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政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、脳の外部記憶媒体としてこのブログを利用しています。2020/11/30以前はGoogle検索でキーワードを入れると常に上位にありましたが、日本のトランプ大統領デモを紹介した記事が米国でバズって以降検索アルゴリズムから排除され検索ヒットされにくい状態です。是非ブックマークをお願いします。このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

タグ:人類学と考古学


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韓国に、世界中が冷ややかな視線を送っている。中東呼吸器症候群(MERS)コロナウイルスの感染が確認されて3週間が過ぎたが、対応がひどすぎるのだ。世界保健機関(WHO)の専門家は、さらなる感染拡大を警告し、香港政府は韓国への渡航自粛勧告を出した。韓国メディアでは「無能な政府」といった批判が噴出している。

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 「今後もさらに感染者が出るだろう」

 WHOの専門家エンバレク氏は9日、ジュネーブで記者会見し、韓国での感染拡大についてこう語り、感染者の隔離を徹底させるよう訴えた。

 それもそのはず、韓国保健福祉省は8日に「第一次流行の終息」を発表したが、感染者は日々増えており、感染の疑いは全国に広まっている。

 何と、8日に感染が分かった男性(59)は3日に感染が疑われていたのに、連絡を受けた保健当局が対応を取らずに4日間も放置。男性はその間、計約360人と接触していたという。男性は多数の院内感染者が出たサムスンソウル病院を5月末、見舞いのために訪れていた。

 国家として機能不全を起こしているような現状に、香港政府は9日、韓国への渡航自粛勧告を出した。これを受け、香港観光業協会は韓国への団体ツアーを取り消した。1万人以上が影響を受けるとみられる。マカオ政府も9日、韓国渡航を控えるよう市民に呼びかける声明を出した。

 日本の外務省は在外邦人の安全確保のため、現地対策本部を立ち上げた。岸田文雄外相は「国内への感染を防ぐため、厚労省などとも緊密に連携したい」と強調した。

 韓国メディアでは、議論を繰り返すばかりで、対応が後手後手となっている政府に対し、「(昨年4月の)旅客船セウォル号沈没の時とまったく同じ」との批判が相次いでいる。昨年同様、「無能な政府」という表現も続出しているという。
連日2桁の新患者を出し続ける韓国MERSで、病室内3次感染の段階で収束させる目論見が破綻し、防疫当局が管理できていない第4次感染者が出はじめた。
 感染が質的変化が顕著になりはじめた。警察官である119番目の患者(35)と女性介護者である126番目の患者(70)は患者が通過した病院に行っているものの、すれ違っていて接触は考えられないようだ。
現在、調査に入っているWHOのスタッフも「韓国の場合、地域拡散があっても驚かない」と発言している。感染者数は、初の4次感染者を含め、12人増えて患者138人、死者も14人となった。MERSは韓国国内において人から人へ伝播する力を増し変質したと可能性が高い韓国国内で感染を収束させてくれるならばまだよいのだが、危機管理ができない無責任な国民性を見る限り、韓国国内でアウトブレイクする可能性がでてきた。となれば、隣国である日本も対岸の火事ではすまされなくなる。
 街の声でこのところ、「朴槿恵大統領は運が悪い」というのをよく耳にする。昨年のセウォル号沈没事故に続き、今回の「MERS(マーズ)感染騒ぎ」のことを言っているのだ。いずれも民心が一種のパニック状態になり、対応の遅れなどで政府が激しい批判にさらされているからだ。

 メディアは人々の不信や不安をあおり、野党や反政府系は決まって「大統領が悪い」と大統領非難に走る。大事故、大事件など人災はもちろん、伝統的には天変地異の天災まで「指導者に徳がないから」という“災異観”がある社会だけに、大統領はつらい。

 朴大統領は突発する大事故、大事件への対応にばかり忙殺されて何もできない状態が続いている。すでに5年任期の3年目なのにまだこれといった政権の成果が見当たらない。そして「運も実力のうち」となってその指導力への不満、批判が強まっているのだ。

 「マーズ騒ぎ」の中で朴大統領は来週に予定されていた訪米を延期した。「外交より国民の安全、安心が優先」と判断した結果というが、この判断に世論は必ずしも拍手喝采ではない。

 訪米は14日から18日に設定されていた。外交当局をはじめ政府および与党を含め大勢は、「日程を短縮してでも出掛けるべき」だった。これに対し訪米延期論は主に野党陣営から出ていた。「民の声」と称しあらゆることで政権の足を引っ張ろうとする野党・反政府派としては当然の主張だ。

 ところが朴大統領は、政府・与党内の大勢に反し自らの決断で訪米延期を決めた。「国民の安心、安全が第一」という名分は十分にある。そして「国民に寄り添う大統領」としての訪米延期はカッコいい。

 しかし冷静に考えれば「マーズ退治」は大統領がいなければできないというものではない。にもかかわらず外交的重要日程さえ中止したことは、対外的には韓国の国家能力に対する疑問や不信を招くものだ。

 それに訪米延期は国内的には「大統領出てこい!」という、大衆感情に押されたいわゆるポピュリズム(大衆迎合)政治である。これに身を任せると今後、野党や反政府派の世論圧力に押され何もできなくなる事態が予想される。

 このため、保守派の間では大統領の指導力に対する疑問が膨らんでいる。大衆感情に左右され国家の軸としての判断ができていないのではないかというわけだ。与党・保守派の代弁紙である朝鮮日報は社説で「朴大統領は果たして国家指導者らしい判断力を見せているのかどうか、自ら振り返る必要がある」(11日付)と手厳しく批判している。

 朴大統領の訪米は、安倍晋三首相の訪米直後だけにことのほか関心が高かった。韓国は安倍首相訪米の際、米議会演説や歴史認識問題などで“対米反日工作”に熱を上げたが、結局は日米緊密化を阻止できなかった。逆に米国では「韓国疲れ」が語られ、今回の朴大統領訪米は挽回のチャンスになっていた。

 訪米では韓米同盟強化策や日米韓協力体制の行方とともに、これまでの“二股外交”とも受け取られる中国接近策の“真意”についてどういう説明が行われるのか、関心を呼んでいた。朴槿恵外交の行方は東アジア情勢にも影響が大きい。

 しかし「外交より大衆感情」を優先した今回の判断は、慰安婦問題という大衆感情にこだわり動けなくなっている対日外交の展望にも、あまりいい影響はなさそうだ。

大事故、大事件など人災はもちろん、伝統的には天変地異の天災まで「指導者に徳がないから」という“災異観”がある社会
これは儒教の天人相関説の考え方からそのように考えるのだが、韓国は儒教国ではある。だが、私から見ると韓国は儒教で説く「徳」から世界で一番遠い国の一つではないかと思います。
「徳」とは均整のとれた精神の在り方で、人間の善き特質で、社会的経験や道徳的訓練によって獲得し、徳を備えた人間は他の人間からの信頼や尊敬を獲得しながら、人間関係の構築や組織の運営を進めることができる。徳が無い社会だからセウォウル号事件が起きたりMERSが拡散してしまうのだ。
私には国民の気質が「恨」である韓国人には気品、意志、温情、理性、忠誠、勇気名誉、誠実、自信、謙虚、健康、楽天主義などの徳目は皆無であるようにしか見えない。むしろ韓国は国民全員がサイコパスにしか見えない。
捏造したファンタジーの歴史を信じ、歴史的事実を見ようとせず、ありもしない従軍慰安婦の強制徴用を強弁しつづけ、竹島を不法占拠するにとどまらず、東京オリンピックの開催招致活動、安倍首相の米議会演説、軍艦島の世界遺産登録をことごとく妨害し、盗んだ仏像を返さず、大恩があるはずの日本を陥れようと国民が一丸となる異様な精神状態になる韓国に「徳」などそもそも存在しない。これで儒教国家と名乗られては教祖である孔子にとってはたまったものではない。
天人相関説君子の徳を説く儒教では天と人とに密接な関係があり、相互に影響を与えあっているという思想だ。天子の所業は自然現象に象られ、悪政を行えば、大火や水害、地震、彗星の飛来などをもたらし(→「災異説」)、善政を行えば、瑞獣の出現など様々な吉兆として現れるという。こういった主張は君主の暴政を抑止するために古代支那では一定の効果があったと考えられる。
天変地異や疫病流行などの災害を防ぐため、君主は善政を布くことが模範として求められ、特別に行うそれらの施策は「徳政」と言われた。
朴槿恵政権下相次ぐ事故、疫病、天変地異、これは明らかに「君子」の徳が無いからであると儒教的には判断される。
儒教的に考えれば、朴槿恵はじめ金大中以降の歴代の韓国大統領が行ってきた中国と米国の二股外交、恩を仇で返す反日政策、朴槿恵の執拗な告げ口外交、ディスカウントジャパン活動を官民挙げて行う「徳」がまったくない異常な民族に天罰が下ったのだ。
【ソウル=名村隆寛】韓国で拡散している中東呼吸器症候群(MERS)コロナウイルスが、朴槿恵政権を窮地に追い込んでいる。朴大統領自らが「国家的困難」と呼び、当局が感染の拡大阻止に苦闘する中、経済や外交などへの悪影響が目立ちつつある。

 「感染流行は大規模で複雑」「感染者増加の可能性」「短期間での解決は困難」-。世界保健機関(WHO)と韓国の合同調査団が13日に発表した感染実態の調査結果は、悲観的な内容で占められた。

 朴政権が対策に奔走する中、感染の拡大は経済を直撃している。韓国観光公社の調べでは、今月1~10日に約8万4450人の外国からの観光客が韓国旅行をキャンセルした。日本からも1万6千人余が訪韓を取りやめたという。

 国内でも各種行事の中止が続出。市民らは外出を避け、鉄道や長距離バスは空席が目立ち、高速道路もすいている。人が集まる場所も敬遠され、遊園地やプロ野球観戦の人出は約40~60%減少。休館した映画館もある。

 消費冷え込みの懸念もあり、韓国銀行(中央銀行)は11日、政策金利を1.75%から過去最低の1.5%に引き下げた。経済的損失は今月末までに約4500億円規模になるとの見通しもある。

 朴大統領は年始の演説などで「今こそ経済再生のゴールデンタイム(好機)」と繰り返してきたが、逆に景気は後退が明白となった。韓国メディアからは、昨年4月の旅客船セウォル号沈没の「悪夢の再来」との声さえ出ている。

 14日からの訪米を急遽延期した朴大統領は、京畿道の対策本部で12日、「国難に直面している」と述べ、昨年の旅客船沈没の時以上の危機感をにじませた。

 MERSに感染していた韓国人が入国し、感染への警戒が高まった中国の一部では「反韓感情」が広がるなど、影響は韓国の対外イメージにも及んでいる。

 朴政権にとって重要な課題は、民心の離反を食い止めることだ。しかし、WHOなどによる調査が、韓国政府による初期対策での失敗や情報公開の遅れが感染拡大の原因だと指摘したことで、世論の政権批判が一層強まるのは不可避だ。

 朴大統領の支持率は下落し続け、33%まで落ち込んだ(11日現在)。不支持は58%。8月で5年の任期の折り返し点を迎える朴政権だが、先行きは厳しい。
ソウルではMERS以上に深刻な水不足になっている。ソウルの主な水源である昭陽江ダムの水位が1973年の竣工以来、最低に落ちこんでおり、緊急給水、給水制限が行われている地域もある。朝鮮半島が大干ばつの時期に入ったという分析まで出ている。
釜慶大学環境大気学科のビョン・フェリョン教授の調査によると、干ばつには5つの周期がある。そのうち、一番大きな周期(124年)と2番目に大きな周期(38年)がぶつかるのが今年だ。ビョン教授は「1910年に大韓帝国が滅亡しているが、それは今から124年前の1882年ごろから始まり1910年ごろに収束した干ばつの影響もあると考えられる」とした。
当然国民から「指導者に徳がないから、災害が絶えない」「干ばつ、疫病、各種の大惨事…。国が滅びていく」「MERSよりも深刻な問題だ」といった声があがっている。
天変地異は国運が終わると出てくる現象だ。歴史的にも国運が尽きた国には、伝染病、不正腐敗、干ばつ、堕落した市民意識、韓国はまさに国運が尽きようとしている。
【ソウル=名村隆寛】韓国での中東呼吸器症候群(MERS)コロナウイルス感染の実態調査を進めていた世界保健機関(WHO)と韓国の合同調査団は13日、調査結果を発表、「韓国での流行は大規模で感染者が今後も増える可能性がある」と指摘した。

 調査団は韓国の防疫措置について「ある程度効果をあげているが、感染の終息には時間がかかる」と見通しを示した。一方で、韓国でのウイルスについて「変異していないことを分析を通し確認した」とし、「地域社会への拡散の証拠はない」と明らかにした。

 また、初期段階での情報公開の遅れが感染拡散原因のひとつと指摘、韓国政府にクギを刺した。

 一方、韓国保健福祉省は13日、MERSコロナウイルスへの感染者が新たに12人確認されたと発表した。このうち70歳の男性が、最初の患者から2人を介した4次感染者だったことが初めて確認された。韓国での感染者は死者14人を含む計138人となった。

 4次感染した男性は救急車の運転手で、院内感染した患者を搬送していた。また、12日から13日未明にかけて死亡した3人はいずれも60~70代の高齢者だった。医療機関や自宅での隔離対象者は3600人以上となっている。
中東では既にMERSが確認されていたが、中東では人から人への伝染性が弱く大問題となっていないが、韓国で猛威を振るい拡散しているのは、ウィルスがもし変異していないというなら、そのウィルスは韓国人の淘汰を行っていると考えてもけっして間違いではない。
ウィルスは人類の絶滅と進化を司る鍵なのである。
黒死病は何回もパンデミックを繰り返し、アジアからヨーロッパの人口の大半を淘汰され、ウィルスより生存が許可された個体が残った。南北のネイティブアメリカンは移住してきた恩知らずの白人達に虐殺されたのも原因の一つではあるが、大半は旧大陸よりもたらされたウィルスによってその多くが病死させられてしまった。
儒教でいうところの天人相関説はウィルス進化論の考え方からすると、まったく的外れな超自然的な空想ではなく、人類が蓄積した経験論かもしれない。
ダーウィン進化論では、安定であるべき遺伝と進化に伴う不安定な突然変異の矛盾を説明しきれない。生物の大原理のひとつは機能と形態の相関である。もし、進化か生物の機能であるとするならば、そのために生物は形態をもたなくてはならない。ウィルスがこのためのオルガネラ(細胞小器官)だというのが、ウィルス進化説の仮説である。この仮説を裏付けるのか遺伝子操作と呼ばれるバイオテクノロジーである。

 バイオテクノロジーではウィルスが遺伝子の運び屋として利用されている。実験室の中ではウィルスは遺伝子を生物から生物へと運ぶ.この現象が自然界でも起こっている可能性は否定できないし、また現実に少しずつ見い出されている。

自然界でもウィルスによって遺伝子が水平侈動しているとすれば、今までの進化論にまったく新しい光を与えることになる。あらゆる生物は、ウィルスという形態を持つことで進化の為の遺伝子の水平移動を固体や種を超えて行っているのである。
ウィルス進化説は、進化を個体の変化でなく種の変化としてのみとらえるのだ。ダーウィン進化論が個体を進化の単位とし、個体の変化がいかに種の変化に拡大するかの説明に巨人なエネルギーを使っているのに対し、ウィルス進化説では進化を説叫けるための単位が個体でなく種だと主張する。ダーウィン進化論とウィルス進化論の違いは進化の単位である。

ウィルス進化説では「種は変わるべきときがきたら変わる」という主張が理解できるだろう。天体の運動法則ではその構成物とは無関係に地球や月が単位とされる。脳細胞を詳しく調べても脳の生理は解明できないだろう。自然現象の理論化には適当な単位を必要とするか、ウィルス進化説のオリジナリティは進化の単位を種とすることにある。

ウィルスは伝染病の原因としか見られていない。しかし、近年のバイオテクノロジーの発達によってウィルスが、品種の改良に重用な役割を果すことがわかうてきた。

 たとえば、インシュリン。現在、糖尿病患者に大量に普及しているヒト・インシュリンはバイオテクノロジーによって大腸菌が作っている。大腸菌が、なぜ、ヒトのインシュリンを作れるかというと、ヒトの持つ、インシュリンを作っている遺伝子を大腸菌に入れるからなのである。遺伝子を入れられた大腸菌は、一種の品種改良を加えられた形になり、本来作るはずのないヒトのインシュリンを作り出す。この場合、重用なのは、ヒトインシュリンを作る遺伝子をそのまま大腸菌に入れることはできないということである。ところか、ウィルスを使って、ヒトのインシュリンを作る遺伝子を大腸菌の中へ運び込ませると、その遺伝于か大腸菌の中で助き出すのである。

ウィルスは「遺伝子の運び屋」なのである。ダーウィンは動物や植物の品種改良に必要な人為淘汰とよばれる技術が自然界で起こるのではということから、自然淘汰という仮説を導いて進化論の強力な理論的武器とした、ウィルス進化論は、バイオテクノロジーという技術が行っているウィルスが遺伝子を運ぶということが、自然界でも起りているという考えなのである。

 ウィルスは確かに病気になる遺伝子も運ぶ。ガンなどは、その典型的な例である。ウィルスがガン遺伝子を運び込み、ガン細胞を作ってしまうこともある。しかし、そういったマイナス面は、むしろ異常が起きたケ一スであり、ウィルスは、生物に入りこむとき、他の遺伝子をひっかけて運びこむことかでき、それか進化に大きな役割を果している一一と考えた方が説明がつくことが多い。

 前述したダーウィニズムの欠点の一つ、中間生物かいない、唐突に種全体が変化してしまうことも、ウィルス説なら説明できる。ウィルスは恐しい勢いで伝播する。                                                 
20世紀に入った1919年、スペイン風邪が全世界に広がり、約5000万人の人間か死んだといわれている。統計の残っている日本では、2500万人の患者が発生し、38万人が死んだのである。この数字から考えると、地球上のほとんどの人間かスペイン風邪に感染したようである。 
                         
ウィルスはたった一年で、これくらいの伝播力を持っている。そういうウィルスか遺伝子を運ぶことで進化か起こるとすれば急激な種の変化を起こすことも可能である。
いや、それが可能な媒介でないと、進化は不可能だと言ってもいいのではないだろうか。種が変わる以上、別の種同士の生殖は不可能である。Aさんの息子とBさんの娘が結婚しても、子供ができないという状態が起これば、進化どころか、植の絶滅になうてしまう。緩かな種の変化など、この一事でもあり得ないといえるだろう。

 適者生存の理論では、ネアンデルタール人は、クロマニヨン人の出現とほぽ同時期に絶滅してしまったことになるか、そんな簡単、に、種は絶滅してしまうのだろうか。当時、地球上の気候はだんだんと温かくなり、むしろ環境は好転していたと思われる。いくらクロマニヨン人か出現しようと、地球上の別の地域に移住して生きてゆくこともできたはずである。ところが、化石でみる限り地球全域で忽然とネアンデルタール人が消滅してしまっている。核戦争時代でも、かくも完全な絶滅はむづかしいのではないだろうか。

こうした現象も、ネアンデルタール人かウィルスの感染で、クロマニヨン人になったと考えれば説明できる。つまり、進化とは、種が「進化病」というウィルス性の伝染病にかかったと考えればいいのである。キリンの首は、高いところにある木の葉を食べるために長くくなったのではなく、長くなる”病気“にかかったため、仕方なく長くなった。爬虫類は、飛びたいから進化して烏類になったのではなく、突然、羽根がはえる病気にかかったから仕方なく飛びだしたのだと。

徳がない国は亡びる運命にある。今後我々日本人は朝鮮人と積極的に関わることを選択しないと思う。在日朝鮮人の特権が一気に失う7月6日まで1カ月を切った。
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3500年前から3000年前地中海文明の滅亡
火山噴火が寒冷化の一因か
p117~118
3500年前から再び寒冷化傾向が現れ、世界各地で干ばつが顕著になった。寒冷化のきっかけになった原因の一つに、大規模な火山噴火がある。火山性の噴出物がグリーンランドや南極の氷床コアから発見されており、これらは紀元前1627年の工ーゲ海サントリー二島の噴火と紀元前1159年のアイスランドにあるヘクラ火山の噴火のものである。
サントリー二島の噴火は、噴火口の大きさが1883年のクラカタウ火山の2倍はあることから、噴出物は少なくともクラカタウ火山の4倍以上と考えられ、1815年のタンボラ火山級と推測される。この火山噴火が起きた後にクレタ島のミノア文明が衰退していったため、プラトンがその著作『クリティアス』で描いたアトランティス大陸の水没は、火山噴火による津波と地震によるミノア文明の惨状を描いたのではないかといわれている。また、アイスランドのヘクラ火山の場合、アイルランドやアナトリアの年輪分析から、顕著な気候変動が起きたことが確認されている。
3500年前に始まる寒冷化の痕跡は、ヨーロッパだけではない。カナダでは100年から200年の間に平均気温が3度低下し、北部の森林限界は3500年前頃に200キロメートルから400キロメートル南方に動いている。また、乾燥化したことで山火事が多発した。カリフォルニア州ホワイトマウンテンのブリストルコーンパインの年輪には、3300年前の急激な寒冷化が残っており、
アラスカでは3500年前から3300年前にかけて氷河が前進している。
 
 
世界最古の大戦争一ヒッタイト対エジプトp123~125
ボスポラス海峡を挟んだミケーネ文明の東側、小アジアのアナトリア高原にあったヒッタイトも、 気候変動により大きな打撃を受けた。鉄の精製を発明したヒッタイトは、軍事帝国であったものの、食糧をシリアやエジプトなど他国からの輸入に依存していたため、地中海東部の干ばつにより輸出国の生産量が減ると、他国に先んじて影響が深刻化した。もともと軍事国家であるだけに食糧を求めて軍を南下させ、シリア北部を支配し、エジプト新王国と国境を接することになる。
紀元前2174年、両国の間でカデシュの戦いが勃発した。ヒッタイトのムワタリが総動員令をかけて兵士4万人と戦車3700両を集結させたのに対し、エジプトのラムセス2世は兵士2万人と戦車2000両で立ち向かう大軍同士の衝突であった。
 
この戦争は、戦闘経緯が後世に残る最古の大戦争としても有名である。ヒッタイト、エジプト双方とも、自国の碑文には勝利したと刻んでいるが、実際は引き分けといったところだろう。ラムセスー世はシリア北部のヒッタイトの領土を攻略できず、膠着状態のまま両軍とも兵を引くこととなった。
 
カデシュの戦いから10年以上を経た紀元前2158年になってようやく両大国は講和条約を結び、戦闘状態は終了した。この講和条約も世界最古のもので正本は銀板に刻まれたとされており、今日でも、ヒッタイト側の粘土板に掘られた楔形文字とエジプト側での碑文に書かれた象形文字により、その内容を知ることができる。
双方の恒久的不戦だけでなく、一方が第三国(おそらく東方の大国アッシリアを想定していただろう)から侵略を受けた際には、もう一方の国王に軍隊の派遣を要請できるといった安全保障の発想がうかがえる。さらに、国王に背き反乱を起こした人間がもう一方の国で捕まった場合は反逆者として引き渡す、といった今日の犯罪者引渡条約を先取りするような事項が盛りこまれている。ただし、両者を比較すると、エジプトの碑文にだけヒッタイトが懇願して条約を結んだとの記述があり、ヒッタイト側に困難が多かったことを暗示している。
 
背景には、ヒッタイト国内の深刻な食糧不足があった。エジプト側に、ヒッタイトの要請を受けて穀物を輸送しているとの記録が残っている。ラムセスn世の子メルエンプタハの碑文には、ヒッタイトが存続するには必要不可欠な措置であったと刻まれている。さらに、ヒッタイト王からの粘土板に刻まれた書簡には、大型船による大量の穀物輸送がなければ、国家そのものが倒れてしまうと緊急事態を思わせる内容がある。
 
エジプトからヒッタイトに向けて支援物資の食糧が送られたものの、飢饅は収まらずヒッタイトの国家体制が揺らでいった。国内各地で内乱が勃発した上、謎の民族とされる「海の民」の襲撃を受けてヒッタイトは紀元前1190年に滅亡する。
鉄の精製はヒッタイトで長らく秘伝とされてきたが、滅亡をきっかけに鉄の使用が世界各地に拡散し、青銅器文化から鉄器文化へと移行することになる。
 
地中海東岸で略奪を行った「海の民」は、小規模の民族が結束して自然発生したグループと考えられている。同じ時期、南西アジアではアーリア人がイランからインドに移住した。また、古代中国では黄河文明から段王朝へと王朝の交代があった際に、内陸部の寒冷化と干ばつにともなって中央アジアから騎馬民族が華北に侵入している。華北での気候の寒冷化は古文書に記録され、藩川が冬季に凍結し、竹林の北限は南方に後退し、コメや果物の収穫時期も遅くなったとある。

このように、3500年前に始まる気候変動による民族の移動は、地中海地域にとどまらずユーラシア大陸全域に及ぶものであった。2800年前に始まる寒冷化では、民族の移動がさらに顕著に現れた。
2800年前から2300年前民族の大移動
気温の低下:太陽活動の一時的減退が原因かp125
2800年前以降、気温の低下が著しくなる。メソポタミアのバビロンでの大麦栽培の収穫期をみると、3800年前から3500年前までの温暖な時代には、三月下旬に刈入れが開始されていたのに対し、2600年前から2400年前になると、5月上旬へと1ヶ月以上も遅くなった。

寒冷な時代の意味するもの一社会や国家の再構築と精神革命p130~132
4200年前、3500年前、2800年前にそれぞれ始まる三つの寒冷期に社会は混乱した。それは人類にとって災難であっただけだろうか。確かにエジプトは王制が一時途絶え、地中海では大国が滅亡した。そして民族移動が文化間の衝突をももたらした。一方で、そうしたマイナスの面ばかりではなく、その後に社会や国家の新たな枠組みが形成されていることにも目を向けたい。

4200年前に始まる干ばつで、エジブトではファラオの王権が変化したことはすでに書いたが、メソポタミアでは3700年前頃に、それまでの慣習法を統一したハンムラビ法典が編纂された。ハンムラビ法典の中には、土地の所有や売買についての記述もある。

経済的取引は、地縁血縁社会での必要性は低い。多くの人が一カ所に集まって物を交換する、あるいは貨幣で売買するという意味での市場は、2800年前以後イオリアとギリシャで発達し、アリストテレスにより「経済」という概念も生まれている。

各民族が交流し、交易が活発化する中で西アジアの各国で両替商が現れ、エジプトでは両替商のネットワークが整備された。有力な両替商が、金銀の小さな塊の重さを保証することから貨幣が生まれたと考えられている。歴史上、最も古い貨幣は2600年前頃のもので、小アジアのリディア王国の砂金を鋳造した金貨である。

寒冷な時代をくぐり抜け、より強固な社会経済組織が構築されてきたのである。
政治や経済ばかりではない。寒冷化と干ばつが起こした民族移動は、人々の精神世界にも影響を与えた。さまざまな地域の民族が入り混じる状況下で、新しい思想が芽生える素地が作られた。こうした中で生まれた宗教は、社会不安や内乱にさいなまれる当時の人々の熱狂的な支持を集めるようにな り、古い生活習慣や支配システムを打ち破る役割を果たしていった。

紀元前五六六年頃にシャカが誕生し、世界初の不殺生宗教とされる仏教を開き、その100年ほど後に生まれたマハーヴィーラはジャイナ教を起こした。北インドの農耕民ヴェーダ人(アーリア人)はもともと半牧畜生活であり、ウシを神への犠牲として捧げながら食用にもしていたが、人口が増加し農業社会に比重が高まったことでウシを農耕にのみ使用し、前に触れたように食材としては禁忌にしていった。
 
中国では、『論語』を通して儒教を確立した孔子(紀元前551-紀元前479)や道教の始祖とされる老子が登場する。ユダヤ教の場合、成立こそ3200年前のモーゼによる出エジプト以前にさかのぼるものの、紀元前600年に始まるネブカドネザル2世によるユダヤ人のバビロン捕囚が極めて重要な事件であり、この時期に流浪の民という宗教的な特徴が確立する。地中海でも、ギリシャ哲学が隆盛を極めるのがこの時代で、ソクラテス(紀元前469-紀元前399)やアリストテレス(紀元前384-紀元前322)が登場した。

キリスト教とイスラム教を除き、今日普及しているほとんどの主要な宗教や哲学が、3000年前に始まる数百年間で誕生するか、あるいは確立したといっても過言ではない。興味深いことに人間は、気候が寒冷化する時代が到来すると精補世界の革新を起こすようで、近世の寒冷化した時代に近代思想が誕生している。
 
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しかし、皮肉なもので、③『「気候文明史」 その3 を書き終えたら、80万年前に出アフリカに成功しているという人類史を塗り替える発見があったというニュースが出ました。
 
かなり画期的なニュースですが、殆どの方は興味ないかもしれませんね。
 
でも、80万年前に出アフリカに成功していても、その後の寒冷化で絶滅を余儀無くしていたと思います。
 
 
  
 
 
 
メソポタミアの灌概農業
天水農耕の行きづまりと都市の形成 
p98~99
ピオラ振動が起きた5500年前に話を戻すと、地球規模での寒冷化はメソポタミアやエジプトの天侯を乾燥化させた。気温が低くなると大気が保有できる水蒸気の総量が減り、海水からの水蒸気の蒸発が少なくなるため地球全体での降水量の総量が減少する。このため、一部の地域では厳しい干ばつが発生する。ピオラ振動以降、メソポタミア南部では干ばつが周期的に起きるようになり、イスラエルでも、7000年前頃には農耕が活発に行われていた地域の中で、この時期に砂漠化した地域があった。
ヤンガードリアス.イベント以降に開始された耕作地は主に山麓沿いにあり、そこでは天水に頼る原始的な農耕が行われていた。雨水に頼る天水農耕は250ミリメートル以上の年間降水量を必要とするため、干ばつに対しては極めて脆弱であり、気候変動が激しくなると広い地域で農業を行うことが困難になる。メソポタミア南部には7800年前以降、ウバイド文化とされる小さな定住地が点在していたが、周期的な干ばつにより人々はそれまでの農地を放棄し、大きな河川沿いの低地に集まるようになった。こうして、人口が集中した地域に町が形成されることとなる。
5500年前頃、謎の民族とされるシュメール人が北方からユーフラテス川下流に移住している。
彼らの用いたシュメール語は日本語の「てにをは」のような助詞一付属語)を持つ膠着語で、アッカド語などの現在のアラブ民族までつながるセム系の言語とは異なっており、北部インドや中央アジアにいた民族といわれる。ライアンとピットマンの仮説では、シュメール人の祖先は黒海東岸にいた
人々であり、大洪水によりコーカサス山脈を越えて移民したとみる(第1部第4章)。
シュメール人は周期的な干ばつに対処するため、ユーフラテス川沿いの平地に灌概用水で水を引く農業を普及させていた。彼らは、厳しい干ばつのため周辺地域から棄農した難民が流れこむ状況に対応し、受け入れ側として灌概施設を大規模化していった。秋から冬にかけて運河を掘り、新しい農地
を開墾し、冬期には一カ月に一度の頻度で用水路を開放し農地を潤わせて春以降の農耕に備えた。この巨大な灌概システムを維持するために、指導者や役人という役割が生まれた。
この頃になると、メソポタミアの古代都市ウルクには支配層が統治する階級杜会が形成され、職人や商人といった職種も登場した。最古の模形文字が刻まれた粘土板も、ウルクから出土したものだ。
6平方キロメートルの土地に巨大な神殿が造られ、5万人から8万人の人々が住み着いた。人口規模や人口密度からみて、世界で最初に生まれた都市国家といえる。
日本語の中にシュメールの痕跡を見つけることが出来るという。
【1】シュメールの楔形文字は、漢字の形成とほぼ同じ過程を経て成立した
【2】シュメール文字は現代日本語の漢字仮名まじりと同じ構造をもつ
【3】シュメール文字は子音のみならず母音をも記す(シュメール周辺のセム系言語の文字は、子音のみを表記する)
【4】シュメール語は膠着語である
シュメール人は旧黒海沿岸で農耕を行っていた民族だった可能性が高い。ということは高天原は黒海沿岸から見た場合のシュメール・・・考えすぎか?
 
北アフリカの砂漠化
変貌する緑のサハラ

今日、サハラといえば生物が生活できない究極の亜熱帯砂漢である。しかし、9000年前から8000年前にかけて、地中海沿岸からの移住が活発化し、狩猟採集を基本としつつ、食糧を安定化させるためにヒツジの牧畜が営まれていた。北大西洋の海底コアにはサハラから風により運ばれた塵が含まれており、この塵の量からサハラ西部では6500年前から乾燥化が始まり、5500年前から降水量が減少し、その後ゆっくりと砂漢化の道を歩んでいったことがわかる。
サハラ砂漠の中央部、アルジェリア南部の山岳地帯にあるタッシリ・ナジェール遺跡の壁画は、少なくとも七〇〇〇年前にさかのぼるものだ。5000年前に描かれた壁画には、川で泳ぐ人の姿やボートやカヌーが描かれており、水量の豊富な地域であったことがわかる。現在でもサハラ砂漢の下には広大な帯水層が存在している。オアシスとよばれる地域は、砂漠地帯の一部で地下水が地上に噴き出た箇所でおよそ90カ所あり、点在する村での農業や生活のために利用されている。
タッシリ・ナジェール遺跡からさらに南方に位置するチャド湖は、8000年前には33万平方キロメートルと現在の20メートルから40メートルも高く、多くの魚が泳いでいた。チャド湖周辺の降水量も、800O年前には年間200ミリメートルから240ミリメートル、5000年前でも年間501ミリメートルから150ミリメートルを維持していたのに対し、現在ではごくまれにしか雨は降らない。サハラ砂漢の南側の草原地帯サヘルも同様で、・・・
今日の地球より温暖化していた約6500年前、サハラ砂漠はエデンの園であった。そして、温暖化が徐々に寒冷化とともに乾燥していった。乾燥化していくにつれ、人々はナイル川河岸へと集まっていった。狭い地域で多くの人口を養うためには、農耕と灌漑技術を発明していったのである。それがエジプト文明なのである。
 
人類は増えた人口に対し寒冷化が襲うたびに、文明を一段階引き上げて生き延びていった。いや文明を引き上げられなかった時期はアフリカ以外は滅亡していったのかもしれません。
 
教科書では、大河が文明を自然発生的に生んだと書いてありますが、人類は生き残るために水を求め大河岸へ人々が避難し、人口が密集した結果、文明が勃興していったのだろう。
 
また、1万年前世界の総人口は1000万人程度であったものが、エジプト・メソポタミアで文明が勃興するようになると2000万人に増加した。
 
1万年前~3万年前の狩猟生活時代の平均身長が成人男子で177cm成人女子が166.5cmであった。ところが農耕が始まった5000年前で男子で10cm女子で15cm平均身長が低下した。19世紀半ばのヨーロッパはもっと低く12~15cm低く現在のアジア人と変らない。農耕が始まると、摂取食物が限られ栄養バランスが悪化したと見られる。
 
農耕に次いで牧畜が始まると牛から天然痘・結核・ジフテリア、犬から麻疹(はしか)水牛からハンセン病などの疫病の被害を受けるようになる。
 
集団生活は集団の戦闘行為戦争へと発展していったのもこの頃です。
 
干ばつに襲われるメソポタミアp110~111
クリミア半島にあるサキ湖の湖底の堆積物を調べると、4200年前からの100年間、ヨーロッパ東部でそれまでの気候と異なる乾燥化が起きている。地中海東部でも長い干ばつが発生し、トルコ東部の湖では水位が30メートルから60メートルほど低下し、当時の死海の水位は現在よりも100m以上低くなった。また、ナイル川上流のモエルス湖やルドルフ湖では4200年前の紀元前2180年から2160年の20年問に湖水の水位が極端に低下しており、上流地域での降水量が減少したと推測される。

メソポタミアの都市国家にとって、長期の干ばつは致命的であつた。人口が集中すると社会は気侯変動に対して脆弱になる。その最初の事例を、シュメール王朝の都布でみることができる。メソポタミア北部のアッカドの都市テル・レイランは、4200年前、巨大な城壁が造られた直後にもかかわらず突然放棄された。人気の全くない地層から強風が吹き、砂塵が厚く積もり、厳しい干ばつが起きたことがわかった。テル・レイランに再び人が住むようになるのは、気侯が湿潤に戻る300年後である。
アッカドでは穀物の配給制が開始され、ウルの場合、統治者は穀物配給量を大幅に削減する決断をしたとの記録が残っている。灌概用水の利用と穀物の纂奪をめぐって、シュメールの都市間では戦争が熾烈を極めていき、同時に異民族グティ人の侵入にさらされた。グティ人の侵入は、気候変動が民族の移動を誘発したもので、民族移動はその後も歴史を変える原動力になっていく。
アッカド王朝は、長い城壁を造って異民族や隣国の進入に備えたものの、10年で打ち破られ、シュメール王名表では「誰が王で、誰が王でなかつたかは定かでない」と記録された混乱期を経て、滅亡していった。混乱は、紀元前2112年にウル・ナンムがシュメール人最後の帝国であるウル第三王朝を築くまで、100年問続いた。
ウル第三王朝の時代も短かった。紀元前2028年以降になると、飢饉が続いたために穀物価格が60倍に高騰した。そして、最後の王イッビ・シンは将軍イシュビ・エラに叛旗を翻され、紀元前2004年に近郊国エラムに捕らえられ、ウル第三王朝は滅亡する。
ファラオの失墜 p115~117
古代のエジプト人も、ナイル川の洪水が自分たちの生命線を握っていることに気づいていた。ファラオが洪水を管理するという世界観は、古王朝よりもさらにさかのぼる先王朝時代の杖頭に彫られた人物像にもみてとれる。
スコーピオン王が鍬を手に持って灌概水路を開く姿が刻まれており、ナイル川の洪水のコントロールが、王国設立当初からファラオの重要な責務であったことを示している。古王国のファラオとは、神として洪水をコントロールできる魔法の力があるとして崇めたてられただけでなく、毎年の洪水を発生させ、その時期を民衆に知らしめる存在でもあった。
実際は、天体観測により太陽暦(シリウス・ナイル暦)を作り、太陽とシリウスが同時に昇る頃にナイル川の氾濫が起きると予測し、毎年の洪水による水位の上昇をニロメーターとよばれる水位計で記録することにより、氾濫の規模まで推定していた。平年であれば予想どおりの時期と規模で洪水が発生したため、民衆はファラオの偉大な力とみなしたのである。
ところが4200年前の干ばつでは、ファラオの予言どおりには洪水が発生しなかった。エジプトは深刻な飢饅に苦しみ、「誰もが自分の子供を食べた」と記録に残っている。民衆はファラオの聖なる力に対して疑問を抱くようになり、暴動が頻発し、古王国はクフ王のピラミッドを築いた400年後に、パピ2世の死去とともに紀元前2184年に滅亡してしまう。ファラオがナイル川をコントロールしたのではなく、ナイル川の洪水を変動させるエルニーニョが、ファラオの神性をコントロールしていたのであった。
 
その後、ナイル川沿いの細長い王国では、第一中間期とよばれる分裂状態が100年以上続き、王都メンフィスは混乱し、各地で州候とよばれる実力者が割拠する時代となる。
 
第一中間期の混乱を収め、紀元前2040年頃にエジプトを再び統一したのがテーべ出身のメンチュホテプ1世で、この第11王朝から中王国が始まる。第12王朝を開いたアメンエムハトー世以降になると、温暖な気侯が戻って洪水の水かさも増し、経済は再び隆盛を迎えた。
 
しかし、中王国のファラオたちは、古王国時代のように洪水を自在に操る絶対的な神には戻ろうとしなかった。彼らは、自らを太陽神ラーから国の統治を委託された者と解釈し、失敗が許される統治者といった制度の中に身を置くことを選んだ。フアラオを民衆を守るヒツジ飼いとみなし、国の管理者という立場で政治を行うようになる。そして、中央集権的な体制と科学技術の発展による農業大国、技術立国を目指した。
ファラオの教訓はどこぞの国の与党のマニフェストのようだ。
出来ないことを出来ると言い張れば、裏切られた民衆は、王(与党)を信用しなくなる。
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動物はいつから家畜化したのか p57~59
動物の家畜化も、農業の開始と同じような過程をたどっている。一万年前のメソポタミア北部の遺跡でヤギやヒツジの若いオスの骨ばかりが大量に発掘されていることから、その時代に家畜化が行われたことは想像がつく。

http://www.hinerikko.com/img/diary2008/0401.jpg家畜化は、乱獲によりガゼルがいなくなる中で、不足する動物性の食糧を埋め合わせるため他の動物の飼育を試みたことに始まる。野生のガゼルではなく、ヤギやヒツジが選ばれた理由も、農作物の原種と同じく、家畜化可能な動物は実際のところごくわずかしかいなかったからだ。

世界全体でみて、45キログラム以上の体重を持つ哺乳類は148種類ほど存在し、その中の14種類だけが現在、家畜化されている。他の哺乳類の場合、気質が荒い点や食肉の量が少ないといった理由で家畜化に適さなかった。14種類のうち9種がメソポタミア北部で家畜化に成功したもので、「ビッグ・フォー」とよばれるヤギ、ヒツジ、ブタとウシもこの中に含まれる。アフリカ大陸ではシマウマを何度も人の手で繁殖させようとしたが失敗している。

http://hardcoresupersite.com/30541171383.jpg南米大陸の場合、家畜化できたのはラマとその近縁種のアルパカだけだった。両者の野生種は、高地の草原に棲息する動物である。家畜は荷物の運搬だけでなく、農業が不作の際の生きた食糧備蓄として貴重であり、南米大陸の先住民は生活圏を選ぶ際に家畜の都合を優先して高地に住みついた。現在の南米大陸の太平洋側での主要都市の多くが標高3000メートル以上に位置する理由は、ここにある。

ヒツジやウシなどの大型哺乳動物とは異なるが、人類が最初に家畜化した動物はイヌだ。最近のDNA分析によれば、イヌはオオカミを家畜化したものであり、その時期は1万5000年前とされる。いったん家畜化するとまたたくまに広がっていき、シベリアを渡ったアジア系の人々もイヌを引き連れていた。ただし、3万年前から2万年前の遺跡からもオオカミにしては小型の骨がみつかっており、現在広がっているものとは違う種類のイヌを飼っていた可能性がある。頭骨を切られ脳が抜き取られたものもあり、おそらく食用にもされていたのだろう。

なお、家畜化された動物のほとんどが草食動物である。その理由は、肉食動物を家畜化するには、餌として他の動物を捕まえなければならず、二重に手間がかかるためだ。ネコの場合は農作物の貯蓄庫が建てられた時期と一致しており、穀物をネズミから守る目的であったと考えられている。最古の家畜化したネコの骨は、1万年前のキプロスから出土したものだ。
 
 
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約6000年前の関東地方
 
日本では縄文海進(じょうもんかいしん)と呼ばれる完新世の気候最温暖期(かんしんせいのきこうさいおんだんき)が訪れた、およそ7,000年前から5,000年前の間の完新世で最も温暖であった時期を指す。 
北極付近では4℃以上上昇した(シベリアでは冬に3-9℃、夏に2-6℃というデータもある;)
完新世期にはヨーロッパも温暖化となりブリテン島やデンマークあたりまで照葉樹林が覆い、陸亀が生息していた。サハラ砂漠も湿潤な気候となり、緑に覆いつくされていた。
 
この約6000年前にピークであった温暖期には人類の吐き出す二酸化炭素などまるで問題外の時期である。今日の二酸化炭素の排出と温暖化の関係が異常に報道されているかこの事実からでも納得ができる。温暖化は二酸化炭素だけでおきるものではない。
 
またこの海進は、世界各地に残る洪水伝説へと繋がった可能性を本書では言及している。
洪水伝説
洪水伝説は世界各地に残っている。一番有名なエピソードは『旧約聖書』創世記にあるノアの洪水で、ノアが600歳となる誕生日の2月17日から40日40夜降り続いた雨による洪水があったというものだ。また、ギリシャ神話にも、ゼウスと弟のポセイドンが洪水を起こすものの、プロメテウスの息子デウカリオとパンドラの娘ピュラーは生き残るといったエピソードがある。さらに、司馬遷の『史記』夏本紀第二の中に、尭帝時に大洪水が起き、舜帝は22年かけて堤防を完成したと記述され、日本にも東北地方では白髪水、南西諸島南端の波照間島では大津波といった言い伝えがある。その他、北方ゲルマン神話、チベットやアメリカ先住民など、世界の至るところで洪水についての伝承が残されている。一般論として、これらの伝承は、実際に起きた自然災害の教訓を長く子孫に伝えるために語り継がれたものとみられている。
『旧約聖書」創世記の洪水神話について、その由来と思われる物語を4000年前の粘土板に楔形文字で刻まれた『ギルガメシュ叙事詩』の中にみることができる。ギルガメシュとはメソポタミアの都市国家ウルクの王の名前であり、シュメール王名表では4800年前頃に即位していたと記録にある。
この『ギルガメシュ叙事詩』の11書版に洪水伝説として次のようなエピソードが書かれている。
「シュリッパク・…・・ユーフラテス川の岸辺にある町。
偉大な神々は、洪水を起こそうとされた。
家を壊し方舟を造れ。財産を厭い、生命を生かせ。生命あるもののあらゆる種を方舟に導き入れよ。……
そのときがやって来た。わたしは嵐の模様をみやった。嵐は恐怖を与えるかにみえた。
わたしは方舟の中に入り、わが戸を閉じた。
終日、暴風が吹き荒れ、大洪水が大地を襲った。大雨の中で、人々は互いの居場所がわからなくなった。
六日七夜、風が吹き、大洪水と暴風が大地を拭った。七日目になって、暴風と大洪水は戦いを終わらせた。
方舟はニムシュの山に漂着した」
(月本昭夫訳『ギルガメシュ叙事詩』より)
 
この洪水伝説が何を意味するのか。実際に起きた自然災害なのであろうか。気候変動を考慮した、いくつかの説が唱えられてきた。

まずは、完新世の気侯最適期での海面水位の上昇を示したというもので、実際にアラビア湾では1万5000年前から6000年前にかけて海岸線は1000キロメートル以上も陸地に入りこんだ。

また、融水湖の崩壊による急速な海面水位の上昇もあったかもしれない。8200年前イベントによるアガシ湖の最後の崩壊では、一年間に数メートルの海面上昇があったと推定される。氷床による融水湖は、アガシ湖ばかりではない。シベリアにも、エニセイ川とオビ川を堰き止めた白然のダムがあった。融水湖の広さはカスピ海の二倍はあり、1万4000年前までは残っていたことがわかっている。ただし、アガシ湖のように大規模な崩壊をしたのか、そこにあった広大な水がどこに流れていったのかなどについて、考古学的な証拠は残っていない。
 
さらに、暴風雨が到来した際には、強風にあおられ海水が陸地に吹き寄せられるとともに、気圧の低下により海面水位が吸い上げられるように上昇するストーム・サージが発生する。結果として、広い範囲で海水による陸地への浸水が起きたであろう。このような大きな自然災害が洪水伝説になった可能性が提示されてきた。
 
農業を行うには、洪水に襲われる重大な被害と引き換えにしてでも、水の利用が容易な川の近くで暮らす必要があった。当時の人々は、自然災害に恐れつつも川沿いの集落を発展させていったため、子孫への警鐘として洪水のエピソードが語り継がれていったのかもしれない。実際にメソポタミア遺跡から、ウルで6000年前、ウルクで4800年前と推定される二つの洪水層が発見されている。
 
しかし、洪水伝説で描かれた天変地異は、長い年月の間に起きた海進のような緩やかな変化というよりも、何かが劇的に起きた出来事のように思われる。また、『旧約聖書』で全世界が変わるきっかけになるにしては、ウル、ウルクの洪水層では役者が小さいという印象は拭えない。
 
コロンビア大学のウィリアムニフイアンとウォルター・ピットマンは、1997年に黒海にまつわる魅力的な仮説を発表した。
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黒海の氾濫
 
地中海の海面水位は、氷期と間氷期のサイクルの中で上昇と下降を繰り返していたことが知られている。
 
580万年前の寒冷期にジブラルタル海峡が封鎖され、地中海のほとんどが干上がり、塩田と化すというメッシニア塩分危機が起きた。大量の塩が地中海の底に溜まったため、他の海洋の塩分濃度は大幅に低下した。その後、五三〇万年前に地殻の移動によりジブラルタル海峡が開き、再び地中海は海水で満たされた。
 
黒海の場合、最終氷期極寒期以後、雪融け水が流入したことで水位が上昇し、サカリャ川からアナトリアを通ってマルマラ海へと流れていた。ところがヤンガードリアス期になると、乾燥化により降水量が減少したことでサカリャ川の入水口より水位が低下した。
 
1970年頃に、旧ソ連の科学者は、水位が低下して黒海は孤立し、淡水で満たされた時代があったことを発見していた。そして、1993年にブルガリアの科学アカデミーは海底に残る珊瑚礁の跡から、黒海の湖水面も上下動を繰り返しており、9800年前の黒海は淡水湖であったこと、そして湖面水位は現在の水位よりも100メートル低かったとの証拠をつかんでいた。

ライアンとピットマンも1993年から開始した調査で、音響測深技術を用いて海底の地形を調べ上げた結果、地中海から黒海に流れこむ洪水が作った峡谷を発見した。その地層から淡水湖の時代にはなかった海洋性の貝殻を採取し、放射性炭素による年代特定を行うと、渓谷が形成された年代はおよそ7600年前から7500年前の時代との結果を得た。
 
ライアンとピットマンは、これらの調査結果から、地中海の海面水位が完新世の気候最適期の時代にゆっくりと上昇していき、7600年前にマルマラ海の海水が現在のボスポラス海峡周辺の細い陸地を乗り越えて黒海に流れこんだのではないか、との仮説を提唱したのである。
 
黒海沿岸には人々の集落があり、肥沃な三日月地帯から伝わった農業が行われていたと考えられる。8200年前イベントで西アジアの気侯が寒冷・乾燥化したため、農業に適した黒海沿岸に多くの人々が移り住んでいたと想像できる。そして、湖畔に住む彼らに地中海に流入した海水が襲いかかったのだ。
 
黒海の湖水面は2年間にわたって1日平均にして15センチメートルずつ上昇していったため、人々は集落を捨て、ひたすら高地に逃れるしかなかったであろう。この大災害が洪水として人々の記憶に残り、言い伝えとなってノアの洪水伝説になったのではないか、とライアンらは考えた。
 
地中海の海水が流れこむことで黒海沿岸に大洪水が起きたとすると、この大規模な自然災害が、農業を全世界に広めるきっかけになった可能性がある。
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ノアの箱舟の伝説のアララト山の位置と、黒海、肥沃な三日月地帯の位置関係を考えると、黒海洪水説は非常に興味深い学説である。
 
温暖な状態が続いた後は2,000年前位までにかけて徐々に気温が低下していった。
 
 
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http://www.uniqlo.jp/uniqlock/swf/blog_small.swf?user_id=Bo4uxIuSX6BfwXZC氷河期と間氷期が数万年単位の長いサイクルで人類に襲い掛かり、研究者の中にはミトコンドリアのDNAから人類は一時千人単位まで減少したのではないかという仮説をたてる研究者もいる。
 
スマトラ島のトバの超巨大火山噴火はその後約55000年続く最終氷河期の引き金を引いてしまった。最終氷期の極寒期は2100年前~18000年前であったが、地球の平均気温は北半球の高緯度地方で12~14度低く低緯度地方は軽微であったが、全体に乾燥した気候であった。約3万年前に発明された動物の骨の針と糸で、何枚もの毛皮を衣服に仕立てること出来たのが人類がアフリカ以外で生き残ることに成功した理由だった可能性もある。人類は襲い掛かる自然の猛威を知恵によって乗り越えていった。
 
10万年単位の大きな氷期の循環の中、それぞれの氷期の中に小さな気候変動サイクルがあり、その中で一時的に気温が小幅上昇した時期は亜間氷期、反対に気温が低下した時期は亜氷期と区分される。氷期の間にあっても気温の変動には2200年~1500年のサイクルがある。さらに20年~30年の間に急に暖かくなり、その後に数100年かけて気温が低下していくサイクル (ダンスガード・オシュガー振動)も発見されている。
 
人類は最終氷期の極寒期を過ぎたあたりからまだ陸地が世界各地で繋がっている時期に世界中に広がっていった。
 
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2万年~1万8千年前の日本列島
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 日本列島もマレー半島からインドネシアに広がっていたスンダランドから陸伝いに古代日本人の祖先は日本列島へやってきた。またバイカル湖やシベリア付近にいた祖先達も、最終氷期極寒期の直前にあたる4万年前、マンモスを追いかけてシベリア平原に移住した人々は、暖かさを求めて低地へと移動し、アムール川を下り一部はアラスカヘと移動している。彼らの中のある集団は、海面水位が低下した時代に、容易に徒歩でサハリンを通って日本列島に南下したであろう。長野県野尻湖の立が鼻遺跡で3万年前にナウマンゾウを狩猟した跡が発掘されている。海岸線にも住みつき、魚介類の採取を中心に食糧を得ていた集団もいたであろうが、ヨーロッパと同様に、海岸部のほとんどの遺跡が縄文時代以降の海面水位の上昇で水没してしまったと考えられている。 
 
最終氷河期の厳寒期が過ぎ17000年前より徐々に気候が温暖化していったが、およそ12900年前頃から1300年間ヤンガード・リアス期という急激に寒冷化に戻った現象があった。
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[アガシー湖の決壊]
北アメリカの氷床が後退し、融解した氷床は現在の五大湖より巨大で、イラクほどの面積のアガシー湖を造っていた。ローレンタイド氷床とコルディレラ氷床という二つの巨大な氷床は融解を続け、ミシシッピ川を通ってメキシコ湾に注いでいたが、アガシ湖の貯水量は長い年月をかけて増加していき、やがて自然が作ったダムは隈界を超えて決壊した。決壊は、1万2900年前、1万2200年前、8200年前と三回にわたって起きた。
 
 
1万2900年前の最初の決壊の際、アガシ湖の9500立方キロメートルの水がミシシッピ川からメキシコ湾へのルート以外に二つの方向に溢れ出た。セントローレンス川を巡り現在の五大湖を経て大西洋に向かうルートと、プッケンジー渓谷から北極海へと至るルートである。
 
アガシ湖からの真水が海に流れこんだことにより、海面水位は北極海で一時的には6.2m、地球全体で6cm上昇したと考えられている。

アガシ湖の真水が北極に近い北大西洋の高緯度海域に流れこんだことは、地球全体の気候に大きな影響を及ぼした。まず、北大西洋の海水の塩分濃度が低下したことにより、海氷面積が拡大した。海水は塩分濃度が低いほど凍りやすい。北海道網走市まで到来するオホーツク海の流氷は、世界で最も低緯度側まで南下する流氷として知られている。その理由は、オホーツク海がアムール川などのアジア大陸の大河から塩分濃度の低い河川の水が流れこむ海域であり、千島列島にはばまれて太平洋の海水と容易に交じり合わないため、この海域の塩分濃度が低いからだ。
アガシ湖から流れ出た淡水により北大西洋の塩分濃度が低下し、北大西洋の海氷面積が拡大した。
 
この膨大な量の淡水は、比重が海水より小さいこともあって北大西洋の表層に広がり、メキシコ湾流の北上と熱の放出を妨げた結果、ヨーロッパは再び寒冷化し、世界的に影響が及び、さらに地球全体の寒冷化を引き起こす要因となった。
 
コンベアベルト海水の大規模な対流(熱塩循環)による塩分(深層)と真水(表層)の輸送経路
 
ヤンガードリアス期は、西アジアでの農耕の開始と重なる。寒冷化と乾燥化がその地域の環境収容力の低下をもたらしてメソポタミア北部の肥沃な三角地帯などの住民の生活様式を変化させ、更なる気候の悪化によって食料を生産する必要性が生じたという説がある。
 
アフリカ南部カラハリ砂漢に住むコイサン族とよばれる人々は現在でも狩猟採集を続けている。
平均して週二日半程度しか働かない。女性は20歳、男性は25歳になるまで食糧を集める義務はないという暮らしを守っている。彼らに農業を伝授しようとすると、「モンゴンゴの実が余るほどあるのに、何でわざわざ植物を植えたりせねばならないのか」と真顔で語ったという。農業を始めたきっかけはやはり寒冷化などの必要に迫られてだろうと思います。
 
 p54~57
先土器新石器期の遺跡では、ある時期から小麦と大麦の種子の比率が、それまでの1%や2%から60%にまで急激に増えている。出土した種子はまだ野生種ではあるものの、多くの野生植物の中から、次第に、麦や大麦などの限られた種に絞りこんでいったことがわかる。やがて森林の木の実が減少する中でこれらの種を植えることを開始したと考えられる。

農耕を始めたことが、人類による環境破壊の根源であったとする見方がある。森林を伐採し、大地に塩害を発生させたほか、第2部で触れるが人々の健康も悪化し、疫病が広がるようになった。しかし、気候変動の中で生き抜くためには、これしかなかったというのが実状であろう。

生き残るためにやむなく始めた農業だが、野生種をそのまま栽培した場合の難点として、①実が成る時期がばらばらであること、②実が成るとすぐに地面に落ちること、の二つがあった。

これらの特徴は野生種としては当然のもので、時期をずらして実が成ることは数週間から一カ月の天候の変化を考えると子孫を残す上で有利であり、また成った実が地面に落ちなければそもそも発芽もしない。しかし、農耕を開始した人々にとっては同じ時期に一斉に実がなり、脱粒性がない種子が栽培には適している。人問にとって都合のいい種子を選ぶことは、植えた後の栽培の面倒をみるよりも重要であった。野生種としては欠陥ともいえるこうした性質を持つものだけを集める作業は、難しそうに思われがちだ。けれども、選り分けて都合のいい性質の種を抽出し、翌年はその種だけを撒くという単純なやり方を数年繰り返せば、着実に効果は現れる。

現代の農業研究所などで野生種の改良を行うと、三年程度で相当の純化が可能である。

なぜ、農業発祥の地がメソポタミア北部なのか

それでは、なぜ、農業発祥の地がメソポタミア北部の肥沃な三日月地帯なのか。ヤンガードリアス・イベントによる寒冷化・乾燥化が全地球規模で起きているのに、どうして農耕が始まつたのが南西アジアなのか。答えは、ピューリツァー賞を受賞した名著『銃・病原菌・鉄』の中でジャレド・ダイアモンドが語っている。

ダイアモンドは、農耕に適した野生種の穀物は全世界を探してもごくわずかな種しかなかったと考えた。現在、世界全体の農作物生産量の80%は、小麦、トウモロコシ、コメ、大麦といった穀物、大豆などのマメ類、ジャガイモやサツマイモといった芋類の合わせてわずか十数種類で占められている。これら農作物は古代人が何千年もかけて栽培可能な植物をテストしていった結果、選ばれた品種なのである。近世以降では品種改良こそあれ、主要食物となるような新しい植物は一つも栽培化されておらず、この300年間に新たに加わった農作物もイチゴなどごくわずかだ。

そして、農耕に適した農作物の野生種の多くが、偶然にも肥沃な三日月地帯に群生していた。世界中には20万種の植物があり、食用に適するものは2000種から3000種とされている。このう ちの200種から300種だけが、かつて一度は栽培化を試された。
 
背丈と種子の関係を考えると、一年草であればできるだけ大きな種子を作ることが子孫を残すために有利であるのに対し、多年草や樹木の場合は種子よりも幹や葉にエネルギーを傾ける。背丈が低く種子が大きいという栽培に適した植物となると、まずは一年草に絞られる。地球規模でみて重い種子を作る植物の原種は56種ほどしかなく、これらが栽培化の有力候補となるが、うち三分の二がユーラシア大陸西部の地中海や中近東で自生していた。
 
内訳をみると、肥沃な三日月地帯以外ではアジア東部では6種類しか存在せず、オーストラリアや南米大陸ではわずか2種類しかなかった。
 
そして、一年草であり、なおかつ背丈が低いながら大きな実ができるという、人類にとって本当に都合のいい穀物の原種となると、肥沃な三日月地帯と中国以外の他の地域ではほとんど自生していなかったのである。

大麦、小麦、ヒトツブコムギ、エンマコムギ、エンドウ、レンズマメの野生種は、アナトリア東部山岳やザガロス山脈で自然に繁殖していた。ヒトツブコムギを例に採ると、1960年代にほぼ純粋種とみられるものが、トルコ、イラク、シリアで数十平方キロメートルにわたって自生しているのが発見されている。農耕を開始した頃の遺跡に残る穀物の種をみると、山麓の野生種を低地まで運んで植えていることがうかがえる。このようにして、低地で栽培化された種が農耕の普及とともに世界中に広まっていった。

ただ、すべての農作物の原種がメソポタミア北部に由来するわけではない。開始時期は遅いものの、農耕は世界各地で独自に起きている。
 
中国では、南部で遅くとも8600年前にイネが、そして北部では6000年前にキビが栽培された。
 
イネの原産地は雲南であるとされてきたが、近年の研究成果では稲作の開始は長江の中・下流域で起きたとされており、最古の水田跡は6500年前の湯家崗文化時代のものだ。

イネの原種を調べる中で、長江流域で多年草のものがあり、秋になっても実がならないものがみつかっている。イネとは、もともと多年草であったものが、自然環境のストレスの下で種子繁殖に変化したのではないかといった仮説が提唱されている。

イネはメソポタミア北部の農耕でも栽培されたものの、大規模に栽培されたのはアジア南東部であった。肥沃な三日月地帯でイネが軽視された理由は、コメの場合、大麦などのムギ系穀物と比べて植物性タンパク質が格段に少ないとの欠点が挙げられる。コメだけでは栄養的に十分ではなく、米作が普及するには、タンパク質を含む他の動植物との食べ合わせが必要であったからかもしれない。

アメリカ大陸では、最初にアワ、次いでカボチャ、ウリ、そして6000年前にメキシコ高地でトウモロコシによる農業が始まっている。アワの農耕は放棄された時期もあったが、4500年前に再び行われるようになった。いずれも現在のアフリカ産原種とは違うものだ。

トウモロコシは、今日大量に栽培される穀物の中で、小麦やイネなどの他の品種とは全く異なるタイプの作物であり、いまだに原種が発見されていない。テオシントとイースタン・ガマグラスを交配したハイブリッド種ではないかとの推測がある。また、ジャガイモにっいては、6000年前からアンデス南部の高地で栽培化が行われ、塊茎が大きくなるよう、そして有害物質のソラニンの含有率が少なくなるよう、改良が加えられていった。
 
 
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こりゃ香港映画のセットか?これは・・・どう見てもこの3枚目の写真の上から2本目の材木なんか最近移動した際についた白っぽい引っかき傷のような跡があって、この写真を信じろって無理があり過ぎる!
 
このおっさん中国版川口探検隊だろう!悲しいことに、メラニン混入ミルクや万博ソングやなんでもかんでも捏造する国の探検隊の発見なんて誰も信用していない。シロアリの跡のようなものも嘘くさい・・・特に1枚目の干草の跡らしきものは、わざとらしいし、埃がまったく溜まっていないことはありえない。このニュースと写真を信じる日本人がはたしているのだろうか?
 
 
残骸発見
現在までに、アララト山に漂着したとされる「方舟発見」(と、主張される痕跡)の報告が何例かなされている。
  • 古くは、紀元前3世紀に、バビロニアの歴史家ベロッソスが書き残していた。
  • 13世紀には、マルコ・ポーロが『東方見聞録』の中で言及していた。 
  • 詳しい年代は定かとなっていないが(1880年 - 1910年頃であろうと推測される)アララト山周辺を勢力圏としていた帝政ロシアが大規模な捜索隊を編成しノアの箱舟の残骸を捜索しかなりの成果を収めたものの、ロシア革命の混乱が原因で公表される前にその資料が遺失してしまったという。
  • 戦後、米国の軍事衛星による撮影でCIA内部でも実在説を支持する勢力が増えたことがある。
  • 1950年代の複数の調査によると、氷河に閉ざされていた影の長さは120 - 130mあったと報告された。また、その数年後に調査したグループが、残骸から切り取ったとされる、ほぼ炭化しかけた、化石といってもよいような木材を、数箇所の大学や研究機関で、放射性炭素14法などを用いて年代測定したところ、およそ、カイロ博物館では紀元前3000年 - 紀元前4000年、エジプト農務省では紀元前5000年、マドリード大学などいくつかの大学では紀元前2000年~紀元前3000年といった結果が出た。一方で、カリフォルニア大学など、アメリカのいくつかの大学では、およそ1200年前~1400年前という結果が出たという。その材質はオーク材であった。『聖書』の「ゴフェルの木」は、一般に「イトスギ」と訳されているが、実は「ホワイトオーク」であったとする科学的な見解もある。ただし、この近辺1000km四方に、ホワイトオークは古来から存在しないため、証言どおりであるならば、明らかに、遠い過去の時点で、大量にその地帯に持ち込まれた、あるいは、運び込まれた材質であるといえる。
  • 1959年には、トルコ空軍による報告が残されている。
  • 1960年代に入ると、冷戦激化に伴い、旧ソビエト連邦と国境を接するこの地区には入ることが不可能となった。しかし、駐トルコのアメリカ空軍によって、この船影らしき長方形の黒ずんだ物体が、何度も確認されたという。これらは、アララト山北東斜面に集中しているといわれている。
  • それらの情報を総合すると、箱舟伝説を信じる調査者たちの中では、現在は、北緯39°26′4″、東経44°15′3″、海抜1870m付近のものが有力とされる。
 
ちなみにwikiの座標をGoogleEarthで捜すと矢印のところで、まるでいい加減でした。
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GoogleEarthでNoah’s Arkを捜すと
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もう少しアララト山を広域で見ると
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ちなみに有名な航空写真は
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2007年のコメディ映画で再現されたノアの箱舟の写真
 
 
 
爆笑です!検索をしていたら予想通り、発見は捏造ってはやくも流れていました!スポンサーがインチキだって認めちゃったそうです!さすが捏造大国中国!
A former member of the expedition whose sponsors this week claimed to have found the legendary biblical boat buried beneath the snows of Turkey's Mount Ararat says the "discovery" was probably a hoax.
 

標高4000mの地点まで巨大な船が流れ着くカタストロフィーが4800年前にあった地質学的痕跡はないが、世界各地に洪水神話は残っているので、洪水はあったかもしれない。世界の生態系が洪水以降出来上がったことはありえないし、日本では12000年前から縄文時代が続いたが、海彦山彦神話に若干痕跡があるが、日本の神話に洪水神話は無い。
 
私は伝承が世界各地に残る以上、洪水があった可能性の方が高いと考えます。エジプトやメソポタミア文明は紀元前3000年。ちょうどノアの箱舟の事件の後からとなる、もし、エジプトやメソポタミア以前に文明が有ったとして、それがアトランチスのように消えてなくなったとしたら…

たしか神々の指紋に、エジプトのスフィンクスはピラミッド建設以前からあそこに鎮座し、水による侵食の跡が残ると記されていた。(※信じてはいない)
 
日本や中国には影響がない程度の大災害が約5000年前洪水伝説が残る中近東にもし有ったとするならば。そしてイスうエル付近に住んでいたノアー家が箱舟でトルコ北部の山頂まで押し流されたことが、もし、事実だとするならば、考えられる妄想仮説は一つ。紅海若しくはインド洋のアラピア半島近辺に小惑星もしくは彗星が落下して巨大な津波が発生したという仮説(妄想かな)は成り立たないであろうか?
もし小惑星・彗星の類が紅海に落下したとするならば、高さ1000mを越える津波が紅海からシナイ半島を越え、地中海に溢れたら…
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紅海の地形を見ると巨大な渓谷のようになっており、巨大な水流が津波となってトルコ北部まで箱舟を押し流す可能性があるような気がします。

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ちょうど、ノアの箱舟発見の捏造ニュースが流れていたので、ちょっと寄り道しすぎました。
 
6500万年前ユカタン半島に直径9Kmの小惑星が落下し、恐竜が絶滅。1908年ツングースカの謎の大爆発も彗星が落下したと考えられています。小惑星や彗星の落下は人類を絶滅させる恐れのある最も大きな大災害である。 
p110~117
小惑星観測プロジェクト
太陽系はいまから約46億年前に生まれた。まず原始太陽が誕生し、無数の星間物質から10兆個もの徴惑星が形成され、それらが衝突・融合して惑星が形成された。地球を基準にして、地球より外側の軌道を回る五つの惑星を外惑星(火星、木星、土星、天王星、海王星)、内側の太陽に近い軌道を回る惑星(水星と金星)を内惑星と呼ぶ。小惑星は、内惑星が形成されたあとの言わば残り物と考えられる。ほとんどの小惑星は火星軌道と木星軌道の間を公転している(この地帯を小惑星帯と呼ぶ)。彗星は太陽系の外縁部で誕生し、主に氷と塵からできている。

彗星と小惑星のうち、地球に接近する軌道を持つものを地球近傍小惑星(NEO)と呼ぶ。直径一キロ以上のNEOはすでに数百個見つかっており、さらに増え続けていて、最終的には1001200個に達すると見込まれる。天文学界は、2008年までに90%を発見し、軌道を確定したい考えだ。ごく小さいものまで含めると、すでに4000個以上のNEOが発見され、追跡観測が行われている。

NE0
の大半は小惑星であり、これらをとくに地球近傍小惑星(NEA)と呼ぶ。NEAは軌道の特徴に基づいて三つのグループに大別され、それぞれを代表する星の名をとってアポロ群、アモール群、アテソ群と呼ばれる。地球近傍彗星(NEC)の方は、公転周期が200年以下のものを短周期、以上のものを長周期に分類する。

1980
年代後半に主立った科学者とメディアが各国政府に圧力をかけ、地球と衝突する恐れのある「野蛮な天体」に何か策を講じるよう要求した。小惑星1989FCが地球のすぐ近くを通過したことも、世間の関心を大いに高めた。アメリカ議会が1990年代初めにすべての地球近傍天体を発見し衝突回避策を講じるための研究予算を承認したのは、こうした背景からである。

現在は世界で七つの天文台が、NEO発見プロジェクトを推進している。うち五つはアメリカ(アリゾナに三ヵ所およびニューメキシコ、ハワィ)、そのほかはイタリア(アシァゴ)と日本( 岡山県美星町)にある。発見されたNEOはすべてウェブサイトに掲載され、サイトは毎日更新される。広視野CCDカメラが導入されてからは、かつての写真乾板方式に比べ天体の発見が格段に容易にたった。デジタル画像を得られるので、コソピューターを使った軌道計算がしやすいというメリットもある。
(略)
天体力学における『プリンキピア』の意義は、有名たn体間題の定式化を初めて可能にしたことである。n体問題とは、n個の質点間における相互作用の力の方程式を解き、現在の位置と速度だけがわかっている天体について過去の運動の推定と未来の運動の予測をするものである。質点が二個(n2)の二体問題は比較的簡単に解くことができ(解がケプラーの法則である)、『プリンキピア』の中で論じられている。ある天体がもう一つの天体に対してとりうる軌道は、円、楕円、放物線、双曲線、直線のいずれかにたるのだ。だがn3以上になると、現在でもまだ解けていない。
(略)
だが小惑星や彗星になると、話は俄然ややこしくたる。データ不足だとか重力以外の影響を受けやすいといった理由から、発見してもすぐには正確な軌道計算ができたいのだ。
たとえば質量がわからたかったり、軌道要素(長半径、離心率、傾斜角など)が不明だったりする。そこで新しい天体を発見した場合には、質量などの初期条件を推定しておき、観測を重ねた後で修正するという手法が採られる。これで数年以内には正確な軌道を決定できることが多いが、彗星には質量が変化しやすいという厄介な性質がある。このため、「接近」と予想されたものがじつは「衝突」だったり、その逆だったり、ということもあり得ない話ではない。
(略)
小惑星1997XF11が近い将来に接近する恐れがないとしても、じつはほかにもう一つ危ない小惑星がある。20046月に発見されたアポフィスである。アポフィスは直径500メートルのほんとうに小さな小惑星で、2029年に地球からおよそ32000キロの地点を通過すると予想され、2036年には衝突する可能性が指摘されている。
この小惑星は、発見以来、トリノスケール(NEOが地球に衝突する確率および衝突時の予測被害状況を表す尺度)で示すリスクレベルが引き上げられたり引き下げられたりしてきたが、2029年の接近後でないと、衝突の確率をより正確に予測することはできそうにない。

注意深い観測を続けたければならないもう一つの理由は、現在の知識ではNEOの将来の振る舞いを100200年程度先までしか予測できないからである。最初に述べたように、太陽系もカオス運動を内在しているので、NEOの軌道はある日突然変化しかねない。
だがどれほど危険なNEOも、いったん捕捉してしまえば目を離さずにいることはさほどむずかしい作業ではなく、次世代に容易にバトソタッチすることができる。将来的には要注意リストから外される天体、新たにリスト入りする天体も出てくるだろうが、継続的に観測していれぱ、さして苦労せずにそうした更新作業を行うことができる。
 
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確かにベストセラーになるだけのことはあって、非常に面白かった。

しかし、所詮戦後教育の申し子達である全共闘世代(著者は1950年生まれ)の物書きによる、日本人論にすぎない。彼らの世代に共有されている左翼的感性には、私の属する新人類世代との感性と大きなギャップを感じる。内田氏は、自分は左翼ではないかのごとき書き方をしているが、世代が彼をそうさせたのかわからないが、内田氏の唱える日本人が辺境ゆえに持つ行動様式について、自虐的に捉える事に違和感を感じざるをえない。これは私が抱く全共闘世代の人間に対する偏見であって、色眼鏡である。だが色眼鏡を外して見てもやはり全共闘世代は左に傾いている。
全共闘世代とは1950年~1954年生まれを指す。有名人を検索すると、姜尚中、中沢新一、竹中平蔵、副島隆彦、古舘伊知郎がこれに当たる。なんとなく納得する名前がならぶ。

本書は、膨大な日本人論からの「抜書き帳」みたいなものであると著者は本書の性格を断ってはいる。これは本書に客観性を付与しようと言う著者の仕掛けである。しかし、膨大な日本人論の有名著書ですら網羅できるわけが無く、先人の引用だとしても、引用する日本人論の思想立ち位置によっては、まるで異なる日本人論になる。それゆえ著者内田氏が客観性を装っても、引用は恣意的にならざるをえず、本書は著者が抱く主観的な一日本論であると私は思う。

内田樹氏の著した本書は、日本及び日本を辺境、辺境人として捉える考え方は優れた着想力であると思う。だが、そこかしこに違和感を感じる箇所が多数存在する。

p33~34
直近の戦争については、まだ死者たちの記憶が薄れていませんから、彼らは何のためもつに死んだのか、その死を以て私たちに何を贈ってくれたのかという問いが立てられることがなくはありません。けれども、その問いの答えはばらばらです。第二次世界大戦の死者たちについてさえ、その死が何を意味するかについて、私たちは国民的合意を持っていない。死者たちはある人々から見れば「護国の英霊」であり、ある人々にとっては「戦争犯罪の加担者」です。まるで評価が違う。

彼らはなぜ死んだのか、その死を代償にして、私たち後続世代に何を贈り、何をやり残した仕事として課したのか、その贈与と責務を私たちはどう受け止め、それを次世代にどう伝えてゆくのか、悲しむべきことに、それについての国民的合意は存在しません。

大和の沖縄出動に動員された青年士官たちは、自分たちが戦略的に無意味な死に向かっていることに苦しみ、こうやって死ぬことにいったい何の意味があるのかについて、士官室で烈しい論争をしました。その論争一人の海軍大尉がこう語って収拾したと吉田満は『戦艦大和ノ最期』に記録しています。

「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワツテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテ イツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」

「日本ノ新生ニサキガケテ散ル」これは大和特攻に限らず、硫黄、インパール作戦や南洋の島々で散っていった多くの先人達がが英霊である所以であるべき逸話だ。この話は我々日本人が皆知らなければならない物語である。私は九段の靖国神社へ参拝するたびに、英霊達に深く頭を下げるのであります。

ところが、全共闘世代の人間がこの話を知ったのはつい最近なのであろう、p34~35
「日本ノ新生ニサキガケテ散ル」ことを受け容れた多くの青年がおり、戦後の平和と繁栄は彼らから私達への死を賭した「贈り物」であると私は思っているけれども、彼らが私たちに負託した「本当ノ進歩」について、私たちは果たしてそれに応え得たでしようか。それ以前に、そのような負託が先行世代から私たちに手渡されたという「物語」を私たちは語り継いできたでしょうか。

私たちはそのような物語を語りません。別に今に始まったことではなく、ずっと一日からそうなのです。私たちは歴史を貫いて先行世代から受け継ぎ、後続世代に手渡すものが何かということについてほとんど何も語りません。代わり得を語るかというとふ国との比較を語るのです。
語り継がず、忘れているのは日本人の民族的習性だと内田樹は断定している。

ここだ!全共闘世代は、先人達がこのような気持ちを抱いて散っていった同じ年頃に、大学紛争で「革命ごっこ」、「戦争ごっこ」をしていて、帝国陸海軍の軍人を戦争犯罪人と断定していたのだ。推測だが内田もその一人であったろう。理性を持った人間であれば、「なんと自分は情けないんだろう」と羞じ、反省するのだが、全共闘世代の人間達は自己否定せず、これを日本の民族的習性に置き換え、自己正当化しようとしているのだ!

私は、それを見抜いてしまった瞬間に、本書が陳腐な内田樹の「自分正当論」にしか見えなくなり、その後の素晴らしい洞察も、「とはいっても全共闘世代の著者の言っていることだしなぁ・・・」と色眼鏡でしか見れなくなってしまったのである。

私は、「日本ノ新生ニサキガケテ散ル」この逸話は、義務教育期間に民族の神話として教育すべきだと考えるのです。語り継ぐということは教育すればいいだけです。民族性の問題ではない。日本の戦後教育に問題があるからです。日本が腐っているのは、教育を歪める日教組、文部科学省、日本を恐れる米国のインテリジェンス、そして全共闘世代が自己正当化を謀れば謀るだけ腐っていくのだと考えます。

本書には、内田氏の素晴らしい洞察が幾つもちりばめられているのですが、しかし、内田樹の深層心理は日本人は醜い民族であるという自虐心が存在する。

例えば、べネヴィクトの「菊と刀」で日本軍の捕虜は捕まると、自ら進んで機密情報を話すとか、関が原の戦いで小早川秀秋の裏切りを「変わり身が早い」節操が無い民族性だと反日日本人のよく主張する日本人論に共感している。内田氏はこの理由を日本人捕虜が機密情報を話すのはその場の空気に対する親和性を持とうとする日本人の習性として説明しているが、日本人論の著作者として説明不足である。

狭い島国、しかも人類の居住する東の袋小路の日本列島にはジェノサイド(genocide:民族的抹殺)の伝統は無い。縄文人と弥生人が争い融合していった歴史は、聖徳太子の時代にその歴史的教訓から「和を持って尊しと成す」という十七条の憲法に結実した。仏教と神道の融合「本地垂迹説」は民族の知恵である。それゆえ日本にはジェノサイドの伝統が無い。ジェノサイドを経験していない日本は、敵に降参すれば、敵方となって相手の持ち駒となってきた伝統がある。将棋とチェスのルールの違いからするばわかるであろう。これはその歴史的伝統がそうさせたことを書かなければ、日本人は卑しい民族である論に加勢してしまう。
少々内田氏に同調してしまうことがある。東条英機が作成した悪名高い”戦陣訓”の「生きて虜囚の辱を受けず」についてである。一説には日本人のこの負の民族性から、捕虜になると自軍の情報を漏らしてしまうことを防ぐ為に「生きて虜囚の辱を受けず」と東条英機が日本の軍人の弱点を見抜き加えた説がある。残念ながら私はその説を信じる。

P81
核廃絶運動もそうです。日本人は核攻撃の歴史上最初の被害者です。その被害者という立場から核廃絶を訴えている。私もそれを願っています。けれども、それは日本人全体がこれまであらゆる核兵器の使用に人道的立場から反対してきたということではありません。私たちは現にアメリカの「核の傘」の下で軍事的安全を享受しています。政府は核拡散には反対しても、アメリカが核を保持することに反対したことはない。それどころか、近年では日本の自主核武装の必要を論じる政治家や評論家がおり、その支持者たちがいる。そして、たぶん誰も反対しないのは、第二次世界大戦末期にもし日本が原爆を開発して保有していたら、大本営はそれをニューヨークやサンフランシスコのアメリカの非戦闘員の上に落とすことをためらわなかっただろうし、当時の日本国民はそのニュースを歓呼の声で迎えただろうということです。そういう国民が発信する「核廃絶」のメッセージが国際社会に対して指南力を持つことはむずかしいだろうと私は思います。
ここでも全共闘の影を消せない、日本人は1941年真珠湾の戦艦を急襲したが、ホノルルを無差別爆撃は行ったわけではない。世界の長距離戦略爆撃の魁となった、1937年第二次上海事変の渡洋爆撃は、圧倒的多数の軍に囲まれた海軍陸戦隊と居留民を守るため、中国国民党軍と軍事施設を爆撃したもので、無差別爆撃を行っていない。南京の爆撃も無差別爆撃を行っていない。南京大虐殺は国民党のプロパガンダであったものを、中共がさらに尾ひれ腹ヒレを加え捏造したものである。
※私はまったく日本軍が無辜の市民を一人も虐殺しなかったとは言わない。シンガポールで憲兵による華人の屠殺は、在シンガポールの多数の反日的中国人に対し、まったく少数の兵力しか駐在させるこのができなかった日本軍憲兵の悲しい選択があった。

また、日本軍の弱点は、武士道精神であった。日本の潜水艦隊は非武装の商船を攻撃する通商破壊を潔しとしなかった。また、駆逐艦雷の英国海軍軍人救出の逸話から考えると、欧米一般市民に対し率先して戦略爆撃を行う事は想像しにくい。日本陸海軍も戦略爆撃機「富岳」を計画したが実現できなかったが、もし原爆が完成して投下するとしたら、米国本土ではなく米国艦隊に投下し、休戦交渉したであろう。太平洋戦争が行われず原爆が完成していたとすれば、南京や重慶に対して投下しなかったかと問われれば、確かにゼロではないだろう。私も否定しないが所詮”if”である。

内田は”if”話で日本人を貶めている。

全共闘世代の巧みな日本人論は日本国名の由来と日の丸も貶める事も忘れてはいない。

P110~118に書かれているが、日本は中華思想の華夷秩序の辺境であって、日本という国名は日ノ本、中国から見た日が昇る方向の国だから決めたと、ベトナムを越南と呼ぶロジックと同じである。日の丸はその中華思想の日ノ本の図象化だ書いてあるが、中国が日本の国名を定めたのは初耳どころかトンデモ論だ。

故に日の丸、日本の国名を尊ぶナショナリスト達は中華思想の華夷秩序を尊んでいるのと同じだと批判しているのである。言掛りも甚だしい。日本の国号は689年に頒布された飛鳥浄御原令で定められた説(吉田孝説)が定説となっている。唐と軍事的緊張関係にあった天武朝が、日本国の号を敵対国に配慮して定めたなどという話はありえない。天照大神の神話太陽信仰より太陽神の子孫であると考え「日ノ本」「日本」と国号を制定したと考えるのが自然ではなかろうか。

中国の歴史書の「旧唐書」「新唐書」に書かれてある『「日本」国号は日本列島を東方に見る国、すなわち中国大陸からの視点に立った呼称である』説を採用している。この説は左翼が好んで採用するようである。

もう一つ内田氏のあげ足を取ると、中国の国名が伝統的に一字で周辺の野蛮国が漢字二文字だという説だ。ならば、魏志倭人伝で日本のことを”倭”と漢字一字で日本国名を表現した事実を無視している。
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『塩の文明誌 副題:人と環境をめぐる5000年 佐藤洋一郎・渡邉紹祐 著 NHKBOOKS』を読む

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本書は、地味だが文明を塩の視点で捉えた良書でした。

文明スケールから見た塩は、動物としての人類の生存には欠かせないモノである。その必要性は、個体とし生物学細胞のレベルにまでおよぶ普遍性をもっている。

文明の発達=人口の増加と集中には、ほかの生活物資同様、塩の安定的な生産と供給のシステムの構築は不可欠である。

湿潤で多雨な日本人にはなかなか実感が湧かないが、塩が耕地をだめにして作物がとれなくなるほど塩害が深刻になった土地に栄えた文明の興亡の影に塩害による耕作地の減少という深刻な問題を孕んでいた。

農耕という人の文明は、食糧生産を上げるためにはじめた灌漑によるところが大きい。
人類はもう何千年ものあいだ、農地や資源をめぐって、せめぎ合ってきた。

漢王朝の支配下にあつた楼蘭王国は農耕民の国であった。岩塩を僅かに含んだヒマラヤに水源を発する河川を利用した乾燥地での灌漑による農耕のシステムでは、塩は土地を荒廃させる元凶であった。もともとが塩を含んでいた楼蘭の土地で、過剰灌概は塩類集積をさらに進ませ、楼蘭王国は歴史の彼方へ消え去ってしまったのである。

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楼蘭遺跡大仏塔跡
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楼蘭遺跡住居跡
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ロプノール湖 塩の採掘場
P144~148
塩害と文明の崩壊
メソポタミアでは、セム系の遊牧民であるアッカド人が侵入して、紀元前2350年ごろには統一の集権王朝を打ち立てた。シュメール文明はセム化して、のちのバビロニア文明の基礎がつくられたという。紀元前2060年に、シュメール人はウル第三王朝を築くものの、110年程で滅亡したという。

このシュメール文明がなぜ崩壊したかについては、先に述べたように決定的な説明はなされていないが、過度の灌概による塩害が作物生産を減退させたことが原因とされることが多い。たしかに、当時の粘土板に刻まれた文に、耕作地が白くなるなどの記述があるそうで、塩害に苦労していたことは想像できる。この地域の当時の農業や土壌塩害を長く耐究している国土糖大学の前川和也氏によれば、おもにコムギを生産し、周辺地域に輸出していたこの地帯で、ウル第三王朝が滅びるまえには、土壌の成分にたいしてコムギより強いオオムギを栽培していた事実が、塩害の広がりをうかがわせるという。

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ただ、この塩害の深刻化自体の理由についてもよくわかっていないというのが適当であろう。両河川の時々の洪水は、水路や堤防などの施設をたやすく破壊してしまい、灌概の継続には困難がつきまとっていたという。さらに、両河川の流路がだんだん離れて、その高低差を活かした灌概がしにくくなったということも指摘される。低いところを流れていたチグリス川が地域全体の排水河川として使い難くなることで、塩害対策として重要な排水の確保がむずかしくなったという面もあるかもしれない。 この基本的な理由に加えて、文明の崩壊に明らかに関わっていると思われる要因として、気候の変動と上流地域での森林の破壊をあげる人もいる。 古気候の解析や、上流地域の遺跡の発掘による文明の盛衰などから、紀元前2200年から紀元前2000年ごろにこの地域一帯で気候が乾燥化して、洪水が減り干ばつが多くなったと推定されている。こうした事態は、農地表面に集積した塩分を溶脱させる十分な水の供紛がなされないということになる。 また、上流地域のレバノン杉地帯を中心とする森林の過剰な伐採があったとすれば、洪水時の河川流量の増加をもたらしただけでなく、下流への土砂流入を増やしたと思われる。これは、水路などに堆積する十砂の処理に多大な労力をかけないといけないシステムにとっては、かなりの負担になっていたと想像できよう。 こうしたことが重なって、メソポタミア文明、細かくいえばシュメール文明は、その基盤とする麦類の灌概農業の生産性を急速に失っていったのだと考えられる。このほかにも、遊牧系のアッカド人が灌概農業について知識や関心、技術をもっていなかったことや、周辺のアーリア系の民族(グテイ人)の侵入による混乱などを、その原因にあげる人もいるようだ。これらが複合的に働いて灌概農業を停滞させた、また結果としてこれらのことがあらわれたなど、相互に関わっていたことはあるだろう。さらに、火山の噴火を付け加える人もいる。 さらに興味深いことに、メソポタミア文明の崩壊は、遠く離れたインダス文明にも影響を与えたらしい。インダス文明の中心的な都市であったハラッパやモヘンジョ・ダロなどは、メソポタミアとの交易によって支えられていたため、メソポタミア地域の麦類の生産の停滞と文明の崩壊は、その基盤の喪失につながったと考えられている。メソポタミアの塩害の影響の大きさも気になるところである。 メソボタミアの塩害から学ぶこと まだ、メソポタミア文明の興亡と塩害との関わりはわからないことばかりであるといえる。 (略) メソポタミアの灌概では、麦作の収穫期に、チグリス川・ユーフラテス川の洪水期を迎える。収穫前に洪水となれば、せっかくの稔りはたちまち失われてしまったであろう。これは、エジプト文明でのナイル川の洪水を待って種を播いて栽培をおこなうという「恵みの洪水」とは異なって、洪水はあくまでも「厄介な洪水」である。つまり、エジプトでは、川の氾濫など白然に依存し、適合した型の灌概がなされ、メソポタミアでは、洪水を避け、灌概期には人為的に流れを調整するという、自然を制御する型の灌概がなされていたようである。これからいろいろな研究が進んで、メソポタミアの灌概農業や塩害の姿が明らかになれば、川とのつき合い方など、望ましい自然との関わり方の知恵がまた増えることであろう。 さらには、イラクで発掘をはじめとする現地調査ができるほどに、地域の情勢が安定し、調査研究の成果が、現地の人びとの今後の水利システムの改善や農業生産の安定につながることになればよい。
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【シュメール文明】
http://www.teamrenzan.com/archives/writer/nagai/

日本は言わずと知れた食糧輸入国であり、塩害に対してあまりにも無関心である。
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カリフォルニアの灌漑農業
P178
先進農業地帯のアキレス腱

カリフォルニアは、世界でも有数の農業地帯であるが、ここで見たようにそこには深刻な塩分との戦いがつづけられているのである。ここではくわしく触れる余裕はないが、先に少し見たように、州全体としては北部の水資源を、乾燥地である南部に必死に供給していて、この水のシステムは基本的にはきわめて脆弱である。加えて、海の底であった低平地を開発したという農地の条件から、つねに塩害がつきまとっている。カリフォルニアでとれた農産物の輸出先は、第一がカナダで、その次が日本である。このような厳しい条件の農地で獲れた作物が、日本で大量に消費されているのである。
P178~180
5文明は塩で滅ぶのか
文明崩壊のシナリオメソポタミア文明、楼蘭王国と、古代に栄えた文明で塩害によって滅んだか、またはひどく脳まされていたと思われるところは多い。黄河文明も、塩害によって衰退したとの証拠はないが、その周辺にはその後の時代に深刻な塩害に悩まされていた地域が多い。

インダス文明はどうだろうか。総合地球環境学研究所で「インダス文明の崩壊」の研究をする長田俊樹氏によると、ハラッパ、モヘンジョ・ダロといった都市文明の衰退に塩害が関係していたという明確な証拠はないものの、インダス文明の範囲であるグジャラート地方の沙漠の砂も、やはり強い塩分を含んでいるという。こうしてみると、文明の崩壊や衰退と塩害の関係も、なにやら意味ありげに見えるではないか。
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そのなかで、ひとつの例外がナイルなのである。だが、それは「ナイルの場合は土壌にたまった塩分を洪水が洗い流してくれていたから」と考えれば、エジプト文明とて塩との関わりにおいて例外ではないということになる。本章に紹介したように、だからこそ、上流のダムの建造によってナイル川の流水が変化すると、エジプトにも塩害が発生するようになったともいえる。 しかし、私たちは文明の崩壊ないしは衰亡という現象が、「塩害」というひとつの現象によって引き起こされたという簡単な図式を思い描いているわけではない。塩害が、文則崩壊を引き起こした大きな原因のひとつであるに違いはあるまい。しかし、塩害という事象から文明崩壊にいたるまでには、幾多の事象が複雑に関係している。それらの事象がネットワークのように複雑に交差しながら文明を死に追いやったと考えるのが至当である。ナイル川流域のエジプト文明が、崩壊と呼べるような大カタストロフを経験しなかったのも、文明崩壊のネットワークが、どこかで切れたからだと解釈ができる。同じことが、「気候変動」についてもいえるのではないだろうか。「気候変動が文明を滅ぼした」という解釈はある意味でとてもわかりやすく、多くの人を引きつける説得力のある仮説として考えられる。 しかし、人間や人間が作り出す社会は、気候変動という自然現象にただ恐れおののき、なすすべもなく衰亡していったのだろうかと問えば、素朴な疑問も発生する。迫り来るさまざまな変化にたいして、人間社会はなんらかの手を打ったはずである、そして、その人間の対抗手段にたいして、自然の側になんらかの変化が起きただろう。さらに、人間の対抗手段にたいする反作用が起きる、というような、反応の連鎖ができあがっていったと考えたいのだ。つまり、文明の衰亡や崩壊は、そうした連鎖反応の最後の結果として起きたことである、と考えることができないだろうか。 ある人間社会の滅亡なり衰亡は実際に起きたことではあるが、その連鎖反応の全容解明が大事ではないのか。私たちは、そう考えたいのだ。

あとがきにもあったが、自然科学の法則である、熱力学第二法則(「エネルギー・エントロピーの法則」=「熱やエネルギーは時間と共に拡散し、いずれはこの世界にあまねく公平に分布するようになる」)は、トーマスフリードマンの「フラット化する世界」などグローバリズム問題を解析するうえで、応用され、解析する試みがなされた。私もその文明解析方法を支持したい。

エントロピーの法則に従わない現象は、生物学的な栄養の蓄積や、生命維持や進化など人間の活動によってエントロピーに法則に反し集積する事ができる。これを生物学的には生命活動といい、社会学的には文明というのではないだろうか?

エントロピーの法則に従えば、日本を含む先進国の一般的な庶民の賃金収入は、やがてインド人や中国人の賃金水準と変らなくなってしまうのである。
※この法則をDdogは「円(エン)とルピーの法則」と名付ける。

これを達観し、素直に受け入れるのか、それとも、日本人の賃金が中国インドと変らない水準はとても容認できないと、奮起するか否かは、我々日本人全体の意思の強さに掛かってくる。

日本と言う豊饒の地で生まれ育った我々日本人は、何事でもやり遂げるという、人間の強い意思さえあれば、日本の文明はけして滅びる事はないだろうと信じています。
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私の本棚には、日ユ同祖論関係の本として、『「ユダヤと日本・謎の古代史」M・トケィヤー著 産能大学出版部刊』がある。
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この本をお読みの方および、【ヘブライの館 2THE HEXAGON 3F古代ヘブライ研究室】(古代ヘブライ人の活躍や日ユ同祖論などを探究)
http://inri.client.jp/hexagon/index2.html
http://inri.client.jp/hexagon/floorA3F_hb/a3fhb010.html
などをお読みの方には大半が語りつくされた内容です。しかし幾つか新たな事実が書いてあり、その部分を少し紹介したい。
P36.37
平安京の造成には、秦氏の尽力があったとされているのである。つまり、平安京は秦氏によって造られた都ということになる。
秦氏となったユダヤ人の国はイスラエル。その国の首都はエルサレムである。エルサレムは途中他国の支配下に置かれるものの、三千年前から現在に至るまでユダヤ人にとっての永遠の都である。
そのエルサレムをヘブライ語の発音では「イェルシャライム」という。これは、市や都を意味する「イール」と、平安を意味する「シャローム」が一つになってできた言葉である。つまり、「イール・シャローム一エルサレム)」を日本語に訳すと、「平安京」なのである。
少し話はそれるが、平安京のあった京都の近くには「琵琶湖」がある。イスラエルのエルサレムから少し北上すると、「キネレット湖」とよばれる湖がある。この湖は「ガリラヤ湖」ともよばれ、イエス・キリストが福音を伝えた場所として知られる場所である。
このヘブライ語の「キネレット」を訳すと楽器の「琵琶」や「竪琴」を意味する。つまり「キネレット湖」とは「琵琶湖」なのである。
平安京に住むユダヤ系の秦氏が近くにある湖を見て、祖国の湖を思い出し、同じ名前をつけたのだろうか?・
太秦に残るユダヤ人の足跡
秦氏の拠点があった京都太秦だが、「ウズマサ」という名前からして変わっている。関西人でもなければ、なかなか普通に「太秦」を「ウズマサ」と呼ぶのは難しい。太秦の名前の由来については、秦氏の研究の権威であられる佐伯好郎教授などによって、ヘブライ語説やヘブライ語の方言であるアラム語説等が指摘されている。
実際、私のイスラエル人の友人等によると、これはヘブライ語の「ウズ・マシアッハ」が変形して「ウズマサ」になったのではないか、という。
ヘブライ語の「ウズ」は、力とか栄光といった意味がある。そして「マシアッハ」は日本語でいうメシア、救い主の意味なのである。
「イセ」とは「神の救い」? p100
大変興味深いのは、伊勢という地名だ。ユダヤ人の研究家であるヨセフ.アイデルバーグ氏によると、この「イセ」という言葉は、「神の救い」を表す「イェシュ」もしくは「イェシュア」から派生したヘブライ語だ、というのだ。
イエス・キリスドのイエスももともとはヘブライ語の「イェシュ」から派生した一言葉である。つまりイエスにも「神の救い」という意味がある。現在、イエスという名は世界各地で「イセ」や「イサ」というふうに呼ばれている。
つまり伊勢神宮の「イセ」という言葉は「神の救い」というヘブライ語の可能性もあるのだ。
そう言えば・伊勢神宮の神域を流れる川を「五十鈴川」というが、古来の呼び方は「イスズ川レでなく「イスス川」と呼んだそうだ。この「イスス」という名前も「イエス」を連想させる響きがある。イスス川では千年にもわたつて禊が行なわれている
蘇民将来と過越祭P126
本章のはじめに触れた「祓園祭」は平安時代に疫病が流行し、その崇りを鎮めるためにスサノオノミコトを祀ったことに由来している。それでは皆さんは「蘇民将来子孫家門」と書かれた門符をつけた注連飾りを見たことがあるだろうか。これはその昔、突然訪れたスサノオノミコトに貧しいながらも慈悲深い蘇民将来が一夜の宿を貸した。スサノオノミコトは旅立つ時、今後は門符を門口にかけておけば、子孫代々疫病から免れると言い残したという話に曲来しており、今も蘇民の子孫である証拠とした門符をかけるという。伊勢地方では正月だけでなく、この注連飾りを一年中かけたままにして、一年の無病息災を祈願しているという。
実はこの「蘇民将来」の伝説は、イスラエルの「過越祭」と内容が非常によく似ているのだ。
「過越祭」はイスラエルの民がエジブトで奴隷となって苦しめられていた時、神がモーセに対して羊を屠ってその血を家の入り口の柱に塗ることを命じ、その教えに従ったイスラエルの民だけが神の裁きを逃れることができたことを祝したことに起因する。その神の救いを記念して「過越祭」が行なわれている。
この「蘇民」という言葉は、「民を蘇らせる」という意味だ。過越しの故事は、奴隷状態で死んだような状態だったイスラエルの民の蘇りの祭でもある。つまりこの蘇民将来という言葉そのものが、過越しから始まる出エジプトの奇跡を思い起こさせるのだ。

古代イスラエルの礼拝所 p144~146
コーヘン氏が徳島を視察された中で、いくつかユダヤ人が彼の地に辿り着いたと思われる史跡があったという。中でもコーヘン氏が特に驚かれたのは、剣山の側にある古代礼拝い所磐境神明神社である。
私たちは普通、神社といえば社殿のような木造建築の礼拝所を想像する。しかし白人神社の礼拝所は、すべて石造りの古代遺跡なのである。そこに石を積み上げた東西約二二.五メートル、南北約七・三メートルの長方形の形をした礼拝所の磐境がある。
そこを訪れたコーヘン氏は、古代イスラエルの礼拝所かと思ったそうである。この磐境は、イスラエルにある古代ユダヤ教の礼拝所のアラッドなどとそっくりだからだ。そして子羊などの婚祭を捧げた祭壇を思わせるというのだ。
そして礼拝所の礼拝する方向を見ると、目の前に山があった。それもユダヤの伝統的な礼拝方法と同じであるということである。
タナフには次のような言葉がある。
わたしは山に向かって目をあげる
わが助けは、どこから来るであろうか。
わが助けは、天と地を創られた主からくる。
(テヒリーム121・1~2)
このように、古代イスラエルにおいては、山に向かって神に祈りを捧げ、神からの助けを仰いだことがわかる。コーヘン氏によると、古代のユダヤの礼拝所の側には必ず山があり、その山の方に向かって礼拝していた、というのだ。
そして驚くことに、二千年以上前にこの礼拝所の祭壇を築いたといわれる七十五人の宮人の子孫が、現在でも氏子としてこの神社を守っているのだ。この七十五人の氏子の人たちは、身を汚さないために、生涯汚れた仕事をしてはならない。彼らこそがイスラエルの礼拝を司っていた、レビ族の末蕎なのだろうか。神殿に仕えていた彼らレビ族は高貴な人々で、日本でいうならば皇室にお仕えする人々のことである。
四国・徳島が建国発祥の地? p150~152
古代ユダヤ人が渡来し、ソロモンの秘宝である「契約の箱」を埋めた、といわれる剣山。
その山のある四国の徳島とはいったいどのような場所なのだろうか。またなぜ四国なのか?
一説では、阿波こそ、日本建国の地であり、古事記、日本書紀に出てくる天孫降臨や豊葦原中津国もすべてこの阿波で起きたことだ、という。
本来、九州の霧島で天孫降臨があり、そこから神武天皇の東征が始まったというのが一般的な考えである。しかし二千六百年前の航海技術などを考えても、九州の霧島からよりも、四国の阿波徳島から神武天皇がお船出し、建国が行なわれた奈良の橿原に辿り着いた、と考えたほうが自然だ。
また徳島には「天の岩戸」のような日本の神話の舞台もある。平安時代の全国の神社の格付けを行なった延喜式神名帳などには、全国の約三千もの神社のうち、古事記に登揚する重要な神様を祭る神社で徳島にしかない例が数多くある。たとえば、イザナミノカミを祀る神社は、徳島の美馬市にしかないのだ。そのような理由から、「タカマガハラは阿波だった」と主張する人もいるくらいである。
その他にも、奈良県にある多くの地名が実は阿波徳島にあるのだ。吉野川をはじめ、天の香具山などがある。
たとえば『阿波国風土記』にも「大きな山が天から阿波国に降ったのをアマノモト山といい、その山がくだけて大和国に降り着いたのを天の香具山という」とある。つまり日本に渡来したユダヤ人が、日本建国の事業に参画したとするならば、建国の始まりである四国に辿りついたと考えられる。
古代イスラエル人たちが、アツシリアの占領により捕らえられ、その後姿を消したのが紀元前722年で、今から約2700年である。そして日本の建国が今から約2660年前の紀元前660年。イスラエルからの移動時間や、徳島から建国の橿原への東征の時代などを含めると、数字としては合う。
契約の箱を運んだイスラエル人たちは、吉野川を通り上陸し、剣山にそれを運んだのであろうか。
高天原という言葉に潜む日本とユダヤの絆 p196~197
もしもこれまで見てきたように、イザヤの子がイザナギであるならば、古事記や日本書紀に描かれている神話は、自分たちの神を礼拝できる東の島国を求めてやってきた、イスラエル人たちの苦闘の体験が織り込まれた神話ということができる。
そこには西アジアにあった祖国イスラエルを離れ、シルクロードなどのアジア大陸を横断し、はるばる日本にまで渡来し、神武天皇と共に日本の建国にも携わったイスラエルの人々の苦闘と想いが、記紀には込められていると言えるのだ。
ただ、この記紀には神話ではない部分もかなり含まれている。たとえば日本の神語に登場する、天上にあって神々がいる場所とされる「高天原」。なんとヨセフ・アイデルバーグ氏によると、この高天原がアジア大陸にあるというのだ。それはユダヤ人の始祖であり、三大父祖の一人であるアブラハムの出身地なのだ。
実はアブラハムがイスラエルに来る前に住んでいた場所は、西アジアのタガーマ州にあるハランという町であることはタナフにも書かれている。タガーマにあるハラン、それはタガーマハラン、つまりタガーマハラなのだ。
アブラハムは神の命に従い故郷であるタガーマハラを出発。それまで一緒にいた一族に別れを告げ、神の約束された約束の地を目指して旅立った。それから北イスラエル王国崩壊まで二一〇〇年、離散したイスラエルの人々は再び民族の出所に還ってきたのだろうか。
それともイスラエル人の問で延々と語り継がれてきた地名なのか、タガーマハラがタカマガハラとなって日本の神話に反映されたのかもしれない。
また、古事記には天つ神がタカマガハラで取れた稲を天皇陛下に与えられ、それを天皇が日本中に広めたと書かれている。西アジアのタガーマハラも麦などが大量に収穫されており、高度な農業の技術があったと思われる。
つまり、タガーマハラから来た人々が、高度な稲作技術などを日本にもたらし、広げたのかもしれない。
このほかに、古代天皇の逸話と古代ユダヤの伝説の一致する点やらで、よくよく読むと、書きつくされた事以外、新たな同祖論を補強することが、思った以上掲載されていました。ご興味のある方には推薦の一冊です。
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やさしい経済学 21世紀と文明 生命的な情報組織-6・7
東京大学教授 西垣一通

6.
進化史をふりかえると、ヒト(ホモサビェンス)という生物種が地上に出現したのは十数万年前のことだった。あらゆる生物はもとをたどれば親類同士であり、チンパンジーの祖先と枝分かれしたのは五百万年ほど前だったようだが、それから進化を重ねヒトが誕生したわけだ。言いかえれば、大脳の容量や身体能力などは十数万年前から基本的に変わっていな
いことになる。

文字ができたのは約五干年説前で、それ以前の様子は、考古学的に推測するほかはない。
さらに、詳しい記述が残っているのは、印刷技術が広まったせいぜいここ数百年くらいのことである。われわれは近代以降の出来事ばかりについ目を奪われがちだが、自分たちがいったい何ものなのか見抜くには、まず想像力をはたらかせ、太古の暮らしを思い描いてみたほうがいいだろう。

今でも狩猟採集民はいるが、農耕牧畜がはじまるまでのヒトは、数十人から百人程度の群れをつくり、移動しながら生活していたのではないかと考えられている。この人口規模は割合に大切だ。よく知られているのは人類学者ロビン・ダンバーの「百五十名が群れの上限値」という仮説である。

霊長類は哺乳(ほにゅう)類のなかでも大脳新皮質がよく発達した動物だが、ダンバーはさまざまな霊長類について調査し、大脳新皮質のサイズと群れのサイズとのあいだに明確な相関関係があることをつきとめた。群れが大きくをなると、個体どうしの相互コミュニケーションが複雑化し、その処理の負荷が一挙に増大するので、大脳も大きくならざるをえない。ヒトの場合、大脳新皮質のサイズから計算すると、群れのサイズは百五十になるというのだ。

言いかえると、われわれヒトとは、せいぜい百名程度の共同体をつくり、そのなかでコミュニケートしあいながら生きる生物なのである。何千万、何億の人々と一緒に共同体をつくるほどの脳は、残念ながら遺伝的に持っていないのである。

ではいったい、人口一億以上の近代的国家共同体というのは何ものなのだろうか。いや、そればかりではない。二十一世紀には、インターネツトをべースにして地球村ができ、そこでは六十数億の全人類が互いに情報を共有し、コミュニケートしあえるという夢がよく語られる。だがヒト本来の脳の容量からすれば、そんな考えは幻想のような気もしてくる。

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本来はせいぜい百人程度の群れで生きていたヒトという生物を、何千万人、何億人という単位の共同体にまとめあげたのは、言うまでもなくメディアの威力である。

ヒトの言語は約五万年前に現れたという。文字が約五干年前、活版印刷技術が約五百年前、そしてコンピューターが約五十年前に出現した。やや強引だが、インターネットの本格的普及.をおよそ五年前とみなして対数をとり、共同体規模との関係を表すと、面白いグラフが描けそうな気がしてくる。

インターネットやウェブという発明は、たしかに近未来に途方もない飛躍をもたらす可能性が高い。私がコンピューターを学び始めた四十年ほど前、まさか地球上の個人同士が互いにパソコンやケータイで交信できる日が来るなどと予想していた専門家は誰もいなかった。

コンピューターはあまりに高価で、しかもメーカーの異なる二つのコンピューターを結ぶことさえ難事だったのである。しかし、驚異的なIT(情報技術)の進歩発達にくらべて、それを真に使いこなすための原理的な研究はむしろ低迷しているのではないだろうか。人間とITとの関係がうまくとらえられていないのである。

平たく言えば、われわれ人間をまるで情報処理機械のようにあつかう風潮が最近ますます強くなりつつある。毎年のように新たなハードやソフトが売り出されるが、ようやく操作を覚えた頃(ころ)にはすぐに消えていく。機能は満載だが、頻繁に不具合がおきる。昔は簡単にフリーズするコンピューターなど存在しなかった。今は自己責任で修理しなくてはならない。

情報とはわれわれに「意味のある内容」をもたらしてくれるもののはずなのに、それ以前の形式的な処理ばかりに振り回されているのだ。

われわれが生きる上でもっとも大切なのは、心の通じ合う少数の仲間との、暗黙のうちにおこなわれる濃密なコミュニケーションである。それが知恵をはぐくみ、生きる勇-気を与え、創造活動の源泉となる。ヒトとはそもそもそういう生物なのである。

何も「昔の共同体に戻れ」などと世まい言をいうつもりはない。ウェブで見知らぬ多くの人々と会話しビさまざま.な知識をえるのは楽しいことだ。だが、ITを本当に活用する道は、人問や動植物を機械と同一視するのではなく、生態環境を形成している生命的なネットワーク上のコミュニケーションをもっと尊重するだろう。

「なるほど」と今週最も感心した日経新聞記事(やさしい経済学)の一部でした。

ヒトは150人くらいが群れとしての上限とはよく言ったものだ。

私のつたない経験をもとに、この説を照らし合わせると納得性がある。営業職のころ、一部店で担当したお客様は500~600名であったが、頻繁にお取引があったのが確かに150~200名のお客様(実質は100人弱)だ、1000名以上のお客様を担当した時があった。毎日一人コールセンター状態で朝の6時に会社へ出社し、6時15分にはデスクに座っていた。帰るのは10時過ぎが当たり前だった。その時でさえ実数は150名のお客様とコミュニケートするのが精一杯だったような気がする。(とてもブログなど出来ないな)

最も小さかった地方支店で20~30人の人員構成であった。そうすると、時々社員同士の家族も加わってバーベキュー大会や花火大会で最大100名程度集まり、居心地はよかった。人口百万都市の支店で人員が100名を超えると、家族同士の付き合いは稀で、フロアーが違えば話したことも無い。そして本社においては、自分のブース近辺と関係部署、食堂のヒト、警備・掃除のおばさん合わせると100名程度しかコミュニケートしていないことに気づかされた。地方支店が家族的な付き合いができるというのは単に、ヒトの集団150名理論からくる現象とも考えられる。

プライベートで家族の会話に出てくる登場人物は、家族で会話が成立することを前提にすると、プライベートな友人、近所の方、子供の学校関係 稽古関係、親戚など合わせるとやはり100名~200名かもしれない。少なくとも1000人はいない。

ということは、このブログの常連のコメントをいただく方が150名程度あれば比較的居心地がいいのかもしれない?今後の目標として150名の方のコメントをいただけるようなブログにしていけたらと思うのでありました。
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