その1から続き
「悪は必要である。もし、悪が存在しなければ善もまた存在しないことになる。悪こそは善の唯一の存在理由である。」アナトール・フランス
(エピキュールの園)
p52~53
バカ管理放送漬け
それにしても、欧米の善人に比較すると、わが国の善人は、その幼児性において手におえない。日本中人の集まるところすべてに垂れ流されるあの「管理放送」はいかにしたものか?
初詣でも、箱根駅伝でも、お花見でも、花火大会でも、秋のお祭りでも、警官あるいは自治体あるいは町内会の係員がマイク片手に「立ち止まらないで下さい!押し合わないで下さい!左側通行です!」と大音響でがなりたてる。
その轟音地帯を羊の群れのような善人どもが、穏やかな顔をして通り過ぎるのだ。まさに、(後に論ずるが)二ーチェの言葉を使うと「畜群」である。
私は、こういう注意放送はまったく必要ないと信じているので(欧米では立錐〈りっすい〉の余地なく人が集まってもまったくない)、さらに無礼で環境を損ねると信じているので、何度抗議したか知れないが、絶対にやめない。日食になると踊り出す野蛮人のように、この国では人が集まると、管理責任者は、慌てふためいて、踊り続ける(スピーカーががなりたて続ける)のだ。一種の強迫神経症であろう。
新宿西口から都庁に向かう地下道ではラッシュ時間になると、「歩行者が多くなってきました。お互いの接触事故にご注意ください。歩行はマナーを守りましょう!」という背筋がゾーツとする放送が流される。「一体、接触事故がそんなに頻繁に生じるのですか?」と都庁に問い合わせても、件数を言わない。そして、絶対にやめないと言う。
問題は、こういう頭の固い「お上」ではないのだ。その屈辱的な放送漬けの中を平然とした顔で歩いている善人たちなのである!
この国中の人がスローガンにしている「安全第一」ほど間違ったものはない。これは、人間を家畜の群れにする。そして、自ら危険な状況を察知して回避するという野生動物に当然備わっているはずの能力を摩減させる。
確かに、おっしゃることはごもっともなのだが、この点は単なる西洋コンプレックスだ。NHKのかつての人気番組プロジェクトXでの話。70年の大阪万博で動く舗道で怪我人が続出、そこでその対策として、終点近くで、間もなく終点ですと音声ガイド流したところ、効果覿面、事故が止まったそうだ。この逸話はおそらく著者は知らない。
また、江戸は世界一の都市で、火事や地震で集団で人々が逃げ惑った数多くの経験をしている。 その経験から日本では、声掛けが効果的であることを会得したのだ。カンボジアやインドや新興国では人々が将棋倒しとなる事故が多発していることを思えば、これは発達した日本の文化なのだ。文明が発達すれば、人間は何かしら退化するのはやむを得ない・・・と、この著者は悟っていないようだ。
善人はけっしてあきらめない
p59
(略)善人たちは、身の危険のない絶対安全地帯では、わずかの欲望満足の機会も見逃さない。
そうした場所こそ、前章で触れた「新型弱者」にとっては、インターネットの掲示板(とくに「2ちゃんねる」)なのだ。ここは、弱い羊の化けの皮が剥がれ、考える限り最も凶暴性を有する本性を垣問見させてくれるまことに貴重な空間である。そこにうごめくのは、嫉妬と羨望と憎悪と怠惰と恐れと投げやりと自潮、これらのボロ布を幾重にもまとって、彼らは自分のさもしい欲望を全開させる。
弱さゆえに自分が認められないこと、報われないことにどうしてもあきらめ切れない輩たち(じつはとっくの昔にあきらめているのであるが)が排泄する言葉のごみ溜めであり便所である。その臭気たるや、思わず鼻をつまみたくなるほど凄まじい。
しかも、じつのところ、彼らに嫉妬や憎悪を抱くなと命じることはできない。世の価値体系にどっぷり浸かっている彼らには、それは不可能だからである。しかし、せめて、嫉妬と憎悪で破裂しそうな自分を恥じないでもらいたい。二ーチェは言う。きみたちは、憎悪と嫉妬を知らないでおれるほど偉大ではない。されば、それらを恥じないでおれるほど偉大であれ!
(『ツァラトゥストラ』第一部「戦争と戦士たちとについて」)ネット上で憂さ晴らしをしている弱者たち、すなわちけっして表で堂々と試合をせず、陰に回って匿名のままありとあらゆる表舞台で動いている者を嘲笑し、唾を吐きかけ、足蹴にする者たちは、疑いなくその行為を恥じているであろう。「恥じていない」と言ったとしても、自分の身分を公表しないのは、やはり恥じているからである。それが卑劣な行為だと知っているからである。生年月日、正式の住所、本籍、学歴、職歴を公開すれば、どんな酷い仕打ちを受けるか知っているからである。匿名のまま、自分は安全なところにいて、ありとあらゆる有名人を、犯罪被疑者を、定式通り裁くことは、最も頭の悪い人間にもたやすくできることである。しかも、彼らのほとんどは、それを「軽い気持ちで」実践している。
村社会が消滅したとはいえ、日本人のDNAには村社会の時に培った行動様式が染み付いている。実社会で発言できないからこそ、ある程度匿名性があるネット空間であれば、今まで口に出来なかった事も議論できる。2chやBBSのようにまったくのつ特定多数の発言と、私のように、ネット上ではDdogという人格が存在する匿名性とは区別すべきではないか?Ddogはいわばペンネームと大差ないだろう。
ジャーナリズムが善人を指導してきた
p63
もっとも、以上に大急ぎで次のことを付加する必要がある。
すなわち、大手のジャーナリズムこそ「嫉妬と憎悪」の撒き散らし方の先鞭をつけ、それを丁寧に大衆に教示し指導してきたのである。大手の新聞社や出版杜は、それこそえげつないほどの口調で権力者や有名人を足蹴にし続ける。みずから「嫉妬と憎悪」を持たなくても、大衆のうちに「嫉妬と憎悪」の炎を燃え上がらせ、それを煽り立て掻き立てるのだ。
腹黒いジャーナリストたちは、真っ赤な嘘と知りながら、「善良以外とりえのない弱者のみ正しい」という嘘ゲームを回転させ続け(停止しないよう気を配り)、「ほんとうのこと」がばれないように、たえず強烈な麻薬を大衆の身体に注入する。ただただ新聞や週刊誌がもっと売れるためである。テレビの視聴率がもっと上昇するためである。
日本のマスコミの黎明期である明治初期の新聞社は、薩長に失職させられた旧幕府側の元武士達によって設立されたものが多かった。記者達の多くも元武士階級の子弟であり当然政府に対しルサンチマンを蓄積していた。大衆を「嫉妬と憎悪」の炎を燃え上がらせ、それを煽り立て掻き立てるのは、日本のマスコミの伝統といって過言ではない。
善人が嘘をつくのは必然的である
p82~85
善人は優しい。自分も他人に対して優しいが、何より他人からも優しくしてもらいたい。
善人が他人に対して優しいのは、自分が他人に優しくしてもらいたいからであり、他人に優しくしていれば自分が安全だからである。
「優しい」とは、誰でもわかりやすい形で優しいということであり、あくまでもその社会において容認される形で優しいということ。だから、老人には席を譲り、身体障害者には細心の注意を払って接するが、社会の掟とずれる場合や優しくすると身の危険のあるところ、例えば痴漢犯人には優しくしない(庇わない)し、クラスの鼻つまみ者、いじめられっ子には優しくしない(優しくすると自分がいじめられるから)。
とりわけ、善人は強者が失策を犯しても優しくしないし、弱者を痛めつける者に優しくすることなどもってのほかである。善人は政治家や官僚や大企業経営者がどんなに窮地に追いやられても、彼らに優しくなく、また被差別者(身体障害者や女性)に対して差別的発言をする者、差別的態度をとる者に対しては断じて優しくない。自分が安全だからという同じ動機で、善人は他人から反感を買うことをいっさい語らない。
だが、真実が反感を買う場合もありうるから、善人は必然的にたえず嘘をつくことになる。おお、これら善人どもときたら!善人どもはけっして真理を語らない。精神にとっては、こういうふうに善であることは、一種の病気である。これら善人ども、彼らは譲歩し、忍従する。彼らの心は受け売りし、彼らの心底は聴従する。だが、聴従する者は自分自身の声には耳を傾けないのだ!
(『ツァラトゥストラ』第三部「新旧の諸板について」)「善人は自分自身の本心に耳を傾けない」。なぜか?自分自身の本心に耳を傾けると、そこには他人を傷つけ自分も傷つくことになる不穏な言語がうごめいていて、身の安泰を脅かされるからである。自分は弱いから、これらの首を絞めて抹殺するしかない、そして安泰に生き抜くためには嘘をつくしかない。善人は、こうしてすべての人に対して反感を持たれないように細心の注意を払う。自分は弱いから、真実を語って身の危険を招き寄せる余裕はないのだ。自分は弱いから、自分を守るだけで精一杯なのである。こうした「論理」を高々と掲げながら、真実を足蹴にすることをものともせずに、その上に居直っているのが善人である。とりわけ「善人」と自称する者たちこそ、最も有害なハエであることを私は知った。彼らはまったく無邪気に刺し、まったく無邪気に嘘をつくのだ。
(『ツァラトゥストラ』第三部「帰郷」)善人は、こうした論理を振りかざして、いとも当然のごとく権力者に擦り寄り、いや大多数の側につき、ごく自然に二枚舌を使い、それでも身の危険を察知したら「知らない」の一点張りを押し通す。善人は、たえず目立たず、周囲の色と同じ色すなわち「保護色」でありたい。そして、「おい、そこのお前!」と呼び止められる事態を徹底的に避けたい、面倒なことにはいっさい関わりたくないのである。そして、それを批判する人を、不思議な動物でも見るように「まったく無邪気に刺す」のだ。大真面目な顔で「嘘も方便だから」とか「これですべてまるく収まりゃ、何も問題ないじゃないか」とか語る。そして、そうした態度を少しでも批判しようものなら、目を引きつらせて「霞を食って生きろって言うのか!」と怒鳴り出す。この今日は騰民のものではないかpだが、賎民は、何が大きく、何が小さいか、何がまっすぐで正直であるかを知らない。賎民には罪責のないことだが、賎民は曲がっているのだ、賎民は常に嘘をつくのだ。
(『ツァラトゥストラ』第四部「高等な人間について」)善人は、こうして嘘を吐き散らすことに何の疑いも持たず、むしろ「よい」ことだと全身で確信しているのだから、循末に負えない。まさに、彼らは「曲がっている」。しかも、彼らは真実を語る人を激しく答める。そして、「真実がそんなに大事なの(か)!」と叫ぶ。
ああ、なんと弱く優しい善人は嘘が好きなのであろう。嘘をついても、片鱗も反省しないのであろう。
こうやって本書を読み進めると、この筆者中島に対しては親近感や、共感を感じないのだが、ニーチェの言葉の解釈者として中島が抉(えぐ)る、自分の内面に、 善人の醜い部分を幾つも見てしまう。なるほど自分は醜い善人である。そして善人にもなりきれない自分がある。


「今までの右翼」を代表する大物が、児玉誉士夫だった。「右翼」のイメージにダーティで暴力的な面がすくなからずあるのは、児玉の影響が濃い。「暴力」と「顔」を背景にして政財界のフィクサーとなり、裏から日本社会を動かす、そんなイメージだ。
それまで三島は右翼にとつて不快感を美れていた。二・二六事件を題材にした小説も多かつたし、自決する青年将校を描いた「憂国」は映画にも書、三島自身が監督.主演した。 










