米国が仕掛けた対テロ戦争の一つの時代が終り、一つの時代が始まる事件として
記憶されるような気がしてなりません。
この、喜びに沸く米国市民をを見ていると、「いかにテロリストとはいえ裁判に掛けずに他国で他国人を殺害する権利が米国にあるのか!」と批判しようとしたが、この喜びに沸く市民を見ると、米国が傍若無人であると非難することと、米国市民の歓喜を非難することが同じく他人の庭に土足で踏み込むのと同じであるのではないかと思った。
9.11が米国人に与えたストレスは我々日本人には理解し難いものがあるやもしれません。いつ自分がテロの犠牲になるかもしれないと無意識に感じていた米国市民にとって、ウサマ・ビン・ラディン殺害のニュースは一時的とは言えストレスから開放されるニュースだったに違いありません。
10年前9.11をCNNで生中継をずっと視ていた、自分がいかに無力な存在かと思った。先日の3.11でも自分の無力さを痛感してしまった。皆己の無力感を感じたに違いない。国際法を無視したオバマ政権の「サイセン」作戦に 狂喜する米国市民を私は責めることができない。
ニューヨークの摩天楼の原イメージはやはりバベルの塔、またはサグラダファミリアの大聖堂のように天高くそびえるキリスト教会であろう。
摩天楼は全世界をグローバリズムという自由市場化教を世界中に布教する一種の宗教的建造物群であり、そのなかでもワールドトレードセンターは米国教(民主主義と資本主義は世界を救う教)の聖地もしくは象徴であった。
摩天楼の建つ北米大陸は二度の大戦でも日本の潜水艦搭載航空機の小型爆弾と日本から飛ばされた風船爆弾を除いては決して敵飛行物体を寄せつけなかったという絶対防空の神話に長く守られてきた。
かのレーガン大統領が冷戦に勝利した理由も、スターウォーズ(SDI)計画によるソ連のICBMから防御する計画の賜物であった。
絶対安全なはずの世界の中で、米国人は拝金教に一抹の後ろめたさを感じ、宇宙人やらの攻撃か隕石の落下で廃墟と化す摩天楼のヴィジョンをハリウッド映画で繰り返し作り出しては一種の自己懲罰を与え、バランスをとってきた。
要するに米国は最強国家で、その宗教は自由市場化教=米国教(民主主義と資本主義は世界を救う教)もしくは拝金教で、その神殿は絶対防空圏内に袋える摩天楼で、そこに手出しできるのは米国製映画以外になしという、他者の入り込む余地なきシステムの上に米国の圧倒的自信は保たれてきたのである。
先端テクノロジーの成果をどんどん商品化し、あらゆる規制を取っ払った自由で規制が無い社会ゆえに、テロリストですら金さえ払えば誰でも大型機の操縦すら学べるようにしたのも米国である。また、デブでアホで食い物はマクドナルドのハンバーガーとコーラ、Tシャツにジーンズか短パンがグローバル・スタンダードだとのたまっているのも米国である。
米国を批判するのも簡単だ、米国が発明し普及させたインターネット上では自分は正義の味方気取りで反米を垂れ流すブロガーが日本にも沢山いる。
社会の構成員がすべて中途半端な善人なら、それでも問題は起きないだろう。しかし残念ながら世は狂気と邪念に満ちている。そしてその狂気と邪念の最先端には常に正義の味方気取りの善人がいるのである。
知られざるビンラディン容疑者、夫人と息子が語る素顔などを読むとウサマ・ビン・ラディンは、米国にとって深いトラウマを負わせた大悪魔ではあるかもしれないが、彼の正体は極端な善人なのである。
米国はウサマ・ビン・ラディンによってその圧倒的な自信は二度と蘇らず、常に不安定で何かと神経質なヒステリーな社会に陥ってしまったかもしれない。その心理は黒人初のオバマ大統領を誕生させた。そのオバマ大統領にウサマ・ビン・ラディンは殺害されたのだからなんとも皮肉だ。
米国はテロを世界から根絶する、対テロ百年戦争を宣言している。それは詰まるところ、米国が米国が推し進めるグローバニズムの副産物に対する戦いを意味するかもしれない。そんな戦争はウサマ・ビン・ラディンが殺害されても決着するはずもない。
パネッタ米中央情報局(CIA)長官は2日、ウサマ・ビン・ラディンの殺害で、国際テロ組織アルカーイダが報復テロを企てるのは「ほぼ確実だろう」「ビンラーディンは死んだが、アルカーイダは死んでいない」と述べ、報復テロを「警戒し、立ち向かわねばならない」と語った。
ウサマ・ビン・ラディンの殺害はイスラム過激派テロの具体的作戦行動に対する打撃と言うよりも、イスラム過激派組織を束ねてきた「象徴」を除去したにすぎない。
殺害された後にこんなことを書くのは後講釈だが、ウサマ・ビン・ラディンはこのまま逃亡させておけばよかったような気もする。
ウサマ・ビン・ラディンは米軍によって殺害されたことにより殉教者として永遠にイスラム教徒に記憶されてしまった。
ウサマ・ビン・ラディンの真の脅威は、すでに1人の人間を優に超え、異教徒に対する容赦ないジハード思想が中東のみならずイスラム世界全体に「運動」として浸透しててしまった。
折角中東全体に広がる民主化運動にはむしろ逆風となってしまうかもしれない。
今後ウサマ・ビン・ラディンの残した思想や言葉はそれに感化された小さなイスラムの正義を信じる善人達に聖なる言葉として語り継がれるであろう。今後より過激な、欧米人も含む普通の市民を標的としたテロが発生する危険度は、ウサマ・ビン・ラディンの死でより高くなったとしか思えない。
イスラム教徒ウサマ・ビン・ラディンにはあえてこの聖なる言葉を贈る。

キリスト教の開祖キリストは神性を宿す神の子とされ、奇跡も起こさせた。キリストは人を愛せよ等、抽象的教えに終始し、豚を食べるなとか具体的成律を説かなかった。かくてキリスト教は神にも近づける偉そうな人間が戒律の縛りなく勝手放題やれる状況を準備し、その果てに欲望.全開の欧米型資本主義が花開いた。
対してイスラム教。開祖のムハンマドは神の言葉こそ聞けたが、神の子でなく奇跡とも無縁だったそんな彼を人間界の頂点に仰ぐ宗教が人間の中に神性を見たりはしないだろう。人はあくまで神から程遠い矮小な存在だ。しかもムハンマドは多すぎる戒律を残した。儲け過ぎるな、余分な財産は喜捨しろ、利子はいかんとまで説いた。かくてイスラム教は神にひれ伏すのみの身の程をわきまえた人間が戒律に縛られつつ けなげに生きる社会を用意した。
人間は限りなく情けなくて倭小で、地に伏してアラーに祈る他ない。イスラムの街で大抵一番高いモスクも、何もその上から街を見晴らすためにあるのではない。モスクの天井は人間がひれふす地面とアラーの居る天の無限の距離を実感させるためにのみ存在する。
欧米のイスラムを植民地時代以来コケにし続けての富の一方的蓄積にあるのだから、そこを是正せぬ限り根本的解決はない。
ウサマ・ビン・ラディンよ次は仏教徒か日本教の日本人で生まれてくるがいい、もう少し穏やかでいい加減な人生が過ごせるであろう。







2008年7月13日アルカイダに同情的なのがハクアニ族の村ワナットの米軍基地が壊滅的な被害を受けた。ハクアニ族はアフガン最大であり最強の戦闘部族パティシューンと友好関係にある。
中国が核保有国となり、その対抗上インドが核保有国となり、その対抗上アブドゥル・カディール・カーン博士が中心となってパキスタンが核保有国となった。

