Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ

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満州国とは関東軍最高参謀の板垣征四郎大佐、関東軍作戦主任参謀の石原莞爾中佐が中心となり満州事変を起こし。わずか1日で奉天や長春などの満州鉄道沿線の主な都市を制圧するとハルビンも占領。1932年2月までには満州のほぼ全土を制圧、満州国という日本の傀儡政権を作り上げたものだと思いましたが、そんな単純な話ではなかった。

満洲国建国に至る過去30年以上の間の支那本土と満洲の事情に極めて詳しい米国人が、満洲国建国に至る日本の行為は、世界から非難されるいわれはなく、米国の日本及び支那に対する行為と態度こそが非難されるべきであって、満洲国建国には極めて正当な理由が存在すると本書で主張している点に、大きな驚きがあった。久々に私の脳味噌の中で残っていた東京裁判史観が除去された気がする。

本書は満洲国建国3年後の1935年に出版された書籍の訳本である。著者ジョージ・ブロンソン・レ―は、米国新聞社の特派員として、1898年、米西戦争により、米国がキューバ、フィリピンを獲得する手法を観察した。レーは、極東に30年以上滞在し、第一次大戦では米国陸軍情報部大尉も務めた。東洋の政治状況に詳しく、袁世凱、孫文の技術顧問として、支那における鉄道建設と外国からの資金調達に代理人として深く関与した。 そして、1932年に満洲国が建国されると満洲国政府顧問に就任した人物だ。

日清日露戦争から遡り、丁寧にその間の事情を現代の私達に教えてくれる。

1911年に征服王朝である清朝が崩壊後は、各地で独立運動が展開され、軍属、匪賊による虐殺が横行し、戦乱状態が長い間継続した。関東軍による張学良軍の制圧を好機と捉えた満洲人は、満洲国皇帝を迎え、支那から独立し、満蒙朝華日の五族協和王道楽土を建国の理念として、満洲国を建国したのである。

満洲国建国をめぐって、日本が国際連盟脱退に至る歴史は、一般的解釈とされている「日本の侵略」ではなく、清国の復興独立であったのだ。中国大陸利権を狙う、アメリカを筆頭にソ連を含めた欧米列強の謀略であり、国際的な「日本叩き」だったのである。本書は、満洲国の顧問を務めていた著者ジョージ・ブロンソン・レ―が、列強の言動のあまりの理不尽さに憤慨し書き残した、「満洲国をめぐる真実」である。「アメリカの意図はいったいどこにあるのか」を厳しく追及している。

米ソ国民党のプロパガンダに世界は惑わされ日本が侵略したとされる、満州国の歴史を根本から見直す必要がありそうです。

『「満洲国建国」は正当である』新訳版刊行に寄せて
                                  竹田恒泰


「満洲国は、悲劇に見舞われ続けた広大な支那の土地に明るく輝き始めた光である。満洲国の樹立という先例は、地球の西半球の全人口も超える一大民族にとって幸福を得られるかもしれないという希望となっているのだ」

 「日本が満洲国三千万の民の独立の権利を認め、強力で自立可能な国家の樹立を助けることを選択し、さらに彼らの正統な統治者(溥儀)を復活させ、国内外の敵に対する相互防衛のために、その政権と同盟を結んだことは、侵攻でも征服でもなく、国際社会によって合法と認められた他の仕組みと何ら変わりない。『日本は捌け口を見つけたのだ』。今のところ、満洲国は自由で独立した主権国家であり、その歴史と伝統を誇りにしている」

 満洲国に関するこの記述は、戦前の国定教科書の文言でもなければ、帝国陸軍将校の言葉でもない。満洲国建国から三年になる昭和十年(一九三五年)に米国人ジャーナリストのジョージ・ブロンソン・レーが書き記した本書『「満洲国建国」は正当である』に記されていることである。レー氏はアジア在住期間が長く、孫文とも親交があり、満洲国の顧問も務めた人物である。

 戦後の国際社会では、満洲事変は日本の「侵略行為」であり、その後建国された満洲国は日本の「傀儡国家」であるとされ、日本でもそのように教育されてきた。これは、満洲国建国直後から欧米列強によって主張されたことである。その後、東京裁判で連合国側か主張し、そのまま定着し現在に至る。

 敗戦国であり「裁かれると側に立だされた日本が、満洲国建国の正当性を述べたところで、国際社会がそれに耳を傾けるわけもなく、日本には十分な反論の機会も与えられなかった。

戦後の日本人がこれに反論を試みたところで、直ぐに「軍国主義者」のレッテルを貼られるのが関の山であろう。

 東京裁判では、日本側が満洲国建国の正当性を立証するために、『「満洲国建国」は正当である』を証拠として提出しようとしたところ、認められなかった。もしこの本の提出が許されたなら、戦後の満洲国の評価は違ったものになったと思われる。

 同書は、本文に「米国世論に訴えることが目的」と明記されていることから、レー氏が米国の反日一辺倒の論調に危機感を覚え、そこに一石を投じるつもりで書かれたことがわかる。

米国人が読んでわかりやすい事例やたとえ話が豊富に紹介されていることからも頷ける。
たとえば、「満洲国の独立は、日本人による働きかけと援助がなければ決して行われなかったと言われており、その点は認める。しかし、日本の援助が何だというのだ? 米国自体、フランスの支援なしに独立を勝ち得ただろうか?」 というように、愚の音も出ないような説明をしている。

また、日本が満洲国を建国に導いたことを、米国がテキサスを併合したことを引き合いにし、「満洲で日本が果たした役割は、テキサスでの米国の役割と同一であり、しかも日本は保護下の満洲国を米国のように『併合』したりはしていない。(中略)米国によるテキサス併合の狙いよりはるかに考慮に値する正統な理由があったのだ」

 とも述べている。たしかに、併合もせず植民地にもしないというのは、当時の世界の常識に反することで、満洲を「傀儡」という人たちは、自分たちならそうするという前提で語っているに過ぎないのではないかと思える。

 また、溥儀皇帝は「中国人」ではなく「満洲人」であり、満洲国が「支那共和国」から分離したのではなく、もともと満洲国が支那を領有していたところ、辛亥革命によってそれが解消されただけであって、溥儀が満洲国皇帝となったのは自然な流れであるという説明も納得がいく。

 そして、レー氏は、満洲国建国は、満洲人民が張学良軍閥の支配から脱出しただけのことであり、そもそも中国大陸に統一政府は不存在であったのだから、なぜ満洲人民が日本の援助のもとで満洲国を建国するのがいけないのかと畳みかけていく。              

 本書は、当時の米国人が、当時の条約や国際法、歴史的経緯などを踏まえて、様々な角度から論理明快に満洲国建国の正当性を立証していることに重大な価値がある。すでに出版から八十年以上が経過したが、むしろ今読むことで、時の政情や世情そして空気を手に取るように知ることができる。

 この本を読むと、当時の日本のことを「侵略国家」と思っている人は、その根底が揺らぐのではあるまいか。満洲国建国が当時の日本にとって国防のために正当で、合法な行為であったなら、先の大戦における日本の評価も、大きく変わってくるに違いない。我が国の名誉を回復するのは骨の折れる作業だが、まずは満洲国建国の正当性あたりから着手するのも良かろう。

 それにしても、本書がなぜもっと米国人に読まれなかったのか、実に残念でならない。当時の米国が日本と敵対してソ連の手先となったことは、日米戦争の条件を整えてしまった。

このままだと本当に日本と戦争になってしまうというレー氏の予言は、六年後に的中してしまう。


まえがき

 このたび、一九三五年(昭和十年)当時、満洲国政府外交顧問を務めていた米国人ジョージ・ブロンソン・レーの書いた満洲国擁護論を再度翻訳出版した。レーについては序文で本人が自己紹介をしているので、人物紹介はそちらに譲る。

 この本が書かれてからすでに八十余年経っているし、その間、日本の国も激変しているので、ここで改めてこの時代の日本の歴史を簡単に記して、これからレーの本書を読むにあたっての参考に供したい。

 日本を縛りつけたワシントン体制

 日本は、日清戦争で清国に勝利し、下関条約で手に入れた戦果を、梶棒で殴られて奪い取られた(レーの表現)。日本はポーツマス条約交渉では露清密約の存在を知らされず、騙されて、賠償金はおろか、それに相当する領土も得られなかっただけでなく、清国の領土でロシアと戦ったことで、清国に迷惑をかけたと謝罪するよう強いられた。

 第一次世界大戦では国際連盟の一員としてドイツと戦い、連盟側の勝利に貢献したにもかかわらず、パリ講和会議では、まるで審判を受ける被告席の立場に立だされた。

 大戦中、極東とオーストラリアの通商ルートを、ドイツの攻撃から守ったことに対する報酬として約束されていた、微々たる戦果(ドイツが占領していた山東半島の権益)まで、密約を交わした英仏がいなければ、放棄するよう強要されただろう。

 ところが、後のワシントンでの軍縮会議に呼ばれた日本は、そこで辛辣で情け容赦ない判事によって非難され、告発され、厳しく責められ、満洲における権利を確保するための切り札として使う機会もないまま、結局山東半島を支那に返還せざるを得なかった。

 日本は、三度戦争に勝ち、三度戦果を奪い取られた。日本の陸海軍が払った犠牲と引き換えに、国民に示すことができたのは、満洲への二十億円の事業投資が全てであった。

 国際連盟規約、九ヵ国条約、そして不戦条約という盾に守られた北京政府(蒋介石軍閥)は、日本はあえて武力を行使しないだろうと高を括り、日本の投資に損害を加え、日本人を全部一緒に国から追い出す準備をしていた。

 一九二二年(大正十一年)、日本は極東の平和を希望して九ヵ国条約を締結した。これはワシントン会議に出席した九ヵ国、すなわちアメリカ合衆国・イギリス・オランダ・イタリア・フランス・ペルギー・ポルトガル・日本・中華民国(支那)との間で締結された条約である。

 この条約は、支那に関する条約で、支那の門戸開放・機会均等:主権尊重の原則を包括し、日本の支那進出を抑制するとともに、列強の支那権益の保護を図ったものである。

 日本は、この九ヵ国条約を締結したことによって、第一次世界大戦中に結んだ石井・ランシング協定を解消し、機会均等を受け入れ、この条約に基づいて別途支那と条約を結び、山東省権益の多くを返還した(山東還付条約)。

 これ以後の国際体制がワシントン体制と呼ばれる支那権益の侵害を排除する体制となった。

 しかし、この九力国条約の根本的誤謬は、まだ責任ある国家でもない支那共和国(中華民国)の国境を明確に定めないで、その領土保全を認め、清朝に忠誠を誓ったモンゴル人、満洲人、チベット人、回教徒、トルキスタン人らの種族がその独立権を、漢民族の共和国に譲渡したと一方的にみなしたことである。従ってここで、実体と全くかけ離れた極東アジアの状況を作り出した。

また、この九ヵ国には支那に強大な影響力を及ぼし得るソ連が含まれておらず、そのソ連は、一九二四年(大正十三年)には、外蒙古を支那から独立させてその支配下に置き、また国民党(蒋介石軍閥)に多大の援助を供与するなど、九ヵ国条約に縛られず、自由に活動し得た。その結果、同条約は日本に極めて不利となった。支那とソ連に自由を与え日本を縛ってしまった。

  ワシントン体制はワシントン会議で締結された九ヵ国条約、四ヵ国条約(アメリカ・イギリス・フラ ンス・日本)、ワシントン海軍軍縮条約を基礎とする、アジア・太平洋地域の国際秩序を維持する体制であるが、日本では、この体制を基盤とする外交姿勢を協調外交(幣原外交参照)と呼び、代々の立憲民政党内閣の外相・幣原喜重郎らによって遵守されてきた。

 しかし、一九二六年(大正十五年〈昭和元年〉)に蒋介石の北伐が開始され、この年に万県事件、翌一九二七年(昭和二年)に南京事件(一九三七年〈昭和十二年〉のいわゆる南京大虐殺といわれる南京事件ではない)や漢口事件が発生すると、日本国内では邦人に対するテロ行為を容認する結果となった協調外交に対する不満が大きくなり、とりわけ軍部は「協調外交」による外交政策を「弱腰外交」と して強く批判した。

 義和団の乱後に締結された「北京議定書」で、日本を含む列強各国は支那大陸の自国民保護のための軍を駐留させていた。支那大陸の邦人がテロの被害に遭うたびに、「軍は何をしているんだ」と日本軍は国民から突き上げられていたのである。

満洲の独立を支援した日本の狙い

 満洲に跋扈していた張学良軍閥の日本人に対するテロ行為が頻発し、ついに日本軍(関東軍)は一九三一年(昭和六年)、柳条湖事件をきっかけとして、この張学良軍閥を討伐し駆逐した(満洲事変)。

 ところが、この軍事行動(満洲事変)は九ヵ国条約で定められた支那の領土保全の原則に違反しているとして、各国から非難を受けた。それ以後もたびたび日本の行動は同条約違反と非難されたが、日本側は非難を受けるたびに、本条約を遵守する声明を出し続けたのである。

一方満洲の民は、これで日本軍が張学良軍閥というゴロツキ集団を追放してくれたので、これを好機と捉え、独立を果たしたのである。

 翌一九三二年(昭和七年)に成立した満洲国は、中華民国が負った義務を継承するとし、また満洲国承認国に対しても門戸開放・機会均等政策を実行した。

 しかし、一九三四年(昭和九年)十一月に満洲国において石油専売法が公布されると、イギリス・アメリカ・オランダの三ヵ国は(未承認の満洲国にではなく)日本に抗議した。それに対し日本は、日本にとって満洲国は独立国であるため干渉することはできないこと、そもそも門戸開放・機会均等は特定の第三国に通商上の独占的排他的特権を与えないことに過ぎないことなどを伝えた。

 しかし、一九三七年(昭和十二年)七月七日に起きた盧溝橋事件に始まる支那事変で、日本は不拡大方針を発表しているにもかかわらず、蒋介石軍閥と支那共産党が邦人に対して起こす連続テロ事件で、戦線が徐々に拡大していった。ソ連や欧米列強が蒋介石軍閥に対日テロを指喉し支援していたのである。

 列強は蒋介石軍閥と支那共産党を支援して日支和平を仲介すべく、一九三七年十一月にブリュッセルで九ヵ国条約会議(ブリュッセル国際会議)の開催が急遽決定された。

 しかし日本側は、この会議が支那側を支援している欧米列強国の日本糾弾会になることがわかっているので、会議への出席を拒否した。これにより本条約は事実上無効となり、ワシントン体制は名実ともに崩壊した。

 欧米列強はこれを日本の所為にしているが、真相は真逆である。日本の外交政策と自衛手段をことごとく妨害し、日本は生存権すら奪われかけたのであった。

 その後も、日本やその他加盟国との和平の道を探るも、列強に支援された蒋介石軍閥と支那共産党は邦人に対するテロを繰り返し、条約は破り、条約の交渉さえ妨害した。

 そしてついに、日本は一九三八年(昭和十三年) 一月十六日、「爾後國民政府ヲ對手トセズ」とする第一次近衛声明を発表し、和平への道は閉ざされた。

 さらに、蒋介石軍閥に愛想を尽かした汪兆銘が、蒋介石軍閥を離脱して汪兆銘政権を樹立し、この政権が支那大陸の大半を支配する。日本と協調して支那大陸の正統国家樹立を目指した。昭和十二年に始まった支那事変は、翌十三年にはほぼ終結する。

 後に日米交渉の後、アメリカの出したハルノートでは、この汪兆銘政権ではなく、支那事変の日本の敵対勢力である蒋介石軍閥を、正統政府と認めることを日本に強要してきた。

 満洲国は一九三二年(昭和七年)に建国され、一九四五年(昭和二十年)にソ連の軍事侵略で消滅した。この地域は一九一一年(明治四十四年)の辛亥革命で清朝が滅亡した後は、張作霖軍閥が支配していた。そして、一九二八年(昭和三年)に起きた張作霖爆殺事件で張作霖が死去してからは、息子の張学良が父を継いで支配していた。

 日露戦争当時、清国は露清密約(軍事同盟)を隠蔽していた。日露戦争は、実際はロシア・清国の連合軍と日本との戦争であった。従って日本にとっては清国も敵国だったので、ポーツマス条約では、日本は満洲を併合することもできたのである。

 張学良軍閥が満洲の人民を搾取し、苛斂誅求がひどかった。そして、張学良軍閥は、日本が運営する満洲での満洲鉄道とその付属地で、日本人を襲撃し、鉄道やその沿線の日本人の施設を破壊するテロ行為を繰り返し、前述の通り、ついに関乗車が柳条湖事件をきっかけに、張学良軍を攻撃し、これを満洲地域から追放した(満洲事変)。

 当時の極東アジアの真実を示した書

 これを好機と捉えた満洲人民は、支那から独立し、満・蒙・朝・華・日の
五族協和王道楽土を建国の理念として、満洲国を建国した。

 軍閥・張学良を追放して建国された満洲国は、わずか十三年でソビエト連邦の侵略で消滅したが、この短い間に目覚ましい経済発展を遂げ、アジアの大国に育っていた。世界が寄ってたかってこれを潰していなければ、この国はアジアの大国に成長していたはずである。だからこそ、早いいうちに潰しておこうとなったのであろう。

 実際、この満洲国は建国直後から、米国と国際連盟の様々な干渉を受け、苦難の船出をしたのである。満洲国の顧問を務めていた片荷のブロンソン・レーは、その理不尽さに憤慨し、特に米国の意図が奈辺にあるのかを本書で厳しく追及している。

 日本が誠実に平和を希求し、欧米列強に対し、妥協に妥協を重ね、隠忍自重しているのに、米国は嵩にかかって日本を追い詰めていく。このままいけば日本と戦争になると、ブロンソン・レーは警告している。

 そして現に戦争になってしまった。彼は本書で、満洲国建国前後からの列強の日本虐めを本書でつぶさに書き残している。

 欧米列強は満洲国を承認しなかった。リットン調査団を派遣し、できたばかりの満洲国を、日本の傀儡国家であって、国家としては認められないと決定した。

 民族が権力者の圧政に苦しんでいる間に、機会を捉えてその権力者を排除して独立する権利は、あらゆる人民に認められている。この点は本書でも詳細に記している。他国がその独立を承認することと、その国の独立とは全く無関係である。

 現に、満洲国は、建国以来目覚ましい発展を遂げ、毎年百万人の移民が、主として華北から万里の長城を越えて流入した。それに、当時の独立国は六十ヵ国未満であったが、そのうちのおよそ三分の一の二十ヵ国が満洲国を承認している。承認しないといっている米国やソ連ですら、満洲国と協定を結び、支社などの出先機関を置いていた。

 ソ連はチタとブラゴヴェシチェンスクに満洲国の領事館設置を認めていた。また、北満鉄道譲渡協定により北満鉄道(東清鉄道)を満洲国政府に譲渡するなど、満洲国との事実上の外交交渉を行っていた。

 先の大戦後は、満洲国は存在しなかったことになっている。寄ってたかって列強が満洲国を潰してしまったので、その存在を認めると世界は困るからである。この地域を現在統治している中華人民共和国は、この満洲国のことを偽満洲国といい、東北三省といっている。

 中華人民共和国を建国した毛沢東は、蒋介石率いる国民党に追われ、延安まで逃げるが、「満洲さえ取れば何とかなる」といって満洲侵略を狙っていた。

 満洲事変からの日本の支那大陸における行動を、日本の支那侵略(満洲侵略)という。支那の軍閥が行った日本に対する不法は一切隠蔽し、日本の行動だけを侵略というのである。日本軍(関東軍)は自衛行動しか取っていない。

 日本の大陸における権利・権益は令て条約に基づいた正続なものであるにもかかわらず、今では日本人ですら、この権利・権益を防衛する日本の行動が侵略であったという。

 この時代の歴史を知らないからである。日本の総理で「日本は侵略戦争をした」と最初に発言したのは細川護煕元総理であった 無知も甚だしい、彼はこのブロンソン・レーの本を読むべきである。

 ブロンソン・レーは、満洲国の存在とその前後の極東アジアに関する極めて重要な歴史事実を明確に書き残している。彼がここで書き残した。歴史事実を理解しなければ、当時の極東アジアの真相は決して理解できるものではない 当時の日本の行動も理解できない。

 その意味では、本書はアジアの近現代史を理解しようとする人にとっては必読のに書といって良い。

                               企画・調査・編集  吉重丈夫

「満州国建国」は正当である 目次
『「満洲岡建国」は正当である』新訳版刊行に寄せて/1
    
    まえがき/5

    新訳に際して/27

    序文/29

第一部 米国はアジアに何を求めるのか?・

    第一章・不承認主義
        スティムソン・ドクトリン/34 気まぐれな承認方針/37 法の紛い物
        /41 戦争の火柱/43 極東における米国の責任/46 米国の対極東政
        策とは何か?/49 「強力な支那」とは何か?/52 人道主義と基本政策
        /56 ジョン・クウィンシー・アケダムズの対支政策/58 流れ着く先は戦
        争状態/62

    第二章・戦争を企てる者
        日米戦争への宣伝工作/65 米支秘密同盟/68 卑劣な手段/70 巧妙
        化する企て/71

    第三章・日本の軍国主義
        評決を覆せた重要な鍵/75 露清密約/77 一九一五年の満洲に関する
        条約/78 北京政府の自白/79 審理を経ない有罪判決/80 安全保障
        の値段/82

    第四章・満洲に関する法
        乗っ取り屋の三国/84 存在しなかった不法行為/86 同じ鋳型/88

    第五章・アジアの根本的な問題
        日本とはどういう国なのか/90 多子多産の人口問題/93 二十年で二
        億人増加のアジア人/94 米国は日本と戦うべきか?/96

    第六章・門戸開放という神話
        数字が示す客観的事実/98 赤字の海/100 貢献度が低い米国の対支投
        資/104 日本が作った米国産綿花市場/106 奇妙なポーカーゲーム/107

    第七章・支那の門戸を閉ざす米国
        門戸を閉ざした米国による独占/110 国策遂行手段としての独占/113
        自力復活の唯一の機会を奪ったウィルソン/115 再びウィルソンに否定
        された国家主権/117 再び不利益を被る支那共和国/118 日本は米国の
        パートナー/119 抗日運動の展開/122 独占はいつ非独占となるのか
        /125 主権の弱体化/129 日本の登場/132 ウィルソンの方針転換/133
        支那の棺に打ち込まれた最後の釘/134 鉄道に代わった爆撃機/135 求
        む「政策」/137

    第八章・国際的な儲け話
        「支那の友人」たちの思惑/140 日本の無私かつ利他的政治行為/142

第二部 問われる判事の中立性

    第九章・審問なしの有罪判決
        法が機能しない政治的法廷/146 普遍的な基本原則/147 諧謔精神の欠
        如/148 残るは世論という法廷のみ/150

    第十章・支那ではない満洲国
        説明のできない干渉する権利/153 先例のない領土主権の概念/154 西
        洋の基準で測る東洋の状況/157

    第十一章・移住は主権を伴うのか?
         満洲民族と漢民族の違い/159 日本人のハワイ領土主権/162 判事失格
         の米国/164 移民法の抜け穴/165 米国が学ぶべき教訓/167

    第十二章・自発的な革命とは何か?
         独立前の米国と似た満洲国の状況/168 満洲国で繰り返される米国の歴
         史/170 民の声は神の声/172 危機に瀕する日本の名誉/173

    第十三章・少数派による革命の妥当性
         国民党が軍事独裁政権となった理由/175 満洲人が立ち上がるとなぜ非
         難されるのか/176 矛盾だらけの条約/178

    第十四章・法と自由との対峙
         新国家樹立の合理性とは/180 満洲国の正当なる主張/182 追悼の壁
         /184 神の御業/187 法の機能不全/188

    第十五章・革命に定則なし
         再び権限を手にした満洲人/190 国家主権を巡る支那の革命/192 支那

    第十六章・援護あってこその反乱
         テキサス併合の正当性と満洲問題/197 大英帝国の役割/200 なぜ独立
         を宣言したのか/201 判事の資格があるのは誰か?/203 ウェスト
         ヴァ-ジニアと満洲国/205

    第十七章・虚構の国家
         支那の共和制の意味/208 人道主義に反する行為/209 犠牲にされた自
         由/211 連合規約のない支那国家/212

    第十八章・第一原理の否認
         共産主義者のマグナ・カルタ/214 真実に対抗できない擬制/216 第一
         原理の否認/217

    第十九章・判事の中立性を問う満洲国
         必要性の前に法は存在しない/119 承認は米国人の責務/220

    第二十章・いたるところに傀儡政権
         主権国家とはいったい何か/222 人形芝居の資金/223 支那に停泊する
         米国砲艦/224

    第二十一章・条約に違反していない満洲国
          米国が満洲問題に干渉できる唯一の根拠/227 効果を失った九力国条約
          第七条/229

    第二十二章・支那共和国の根本法
          いかなる条約にも優先する協定/232 詩的正義(ポエティック・ジヤスティス)の            主張/235 厚顔無恥の訴え/236                               
    第二十三章・満洲国の権利の確認
          自由のために戦う決意/240

    第二十四章・鍛冶屋の合唱
          満洲国獲得計画の考察/243 不満のない住民/245 信用できない支那の
          証言/247

    第二十五章・手本は米国
          米国のキューバ支援と日本の満洲支援/249

    第二十六章・法に立ち戻れ
          与えた者は処分することもできる/252 満洲人はなぜ抗議しなかったの
          か/255

    第二十七章・常に独立している満洲
          南京政府に干渉する権利はない/258 違法な条約を根拠とする支那の主
          張/260

第三部 条約について

    第二十八章・日本は不戦条約に違反したのか?・
          自衛権は国の基本的義務/264 一九三一年九月十八日夜/266 米国の自
          衛権を否定する連盟裁決/268 調査団を招いた日本/271 メイン号の惨
          劇/272 最初から結論ありきの調査団/275 モンロー主義が定めた法
          /278 日本には認められない自衛権/279 領土王権を国際裁判に掛けた
          ことの罪/281

    第二十九章・九力国条約と決議
          無視された「十三件の決議」/282 条約侵犯者は誰か?/284

    第三十章・ 公認された放蕩者
          支那からはぎ取られた蒙古/289 広東政権とソ連の謀略/290 赤の脅威
          /291

    第三十一章・合法的殺人
          支那の内戦の合法性とは何か/297 列強諸国の責任と告発/298 フィリ
          ピンの利他主義と支那の利己主義/300

    第三十二章・内政干渉の歴史
          覇権は再び東洋に戻る/302 眠っている犬を起こすな/304 儲けるのは
          武器商人/305

    第三十三章・自存権の法
          日本の自衛手段を禁ずる条約/307 ロシアに与えられた白紙委任状/308
          自存権の法/309 フロリダと満洲国/312

    第三十四章・自己犠牲の法
          阻止された改定/315 優先されるべき常識/317

    第三十五章・国家ではない支那
          省の独立/318 人道主義に対する犯罪/320 何か国家を作るのか?/322

    第三十六章・国家の分解
          人道的解決/325 民族主義の原則/327

    第三十七章・妄信が導く戦争
          武力統制で秩序を保つインド/329 さらに賢明なトルコ人/332 英国と
          オスマン帝国/96 支那には適用されない大迫土義//337

    第三十八章・列強の利益優先
        比較優位を保つ米国/339 追い詰められた日本/342

    第三十九章・共産主義への道
          もう一つの共産主義国家による支配/345 モスクワの真の目的/346 日
          本は自殺すべきなのか?/347

    第四十章・支那が留保した権利
          除外された日支間の意見対立/349 なぜ支那は連盟に訴えたのか?/351

第四部 真の問題は日本対共産主義

    第四十一章・日本の存亡の危機
          直面する真の極東問題/354 ピョー・トル大帝の遺言書/356 独立を巡る
          日本の戦い/358 ソ連のむき出しの帝国主義/360 脅威はどちら側から
          やってくるのか?/361

    第四十二章・田中上奏文とされるもの
          シオンの議定書と世界革命計画/363 抵抗し難い勢力/366 数の重荷
          /368

    第四十三章・田中男爵の正当性
          日本への嫌悪感を執拗に訴える/371

    第四十四章・英米に追随する日本
          予防手段に出た日本陸軍/374 大英帝国の防衛方針/376 国際法は日本
          には適用されるのか?/379 新生国家の承認を拒む米国/381

    第四十五章・いわゆる「広田原則」
          至極当然な自国防衛宣言/384 支那の分割/386 幻滅した日本/387

    第四十六章・ソ連外交の目標
          日本への対抗を目的に加盟したソ連/389 迫りくる最終決戦/392 保安
          官になった無法者/392 日本対共産ド義/川 米川はシベリアで何がし
          たいのか?/396

第五部 選択を迫られる米国

    第四十七章・共産主義のためにシベリアを救った米国
          固い頭では到底理解できない/398 逆行する歴史/401 長江流域を勢力
          圏とした英国の思惑/405 秘密外交がもたらしたもの/407

    第四十八章・立場を宣言した日本
          公平な判断が下されると信じた日本/410

    第四十九章・記録を調べるべし
          日本の戦果を奪い去る米国/414 米国にとって最も危険な敵は米国自身
          /417 米国は「苦境に立っている」のではないか?/420 馬鹿げた戦争
          /422

    第五十章・ 米国民は忘れるな
          着実に触手を広げるソ連/427 米国に対して扉が閉ざされた理由/430
          終わらない覇権争い/433 日本を支持する英国/434

    第五十一章・選択を迫られる米国
          帝国主義的意図を隠す大義名分/438 世界の指導者としての判断/442

    第五十二章・増強せよ
          日本の封じ込め政策/445 行進を続ける日本/448 天秤に掛けられた文
          明の未来/453

支那の難問を解く鍵
   「参考資料1」露清秘密条約(一八九六年〈明治二十九年〉五月二十二目調印) 455
   「参考資料2」ピョートル大帝遺言書 458
   「参考資料3」清国皇帝退位協定二十二年〈明治四十五年〉二月十百調印) 461
   「参考資料4」支那に関する九ヵ国条約 463


あとがき 467
満州国建国当時3000万人の人口を擁していたが1940年の時点で4000万人強であった。五族協和を唱えてはいたが満州族が95%を占めていた。

第二次大戦後、漢族が侵入し民族浄化に近い形で漢族との同化が行われ2010年の中国の国勢調査では1,038万人に減ってしまっている。

現在はごく少数の老人を除いて満洲語を話す者は殆どおらず、伝統宗教のシャーマニズムの信仰もほとんど残っていない。このような状況から、満洲民族は、言語的・文化的に中国社会に同化され、失われつつある先住民族であるとも見なされうる。

1980年代以降は政府の少数民族優遇政策から積極的に民族籍を満族に改めようとする動きがあって、満族の人口は10年あまりのうちに3.5倍以上に増加しているが、これは満族になる事で少数民族として優遇措置の恩恵を受けようとする人が多いためといわれており、満洲語を話す満州族が増加している訳ではない。

毛沢東時代中華人民共和国内では大躍進の飢饉死者5000万8000万の死者の死者、文化大革命の死者2000万において満州族の被害がどの程度なのか資料がないが、純粋の満州族が改革開放直前に300万人程度しか満州族を自称する人がいなかったことになるので、同化による減少だけではなかったと思う。清国時代~満州国時代において満州族は漢族より高い教育水準を誇っていた為、インテリを敵視する毛沢東/紅衛兵により民族浄化された可能性は否定できない。

民族として満州国を建国したにもかかわらず中国に呑み込まれた民族の末路としてチベット同様、日本は満州国について強い関心を持つべきではないだろうか?

特に満州国建国の正当性は、戦後レジームの脱却する重要なファクトになるかもしれない。

本書は、満州国建国の実態を東京裁判というフィルターを通さずに正しく後世に伝える本として非常に有益な本であると思います。



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私のブログでジブリ映画「コクリコ坂から」を評するに当たり、どうしても取り上げなくてはならない逸話がある。

メルの父が朝鮮戦争で死亡したと語られていることだ。「あれ?日本が朝鮮戦争に参加していたのか?」と思われれれる方もいるだろう。

 朝鮮戦争に日本が非公式に参加していたことは当時も今も、あまり知られていないかもしれないが、それでも海上自衛隊の前身である海上保安隊による日本特別掃海隊北朝鮮の機雷を排除していたことぐらいは私でも知っていた。


しかし、メルの父が従事していたのは、私も、ほとんどよく知らなかった日本人船員によるLSTによる海上輸送及び上陸作戦への従軍である。



Photo #: 80-G-424505

Hungnam Evacuation, December 1950

A truck convoy moves along a shore road to the evacuation beach at Hungnam, 18 December 1950.
USS LSM-419 (at left) and two
Japanese-manned LST s are loading  in the immediate background.

Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives.

Online Image: 109KB; 740 x 600 pixels

Reproductions of this image may also be available through the National Archives photographic reproduction system.
興南(フンナム)撤収作戦1950年12月
1950年12月18日 興南撤収作戦において撤収するビーチへ向かって海岸沿いの路を移動するトラックの隊列の先にLSM-419が停泊しそその奥の2隻はしっかり日本人が乗船したLST(戦車揚陸艦)と書かれています。

Photo #: NH 97155 Inchon Invasion, September 1950 LSTs on "Yellow" Beach, on the Inchon waterfront, 16 September 1950. Second ship from the front is probably USS LST-914 .Next beyond her is USS LSM-419 .
The other two LSTs present are Japanese-manned, and therefore unarmed. Official US Navy Photograph, from the collections of the Naval Historical Center. Online Image: 112KB;
1950年9月15日の仁川上陸作戦 最前線の仁川上陸作戦1950年9月16日にもイエロービーチに二隻の日本人が乗船するLSTが存在している写真もある!
イメージ 9
追い詰められた連合国軍の頼りは日本からのLSTによる補給であった。
朝鮮戦争
 イメージ 10中国軍の攻勢が始まって3日経過した11月28日の夜に東京でようやく主要な司令官を召集し作戦会議が開かれた。マッカーサーが一人で4時間以上もまくしたて中々結論が出なかったが、翌29日に前進命令を撤回し退却の許可がなされた。しかし前線より遥かに遠い東京の司令部で虚論が交わされている間にも、国連軍の状況は悪化する一方であり、既に包囲され前線が崩壊していた第8軍の第2師団は中国軍6個師団に追い詰められわずかな脱出路しか残っていない状況であった。マッカーサーは第8軍に遅滞行動を取らせている間に第10軍を敵中突破させ撤退させることとした。各部隊は中国軍の大軍と死に物狂いの戦いを繰り広げながら「アメリカ陸軍史上最大の敗走」を行った。退却した距離は10日で200㎞にもなり、1940年のフランス軍やシンガポールの戦いのイギリス軍の崩壊に似たとも評された。撤退は成功し国連軍は壊滅を逃れたが、受けた損害は大きく、もっとも中国軍の猛攻に晒されたアメリカ軍第2師団は全兵員の25%が死傷するなど、国連軍の死傷者数は12,975名にも上った。しかし中国軍の人的損害はその数倍に及んだ。
朝鮮戦争において仁川上陸や興南撤収作戦は非常に重要で危険な作戦でった。
その危険な作戦において日本人が乗務するLSTが利用されていたとは・・・少なからず衝撃だ



など今まで読んだ本のどこかで読んだと思うのだが、戦後の軍の再建にあたり、旧軍隊の航空隊出身者が、朝鮮戦争における部隊の輸送や、LSTによる海上輸送について触れられていたと記憶していた程度で、私ですらLSTによる海上輸送の存在をあったらしい程度しか認識が無かった。

NHKの特集海軍反省会の回で知ったか私もどの本で知ったか記憶にはないが、少なくともあったらしいとは知っていたが、宮崎監督が朝鮮戦争時にLSTによる海上輸送を取り上げたこと自体驚きである。

メルの父澤井雄一郎は単なる海難事故で亡くなったことにしてもストーリー上で大きな影響はないように思えるが、あえて宮崎監督はこの設定にした。

メル達が徳丸社長を訪問するシーンでもこの言葉が出てきて、触雷の瞬間までが映像化されています。
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徳丸「君は何年生?」
メル「二年です。松崎海と申します。週間カルチェのガリ切りをやっています」
徳丸「お父さんの仕事は?」
メル「船乗りでした。船長をしていて、朝鮮戦争のときに死にました……」
徳丸「LST?」
メル「ハイ」
徳丸「そうか、お母さんはさぞご苦労をして、あなたを育てたんでしょう。いいお嬢さんになりましたね」

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当時の日本では、LSTの朝鮮戦争従軍は当事者と一部政府関係者以外誰も知らないだろう。知っていたとしても、海運関係者とか、事情通のジャーナリストなどごく少数であったと思う。劇中で週刊誌の出版社の社長である徳丸社長であれば、海運関係者、当事者、ジャーナリストから聞いていたかもしれないという設定だ!

これが、ただの建設会社の社長だったら?「朝鮮戦争で船長であった父が死んだ」と女子高生が言ってたら、何をおかしなことを言っているんだという話になってしまったろう。直訴先の理事長が、出版会社社長とした宮崎監督の設定が絶妙である!

週刊誌も発行している出版社の社長であれば、国の極秘事項を記事にできないまでも、風評程度は知っていてもおかしくは無い。ただ、当時それなりに社会常識がある家庭の子女であれば、父の死の秘密は、口外してはいけないと教育していたであろうから、その点がリアリティさに欠けてしまう。

まあ、その点に違和感を感じるのは、私のようなごく少数でしょうから、あくまでもアニメの物語では、意外にキーポイントだったのかもしれない。

徳丸社長は、劇中では語られなかったが、社長自身、戦中・戦後に苦労したであろうことは画像から伝わった。そう感じさせる吾郎監督は見事ではないか!
そして、軍事ヲタクの私をうならせる宮崎吾郎は宮崎駿の後継者だ!

徳丸社長にとって、メルの父が朝鮮戦争の「忘れ去られた海上輸送」で亡くなったことに深く同情するであろうことは想像に難くなく、たかが高校生が大人の都合を動かすことは普通考えられない。それでも奇跡を起こしたのは、あえて極秘作戦の犠牲者の娘が、事情通の理事長と遭遇する奇跡があってのことだ。その為に日本人による朝鮮戦争非公式参戦である日本人によるLST海上輸送を宮崎監督が取り上げられたという見方も出来るのではないかと思います。

改めて、朝鮮戦争時の海上輸送について改めて調べてみた。


朝鮮戦争と日本の関わり
―忘れ去られた海上輸送―
石 丸 安 蔵


【要約】朝鮮戦争において日本は、後方基地の役割を果たした。そしてそこでは戦場と後 方基地の補給路としての海上輸送が、重要な役割を担っていた。その海上輸送を支えたの は、太平洋戦争の終戦処理としてアメリカから貸与され、日本人により運航されていた戦 車揚陸艦であった。さらに日本商船や日本人港湾労働者の関わりも囁かれてきたが、これ らの記録は乏しい。そこで本稿では朝鮮戦争における海上輸送の全容解明の手口として、 アメリカ海軍の資料をひも解くとともに、占領下の日本海運が置かれた特殊な状況も併せ 考察した。

はじめに 

1950(昭和 25)年 6 月 25 日朝鮮戦争が勃発した。そしてその朝鮮戦争勃発により、ア メリカ軍は多くの問題に直面したが、開戦当初から差し迫った問題が 1 つあった。それは 開戦に伴い日本に駐留していた占領軍を、迅速に朝鮮半島に輸送する必要があったにもか かわらず、アメリカ軍にはこれらの兵員、物資を輸送するのに十分な船舶がなかったこと である。この問題を解決するためにアメリカ軍が採った方策は、第二次世界大戦の終戦処 理として日本政府に貸与していた LST(Landing Ship Tank:戦車揚陸艦)や日本の商船 を利用することであった。これらの LST は日本人が乗組んで運航していた。

但し海上輸送 に関する記録はといえば日本側によるものは極めて少なく、当時の乗組員の証言や随筆1な どが残っている程度であり、関連する文献2などにも、海上輸送の全容を扱ったものは数少ない。

 一方で、朝鮮戦争において掃海作業を行った日本特別掃海隊の活動については、1978(昭 和 53)年、当時の海上保安庁長官大久保武雄がその著書において公表し、さらに派遣に 関する研究4も行われ、当時の関係者もいくつかの手記5を残している。このように日本特 別掃海隊の活動に比較すると、海上輸送にあたった LST や日本商船の活動に関する記録は 少ない。

また、海上輸送に日本人が関わったという事実を追求しようとしても、海上輸送 は「会社と GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)との契約に基づく行為であり、政府は 全く関与していない」というかつての政府答弁に見られるとおり、全容解明には大きな壁 が横たわり積極的に論議されることもなかった。 

以上のような海上輸送に関する記録が少ないという現況は、戦後においても日本人が関 わった海上輸送の議論には触れないことが是とされ、いつの間にか人々の記憶からこのこ とが「忘れ去られた」証左であるとは言えないであろうか、というのが本稿の問題意識で ある。

そこで本稿においては、これまでの日本側資料に加え、当時アメリカ海軍太平洋艦 隊司令部が戦争遂行と同時に作成した「朝鮮戦争における海軍作戦に関する中間評価報告 」をひも解き、日本人が朝鮮戦争において関わった海上輸送に関する史実を振り返ること とした。

具体的には、どのような背景で日本人乗組みの LST や日本商船が使用されたのか、 どのような分野で日本人が関ったのか、そしてそれらの活動に対しどのような評価を受け、 どのような問題点があったのか、そしてなぜ「忘れ去られた」ものとなったのかを以下に 検討してゆくこととする。



【日本海運と朝鮮戦争の関わり】
 朝鮮戦争時に日本海運業は、国連軍の兵士や物資の朝鮮半島への輸送を担当していました。

朝鮮戦争時の特別掃海部隊の話は多くの人に知られているようですが、海運業の国連軍への協力はあまり知られていないようです。


【終戦時の日本海運】
 終戦時、日本の海運業は壊滅的打撃を受けていてまだまだ復興の途上でした。

商船の総量は開戦時の610万総トンから120万総トンへ(戦時中の増産で830万総トンに増えてはいました。)、船員の戦死率も43%に達していました。戦死率は陸海軍構成員よりも多いものでした。(陸軍20%、海軍16%)


【占領期の日本海運】
 占領当局は日本を「民主化」(管理人註:工業国から農業国への転換などを目的にしていた)する為に、休戦条約の調印が行われた9月2日以降は全船舶の移動を禁止しました。また、100総トン以上の船舶は占領当局の管理下に置かれる事になりました。


【船舶運営会と占領当局】
 占領当局内において接収した船舶の管理を行う日本商船管理局が設けられ、占領当局は日本政府に対しても管理機関の設置を要求しました。
 そこで日本政府は戦時中から存在していた船舶運営会にその機能を担わせることにしました。

 
【邦人の帰還と捕虜の送還】
 日本政府は外地にいる邦人の帰還と日本国内の捕虜の送還をする為の船舶の提供を占領当局に要請します。そこで占領当局は輸送船やLST(敵前上陸用の船)などを提供します。それらの提供船舶の運営は船舶運営会が行っていました。


【船舶運営会から商船管理委員会へ】
占領当局による商船の民間還元が司令されたことにより、商船は民間企業に戻されることになりました。そこで船舶運営会も商船管理委員会に改編しました。

米国からの貸与船はそのまま商船管理委員会の管轄下に置かれ、日本人乗員によるLST船団が残ることになりました。

船舶運営会も商船管理委員会も日本政府の一機関という面と占領当局の一機関という面の両面を持っています。


【朝鮮戦争勃発】
 朝鮮戦争当時、北東アジア地域に展開する米軍は著しく減少していたそうです。米国本土からの海上輸送も日数が掛かることから、商船管理委員会が管轄しているLST船団と民間商船による輸送船団が編成されました。


【仁川上陸作戦】
 有名な仁川上陸作戦にも日本船団が参加していたという記録が米国に残っているそうです。商船管理委員会のLST30隻、徴用された民間船舶として福寿丸、松南丸、海光丸、第15日の丸、扇洋丸、fuju maruです。


【荷役作業などの港湾労務者】
 輸送だけではなく、荷解きや検数、荷降ろしなどの作業にも日本人が参加していたという記録が残っています。


【どれくらいの日本人が参加していたのか】
・商船管理委員会管轄のLST船団 約2000人
・揚搭作業に従事した機帆船  約1300人
・仁川に派遣された港湾労務者 約1000人
・LR船員          約2000~3000人
・特別掃海艦隊        約1200人

計 約8000人


劇中で、この触雷シーンがあったのだが、朝鮮戦争でこのような大参事が本当にあったのかと資料を読み進めると、主人公メルの父が殉死した惨事に参考にされた史実があったのだ・・・・

P35-36
ところで実際にこのような活動を遂行するにあたり、どれほどの犠牲が生じたのだろう か。ここに朝鮮戦争が勃発してから半年という期間のデータではあるが、特別調達庁が実 施した集計が残されている。特殊港湾荷役者の業務上死亡が 1 名、業務上疾病が 79 名、 その他 21 名(うち死亡者 3 名を含む)であり、計 101 名。

特殊船員の業務上死亡が 22 名、業務上疾病が 20 名、私傷死が 4 名、私傷病が 208 名であり、計 254 名。その他朝鮮 海域等において特殊輸送業務に従事中死亡した者が 26 名(港湾荷役が 4 名、船員が 22 名) となっている。

朝鮮戦争勃発から半年間での日本人死亡者が 56 名となる。 これらの死亡者のうち、1950(昭和 25)年 11 月 15 日元山沖を航行中の LT(大型曳船) 636 号が触雷し沈没した海難事故では、乗組んでいた日本人 LR 船員 27 人のうち 22 名が 死亡69するという悲惨な事故が発生している。

また、日本特別掃海隊は、10 月 17 日元山 沖において掃海活動中の MS14 号艇が触雷し、死者 1 名、負傷者 18 名の損害70を出している。


さすがに、私は朝鮮戦争勃発から半年間での日本人死亡者が 56 名も存在したことを知らなかった・・・・・

おそらくメルの父の殉死したのは、1950年11月15日の海難事故等を念頭に設定されたのだろう。

 朝鮮戦争は今でも終わっていないが、そこに日本も非公式に「参戦」していたことは、今も知られていないのではないだろうか?

P36-37

アメリカ側の評価については、ジョイ(C. T. JOY)極東海軍司令官がアメリカ海軍作戦部長宛に提出した報告書に、次のような評価を残している。
「LST は、恐らく朝鮮戦争における国連軍の成功に最も大きな貢献をした。もしも
LST を十分保有していたならば、それ以上の努力が可能となり、早い段階で我々は勝利を勝ち得ていたと思われる。さらに、SCAJAP 所属の LST が日本になかったならば、我々は釜山を維持することができなかったかも知れません。」

さらに太平洋艦隊中間評価報告には、「SCAJAP の LST による輸送は、戦争の初期段階にこの地域で米商船が十分に得られなかったこと、また多くの場合、岸壁やはしけを必要とせず LST が浜辺に接岸することができたことを考慮すれば、非常に重要なものであった。」と報告されている。

『仁川上陸作戦に参加した日本人乗組みのLSTは五十隻。米海兵隊は神戸で
輸送船からおろされ、戦車、車輛などとともに全部LSTに分乗させられ、朝鮮
に向かった。米海兵隊員も、指探官も、船長も、船員も行く先は知らなかった。
沖縄近くで急にコースを北にかえた。そこではじめて仁川上陸作戦に向かうのだと聞いた。米兵も、われわれ日本人もぴっくりした。そのころ釜山もあぶないとき
だったからである。』
『朝鮮戦争勃発から半年間での日本人死亡者が56 名となる。』
『多いときは神奈川の船員だけで二千名ぐらいは朝鮮にゆきっきりで現地で輸
送、警備、水先案内などにあたったといわれる。』

当事者の手記まであった。2008年左派系の機関誌に載った元府中市議三宮克己氏の手記である。




***その1 「憲法九条が無視された時  ***

もう58年も前の古い話です。

 あまり自慢できる話ではないので辞退したのですが、是非ということで以前『社会評論』に紹介したことを老人が繰り返す昔話のつもりで書きます。

 私は、あの朝鮮戦争のときに勇戦奮闘したわけでも果敢に反戦運動をやったわけでもなく、テレビも新聞もない洋上の船内生活で井の中の蛙がただ情勢に流されていっただけで した。内心忸怩たる体験が「護憲反戦」を主張して7期の府中市議会議員を務めるきっかけになったのでした。

 朝鮮戦争が始まった1950年6月、当時私は平凡な一人の船乗りでセーラーといって貨物の積み降ろしをしたり、デッキ掃除やペンキ塗り、マストに登ったり、航海中には舵を握ったりする下級船員でした。
船員は大体2年ごとに休暇下船し乗り換えることになっており、1946年からの復員輸送を終えて1950年頃たまたま乗り組んだのがLSTという2700トンの米軍上陸用舟艇でした。アジア太平洋戦争で商船のほとんどを失った日本政府が海外引揚げ者用に借り上げ、運輸省管轄下の商船管理委員会に乗組員は所属して、船長以下40名余りでした。 

 朝鮮戦争が始まる前の5月頃には、日本人乗組みのLSTが、相模湾や九十九里浜で米軍の上陸演習に参加させられたとの話を聞き、またグアム島では中国大陸を追われた国府軍 も見かけて、何かキナ臭いなと思っていました。

 6月25日、グアムから米軍用車のスクラップを日本に運んで小笠原附近にさしかかったとき、「朝鮮で戦争が始まった。大至急追浜に荷物を揚げて横浜ドックに向かえ」と無線が 入りました。
大急ぎで追浜から横浜ドックに回ると待ち構えていた工員たちが、5日間ほどで兵員輸送用の大改装を終え、それと入れ代わりに4人乗りのジープに機関銃を備えた軽 武装の米兵約100人が造船所構内から乗り込み、朝鮮半島南東部の浦項にむけて出港しました。
横須賀沖にさしかかったとき、突然船をゆるがす大音響が起こり、米兵たちは「魚雷だ、機雷だ」と大騒ぎになりましたが、船は傾きもせず船内を調べると慌てた工事で溶接を間違えた海水パイプの破裂でしたので、米兵に説明し鎮めました。追浜以来、自分たちの周りに何が起って、何をするのか否も応もないあわただしい朝鮮への出発でした。浦項の手前の九竜浦に着き、日本で遊び呆けていた米兵たちは、本国にでも帰るかのように、 ギターやガラスケースの人形、卓球台までも抱えて「バイバイ」と陽気に上陸していきましたが、後でこの部隊は大田附近で壊滅したと聞きました。
v 
 佐世保や久里浜から釜山へ兵員、物資の輸送に往復しているうちに「北朝鮮軍」から半島南東部の大邱、馬山、釜山をつなぐ狭い三角地帯に追い詰められた米・韓軍と避難民で 釜山の街はあふれ返り、岸壁附近は戦車、トラック、積み上げられた貨物、荷揚げ人夫、移動する兵士たちでごった返していました。

 朝鮮海峡をはさんで直ぐ向かいの日本からは、大小の貨物船で旧日本陸軍仕様のニッサン、いすずのトラック、渡辺製菓の韓国軍用携帯食糧、森永製菓の乾パン、日本製の木箱 入り銃弾などが続々陸揚げされ、さらに日本で焼いた食パンまでもバラ積みで運び込まれました。韓国紙幣も印刷梱包して運び込んだといわれています。

 狭い三角地帯では膨大な軍隊への給食施設も食糧工場もなく、銀行の紙幣印刷工場もなくなっている状況の所に、日本から総力をあげてのピストン輸送の補給で米・韓軍は持ち こたえ、日本の軍需産業は私たちの目の前でみるみる復活していきました。


*** その2 後方支援から最前線へ ***

 九州の小倉、門司、佐世保などの港は船や鉄道で送り込まれた米兵や軍需品の集中、分散で大混乱と好景気に沸きました。戦災跡にバラックのバーや米兵相手のお土産店が立ち並ぶ街が出現し、トンコ節(ぶし)がはやり「戦争があるといいな、こんなに景気がよくなった」との声も聞かれました。物価はどんどん上がり、帰港のたびに買う肌シャツが40円、60円、100円と値上がりしていきました。

 対岸の釜山の岸壁では荷揚げに動員されたインテリから「これで日本は復興、戦争様さまですね」と戦争支援に感謝どころか、火事場泥棒の非難を浴びせられました。

 9月に入ると岸壁の40トン戦車とその兵員たちが積み込まれ始め、密かに「北朝鮮」軍 の後方仁川へ敵前上陸との情報が入ってきました。船内では当然この参加について大議論となり、先の戦争で何回も撃沈され辛うじて生き残った先輩たちは、「5年も経たないのに又戦争か、俺はいやだ、船を降りる」と激怒、私たちも「日本は戦争放棄だ、永世中立だ、他国の戦争に参加できない」と理屈を並べ立てましたが、海の向こうの日本から無線で山崎猛運輸大臣の「現地指揮官の指示に従え」の職務命令を受け不満ながらも従いました。
あくまでも拒否すると「占領目的違反」として逮捕、沖縄に送られ基地建設の重労働に処せられるといわれていました。

 やがて船は無線封鎖、目的地も示されず出港、その都度手旗で指示されるアップル、バナナ、オレンヂなど「暗号の三定点」をたどるうちに何時の間にか米、英、豪、仏などの連合艦隊と米、日LSTの大船団になって到着したのが仁川沖でした。どこからか飛行機が飛んできましたが、沿岸近くの連合艦隊や遥か沖合いの戦艦ニュージャージーの激しい艦砲射撃の後、日暮れの満潮を期してLSTはいっせいに全速力で海岸に向かいました。私たちは行きついた先で何が起きるのか不安で仕方ありませんでした、米兵たちも緊張して一緒に無言で前方を見つめていました。

 夜間、火災のおさまった上陸地点の橋頭堡(敵地に作った重要な足がかり)からの合図で、私たちは一気に船を海岸に乗り上げ船首扉を開けると、戦車は次つぎと船体をゆすらして発進していきました。夜が明けて近くのトーチカ(コンクリートで固めた防御陣地)をのぞくと、「北朝鮮」兵が火炎放射を浴びて真っ黒になって死んでおり、足元に「山岳戦提要」と書かれた冊子が落ちているのを見て「ああ、俺は何をしているのだ、人殺しの手伝いか」と、それまでの捨て鉢な気持ちが一層高ぶってきました。

 船内のラジオでは、国会で徳田球一議員の「朝鮮戦争に日本人は参加していないか。もし参加要請があればどうするのか」との質問に、吉田茂首相は「仮定の事実にはお答えできません」と一言ではねつけました。そんな言葉の応酬に乗組員たちから「俺たちがここにいるではないか」と怒号が上がりました。

 仁川では船が横転しそうな事故に会い救命艇での避難騒ぎもありましたが、横浜で修理を終えるとすぐに旧陸軍の頑丈な防寒コートとフェルトの防寒長靴が支給され、旧海軍飛行兵のライフジャケット(飛行服の上につける救命胴着)が大量に積み込まれ戦後の物不足の中によくも新品がこんなにあったものかと感心させられました。

 十月初旬、引き返した仁川からまた、米兵を乗せて日本海側の元山上陸作戦に向かいました。しかし、湾内に機雷があるとのことで到着した沖合いに三日程防寒コートと長靴をつけて昼夜漂遊機雷を見張りながら待機。米兵たちは全員ライフジャケットを身につけさせられ、着けてないと食事は貰えませんでした。そのうちに機雷を掃海していた米艦2隻、韓国艦1隻それに日本の掃海艇1隻も触雷爆沈、日本側にも1名の死者と多数の負傷者が出たとの情報が入りショックでした。

*** その2  「補足・後方支援から最前線へ」 ***

前号掲載「その2」、三宮さんの乗ったLSTが参加させられた「仁川上陸作戦」について補足します(むらき)

●参考:「朝鮮戦争 年表その2」「仁川作戦から休戦まで」

●2008年8月26日撮影の、現在の仁川の写真です ↓
イメージ 7

 ②仁川月尾島「仁川上陸作戦標識石」1950.9.15 三つの上陸地点のうちの一つ「グリーンビーチ」に建てられているもの。

③現在、仁川国際空港からソウルへの往復の車窓から見られるように、ソウルの西側海岸一帯「西海(ソヘ)」は、遠浅で、干満の差が非常に大きい。仁川港は潮位差が約9mにもなる。

④仁川、自由公園、「マッカーサー将軍銅像」のすぐそばに建てられている「上陸記念碑」。
このレリーフのLST(上陸用舟艇)は兵員だけを乗せています。三宮さんが乗っていたLSTは「40トン戦車とその兵員たち」を乗せる大型でした。

⑤仁川、自由公園の「マッカーサー将軍銅像」。上陸地点を向いて立っています。


*** その3 「米海兵隊にされた日本船員」 ***


 上陸軍司令官は「われ制海権を失えり」とGHQに報告したそうですが、予定より大幅に遅れた米兵たちは、ライフジャケットを防寒着がわりに着たまま上陸していきましたが、既に「北朝鮮」軍は退却した後で、作戦は大失敗のようでした。

 元山作戦を終えると再び日本海を南下、黄海に出て北上、38度線より北の大同江河口の鎮南浦へ、米・日掃海艇の掃海後さらに遡航して旧日本製鉄兼二浦工場横に自動車燃料のドラム缶などを揚げて、参戦してきた中国軍に追われ退却する米軍への補給基地を作り、再び鎮南浦に戻って待機。元山以来食糧も燃料も無補給のため、暖房も止めたので、11月半ばの厳寒の中、防寒コートと長靴のまま寝ている人の息が鉄の船体に冷え、水滴となってポタポタと天井から落ちてきました。

 敗退する米兵を収容すると護衛の艦隊は、砲撃を開始、旧日本鉱業の高さ東洋一といわれた大煙突や巨大なマンモスグレーンを砲撃破壊、陸上に積み残した軍需物資の山と共に街全体も焼き払いました。

夜空を横切って飛ぶ真っ赤な砲弾の下から、「アイゴー、アイゴー」と泣き叫ぶ声が風に乗って聞こえ、帆柱に火のついた小舟で対岸に逃げる人影、私たちは暗いデッキで押し黙ったまま錨を巻き揚げました。

 逃げ込んだ米兵たちは口ぐちに「中共軍と戦うのは日本陸軍が一番だ、日本陸軍は何時くるのか?」と尋ねました。

私は「日本に軍隊はない」と答えますと、「何をいうかお前たちこそ海兵隊ではないか」と言い返されました。

朝鮮現地で作業事故死した日本人LST乗組員を米軍は、「海兵隊員mariner」と報告しています。(外務省外交資料「遺体処理」1951年9月13日付)

 仁川に兵隊を揚げ、佐世保で若干の補給をすると再び日本海側の元山より更に北の興南港に向かいました。

 興南では中朝国境から敗退してきた米・韓軍が中国軍に完全に包囲され救出を求めていました。
私たちの船が38度線を越え、さらに奥深く興南に近づくと街の方々に火災が起こり、沖合いの大型米船に向かって、4、5人の兵隊を乗せて運ぶ水陸両用戦車がノロノロと蟻の行列のように続いていました。すれ違いに南下する小型韓国船には戦死者の沢山の死体がデッキに積み上げられていました。

 救出のため海岸にのり上げ待機しましたが、包囲した中国軍が周囲の山を越えられないように、山を越えて街に侵入されると米軍は全滅なので、一日中海岸、海上から山頂に向けて砲撃がつづき、夜は戦艦ニュージャージーが一晩中絶え間なく吊光弾(落下傘付き照明弾)を打ち上げて山頂を照らし、その下を米・中両軍の火□が交叉していました。まさに戦場の真っ只中でした。

 汚れた服にひげだらけ、あかぎれの手で「ベリーコール、ベリーコール」と寒がる敗残兵を船内に収容すると、喜んで「ジングルベル」を歌っていました。12月も20日頃でした。

*** その4 朝鮮戦争参加で日本は復興 ***

 興南を脱出して数時間後には、東洋一といわれた大工場旧日本窒素興南工場(※)は米軍により40トンのダイナマイトで爆破されたとのことでしたが、当時の写真が97年『朝 日新聞』にひょっこり掲載されました。こうして撤退するときは街を破壊するばかりでな く、拉致もありました。

 半島東部の海岸でしたが撤退するとき、残しておくと敵の戦力になるからと付近の青年 たちを韓国の警察隊や軍隊が集めて、私たちの船に追い立ててきました。岸では家族が夫 を、息子を呼んで探す、青年たちは船上から家族の姿を求めて走り回る、本当に気の毒で した。8時間かけて済州島まで送りましたが、着の身着のままの彼等にインスタントコーヒ ーを沸かし、砂糖をいっぱいにして飲ませてやる以外なにもしてやれませんでした。

 私たちには使命感のない戦争、戦況によっては昼夜兼行の危険作業に体は疲れ、神経は すり減り、気持は荒れてささくれ立っていました。破壊された街や混乱している海岸で出 会った離散家族、助けを求めてくる在留日本婦人、船内にかくれ脱出しようとする人たち に、何故あの時もっとやさしくできなかったのかと今も胸が痛みます。たまに日本に帰る と、みんなで浴びるように酒を飲みました。

 開戦当時は、何だかよく分からないが、まあ物資の輸送なら貨物船の仕事だ、戦争は韓国軍と米軍でしているのだろうくらいに考えていましたが、とんでもないことでした。

 日本沿岸の兵站基地から現地前線への補給や上陸作戦、撤退作戦まで参加すれば、兵隊 と民間人の区別も、前線・後方の区別もつきません。特に撤退の時は、最後の一兵を収容 してから逃げるのだから最前線になるのが戦場の実態でした。この戦争の時の朝鮮・中国 両軍には爆撃機や潜水艦がなかったので、LSTは爆撃や雷撃による犠牲者はありませんで したが、過労と狭い船内生活で結核が各船に蔓延して、私の同僚たちも23,4歳で多く亡く なりました。陸に上がった人たちも、うしろ暗い思いで参戦のことは口を閉ざしているよ うで、参戦を職務命令した日本政府の関係者は今もなお、参戦の事実を秘密にしているの で、犠牲者の実態は不明のままです。

 こうした朝鮮戦争は戦後日本の進路に大きな影響を与えました。

 朝鮮戦争勃発時、ときの首相吉田茂は「不遜な言い方だが天佑である」といったそうだ が、朝鮮特需で敗戦後の日本経済は大いに復興しました。開戦後の2年間で土のう用麻袋、 衣類などから携帯食糧、トラック、機関車、ナパーム弾、吊光弾、迫撃砲弾など兵器、海 陸の輸送などで54億5000万ドルの米軍からの受注とその後の冷戦体制で中国を始めとす る近隣の貿易が絶たれたため、対米貿易に依存する方向に進んで日本資本主義の対米従属 を確立する役割を果たしたといわれています。


*** その5 警察予備隊から米世界戦略軍へ ***

 在日米軍を朝鮮に出動させたマッカーサーは、日本国内の治安を口実に政府へ「警察予 備隊」の創設を命令、しかも武力集団である事を秘し、あくまでも警察官募集を装うよう 指示し、これを受けて政府は1950年8月国会にも諮らず閣議で発足させました。

 戦争の最中1951年9月にアメリカはソ連、中国、東独など社会主義国を除いて、サンフ ランシスコ対日講和を強行し、日米安全保障条約と日米行政協定を結び日本国内にアメリ カ軍基地を建設、アメリカ軍を駐留させました。これにより日本は憲法に違反して軍事力 を増強し、実質的にアメリカの世界戦略軍の一部になることを約束しました。

 資本主義社会では戦争も産業であり、誰かがどこかで儲けているからこそ、その時々の 開戦口実のデマを振り撒きながら戦争は繰り返されています。

 朝鮮戦争は「射ち方やめ」のまま今年で58周年を迎えましたが、未だに平和協定を結ぶ どころかそのための6者協では日本は拉致問題をアメリカにけしかけ、妨害を続けていま す。休戦前の戦争は、当時の占領軍命令でやむを得ない協力だったと言い訳しても、有事立法を制定し、日米軍事同盟まで結んだ今度はそうはいきません、日本国民が選んだ戦争です。それを押しとめるにはそれなりの覚悟が必要です。

 朝鮮半島を、四度までも戦線がローラーのように移動する中で戦争のむごたらしさや、 誰が損をし誰が得をしたのかこの目で垣間見た海上労働者の一人として私は、一日も早い朝鮮戦争の終結で東北アジアの平和を実現してアメリカ軍日本駐留の口実をなくさなけれ ばならないと思っています。そのため平和憲法の下での戦争の事実を日本国民に明らかに し、反戦平和の行動を貫きとおすことが私の生涯の責務だと決めています。                                                                     (終わり) 
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50年12月、国連軍が朝鮮半島東北部の興南から撤収する際、米軍の破壊工作部隊が港湾設備を爆破。猛煙の上がる岸壁付近の沖合で、最後まで残った米軍の艦隊が上陸船の収容作業に当たった。=米海軍撮影。
(『朝日新聞』1997年12月10日)
まあ、最後の部分はとても納得できる文章ではありませんが、左翼の常套手段である偽証捏造の類でなければ、非常に貴重な証言なので、あえて掲載しました。

朝鮮戦争において日本人が運行するLSTは米軍の一翼として大活躍をしました。しかし、当時占領下にあった日本では、それが報じられることは殆どありませんでした。アメリカにとって、まだ日本人は"敵性国民"であったので、輸送任務に協力させるにあたっては機密保持を厳重にして日本側には多くの情報を知らせなかったこと、また日本人船員の間でも、第二次世界大戦で甚大な被害を被った経緯から「もう戦争に関わりたくない」という意識が強かったこともあって、あまり多くの記録が残されておらず、「忘れ去られた海上輸送」となっています。

戦後の日本は、歴史の表に出てこない日本人船員の犠牲を払いながらも、国連軍の後方支援基地としての役割も担い、「朝鮮特需」と呼ばれる好景気となって戦後の経済復興に弾みがつきました。「忘れ去られた海上輸送」は文字通り忘れ去られ、日本人が朝鮮戦争に参加していたという事実もあまり認識されることがなく、そのまま現在に至っています。


北朝鮮や韓国、中国がおかしなことになってきた今日、朝鮮戦争に日本も非公式に「参戦」していた事実を記憶しておくべきであろう。

日本人も米軍も朝鮮戦争で多大な血を流しています。元々はスターリンの思惑があったとは言え、朝鮮人同士が始めた戦争です。特に韓国人にとってはものすごい恩があるはずです。ところが日本や米国に対し、あのような忘恩の無礼な振る舞いはないだろう。

次回朝鮮半島が戦場となっても、日米は韓国を助ける必要があるのか?
米国も多くの血を注いだ朝鮮半島を手放す気にもなれないだろうが、・・・・
韓国人の被害者面にはもう沢山だ!今後何が起きようと、彼の国とは1000年間の国交謝絶が一番である。

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