷伝」にも、「人、頗る恬静にして、争訟稀に盗賊少なし」(物静かで争わず盗人も少なし)、「性質直にして雅風有り」(性格は素直で上品なところがある)、と書かれている。


p23-25 日本に魅了された戦国時代の宣教師たち
日本に魅了された戦国時代の宣教師たち

 ローマカトリック教会に属するイエズス会では、1549年のザビエル来訪から80年まで、「イエズス会士日本通信」という報告書を残している。79年から1626年までの記録は、巡察師アレッサンドロ・バリニャーノの提言によって年報形式に統一されたので、以後は「イエズス会日本年報」と呼ばれるようになった。

 執筆者のひとりであるルイス・フロイスはポルトガルのイエズス会宣教師で、インドやマラッカで布教活動を行った。インドのゴアでは、ザビエルの協力者になっていたアンジロー(前出)に会っている。1563年に来日、長崎で亡くなるまでの35年間、日本で布教を続けた。

 フロイスの著書である『日欧文化比較』は、1946年にヨゼフ・フランツ・シユッテ牧師
によって、スペイン・マドリードの文書館で発見された。日本では、1955年にドイツ語訳を添えて上智大学より刊行。66年に岩波書店から出版され、91年には『ヨーロッパ文化と日本文化』(岡田章雄訳注、岩波書店)の題で文庫化されている。

男性、女性、児童、坊主、寺院、日本人の食事、日本人の武器、馬、病気・医師、書法、家屋、船、’劇など、多岐にわたる文化比較の書だ。

 「われわれは喪に黒色を用いる。日本人は白色を用いる」
 「われわれはすべてのものを手を使って食べている。日本人は男も女も、子供の  時から日本の棒を用いて食べる」  
 「われわれは横に、左から右に古く。彼らは縦に、いつも右から左に古く」
 「われわれの家は石と石灰で造られている。彼らのは木、竹、藁および泥でできている。

 とくにフロイスは日本の子供の聡明さに驚き、それは親のしつけにあると見た。
 「ヨーロッパの子供は青年になってもなお口上ひとつ伝えることができない。日本の予供は十歳でも、それを伝える判断力と賢明さにおいて、五十歳にも見られる」
 「われわれの間では普通、鞭で打って息子を懲罰する。日本ではそういうことは滅多に行なわれない。ただ言葉によって譴責する」

 加えて、フロイスは当時の日本人夫婦の特性についても記している。
 「われわれは夫が前、妻が後ろになって歩く。日本では夫が後、妻が前を歩く」
 「われわれは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸付ける」
 「われわれは、妻を離別することは、罪悪である上に、最大の不名誉である。日本では意のままに幾人でも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、また結婚もできる。汚れた大声に従って、夫が妻を離別するのが普通である。日本では、しばしば妻が夫を離別する」

 「われわれは普通女性が食事を作る。日本では男性がそれを作る。そして貴人(フィダルゴ)たちは料理を作るために厨房に行くことを立派なことだと思っている」
 封建社会の日本では女性の地位は男性よりも低かったとされているが、これを見ると、まるで現在の日本や欧米諸国を見るかのようで興味深い。当時の日本では、女性の地位も自由度も現在の先進国並みに高かったことがうかがえる。

 こうした比較は、桃山時代の日本と大航海時代後のヨーロッパの文化的差異として体験できる、もっとも対極的なものであっただろう。これはきわめて示唆に富んだ観察報告といえる。

 しかしフロイスの名が有名になったのは、何といっても1583~94年にかけて執筆した大著、『日本史』によるだろう。文章力に優れ、天性の語学の才能があったフロイスが、その才能を買われて日本布教史の執筆を命じられたのだ。現在、平凡社東洋文庫版(柳谷武夫訳)とポルトガル語の原文を翻訳した中央公論礼版(松田毅一・川崎桃大編訳)がある。

 ここには、織田信長や明智光秀の生涯、九州三侯(大友氏、有馬氏、大村氏)の遣欧使節団について、多くの原資料が記されている。また、キリシタンの隆盛から秀吉によるバテレン(宣教師)追放、禁教にいたる激動があますところなく描かれている。日本の記録では確認できない事項も多く、この時代を知るうえで第一級の史料である。


P37 
ドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル
 将軍綱吉の前で片言の日本語を話したというケンペルは、言語学にも才能があったらしい。
中国語と日本語にまったく類似性がないことに気づき、そこから、日本人の起源はバビロン種族という大胆な仮説を立てている。これは「日本人は支那人の別種」とする当時の一般的な見解に反するものだった。

 実際、日本語は中国から無数の語彙を取り入れているが、中国語とは文法的に関連性がなく、発音もまったく異なる。わずか2年の滞在で、目先の類似に惑わされず本質の違いに気づいたケンペルはやはり目が鋭い。

 また、ケンペルは日本人の高潔さを賛美し、美術工芸の面では他のすべての国民を凌駕していると述べるとともに、日本の空間には「美」が溢れており、日本の旅館の坪庭が非常に美しいこと、また、アジアのどの地方でも、日本の女性よりよく発育し美しい人はいないと絶賛している。
p41-42ロシアの軍艦ディアナ号艦長のヴァシリー・ミハイロヴィチ・ゴローニン
次もゴロウニンの卓見である。

 「もしこの人口多く聡明で抜け目のない、模倣の上手な、思慮深く勤勉でどんなことでも出来る国民の上に、我がピョートル大帝ほどの偉大な王者が君臨すれば、日本が内蔵している能力と財宝によって、その王者は多年を要せずして、日本を全東洋に君臨する国家に仕上げるであろう」 「日本人や中国人がヨーロッパ人に変身して、今日明日のうちに危険な存在になると主張するつもりはない。しかし、そんなことは絶対ありえないとはいいきれない。遅かれ早かれ、そういう目が来ることだろう」

 当時は明治維新の約半間紀前、日露戦争のI世紀近く前のことである。当時の欧米の知識はまだ貧弱で、アジア人は野蛮な未開人という程度の認識がほとんどだっただろう。日本の底力を世界が知ったのは、日清・日露戦争後のことである。

 まして外交官や商人、旅行者でもない一ロシア人捕虜が2年間で見た世界は、非常に隔絶されていたはずだ。それでもこれはどの先見力があったとは、まさに慧眼といえるのではないだろうか。

p44 初代イギリス公使 ラザフォード・オールコック
また、日本に対して、オールコックは中国と比較して次のように評している。

 「日本人の文明は高度の物質文明であり、あらゆる産業技術は蒸気力や機械の助けによらずに達しうる完成度を見せていると言わねばならない。ほとんど無限にえられる安価な労働力と原料が、多くの点で蒸気力や機械の欠如を補っているのは明らかだ」 「これまで達したよりも高度で優れた文明を受け入れる日本人の能力は、華人も含む他のいかなる東洋の国民より、はるかにすぐれていると思われる」
p45-50
中華と日本のあまりの違いに驚嘆したシュリーマン

 19世紀半ばに清と幕末の日本を旅し、その両国の記録を残しだのが、トロイア遺跡の発掘で有名なハインリッヒーシュリー・マンである。彼は遺跡発掘の6年前である1865年3月に世界旅行へと旅立った。

 そして海路でインド、香港、上海と北上し、1865年4月27日に天津に上陸、北京を経て万里の長城を見学もしている。その後、上海に戻りしばらく逗留し、そこから日本へ向かった。

 日本に1ヵ月ほど滞在した後、今度はサンフランシスコヘ向かったが、その洋上で書き上げたのが『シュリーマン旅行記 清国・日本』(石井和子訳、講談社学術文庫)である。連続して清と日本を見て回っただけに、その比較はきわめて資料的価値が高いだろう。

 まずは、当時の清についてであるが、シュリーマンは官僚腐敗や不潔な町並みをこう評している。

「清国政府は自国の税務業務に外国人官吏を登用せざるを得なかったが、そうするとほどなく税収が大幅に増え、それまでの自国役人の腐敗堕落が明らかになった」

 「私はこれまで世界のあちこちで不潔な町をずいぶん見てきたが、とりわけ清国の町は汚れている。しかもに天津は確実にその筆頭にあげられるだろう。町並みぼそっとするほど不潔で、通行人は絶えず不快感に悩まされている」

 「ほとんどどの通りにも、半ばあるIいは完全に崩れた家が見られる。ごみ屑、残滓、なんでもかんでも道路に捨てるので、あちこちに山や谷ができている。ところどころに深い穴が口を開けているので、馬に乗っているときはよほど慎重でなければならない」

 現在でも官僚腐敗や大気汚染・水質汚染は、中国の一大特徴として知られているが、シュリーマンが見た中国大陸も、現在と同様のおぞましさがあったことがわかる。 

また、シュリーマンが世界旅行をしていることの意義を中国人は理解できず、川で泳ぐことも無駄なことだと思う中国人気質について、 「どうしてもしなければならない仕事以外、疲れることは一切しないというのがシナ人気質である、これは言っておかなくてはならないだろう」
 と、その利己主義ぶりを特筆している。さらに政府の愚民化政策については、以下のように述べる。

 「清国政府は、四億の人民を強化するあらゆる事業を妨げることで、よりよい統治ができると考えているから、蒸気機関を導入すれば労働者階級の生活手段を奪うことになると説明しては、改革に対する人々の憎悪を助長している」

 中国人気質から社会紊乱、政府の愚民化策までほとんど現在の中国と変わらないことに驚くばかりである。

 シュリーマンは万里の長城を訪れた際、その雄大さに感嘆しつつも、
 「いまやこの建造物は、過去の栄華の墓石といったほうがいいかもしれない。それが駆け抜けていく深い谷の底から、また、それが横切って行く雲の只中から、シナ帝国を現在の堕落と衰微にまで既めた政治腐敗と士気喪失に対して、沈黙のうちに抗議をしているのだ」 と論じている。

 その後、シュリーマンは上海から蒸気船北京号に乗り、日本の横浜へと向かった。到着したのは1865年6月1日である。シュリーマンは日本上陸にあたり、以下のように述べている。

 「これまで方々の国でいろいろな旅行者に出会ったが、彼らはみな感激しきった面持ちで日本について語ってくれた。私はかねてから、この国を訪れたいという思いに身を焦がしていたのである」

 「船頭たちは私を埠頭の一つに下ろすと『テンポー』と言いながら指を四本かぎしてみせた。労賃として四天保銭(十三スー)を請求したのである。これには大いに驚いた。それではぎりぎりの値ではないか。シナの船頭たちは少なくともこの四倍はふっかけてきたし、だから私も、彼らに不平不満はつきものだと考えていたのだ」
 と、いきなり中国大陸との差にカルチャーショックを受けている。

 荷物検査の際にも、中国人官吏との違いについて、以下のように驚いている。
 「(荷物検査を)できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ一分(二・五フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて『ニッポンムスコ』(日本男児?)と言い、これを拒んだ。日本男子たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである」

 また、シュリーマンには警護の役人がついたが、その過剰警護ぶりに少々辟易しつつも、役人の精勤ぶりには驚嘆している。
 「彼らに対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら『切腹』を選ぶのである」

 町並みや人々の清潔さについても非常に感心しており、以下のように述べている。「家々の奥の方にはかならず、花が咲いていて、低く刈り込まれた木でふちどられた小さな庭が見える。日本人はみんな園芸愛好家である。日本の住宅はおしなべて清潔さのお手本になるだろう」

 「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている」
 「大理石をふんだんに使い、ごてごてと飾りたてた中国の寺は、きわめて不潔で、しかも頽廃的だったから、嫌悪感しか感じなかったものだが、日本の寺々は、鄙びたといってもいいほど簡素な風情ではあるが、秩序が息づき、ねんごろな手入れの跡も窺われ、聖域を訪れるたびに私は大きな歓びをおぼえた」

 そして日本の工芸品については、「蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達している」と評し、「教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では女達が完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる」と絶賛する。

 その他、日本の質素な生活にも触れ、ヨーロッパでは結婚の際にさまざまな調度品や家具類を用意しなければならないために莫大な出費が必要とされ、そのために結婚難が起きているが、必要不可欠だとみなされていたものの大部分が不要であることがわかると語り、正座に慣れ、美しいござを用いることに慣れれば、贅沢な調度品などなくても同じくらい快適に生活できる、とまで述べている。そして、「ここでは君主がすべてであり、労働者階級は無である。にもかかわらず、この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された上地が見られる」 と、日本の安全で安定した社会に感嘆したのである。

 シュリーマンが感じた日本と中国の違いは、現在では日本を訪れた中国人が自国と比較してよく述べることとほとんど同じだろう。
1.イザベラバードの日本紀行01

p58-60 ミシェルールヴォンの日本文明史論
 ミシェルールヴォンは、パリ大学文科大学の東洋文明史講座を担当した歴史学者である。
1893年に日本の丈部省の招聘で束京帝国大学法科大学の教師となり、99年まで6年半にわたって日本に滞在した。帰国後に「日本文明史」を著している。

 ルヅオンは、3000年来ほとんど変化しない支那や、原始時代のままで外人の好奇心を誘う朝鮮と違い、日本は自発的に社会を不断にあらため、進歩発展して一大国に成長したと説く。

そして、日本文明の特質は東西文明の融和であるという。
 ルヴォンの『日本文明史』によれば、日本は長久の神代を経て、上古に支那文明を採用した。

やがて奈良文化や平安文化に次いで、源平2氏が藤原氏を倒して武断から文治、やがて封建社会になる。16世紀にいたってヨーロッパと交流が始まり、信長・秀吉の両英傑のあとは日本第一の政治家である徳川家康が鎖国を行って200余年の平和を保つ。

 アメリカ使節(黒船)の渡来後、近代日本は1867年の革命で俄然勃興し、泰西(西洋諸国)文化を輸入して中央集権制を敢行する。古代日本が支那の文物を模倣したように、熱心に外来文明を取り入れた……という日本文明史を説いた。歴史学者らしく、その記述はきわめて正確である。

 そこでは、支那はその智力からローマに、優美精粋な日本をギリシヤにたとえ、それを融合させたのが日本文明だと論じている。後世の文明論者トインビーもこれと似た文明観をもつものの、むしろ東洋文明から西洋文明に改宗した背教者と定義しているのとは対照的だ。

 ルヅオンの日本文明史論は、風習から産業社会、法律にいたるまで幅広い。農業は古代エジプト時代と似ているが非常に耕作が進んでおり、田圃はさながら庭園のようだ。工業においても、手工業はヨーロッパ人を驚嘆させたほど精巧だった。

 財産分配については表面上は専制制度のようだが、実際はかなり民主的、一種の任侠的社会主義で数百万人の労働者を保護している。各労働者はつねに自治・独立・自尊の生産行である。

農民生活は族長制度に類似していても、強制されることなく互助精神に富む。赤貧の者は少なく、200余年の鎖国にもかかわらず人民は多福である旨を説く。

 明治当時の神道の教派は12、仏教宗派は100を数え、キリスト教派もおよそ10ある。また、儒学、道徳、進化、哲学について語り、なかでも文学はすこぶる思想が豊富で、西洋の作家に比べ奇抜なところが多い。

和歌や小説、『源氏物語』についても論じているが、ことに美術は日本文明の核だと語り、「芸術の上では日本人は実に天才的だ」と驚嘆している。

 だが日本人は、古代ギリシヤ人のように稀有の性質をもっていても、不幸にして自然を愛しながら自然界を制覇することをついに考慮しなかった。この点を除けば、日本人の素養はゆうにヨーロッパ人に措抗するに足ると説く。そして歴史家たるもの、文明世界のすべてを知るならば日本人の精神的素養を無視すべきでない、と論じたのである。

 「自然とともに生きるとともに生かされている」という日本人の自然との「共生」の思想と、西欧の「自然開発」「人間対自然」という2元的な自然観との違いについて、ルヅオンの『文明論』では顕著に記されている。


p61-64 「日本人は善徳や品性を生まれながらに持っている」
 エドワード・S・モースは1877年に縄文時代の遺跡、大森貝塚を発見・発掘し、縄目模様の土器片(縄文土器)も発見している。日本初の貝塚発見として、教科書にも登場する人物である。

 彼の本業は生物学者・人類学者だ。アメリカの出身で、ボウディン大学動物学教授、ハーバード大学講師を歴任し、1877年に来日。79年まで東京帝国大学の初代動物学教授も務めた。

また、江ノ島に臨海実験所を開設し、日本初の学会である東京生物学会を創立するなど、西洋の近代自然科学を伝えた功労者である。ダーウィンの進化論を日本に紹介したことでも知られる。

 明治時代の日本人やその生活についても造詣が深かった。彼の収集した日本の陶磁器や民具、写真などはモースーコレクションとして残され、当時を知る貴重な資料となっている。日本美術研究家のフェノロサ、ボストン美術館理事となるビゲローもモースの影響を受け、日本美術に魅せられた人のひとりだ。

 モースにはこのほか、『日本の家庭とその周囲』(1855年)、『瞥見・中国とその家庭』(1902年)、日本見聞録『日本その日その日』(1917年)などの著書がある。『日本その日その日』は1877年から数年にわたる日本各地の研究と見聞の備忘録で、数多くの写生図も載っている。3500ページの大著。

 モースの見た日本人像で、私か共感したものをいくつかあげてみよう。
 「人々が正直である国にいることは実に気持ちがよい。私は決して札入れや懐中時計の見張りをしようとしない。錠をかけぬ部屋の机の上に私は小銭を置いたままにする」「日本人の子供や召使いは……触ってならぬ物には決して手を触れぬ」。こそ泥は絶無でないものの「盗まない」。

 日本人が「盗まない」ことを特筆するのは、モースにかぎらない。今日でも、日本から1歩でも外国に出れば泥棒や強盗だらけなのだから、日本は特殊な国といえる。
 古くは「魏志倭人伝」の邪馬台国についての記述にも「不盗窃」とわざわざ記されている。

 また、『隋書』東夷伝にも「人、頗る恬静にして、争訟罕に、盗賊少し」「性質は直にして、雅風有り」と書かれているのはすでにふれたとおりだ。

 「中華」以外は野蛮人と考える中国にしては好意的な書き方だが、「賊のいない山はなく、匪のいない湖はない」といわれ、しかも易姓革命を繰り返して国まで盗む国から見れば、「不盗窃」の国も存在する、というのは特筆に価したのだろう。

 最初の西洋人宣教師として有名なザビエルも、日本について「盗みの悪習を大変憎む」としているほどだ。やはり「日本の常識は世界の非常識」、あるいはその逆というところだろうか。

 また、モースは「この国の子供たちは親切に収り扱われるばかりでなく、他のいずれの川の子供だちよりも多くの自由を持ち、その自由を濫用することはより少ない」とその生き生きした姿を描き、「世界中で両親を敬愛し老年者を尊敬すること、日本の子供に如くものはない」と驚嘆している。

 「驚くことに、また残念ながら、自分の国で人道の名において道徳的教訓の重荷になっている善徳や品性を、日本人は生まれながらに持っているらしい」

 簡素な衣服、家庭の整理、公衆衛生、自然およびすべての自然物に対する愛、あっさりして魅力に富む芸術、挙動の礼儀正しさ、他人の感情についての思いやりなど、これらの特質は恵まれた階級だけでなく貧しい人も備えている、とモースは書き残している。

 1923年、関東大震災で東京帝国大学の図書館が壊滅したことを知ったモースは、1万2000冊の蔵書を寄贈した。亡くなる2年前のことである。最後まで日本とその文化を愛しつづけた人生であった。





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イメージ 1


新羅は朝鮮半島を統一したが、しかし8世紀末から9世紀まで王位継承戦争が起き、地方でも農民の反乱が起き、混乱を深めて行った。この乱れは真聖女王の時に一層激しくなり、地方の有力な豪族たちが新羅を分裂させた。892年に半島西南部で甄萱が後百済を建国し、901年には弓裔が後高句麗(のちに泰封と改称)を建国した。これ以降を後三国時代と呼ぶ。

918年6月、泰封の騎將の洪儒·裴玄慶·申崇謙·卜智謙らなどが密謀し、王建を国王としてクーデターを起こし、王建は国号を高句麗を継承する意味で「高麗」を建国した。

その後、朝鮮半島は高麗と後百済の戦争が一進一退の状況が続き、935年に後百済の王が内乱で高麗に亡命し、新羅の敬順王が君臣を挙げて高麗に帰順し、936年後百済は急速に弱体化し滅亡した。こうして朝鮮半島は高麗によって統一された。

以上は本書に関係なく高麗建国についてのまとめ。

第二章 日本侵略の主役なった高麗王朝の生存術 ――71
   高麗は元寇の「単なる脇役」だったのか――72   
   自ら進んでモンゴルの「忠僕」となった高麗王朝――80
   自国への蒙古軍出動を要請した高麗国王――88
   こうして蒙古軍と高麗軍は友軍となった――93
   日本遠征の時機がついに熟した――97
   対馬と壱岐で行われた虐殺と戦争犯罪――102
   高麗国王が日本征伐の再開を提案した理由――106
   高麗王朝と韓民族の祖先こそ、戦争の加害者であった――112
高麗王朝は強大化するモンゴル帝国に抗したり、服従を繰り返してきた。
だが、高麗王朝はやがて自ら進んでモンゴルの属国になっていったのである。
その経緯は他の民族ではありえないのだが、韓民族であれば何の躊躇なく本能的に繰り返す売国行為である。その経緯を引用します。
p81-85
モンゴル軍が朝鮮半島に侵攻してきた当初、高麗は死力を尽くして戦った。当時、モンゴルにたいする徹底抗戦を強く主張し、実行に移しだのは高麗の武臣政権、とりわけ武臣代表として政権を握っていた崔氏一族であった。

 一二三一年の第一次侵攻により、高麗の首都である開京が陥落してしまうと、さしもの武臣政権も、一時的な便宜としてモンゴルに講和を求め、モンゴルから出された「一万枚の毛皮、二万頭の馬を貢ぐ」などの講和条件をそのまま受け入れた。しかしモンゴルの主力軍が撤退した翌年の一二三二年、崔氏一門の二代目当主として政権を担当(執政)していた崔璃は、モンゴル軍が高麗監視のために残したダルガチ(統治官)を皆殺しにして、国王と行政機構を、漢江の河口に近い離島・江華島に移した。崔氏政権は島全体を要塞化して態勢を立て直し、持久戦の覚悟で徹底抗戦の構えをとったのである。

 それ以降、崔氏政権の下の高麗は、モンゴルにたいして時に講和を求めながらも、全面降伏にはけっして応じない姿勢を貫いた。その結果、モンゴル軍の五回にもわたる再侵攻に、何とか耐えぬいたのだ。

 転機が訪れたのは二一五八年、江華島の高麗王朝でクーデターが起きたことである。モンゴルヘの徹底抗戦に反対し、降伏を主張する文臣グループが、中級武臣の金俊と結託して政変を起こしたのだ。彼らは崔氏一族の主帥である崔誼を暗殺し、崔氏一族の勢力を政権から一掃した。

 国王の高宗(在位一二一三年~一二五九年)は政変の実行者たちに担がれて、即位後初の「親政」に臨んだが、高宗の基本政策は当然、政変派の考えに忠実に従い、全面降伏を進めることであった。

 その時、モンゴルが高麗王朝に出した主な降伏条件は、高麗国王が抗戦の拠点である江華島を放棄して開京に還都することと、高麗の太子を人質としてモンゴル帝国に入朝させることの二点てあった。政変の年の末、高麗王朝は政変に参加した軍入の朴希実をモンゴル帝国に派遣して、上記の二条件を受け入れ、全面降伏することを告げた。

 東京大学名誉教授の歴史学者、村井章介氏の『中世日本の内と外』(一九九九年、筑摩書房)の記述によると、崔氏滅亡に際してモンゴル帝国に送った高宗の国書では「本国が貴国にこれまで事大の誠を尽くせなかった理由は、権臣が政治をわがものとし、貴国への内属を好まなかったゆえであります。崔竩はすでに死にましたので、ただちに島を出て都を開京に戻し、貴国の命を聞きたく存じます」と書いているという。

 つまり高宗は、今まで服従しなかった「責任」を、クーデターで殺害された崔竩一人に被せた上で、モンゴル帝国への全面降伏を宣言した。責任を一人の臣下に負わせて、自らの生き残りを図る高麗王朝の「生存術」は、実に見事なものである。

 翌一二五九年四月、高麗太子である倎(のちの元宗)は約束通り、モンゴル入朝の旅に出た。旗田巍著・前揚書によると、モンゴル帝国の東京(現在の遼陽)に到着した太子供は、高麗征伐のモンゴル軍生帥であるヨシュダルが、ふたたび高麗出兵を計画していることを知り、ヨシュダルに泣きついて出兵の取りやめを嘆願したという。

 しかしヨシュダルは出兵を取りやめる条件として、高麗がまず抵抗の拠点である江華島の城郭を取り壊すことを要求し、そのように命ずる使者を高麗に遣わした。その時、国王の高宗はすでに重病の身とかっており、モンゴル将軍の命令に抗することも出来ず、やむなく城郭の破壊を命じた。城が崩れる音が雷鳴のように響く様子を「城郭催折の声、疾雷の如く、閭里(村落)を震動す。街童・巷婦、皆これが為に悲泣す」と『高麗史』が記述しているという。

 同年中に、高宗はとうとう病死してしまったが、太子の供はそれを知らずにモンゴル入朝の旅を続けた。さらに同じ年、モンゴル帝国皇帝の憲宗も、中国の宋王朝(南米)征伐の陣中で病死した。倎はとうとう憲宗に謁見できなかったが、憲宗の弟のフビライに会うことが出来た。

 周知のように、このフビライこそ、憲宗の後を継いだモンゴル帝国の偉大なる皇帝であり、日本への侵略戦争の発動者でもある。フビライと太子倎との出会いはまた、元寇・高麗連合軍による日本侵攻への道を開いべた。一大歴史的契機となった
のである。

 当時、憲宗死後の皇位をめぐって、フビライは他の兄弟と争っている最中であり、属国の高麗の太子が来朝し、自分に謁見してきたことは、フビライにとって非常に喜ばしいことだった。中華帝国の伝統において、朝貢国からの来朝を受け入れることは、まさに「天命」を与えられた本物の「天子=皇帝」になる証だからだ。

 フビライは太子倎に褒美を与えて、モンゴル帝国の重要拠点である開平府にも連れて行ったが、太子の父親である高宗が死去したと聞くと、フビライはさっそく護衛を付けて、太子倎を高麗に送り届けた。まもなくモンゴル帝国の皇帝に即位したフビライは、自らの抱く遠大なる世界征服戦略のために、太子倎に恩を着せて懐柔する策に出た。高麗を忠実な属国・協力者として取り込もうとしたのである。

 一二五九年、太子倎は帰国し、高麗の新しい国王に即位した。

p88-93
自国への蒙古軍出動を要請した高麗国王

 元宗がまず着手しなければならなかった一大政治課題は、モンゴル帝国に約束した江華島からの再選都、すなわち開京への帰還である。世祖フビライが強く求めている以上、迅速に実行する必要があった。

 しかし高麗王朝の中では、それに抵抗する勢力があった。先代の高宗の治世、文臣グル-プが中級武臣の金俊と手を組んで、崔氏一族を一掃したことは前述したが、それ以来、王朝の中で勢力を拡大して台頭したのは、やはり武人の金俊であった。この金俊と、傘下の武臣グル-プが、江華島からの遷都に強く反対したのである。

 金俊以下の武臣たちの考えは、実に簡単だった。王朝の政治中枢が抗戦拠点である江華島に閉じこもって戦時体制を取っているからこそ、彼ら武臣たちの存在感や重みが増して、実権を掌握できているが、遷都して開京に戻れば、高麗王朝は再度、文臣たちの天下になってしまうのではないかと心配したのである。

 しかし元宗にしてみれば、金俊たちの抵抗はたいへんな迷惑であっだろう。フビライヘの約束を果たせなくなったら、せっかく築き上げた宗主国との信頼関係が一気に崩れてしまうからだ。当然、金俊一派の排除が、元宗にとって唯一の選択肢となった。

 その時、元宗が目をつけたのは林竹という軍人である。彼はもともと金俊の部下の一人であり、崔氏一族を倒し九時、大いに活躍した功労で出世した。いつの間にか枢密副使(軍を統括する次官)にまで上り詰めた林衍は、さらに高い地位につこうとして、金俊とも対立するようになった。

 そこで元宗は、林衍を味方につけて、金俊の排除を命じた。ニー六八年、林衍は金俊の不意を狙って襲撃、殺害すると、金俊の弟子と一族をことごとく殺した。

 金俊に取って代わって権力を握った林衍は、金俊よりいっそう横暴にふるまい、元宗の王権を脅かす存在になった。そこで元宗は林衍も排除しようと謀るようになったが、それを察知した林行け、先手を打った。一二六九年六月、彼は元宗の隙を狙ってクーデターを起こすと、国王を幽閉した上で、王弟の安慶公を新しい国王に立て
た。一臣下の身でありながら、国王の廃立を公然と行ったのである。

そうして王朝の全権を握った林衍は、宗主国のモンゴルに言い訳をするため、さっそく使者を遣わして、元宗が病気のために王位を弟に譲ったと報告し、ごまかそうとした。

 しかし旗田著・前揚言によると、林衍にとって、大きな誤算となったのは、廃立事件の二ヵ月前、元宗の世子(跡継ぎ)である諶(しん)がモンゴル帝国に入朝していたことであった。政変からひと月後の同年七月、帰国の途についた世子諶は、高麗との国境付近で真相を知った。そこで彼のとった行動は、実に迅速であった。世子諶は帰国を中止すると、直ちに引き返して、モンゴルの首都である燕京(現在の北京)に向かったっ彼は燕京に到着するとすぐにヽ世祖フビライに会い、政変の真相を報告した。そしてその場で、元宗を助けるために、モンゴル帝国に出兵を要請したのである。

 今まで、モンンゴル軍の侵攻にさんざん痛めつけられてきた高麗であったが、ここでいよいよ、王朝の世子が自ら進んで、モンゴル軍に自国への出兵を頼み込むまでに変化したのである。それは、元宗即位以来のモンゴル・高麗関係の大きな変化
を象徴する一場面であると同時に、本書の第一章で確認した通り、自国の内紛に外国勢力を巻き込み、侵略軍を進んで招き入れるのは、そもそも半島民族の不変の伝統であることを証明する出来事だ。

 世子諶からの出兵要請を聞いた世祖フビライは、さっそく遼東の軍兵三千に動員の命令を下した。同時に、高麗に使者を遣わして詔書を届けさせた。詔書の内容は、宗主国モンゴルの同意なしに、勝手に国王の廃立を行った林衍の不法を責め立てる一方、元宗の王位回復を強く求めるものだった。

 それでも林衍は、元宗が病気になったから王位を弟に譲ったと言い張って、抵抗を試みたが、業を煮やしたフビライは、軍生局麗国境付近に待機させた上で、従わなければ直ちに侵攻するぞと脅した。

 結局、林衍はモンゴルの軍事的圧力に屈して、元宗を復位させ、国王廃立劇は一件落着となったが、フビライはこれで元宗と高麗王朝にさらに大きな「恩」を着せることができた。元宗と高麗王朝はよりいっそう、フビライのために働かなければならない立場に立たされたのである。

 フビライのおかげで復位できても、元宗は安心できなかった。彼を王位から追放した権臣の林衍が、依然として健在だったからである。元宗としては、林衍を何とかして排除しない限り、王室の安泰は保証されない。そこで元宗は世子諶と共に、自らモンゴルに入朝した。

 世祖フビライに謁見した元宗は、林価の罪を糾弾すると同時に、フビライにたいして二つの「お願い」を上奏した。

 一つは高麗の世子である諶にモンゴル帝国の皇女を降嫁して頂くこと。もう一つは、モンゴル軍の力で権臣の林衍を倒して、高麗の都を開京に戻すことだ。

 一つ目の要請の狙いは高麗王室とモンゴル皇室を婚姻関係で結ぶことによって、宗主国との一体化を図ることであり、ある意味で自然な要請でもあったが、二番目の「お願い」は実に驚くべきものだ。 一国の国王が、宗主国である外国の軍隊を頼りにして、自らの臣下を始末したいと言い出したのである。

 高麗国王が、自国へのモンゴル軍の出兵を要請したのはこれが初めてであったが、換言すれば。一国の主権者である国王がわざわざ外国に出かけていって、その外国の軍隊に、自国を守ろうとぺでこもっている国内勢力を駆逐し、侵略を完成してくれるよう「お願い」したわけである。それはおそらく、世界史上でもまれに見る大珍事であろうが、高麗の国王は自分の地位を安泰にするために、いとも簡単にやってのけた。

 もちろん、元宗のこうした頼みごとは、世祖フビライの思うつぼでもあった。片野次雄氏が前掲書の中で、その場面を想像して、「元宗のこの訴えを聞いたとき、フビライは肚のなかで笑い声をたてた」と描写しているが、実際、その通りではなかったかと思われる。

 元宗が帰国の途についた時、彼を護送する形で、モンゴルの大軍が一緒についてきた。

もちろん今回のモンゴル軍の高麗入りは、もはや一方的な侵略ではない。彼らは外国軍ではあるが、高麗国王の要請に応じて、高麗国王と共に、高麗の領土に堂々と入ってきたわけである。
よく朝鮮人は日本に対してモンゴルに対し防壁になってやっていた、感謝するニダと
主張するが、歴史を検証すると、とんでもないことが改めてわかってきた。

自ら、属国となり、日本を植民地にする目的で、元寇の船には鋤や鍬など農機具も積んでいたのである。




執筆中
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久々に一気読みの本だった。建国以来この卑怯で破廉恥な韓民族のDNAは1000年どころか、2000年来不変だった。自国内の派閥争いを周辺諸国に広げたうえ、外国軍隊を自ら招き入れることを繰り返し、侵略されたと被害者面をするのが朝鮮人でる。

2013年3月1日、「三・一独立運動」の記念式典で、朴槿恵が「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、千年の歴史が流れても変わることはない」という発言を行った。

既に日本国民の一員となっていた石平氏には、この発言に衝撃を受け、改めて過去の歴史において、朝鮮人は果たして一方的な被害者であったのか疑問に思ったそうだ。実に丹念に研究して、膨大な資料や多くの研究家に当たり、幾つもの歴史上の論点を摘出して、本書にまとめた

7世紀初頭の高句麗・百済・新羅の三国統一戦争から、元寇、日清、日露戦争、そして朝鮮戦争まで幾度となく朝鮮半島は周辺諸国を巻き込み、トラブルの種を撒き散らかしてきた。事大主義、告げ口外交、繰り返す身内の勢力争い、残酷な処刑、そして壮大な裏切りの数々。太古の昔から、おなじことを繰り返すその救いがたき韓民族のDNAは今日でも不変ではなかろうか?1000年来のトラブルメーカー(加害者)であるというのが本書の結論である。

この本を読まずして、朝鮮の歴史や外交を論ずるなかれ、韓民族がいかなる民族で、その恥ずべき歴史を白日の下に曝した石平氏の傑作である。

今後、韓国がどうなろうと日本は一切関与せず、泣こうが喚こうが関わらないことが、日本の国益であると確認することができる本でした。
2013年3月、朴槿恵(パククネ)大統領の「(われわれは)千年不変の被害者」発言に疑問をもった人は多かったようです。著者もその一人で、3年をかけて朝鮮史の専門書を読破、「韓民族はその長い歴史において、たびたび外国からの侵略を受けてきたと主張しているが、それは一概に真実とはいえない。大半の場合、むしろ韓民族自身が、外国に嘆願するような形で、外からの侵略軍を半島内に招き入れてきた」との結論に達したのです。

 古代の三国統一戦争で唐に頼って百済と高句麗を滅ぼした新羅の行動。さらには高麗が日本侵略を元に提案し、そのお先棒を担いだ理由。有力者が日清露の間を揺れ動いたために日清・日露戦争が起きたこと。米中の若者に多大な流血を強いた朝鮮戦争のいずれも、「外国軍を半島内の勢力争いや内輪もめに巻き込んで、その力を利用する」悪癖の結果だと断じるのです。

 1500年の歴史の教訓は、半島の内紛に巻き込まれた外国はいつも多大な犠牲を払うということ。今日の北朝鮮の言動も「トラブルメーカー」の変わらぬ本質が表れたものと指摘、関係国に警鐘を鳴らします。

 よく誤解されますが、本書は日本の責任を全否定する内容ではありません。日韓の不幸な過去に起因する感情論に陥りがちな日本人に、「半島の歴史の実態は、一方は単なる加害者で、他方は単なる被害者であるという単純な図式で片づけられるものだったのか」という冷静な議論の材料を提供しているのです。(飛鳥新社・1389円+税)

 飛鳥新社出版部 工藤博海


韓民族こそ歴史の加害者である 目次

まえがき――6

第一章 侵略軍を半島に招き入れた 「三国統一戦争」――13

    「民族の不幸」と評される三国統一戦争――14
    高句麗と百済の「告げ口外交」とその結末――22
    高句麗侵略の先導役を買って出た百済――28
    復讐に燃える金春秋の執念と謀略――34
    招かれた唐王朝軍の百済侵略――43
    唐の侵略軍の先導役を務めた、高句麗の元最高権力者――48
    白村江の戦いで梯子を外された大和朝廷軍――57
    韓民族は単なる「侵略の被害者」だったのか――64

第二章 日本侵略の主役なった高麗王朝の生存術 ――71

   高麗は元寇の「単なる脇役」だったのか――72
   自ら進んでモンゴルの「忠僕」となった高麗王朝――80
   自国への蒙古軍出動を要請した高麗国王――88
   こうして蒙古軍と高麗軍は友軍となった――93
   日本遠征の時機がついに熟した――97
   対馬と壱岐で行われた虐殺と戦争犯罪――102
   高麗国王が日本征伐の再開を提案した理由――106
   高麗王朝と韓民族の祖先こそ、戦争の加害者であった――112

第三章 アジアの大迷惑だった 朝鮮王朝の「近代化」―――121

   朝鮮の「近代化」を遅らせたのは何か―――122
   清王朝の朝鮮干渉を招いた「壬午軍乱」―――131
   日清戦争の遠因がこうして作られた―――136
   外国勢力の力を惜りた甲申政変乱顛末―――143
   日清を戦争に巻き込んで「漁夫の利」を得る朝鮮―――149
   ロシア大使館から生まれた「大韓帝国」―――157
   一進会が押し進めた日韓併合への道―――165

第四章 朝鮮戦争最大の「A級戦犯」は李承晩だった―――173

   朝鮮戦争とは何だったのか―――174
   「民族分断」の原因を作ったのは誰なのか―――180
   最初から戦争するつもりだった金日成と李承晩―――190
   朝鮮戦争はこうして始まった―――198
   三ヵ月で終わったはずの朝鮮戦争―――205
   中国が参戦した理由―――210
   「三十八度線突破」の首謀者は李承晩たった―――215


あとがき―――226

私が、読んだ韓国史の本のほとんどは、李氏朝鮮に関する本ばかりで、いかに李朝500年が堕落していたというものが多く、新羅統一王朝ができる三国時代以前は、ここまで堕落した民族だと描かれていなかった。ネットでもそれほど詳細なものは少なかった。

崔 基鎬(チェケイホ)/著
などでも、
韓国堕落の2000年史 p22-23
当時の韓国は三つの国に分かれていたが、その時代までは、国際的に高貴な「紳士の国」として知られていた。「紳士」は日本では明治以後に英語の「ジェントルマン」の訳語として定着するようになったが、もっと古い言葉である。「紳」は貴人が衣冠束帯の時に用いる大帯であって、ここに笏をぱさむことから、高い人格と教養をもった男子を意味した。
 三国時代以前の韓国は、中国古代の地理書である『山海経』や、中国の前漢の文学者である東方朔(生没不明)による書物や、『三国志魏志東夷伝』などに現われるが、「仁と義」、「礼、勇、寛大」、「博愛と禁欲的な廉潔」、「自尊、武勇、快活」さに溢れた国として描かれている。
と、韓国人であるから・・・李朝には厳しくても、三国時代は美化して描かれていた。

しかし、わずか1ページ強だが、新羅王朝が唐と組んで高句麗と百済を滅ぼしたのが、大きな禍根を残したと書いてあって、わたしの記憶に大きく残るページがある。
P24-26
なぜ、新羅による統一が問題なのか?
 だが、これほど高い徳と輝かしい文化を誇った朝鮮半島の三国時代は、一つの予期せざる大事件によって終止符を打った。新羅による朝鮮半島の統一である。
 同じ民族によって統一がなっだのだから、一見問題ないように見えるかもしれないが、新羅の場合は事情が違う。
 新羅による統一は、外勢である唐と結託して、同胞の国であり、当時、アジアの強国であった高句麗と、世界の最高級の文化と芸術の国であった百済を不意討ちすることによって滅亡させたものだった(百済が六六〇年、高句麗が六六八年)。民族反逆の末に、自らを唐の属国としてしまった。ここに韓国人の意識構造に、異常を招く事態となった。
 新羅は進んで唐の属国となることによって、卑怯い利己主義、機会主義、事大主義を蔓延らせ、韓民族を転落させたのだった。これは朝鮮半島に禍根を永久に残すことになった大事件であるが、今日の表現を用いてみれば、″無頼漢(ゴロツキ連中)"が他民族の勢いを借りて、自分たちの民族国家を打倒したのだった。
以上により、新羅による統一王朝の出現がいかに朝鮮にとって不幸な出来事か本書を読むまえから、私も知っていた。だが、本書を読むと、新羅統一前から半島のDNAには、事大主義・告げ口外交・裏切・売国・卑怯が刻まれていることがわかる。

第一章 侵略軍を半島に招き入れた 「三国統一戦争」

石平氏は、韓国人の書籍を引用し、古代史を解説する。三国時代から高句麗・百済が南北朝~隋王朝に告げ口外交を繰り返し、三国時代から紳士の国などではなかった。それどころか、歴史上最初の半島の国家衛氏朝鮮が、紀元前2世紀漢民族の衛満が漢より逃げ出して成立した亡命政権であった。半島最初の国家がシナ人ということを打ち消すために、漢民族はありもしない檀君神話を捏造した。

衛氏朝鮮を滅ぼしたのは漢の武帝である。その後半島全部を朝鮮四郡として統治した。漢帝国が衰退すると、紀元前一世紀後半、半島北部に朱蒙という英雄が現れ高句麗を建国し、南部にも百済もほぼ同時期に建国された。任那のことは触れていないが、紀元三世紀に新羅の前身斯蘆と言う国ができてそれが新羅へと発展し、三国鼎立時代に突入する。

この三国は国の存亡をかけ、数百年にわたり合従連衡と軍事衝突を繰り返した。中国は漢崩壊後統一王朝が出現せず、南北に中心の国ができては潰れる南北朝時代であった。隋が誕生するまで繰り返していた。

新羅がはじめて告げ口外交や、シナに対する事大主義で統一国家を成立させたのではない。この三国鼎立こそ、事大主義、裏切り、告げ口外交、外国勢力の招き入れとその後の属国化という韓民族の悪弊の全てが詰まっているのである。もちろんそんな国民民族は、嘘つきで自分勝手で、信義に欠ける民族に成り果ててしまうのも納得できる。

p23-34
南北朝時代の中国では少数民族の作った北魏・北斉・北周などの王朝が交替えしつつ、大陸の北部を支配したので「北朝」と呼ばれる。そして大陸の南部では、宋、斉、梁、陳という四つの王朝が興亡を繰り返した。それらが「南朝」と呼ばれるのである。

 他方、同時期に朝鮮半島でしのぎを削っていたのは高句麗、百済、新羅の三国である。

生き残りを図るため、あるいは半島 内の覇権争いで優位に立つために、彼らは競って中国大陸の王朝に接近し、朝貢国となった。中国王朝からの支援を求めなり、中国王朝の権威を借りて自らの立場を強化するのが目的である。

たとえば高句麗は、中国大陸で北朝の北魏が南朝の宋、斉と対立する中で、南北両朝に朝貢する政策をとった。高句麗の国王は、北朝と南朝に毎年、使者を派遣して朝貢を繰り返し、両方の王朝から「都督・将軍」などの称号をもらった。対立する北朝と南朝を互いに牽制することによって、大陸からの侵略を未然に防ぐことが、その「両面外交」の狙いの一つであった。

 時には、中国王朝の権威を利用して、敵対する他の半島国家を圧迫するのも、高句麗の戦略となった。たとえば高句麗の文官明王(在位四九二年~五一九年)の治世、百済が新羅と同盟して高句麗に対抗していた中で、北魏の宣武帝(在位四九九年~五一五年)に朝貢の使者を派遣した文言明王は、次のように訴えた。

 「弊国は藩属となってから朝貢を欠かしたことは一度もありません。しかし今、真珠などを産出する耽羅(現在の済川島)は百済に併合され、黄金などを産出する扶余(中国東北部)は勿吉(のちの女真族)に逐われてしまいました。百済と勿吉のせいで、もはや真珠と黄金を捧げることができません」

 つまり高句麗の王は、使者を遣わして中国皇帝への「告げ口外交」を展開したわけだ。

皇帝様に真珠を捧げることができなくなったのは、百済が悪いからだと訴えた真意は当然「百済を何とかしてくれませんか」と、中国の皇帝に「直訴」することにあった。半島内の戦いに勝つために、中国皇帝の力を借りようとするこの発想は、異なる歴史を持つ日本人の目にはいかにも奇異に映るだろうが、本書を通読して頂ければ分かるように、実はそれこそ、現在にまで受け継がれている、朝鮮半島の人々の不変の習性なのである。

 しかし、高句麗の訴えにたいする北魏からの返事は、まことに絶妙なものであった。宣武帝は使者をこう諭したという。

 「杯に酒がないのは、注ぐべき酒のない徳利の恥だ。真珠と黄金が手に入らないのは、高句麗自身の恥ではないのか。高句麗の責任でもって百済や勿吉と交渉すべきだ。真珠や黄金の貢ぎは怠ってばならない。朕の考えを王に伝えるがよい」と。

要するに、官武帝は高句麗からの直訴をまったく受け付けず、逆に文沓明王の尻を叩いて朝貢を実行するよう、責め立てたのである。高句麗の「告げ口外交」は見事に失敗した。

 非常に興味深いことに、この同じ北魏王朝にたいして、実は百済も同じような「告げ口外交」を行っていた。
 北魏史上もっとも英明といわれる孝文帝(在位四七一年~四九九年)が即位した時、百済国王の蓋歯王(在位四五五年~四七五年)はさっそく慶賀の使節を遣わして、北魏への国書を呈上した。その中で蓋歯王は、何と、高句麗に対抗するための軍事的支援を孝文帝に求めたのである。

 国書は概略、次のようなことを述べている。

――弊国は建国以来、歴代中華王朝の教化を受けておりますが、高句麗が道を塞いでいるため、思うように朝貢ができません。しかも高句麗はますます高圧的になって弊国を圧迫し続けていますo。うか弊国を憐れんで下さい。軍を派遣して弊国を救って下さい。 

前述の高句麗からの直訴と同様、百済もまた、「満足に朝貢できない」ことの責任を、敵対する隣国に押し付けて、中国皇帝の心を動かそうとしている。かしそれにたいする孝文帝の返事もまた、冷淡そのものであった。

 孝文帝曰く、高句麗が百済の領土を侵犯していることは分かった。しかし高句麗はわが北魏にもちやんと朝貢しているから、北魏の命に背いたわけでもない。したがって北魏が(百済のために)高句麗を討伐するのは道理に反する。もし今度、高句麗が朕の命に従わないことがあれば、改めて討伐するのでも遅くはない。その時は、高句麗までの道案内を頼もう。

 孝文帝からのこの返事をもって、中国王朝の軍事力を借りて高句麗をやっつけようとする百済の目論みは、見事に失敗に終わったが、当時の北魏王朝の状況からすれば、それはむしろ当然の結果だ。

 その頃の中国大陸では、南朝と北朝が常に軍事的対立を続けており、いずれも、朝鮮半島の内紛に軍事介入する余裕はなかった。半島の国々が朝貢してくることは、中国皇帝にとって、自らの権威を高めるために役に立つ、嬉しいことではあるが、それだけのために、一朝貢国の口車に乗せられて、軍事支援までしてやるつもりはさらさらない。こういうわけで、北魏にたいする高句麗と百済の「告げ口外交」は、両方とも失敗に終わった。

 このような冷淡な対応をしたのは、もちろん、北魏に限ったことではない。中国の南北朝時代を通して、朝鮮半島内部の争いに軍事的介入を行った王朝は一つもなかった。南北対立に明け暮れる中国王朝からすれば、半島内部の争いは取るに足らない「子供の喧嘩」でしかない。介入しないのは当たり前のことだ。それよりもむしろ、自分かちの争いに中国王朝を巻き込もうとする半島の国々のやり方が、かなり異様なのである。

 しかし、半島の国々にとって幸か不幸か、「介入しない」中国王朝の基本姿勢に、大きな転機が訪れる時が来た。良く続いた中国大陸の南北朝時代が、とうとう終焉を迎えたのである。紀元五八一年、北朝の北周から政権を受け継いだ隋示建国されると、五八九年、隋は南朝の陳という国を滅ぼして、中国を再統一しか。西晋滅亡以来、三百年ぶりに、中国大陸に強大な統一帝国が誕生したのである。

 その結果、中国王朝の朝鮮半島にたいする関わり方が、劇的に変化した。韓国史学界の一部がそう考えているように、中国大陸で隋という統一帝国が成立したことが、まさに、朝鮮半島における「三国統一戦争」の始まりをもたらしたのである。

高句麗侵略の先導役を買って出た百済

 五八一年に隋王朝が成立すると、高句麗と百済はさっそく、隋にたいして朝貢を行い、隋の初代皇帝の文帝「在位五八」年上ハレ四年)からそれぞれ「帯方郡公」、「遼東郡公」として称号を授けられた。同時に、両国は、南朝の陳王朝にたいしても、今まで通りの朝貢をしばらく続けていた。しかし五八九年に隋示陳を滅ぼして中国を統一すると、半島の国々の両面外交はもはや通用しなくなった。ここにおいて、彼らは、中国大陸で久しぶりに出現した統一帝国にどう対処するのか、という、国の存亡にかかわる大問題に直面したのである。

 高句麗、百済、新羅の三国ほとりあえず、隋帝国に朝貢して恭順する姿勢を示した。しかしその中でもっとも大きな不安を抱えていたのは、やはり高句麗である。他の二国と違って、高句麗だけが隋帝国と国境を接しているために、大陸での統一帝国の出現はそれだけ、高句麗にとって大きな脅威となるのである。

 したがって高句麗は、隋王朝に朝貢を続けながらも、ひそかに軍備の増強や兵糧の蓄積を急いだ。そして五九八年、高句麗の嬰陽王(在位五九〇年~六ー八年)は一万の軍を率いて、高句麗との国境に隣接する隋王朝支配の遼西郡に突然、侵攻した。おそらくこれは、隋王朝の出方をうかがうための偵察的な意味合いの軍事行動であったが、それに激怒したのは隋の文帝である。隋王朝はさっそく嬰陽王に授けた称号をはく奪しか上で、三十万人の大軍を高句麗にさし向けた。

 隋の文帝がそこまで本気になって怒るとは、予想すらしていなかった高句麗側は、慌てて文帝に使節を遣わして、謝罪した。その国書の中で、嬰陽王が自らを「遼東の糞土臣」と貶めて、文帝のご機嫌をとったことは有名な話だが、高句麗征討に向かった隋王朝軍が長雨に遭って、疫病が流行したなどの要因も手伝って、隋王朝は結局、高句麗討伐を途中で取りやめた。

 高句麗はこれで一安心したが、その時、隋王朝の討伐軍をふたたび朝鮮半島に呼び戻そうと躍起になったのが、同じ半島国家の百済であった。隋軍がすでに撤退した五九八年九月、百済の威徳王(在位五五四年~五九八年)は、使者を隋王朝に派遣して、高句麗にたいする再度の討伐を嘆願した。

 その際、威徳王が隋の文帝にたいして、「陛下が高句麗に再征する時には、わが百済は道案内役を務めたい所存(軍導を為さんと請う)」と伝えたという(『隋害百済伝』による)。要するに百済国王は、同じ民族の高句麗にたいする隋王朝の再度の侵攻を嘆願しただけでなく、侵略軍の先導役を自ら買って出たのであった。日本人の感覚からすると、実に驚くべき無節操ぶりであるが、実はそれこそが、本書を通してこれから嫌というほど繰り返し見て頂くことになる、半島民族の一貫したやり方なのである。

 百済からの「侵略要請」にたいして、高句麗討伐を取りやめたばかりの文帝は、当然のごとく断った。それからしばらくの間、隋王朝と高句麗の間では平和が続いたが、六〇四年に文帝が死去して二代目皇帝の煬帝(在位六〇四年~六一八年)が即位すると、状況はまたもや変化した。

 野心家の煬帝は、皇帝に即位した後、隋王朝の創始者である父親の文帝を超えるような、何らかの「大業」を成し遂げたいと狙っていた。そこで、父親が挫折した高句麗討伐の再開が、魅力的な選択肢の一つとなった。高句麗を征服できれば、先代の文帝どころか、漢帝国の偉大なる皇帝である、武帝さえ超えることができるのだ。

漢武帝の作った「朝鮮四郡」が高句麗によって滅ぼされて以来、朝鮮半島への支配権の回復は歴代中華王朝の宿願で、それこそ中華皇帝としての自分の使命だと、先代が作り上げた統一帝国を受け継いだ煬帝は決め込んだようだ。高句麗再往の意志を固め、機会をうかかっていた。
 ちょうどそこで、新中華皇帝となった後継者の野心に付け込む形で、隋王朝軍による半島侵略を再度、懇願してきたのべやはり同じ半島国家の百済だったのである。
 
『隋書百済伝』の記述によると、煬帝の即位から三年目の六〇七年、百済は隋に使節を遣わして、高句麗再征を要請した。それにたいして、新皇帝の煬帝からは肯定的な返事を得ることができた。煬帝はきらに、高句麗の内部情勢を偵察しろという指示まで出した。

百済は当然、積極的に協力したが、それでも隋王朝は、すぐに動こうとはしなかった。隋王朝の鈍い動きに焦りを感じたのか、六一一年に百済はふたたび使節を隋に派遣して、高句麗出兵の具体的な期日を問い合わせてきた。そこでついに、やる気満々の煬帝は、百済に高句麗征伐の決行を伝えると同時に、そのための謀議を百済との間で行ったと、『隋書』は記している。

実はその時、もう一つの半島国家である新羅も動いた。高麗時代に編纂された、正史である『三国史記・新羅本紀』の記述によれば、六一一年に、新羅も隋に使者を遣わして、高句麗への出兵を要請したという。

 このようにして、半島国家の百済と新羅が揃って、同種同族であるはずの高句麗を侵略するよう、外国の王朝に頼み込んだのである。

特に百済の場合、当の隋王朝よりもこの侵略戦争の開始を待ち望んでいるような様子であった。それはまさに、世界史上の奇観ともいうべき光景であるが、煬帝の戦争決断を後押しした大きな要素として、百済と新羅の要請があったと考えざるを得ない。

 実際、『隋書・煬帝紀』の記述によれば、侵略を要請した百済の使者が隋に到着して朝貢したのは六一一年二月四目であるが、同月二六日に煬帝が高句麗討伐の詔書を発したという。百済の使者到来は、彼が高句麗征伐を決心する一つのきっかけであったことがうかがえる。

 百済と新羅の願い通り、紀元六一二年、隋は百万人の大軍を派遣して、高句麗征伐を再開した。しかしこの時も、高句麗が国の命運をかけて徹底的に抗戦した結果、煬帝の軍事行動は完敗に終わった。その後も、場帝はその短い治世の中でさらに二回、高句麗への再征伐を試みたが、いずれも失敗に終わっている。そしてこの挫折が、煬帝の国内の権力基盤を大いに揺るがし、隋王朝の崩壊を早めたことは、中国史上の常識である。

 その一方で、高句麗が隋王朝の侵略を撃退し続けたことは、朝鮮半島にとって幸いだった。ある意味で、高句麗という国はずっと、朝鮮半島を中華帝国の侵略から防ぐ「防波堤」の役割を果たしていた。

しかし、それにもかかわらず、大陸の軍勢から守られているはずの、南の百済と新羅は、高句麗と協力して隋王朝の侵略に抵抗するどころか、むしろ隋王朝を焚き付けて高句麗への侵略をそそのかし、さらには侵略戦争に「先導役」として加担しようとした。

この二つの半島国家の無節操ぶりと愚かさには、まったく驚くばかりであるが、本書を読み進めていけばお分かり頂けるように、こうした愚行はむしろよくあることで、韓民族のDNAともいうべき、独自の行動パターンから出てくるものなのである。
この半島の歴史として残る最古の記録からして、新羅が初の韓民族による統一国家を作る前から外国の勢力を利用して、告げ口外交、裏切りをするのが現在にまで受け継がれている、朝鮮半島の人々の不変の習性なのである。

ながながと引用してしまったが、すくなくとも記録に残る1500年間、今日に至るまで、この半島人のDNAは不変である。推測にすぎないが、歴史として残る以前、紀元前2世紀衛氏朝鮮の時代から2000年来、事大を繰り返していたのだと思う。

さて、新羅の半島統一だが、これまた酷いものだった。

隋の文帝は、半島からの要請をことごとく断ってきたのだが、二代目の煬帝が愚かだった。先代を越えようとする煬帝に百済が、高句麗をいっしょに倒しましょうと、悪魔の誘いをしてきたのである。このオファーは煬帝の心に刺さってしまったのだ。

新羅からも同じ要請が入り、高句麗と同種同族のはずの百済・新羅が揃って、異民族の王に侵略を願い出てたことになる。

紀元612年、百万の隋の軍隊が高句麗に殺到した第二次高句麗遠征である。百万はどう考えても誇張と思えるが、wikiでも60万となっていたが、退却を重ね伸びきった補給線を断ち切るところで、高句麗はこれを撃退し、以後第三次、第四次遠征も守りきったのである。 このまま高句麗が半島を統一すれば、韓民族はここまで卑屈で嘘つきの国民性にはならなかったかもしれない。そして、独自の文化も生み出すことが出来たかもしれなかった。独自の文化がまるでないから起源を主張するしかできない可哀そうな民族に成り果ててしまったのである。

隋王朝は高句麗遠征の失敗がたたり、崩壊すると、代わってシナには唐王朝が成立した。

唐王朝も、高句麗には手を焼いていた。高句麗は唐の侵攻に備え、百済と同盟を結んでいた。百済は、新羅を攻め、新羅は崩壊寸前であった。

新羅は日本の大和朝廷に支援を求めたのであったが、日本は新羅の要請を断った。困った新羅の宰相(当時)金春秋(後に第29代国王)は、唐に最後の望みを託したのである。

唐は高句麗に手こずっていて、朝貢してくる百済を攻める意思はなかった。
しかし、新羅の金春秋は、高句麗が陥ちないのは、南から百済が支援しているからだと唐に告げ口をして、高句麗攻撃前に百済攻撃を仕向けたのであった。

しかし、唐第二代皇帝太宗が口説かれたが死去、第三代皇帝高宗は優柔不断で、新羅が唐に対し十数年あの手この手で出兵を要請したが、新羅の要請を受け付けなかった。西暦660年皇后の則天武后が宮廷内で権力を握ると、たちまち百済を攻撃することを決断した。新羅が東から5万の大軍で百済を攻め、海からは唐の軍隊13万が上陸してたちまち百済を滅ぼしてしまった。

百済を滅ぼした唐新羅連合軍は661年高句麗を攻めたのだが、唐新羅連合軍に対し準備をしていた高句麗は首都平壌城を半年包囲されたが、それまで三度も唐を撃退させた宰相淵蓋蘇文(えん がいそぶん)は撃退に成功した。その後も淵蓋蘇文が存命中は唐新羅連合軍を撃退し続けた。

665年最高権力者淵蓋蘇文が死去すると、高句麗が滅びる。韓民族の裏切りDNAが発動したのだ。
p53-55
 淵蓋蘇文には、男生、男建、男産という三人の息子がいた。晩年の淵蓋蘇文は、自らの死後の一族の安泰を考えて、三人の息子それぞれに軍権を移管し、三人が協同して軍事政権を運営する後継者体制を作っておいた。

 淵蓋蘇文が死去すると、長男の男生が後を継いで、次の大対盧(宰相)に就任し、政権の頂点に立ったが、男建、男産の残る二人はけっして心服したわけではなく、兄弟間の疑心暗鬼が始まった。

 六六六年初め、男生は地方の巡回視察に出かけて、首都平壌の留守を二人の弟に任せた。

しかし配下の者にそそのかされた男建、男産は、突如として反旗を翻しか。彼らは平壌を占領して政権の中枢を握り、兄の男生が首都に戻ってくることを拒んだ。

 突然の政変で権力の座から追放された男生は、急いで高句麗の両都である国内城(現在の中国古林省にある)に逃げ込んで、弟たちの中央政権と対峙した。しかし全体的情勢は男生に不利であった。首都と政権の中枢が弟たちに奪われた以上、自分の力だけで奪還するのはもはや不可能。国内城に閉じこもっていたら、ジリ貧となって、いずれ中央政権に討伐され、滅ぼされる運命にある。

では、どうやって生き延びればよいか。そこで男生が思い当たったのも、やはり唐帝国であった。彼の拠点である国内城とその支配する地域は、ちょうど高句麗と唐帝国との国境近くにあるから、唐王朝に降り、その強大な力を頼りにすることが、男生にとって、起死回生の秘策となった。

 こうして、あれほど唐帝国に徹底抗戦した英雄・淵蓋蘇文の嫡子であり、しかも一度は高句麗の最高権力者の立備にあった男生は、自らの生き残りのため、唐王朝に降伏する決断を下したのである。
    
 降伏の意を伝えるため、彼はさっそく、自分の側近を長安に遣わした。しかし唐王朝側は男生の投降話を、にわかに信じられなかった。何しろ、一度は高句麗の最高権力者の立場にいた人間である。簡単に降伏することなどありえないと思われたのだ。

 男生は再度、もう一人の高官を派遣して、投降の意思を明らかにした。それでも唐王朝は受け付けてくれない。途方に暮れた男生はついに一大決心して、六六六年夏、嫡男の献誠を名代として長安に派遣した。献誠に自分の窮状を訴えさせ、降伏を申し入れたのである。それと同時に、唐王朝軍の高句麗攻略の先導役を務めることを申し出た。

 これで初めて、唐王朝は男生の申し出が本当であると信じた。もちろんこれは、再度の高句麗征伐を考えていた唐王朝にとって、願ってもない絶好のチャンスであった。

 さっそく動き出した唐王朝はまず、援軍を派遣して、男生の閉じこもる国内城の救援に向かわせた。唐軍が高句麗領内に入ると、男生は、国内城はもちろん、自らの支配下にある南蘇、蒼岩など六つの城と十万戸の人民を、唐王朝に献上した。

 そして六六七年、男生は自ら長安へ赴き、唐に入朝した。韓国古代史研究家・盧泰敦博士の前掲書の記述によると、長安に入った男生は、高句麗の国内事情を次々と唐王朝に教えて、高句麗攻略の具体案について色々と献策した。そして、その後に展開されていく高句麗征伐において、男生は当然のように侵略軍を先導する役割を果たし、死ぬまで唐王朝に積極的に協力したという。

 男生の投降によって、高句麗の北の玄関口が聞かれた。それに加えて、高句麗の元の最高権力者である男生自らが、高句麗攻略の先導役まで買って出てくれた。もはや唐王朝に、再度の高句麗征伐をためらう理由は何もない。時は戻るが六六六年十二月、唐の高宗は李勣を総司令官とする大規模な遠征軍を編成させ、高句麗征伐を命じた。六六七年二月、李勣軍は唐と高句麗の国境にある遼河を渡り、一路平壌へと向かった。
668年唐新羅連合軍は愚かな三兄弟の疑心暗鬼と、裏切り、売国行為によって600年東アジアの強国として半島北部~満州に存在した高句麗が滅亡したのであった。

日本も、古代日本の大事件、白村江の戦いで韓民族に大迷惑を被っている。
P58-64
唐王朝軍を半島に誘い入れたのが新羅であったのにたいし、日本の大和朝廷軍を半島内の戦いに巻き込んだのは、新羅と争っていた百済である。

 白村江の戦い(六六三年)のはるか昔から、百済は日本の大和朝廷と緊密な関係にあった。

半島が三国鼎立時代に入った当初より、百済は高句麗・新羅と対抗するために、大和朝廷に積極的に接近して、同盟関係を結ぼうとしていたのである。

 百済が大和朝廷に初めて交渉を求めてきたのは近肖古王(在位三四六年~三七五年)の時代であったっ当時、高句麗と激しい攻防戦を展開していた百済は、中国の晋王朝に朝貢を続けながら、日本の大和朝廷にも使者を遣わして、外交関係を結んだ。

 三七二年、高句麗と戦っていた近肖古王から、大和朝廷に「七枝刀」という宝刀が贈られた。それは今でも、奈良県天理市の石上神宮に保存されているらしい。

 三九七年、高句麗との戦いで劣勢に立たされていた百済は、太子の腆支(余映)を人質として日本に送り、よりいっそう緊密な関係を求めてきた。

 それ以来、日本に人質を送ることは、百済の対日外交上の慣例となった。百済が半島内の紛争で形勢不利となった特に、大和朝廷に何らかの支援を求めてくるのも、それ以来の”慣例”となった。その代わりに、百済は中国大陸から伝来した文化や文物、そして五経博士や医博土、採薬師などの人材を次から次に日本へ提供して、対日関係の強化に努めた。

 時代を下って六世紀の初め、百済の武寧王(在位五〇二年~五二三年)の時代、百済が朝鮮半島最南部の加耶諸国の覇権をめぐって、新羅と争うことになった時、武寧王は加耶地域に大きな影響力を持つ日本に支援を求めた。大和朝廷の継体天皇から「水軍五百」などの軍事後助を受けた百済は、対新羅戦に勝利して、加耶地域の一部を併合することに成功した。

 そして武寧王の後を継いだ聖明王(在位五二三年~五五四年)の時代、百済は新羅にたいする本格的な攻略戦を実行に移そうとして、大和朝廷の欽明天皇に軍事支援を求めた。それを受け入れた欽明天皇は、「兵一千人、馬百頭、船四十隻」からなる救援軍を半島に派遣したと伝えられている。その見返りとして、百済の聖明王が大和朝廷に仏像と仏経を贈ったようで、これが日本における「仏教公伝」の始まりであるといわれている。

 このようにして百済は、建国以来数百年間、大陸伝来の先進文化を日本に伝えることを最大の外交カードにして、大和朝廷と緊密な関係を結び、対高句麗・新羅の覇権争いで優位に立とうとしていた。時には大和朝廷に軍事後助を求めることも珍しくなく、外国勢力を半島内の紛争に巻き込むやり方は、その後の金春秋や新羅のそれと一脈相通じるところがあった。

 しかし、紀元六世紀か 七世紀にかけて、中国大陸で隋王朝と唐王朝という二つの強大な統一帝国於相次いで出現すると、百済の「日本巻き込み戦略」は効果を失った。中華帝国が半島内の紛争に本格的に介入してくると、国力が比べものにならない日本の存在感は、薄くなる一方となったからだ。そして前述のように、唐帝国が新羅と手を組んで半島に侵攻してきた時点て、百済の運命はすでに決していたといえる。

 唐王朝・新羅連合軍の侵攻に直面した危機的な状況で、百済は当然、あらゆる形の軍事支援を日本に求めた。しかしその時点では、どういうわけか、大和朝廷はいっさい動かなかった。

おそらく、唐・新羅連合軍の襲来があまりに迅速だったため、大和朝廷には反応する時間も与えられなかったのではないか。物理的な距離を克服する通信手段がなかった時代、海を隔てた日本が正確な情報を得て、半島の急変に反応するのは、どうしても遅れ日本が百済救援を決めたのは、結局、百済が滅亡した後のことである。

六六〇年七月、泗泚城か唐・新羅連合軍によって陥落させられ、国としての百済は滅びたが、その直後から、旧領内の各地で百済の遺臣たちが蜂起し、百済復興運動を開始した。

 蜂起の中心となったのは、百済の王族に連なる鬼室福信という人物だ。彼は任存城を拠点として勢力を拡大し、あっという間に三万人規模の復興軍を作り上げた。

 この年の十月、百済復興軍は使者を日本に遣わして、大和朝廷の援軍を求めた。彼らは、日本からの援軍を得ることで、百済の地から唐・新羅連合軍を追い払い、国を再興しようと考えた。

 当時、百済の遺臣たちが日本から援軍を引き出すにあたって、とっておきの切り札があった。百済最後の王・義慈玉の王子で、人質として日本に滞在していた扶余豊璋である。彼は百済王子として二十年以上、日本の都で暮らしており、天皇宗をけじめ、大和朝廷の政権中枢と密接な関係にあったと考えられる。

 そこで百済復興軍は大和朝廷にたいして、復興運動のシンボルとすべく、豊璋王子を半島に送還してもらうよう嘆願すると同時に、王子の祖国帰還を護衛する形で、大規模な援軍を送ってもらうことも要請した。

 これを受けて、斉明天皇の下で大和朝廷の実権を握っていた中大兄皇子(後の大智天皇)は百済支援を決断し、豊璋王子の送還と援軍の派遣を決めた。翌六六一年九月、中大兄皇子は安曇比羅夫など数名の将軍が率いる兵五千と軍船百七十隻に豊璋王子を護衛させ、帰国させた。帰国した豊璋王子は鬼室福信らに迎えられ、復興運動の本拠地となった周留城に入城した。豊璋は百済の新しい国王に立てられ、復興の象徴となった。

 その時、日本から派遣された五千の援軍も豊璋と共に周留城に入ったと思われるが、その後、大和朝廷はさらに二万七千人の第二次派遣軍と、一万人あまりの第三次派遣軍を続々と朝鮮半島に投入し、本腰を入れて百済復興運動を支援したのである。

 日本はこうして、古代史上最大規模の「海外派兵」に踏み切った。しかし百済が健在ならともかく、国家としてすでに滅亡してしまっていたこの段階で、大和朝廷はなぜ、今さらのように援軍派遣を決めたのか。その真意は今なお歴史の謎であるが、おそらく大和朝廷の意思決定の背後には、豊璋王子の存在が大きかったのではないか。

 長期間にわたった日本滞在で、豊璋王子は皇室をはじめとする大和朝廷の中枢と親密な関係を結んでいた。彼が母国に迎えられて、復興運動の中心となる話が持ち上がったから こそ、大和朝廷と中大兄皇子は百済復興を支援する気になったのではないだろうか。

実際、豊璋王子を祖国に送り届ける時、中大兄皇子は大和朝廷の高い地位の象徴である織冠(官位)を王子に授け、貴族の多臣蒋敷の妹を娶せたことからも、厚遇ぶりと期待の高さがうかがえる。

 しかし結果的には、中大兄皇子と大和朝廷の期待を裏切ったのも、この豊璋王子であった。帰国してまもなく、豊璋王子は復興運動の事実上の中心人物であり、自分の帰国の立役者でもあった鬼室福信を「謀反」の罪で殺してしまった。もちろん単なる濡れ衣であろう。「謀反」するくらいなら、鬼室福信は最初から、豊璋王子をわざわざ迎えようとしなかったはずだ。

 しかし鬼室福信の殺害によって、百済復興運動はその勢いを大きく削がれた。復興運動の大黒柱であり最大の功労者である福信が内紛で殺害されたことで、復興勢力の団結が一気に崩れたのである。

 もちろんそのことは、日本から百済に派遣された援軍にとっても、極めて深刻な事態だった。復興運動を支援しようと、はるばる半島までやって来だのに、肝心の百済側の組織が内輪もめで空中分解してしまったことで、梯子を外された格好になったのは日本軍の方である。

 それ以降、日本からの軍勢は百済復興勢力からの協力をほとんど得ることができなくなり、異国の地で強大な唐王朝・新羅連合軍と、ほぼ単独で戦うことになった。

その結果がすなわち、「白村江の戦い」における大和朝廷軍の完敗と全滅であるが、日本からの軍を半島に誘い込んだ百済復興勢力が分裂した時点で、この敗北はすでに決まっていたといえ日本兵の血が白村江を赤く染めていた時、肝心の豊璋王子はどうしていたか。数名の腹心と共に戦場から離脱して、高句麗へと逃げていたのである。

 日本という外国の軍勢を自国の戦争に巻き込んでおきながら、いざとなると自分だけ、上手く逃げようとする。それが、豊璋という半島人の卑怯極まりない生存術であった。
2000年前から恩を仇で返す韓民族。隋・唐・大和朝廷は、半島人に情けをかけたばかりに、巻き込まれいつのまにか手痛い被害をうけてしまったのが歴史の真実である。日本やシナは加害者ではなく、どう考えても被害者である。

正直なところ、半島の三国統一戦争について、詳細に書いた本を読んだことがなかったが、改めて本書を読み勉強になったが、ほんと韓民族とは2000年前から面倒くさい大迷惑な民族だ!

【参考】
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もくじ
序 章 歴史の大転換期に入った世界 ―――――――― 9
                
     中国、中東、欧州……混乱が広がる世界 11
     アジアに迫る危機と日本の死角 14
     いまこそ日本に求められる覚悟 17

第一章 世界は中国破綻に備えはじめた――――――――  21

     中国経済はどこまで失速するのか 23
     世界を「爆買い」する中国の焦り 27
     「鬼城」だらけの中国経済の脆弱さ 32
     各国で高まる「中国式援助」への不満 35
     八方破れのAIIBが抱える危うさ 37
     AIIBに加わった英独、それぞれの思惑 41
     日米がAIIB加盟を見送ったのは賢明だ 45
     国際通貨入りした人民元が中国崩壊の引き金になる 48
     南沙諸島要塞化のターゲットは日本である 52
     いまの中国のモデルとなったのは台湾だった 57
     「反中国」で団結した台湾が選んだ蔡英文総統 59
     隣の全体主義国家には絶対に警戒を怠ってはならない 62
     全体主義国家の本当の怖さ 66
     総選挙を実施できない中国の弱点を突け 70

第二章 漂流するアメリカの行方 ――――――――  73

     アメリカをますます混乱に陥れたオバマケア 75
     世界の警察官をやめたオバマの失態 77
     なぜアラブの民主化で中東はますます混乱したのか 84
     今後、アメリカが好況を維持できる理由 88
       アメリカの金利引き上げが世界に及ぼす影響 90
     日本は「外国人土地法」を活用せよ 95

第三章 難民・移民問題に翻弄される世界の苦悩 ―――――――― 99

     先住民を滅ぼす「移民」の怖さ 101
     自ら受け入れた難民に頭を抱えるドイツーメルケル首相 104
     ヨーロッパの移民問題における四つの背景 109     
     移民問題は二世、三世の代にも禍根を残す 113
     キリスト教VSイスラム教の確執は今後も続く 117
     日本は移民を受け入れてはいけない 121
     五族協和の「移民国家」満洲国は世界史の例外 123

第四章 「朝日崩壊」から始まった日本の「知的歴史」大転換 ―――― 127

     「笛吹けど踊らず」低ドするメディアの影響力 129
     長谷川煕『崩壊朝日新聞』の破壊力 133
     朝日は本多勝一 『中国の旅』も取り消すべきだ 137
     いかに朝日新聞は”中国べったり”だったか 140     
     「事実を握造してまでも敵を叩く」のが朝日の本質 143
     慰安婦問題だけではない! 誤報で国益を損ない続けてきた罪 149
     戦前も政府中枢に浸透していた朝日の”赤い”思想 151

第五章 世界に向けて歴史の反撃に出る日本 ―――――――― 157


     「日韓合意」の本質は米韓問題・日米問題にある 159
     日韓関係がこじれて損をするのは韓国だけ 164
     「朝日新聞 2万5千人集団訴訟」における私の意見陳述 166
     日本だけが責められるいわれはない 169     
     正しかった「戦後七十年内閣総理大臣談話」 172
     「東条・マッカーサー史観」を世界に広めよ 177
     いちばんの歴史修正主義者はマッカーサー 182
     「歴史修正主義」は本来、悪いことではない 186
     旧満洲の毒ガス弾もスバターン死の行進」も日本の正論を貫け 189
     中国「抗日戦勝七十周年記念式典」の虚構に踊った韓国 194
     国家の正統性に悩む韓国国民 198
     中国・韓国は日本にとって「敵性国家」である 202
     韓国系カルトには警戒を怠るな 205

第六章 改憲と原発復活で日本は磐石となる ―――――――― 209


     「平和安全法制」成立の意義 211
     日本国憲法の正体は”占領政策基本法”である 216
     日本の憲法学者たちを私は絶対に信用しない 218
     アメリカの日本観を変えた朝鮮戦争という「神風」 221
     「憲法改正」はこうした手順で行え 225
     独立自尊のために最も重要なのはエネルギー問題 229
     「もんじゅ」潰しを画策した菅直人・田中委員長の大罪 232
     中国に原子力技術をみすみす譲り渡す愚 237
     原子力エネルギーが切り拓く農業の未来 240

     あとがき 243
もしかしたら、私のブログを読んでいる方は、既に当たり前すぎることを書かれていていますから、目から鱗がおちることが書いてある本ではありません。
朝日・毎日新聞・赤旗以外、絶対に本などは読まないだろうけど、駅前で、参議院選挙の惨敗を東京都知事選で心の穴埋めをしようと騒ぐ民進党や共産党にシンパシーを感じるバカなジジババに是非とも読んでもらいたい本である。

保守を信条とする我々読んでも、まとめてわかり易く書いてある良書であります。

序章 歴史の大転換期に入った世界 P11-18
中国、中東、欧州……混乱が広がる世界

 いま、世界は歴史の大きな転換点にあるように思われます。二〇一五年以来、アジア、中東、欧州などでさまざまな対立や紛争が一気に表面化し、深刻さを増しています。また、世界経済にも暗雲が垂れこめ、全世界同時株安や原油価格の下落、為替などの乱高下が繰り返し起きていることはご承知のとおりです。

 その大きな原因のひとつが、中国の存在です。ここ数年、アメリカの弱体化とともに、国際社会で急速に存在感を増大させてきたのが中国です。最近は良い意味でも悪い意味でも、中国のI挙手一投足が世界に大きな影響を与えるようになっています。

 思いつくまま列挙すれば、南沙諸島(スプラトリー諸島)での岩礁埋め立てと軍事要塞化、経済面では、中国本土からヨーロッパに至る「一帯一路(新シルクロード)」構想のもとAIIB(アジアインフラ投資銀行)を発足させたり、人民元がIMF(国際通貨基金)のSDR(特別引出権)の構成通貨に加わることになったり、インドネシアで日本を押しのけて新幹線を受注したり、あるいは金正恩の核実験やミサイル発射といった暴走を抑えきれずに世界各国からその責任を問われたり……と、事が起こるたびに、その中心には中国がいるといっても過言ではありません。

 二〇一〇年に中国のGDPが日本を抜き去り、世界第二位の経済大国となったわけですから、”世界の二目風の目”となっても不思議はありませんが、一方で、その勢いに陰りが見えているのもまた事実です。

 第一章でも触れますが、二〇一五年六月以降、中国の株式は大暴落を続け、中国政府による必死の株価維持政策によって一時的に下落は収まったように思えたのもつかの間、二〇一六年の年初から再び暴落が始まり、世界に中国経済への不安感が一気に広がりました。

大規模な「資本逃避」(キャピタル。・フライト)が起きているため外貨準備高は激減している、という情報もあります。小さい話では、過剰生産のせいで粗鋼」トンが卵一個の値段にしかならない(!)こともいわれています。各地に「鬼城」ごと呼ばれるゴースト・タウンが出現していることも、減速する中国経済の象徴のようになっています。

 こうした現実を前にして主席・習近ずが焦りを感じていることは確かでしょう。だからこそ、周辺国家の批判を処視して南沙諸島の埋め立てという暴挙を加速させたり、人民元を強引にSDRに押し込んだり、なりふり構わぬ動きを見せているのでしょう。

 これまでであれば、このようなごり押しに対してはアメリカがストップをかけてきました。ところが、そのアメリカのオバマ大統領が二〇一三年九月、シリア問題に言及する中で「アメリカは世界の警察官ではない」などと、口にする必要もないことそいったため、中国を抑えるどころか、地球全体が混乱のうちに叩き込まれてしまいました。

 シリアの内戦は収束する気配も見せないまま、IS(イスラム国)という鬼子(最悪のテロ集団)を生み出してしまったことはご存じのとおりです。そして、このISがらみで北アフリカから中東にかけて人量の難民が発生、その難民たちがドッと押し寄せたEUは混乱のうちに叩き込まれ、フランスのパリでは死者が百三十人、負傷者三百人を超す大規模テロ事件まで起きてしまいました(二〇一五年十一月十三日)。

 また、シリア問題では、ロシア機が領空侵犯したとしてトルコ軍により撃墜されたこと(同年十一月二十四日)に端を発し、両国の関係険悪化を招きました。そうした中東の混乱は、サウジアラビアがシーア派宗教指導者らを処刑したことで二〇一六年一月のサウジアラビアとイランの国交断絶へと拡大しました。

 いずれも、アメリカが「世界の警察官」の役割を放棄したため、抑えがもはやきかなくなってしまったことが大きいのです。

 そのアメリカでは二〇一六年十一月、大統領選挙が行われます。二期務め上げたオバマが大統領の座を去るのは悦ばしいことですが、次期大統領がだれになるのか、現状ではまったく見通しが立っていませんにそれだけでなく、不動産王トランプ氏(共和党)が高い支持を集めているのはよく知られています。「イスラム教徒のアメリカ入国を全面的かつ完全に禁止する」「もし私か勝利したらメキシコ人や移民は帰国することになる。彼らには帰ってもらう、ほんとうに」と叫んでいる、このトリックスター(道化的いたずら者)がもしも当選したら……アメリカはいったい世界に対してどんなことをやってしまうのか? 世界各国が不安をもって選挙戦を見つめているのではないでしょうか。

 ワシントン・ポスト紙も二月二十五目付の社説で、不法移民千百万人を強制送還するという公約について、《スターリン政権やカンボジアのポルーポト政権以来の規模の強制措置だ》と非難したうえで、《いまこそ良心ある共和党指導者がトラップ氏の指名阻止のために、できることをするときだ》と不安を募らせています。

 アジアに迫る危機と日本の死角

 私たちは日本がいま、そうした荒波のなかにいることを覚悟しておかなければなりませんつただでさえ先行き不透明な世界にあって、われわれは中国、韓国、北朝鮮といったあまりありかたくない”隣人”に取り囲まれているから、なおさらです。

 中国はすでに述べたようななりふり構わぬ動きを見せています。

 韓国とは、二〇一五年暮れ、慰安婦問題をめめぐって「日韓合意」をしましたが、さて、われわれはこの問題が「最終的かつ不可逆的に解決される」、とに信じていいものでしょうか?

韓国の指導者たちはこれまで、なにかというと慰安婦問題を蒸し返してきた過去があるだけに予断は許しません。

 そして、「ならず者国家」北朝鮮も二〇一六年に入ってから金正恩が核実験やミサイル発射といった具合に暴走を続けています。この二月七日に発射した長距離弾道ミサイルは 一万二千~一万三千キロの射程距離を持つといいますから、理論上はワシントンまで射程に入ってしまいます。

 二〇一六年の初めにイスラム教スンニ派の盟主サウジアラビアがシーア派の大国イランと国交断絶したことを受け、一部には第三次世界大戦の勃発を危惧する声が上がりましたが、その流れでいえば、金正恩がなにかの拍子に血迷ったら東アジアが戦争の発火点となる危険性もなくはないと覚悟しておくべきでしょう。中東と同様、東アジアにもなにやらキナ臭い空気が立ち込めているのです。

 そうしたなか、二〇一五年九月に「平和安全法制」が成立しました。右に述べたように、わが国を取り巻く環境がこれだけ厳しいわけですから、集団的自衛権を認める「平和安全法制」を成立させることは政府として当然の責務でした。それにもかかわらず、「SEALDs」(自由と民主主義のための学生緊急行動)と名乗る若者たちが法案成立に反対して国会前デモを続けていましたが、彼らはいったいなにを考えているのでしょう?

 世界各国で「思想・信条の自由」は認められているわけですから、だれがなにをどう考えようと構いません。しかし、私は狂信・盲信・無思考だけは排します。それらに憑かれた人びとがこれまでイヤというほど害毒を流してきたからです。

 第四章では、中国共産党のナンバー2であった林彪が毛沢東との政争に敗れて客死したとき(一九七一年九月)、中国の恥部を晒すことになると考えて事件を報じなかった朝日新聞の秋岡家栄北京支局長に触れていますが、かつてテレビ朝日の「ニュースステーション」でコメンテーターを務めていた朝日新聞の和田俊という記者もプノンペン支局長時代、ポル・ポトの二百万人人虐殺を否定していたことは有名です。

 イデオロギーに目をくらまされたこうした”犯罪”の最たるものが、朝日新聞が長年にわたって垂れ流してきた「従軍慰安婦」報道です。二〇一四年八月の朝日新聞社自身の手による「慰安婦報道の検証」によって捏造記事の一部は正されましたが、一連の報道が日本および日本人の名誉と誇りを傷つけた事実は消えておりません。そこで私たちは「朝日新聞を糺す国民会議」を組織して「朝日新聞 2万5千人集団訴訟」を行っているわけです。

 他方、朝日の「慰安婦報道の検証」により、これまで日本のインテリ階級を支配してきた「知的歴史」に変化が見えはじめたのも確かなように思えます。げんに、インテリの”朝日離れ”の動きは顕著で、販売部数も激減、社員の給与の引き下げも取り沙汰されて います。

 あと一歩です。戦後日本を蔽ってきた”朝日的なるもの”が凋落していけば、日本の知的光景もずいぶん見通しがよくなってくるはずです。

  いまこそ日本に求められる覚悟

   国際情勢が緊迫の度合いを増しているなか、”朝日的なるもの”の払拭は、日本にとって喫緊の課題とも言えますが、そのためには、日本を貶める「東京裁判史観」の克服が急務です。学界、日教組、さらにはマスコミを蝕んできた東京裁判史観はじつに根強く、戦後七十年たったいまも消えてはいません。

  それを代表するのが、共産党といっしょに「平和安全法制」を「戦争法」と呼び替え、法案に反対した勢力です。たとえば、「安全保障関連法に反対する学者の会」には上野千鶴子(東京大学名誉教授)、内田樹(神戸女学院大名誉教授)、小熊英二(慶礁大教授)、小森陽一 (東大教授)、山口二郎(法政大教授)……といった学者が名を連ね、また梅原猛(哲学者)、大江健三郎(作家)、澤地久枝(作家)……といった人たちが呼びかけ人になっている「九条の会」もこの法案を批判していました。こういう人たちにはもうなにをいってもはじまらないでしょうが、しかし、若い人たちの洗脳を解くには絶好の”特効薬”あります。それは一九五一年(昭和二十六年)五月三日、東京裁判の「法源」ともいうべきマッカーサーがアメリカヒ院の軍事外交合同委員会で行った証言です。これについては第五章で詳述することにします。

 もうひとつ、日本人が克服すべきは「原発アレルギー」です。
 このアレルギー症状は二〇」一年三月の福島第一原子力発電所の事故を受けていっそう強まりました。それをいいことに、当時の首相・菅直人は日本の原発をすべて停止させてしまいました。しかも彼は、首相退陣後も原発が再稼働できないように”悪さ”を仕掛けたといわれています。そのせいで、わが国は本来であれば必要のない石油やLNG(液化天然ガス)を買い続けなければならなくなってしまいました。毎日、百億円(!)のムダ
金を強いられることになったのです。そのため、堅調であった貿易収支が赤字に転落してしまったのは周知のとおりです。

 日本人に固有の原発アレルギーと菅直人の”悪さ”を乗り切らなければ日本のエネルギー問題に光明は見えてきません。そこで私は要らざる原発アレルギーを癒すべく、「放射線の正しい知識を普及する会」に参加し、会長として微力を尽くしています。

 それが功を奏して……と、うぬぼれるつもりは毛頭ありませんが、二〇一五年には九州電力の川内原子力発電所1、2号機が、この一月には関西電力高浜原子力発電所の3号機が再稼働をはじめました。これから四基目、五基目と、原発の再稼働が続けば日本のエネルギー問題はかなり解消されていくでしょう。さらに付け加えれば、日本原子力研究開発機構の高速増殖炉「もんじゅ」(福井県敦賀市)が稼働するようになれば鬼に金棒。中国や韓国ヽ北朝鮮といった好ましからぬ”隣人”だちからの脅威にも対処しやすくなるはずです。

 そんなことを念じながら、本書では私なりの視点から「歴史の大転換期に入った世界」を俯瞰かつ分析してみました。





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19世紀末の世界は、欧米列強が、アジアアフリカの有色人種国家を軍事力で次々と植民地としていった。征服された国家の国民は、白人の奴隷ににされていった。

軍事力の弱い国は、他国から領土を侵食される可能性が大きい。だから、幕末から明治にかけての日本は、大急ぎで軍事力の増強に励んだのである。
 その次に重要なのは、外交力である。 外交のやり方次第では、軍事力の不足を補うことができる。
 幕末から明治前半の日本は、軍事力においては欧米に比べればかなり見劣りしていた。だか当時の日本は、外交を駆使して、なんとか領土を守り切ったのである。

江戸幕府や後の新政府の指導者達は、立場は違えても日本人として領土を守り、日本を欧米列強の植民地になることを避けるべく、富国強兵、殖産興業プロジェクトを実行した。

日本にまだ海軍力がなく、軍事力が無い分外交を駆使してなんとか領土を守り抜いた。
なぜ日本だけが欧米の侵略を免れたのか?  
p64-68
大日本帝国は、「絶対に領土は削らせない」という意識を持っていた。
実際に日本は幕末の開国以来、ほとんど領土を削られてはいない。幕末、明治の指導者が死 にもの狂いで守り通したからである。
 
当時のアジア諸国では、欧米の侵攻に反発し、「攘夷運動」が巻き起こるケースが多かった。この攘夷運動が過熱して、欧米諸国との本格的な戦争に発展し、挙句の果てに、領土を削り取られたり、植民地化されたりしてしまうのである。

 しかし、日本の指導者たちは、この轍は踏まなかった。幕末、日本でも攘夷運動が盛り上がる。が、ある時期から攘夷運動をぱったりとやめてしまうのである。そして、むしろ「欧米からら学べ」「学んで力をつけてから、対抗しようにという方針にに転換したのだ。
 この転換ができたことが、日本が欧米諸国に侵攻されなかった最大の理由だと考えられる。
 幕末の日本では、欧米軍と2度にわたって戦闘をしている。
 薩摩藩とイギリスが戦った「薩英戦争」と、長州藩とイギリス、アメリカ、オランダ、フランスが戦った「下関戦争」である。当時の日本の指導者が賢明だったのは、欧米列強と戦闘をしたときに、すぐに講和を結んだことだった。

 実は「薩英戦争」も「下関戦争」も、日本側が一方的に負けていたものではない。あまり知られていないが、人的被害を見るならば薩英戦争ではイギリス側の方が多く、下関戦争でも四力国側の方が多かった。にもかかわらず、薩摩も長州も、すぐに講和に持ち込んでいるのだ。

 ここが他のアジア諸国と大きく違ったところである。
 欧米の兵を一旦、撃退することができたアジア国というのは、実は薩摩、長州だけではない。
韓国(朝鮮)やアフガニスタンなどでも何度か欧米の侵攻を撃退している。
 しかし、アジア諸国は、戦闘の後で欧米列強との関係を築く努力をしなかったために、結局は、帝国主義の餌食になっていったのである。

 ●薩英戦争での賢明な選択
 幕末の欧米との戦争で、日本がどういう始末をつけたのか、他のアジア諸国とはどこが違っていたのか、具体的に見ていきたい。

薩英戦争というのは生麦でのイギリス人殺傷事件を契機として文久3(1863)年に
薩摩藩とイギリスの間で行われた戦争である。
 薩英戦争は、そもそもイギリス側の落ち度が発端だった。
 文久2(1862)年、薩摩藩主島津忠義の父・島津久光が700大の藩士ともに江戸から薩摩へ帰郷の途についていた。
この島津久光の行列が生麦村に差しかかったとき、横浜に来ていたイギリス商人ら4名の乗っか馬とかちあった。4名は行列の中を突き切るような形になり、警護の薩摩藩士がこれを無礼討ちにしてしまった。イギリス商人らは1人が死亡、2人が重傷を負った。

この事件で、イギリスは幕府と薩摩藩に対し、謝罪と賠償を求めた。幕府は応じたが、薩摩藩は応じなかった。そのためイギリスは軍艦7隻による艦隊を鹿児島に派遣し、再度、薩摩藩に対して、謝罪と賠償を求めた。しかし薩摩藩はこれを拒否。イギリス艦隊が付近にいた薩摩藩の艦船3隻を拿捕したとき、薩摩藩はそれを宣戦布告とみなし、砲撃を開始した。

イギリス艦隊は7隻のうち、1隻が大破、2隻が中破という損害を受け、戦死13名、負傷者50名を出した。戦死者の中には、旗艦ユ-ライアラスの艦長、副長もいた。

 薩摩藩は軍需工場であった集成館をはじめ、民家や武家屋敷など500戸が焼火などの被害を受けたっしかし、市民は当時、避難しており、人的被害はほとんどなかった。この戦争での薩摩藩側の死傷は、死亡が数名、負傷が18名という軽微なものだった。

 このイギリス艦隊の失態に対して、本国では厳しい批判が向けられた。
 イギリス政府は城下町の攻撃は行きすぎだったと認めたのである。イギリスとしては、対薩摩戦略を考え直さざるを得なくなった。
 この薩英戦争の後、薩摩藩が賢明だったのは、自軍を過大評価しなかったことである。薩摩藩は一応、英国艦隊を撃退したが、このまま戦争を続ければやがて敗けると踏んだ。そのため、すぐに講和に向かったのだ。

 薩英戦争では戦争が終わったその月のうちに、薩摩藩の支藩の佐土原藩士を使者として横浜に差し向けている。そして3か月後には、講和を成立させている。
 講和の主な条件は、薩摩藩が生麦事件の賠償として2万5000ポンド(約6万両)を支払うこと、生麦事件の犯人を処罰することだった。しかし、賠償金は幕府からの借款で行われ、生麦事件の犯人も「消息不明」とされたため、薩摩藩側にほとんど痛みはなかった。

 しかも薩摩藩の抜け目がないところは、この戦争で欧米の科学力の高さに感服し、積極的に欧米と交際し始めたことである。薩摩藩は、イギリスから軍艦や武器などを大量に購入するようになり、この戦争のわずか2年後、藩士を大挙、英国に留学させている。


 ●英仏蘭米の大艦隊に健闘した長州藩
 幕末におけるもうひとつの対外戦争である下関戦争は、以下の経緯により起こった。
 ペリーの来航以来、日本では天皇を中心とした国家を作り、外国を打ち払う「尊王攘夷思想」が燃え上がっていた。
 文久3(1863)年、天皇は幕府に対して外国を打ち払え、という命令を出す。これは、長州藩士を中心とする尊王攘夷の志土たちが朝廷に働きかけた結果でもあった。
 同年、長州藩は朝廷の命令をまともに聞き入れる形で、下関を通過する外国船に対して砲撃をはしめた。下関は、当時の日本の交通の要衝であった。下関海峡を封鎖されると、横浜に貿易物資が入ってこなくなり、当時の外国商社たちは、大きなダメージを受けることになった。

 もちろん、外国も黙ってはいない。長州が砲撃した半月後、イギリス艦隊が報復攻撃を行い、下関の砲台や長州藩の所有する艦船を撃滅した。

長州藩は砲台を修理すると、外国船に対する砲撃をすぐに再開した。これに業を煮やしたイギリスは、フランス、オランダ、アメリカに働きかけて四ヵ国で長州藩を攻撃することにした。
 文久4(1864)年8U、災仏闇米の四力国は、艦船17隻で連合艦隊をつくった。そして、幕府の制止を振り切って下閏に赴き、長州藩の砲台を徹底的攻撃した。

 このときの攻撃は、艦砲射撃だけにとどまらず、2500名の陸兵による上陸作戦も決行された。上陸部隊2500名というのは、けっこう大きな数である。たとえば、この30年後、日清戦争開始時の日本車の上陸部隊は4500名である。4500名で韓国の仁川に上陸し、朝鮮半島全土を制圧したのである。

 長州藩側は、120門の旧式大砲と奇兵隊など2000人足らずの兵士で迎え撃った。
 もちろん装備に勝る四力国軍は優勢に戦闘を進めた。長州藩の大砲は、射程の短い青銅砲や木製の「大砲もどき」で、兵士も旧式の銃しか持っておらず、弓矢を使っている者も多かった。
 それでも長州藩は健闘し、四力国軍にかなりの被害を出させている。
 この戦争で長州側は戦死者18名、負傷者29名をたしか。しかし四力国側も戦死者12名、負傷者50名を出しているのだ。死傷者の総数は、四力国側の方が大きかったのだ

 ●高杉晋作が守った日本の領土
 四力国戦争でそれなりに健闘した長州藩たったが、薩摩藩と同様に、決して欧米列強をみくびらなかった。馬関での戦闘が終わった翌々日には、四力国艦隊に向けて使者を派遣し、すぐさま講話を行った。長州藩側の使者は、かの高杉晋作たった。
 四力国側は、長州藩に対して次の5つの要求を出してきた。

 ・下関での砲撃はやめる
 ・外国船に必要なもの(食料、燃料など)は、販売する。
 ・嵐などの非常時には入港を認める
 ・下関で新たな砲台は築かない(修理もしない)
 ・300万ドルの賠償金を払う

 この要求は、アヘン戦争で清か受けた要求に比べると、相当にやさしいものだといえる。それは「四力国側も被害が大きかった」「長州が完膚なきまでに叩かれたわけではない」ということが大きく影響しているといえるだろう。

 高杉はこの交渉に強気で臨み、「あくまで賠償金を要求するなら、むしろ戦うことを望む」と言って賠償金を拒絶。四力国側は長州に支払わせるのは断念し、代わりに幕府に求めることにした。

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 このとき四力国側は長州領の彦島の租借を要求したという話もある。が、これも高杉が頑として受け入れなかったので、租借されるのを免れたという。もし租借を許していれば、彦島は第二の香港になっていた可能性がある。

この彦島の租借の話は、講和に同席した伊藤博文の伝記「伊藤博文伝」などごく一部の資料にしか見られないので、史実としては疑問を投げかける向きもある。
 しかし、フランス車鑑「セミラミス号」搭乗の士官アルフレッドールサンの手記にも、「賠償金の批保として、彦島や町の高台を占有しておくという話もあった」と述べられている。
まったくの作り話ではないのだ。                               
 高杉がこのように頑強に四力国側の申し入れをはねのけたのには、大きな理由がある。
 文久2(1862)年、高杉晋作は幕府が派遣した千歳丸に同乗し、上海に渡った。高杉はそのときのことを「遊清五録」という文章に残している。

 支那人(中国人のこと)はことごとく外国人の便益となれり。イギリス、フランスの人、街市を歩行すれば、支那人みな傍らに避けて道を譲る。実に上海の地は支那に属すといえども、英仏の属地というもまた可なり。

 高杉は、支那の人々が、英仏大の便利使いにされ、道を歩くときさえ譲っている、と記している。上海は清の土地のはずだが、英仏の土地ともいえるのではないか、と。
 このときの経験が、高杉に「絶対に領土を削らせるわけにはいかない」という意識を持たせたのである。そしてこの高杉の意識が、日本を欧米の侵攻から守ったともいえるのだ。

下関戦争も、薩英戦争もボロ負けしたイメージであったが、実際はかなり健闘していたことを私は知らなかった。彦島とは関門海峡の小島だが、ここが租借地にならなくて本当によかった。

【大国が目をつけた小笠原諸島をすばやく領有した】
イギリスから領土を奪った明治日本             
p69-73
 ●ルールに沿って領地を増やす

 大日本帝国はしばしば、「領土的野心の塊たった」というようなことが言われる。だから、韓国を併合したり、満州に進出したりしたのだ、と。
 その一方で、「大日本帝国には領土的野心などなかった、大日本帝国の戦争はすべて防衛の為のものだった」などと言われることもある。
 このふたつの論は、ともに事実とは少し離れていると思われる。

 大日本帝国には、領土的野心はたしかにあった。しかし、それは当時の世界の潮流でもあった。大日本帝国が誕生したときというのは帝国主義の全盛期であり、「領土を少しでも増やすことが国のためになる」と思われていたのだ。
 欧米列強は、あからさまな領土拡張主義を取っていた時期である。
 欧米化を目指した日本が、その潮流に来ることになったのは当然といえば当然である。かといって、当初から旺盛な領土的野心かあったのではない。

 日本は、幕末からたびたび欧米列強の侵攻を受けていた幕府や諸藩の指導者層た地は、当然「これはうかうかしていられない」と思うのと同時に、欧米にならって領土を拡張することが国力の増強につながる、ということも感じていた。

 そこで明治新政府は、日本近海で領有できるところはすべて領有しようとした。欧米のつくった領土の国際ルールを学び、それに準じた上で、できるだけ領地を増やそうとしたのだ。

 明治新政府のそのやり方は、非常に手際がよかった。今の日本が、周辺の島々を領有できているのも、明治新政府の素早い対応のおかげともいえる。
 しかも明治政府は、大英帝国を相手に領土を分捕ったことさえあるのだ。

 ●イギリスから小笠原諸島を奪う

 その領土とは小笠原諸島のことである。
 小笠原諸島というのは、東京から南東に1000キロ行ったところにある群島である。
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この小笠原諸島は、幕末、日本の領土ということが確定していたわけではなかった。そのため、イギリスが食指を伸ばしていた。明治新政府は、それをはねのけて自国領として認めさせたわけである。

 小笠原諸島は、近代までは無人島たった。
 最初にこの島々を発見したのは、16既紀半ばのスペインの商船だったとされる。日本との関わりか始まったのは、17世紀の後半。紀州の蜜柑船が漂着したのをきっかけに、幕府が訓査船を派遣し、領有を宣言する標識を設置した。

  しかし、その後、小笠原は捕鯨基地として欧米の注目を集めるようになりヽ各国が相次いで食指を伸ばすようになる。1827年には、イギリス人が領有を宣言。1830年には、ハワイのオアフ島から白人と先住民が移住してきた。その直後にはあのペリーが来航し、アメリカ人を首長とする自治政府の樹立を宣言したこともあった。
                   
こうした動きを受けて、幕府は改めて小笠原の領有を宣言。島の測量を行い、八丈島から島民を入植させた。しかし、幕末の攘夷運動の影響もあり、入植者は撤退。小笠原諸島の帰属はあいまいなままたった、しかし、明治維新以降になって、小笠原を巡る情勢は急展開を迎える。

 1873年、イギリス公使パークスが、日本が小笠原を領有する意志がないならば、イギリス領とするつもりだと言ってきたのだ。

イギリスは1875年に領有の準備のために、艦隊を派遣すると明治新政府に通告、慌てた新政府も調査団を結成し、明治丸に乗せて小笠原に派遣した。明治丸とイギリス艦隊はほぼ同時に小笠原に向かったが、到着したのは明治丸が2日早かった。島に入った調査団は、島の住民を説得。交渉は成功を収め、島民たちは日本への帰属を全員了承した。

 すでに島民への合意を取り付けていたため、遅れてきたイギリス側は異議を唱えなかった。そして明治9(1876)年、新政府は小笠原が日本領であることを世界に通知。もはや反対する国はなく、日本の領有が世界的に認めさせたのだ。

 当時のアジア諸国では、イギリスから領土を分捕られた国はいくらでもあったのだが、イギリスから領土を分捕ったのは日本だけだといえる。
 イギリスから見れば、本国から遠く離れた小さな島を管理するのは大変である。しかも、これといった貴重な産物があるわけではない。
だから、それほど固執しなかったのだろう。

 それにしても、あのがめつい大英帝国の、しかも最盛期にてある。西欧の強国でさえ、イギリスが出てくれば道を避けていたような時代に、よくぞ明治の日本人たちは、イギリスに立ち向かったものである。

 この小笠原諸島があるために、日本の領海は大きく膨らんでいる。 もし小笠原諸島が日本の領土ではなく、三宅島あたりが日本の国境になっていれば、日本の領海は非常に狭いものになっていたはずだ。特に「排他的経済水域」が認められるようになった昨今では、小笠原諸島の存在は、海洋開発などに大きな意味をもつ。

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 日本の最東端の南鳥島、最南端の沖ノ鳥島が、日本の領土だと認められているのも、小笠原諸島の存在があってこその話なのだ。
 南鳥島、沖ノ鳥島は、日本の本土(本州)から、2000キロ近く離れている。もし中間点の小笠原諸島がなければ、南鳥島、沖ノ鳥島は日本からあまりに離れすぎているため日本の領土とは認められなかったかもしれない。
当たり前のように、小笠原諸島が日本であるのではなかった。
日本の領土面積は約38万km²で世界第60位に位置するが、領海およびEEZの総面積は世界6位となるのも、幕末から明治初期の先人たちが、賢く動いたからこそであり、日本領土であり、領海でありEEZとなったのである。

国家百年の計で動いた明治の先人達には頭が下がる。尖閣諸島も日本領として合法的に確保した。

【領土に無頓着だった清、心を砕いた日本】
尖閣諸島をすばやく領有した
p77-80
●尖閣諸島はいつ領有したのか?                             
 中国は現在、尖閣諸島問題で、「清朝の末期に日本がどさくさに紛れて分捕った」という批判をしている。

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 たしかにそういう面があったことは否めない。
 しかし、それは言い方を変えれば、日本は早くから領土問題に関心を待ち、自国が領土問題で少しでも有利になるような対処をしていたということである。
 それは「日本の国益」においては、非常に利していたといえる。

 そもそも「国境」や「領有」ということが、うるさく言われるようになったのは、18世紀くらいからのことからなのである。それ以前は、国境、領有などについては、それほど厳密に決められていたわけではなかった。特にアジア地域においては、点在する小さな島々の領有を、うるさく主張するようなことはほとんどなかったのだ。

 清や韓国なども、自国周辺の小島の領有などに、それほど注心を払っていなかった だから、清国などは、欧米から手当たり次第に領土を蹂躙されてきた。

 ところが、日本は幕末から、「領土」「領有」ということに非常に強い関心を持っていた。欧米では、「領土」「領有」という概念が非常に重要なことだということを、日本の知識層は知っていたのである。

 世界中には、まだどこの国も領有していない島、地域がたくさんあり、それを領有すれば、領地が増えて資源開発などもできる。日本は海に囲まれているのだから、周辺の海域を探索し、無人島などの発見に努めるべき。そういう考え方が、幕末の知識層の問では広く普及していたのだ。

 尖閣諸島の場合もそうである。
 尖閣諸島は、もともと無人島だったのだが、明治17(1884)年、古賀辰四郎という福岡の実業家が開拓した。そして1895年、尖閣諸島は正式に日本領土に編入する閣議決定がされた。以降、鰹節工場が作られるなどして、口本の領土として活用されていたのだ。

 それ以前、尖閣諸島はどこの国にも明確に属してはいなかった。少なくとも近代的な国際法に照らし合わせて、領有権を主張できる国はなかったのである。

 江戸時代の地理書「三国通覧図説」には、尖閣諸島も載っているが、これには中国や台湾と同じ色で塗られている。現在の中国はこの「三国通覧図説」を根拠にして、尖閣諸島の領有権を主張している。が、この三国通覧図説」もそれほど正確を期してつくられたものではなかった。そもそも、江戸時代の日本や中国において、尖閣諸島がどこの領有かということは、あまり関心が持たれていなかったのだ。

 しかし、日本は開国し、欧米と接触するとすぐに領土に関して、非常に心を砕くようになった。そして尖閣諸島も素早く領有したのである。

 清朝は領土問題に関して、手抜かりがあった。 この時期の清は、台湾領有に関しても、大チョンボをやらかしている。
 明治4(1871)年、宮古島の年貢を乗せた御用船が遭難して台湾に漂着し、乗組員54入が台湾の先住民に殺害されるという事件が起きた。日本政府は清朝に抗議をし、賠償を求めた。これに対して清朝政府は「台湾先住民は清朝の統治下ではないので、責任はとれない」と回答した。それを受けて日本は明治7(1874)年に、台湾に出兵したのである。

 「台湾先住民は清朝の統治下ではないので、責任はとれない」 という清朝の回答は、近代国家としては常識的にあり得ないものである。「台湾は我々の領土ではない」と言っているようなものだからだ。当時の日本は、まだ軍事力が整っていなかったので、このときの台湾出兵では台湾の占領はできなかった。が、隙を見て、欧米列強が台湾を占領する恐れは十分にあったといえる。

 台湾は日清戦争後に日本に奪われたのだが、当時の清朝ならば、日清戦争が起きなくても、台湾はどこかの国に領有されたかもしれない。

 ところで、筆者は現在の尖閣諸島問題と、当時の尖閣諸島問題をごっちゃにするつもりはない。当時の日本政府が手際よく尖閣諸島を領有したからといっても、現在の尖閣諸島はまた別の問題があるからだ。

 そもそも領土問題というのは、理屈で解決できたことはあまりない。領土問題は、国同士の力関係、国際情勢などに左右されるものである。
 「尖閣諸島は、国際法上日本のもの」ということで、日本が安心しきることはできない、ということである。

 領土問題は理屈をこねるだけでは解決しないし、非現実的な強硬路線を貫くだけでも解決しない。幕末明治の指導者のような、冷静な現実感覚と、的確な行動と、粘り強い交渉が必要なのである。
今日切歯扼腕して尖閣諸島を自国の領土だと主張する中国の気持もわからなくはないが、国際法上は明らかに日本領であり、自国領と主張するのは盗人猛々しいのである。明らかに世界秩序を脅かすものであり、中国の主張は絶対許してはならないのである。

日本も民進党左翼政党を支持するような盆暗な人々が過半数を占めればたちまちのうちに尖閣を失い、次に沖縄が狙われるのは必至である。

沖縄県民が、中国人になりたいと思うのなら別だが・・・

【日本と清、。ニ重属国・状態にあつた琉球藩】
沖縄もすばやく領土に組み込んだ
p81-83
 沖縄は日本の領土ではなかった?

 昨今の尖閣諸島の問題において、中国の一部メディアなどは「沖縄も本当は中国領だったのを日本が分捕った」という主張をすることもある。これを聞いて日本人の多くは、何を血迷ったことを言っているのか、と感じたことだろう。        
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  現在、沖縄は国際法で認められた紛れもない日本の領土であり、実効支配をしているどころか沖縄は日本の本体の一部ともいえる。沖縄県民だってもし中国領に組み込まれるとなれば、必死に抵抗するはずだ。

 しかし沖縄という地域は、実は明治以降すんなり日本が領有できたものではない。日本の領土として確定するまでは、一悶着も二悶着もあったのである。

 というのも、江戸時代の沖縄は、国の領有関係があいまいな地域だった。江戸時代には、沖縄は清の領有とも、日本の領有とも確定していなかったといえる。江戸時代には日本と清の間には、そういう地域や島は多かったのだ。

 日本と、清、韓国とは古くから交流はあった。が、近代的な意昧での「旧交」が始まったのは、明治維新以降、明治4(1871)年の日清修好条規を
締結してからのことである。

 しかし、近代的な意味での国交を結ぶと、清との間で新たな問題も生じてきた。
 それが領土問題であり、その最たるものが沖縄だったのだ。

 ●琉球を巡る日清の争い

 明治以前の琉球は~本と清に対して、両方に従属的な関係を持っていた。どちらに対しても、臣下の礼をとりながら、完全な属国ではない、というような曖昧な関係であった。

 琉球は慶長14(1609)年、薩摩藩によって制圧され、日本では薩摩藩の管轄下の領土という扱いになっていた。が、琉球はその一方で、清に対しても朝貢を行っていた。江戸時代の琉球は、”二重属国”のような状態だったのである。

 明治5年日本は、その曖味な関係をはっきりさせるべく、琉球を日本の一部に組み込み、「琉球藩」とした。琉球の各国との条約は外務省が管轄することとされ、琉球は日本の属国とされたのだ。

 これに対して、清は日本に抗議をしなかった。当時の琉球は、清に対してまだ朝貢を行っていたからだ。 しかし、宮古島島民遭難事件をきっかけに、新政府は琉球に対して清への朝貢をやめさせる。すると、琉球がそれを清に訴えて出た。そのため、日本と清の関係は急速に冷え込み、「琉球」が日清の領土問題としてクローズアップされることになったのだ。

 琉球の反抗に対して、日本は武力で応じた。 明治12(1879)年、内務大書記官松田道之が陸車二個中隊を率いて琉球に上陸、たちまち首里城を占領した。そして琉球藩を廃止し、沖縄県とした。この時点で、完全に日本の領土の一部にしたのである。

 もちろん、清は日本の行動に対して抗議を行った。 が、同時期に日本は韓国をも無理やり開国させ、影響力を及ぼそうとしていた。結局、韓国問題を優先するうちに琉球問題は次第にうやむやになり、日本の領土ということが既成事実化していったのだ。

 これを見ても、明治日本は領土問題に非常に敏感で、素早く的確な行動をとっていたということがわかる。今の日本の領土は、先人の努力によって確保されてきたものなのである。

安保法制に反対したり、沖縄から基地を失くせと騒ぐ基地外は、おそらく国家100年の計を考えた明治期の日本人の血が混じっていないのだと思う。

国際間の緊張した情勢を一切考慮せず、己の正義を振りかざすのは、あまりに愚かに見えてしまう。




執筆中


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まえがきより抜粋
p-2-3
日本軍というのは、当時、費用効率が世界一高い軍隊だったといえる。経済力では欧米に歯が立だないなか、彼らの数分の一の予算で、彼らに匹敵するような軍軍力を持てたのである。

 第一次世界大戦の末期の大正6(1917)年には、日本は保有する戦艦数でイギリス、アメリカに次ぐ世界第三位にまでなっている。1917年といえば、明治維新からわずか50年後のことである。

 もちろん、その間、日本は軍軍力の増強だけに力を注いでいたわけではない。
 社会制度の改革やインフラの整備、産業の促進など、近代国家に生まれ変わるために取り組まねばならない課題は多かった。日本はそれら課題をひとつずつクリアしながら、世界的な強国になったのである。”ビジネス”という視点から見ても、見習うべき点は多々あるはずだ。

 そもそも大日本帝国というのは、「欧米列強の侵攻から国を守る」ということから始まったものである。
 幕末の日本は、他のアジア諸国と同様に、文明的には欧米にかなり後れをとっていた。これといった資源があるわけではなく、豊饒の土地を有していたわけでもない。
 しかし日本は決して恵まれてはいない条件の中、非常に短い期間で、欧米列強を跳ね返すほどの軍隊をつくりあげた。その手際の良さは、世界中を見てもあまり例がない。

 アジア諸国が軒並み植民地化されていく中で、なぜ日本だけがそれをできたのか?
 知識も金もなかった国が、どうやって強い軍隊をつくりあげたのか?

 我々日本人は、「敗戦時に生まれ変わった」というような歴史観を持っている。
 「戦前の日本と戦後の日本は別の国である」
 そういう考えを持ち、戦前の日本から目を背けてきた。
 そして「日本軍は独善的で科学軽視の恥すべき存在である」と、日本軍を全否定することで、敗戦の責任を逃れようとしてきた。
 しかし、それでは我々は、過去から何も学べないのではないか。
そうなのだ、日露戦争後、第二次世界大戦前、日本軍の鬼神のごとき強さに欧米列強は皆恐れおののいたのだ。

ソ連軍を完全に圧倒した日本陸軍

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 それでは、ノモンハン事件か発生してから、戦闘かどのように展闘していったか、その経過を検証してみよう。ノモンハン事作は時期でいえば、第一次ノモンハン事件(五月)と第二次ノモンハン事件(六~九月)の二つに分けられる。

 まず、第一次から見てみよう。この戦闘は文句なしに日本軍の圧勝だった。五月四日に始まり三十一日に終結したこの戦闘で、ソ連軍は一七九機撃墜されたか、日本機の損害はわずか一機(そのパイロットは無事脱出して生還している)だ
った。しからその空中戦に参加した飛行機の機数を見ると、たとえば日本機九機に対してソ連機八〇機とか、日本機一八機に対してソ連機六〇機といりたように、圧倒的に少数の日本機か敵の大編限と戦って、これを打ち負かしている。

赤子の手をひねるとはまさにこのことをいうのであろう。この信じがたいような空中戦の大戦果のニュースが世界に流れると、各国の空軍関係行は驚愕した。

 ノモンハンの前半(五~7月)における空中戦での、日ソ双方の飛行機の損失を比ぺてみよう。数多く戦われた空戦のなかで主立ったいくつかを抜粋してみる。

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この数字を見て、どう表現したらよいのか、言葉を失う。鐙袖一触だとか赤子の手をひねるだとかいった形容では追いつかない、まさしく日本の一方的な勝利といってよい。

 地上戦でもソ連軍は日本軍の激烈な抵抗を受け、侵人地を確保できずにハルハ河の左片に撤退した。日本軍の死傷者二九〇名に対し、ソ連軍の死傷者は六〇〇名以上であった。関東軍はこれで事件は収束したと判断し、戦勝報告を行なっ
た。

 次はノモンハン事件の第二次に目を向けよう。六月一七日にソ連軍の飛行機は突如として満州国各地を爆撃し、地上軍は満州国の各地を攻撃してきた。第二次ノモンハン事件の始まりである。戦闘の始まったのは将軍廟という場所であり、
ソ連が主張する国境線からでも二〇キロも満州国へ入ったところであったから、明らかにソ連軍が侵入してきてしかけた戦争でありた。

 第二次ノモンハン事件は、開戦から二力月たった八月二十日まで日本軍が完全にソ連軍を圧倒していた。具体的な数字で見てみよう。

 ノモンハン事件全体でこうむった双方の戦死傷者数は、日本軍の一万七四〇五名に対し、ソ連軍は二万五五六五名である。そのうち八月二十日までの戦死傷累計数字を見ると、日本軍の七○○○名に対しソ連軍は一万五○○○前後である。
わずか一個師団二万の少数の日本軍が二三万の敵の大軍を相手に、これだけの戦果を挙げているのである。これを日本軍の大勝利といわずして何といおう。                                        
 八月二十日以降、ソ連軍がいかなる犠牲をも厭わない人海戦術とでもいってよい大攻勢をかけてきたために、日本軍の戦死傷は急増した。ノモンハン事件全体における日本軍の犠牲は、大部分がこの時町の、わずか数日間の戦闘に集中しているといってよい。これは日本側かノモンハン事件に際して終始、不拡大方針を貫き、侵入してきた敵軍を追い払うことに主眼を置いて、現地に増援軍を派遣しなかったために生じた悲劇である。
 だか八月二十日以降のソ連側の犠牲も甚大で、ソ連の大軍はノモンハンの国境地帯で少数の日本軍に喰い止められ、突破することかできず、膠着状態になりた。ソ連軍の死傷者数は今後の資料公闘により、現在判明している分よりも、実数かさらに増人すると考えて間違いない。

 ことここにいたって、日本の大本営も事懲の深刻さを認直し、第二三師団を救うための増援軍派遣を決定し、日本軍一〇万の精強部隊かノモンハン付近に集結した。これを見てスターリンは恐怖に震え上がった。

わずか1個師団2万の軍隊が23万の大軍と対等以上に戦う、そこに10万の帝国陸軍の精強師団が投入されたら、どうなるか?ソ連軍は壊滅し外モンゴルを失いかねない。最悪の場合、ドイツと日本に挟み撃ちに合うとスターリンは恐怖した。
スターリンは、九月に入るやいなや、直ちにリッベントロップを通じてヒトラーに停戦の仲介を依頼した。その直前の八月二十三日に調印された独ソ不可侵篆約は、全世界を驚倒させた大ニュースであったか、これもノモンハン事作の処理に手を焼いたスターリンか、その早期解決を図るぺく、ドイツに急接近したと見るのか正しい。

 対ソ前面戦争を可能なかぎり回避する方針でいた日本政府は、ドイツの仲介を受け入れ、九月十五日に急遽、停戦が成立した。じつはソ連は八月下旬からすでに日本に停戦を申し入れていたのだが、日本から回答がないのを見て、焦慮のあまりついにドイツに泣きついたのである。日本が「恐ソ病」にかかりていたのは事実であるか、ソ連はそれ以上に「恐日病」にかかっていたのである。

ノモンハンがソ連側から休戦を申し込んだのは当然だ。


如何に日本兵が鬼神のように最強だったか、

世界最強だった日本陸軍からの引用でもう一つ

四名の日本兵が三〇〇名のソ連兵を追い立てた

 それではノモンハン事件の全戦闘を通じて、現場の兵士たちかどのように勇戦富闘したか、いくつか記録を紹介しよう。まずは、八月二十三日、梶川大隊の記録(前掲、小川洋太郎・田端元著書から)。

 「高山正次少尉が前戦(ホルステン左岸高地)の観測所に行くと、敵軍戦車侵入のためほとんどは死傷し、下士官ら三名が守っていた。夕方、三〇〇名の敵歩兵が手榴弾を投げながら稜線を駆け下りてきたので、先頭のソ連将校が壕の上に顔を出したときに拳銃で射殺してから、兵三名と突撃した。
兵はたちまち一〇名を刺殺し、被は切りまくり、敵は崩れて手榴弾を投げながら逃走した。これを追ったため、引き返せば手榴弾か爆発しているなかに入るので退れず、四名で三〇〇名をどこまでも追う形になり困ったが、稜線まで追いそこで引き返した。凹地に一二,三名の敵が潜んでいるのを見つけ、全員を片付けた」
日露戦争や、その後の日本陸軍の神がかった強さは世界中に知れ渡っていた。
銃剣術を主体とした日本陸軍の歩兵による白兵戦は天下無敵で、この点世界最強であった。このことはソ連兵も十分承知で、わずか四名の日本兵の振りかざす銃剣と日本刀に、三〇〇名のソ連兵が悲鳴を上げながら潰走していく姿はさぞや痛快であったろう

話が「大日本帝国の国家戦略」からそれてしまった。

この強い日本軍を作ったのは、アヘン戦争で英国に敗退し、列強に蹂躙された清国の惨状を見たことによる。

日本を列強の植民地にさせてはならない、幕府も佐幕派も倒幕派も思いは一つであった。日本が戊辰戦争が短期間で終結し、明治維新プロジェクトが成功したひけつであったと思う。

富国強兵プロジェクトは、いかに行われたか。



執筆中




















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バブルが崩壊する最中1991年に『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』を読んだ。勿論私の本棚の一冊である。

「失敗の本質」は、ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦と第二次世界大戦前後の日本の主要な失敗策を通じ帝国陸海軍の失敗の原因を追究すると同時に、大東亜戦争研究と組織論、日本論、社会学を組み合わせ名著であった。

大東亜戦争当時の帝国陸海軍が維新から日清日露戦争を戦った元勲たちがすべて引退し、試験で選抜されたエリート達が官僚化して組織として硬直化し、目的を遂行できなかったことを指摘した名著である。

最初に出版されたのはジャパンアズナンバーワンで日本的経営がもてはやされていた1984年、80年代の絶好調な日本企業に死角があるのではないかとということを見抜き当時の日本への警告の書でもあった。大東亜戦争における詳作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗ととらえ直し、これを現代の組織にとっての教訓、あるいは反面教師として活用することを狙った書であった。

この失敗の本質を読むと、帝国陸軍参謀本部と帝国海軍軍令部の無用な確執。
陸軍に利するくらいなら米国とも手を結びかねない海軍、陸軍もその逆、このような陸海軍バラバラな軍隊が挙国一致で連合国に勝てる戦も勝てるわけがなかった。
私は以来ずっと帝国陸海軍が駄目な組織であると思い込んでいたが、本書は、この「失敗の本質」とある意味で真逆な本である。「失敗の本質」は「自虐史観」の本ではなかったが、本書の指摘する明治維新の真の目的である白人の植民地主義からの日本を守り独立を保つという大日本帝国の国家戦略は貫徹できたと本書は指摘する。

本書は列強に囲まれるアジア地域で、なぜ日本だけが富国強兵を実現できたのかに焦点があてられている。明治維新の意義に始まり、鉄道や電信網の国産化、汚職の少なさ、地租改正による農業生産力の向上などアジアの盟主清との対比も興味深く、経済力の差を跳ね返し世界有数の軍事力を持つに至った経緯を理解できる。
大東亜戦争においては昭和19年7月までは開戦前の領土を失っておらず、最大の敗因はその後の落とし所のなさ、つまり外交で負けたとの指摘している。しかもポツダム宣言を受諾し、原爆を落とされたにもかかわらず、結果的にアジアの解放を成し遂げ、戦後復興した日本は結果として戦略目標を達成したと本書は指摘する。

大東亜戦争の原因として、憲法の欠陥や国民自身が戦争を望んだことにも言及され、軍部の暴走や非科学性、ファシズムなど、ステレオタイプで自虐的な東京裁判史観を超克する目から鱗の一冊である。また、「失敗の本質」でダメな組織の代表と私の頭に刷り込まれた、帝国陸海軍を改めて見直す(か、といっても、愚かな対米戦争を始めてしまった軍令部と参謀本部を絶賛するつもりはない)本であった。

  まえがき…………………………………………………………………2

第一章巨大プロジェクト「大日本帝国」        13

    1 【欧米の侵攻を食い止める、壮大な国家戦略】
      大日本帝国は国家プロジェクトだった……………………………14

     2 【中央集権体制の確立させた驚異の制度改革】
     明治維新最大の改革゛廃藩置県」………………………………19

     3 【「廃藩置県」と並ぶ明治新政府の大ファインプレー】
      日本経済を劇的に変えた「地租改正」……………………………23

    4 【国家戦略実現のため、武士が自らの特権を捨て去った】
       特権階級の犠牲で成り立った明治維新………………………28

    5 【最先端の知識や技術を導入し国家運営に役立てる】
       西洋の文化゜文明を貪欲に吸収した………………………………33

        6  【欧米以外では初の自国での鉄道建設】
      維新からわずか5年で鉄道を作った………………………………38

    7  【値下げ競争でアメリカ商船、イギリス商船に勝利】
       日本沿岸から外国商船を駆逐した………………………………45

    8  【アジアでいち早く電信網を整えた】
      通信先進国だった大日本帝国……………………………………48

    9【勉強ができれば身分を問わず出世ができた】
      富国強兵を実現した教育制度……………………………………53

第二章明治日本の領土攻防戦            57

     1 【アジアで唯一、列強から領土の侵攻を受けなかった国】
       明治日本はなぜ領土を守れたのか……………………………58

       2  【幕末にあった2度の対外戦争で見せた外交力】
       巧みな外交で領土を守った幕末の日本……………………61

     3  【大国が目をつけた小笠原諸島をすばやく領有した】
       イギリスから領土を奪った明治日本…………………………69

     4  【幕末から続くロシアとの領土問題】
      明治にもあった北方領土問題…………………………………74

     5  【領土に無頓着だった清、心を砕いた日本】
       尖閣諸島をすばやく領有した…………………………………77

     6  【日本と清、"二重属国"状態にあった琉球藩】
       沖縄もすばやく領土に組み込んだ……………………………81

     7 【近代化を拒み、頑なに鎖国をし続けた韓国】
       韓国はなぜ失敗したのか?……………………………………84

 第三章安くて強い軍をつくれ!           87

    1  【費用対効果が悪かった旧軍を解体した】
       明治維新は軍制改革だった……………………………………88

    2  【国民の税金も決して高くはなかった大日本帝国】
       少ない費用で軍を効率良く強化した……………………………96

    3  【日露戦争直後には、戦艦まで自国で生産していた】
      世界に並んだ軍艦製造技術……………………………………103

    4  【実は清に二度も敗北していた日本軍】
      大日本帝国を強くした二度の敗北………………………………109

    5  【鎮台から師団へと生まれ変わった陸軍】
      日清戦争が変えた大日本帝国軍………………………………114

    6  【日清戦争直後から軍の拡張に乗り出した大日本帝国】
      たった10年でロシアを倒す軍をつくる……………………………120

    7  【ロシア海軍を装備で圧倒していた日本海軍】
      科学力の勝利だった日本海海戦……………………………125


第四章本当はすごかった日本軍の科学力       131


    1  【実は世界の最先端を行っていた日本軍の兵器】
      日本軍は科学技術が強くした…………………………………132

    2  【いち早く「航空戦の時代」到来に気づいていた日本軍】
      世界に先駆けて空母を実戦投入した…………………………135

    3  【世界的な名機、ゼロ戦はなぜ強かったのか?】
      航空技術の粋が結集されたゼロ戦……………………………142

    4  【連合国を驚かせだのはゼロ戦だけではなかった】
      他にもあった優れた航空兵器…………………………………149

    5  【誘導ミサイルの研究まで進めていた】
      ロケット技術も世界最高レベルたった…………………………155
    6  【欧米の先進国をもしのぐ、圧倒的な性能】
      世界一の魚雷を開発した………………………………………159

    7  【太平洋戦争では自動車を使った快速部隊が活躍】
      実は自動車大国だった大日本帝国……………………………162

    8  【兵隊の食料、携行食゜にも科学の力が生かされていた】
      世界に先駆けていた日本車の携行食…………………………166

       9  【マイクロ波を使った秘密兵器まで研究されていた
】                 幻に終わった日本軍の超科学兵器……………………………171

第五章実はボロ負けではなかった太平洋戦争     177

     1  【難航不落の真珠湾を創意工夫で攻略】
       真珠湾攻撃で大戦果をあげた一番の理由……………………178

    2  【戦史に残る大勝利だったフィリピンの戦い】
      史上初めてアメリカ軍を降伏させた……………………………183

    3  【アメリカ本土を潜水艦と水上機で攻撃】
      史上唯一、アメリカ本土を空襲した……………………………187

    4  【イギリス軍が誇る東洋艦隊を壊滅させた日本軍】
      イギリス艦隊を太平洋から駆逐する…………………………191

    5  【歴史に残る電撃作戦で。世界最強の国ヽを追いつめる】
      イギリス軍を近代で初めて降伏させる………………………195

    6 【ベトナム戦争にも引き継がれた日本軍の戦法】
      ゲリラ戦法でアメリカ軍を苦しめる……………………………200

    7 【謎のベールに包まれた陸軍のスパイ養成機関】
      陸軍中野学校とは何だったのか?……………………………206

第八章なぜプロジェクトは失敗したか?       213

    1 【陸海軍の作戦計画はすべて実現していた日本軍】
      太平洋戦争の目標は達成していた…………………………214

    2  【大日本帝国のアキレス腱は、諜報”だった】
      情報戦に敗れた大日本帝国……………………………………219

    3  【日米開戦を食い止める力が政府首脳になかった】
      外交能力の欠如が敗戦を招いた………………………………225

    4  【責任の所在が明らかでないという歪な権力構造】
      大日本帝国憲法が国の迷走を招いた…………………………229

    5  【電撃戦だけでは通用しなかった太平洋戦争】
       日本車は総力戦の意味を知らなかった…………………………233

    6  【潜水艦での戦艦攻撃に固執したのは失敗だった】
       潜水艦の運用で後れをとった日本車……………………………238

    7  【自国で開発した技術を見逃していた日本軍】
       優れたレーダー技術を生かせなかった…………………………242

    8  【暴走する軍部を後押しする国民】
       国民自身が戦争を欲していた……………………………………245

あとがき……………………………………………………………………250

主要参考文献………………………………………………………………253   
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第五章実はボロ負けではなかった太平洋戦争において、昭和19年4月から9月に行われた大陸打通作戦についても述べるべきと思った。太平洋戦線で次々と玉砕を重ねていた昭和19年日本軍は大陸で北支那方面軍司令官岡村寧次陸軍大将旗下、連合国一角中国国民党軍を徹底的に撃破し、大陸を南北に掌握した。
枢軸側でイタリアが脱落し、ノルマンディに上陸されたドイツも東西戦線とも撤退につぐ撤退をかさねるなか、大東亜戦争の中国戦線において、日本軍は投入総兵力50万人、作戦距離2400kmに及ぶ大規模な攻勢作戦で、計画通り中国大陸の北京から広州に至る南北の大規模な地域の占領に成功して日本軍が勝利した。
昭和18年(1943年)11月のカイロ会談に呼ばれた蒋介石が、大陸打通作戦で国民党軍が壊滅的な打撃を被り、圧倒的に戦局が不利となった蒋介石率いる国民党政権は連合国の中でも発言力が小さくなり、昭和20年(1945年)2月のヤルタ会談に招待されなかったことを本書は書くべきであったろう。

『短期間でアジア最強になった 大日本帝国の国家戦略』武田知弘著【産経ニュース】2013.6.1 08:03

■無駄なくし安く早く近代化

 暗黒の時代、軍国主義の時代、戦争で多くの国民が犠牲になった時代…。大日本帝国は負の歴史として語られることが多い。しかし、その歴史をつぶさに見ると、大日本帝国は必ずしも負の側面ばかりでないことに気づかされる。

 大日本帝国が生まれた19世紀後半のアジアは、欧米列強による植民地獲得競争の渦中にあった。アジアの国々は強大な軍事力を持つ欧米列強に次々とのみ込まれていった。しかし、日本は違った。わずかな間に強力な軍隊を築き上げ、アジアで唯一、欧米に対抗し得る国になったのだ。なぜ日本だけが躍進を遂げることができたのか。著者は、その理由が「大日本帝国の優れた国家戦略にあった」と説く。

 戦前の日本は経済力という重いハンディを背負っていた。欧米の先進国に比べれば、国家の運営費や軍事費もはるかに規模が小さかった。その限られた資金を、どのように使えば最大限の効果を発揮できるのか。徹底的に無駄を排除し、できるだけ安く、早く資金を投入する。その戦略のもと、国家が一丸となって近代化に取り組んだからこそ、大日本帝国はアジア随一の強国になれたのだ。

 大日本帝国の歴史にはたしかに負の側面がある。しかし、その国家の運営手法は現代から見ても学ぶべき点は多い、と著者は語る。昨今、近隣諸国との関係悪化で自国の歴史を見なおそうとする動きが高まっている。戦前の日本が目指した国家像はどのようなものだったのか。いまだからこそ読んでほしい一冊だ。(彩図社・1365円)

 彩図社編集部 権田一馬


『教科書には載っていない大日本帝国の真実』著者 武田知弘氏インタビュー

【武田知弘氏インタビュー】大日本帝国の経済成長の裏には何があったのか?
                                                  日本が転換期を迎えている中、歴史から成功した点や反省点を探り出すことは重要だ。武田知弘氏は、『教科書には載っていない大日本帝国の真実』(彩図社)で多くのイメージに覆われた大日本帝国の実態について光をあてた。その狙いや今の日本がそこから何を学ぶべきか、著者にお話を伺った。

知っているようで知らない、大日本帝国の社会、政治、経済

――本書は大日本帝国の知られざる側面について多くの指摘を行っていますが、まずどうしてこのテーマにご関心をお持ちになったのでしょうか?

 武田知弘氏(以下、武田氏)■大日本帝国というと、言論の自由もなく、貧しい「暗黒時代」というイメージを持っている方が多いようです。しかし、日本は敗戦によってまったく別の国に生まれ変わったわけではありません。国名は変わっても、同じ国民が形成している国であり、良かれ悪かれそれまでの歴史を引き継いでいるわけです。

 戦後は、アジア諸国に対する配慮などもあり、「戦前と戦後はまったく別の国ですよ」といったポーズをとる必要があったのかもしれません。しかし、アジア諸国との関係も大きく変わり、もうそのようなまやかしをしなければならないような時代ではありません。戦後60年以上が経過し、戦前の生々しい記憶というものは、消えようとしています。逆に言えば、戦前のことを冷静に考えられる時期がようやく来たともいえるのです。

 こういう時期だからこそ、大日本帝国を客観的に分析する必要があるのではないか、と思います。過去の事を「良い時代だった」「悪い時代だった」というような単純な二元論で分析しても、我々は何も学べないと思うのです。

 大日本帝国というのは、最終的には第二次大戦で焼け野原になって降伏するという不幸な出来事とともに終焉したわけです。その不幸な出来事はなぜ起きたのか? そこに至るまでの過程を淡々と追っていかなければ、我々はそこから何も学ぶことはできない、と考えます。そういった文脈で、大日本帝国の興亡を、イデオロギー論議を排して淡々と客観的に追っていくということに非常に関心がありました。

――明治維新について“「政権を自ら返す」という奇妙な革命”と書かれています。この一風変わった革命が生じた背景をお教えいただけますか。

 武田氏■明治維新は、世界史的に見ても非常に珍しい“革命”です。政権を持っていた者が自ら政権を返還するということは、世界史を眺めてみてもほとんど例がありません。これは、実に日本的な現象であり日本人だからこそできたものだったように思われます。日本人は、どの時代を見ても、生きるか死ぬかの血みどろの戦いをし、最後まで殺し合って勝者を決めることを好みません。ある程度の形勢が判明したところで歩み寄り、話し合いで解決する、という傾向があります。それは日本中が戦いに明け暮れていた戦国時代でもそうです。

 日本人は、根の部分で「和」を重んじる性質を持っていると思われます。それが明治維新を成功させた要因であり、ひいては日本が欧米列強から侵略されなかった最大の要因といえると思います。幕末の知識階級は、欧米列強がアジアを侵攻していることを知っており、危機感を持っていました。そして「今は国内で争っている場合ではない」「日本人は団結するべき」と思っていました。それは、幕府側も、薩長や尊王攘夷派の面々も同じです。つまり、敵味方ともに、大枠では同じ方向を向いていたのです。だから、大した内戦もなく、長く続いた封建制度を解消し、強力な統一国家を作れたのです。

 これが、他のアジア諸国と大きく違うところです。他のアジア諸国のほとんどは、欧米が乗り込んで来たとき、国内が動揺し群雄割拠や、内戦状態に陥ってしまいました。欧米諸国は、そこに付け込んで侵略していったのです。

――現在も北方領土問題などが懸案として存在している日露関係ですが、両国の領土問題はそれこそ江戸時代から起き続けている、と本書では指摘されています。両国が激突した日露戦争は、大日本帝国にとってどのようなインパクトを与えたのでしょう?

 武田氏■日露戦争は、ロシアとの国境問題を日本に非常に有利な状況で解決するとともに、日本人に大きな自信を与えました。が、日露戦争というのは、当時の指導層が知恵をふり絞り、死力を尽くして、なんとか勝てたもので、当時の日本にしてみれば、ちょっと出来過ぎの感がありました。それが、過信につながっていったと思われます。

 大日本帝国が、満州事変以降の泥沼の戦争に突き進み、あげくアメリカとまで戦ったのは、「我々はロシアに勝てたのだから」という意識があったからだと思われます。また日露関係の問題は、日露戦争でまったく解決したわけではありません。陸軍にとって、最大の仮想帝国はその後もロシア(ソ連)であり続けましたし、太平洋戦争前にもノモンハンでの武力衝突などもありました。

 日露の国境問題は、第二次世界大戦の終結でも、完全に解消されたわけではなく、ご存じのように現在も続いているものです。ロシアという国は、巨大でありながら、国土の多くが極寒の地であり南下しようとする本能のようなものがあります。日本は、そういう国と隣り合わせているのです。日本はロシアのそういう性質をしっかり見極めた上で、付き合っていかなければならないということです。


現代日本と大日本帝国の政治システム

――武田さんは本書で大日本帝国の凄まじい経済成長率についても触れておられます。鎖国していた江戸時代から急激な成長ができた理由について教えてください。

 武田氏■大日本帝国の急激な経済成長は、単に政府が「富国強兵政策」を実施したから成し遂げられたということではありません。あまり知られていませんが、日本は江戸時代からすでに世界レベルに達している産業をいくつか持っていました。その1つが生糸です。

 生糸の生産技術は、ヨーロッパなどと比較しても高度なものを持っていました。江戸時代以前、日本は生糸の輸入国でしたが、江戸時代に鎖国をしたことで、生糸があまり輸入できなくなり、自国で生糸を生産する技術が非常に発達したのです。日本の生糸の技術がどれくらい高かったか、興味深いエピソードがあります。それは、江戸時代の日本の生糸の技術書が、欧米で翻訳されていたのです。そのため幕末の日本は、開国すると同時に生糸の大量輸出を始めたのです。それが、日本の近代化の原資となり、さらなる経済成長の誘い水となったわけです。

 また、教育を素早く充実させたことも、大日本帝国の素早い経済成長の大きな要因となっていますが、教育も実は江戸時代の段階でかなり整備されていました。武士のみならず、町民や農民たちも、寺子屋という私塾で教育を受けていました。明治初期の小学校の多くは、元寺子屋だった寺社などの施設が代用されていました。日本人が勤勉で教育熱心だったのは、江戸時代以前からのことであり、その国民性が大日本帝国の経済成長を支えていたと考えられます。

――また、大日本帝国の政治については、悪い点が多いことを指摘され、かなり厳しく評価されています。改めて政治の失敗が起きた背景などをお話しいただけますか。

 武田氏■大日本帝国というと、現代の我々は天皇中心の上意下達型の専制政治を想像しがちですが、実像はそのまったく逆です。大日本帝国では、最終的には普通選挙も実施されており、形の上では、民主主義国家の体を持っていたのです。そして権力があちこちに分散されていて、責任の所在がまったくわからない状態だったのです。

 内閣総理大臣の権限も今よりもはるかに小さく、かといって帝国議会が強いかと言えばそうでもありません。枢密院、元老院などの機関が乱立していて、それぞれが好き勝手に主張し合っている状態だったのです。明治維新の元勲が生きている間は、それぞれの意見をうまく調整して、国家を動かしていくということが可能でした。が、元勲たちが死んでしまった後は、国の機構はまったく統一感を失ってしまいました。

 現在の日本も首相がころころ変わるので、政治が安定しないと言われていますが、戦前はもっと首相が頻繁に変わっていたのです。関東大震災や世界大恐慌などでも、政府はなかなか有効な政策を打ち出せない、そこに国民の不満が溜まって軍部が台頭していったのです。

 大日本帝国の政治システムは、明治維新当時、国を素早くまとめるために付け焼刃で作られたものです。しかし、その後の指導者たちは、不完全な政治システムをきちんと整えるという作業をしないまま来てしまった。その付けが、昭和に入って大きな災いを引き起こしたといえるのではないでしょうか。

――いま、大日本帝国の歴史を振り返ることで、現代においてどのような知見が得られるとお考えですか? また本書のほかに関連書籍としてお薦めできる本などもあればお教えください。

 武田氏■大日本帝国は、短い期間に非常に大きな規模での「興廃」をしています。その歴史には、現代の我々に対する教訓が詰まっていると思われます。大日本帝国は、客観的に見れば、稀に見るほどの急成長を遂げた国です。その背景を丹念に追求することで、「国家を成長させる」ということについて、たくさん得られるものがあると思われます。

 また、現在の日本は、太平洋戦争前の大日本帝国と似ている部分が非常に多いと思われます。巨大地震で国が大きなダメージを受け、世界的な経済不安も起きています。これは関東大震災から世界大恐慌までの状況と非常に似ていると言えます。大日本帝国は、当時の国の危機にどう対処したのか? その結果どうなったのか? そのことを知ることで、今、我々がしなければならないことが、見えてくるのではないでしょうか?

 大日本帝国の実情を知ろうとするとき、壁になるのがイデオロギーの問題です。大日本帝国を論じた書物の多くは、天皇制や全体主義を批判するものであったり、逆に擁護するものであったり、とかくイデオロギー論に傾きがちです。そして、イデオロギーが主体の本では、実際の国民の生活や社会の様子が、具体的、客観的に語られることがあまりありません。私は大日本帝国の実情を知るためには、イデオロギーよりも、実際に国民はどういう生活をし、社会はどういうふうに動いていたのか、ということの方が重要な情報だと思います。

 が、残念ながら、大日本帝国の実情を客観的、具体的に書いた書物は、専門書以外では非常に少ないのです。そんな中でお勧めできるのは、伊藤隆監修・百瀬孝著『事典 昭和戦前期の日本』(吉川弘文館)という本です。戦前期の日本の社会制度全般を具体的に知ることのできる数少ない本だといえます。


●武田知弘(たけだ・ともひろ)
1967年福岡県出身。西南学院大学経済学部中退。1991年大蔵省入省。バブル崩壊前後の日本経済の現場をつぶさに見て回る。1998年から執筆活動を開始。1999年大蔵省退官、出版社勤務を経てライターとなる。
主な著書に『ヒトラーの経済政策』(祥伝社新書)、『戦前の日本』(彩図社)、『ワケありな日本経済』(ビジネス社)、『織田信長のマネー革命』(ソフトバンク新書)などがある。
ブログ:武田知弘ブログ




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第4章においてGDP600兆円という目標は正しいのかと著者はアベノミクスを批判をしていないが評価していない。

いまの日本の経済は、少子高齢化の人口動態の実勢をみればアベノミクスが掲げる二%成長するのはとてっもなく難しい。そもそもGDPは人口動態に大きく左右される指標である。

アベノミクスのもう一つの難点は1200兆円の借金を財政再建しようということだ。
1200兆円の借金を年間6兆赤字を減らしても焼け石に水である。

ここからはDdogの意見であって本書とは異なる。これから人口が減る時期に借金を返そうとするということは、無駄な努力で国民を不幸にするだけで意味が無い。
人口動態が増加に向かうようになってから、はじめて財政再建にとりかかるべきだと思う。

新規政府投資を例えば3人目の新生児を産んだ夫婦に1000万円を与えるなど、教育投資にもっと補助金を出すべきだ。小泉の例えた米百俵ではないが、社会人にも学習機会を与え日本の知的レベルをさらに上げ科学技術水準を引き上げ、人口動態が増加に向かうようになってから、はじめて財政再建にとりかかるべきだと思う。

GDP六〇〇兆円は見事なキャッチフレーズ
これまでGDPに入れたなかった研究開発費を加えることができる。
P158-159
 どこの国もこれで、研究開発支出分だけGDPが大きくなる。アメリカやフランスはすでに、この改訂したベースで新GDPの数字を発表し、その際、過去に遡って統計を改訂している。
 日本のGDP統計が新しいベースに改訂されるのは二〇一六年七~九月の確報発表からだが、その時点でGDPの金額に研究開発支出が上乗せされる。改計時のGDP上乗せ分は、約三%という報道がある。

 だがそれ以外に、政府は政府投資による研究開発費を増やし、官民合わせた国全体の研究開発支出のGDP比を四%に引き上げることを決めている。これは安倍政権のGDP目標達成にとっては、好都合な統計改訂と政府支出増加といえるだろう。

 日本の研究開発支出は、二〇一一年にGDP比三・六七%たった。研究開発の大部分は民間企業が行なっているので、研究開発投資総額に占める政府による投資の比率は二割(二九・五%)。政府による研究開発投資額の対GDP比率は〇・七三%に過ぎなかった。政府は二〇一六年以降、政府による研究開発投資を増やし、政府による研究開発投資のGDP比を1%に引き上げることを決めた。

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 日本の研究開発支出は、二〇一五年時点では官民八日わせて約一一〇兆円、GDPの約四%だ。アペノミクスニ期目の出発点である二〇一五年の名目GDPは、統計改訂後、五二〇兆円になる。五二〇兆円を毎年三%成長させていくと、図表4-4の右側の数字のように、二〇二〇年にはGDPが五九九兆七〇〇〇億円で、安倍首相が唱える六〇〇兆円とほぼ同じになる。

 しかし、計算上はそうみえても、五二〇兆円を五年間で六〇〇兆円に増やすのは依然として、至難の業だ。五年間で八〇兆円増額することが必要になるが、それには毎年、平均してGDPを一六兆円増やさなければならない。IMFの推計では〇・五九%しか成長しなかった二〇一五年中のGDP増加額は、コー兆二〇〇〇億円たった。先に述べたように、日本の潜在成長率は〇・五%程度という見方をする経済学者が多い。二〇一五年の〇・五九%成長は、日本経済の実勢をほぼ反映する数字であり、二〇一五年だけがとくに不況で成長率が低かったわけでもない。

 もともと達成できるはずがなかった成長率目標をやめ、六〇〇兆円という切りのいい数字に切り替えたのは、見事なキャッチフレーズづくりといえるだろう。しかし安倍首相が「強い経済」の象徴として重視する六〇〇兆円経済の実現がほんとうにできるかといえば、困難といわざるをえないのだ。

安倍晋三首相がアベノミクス「新3本の矢」の目標の一つに「国内総生産(GDP)600兆円」を掲げた。2020年ごろまでに今から100兆円も上積みできるとの意気込みに、懐疑的な声も出たが、意外と実現は遠くないかもしれない。からくりは内閣府が16年末に予定するGDPの推計方法の見直しだ。                 
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経済規模を示すGDPは国連の「国民経済計算(SNA)」を基準に推計する。国連は08年、その基準を見直した。すでに米国、欧州連合(EU)、オーストラリアなどは新基準に移行した。

 13年に新基準に対応した米国では、02~12年のGDPが3.0~3.6%増えた。日本も新基準の導入で「3%半ば前後」(内閣府)のGDPの増加が見込める。15年度の名目GDPの見込みは現行基準で504兆円。新基準では約20兆円かさ上げされる可能性がある。

 GDPの押し上げに影響が大きいのは研究開発費の算入だ。現在は付加価値を生まない「経費」として扱い、GDPの計算時には除外してきた。

 例えば自動車メーカーが国内で生産・販売したハイブリッド車は最終製品としてGDPに含めるが、車に搭載する小型エンジンの開発費はGDPから除いてきた。新基準では付加価値を生む「投資」と見なし、GDPに加算する。

 「名目3%で成長していけば十分到達可能だ」。安倍首相は9月末にこう語った。確かに新基準を使えば目標への道筋は見えやすくなる。

 内閣府によると、現行基準なら3%の名目成長率が続いても名目GDPが600兆円を超すのは21年度(616兆円)。新基準で15年度のGDPを20兆円上積みすれば、20年度に615兆円を上回る。GDPの水準は基礎統計の精度にも左右される。麻生太郎財務相は16日の経済財政諮問会議で一部指標は調査サンプルの偏りで実態以上に悪いと指摘し、基礎統計の精度向上を提案した。

 GDPのかさ上げは政府の財政健全化計画にも影響する。財政赤字の額が同じでもGDPに対する比率は下がるからだ。

 政策経費を税収でまかなえるかを示す国と地方の基礎的財政収支は15年度にGDP比3%の赤字を見込む。政府はこれを18年度に1%に縮める方針だ。新基準で名目3%の成長が続く前提で試算すると、18年度の赤字比率は1.6%と現行基準より0.1ポイント下がる。

 手品のような話だが、これで目標達成と安心するのは早い。前提となる名目3%成長の想定は非現実的だとの批判がエコノミストに多い。日銀によると日本の潜在成長率は0%台前半から半ば。BNPパリバ証券の河野龍太郎氏は「労働力不足を補う移民受け入れ拡大など抜本的な成長戦略がないと高成長は実現しない」と見る。

 成長が加速しなければ、税収の大きな伸びも見込めない。第一生命経済研究所の星野卓也氏は「新基準に切り替えても、20年度までに基礎的財政収支を黒字にする最終目標の達成はなお遠い」と指摘。「歳出削減が不可欠なことは変わらない」と強調する。(川手伊織、藤川衛)


私は安倍政権は民主党政権よりはるかに頑張っていると思う。
例えば政府が行っている出生率の引き上げ政策である。子育て支援と教育再生は機能している、出生率は、2015年は1.46に上昇した。 
p162 
子育て支援策は、結婚・出産・子育ての各段階に応じて切れ目のない総合的な支援を行なうことになっており、幼児教育無償化拡大、一人親家庭の支援などとともに、三世代同居・近居の促進」という政策が掲げられている。

祖父母が近くに住んでいて、就学中の孫の面倒をみてくれれば、若夫婦はより長い時間を就労に割けるので、子育てと就労がしやすくなる。それが出生率向上につながる、という考え方だ。

 教育再生策については、奨学金拡充などで、家庭の経済事情が苦しくても希望する教育を受けられるようにすることを主眼にしている。

 こうした政策はそれなりの成果を上げると思われるが、安倍内閣の政策は出生率引き上げに必要な、重要な二つのポイントを見逃しているように思われる。それは広い住居の提供公的教育の拡充である。
我が家は、子供は一人である、SAPIXに通わせ、中学からは大学までエスカレーターで行ける女子高だ。だが年間授業料100万円その他に通学や修学旅行だなんだかんだで、とても二人子供がいたら同じことをしてあげられない。

授業料がタダの公立高校から東大にでも入ってくれれば親孝行なのだが、私の血を引く娘に高望みはできない。(笑)


執筆中

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日本は、GNPの3位ではるが日本が不幸だと肯定したがる人達がいる。ロハス系の人たちに多いのだが、そこで使われる根拠が世界幸福度ランキングである。
世界幸福度ランキング2015では53位だった。下のグラフでは一番下。

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確かに日本は世界一幸せとは言わないが、いくらなんでも53位だというこの世界ランキングも疑問に思う。

私以外にも当然幸福度ランキングを疑問に思う人もいる。
国連版「幸福度」は、「キャントリルの梯子の質問(the Cantril ladder question)」によって回答者の「主観的幸福度(subjective happiness)」を測定し、国ごとにその平均を算出したものです。また、「キャントリルの梯子の質問」は、「ありうる最悪の人生」を梯子の0段目、「ありうる最高の人生」を梯子の10段目としたときに、「現在」自分が何段目にいるのかを回答してもらうための質問なのです。

国連版「幸福度」が複数のパラメーターから算出されているものと勘違いしてしまう人が多いのは、報告書の中で、(1)経済水準(一人当たりGDP)、(2)社会的支援、(3)健康寿命、(4)人生選択の自由、(5)寛容さ、(6)腐敗認知度の6つのパラメーターを説明変数として回帰分析を行っているためでしょう。

6つのパラメーターから「幸福度」を算出したのではなく、アンケート結果から各国の「幸福度」を算出した上で、6つのパラメーターを説明変数として用いた数式によって、その「幸福度」をどうにか推計しようとしたわけです。

また、報告書では、「キャントリルの梯子の質問」に対する回答の標準偏差を「幸福度の平等さ」と定義し、比較しています。標準偏差は、データの散らばりを表す統計指標です。

そのパラメーターを調べていくと、国際統計格付センターの資料で、日本のどこが悪いのか分析した表がある。

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この表を見て思うのだが、日本は確かに老人が多い。その為に幸福度ランキングの足を引っ張っているようだ。老人が多いことがそんなに不幸なのか?交通事故に占める自転車の割合が多いことが不幸なのか・・・・自転車が単に世界的に見ても最も普及しているから多くなるのは必然だが、自転車が多いことは不幸なのか?
日本は幸せではない叫ぶ人たちが使う、世界幸福度ランキングは、けっして客観的な指標でもないことがわかる。

真面目な日本人は悲観的に考えやすく、危機感をバネに国を発展させてきた国であるので、自己採点で幸せか否かをヒアリングで順位づけすれば、世界幸福度ランキングの下位に低迷するのは当然の結果なのかもしれない。

そこで、超GDP指標も一つの物差しに使ってみるのも悪くない。


超GDPの指標とは?
P50-51
 GDPによる生産高の統計よりも、個人の暮らしを強調すべきである、「暮らしの質」の計測は伝統的なGDP計算に取って代わるものではなく、政策討論を豊かにするために行なうべきもの、などだ。

 また「暮らしの質」を測る単一の指数をつくることにも『スティグリッツ報告』は否定的である。「暮らしの質」に関する諸指標はそれぞれ別の分野を対象にしているので、GDP統計のように金額の合計を出して、一つの数字指標にすることなど不可能だからだ。
 では、そこで述べられた「暮らしの質」とはいったい何か。それは、

 ①個人的な満足度 主観的な「暮らしの質」
 ②人が果している諸機能と、諸機能を果たせる能力(客観的な「暮らしの質」)
 ③経済的な幸福度の公正な割り当て(fair allocation)


 という三つの分野で計測される。①の個人的な満足度は、文字通り、個人の感じ方に属する部分が多い。人によって何に幸福を感じるかは異なるので、このテーマに『スティグリッツ報告』は深入りしていない。「さらに統計資料の整備が望まれる」と述べるに留めている。
一方、②の客観的な「暮らしの質」の分析には最も力を入れ、それを八分野に分けて論じている。以下、それぞれの分野について、順を追ってみていこう。
  客観的な「暮らしの質」を八分野に分けて論じる
「暮らしの質」8分野
 1. 健康 健康の重要な指標は、平均寿命と罹病率である。
 2. 教育 教育がもたらす利益は多様で大きい
 3..個人的諸活動 ①賃金労働の時間と質、②無報酬の家庭内労働、③通勤時    間、④余暇時間、⑤住宅状況、の五つの分野である。
 4.政治への発言と統治
  GDPの成長率だけは高くても、言論・結社の自由がなく、ウェブでのデー・夕検   索さえ制限している国があることを念頭に置きながらこの報告を書いている。
  たとえば2015年7月、中国政府は人権派弁護士や活動家を100人超、いっせい   に拘束した。その年の九月に予定されていた習近平国家主席の訪米に備え、   アメリカを刺激するような言動をしかねない人物を捕らえ、おとなしくさせておく   ためだったと報道されている。
  こうした人権蹂躙事件はGDP統計には表れないが、国民の幸福度を大きく減   退させる。
 5. 社会的なつながり  ①主として国民の知的水準向上、②属する集団内の信   頼関係の高まり、この二要因で生じる経済発展を、経済学では「全要素生産性   の向上」と呼ぶ。
 6. 環境条件
 7. 個人の身の安全
  福利厚生増大のためにはヽまず個人の安全を確保することが重要な政策課題  だ。
 8. 経済的な不安定
  失業するという恐れもまた「慕らしの質」を低下させる重要な要素となる。
 
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 新統計が教えてくれる日本経済の凄まじい実力
p65-71
 ここからは具体的な新統計の四資本の中身と、その指標を当てはめたときにみえてくる日本のほんとうの実力を紹介していこう。ちなみにこの新統計は、生産高合計を計算する古いGDP統計とはいちおう別のものだが、図表2-2のように、四資本のうち、生産した資本と天然資本が生産活動に直接関わっているので、図の右半分にあるGDPの世界とも、矢印のようにつながっている。

 ①人的資本

 人が生産活動に従事するためには、その人が与えられた課題を理解し、それに基づいて必要な肉体労働や頭脳労働ができる能力を備えていることが前提になる。こうした能力は幼少時から大人になるまでに行なわれた、人的資本への投資の成果である。

 経済活動は、ただ労働者の数だけ集めればできるというものではない。
 長年、政府や家族、あるいは本人による人的資本への投資が行なわれた結果として、一人の労働力が成り立っているのだ。人的資本への投資が経済活動の出発点である。そして、人的資本への投資の最たるものが、『スティグリッツ報告』でも強調された「教育」だ。

 ダスグプターチームは、教育年数と教育を受けた人の数、並びに卒業後、就労しながら受けた訓練年数に基づいて、この人的資本を算出している。一国の人的資本残高を式で示すと、以下のようになる。

 人的資本=(教育年数十訓練年数)×教育を受けた人の数×平均賃金の現在価値

 日本の高校卒業率は九〇%を超えており、大学、短大、高専などの卒業率は合計五六%である。 

一方、EUは二〇一一〇年までに大卒率をいまの三〇%から四〇%に引き上げることを、成長率に代わる目標としている。アメリカの大学進学率は五一%だが、大学人学者のなかで卒業できた大の比率は五三%だから、正式な四年大卒率は二七%ほどだ。アメリカの大学は一年間に取得すべき単位がとれていないと留年はなく、ただちにその年で退学となる。このため、入学者の半分くらいしか卒業できない。

 国連新統計で日本の一人当たり人的資本は三コー四億ドルと、二位のアメリカ(二九一四億ドル)より約四%高い水準で、世界一位である。学力の実態はともかく(この点については第5章で論じよう)、修学年数でみるかぎり、日本の教育水準は高いといえるだろう。

 ②生産した資本

 人的資本投資の結果、成立した労働力が生産設備を使って生産活動を行なう。この生産設備も、これまでに行なわれた設備に対する投資の成果であり、国連新統計でいう「生産した資本」の残存額である。これまでに生産された資本の残存高が大きく、その質が高いと、労働者(人的資本の体現者)は、大量に高品質の生産を行なうことができる。

 日本企業は一九五七年以来、五十年近くにわたってGDP比約一五%という、先進国では最も高い水準の設備投資を続けてきた。政府もかなり最近までGDP比七%という高水準の公共事業を行なってきた。生産した資本(企業設備や道路港湾などの資本設備)の残存価格が、国連の新統計では、一人当たり一一八二ドルと世界最高の水準を示しているのも頷ずける。

 ③社会関係資本

 社会関係資本は、先にも述べた「ソーシヤル・キャピタル」と呼ばれる資本である。それは人と人とのつながりであり、信頼関係である。

 天涯孤独、誰ともつながりをもたないで、社会に有益な仕事をしている人などいない。人となんらかのつながりがあって初めて、人間は働くことに目標をもち、仕事にやりがいを見出せる。社会関係資本の最小単位はもちろん、家族である。家族の信頼と愛情のもとで人は生まれ、成長し、労働力として形成される。家族の次に学校、職場、あるいは所属する非営利組織、趣味の団体、町内会、宗教団体などが、人を支える社会関係資本である。

 『スティグリッツ報告』ではこれをつながり(コネクテッドネス)と呼んで重視している。

人と人とのつながりが強いか弱いかは個人の生産性を左右するし、治安や社会の安定性とも関連する。したがって、国全体の生産活動を良好な状態で維持するためには、社会関係資本を高くし、高水準を維持していyくことが不可欠になる。

 そうはいっても、社会関係資本を数値化する標準的な統計はまだできていない。カナダやイギリスなど、国勢調査の際に国民のあいだの信頼度や主観的な幸福度を聞くことから始めている国もある。先にも述べたように、四資本のうち、これは国連のレポートに数値として反映されていない唯一の資本である。

 ④天然資本

 日本では天然資本というよりも天然資源という言葉がよく使われる。天然資源も天然資本も基本的には同じものだが、国連新統計は四資本が経済を発展させていると考え、他の三資本(人的資本=ヒューマン・キャピタル、生産した資本=プロデュースド・キャピタル、社会関係資本~ソーシャル・キャピタル)と同様、天然資本(ナチュラル・キャピタル)という言葉を使っている。このため、日本語では馴染みが薄いが、本書では天然資本という言葉を使おう。

 日本で天然資本というと、石油や鉄鉱石などの地下資源を思い浮かべる人が多いだろう。

国連新統計では、それらの資源のほかに、生産に役立つように人が手を加えた自然も「天然資本」として扱っている。したがって、水田、牧草地、将来木材として出荷することを目標に植林した森林なども天然資本に入る。

 このため、日本の天然資本総額は、一九九〇年の五五一六億ドルから二〇〇八年には六一七四億六三〇〇万ドルと増加している。二〇〇八年における日本の天然資本総額が、サウジアラビアの二兆七〇〇五億ドル、あるいはロシアの六兆八五六五億ドルよりはるかに少ないことは事実だが、植林や農地造成を行なっているので、日本の天然資本総額が減少しつづけているわけではない。天然資本総額が増えることは、将来の経済発展の持続力が高まることを意味している。

 逆に、もっている天然資本の水準は高いものの、石油や天然ガスを掘って、減少した天然資本の補填をしていないベネズエラ、クウェートなどの国々は、毎年、経済発展の持続可能度を弱める経済活動をしていることになる。日本を含むほとんどの先進国は熱心に植林をしているので、森林資源が増え、天然資本の残高が増加中だ。その意味では日本は、ただ資源がないだけの「もたざる国」ではなく、発展の持続可能度を毎年高めている国といえるだろう。

 国連の委託を受けたダスグプタ・チームは以上のような概念で統計を作成し、一人当たりの総合的な豊かさを国ごとに計算し、一人当たりの総合的な豊かさの順位づけを行なった(図表2-3)。この数字は一人当たりの数字なので、前章で挙げたGDPによる国別ランキングと比較すると、その違いが如実に理解できるだろう。
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 ドライスデール教授が驚愕した日本の「社会関係資本」
p76-82
 こうした国連新統計の特殊な性格によって、二〇一四年版では日本の持続可能な発展力が低めに出てしまった。同時に、日本で起きている変化が、日本の人的資本残高に対する低評価を招いている側面もある。

 日本では、就業者数が一九九七年の六五五七万人をピークに減少傾向にある。さらに驚くべきことに、賃金もこの二十年間で、増えるどころか、一%減っているのだ。要するに、長期のデフレで賃金が低下し、人口が減っている日本の人的資本力の伸びは低く計算されるしかない。高水準だった人的資本の残高を食いつぶして経済活動を維持している日本の姿が、二〇一四年の新統計には表れた。数字を挙げれば、日本の場合、先の①(教育年数の伸び率)は、二十年間で一五%、②(平均教育水準に達した人数の伸び率)は、同期間で七%、③二人の労働者が生涯を通じて受け取る賃金の現在価値)は、マイナス一〇%であった。

 しかし、これだけで「日本はダメだ」と悲観してしまうのは大間違いである。日本の一人当たりの総合的な豊かさ(三資本の資産残高)はこの二十年間(一九九〇~二○一〇年)で確実に伸びている。金額では、三六一二億三四〇〇万ドルが四三二二億三六〇〇万ドルヘと、約二〇%も増加しているのだ。

 図表2-6のように、二十年間で二〇%の一人当たり資産残高増加という日本の業績は、GDPの伸び率よりもはるかに高い。同じ二十年間で一人当たり名目GDPはわずか三・五%しか増えていない。一人当たり実質GDPでも二十年間の伸び率はフハ・五%である。戦後の高等教育と長期雇用で蓄積してきた人的資本の水準が高いので、毎年のGDP成長率に期待はできなくとも、経済発展を持続する力が強いのだ。

 さらに重要なことは、日本の社会関係資本の水準である。先にも述べたように二〇一四年版でも、新統計は社会関係資本の統計をつくっていない。

 社会関係資本は、人と人との信頼関係の高さ、協調行動がとられる度合、投票率、治安、教育、健康、人々が抱く幸福感など、多くの指標から判断する。ウェブ上でみると、すでにイギリス、フランス、イタリア、カナダ、オーストラリアが、自国の社会関係資本の水準を発表しており、グーグルで検索すると、「ソーシャル・キャピタル」に関連する項目は、一三一万件にも上る。

このように社会関係資本の計測は進み、議論も深まっているが、計測方法や国民に聞く設問は各国ごとにまちまちで、国際比較可能な状態にはまだない。日本では内閣府経済社会研究所が社会関係資本に関する調査報告書を出しているが、体系的な統計シリーズを出すには至っていない。

 しかし将来、国連が社会関係資本に関する報告書を出せば、日本は社会関係資本の水準でも世界一位ではないか、と思うことがある。オーストラリア国立大学のピーター・ドライスデール教授(経済学)は、日本とアジア経済に造詣が深く、毎週「東アジアフォーラム」という題の、各国の識者から集めた三ページほどの論文集をネット上で公開している。ドライスデール教授は東日本大震災のあと、「東京での個人的なお話」と題し、次のような文章をそこに載せた。

二〇一一年四月、私は日本へ、IMFの関係でそうとう過密なスケジュールが組まれた調査旅行に行った。日本中のあちこちを飛び回った。ある夕方、東京に戻るため東急東横線に乗り、中目黒で地下鉄日比谷線に急いで乗り換えた途端、いま向かい側のプラットフォームから出発しつつある電車の網棚の上に、私のコンピュータ(それはわが命だった。充分なバックアップをとっていないあらゆるファイルがそこに入っていた。それに、パソコンの横ポケットには財布まで入れてあった!)を忘れてしまったことに気がついた。

私は忘れ物をしたことを(忘れ物をした電車とは別の会社の別の路線の駅である)六本木駅で駅長に伝えた。駅長は私の名前と連絡先を書き取り、「何かみつけられたら電話をする」といった。二時間後、電話がかかってきた。その間、電車は東京へ行ったあと横浜へ戻っていたが、私のコンピュータは完全に無傷で返ってきた。「横浜へすぐとりに来るか、あるいは翌朝ならあなたのもとへ届けられる」とのことだった。

ほかにもドライスデール教授は、都内のタクシー運転手が道を間違えたので、正規ルートを走った場合よりも高い料金がメーターに出てしまったときのことを書いている。タクシーにはGPSがついていなかった。運転手は「道を知っているべきなのに知らなかったから私か悪い」といって、ドライスデール教授かいくらお願いしても、一円も受け取ろうとはしなかった、というのだ。

 こうした経験についてドライスデール教授は「東京以外のニューヨークやメルボルンでこんなことが想像できるだろうか。私はこんな話をもっとできるが、いまそのうちの二つを話しただけだ」と書いている。「皆さん、これが(震災からの復興に取り組む一筆者注)日本の社会関係資本なのだ」(ドライスデール氏の原語はsocial infrastructure)。これこそが、日本の社会関係資本に関する彼の結論である。

 こうした社会関係資本の水準が国連統計に正しく反映されれば、日本は人的資本や生産した資本だけではなく、社会関係資本の水準でも、きわめて高い数値が出せるにちがいない。

  指標を変えるだけで、目の前には違う景色が広がる

 こうした結果をみるほどに、いかに私たちがGDPという観念に意識せずに囚われているか、指標を変えるだけで、目の前には新しい景色が広がることをあらためて、理解できるだろう。国連報告書の共著者であるアナンサ・ドゥライアッパ氏は、二〇一二年の第一回報告書発表以降、GDP偏重を改善する動きがあるとはいえ、まだ不十分であると、二〇一四年版の報告書で次のように指摘している。

先進国でも途上国でも依然GDPが政策の企画、実施および評価において支配的役割を果たしている。しかしGDPでは経済成長が持続可能なのか、総合的な発展なのかがわからない。いま成長を引き起こしている諸活動は五年先も、五十年先も続けられるのか、わかりえない。

 フランスの経済学者トマーピケティが著し、世界的な反響を巻き起こした『21世紀の資本』(みすず書房)が明らかにしたように、資本から生まれる利益額の伸び率が経済成長率より高いかぎり、貧富の格差は拡大しっづける。格差が無限に拡大すると、極端な需要不足で経済システムは崩壊する。しかしGDP統計では経済成長が「多くの人々を犠牲にして、ごく少数の人々を豊かにするかたちで起きているのかがわからない」とそこでドゥライアッパ氏は述べるのだ。

 つまり、GDPでは個人の幸福度だけではなく、国全体の経済成長の持続可能度も測れないのである。

高い「人的資本」の水準、企業の設備投資や公共投資に支えられた高い「生産した資本」の残高、森林と農地を中心とした比較的高い「天然資本」の存在。最新の報告書では統計の取り方が変更されたが、人的資本、生産した資本、天然資本の残高でみる豊かさでは、日本は依然、実質世界一位であるといえなくない。それに「社会関係資本」の水準が加味されれば、なおのことだろう。

 こうした強みを自覚し、日本は三資本の残高をさらに増やしていかねばならない。そして同時に刮目しなければならないのは、世界各国はすでにGDPという数字を掲げつつ、明らかに「人々を幸せにする経済」の実現へと、舵を切りつつあるのである。
確かに目から鱗が落ちる話である。

GDPという概念はで、その国の豊かさを計れない。世界幸福ランキングも怪しい・・・
超GDP指標を新たな指標として国家戦略の指針とするのも悪くは無い。



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GDP世界第2位の座から陥落し、人口減少の止まらない日本には悲観的な声が絶えない。

中国人達が日本を抜き中国はGDP世界第二位の経済大国になったと錯覚し、傲慢な本性をあらわにし、アジアの軍事バランスを著しく危険にしている。

不健全で無茶苦茶な経済政策は、やがて破綻するのも時間の問題である。
中国人旅行者は自分達が金持になって日本が貧しくなったと思って来日すると、日本の豊かさに圧倒され、真実を知る。

誰も入らない欠陥マンションを建ててもGNPは伸びる。帳簿上転売しても伸びる。そもそも中国のGDPの数字自体誰も信じていないが、そもそも国の経済規模を測る
だが、そもそもGDPが21世紀に求められる豊かさを測れない時代遅れの指標だったとしたら?

ノーベル経済学者のジョセフ・E・ステイグリッツコロンビア大学教授と国連が提唱する「超GDP」思想を紹介し、2012年の第一回目の「超GDP」指標ではアメリカを13%も引き離して「質」が1位であった2014年12月2回目の報告では4位あるという驚きの事実を紹介している。日本経済の「規模」ではなく「質」が世界最高レベルにある。

じつはその国連新統計は、多くの国の政策に強い影響を与えている。日本ではまったく報道されていないが、イギリス、フランス、アメリカ、そして一見「質の経済」と最も縁遠い存在にみえる中国までもが、国民の幸福度をどう高めるか、という思考錯誤を行なっているのだ。各国はそうした指標を意識して人間の幸福度を高める戦略を採っているが、当の日本はどうか?GDP600兆円か日本人を幸せにできないなら、真に打つべき政策とは何なのか?誰も論じなかったこの国のほんとうの実力を、国際派エコノミスト元ジョンズ・ホプキンス大学SAIS教授野村総合研究所ヨーロッパ社長立教大学教授だった福島清彦が紹介した目から鱗の本である。


暮らしの質、第1位は日本!国連の超GDP指標が教える真の豊かさPHP Online 衆知 3月16日(水)17時10分配信

GDPではわからない本当の国力

私はこの本で、皆が自明と思っていること、当たり前だと感じている前提を覆し、新しい展望を拓いてみたいと思う。私は経済学者であるから、その展望とはもちろん、経済に関することである。ただし、経済とは人間が携わる最も重要な事柄の一つであるから、それは日本人全員に関わる話であるともいえる。

そもそも、経済とは何だろうか。なぜ人は経済活動に勤しむのか? 国家を豊かにするためか? もちろん、国全体の経済規模(国内総生産、Gross Domestic Product=GDP)の拡大は個人の所得増加につながりやすいので、経済成長を否定する人はいないだろう。しかしそれはあくまで結果論であって、自国の経済規模を大きくすることを、自分の経済活動の目標にしている人などいないはずだ。

誤解を恐れずにその究極の目的をいうならば、個人が経済活動を行なうのは、それによって自らの福利厚生度(あるいは幸福度)を高めるためにほかならない。もちろん、それはただ得る収入を極大化することではない。私たちは満足感、達成感が得られる暮らしをしたいから、働くのである。仕事で何かの目標を立て、目標達成に向けて努力を続けていくなかでも満足感は生まれる。家庭をつくり、家族を育てていくことでも、職場や職場以外の組織のなかで友人関係をつくりあげ、広めていくことでもそれは得られる。

ここまでの議論に違和感はないはずだ。個人にとって最大の問題関心は、いわば「暮らしの質」をどう高めていくか、ということに収斂されるのかもしれない。

とはいえ、「暮らしの質」とはいったい何だろう? それはきわめて抽象的な設定であり、個々人の価値観や性向によっても異なる。ただ、仮にそれがたとえば、ある程度手法化され、測定できるかたちになっていたら? そのとき個人が集合してつくる国家の役割というものは、そうした「暮らしの質」を高めていく、ということが眼目になるはずである。

しかし、まさにここで人類は、とてつもない矛盾に直面している。国家が経済を論じるときに使われる基準は、先に挙げたGDPというものである。GDPとは1国内で1年間に行なわれた経済活動の規模(金額)を示す数字だ。1934年にアメリカの国民所得統計が作成されて以来、GDPは世界で最も注目される経済の数字になった。まず、そもそもGDPとは誕生してそれほどしか経っていない概念なのか、と驚かれる人もいるかもしれない。

GDPを生み出したのは、サイモン・クズネッツというユダヤ系ロシア人の経済学者である。そして、1971年にノーベル経済学賞を受賞した彼の言葉にこそ、GDPという数字の課題が凝縮されている。1934年、クズネッツはアメリカ議会上院ではっきりと証言した。「GDPでは国民の幸せは測れない」。なぜならそもそもGDPとは国民の幸福度を測るために考えられた数字ではなく、その由来を遡れば、国の軍事力を見積もるために考案されたものだからだ。

しかし、戦後の各国政府はGDPを大きくする、ということをその国家目標に掲げてきた。日本でもアベノミクスの実質GDP2%成長、あるいは「新3本の矢」におけるGDP600兆円、という数字が躍る。国家がその国民を豊かにしたいと思って経済政策を行なうことは間違いない。しかしそのためにGDPという数字を大きくすることで、どこまでほんとうに国民は幸せになれるのだろうか。

ならば、この矛盾を解消するためにはどうすればいいのだろう? ほんとうに「暮らしの質」を測れる基準があれば、事態は改善するはず。そんなものがあるわけないじゃないか、と思った方もいるかもしれないが、すでにプロジェクトは動きはじめている。国の経済規模だけではなく、国民の福利厚生度を示す指標を開発しなければならない。そうした気運が21世紀に入って、一気に高まってきたのだ。

2008年2月から1年半かけて、世界各国の専門家24人を集めた本格的な検討会が実施され、2009年9月に一つの報告書が出された。ノーベル賞経済学者である米コロンビア大学教授、ジョセフ・スティグリッツの名前を冠した『スティグリッツ報告』といわれるものが、それである。この報告書は世界的に大きな反響を巻き起こした。※1
2011年には国連総会が「国連統計局に、GDPを超えて、暮らしの質を測る新しい経済統計の開発を要求する」という決議を採択。潘基文国連事務総長の委嘱を受けた国際的な研究チームが翌2012二年6月、暮らしの質を計測した新統計と報告書『総合的な豊かさ報告2012年』(Inclusive Wealth Report 2012 、通称IWR 2012)を作成したのである。

この統計と報告書は2年ごとに改訂版が発行され、2014年12月には2回目の報告書が出た。新統計は経済成長率ではなく、一国の経済活動の持続可能度を示す4つの資本(人的資本、生産した資本、社会関係資本、天然資本)の残高を計算している。年間の伸び率(フロー)ではなく残高(レベル)を計算していることが、経済発展の持続可能度を知るうえでは重要なのだ。

新統計が生まれたことの意義は大きい。経済政策当局者にとって、生産額だけではない、新しい目標値が生まれたことを意味するからだ。『総合的な豊かさ報告2014年』の編者の1人であるアナンサ・ドゥライアッパ氏(インドのマハトマ・ガンジー平和と持続可能な開発研究所長)は、報告書の序文にこう書いている。

「GDP統計に基づいて経済的成功と社会経済的な福利厚生度を高めていこうとしても、一国経済の持続可能度をあまり高いものにはしていけないだろう」「われわれは政策当局者たちが『総合的な豊かさ報告2014年』を役に立つ道具だと受け止め、(まだ随所にある:筆者注)データ不足を埋めるのに必要な作業をするように促されているのだと考えて、この報告書の内容を活用してくれることを望んでいる」※2
それでは、この新統計で日本を捉え直してみたとき、何がみえてくるのか? 一言だけ語っておこう。2012年の新統計において、その1位はほかでもない、わが国日本だったのである。

昨今、GDPで中国に抜かれた、国民が皆内向きなど日本経済に対する悲観論が絶えない。しかし、そもそも「日本経済」を語るための視点が、時代にそぐわないものになっていたとしたら? 海外から日本に帰ってきたとき、圧倒的なこの国の質的な豊かさにあらためて気づき、蔓延る悲観論とのギャップを感じた人もいるはずだ。そうした疑問に対して、本書は明確に答えることができるはずである。

そうした新指標がある程度できつつあるならば、それを踏まえたうえで、政府は国民を豊かにする政策を打てばよい。じつは、すでにEU(欧州連合)各国、アメリカ、そして一見、GDP信仰に囚われているようにみえる中国までもが、それらの指標を念頭に置きながら、国家戦略を練っている。それに対して残念ながら、新指標でみれば世界のなかで圧倒的な豊さを享受している日本は、古い指標であるGDPの呪縛から逃れられないでいる。

グローバル化の止まらない世界で必要とされるのは、年に何%の成長率ではない。ほんとうに国民の生活をどう豊かにするのか、という視点であるはずだ。本書で述べるほんとうに人間の幸福度を高めるための方法論が、日本人の心を豊かにし、新しい日本の展望を拓く一助ともなることを、私は期待している。

PHP新書『日本経済の「質」はなぜ世界最高なのか』(まえがき)より

※1『スティグリッツ報告』の邦訳は 福島清彦訳『暮らしの質を測る』(金融財政事情研究会)
※2 UNU-HDP and UNEP(2014)Inclusive Wealth Repoort 2014 Measuring progress toward sustainability .
Preface page XX,XX1 Cambridge: Cambridge University Press Preface

福島清彦(経済学者)
目次
はじめに 3

第1章 そもそもGDPとは――その知られざる本質

端緒は為政者が次の戦争に備えるための統計 18
初めて四半期ごとの国の生産高を計算したクラーク 20
GDP開発者の吐露「国民所得という概念で幸福度は測れない」 23
GDP統計とケインズ理論がもたらした経済の”黄金時代” 27
複雑で手間のかかる作業を経てつくられる「創作数字」 31 
欧州諸国のGDPが増えた原因はユーロ危機?・ 34       
一国の技術革新力を知るにはGDP研究開発費をみよ 36
二十一世紀、GDPでは測れない領域が次々に現れた 41

第2章 国連の新統計で世界一位に君臨した日本

「イスタンブール言言」から『スティグリッツ報告』へ 48
客観的な「暮らしの質」を八分野に分けて論じる 51
格差拡大によってもたらされる「暮らしの質」の低下 58
日本は新統計では一位、GDP統計では二十位台 61
新統計が教えてくれる日本経済の凄まじい実力 65
なぜ二〇一四年版ではアイスランドが一位になったのか 71
ドライスデール教授か驚愕した日本の「社会関係資本」 76
指標を変えるだけで、目の前には違う景色が広がる 80

第3章 世界はもう超GDP戦略に舵を切っている

イギリス政府が重視する「隠された富」とは何か 84
ケインズの驚くべき千百「わが孫たちの経済的可能性」 86
「収入が増えれば増えるほど幸福度が増す」のウソとマコト 88
国民に”お節介”を焼くことも政府の仕事になった 93
新聞に躍った「ブレア、胎児教育を提案」の大見出し 97
「暮らしの質」の向上と経済成長率は両立できない? 101
労働党の主張を保守党が進化させるのがイギリスの伝統 105
『スティグリッツ報告』の生みの親・サルコジ大統領 109 
サルコジの福利厚生戦略が微温的なものに留まった理由 112
「博愛」を「連帯」に読み換えて進むフランスの政策 115
アメリカの超GDP指標は政府ではなく民間発 118
主要全国指標法に基づき、続々と指標が整備される 122       
アメリカの中央銀行までもが超GDP指標を研究 124
オバマ大統領の掲げた「ミドルクラス・エコノミクス」 126
ブラジル、中国など途上国でも強まる新指標への志向 130

第4章 GDP600兆円という目標は正しいのか

いまの日本が二%成長するのはとてっもなく難しい 136
一二○○兆の借金があって年間六兆赤字を減らしても……  141
「黒田バズーカ」がもたらした効果と限界 146
マイナス金利でほんとうに景気は回復するのか 151
「三本の矢」がいつの間にか「新三本の矢」へ 153
GDP六〇〇兆円は見事なキャッチフレーズ 156
「新しい二本目の矢」が見逃している二つの視点 160
出生率の低さと大都市圏の住居が狭いことの関係 162
「介護離職ゼロ」は高齢化社会の核心を衝いている 166
安倍政権は「暮らしの質」の向上をめざしていない? 170


第5章 これが日本経済の「質」を強化する政策だ                    
わが国における新しい四資本の統計を整備せよ 174
四資本の残高を高めるための具体策 176
①人的資本1――人口の「量の確保」と「質の向上」を 176
②生産した資本――民間設備投資と政府投資の水準を維持せよ186
③社会関係資本――大切なのは住民による共助への支援 188
④天然資本――農業への新規参入をもっと儲かるものに 190

GDPに直結する分野ででも政府投資が不可欠 193
世界最高の「質」をもつ日本が果たすべき義務とは 197


おわりに 202
注 205
GDP(Gross Domestic Product)の始祖であるイギリスの統計学者クラークやGDP(当時はGNP(Gross National Product)概念を確立したベラルーシ生まれの米国経済学者クズネッツが統計をはじめた第二次世界大戦前後の経済は現代から比べれば複雑ではなく、国民経済=国民の総所得を推計するのは容易であった。
p31
GDPとは生産金額だが、個人商店の一日の売り上げや一つの自動車メーカーの年間生産台数のように、誰にでも計算ができる、実在する経済活動規模を示す数字ではない。各種の統計を集計し、それをもとに推計してつぐる、かなり抽象的な概念による創作数字である。
もう少し具体的にいえば、それは業界の生産統計や電車の乗客数、コンビニの売り上げなどを集計し、こうした統計からみて、このくらいの生産活動、販売活動、輸送活動などがあったはず、と推計してつくるものだ。しかし売上高の集計と推計に当たっては、二重計算を避けるため、中間役人物の価額を差し引いて計算しなければならない(GDP=個人消費+政府支出+設備投資+輸出-輸入)。

ある商品の国内消費者に対する販売額を計算するためにも、けっこうな手間がかかる。生産者の総出荷額を求め、それに輸送費、卸・小売りマージン、消費税、輸入を足す。そこから輸出と政府への販売分を引く。輸出や政府への販売は国内消費者への販売ではないので、
個人消費に入れてはならないからだ。企業への販売も大部分が企業の生産活動に必要な中間財を供給しているので、個人消費には入れられない。      
そもそも、人工的で抽象的な数字である上に、さらに、出てきた数字をそのままでは使わず、加工して使う「季節調整」というものもある。

GDP統計を各国政府統計局の役人が作成するためのマニュアルは、それが初めてつくられた1947年当初、約3ページたった。だが2009年につくられた国連統計局のマニュアルは、A4サイズで137ページもある。

国債の利子、年金保険、国防支出など国の支出も統計に入らない。

明らかに、需要が不足し、政府による需要供給をしている日本の経済構造では、GDPは伸びるにくいし経済規模を正確に計測するには、時代に合わず正確ではなくなっている。

GDPを基本とした現代の経済政策が限界にきているのは誰の目にもあきらかだ。
p42-45
英マンチェスター大学のダイアンーコイル教授は、ずばり『GDP』(みすず書房)という本のなかで、GDPでは計測できないものとして、次の三つを挙げている。

 ①製品が多機能化、多様化して、各工程でサプライ・チェーンの国際分業が進む二十一世紀において、各国内の生産高だけを計算するGDP統計では、世界経済で進行する最も重要で複雑な構造変化を捉えることができない。つまり、各国のGDP成長率だけでは国際分業の進化と、各国が分業のなかでどれだけ付加価値の高い(つまり儲かる)部分に参画しているかがわからない。

 ②生産高だけを計算するGDPでは、同じ生産高でも製品やサービスの質の向上によって生じている消費者の満足度向上(福利厚生度増大)がわからない。とくに情報技術革新によって、消費者が受け取る情報の量の増大と質の向上が、GDP統計では掴めない。

 一例として、音楽鑑賞を考えてみよう。レコードを売っていた時代には、音楽レコードの版売枚数と売上金額を音楽情報の生産高として考えることができた。だが、いまではオンラインで音楽を入手できるし、複製も可能だ、動画を使って
無料でみることもできる。二十世紀に比べて鑑賞される音楽量が増え、消費者の満足度が向上していることは間違いないが、視聴者数や売上代金を掴むことは、かなり難しくなっている。

 音楽に限らず、GDP統計はモノの生産量を掴むには適しているが、目にみえない情報の提供と、その受容が消費者にもたらす利益はほとんどわからない。世界で毎日何十億人もの人が、グーグルなどの検索システムで多様な情報を人手し、それが各国民の知識量と知的生産性を高めている。しかし知的生産高が増えたその金額は? となると誰にも把握ができないのだ。まあ数兆ドルじゃないか、という説もあるが、憶測に過ぎない。

 要するに、GDP統計は情報社会に向いていないのである。 

③二十一世紀において人類は、気候変動、人目増大、資源枯渇によって、経済成長どころか、その存続と発展の持続可能性さえもが危険にさらされている。だが、GDP統計では持続可能度の低下がみえてこない。

 リーマンーショック以前のアメリカは、国外からの借金に依存し、家計が過剰消費をして、持続不可能な経済成長をしていた。中国は視界不良に加え、マスクをしなければ北京の街を歩けないほどに大気を汚染し、工場の大爆発事故などを起こしながら政府目標の七%成長を必死に達成しようとしている。こうしたGDP極大化路線が持続不可能であることは明白だが、GDP成長率目標の達成だけを政策の評価基準にしている中国では、成長路線をやめろ、という意見は出てこない。

 そうした三点に加え、二十一世紀に入ってさらなる潮流が生まれてきた。乱暴にそれを表現すれば、人は衣食足りて礼節を知る、ということである。西洋風に言い換えれば、人はパンのみにて生きるにあらず、というところか。人は誰しも収入増以外に、精神的な意味で自己を充足したいという願望をもっている。それこそが「はじめに」で述べたような幸福度増大の願望ともいえる。

 二十一世紀になって多くの人が豊かさを体験する以前から、ヨーロッパには効率よりも公正を重視する社会思想があった、高利貸しや投機、過度の利潤追求を忌み嫌うキリスト教の中世以来の倫理観が残っていたのだ。イギリスの思想家ジェレミー・ベンサム(一七四八~一八三三)は、「最大多数の最大幸福」こそが経済政策の目標であると唱え、格差是正を重視したが、所得増大を目標にはしていなかった。

 こうした知的伝統のなかから、次章で述べるGDPを超える福利厚生度を計測しようとした『スティグリッツ報告』が生まれてくるのだ。もちろんヨーロッパに限らず、世界中の多くの人々の、金銭収入だけではない幸福を求める願望が、世界経済が大きくなり、豊かな人々が増加するにしたがって拡大していくのは、いわば、当然の帰結であったのである。
情報というものは著作権というものがあるはずだが、ネット社会においては申し訳ないのだが、私が書いているこのブログは営利目的ではないとはいえ、著作権に関してはかなり黒に近いグレイである。つい公共財と考えてしまう。いやむしろそうあるべきなのかもしれない。

だが、人々は膨大なエネルギーを注いでデータをひたすら発信受信している。GDPには一切現反映しない。






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『流』(りゅう) 著者:東山 彰良(ひがしやま あきら) 出版:講談社 第153回直木賞(平成27年上半期)受賞作品!

東山氏は台湾出身の作家でこれまでにも推理小説作品で「大藪春彦賞」等を受賞。直木賞候補となった今作『流』は、推理小説の要素を含みながら、自身の祖父の国境を越えた闘いと家族・親族の紐帯、そして祖父の死の解明、自身のルーツを辿りつつ、1970年代の台湾を舞台にした「大河小説」「青春小説」の要素も含んだスケールの大きな作品だ。


妻や息子、娘、他人には厳しい祖父だが、孫である主人公、葉秋生(イエ チョウシェン)には優しかった祖父が、1975年の台湾、国民党の偉大なる総統、蒋介石が死んだ翌月に何者かによって殺された。

祖父、葉尊麟(イエ ヅゥンリン)は、大陸山東省出身で、匪賊、やくざ者として大戦中、国民党の遊撃隊に属し、共産党に属す多くの村人を惨殺した。

日本が敗戦により大陸から撤退すると、国共内戦は激しさを増し、徐々に追い詰められていく国民党に属していた、祖父は何度も死線をかいくぐり、最後は命からがら家族と仲間達は台湾へ渡る。

台湾に渡った葉一家と兄弟分は台北に住み、祖父は布屋を始め、一家と兄弟分の家族の面倒も見る親分肌で、両親を内戦で亡くした兄弟分の息子も自分の息子として育てる、義理人情には厚い人であった。


そんな祖父が、一体誰に、なぜ殺されたのか?

自身に流れる血のルーツは?

作者東山氏は、自身を投影したと思われる当時17歳の主人公、秋生の祖父殺しの犯人捜しを描きながらも、当時の台湾の世相・文化、家族・親族、祖父の兄弟分との紐帯、秋生の高校生活や仲間との友情、淡い恋物語、そして大陸を渡った自身のルーツを遡るという様々な要素をふんだんに取り込みつつ、見事に作品として完結させた。

まさに推理小説というジャンルの枠に収まりきらない、壮大な大河・青春群像小説とも言える。

蒋介石死去前後の台湾の世相は、日本人の読者には余り馴染みがないであろうし、当時の台湾の置かれた状況や、海峡を渡れば敵地であり、海を隔てた戒厳令状態の緊張感、国威発揚の愛国教育、統制政治の状態にあったことは、私は以前に金美麗女史の本を読んで初めて知った次第だ。

この作品は、その当時の台湾・台北の混沌とした状況や市民の生活も活き活きと描かれ、またいわゆる独特の中国文化や家族制度を知るうえでも貴重な資料とも成り得る。


直木賞「流」が20年に1度の傑作と称賛されるわけ
2015年9月2日重里徹也 / 文芸評論家、聖徳大教授

人間が生きていくよりどころとは何だろう。家族だろうか。仕事だろうか。民族や国を挙げる人も世界にはいるだろう。イデオロギーや宗教だという人もいることだろう。

人のアイデンティティーをどこに求めればいいのか。直木賞を受賞した東山彰良(ひがしやま・あきら)の長編小説「流(りゅう)」(講談社)を読みながら、何度もそんなことを考えた。時代の流れに翻弄(ほんろう)されながらも、矜持(きょうじ)を持ちながら、国境を越えて生きる人々の姿が生き生きと描かれていたからだ。

語りかけるような筆致、起伏の多いストーリー

直木賞選考委員の北方謙三が「20年に1度の傑作」と称賛しただけあって、読み応えのある小説だった。語りかけるような筆致と、起伏の多いストーリーに誘われて読み進むうちに、読者は思わぬところまで連れていかれる。


このミステリーの面白さは、舞台になっている台湾という場所にも起因している。輪郭のはっきりした登場人物たち。彼らが暮らす台湾の混沌(こんとん)とした社会。両者が相まって、豊かな作品世界が形づくられているのだ。

主人公が17歳だった1975年に、祖父が何者かに殺されたことから物語が動き出す。一体、誰が犯人なのか。全編を通して通奏低音のようにこの疑問が響き続け、最後に意外な犯人が明かされる。

主人公の祖父は殺された時には、台北市で布屋を営んでいた。波乱万丈の日々を送ってきた人だ。

もともとは中国山東省の出身。賊徒集団に属し、国民党の遊撃隊に身を投じた。第二次世界大戦後、国民党と共産党の内戦が激化する中で、彼は共産党側の多くの人々を殺した。

台湾を舞台に展開するミステリー

やがて、国民党が共産党に敗れて、台湾に逃げてきた。義理人情に厚い人間で、一族や仲間を大切にしてきた。孫である主人公も、彼にかわいがられただけに、彼の遺体を見つけた時はショックを受けたし、犯人がわからないことが、心のしこりになっている。

一方で、物語は主人公の青春をたどっていく。それがとても楽しい。率直でピュアで負けず嫌い。権威や権力になびかず、祖父譲りの義侠(ぎきょう)心も持ち合わせている。切ない恋愛も経験するし、暴力ざたも絶えない。

そして、多くの青春物語と同様に、主人公は自分が何者なのかに悩んでいる。この小説の場合、それが近代史と直接につながっている。

台湾という国の成り立ちは変化が激しい。日清戦争後、清から日本に割譲されたが、第二次世界大戦の結果、国民党政権である中華民国の統治下になった。49年に大陸で中華人民共和国が建国され、国民党は台湾に撤退した。この時に台湾に移った外省人と、それ以前から住んでいた本省人との対立が生まれることにもなった。主人公の一族は外省人であり、いつか大陸に帰りたいという夢を抱いている。

75年は国民党を率いた蒋介石が死んだ年でもある。共産党の中国とは「交戦状態」にあり、言論の自由も抑圧されていた。台湾海峡は東西対立の最前線の一つだったのだ。それは主人公の厳しい軍隊生活の背景にもなっている。国際情勢の緊張感が主人公の日々を左右している。

どこか危うい、「外」から見る日本

民間信仰が、謎めいた幻想的な場面を生んでいることも見逃せない。祖父を救った「狐火」や主人公の前に現れる「幽霊」、軍隊仲間たちと興じる「コックリさん」など、いずれも物語に補助線を引くように重要な意味を持っている。それらは、複雑な社会を生きる人々の生活実感を照らし出す。

読後、台湾で生きる人々の物語が私たちと地続きのように思えてならなかった。つまり、自らが生きる根っこをしきりに考える彼らの姿が、人ごととは思えなくなったのだ。

この本の中で日本はときどき言及される。高度経済成長、バブル経済、優れた工業製品。「外」から見る日本が、どこか危うい感じに思えるのはどうしてだろうか。

私たち日本人はどんな根っこを持っているのだろう。私たちを私たちたらしめているものとは何なのだろう。そんなことをついつい考えてしまった。
おくればせながら、一気読みをしてしまいました。
一気読みさせる作品は間違いなく傑作であります。20年に一度の傑作って?その20前の傑作って1995年のベストセラーは浅田次郎の鉄道員(ぽっぽや)だったが・・・
その前は・・・1986年沢木幸太郎 深夜特急かな?まあ、大げさなキャッチコピーだが面白いことは間違いない。

私事ですが、今年2月はじめて台湾へ旅行した。古い町並みの多くは懐かしく、町中いたるところにある日本のコンビニやチェーン店の看板は、どこか日本の一地方都市のようにも感じた。

一気読みした直後台湾好きの友人に簡単にメールしたのだがまとめた紹介文

昨年直木賞を受賞した本で東山彰良さんは福岡在住の台湾国籍。五歳から日本で育ったので日本人の感性と台湾人の感性が上手く融合して、面白かった。中身は日本台湾中国の戦時中の話と70年代~バブル時台を行き来するミステリー小説。主人公の祖父が殺害されたことをきっかけに、暴かれる家族の過去、後半は一気読みでした。

本書で保守派である私の視点は、中国人が日本鬼子に中国人が虐殺されたと言っているが、その多くは国民党と共産党の争いでの内戦の巻き添えであった。
皇軍の規律は国民党や共産党と比べ物にならず、戦争中であるからゲリラと一般人を誤って殺害した事件はあったかもしれないが、基本的に強姦や略奪をした将兵は厳しく罰せられていたのである。燼滅作戦で、ゲリラの拠点の村を焼き払ったりしたことはあったが、帝国陸軍は三光作戦などという作戦は存在しない。

それでも多くの中国人が受けたと言う戦争被害の多くは本書に出てくるような共産党と国民党による殺し合いに巻き込まれた話ではないかと思って読んだ。








執筆中



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