
裏表紙 ト書
日本人はだれしも「世間」にとらわれている。世間という人的関係の中で、「ゆるし」や「義理」「人情」といった原理に庇護され、安心を得る。故に、日本人は世間からの「はずし」を強く恐れる。
犯罪や不祥事を起こした日本人は、ただちに謝罪しなければならない。日本では真撃な謝罪によって、世間からの「ゆるし」を得て「はずし」を回避することができるのだ。ところが近年、日本の刑事司法が厳罰化する傾向にある。これは「世間」の寛容さが失われつつあることのあらわれなのか?日本「世間」の現在を問う意欲作
p
(4)「お世話になっております」は訳せない
第三の「世間」のルールは、「共通の時間意識」である。
「共通の時間意識」とは、「みんな同じ時間を生きていると考えている」ということである。
もちろん、これは客観的で物理的な時計の時間の話ではない。客観的で物理的な時間の話だったら、近代以前はともかく、今ではだれだって世の中には「同じ時間」が流れていると考えている。
そうではなく、ここでいう時間意識とは、他人にも自分と同じ時間が流れていると考えるという、主観的で内的な時間意識のことである。この場合に大事なのは、そこには「個々の」時間が流れているのではなく、「同じ」時間が流れているということである。この「共通の時間意識」のもとでは、まず、individualたる個人がいないために「個人の時間意識」が存在しない。つまり、各個人がべつべつの時問を生きているという時間意識が存在しないのである。つぎに、「共通の時間意識」のもとでは、個人が存在しないために、人類学者の中根千枝さんのいう「人間平等主義」(中根千枝『タテ社会の人間関係』講談社現代新書、一九六七年)が派生する。あとでのべるが、これは、「世間」のなかでは「みんな同じ」であると考えるために、個々に能力の差があっても、お互いそれを認めようとしないということである。最近のKYという言葉は「空気読め(ない)」という意味だが、劇作家の鴻上尚史さんは、「空気」とは「世間」が流動化したものだという(鴻上尚史『「空気」と「世間」』講談社現代新書、二〇〇九年)。「空気」を通じての同調圧力が生じるのは、「世間」にこの「共通の時間意識」というルールがあり、そこに個人が存在せず、「みんな同じ」でなければならないと考えるからである。また「出る杭は打たれる」という格言があるが、これは「世間」のなかで「目立つ」人間は、つまり他のものと「同じ」でない人間は、〈世間―外―存在〉として「世間」から「はずされる」ということだ。(略)
日本の「共通の時間意識」にたいして、西欧社会は、「個人の時間意識」が作動している。
つまり、個人の「自由」が尊重される。前にふれたように、ヨーロッパにおいてindividualとしての個人は、約八〇〇年前に、都市化とキリスト教の「告解」という制度によって生まれた。
「告解」というかたちで神にたいして罪を告白することによって、自分の内面を外部にさらけだし、それによって人が個人として形成されることになった。日本にはこの「告解」の歴史がなかったために、個人が形成される契機がなかった。そのために現在でも、個人が存在しない。西欧社会におけるような「個人の時間意識」が生まれていない。「共通の時間意識」のもっともわかりやすい例は、「あの時はありがとうございました」(過去)「お世話になっております」(現在)「今後ともよろしくお願いします」(未来)という、「世間」ではごく日常的な挨拶である。これらは、西欧語に訳すことができない。つまり、西欧社会にはない。外国人に無理やり訳して使うと、ヘンに思われるはずだ。これらの挨拶は、日本において、お互いに〈世間―内―存在〉であることを確認するための、必須の手続きである。つまり、同じ「世間」を生きているということの相互の確認である。ありがたく思っていてもいなくても、お世話になっていてもいなくても、よろしくと思っていてもいなくても、これらの挨拶は、過去-現在-未来にわたって、仕事をする上での枕詞として使われる。中根さんは「世間」にある人間平等主義について、「無差別悪平等」であるという。つまりこの人間平等主義においては、能力による差があっても、それは認められない。日本の会社における伝統的労働システムとしての年功序列制などがそうだが、この、歳とともに給料が上がるというシステムは、年齢という「身分」による差別はあるが、だれしもいつかは給料が上がるということでは「平等」である。西欧の民主主義の根幹は「自由・平等・博愛」。そのうち日本では「自由」は受け入れられなかったが、「平等」や「博愛」のほうはわりとうまく受容したといわれる。評論家の加藤周一さんによれば、戦後日本で西欧流の「平等」は徹底したが、「自由」は徹底しなかった。その理由として、日本の土壌に「自由」の伝統はなかったが、平等要素があったからだという(加藤周一「日本社会・文化の基本的特徴」武田清子編『日本文化のかくれた形』岩波書店、一九八四年)。加藤さんは日本における「平等主義」のはじまりを明治維新にみているが、じつは「世間」の「共通の時間意識」、すなわち人間平等主義はそれよりもっと古い。加藤さんのいう「平等主義」とは、西欧流の「法の下の平等」のことであるが、じつは「共通の時間意識」としての人間平等主義とは、それとはまったく異なっている。つまり戦後日本人が「民主主義」といってきたものの中身は、この伝統的な人問平等主義であって、西欧の「法の下の平等」とは、似て非なるものであったといえる。伝統的な「平等主義」は、もともと「世間」がもっていたものである。封建時代にはたしかに「身分制」が存在したが、この人間平等主義は、それと一見矛盾するようにみえながら、それと併存してきた。
現在の「世間」においても、三つ目のルールとしての「共通の時間意識」は、二つ目のルールとしての「身分制」と一見矛盾するようにみえながら、両者は併存している。そして、この矛盾的な構造があるがゆえに、外国にはない、日本独特の「妬み」の意識、「妬み」の構造が生まれるのだ。(5)年賀状がなくならないわけ第四の「世間」のルールは、「呪術性」である。日本の「世間」には、やたらに俗信や迷信のたぐいが多い。結婚式は大安の日に集中し、友引の日には葬式をしない。あるいは節分の日には特定の方角を向いて、恵方巻きをいただく。これらはべつに、法律に書いてあるわけではないし、従わなかったからといって、罰則があるわけでもない。だからこのルールは、暗黙の了解事項だといえるのだが、守らない場合には「世間知らず」だとして非難されることになる。しかも困ったことに、「呪術性」のルールはやたらに沢山あるし、しかも紙に書いていないので、みんな確実に全部を知っているわけではない。場合によっては、これを理由として村八分となり、「世間」からの「はずし」に遭うことになる。これらは、〈世間―内―存在〉であるために、確実に守らなければならないルールなのだ。ごく些細なことのようにみえるが、お正月に年賀状を出すことだって、ちゃんと出しておかないと、「世間」から「世間知らず」「失礼な奴」というレッテルを貼られてしまう。つまりその人間の人格的評価につながる。しかも年賀状を出す範囲とは、その人の「世間」の範囲であるといえる。「世間が広い」人は、年賀状の数が多いだろうし、「世間が狭い」人は、年賀状の数が少ないはずである。最近では年賀メールが増えたとはいえ、年賀状の習慣は、なかなかなくならない。これは、「呪術性」のルールと先ほどの「贈与・互酬の関係」のルールが交差する場にあつて、それゆえに強固な習慣となっているからである。年賀状はフメツなのだ。「世間」の「呪術性」の根底にあるのは、きわめて古い自然宗教的な考え方である。この自然宗教においては、仏教やキリスト教の教えのように、死者は遠く、つまり倣庸に行ってしまうのではなく、時々此岸、つまり現世に気まぐれに帰ってくる存在である。お盆やお彼岸の墓参りがそれを示している。西欧では、日本のような年中行事的な墓参りの習慣はほとんどないという。
「世間」は一〇〇〇年の歴史があるといわれるが、仏教にせよ儒教にせよキリスト教にせよ、日本に外部から伝来した由緒正しい宗教は、この「世間」の自然宗教と癒着し、それに蚕食され、本来の姿を失ってきた。日本の「葬式仏教」や「クリスマス」がその典型である。仏式で葬式をしたからといって、べつにすべてが仏教徒というわけではないだろうし、クリスマスを祝ったからといって、べつにすべてがクリスチャンだというわけでもないだろう。日本では現在でも、この由緒正しい宗教にはさっぱり人気がなく、根底にあるのは相変わらず自然宗教にもとづいた「呪術性」である。しかし西欧社会では、約八〇〇年ほど前に、キリスト教の支配によって、おおむねこの「呪術性」が否定された。一二、三世紀のヨーロッパでは、「告解」をつうじてキリスト教の支配を貫徹するために「蹟罪規定書」という、やってはいけない禁止事項のマニュアルがつくられた。この「蹟罪規定書」では、現在の日本に沢山ある、大安に結婚式をするとか、三隣亡の日には建前をしないなどといつた俗信・迷信のたぐいが禁止きれていた。西欧社会では、キリスト教が浸透することによって、こうした俗信・迷信のたぐいは姿を消していった。じつは西欧流の社会が契約などの合理的な原理からできあがっているのは、こうした「呪術的なもの」を否定した歴史があったからである。しかし日本では、「世間」は相変わらず「呪術性」に満ちていて、まったく合理的なものではないのである。以上、「贈与.互酬の関係」「身分制」「共通の時間意識」「呪術性」という四つの「世間」のルールを簡単に説明した。日本人だったら、きわめて几帳面にこうしたルールを日々守つている。そして「世間」の「ゆるし」と「はずし」の根底には、こうした「世間」のルールが存在しているのである。
故山本七平氏はこの世間を「空気」と「日本教」という考え方で分析している。
「世間」という考え方でこの日本を読み解く佐藤氏の考え方の方がスマートかもしれません。

はじめに


現代日本における急性アノミーは、社会を根底からくつがえす契機を内包しているが、 その源泉は、①天皇の人間宣言、②デモクラシー神話の崩壊、③共産主義神話の崩壊の三者である。もとより、最も致命的であるのは①であり、②も③も、①の原形をたどりつつ急性アノミーに導かれたことに注目されるべきである。





