Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ

政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、脳の外部記憶媒体としてこのブログを利用しています。2020/11/30以前はGoogle検索でキーワードを入れると常に上位にありましたが、日本のトランプ大統領デモを紹介した記事が米国でバズって以降検索アルゴリズムから排除され検索ヒットされにくい状態です。是非ブックマークをお願いします。このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

カテゴリ: 身体障害者/車椅子ライフ

1月21日老健を出所した。入所中はコロナ禍だからという理由で外出は許されず、食べ物の差し入れも受付不可の人権侵害も甚だしい日々だった、入所者は車椅子に乗せられ自由に歩行すら許されない刑務所以下の生活であった。一日中ただベッドで寝ているか、YouTubeかテレビを視たりラジオを聴くだけの生活、自室のベッドから離れる場合は、トイレと食事、10時のインスタントコーヒータイム3時の100円菓子おやつタイム、週二回の入浴、1回20分週3回のリハビリだけ、ただ冥土への旅立ちを待っているだけの70代~90代の老人達、(もちろん半分近くの人達は認知症と思われる)に囲まれ、いつ老健出られるのかわからない生活、ある意味絶海の無人島生活か島流しの刑を1年2カ月続けた。
妻に老健を出所したいと夏頃から懇願したが・・・絶対家には入れないと言う。出所したいのなら一人で覚悟して生活しろという。
私は59歳、2023年3月末までに復職できなければ定年退職で、それ以降に退所しても雇用延長は不可だと言う。
身体障害者で独り暮らしなんかできるだろうか?風呂は?まあバリアフリーなら何とかなる。食事は作れるだろうが3食3食片腕で作れるか?買い物は?医者へは?洗濯は?まったく独りでできるか?いろいろ想定シュミレーションしたがまるでやってみなけりゃわからない。かなり厳しいだろう正直恐かった。一旦老健を出所したら、独り暮らし出来ませんでしたと白旗をあげても家内の性格からして、絶対家に入れてくれないだろう。昭和63(1988)年秋から5年付き合い平成3(1991)年に結婚した、自分の人生の半分以上の付き合いだ誰よりも家内の性格はよく知っている。

このまま老健や老人ホームの籠の中であと20~30年死ぬまで似たような生活?このままだと生きている意味がない。社会復帰のチャンスは今しかない。自宅へ戻れなくとも、独り暮らしは厳しいかもしれないが出所しよう、問題はまずどこのどういった施設にするか?
場所は最後の勤務地関内の近くのサービス付き高齢者向け住宅(サ高住)で探した。資料を取寄せたがが適当な物件は見つからな。、そのうち家内が3食食事を出してくれる見守り付き高齢者アパートというのがあるという。場所は相模原・・相模原市といえば身体障害者45人が死傷した津久井やまゆり園事件しかも地図で観たら結構近所だ!・・・そういうことか犬猫のように遠くに捨てにいくと言う意味か・・・私は遠いし、土地勘もないので嫌だったが他に金銭的に見あう施設がなくやむを得ず、現見守り付き高齢者アパートで独り暮らしをして会社に通うことにした。

清水の舞台から飛び降りる・・・まさにそんな気分だ。とても不安だったが決断をした。
一つ問題が起きた、会社は復職するには復職診断書を提出が必要と言う。老健の藪医者医者 Drスモールフォレスト曰く、「自分は復職診断書を書いたことが無い、どういう書式で何と書いていいかわからない、Ddogさんの仕事の内容はわからなうのでので書けない」私「はぁ?!」確かに老健から復職した入所者はいないだろう。普段Drスモールフォレストとはほとんど接触はなくリハビリで診察してもらった記憶はなかった。コロナワクチンを打ってもった程度だ。会話した記憶もない。「そりゃー無理かも?」私は1年前に入院していた担当医Drイタリアンウエステリアにお願いしてみた。Drイタリアンウエステリア曰く「退院して1年以上経っているし現状は診察していないので復職診断書は書けない、しかももうすぐこの病院から別の病院に移る「どこか新たな病院に行けば書いてもらえるか?と聞くと、初診でいきなり書いてくれる医師は知り合いでもなければ無いと言う「現状、老健の先生に書いてもらうしかない」と言う”一理ある”人事部に相談すると現担当医に復職の判断は当社産業医がするので現状の健康診断書でいいから書いてもらってくださいとの回答だった。
老健のソーシャルワーカーのニアーウエステリアに「普通の健康診断書でいいので医師に書いてもらうようお願いしてくださいと」依頼した。ニアーウエステリアはお願い事や仕事何か依頼するのに1から10まで説明して依頼しても理解範囲は1、よくて2程度の理解力で、10頼んでも1~2しかできない人間であった。とても1を知って10をすることなどまずできない無能な男である、その上嘘つきなので私は大嫌いであった。
長々と書きましたがこの経緯が今日の話の中でたいへん重要なカギですので書かせていただききました。
2月6日満を持して産業医Drメニーライスフィールド先生の面接を受けました。
Drメニーライスフィールド先生は本社の医務室で何回か診断指導を受けていたので知っていた。

たぶん大丈夫だろうと思って関内に行った。DX面談だったが、東京へ行くより関内の方が近いだろうという人事部の配慮だった。

Drメニーライスフィールド先生曰く、「残念だけど、老健の医師が診断書に仕事の復帰は難しいと書いてあると言う」そうなると再雇用できない。なんとかほかの診断書貰ってください・・
出所する前に私に言うべきではないのか?
過去通ったことのある病院へ電話で診断書の件で問い合わせたがどこも良い答えをいただけなかった。

私は職場復帰を諦めた。ネットで観ると障害者雇用は意外に多く、2022年障害者雇用促進法の改正でむしろ障害者の売り手市場らしい。

中小企業だが人事部長を務めていた親友のS曰く「身体障碍者1級は二倍ポイントで、引く手あまただぞ、朝会社へ行ってお茶と羊羹出してもらって夕方帰るだけでいいんだから大丈夫だよ」
早速障害者雇用の民間業者数社に登録し担当者とも面談した。
しかし、1月経って現実が見えてきた。世の中そんなに甘くない60歳以上は非常に困難そうだ・・・
2月は住所変更銀行口座開設等多忙な日々だった。3月初旬誕生日直前ん会社より「診断書の件どうなりましたか?」問い合わせが有った。診断書さえあれば復職は間に合うと言う。

3月になって通いだした整形外科の先生に初診の時復職診断書書けるか打診したが初診じゃ書けないのでとりあえず通ってくださいと言う。

2度目の診断時(リハビリには3回通っていた)ダメもとでお願いしてみた。
毎日ブログを書いている事、ブログを見せコメント欄も見せた。多くの人が「復帰待っていました、お帰りなさい、」と書いていただいていました。先生はこれを見て「確かにデスクワークなら可能かもしれないね」とデスクワークなら可の診断書を書いてくれた
そこから急展開
必要な書類を提出。各種資料等、領収書等を準備。3月22日再度産業医Drメニーライスフィールド先生面談突破人事部と面談 人事部より住宅ローンを払いつつ家族と別居して収支バランスはどうなっているのか問いただされた。すらすら答えたが メモ程度でいいから書面で提出を求められた。
3月24日年金支払通知書当のコピー契約書等資料をもって再び人事部へ行って面談。→了承を貰ったが部長が病欠の為3月27日関内で最終面談となり、身体障害者になってしまったが、再雇用を認めてもらいました。最後に念の為週末は定期売り場混むと思うのでと此の後定期券を買って帰って良いか確認した。一時建替になるが、良いかと聞かれ勿論と答えた。
3/27に「では4/3から出社してください」との言葉をいただきました。復帰できたのは皆さまのおかげです。特にコメント欄ににご声援を書き込んでいただいた皆様本当にありがとうございました。

最後にもう一波

部長が他に問題は無いか?との問いに入浴の件でどうにかしなければいけない件があり見守り付きアパート管理会社と調整していた。
契約前入浴週2回で必要に応じシャワーが使用できるはずだった。
ところがシャワー室は使用できず使用させてくれとお願いしていた。
土日に1回入浴し週半ばに休みを取って入浴と考えていたが年休20日だと無理、半日休でも無理・・・
入浴駒は16時が最終。14時退社週3時間早退 3時間☓53週=159時間 20日☓8時間=160時間一切休めずで3時間早退でほぼいっぱいいっぱいだ・・・・厳しい
部長入浴の件相談報告し駅で定期を購入していた。駅員と入力の最中人事より携帯に電話が掛かってきた。定期券購入したと言うと待ってくれという。二時退社で何とかなると説明。論破!(ただ計算上は問題ないが本音で言うとgrん実はは厳しい)あくまでも会社は60歳以上の嘱託社員は極力切りたいようだ。



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神様は越えられない試練は与えない、なんだかそのようにおもえた。誰が言った言葉か調べてみた、どうやら孟子らしいのだが、吉田松陰らが孟子の話だ故事を分かりやすく纏めた言葉らしい。


実は昨秋瀬戸内寂聴さんの動画を視ていて心に刺さったのだが、この言葉は聞いたことがあった、寂聴さんが仏様と言わず神様がと言ったのでいったい誰が言ったのか気になって調べたときは聖書の言葉だと検索しその時はそれでそうかと一旦は思いました。

でも一神教の神様は甘くはないので・・・・なんか納得していませんでした。
先日どこかで「神様」ではなく「天は」バージョンを見かけたのでネタは論語系かもと思い今回調べてみました。孔子の言葉説もありました

だが、調べた中で一番響いたのが孟子説「試練は、乗り越えられる者にしか訪れない!」― 『孟子』孟子かぁ・・・納得
孟子の言葉通りに生きたと言われるのが吉田松陰で、吉田松陰の美学は孟子の言葉「至誠通天]誠を尽くして. 行動すれば、人の心は動かされるに思想は近い


『孟子』(告子章句下)の中に、とても勇気が出る一節があります。

自分が困難にぶつかったとき、それは天が与えた「試練」と考えよ、というメッセージです。
「試練は、乗り越えられる者にしか訪れない!」
  そう思うと勇気が湧いてきませんか? だって天から選ばれているんですよ!!

天将降大任于斯人也
天の将(まさ)に大任(たいにん)を是の人に降さんとするや

必先苦其心志、労其筋骨、
必ず先ずその心志(しんし)を苦しめ、その筋骨を労せしめ、

餓其体膚、空乏其身
その体膚(たいふ)を餓えしめ、その身を空乏(くうぼう)にし、

行拂乱其所為、
行いには其の為す所を払乱(ふつらん)せしむ。

所以動心忍性、曾益其所不能
心を動かし、性を忍び、其の能(よ)くせざる所を曾益(ぞうえき)せしむる所以(ゆえん)なり。

<現代語訳>(佐久 協「『孟子』は人を強くする」より)
天上の神がある人物に重要な任務を与えようとしたときは
必ずその人の心を苦しめ、肉体を疲労させ、生活を困窮させ、やる事なす事すべてがカラ回りするような
大苦境に陥れるものだ。
それは天がその人の心を鍛え、忍耐力を増大させ、大任を負わせるに足る人物に育て上げようとしている何よりの証拠なのだ。
まあ、疑う前に周囲をよく眺めてごらん。われわれが知っている優れた人格を持ち知恵があり、
人の心が読める能力を発揮している者は、みんな悲惨な体験をくぐり抜けてきた者といっていいだろう。
自らの心を悩まし、苦痛をとことん味わった者だけが、人間が生まれついて持っている、素晴らしいパワーを自覚し開花させられるものなんだよ。

吉田松陰から現代の経営者まで、このフレーズを愛唱している人は数多くいます。


●ところで孟子ってどんな人物?
moushi.jpg孟子(紀元前372年? - 紀元前289年)は戦国時代の儒学者で、鄒(すう。現在の山東省鄒城市)の出身。儒教では孔子に次ぐ重要人物です。
彼の母が教育のために3回引っ越した、いわゆる「孟母三遷の教え」は有名ですね。
彼は成長すると、孔子の孫である子思(しし)に弟子入りします。
その後、魏・斉・宋・魯などを遊説して回りましたが、君主たちからは受け入れられませんでした。それからは郷里に戻り弟子の育成に努め、あわせて著作活動に入りました。

孟子の死後に弟子たちは、孟子が行った遊説や論争、弟子たちとの問答などをまとめて『孟子』をまとめました。この書は『論語』『大学』『中庸』と並び、儒教正典の四書の一つになりました。
孟子の思想としてとくに有名なのが、
「人間は生まれながらにして善である」という性善説です。

天将降大任于斯人也、(天の将(まさ)に大任(たいにん)を是の人に降さんとするや)が
天の意思は、大任(試練を)を是(OK乗り越えられる)(将/人)のに降さんとするや(訪れる!)➡
試練は、乗り越えられる者にしか訪れない!➡神様は越えられない試練は与えない。に変化したのではないでしょうか?
執筆中











自分で限界をつくることは、可能性を捨てることである
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2021年5月28日私の前半生は終わった。
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2021年5月28日深夜脳溢血に倒れた。左半身が麻痺となり身体障害者となった。家内に私の不貞が露見。妻子より絶縁を言い渡される。老健に幽閉される。老健を出たかった。自宅へ帰ることを拒否される。会社へ復職したい→ご飯を出してくれる見守り付き高齢者アパートへ捨てられる。一人暮らしを開始する。会社へ復職しようとしたが一度は断られた。理由は老健の医師が診断書に復職困難と書かれたせいでした。ズカン!
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リハビリに通いだした先生がデスクワークなら可能と診断書に書いていただき本日再度チャンスを頂き本日面談をしてきました。産業医は私と会話して復帰可能としてくれた。とりあえず復帰がかなえられそうです。人事部は嘱託契約になるので金銭的に根掘り葉掘り聞かれた、24日人事部の面談は通過した再度部長面談で正式に決まります。

私は障害者年金を月額20万弱いただいている
3月末で定年退職した場合障害者になってなければ手取り10万強で住宅ローンを返済するのに窮するところでした、運が悪く左半身が麻痺にはなったが、65歳までは住宅ローンを返済しても生活ができる。
運がいいのだか悪いのか・・・・

私がずっと習慣的に不倫を続けていたので、妻子から絶縁を突き付けられたが妻とは離婚していない。できれば離婚したくはない。顔を合わすと罵られ罵倒され正直物凄いストレスを感じる。だが私は言い返せないのでただただ耐え謝るばかりなのだ。

問題は現在妻子が住む一戸建てだ離婚するとローンの払い主私が住んでいないので一括返済を求められる場合がある。私だって住んでもなく面倒も見てもらえず離婚したら売却しなければならないだろう・・・
だが娘には残してあげたい、それゆえ離婚していない。
また65歳になると年金は障害者年金か通常の年金になるか選択となる多い方を選択となる。妻の老後を考えると通常の年金にして半分渡してあげたいが、その時私を許してくれたなら問題ないが・・・
私は障害者年金を選択すれば妻には年金渡さない・・・
5年間葛藤し続けるだろう。

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私は1980年代前半の大学時代、日本の産業構造からすると輸出産業から金融に移ると読み進路を定めた。1986年昭和61年金融業界に就職した運よく読み通りバブル経済が到来し世間的には良い給料ボーナスをもらった。仕事は死ぬほど辛かった。
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やがてあっけなくバブル崩壊。バブルが破綻した1990年代前半金融業界を激震させた大事件に巻き込まれてしまった、警視庁に重要参考人として2カ月通った。

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上司だった支店長が役員を巻き込み詐欺事件を起こしたのだ。総会屋が嗅ぎ付け詐欺事件が発覚した、放置していたらもっととんでもない事件に発展していたはずだったがもっと大事件へと発展しなくて済んだ。だが会社は総会屋に利益供与をしていたことが発覚そちらももっと大事件もさることなだら社会的大事件になった。私はまだ完全退職していないいので詳細はご勘弁。

私の担当していたお客様が詐欺事件のきっかけとなった。・・私は身を守る為に関係資料を自宅に隠匿していた。私は会社に許可をもらい警視庁へ資料を提出。毎日証言内容を報告し、今後の聞かれるであろう内容を報告。関わった役員名と韓国カジノへ行ったと思われる日のメモの提出など一応確認した。会社は隠さず全部話していいと許可をだしていた。

ところが支店長役員らが起訴され事件が終結後、会社から私がしゃべり過ぎと叱責をうけ出世コースではないが通常の昇進コースから外された。そのうえ11年間地方巡業をさせられた。転職はステップダウンの時代だった、転職で某一部上場企業に合格したこともあったが最終的に転職しなかった。理由は転職したらかえって年収が下がったり福利厚生もわるくなりそうだったからだ。某大手損保の子会社もその気になったら行けたかもしれなかった。しかし我が社は膿を早々に出したのでかえって生き残る可能性があると私は読んだので私は転職しなかった。事実我が社は激動の金融再編の中、合併せず生き残った。11年間地方巡業は都内店→新居浜→佐賀→福知山→京都→豊橋→本社コールセンター。家内には苦労をかけた。

会社が潰れたリストラし失職した、苦労して会社を立ち上げたとかといった人生げはなく今時転職せず終身雇用の方がめずらしいかもしれないが、まあ普通のサラリーマンよりは結構激動の人生なのであるが、今後は一層運命に激しく翻弄される人生となるであろう。

65歳以降もできればお金を稼げる仕事をしたい。自宅で電話相談員の仕事ならやれるだろう、資格をとれるなら取る必要もある。勉強も必要だ。
正式に会社復帰が決まるとこのブログの更新はまた少なくなるかもしれません。


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2021年5月23日(日)私はブログ更新メインテナンス中突如左手が動かなくなり椅子から転げ落ちる救急車を呼んでくれ!と家族に叫んだ。
救急搬送された。能溢血だった。救急車で搬送される自分病院での検査おぼろげに覚えている。部屋の上から自分を俯瞰しているわけではないので魂が抜けてい状態じゃないと何故か冷静だった。
翌朝だったとおもうベットにおむつをされ寝かされていた、かなり重いようだ。左手左足が動かない。家に帰りたいと思った、何故か家にいた。
私は倒れる直前もラインしていたフリン不倫相手の彼女に連絡しようとした、何故かラインが表示されない、やむを得ず電話をかけたが出ないので切った、携帯財布手帳鍵をまとめていたがその次気がつくとまた病院だった。リアルすぎる夢だったのだ。
ほどなくして家内が面会に来てもう体が元に戻らないこと、そして私が不倫していたことを糺しに来た、携帯に残ったラインを読まれてしまった。リアルな夢は重要な意味があったのだ。携帯は返ってこなかった

そのあとリハビリ病院に転院し半年入院しその後老健(介護老人保健施設)に1年2ヶ月老健の生活は地獄だった刑務所に収容されたかのと違わなかった。コロナ禍で誰とも会えず外出禁止、一日中ベットに寝てテレビを視るだけの生活。
家内に出所して家に帰してくれと頼むが、不倫をしていたことを絶対許さない、一緒に絶対住みたくないと頑なだった。
老健(介護老人保健施設)で時間を過ごしていると死んだのと変わらなかった。家内は家に帰らさないと言う。家内の合意が無いと出所出来ない。60歳になるまでに会社に復職しないと65まで雇用延長はない。
私は復職し社会復帰したかった。そこで、自分でもかなり厳しいとは思ったが独り暮らししても老健を出たかった。身障者1級要介護2の状態だが一人暮らしを決意した。
いきなり普通のアパートは無理なのでご飯だけ出してくれる見守り付き老人アパートと言うのがあった。目の前にバス停がある。ので今のアパートに決めた。
1/21家内と娘が老健に迎いに来た、昼飯を久しぶりに食べたが、これが家族で食べる最後の晩餐だと言う。荷物と私をただ置いて去っていった、翌日妹二人が部屋を片付けに来てくれた。カラーボックスを組み立て当面必要な細々しいものを買ってくれた、また来てくれると言ってくれた。
翌日杖だけでバスに乗って駅に出かけ駅ビルで買い物をしてバスで帰った。バス停まで普通の人は1分だが私は15分かかった。帰りは20分だった、その翌日電車に乗って町田まで行った、駅で車椅子に載せてもらい、後は杖で歩行したが、ほとんど動けなかった、杖での外出はかなり難しいことを悟った。無能なケアマネは、車椅子でバスに乗ることができることを知らなかった。ネットで調べて電話で確認した。何だ車椅子で乗れるのか!
その後介護保険げ電動車椅子にしてもらいコンビニエンスストアにも気軽に行けるようになった。
しかし、日々入浴したり洗濯、かたずけ、何するにも従来の何倍も苦労している。
日々希望が削がれていく、妻の携帯はを私を着信拒否にした、風邪をひいてしまったケアマネジャーに助けを求めた。
何もできないと言う。葛根湯があるので飲んで寝れば何とかなるかもと私は言った、そしたらお大事にと言って電話を切られた、葛根湯は偉大であった。2.3日で完治した。しかし、心が折れ命の電話に電話をかけ折れた心を癒してもらった。
次の不幸は、復職の為産業医と面談したが,復職は不可であった。老健の医師の診断書に復職は難しいと書いてあったとのことで、別の医師から復職可の診断書を貰ってくれと言う。以前入院していた病院には1年以上診てないから書けないと言う。いきなり書いてくれる病院などあるはずもなく、復職は断念した。
水戸の実家へ帰ろうかと思った。
ところが、頼りの妹、そのの旦那が糖尿病で緊急入院する事となってしまった。
考えてみれば妻と娘が見捨てた身体障害者の私の面倒をみるなど期待する方が間違いだ。
私は、身体障害者になった現実を受け入れ一人で生きていかなくてはならない宿命を背負ってしまったのだ。これは試練であり私なら乗り越えることができると神様から与えられたのだ。有難いことなのだと思う。
しかし、毎日毎日ただ生きることだけでとても厳しい。当初ご飯さえ自分でつくろうかとおもっていたが、とてもできない。ご飯を出してもらっているだけ何とかやっていられる。

健康な体を無くし、家族と家、仕事、恋人全て無くしてしまった。
私の絶望的状態はかなりハードなものだと思う。自死も選択肢だが・・・・・
私は何の為に生かされているのか?考えた
私のような弱者に寄り添う相談員になろう、仕事を見つけ資格を取得しよう!
今の私のささやかな希望である
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ブログ主、親族です。本人からの依頼により書き込みます。ブログ主は5月下旬より療養中です。命に別状はありませんが、回復には時間がかかりますので、しはらくブログはお休みします。ツイッターにてつぶやいています。


ご心配いただきました皆様には
お知らせが遅くなりました。

悪しからずご理解いただけますよう、よろしくお願いいたします。
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