Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ

政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、脳の外部記憶媒体としてこのブログを利用しています。2020/11/30以前はGoogle検索でキーワードを入れると常に上位にありましたが、日本のトランプ大統領デモを紹介した記事が米国でバズって以降検索アルゴリズムから排除され検索ヒットされにくい状態です。是非ブックマークをお願いします。このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

タグ:哲学

 
イメージ 1「悪は必要である。もし、悪が存在しなければ善もまた存在しないことになる。悪こそは善の唯一の存在理由である。」
アナトール・フランス
(エピキュールの園)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
p52~53
バカ管理放送漬け
それにしても、欧米の善人に比較すると、わが国の善人は、その幼児性において手におえない。日本中人の集まるところすべてに垂れ流されるあの「管理放送」はいかにしたものか?

初詣でも、箱根駅伝でも、お花見でも、花火大会でも、秋のお祭りでも、警官あるいは自治体あるいは町内会の係員がマイク片手に「立ち止まらないで下さい!押し合わないで下さい!左側通行です!」と大音響でがなりたてる。

その轟音地帯を羊の群れのような善人どもが、穏やかな顔をして通り過ぎるのだ。まさに、(後に論ずるが)二ーチェの言葉を使うと「畜群」である。

私は、こういう注意放送はまったく必要ないと信じているので(欧米では立錐〈りっすい〉の余地なく人が集まってもまったくない)、さらに無礼で環境を損ねると信じているので、何度抗議したか知れないが、絶対にやめない。日食になると踊り出す野蛮人のように、この国では人が集まると、管理責任者は、慌てふためいて、踊り続ける(スピーカーががなりたて続ける)のだ。一種の強迫神経症であろう。
 
新宿西口から都庁に向かう地下道ではラッシュ時間になると、「歩行者が多くなってきました。お互いの接触事故にご注意ください。歩行はマナーを守りましょう!」という背筋がゾーツとする放送が流される。「一体、接触事故がそんなに頻繁に生じるのですか?」と都庁に問い合わせても、件数を言わない。そして、絶対にやめないと言う。

問題は、こういう頭の固い「お上」ではないのだ。その屈辱的な放送漬けの中を平然とした顔で歩いている善人たちなのである!

この国中の人がスローガンにしている「安全第一」ほど間違ったものはない。これは、人間を家畜の群れにする。そして、自ら危険な状況を察知して回避するという野生動物に当然備わっているはずの能力を摩減させる。
確かに、おっしゃることはごもっともなのだが、この点は単なる西洋コンプレックスだ。NHKのかつての人気番組プロジェクトXでの話。70年の大阪万博で動く舗道で怪我人が続出、そこでその対策として、終点近くで、間もなく終点ですと音声ガイド流したところ、効果覿面、事故が止まったそうだ。この逸話はおそらく著者は知らない。
 
また、江戸は世界一の都市で、火事や地震で集団で人々が逃げ惑った数多くの経験をしている。 その経験から日本では、声掛けが効果的であることを会得したのだ。カンボジアやインドや新興国では人々が将棋倒しとなる事故が多発していることを思えば、これは発達した日本の文化なのだ。文明が発達すれば、人間は何かしら退化するのはやむを得ない・・・と、この著者は悟っていないようだ。
 
善人はけっしてあきらめない
p59
(略)善人たちは、身の危険のない絶対安全地帯では、わずかの欲望満足の機会も見逃さない。

そうした場所こそ、前章で触れた「新型弱者」にとっては、インターネットの掲示板(とくに「2ちゃんねる」)なのだ。ここは、弱い羊の化けの皮が剥がれ、考える限り最も凶暴性を有する本性を垣問見させてくれるまことに貴重な空間である。そこにうごめくのは、嫉妬と羨望と憎悪と怠惰と恐れと投げやりと自潮、これらのボロ布を幾重にもまとって、彼らは自分のさもしい欲望を全開させる。

弱さゆえに自分が認められないこと、報われないことにどうしてもあきらめ切れない輩たち(じつはとっくの昔にあきらめているのであるが)が排泄する言葉のごみ溜めであり便所である。その臭気たるや、思わず鼻をつまみたくなるほど凄まじい。

しかも、じつのところ、彼らに嫉妬や憎悪を抱くなと命じることはできない。世の価値体系にどっぷり浸かっている彼らには、それは不可能だからである。しかし、せめて、嫉妬と憎悪で破裂しそうな自分を恥じないでもらいたい。二ーチェは言う。
きみたちは、憎悪と嫉妬を知らないでおれるほど偉大ではない。されば、それらを恥じないでおれるほど偉大であれ!
(『ツァラトゥストラ』第一部「戦争と戦士たちとについて」)
ネット上で憂さ晴らしをしている弱者たち、すなわちけっして表で堂々と試合をせず、陰に回って匿名のままありとあらゆる表舞台で動いている者を嘲笑し、唾を吐きかけ、足蹴にする者たちは、疑いなくその行為を恥じているであろう。「恥じていない」と言ったとしても、自分の身分を公表しないのは、やはり恥じているからである。それが卑劣な行為だと知っているからである。生年月日、正式の住所、本籍、学歴、職歴を公開すれば、どんな酷い仕打ちを受けるか知っているからである。
匿名のまま、自分は安全なところにいて、ありとあらゆる有名人を、犯罪被疑者を、定式通り裁くことは、最も頭の悪い人間にもたやすくできることである。しかも、彼らのほとんどは、それを「軽い気持ちで」実践している。
 村社会が消滅したとはいえ、日本人のDNAには村社会の時に培った行動様式が染み付いている。実社会で発言できないからこそ、ある程度匿名性があるネット空間であれば、今まで口に出来なかった事も議論できる。2chやBBSのようにまったくのつ特定多数の発言と、私のように、ネット上ではDdogという人格が存在する匿名性とは区別すべきではないか?Ddogはいわばペンネームと大差ないだろう。
 
ジャーナリズムが善人を指導してきた
p63
もっとも、以上に大急ぎで次のことを付加する必要がある。
すなわち、大手のジャーナリズムこそ「嫉妬と憎悪」の撒き散らし方の先鞭をつけ、それを丁寧に大衆に教示し指導してきたのである。大手の新聞社や出版杜は、それこそえげつないほどの口調で権力者や有名人を足蹴にし続ける。みずから「嫉妬と憎悪」を持たなくても、大衆のうちに「嫉妬と憎悪」の炎を燃え上がらせ、それを煽り立て掻き立てるのだ。
腹黒いジャーナリストたちは、真っ赤な嘘と知りながら、「善良以外とりえのない弱者のみ正しい」という嘘ゲームを回転させ続け(停止しないよう気を配り)、「ほんとうのこと」がばれないように、たえず強烈な麻薬を大衆の身体に注入する。ただただ新聞や週刊誌がもっと売れるためである。テレビの視聴率がもっと上昇するためである。
日本のマスコミの黎明期である明治初期の新聞社は、薩長に失職させられた旧幕府側の元武士達によって設立されたものが多かった。記者達の多くも元武士階級の子弟であり当然政府に対しルサンチマンを蓄積していた。大衆を「嫉妬と憎悪」の炎を燃え上がらせ、それを煽り立て掻き立てるのは、日本のマスコミの伝統といって過言ではない。
 
善人が嘘をつくのは必然的である
p82~85
善人は優しい。自分も他人に対して優しいが、何より他人からも優しくしてもらいたい。
善人が他人に対して優しいのは、自分が他人に優しくしてもらいたいからであり、他人に優しくしていれば自分が安全だからである。
「優しい」とは、誰でもわかりやすい形で優しいということであり、あくまでもその社会において容認される形で優しいということ。だから、老人には席を譲り、身体障害者には細心の注意を払って接するが、社会の掟とずれる場合や優しくすると身の危険のあるところ、例えば痴漢犯人には優しくしない(庇わない)し、クラスの鼻つまみ者、いじめられっ子には優しくしない(優しくすると自分がいじめられるから)。
とりわけ、善人は強者が失策を犯しても優しくしないし、弱者を痛めつける者に優しくすることなどもってのほかである。善人は政治家や官僚や大企業経営者がどんなに窮地に追いやられても、彼らに優しくなく、また被差別者(身体障害者や女性)に対して差別的発言をする者、差別的態度をとる者に対しては断じて優しくない。
 
自分が安全だからという同じ動機で、善人は他人から反感を買うことをいっさい語らない。
だが、真実が反感を買う場合もありうるから、善人は必然的にたえず嘘をつくことになる。
おお、これら善人どもときたら!善人どもはけっして真理を語らない。精神にとっては、こういうふうに善であることは、一種の病気である。これら善人ども、彼らは譲歩し、忍従する。彼らの心は受け売りし、彼らの心底は聴従する。だが、聴従する者は自分自身の声には耳を傾けないのだ!
(『ツァラトゥストラ』第三部「新旧の諸板について」)
「善人は自分自身の本心に耳を傾けない」。なぜか?自分自身の本心に耳を傾けると、そこには他人を傷つけ自分も傷つくことになる不穏な言語がうごめいていて、身の安泰を脅かされるからである。自分は弱いから、これらの首を絞めて抹殺するしかない、そして安泰に生き抜くためには嘘をつくしかない。
善人は、こうしてすべての人に対して反感を持たれないように細心の注意を払う。自分は弱いから、真実を語って身の危険を招き寄せる余裕はないのだ。自分は弱いから、自分を守るだけで精一杯なのである。こうした「論理」を高々と掲げながら、真実を足蹴にすることをものともせずに、その上に居直っているのが善人である。
とりわけ「善人」と自称する者たちこそ、最も有害なハエであることを私は知った。彼らはまったく無邪気に刺し、まったく無邪気に嘘をつくのだ。
(『ツァラトゥストラ』第三部「帰郷」)
善人は、こうした論理を振りかざして、いとも当然のごとく権力者に擦り寄り、いや大多数の側につき、ごく自然に二枚舌を使い、それでも身の危険を察知したら「知らない」の一点張りを押し通す。
善人は、たえず目立たず、周囲の色と同じ色すなわち「保護色」でありたい。そして、「おい、そこのお前!」と呼び止められる事態を徹底的に避けたい、面倒なことにはいっさい関わりたくないのである。
そして、それを批判する人を、不思議な動物でも見るように「まったく無邪気に刺す」のだ。大真面目な顔で「嘘も方便だから」とか「これですべてまるく収まりゃ、何も問題ないじゃないか」とか語る。そして、そうした態度を少しでも批判しようものなら、目を引きつらせて「霞を食って生きろって言うのか!」と怒鳴り出す。
この今日は騰民のものではないかpだが、賎民は、何が大きく、何が小さいか、何がまっすぐで正直であるかを知らない。賎民には罪責のないことだが、賎民は曲がっているのだ、賎民は常に嘘をつくのだ。
(『ツァラトゥストラ』第四部「高等な人間について」)
善人は、こうして嘘を吐き散らすことに何の疑いも持たず、むしろ「よい」ことだと全身で確信しているのだから、循末に負えない。まさに、彼らは「曲がっている」。しかも、彼らは真実を語る人を激しく答める。そして、「真実がそんなに大事なの(か)!」と叫ぶ。
ああ、なんと弱く優しい善人は嘘が好きなのであろう。嘘をついても、片鱗も反省しないのであろう。
こうやって本書を読み進めると、この筆者中島に対しては親近感や、共感を感じないのだが、ニーチェの言葉の解釈者として中島が抉(えぐ)る、自分の内面に、 善人の醜い部分を幾つも見てしまう。なるほど自分は醜い善人である。そして善人にもなりきれない自分がある。
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言うまでもなく、人生の大半は苦悩と挫折、悩みを抱えている。老いや病そして死ぬ事を怖れ、まだ来ぬ明日のことを心配しているのが私を含めた凡人であると思うのです。
 
二十数年前、まだ呑気な大学生であった頃の思いでからお話します。
 
当時、今から考えれば私は極楽トンボそのものでした。そんなある日多摩動物園にコアラが来たというのでさっそく物好きな友人と午後の授業をさぼってコアラを観に行ったことがありました。
 
豪華なコアラ舎のなかで、コアラが幸せそうにユーカリの葉を食べ、眠り、交尾をしているのです。まだ就職活動を始める前で、ちょうどRH-ABの血液型を持つ彼女にふられた直後でした。彼女にふられたことや就職のことなどで今思えばつまらないことで悩んでいました。
 
友人と私は、同じ事を呟いたのでした『コアラはいいよなぁ、就職しなくとも、豪華な家を買ってもらい、餌を食べては眠り、気がつけば彼女も紹介してもらえて・・・』
Ddog:『何よりもおネーちゃんに「可愛い!」と好かれているのが羨ましい・・』 
 
友人:『まったくその通り・・・知らない綺麗なおネーちゃんに抱きついても犯罪にならないしなぁ・・・』
 
Ddog:『でも、狭い空間から一生出れないのも考え物だ・・・その代わり俺らには自由と希望がある・・・』
友人:『自由と希望・・・???自由といったって、金がなければ自由なこともできないし、希望といっても叶わなければ、絶望に変っていく厄介なものだ・・・立って半畳寝て一畳それだけあれば十分だ。このコアラ舎はコアラごときには余りあるな広さだ!俺はコアラになりたい!』
 
Ddog:『コアラが物事を考えないのであれば十分幸せかもかも知らん・・・だが、おいら達は人間に生まれてしまった。因果なものだ・・・いつまでも呑気な学生をやっていたい、もちろん就職なんかしたくは無い。カースケや(70年代青春ドラマ「俺達の旅」の中村雅俊扮する今で言うフリーター)オメダ(カースケの同級生:田中健)のように生きてみたいものだが・・・・。俺はつまらない男かもしれない。だが、彼らより少しだけ堅実だ、自分の人生はドラマではなく現実だから・・・』
友人:『確かに俺達はつまらない人間の男だ・・・』
 
会話の内容はちょっと正確ではないが、コアラ舎での会話は今でも覚えている。
犬猫が、将来のことを苦悩して悶えている姿など観た事がないし、苦悩するコアラを想像すらできない。「動物は気楽でいい!」
 
だが、思考ができるからこそ、人であって、人は思考するから苦しむ。人間が人間たる所以は、未来を予測すること、老いること死ぬ事を知っている事だと思う。ゆえに人間という生き物は悩む為に生まれたものだ。ホモ:トラブルかもしれません。

そのかわり、思考と想像ができるからこそ、まだ実現していないことを喜ぶこともできる。しかし、その喜びは実際に何かを手にしてしまえば目減りする。往々にして、期待や想像や皮算用がしばしば現実を上回っている。
 
人間は、思考、想像、言葉を使う。思考・想像・言葉を使ってただの状況に過ぎない事柄に幸福とか不幸という概念を作って、喜んだり嘆いたりする。
 
人間の心は激しい情に満ちて揺れ動き、喜びに満ちることがあるが、ほとんどが一瞬のできごとでむしろ苦悩の方が多い。常にハッピーな気分でいられるのは麻薬常習者が薬をしている間だけでかもしれません。
 
たとえば日常的な幸せ気分が指数0だとして今月の給料ががちょっと多かったな・・・程度の幸せ指数が10、きれいなご婦人と隠れて不倫をした幸せ指数20を味わったとするならば、経験的に常に幸せ以上の反動を体験する。そのうちいい気になって小遣いが無くなり1週間を1000円で過ごす不幸指数-10、不倫がバレかみさんと修羅場の不幸指数30いや一瞬の快楽の為に不幸指数が100以上を経験することにもなる。

とはいえ、平穏で変化のない人生を選ぼうとしても皮肉なもので、そう簡単に選ばせてくれない。人間の心は激しい情に満ちて揺れ動き感情があるから難しい。
 
人間の表情もひどく変化する。その点コアラはいつも同じ表情のように見える。動物にはそういう表情は少ない。心の動きによって喜びも生まれるかもしれないが、むしろ苦悩のほうが大きい。
 
人間は、苦悩があらからこそ希望をもつことができるが、死を異常なほどに怖がる。過ぎ去ってしまった過去を悔い、まだ来ぬ明日を怖れ、人間は今の状況に価値評価を行う。ただの状況を予測したり、つまtらない事柄に、幸福とか不幸という名称をつけては喜んだり嘆いたりする。
 
自分が決めた幸福と不幸の評価のなかで人間は一人でじたばたする。さらに奇妙なことには、自分が想像の中で怖れていた死よりも恐いと思うものから逃れえないと信じたときには、みずから死を選択する。
 
動物に死の観念はなく、怖れることもない。本能的に死を避ける行動をするだけだ。死ぬときは死ぬ。恨みも叫びもない。

動物はいつも、今という現実に生きている。思考と想像によって時空間を越えて心をわずらわせることもない。だから、動物の生活には人間の生活よりも苦しみが少ない。うれしいとか、怒りという感情は有すると思うが、希望と絶望といった先々に関する観念はおそらく有していないだろう。

動物の意識は目に見える現実にしか向いていない。常に目に見える対象とだけ関わっている。今の現実そのものを完全に享受している。それは完全なる満足でもある。動物たちのこのような態度が人間には純粋とさえ映る場合がある。
 
真っ直ぐで、正直で、純粋で、今という現実のみを受け、何の目論見もなく、ただ今を満足して生きている。もし、そういう人間がそばにいたら、わたしたちは彼をすばらしい人間だと思うかもしれない。あるいはまた、悟りを得た人物だと思い込んだり、偉大だとさえ崇めるかもしれないのだ。

人間はその判断の多くは感覚によってもその価値や善し悪しを決める。しかし、自ら考える前に、人の風評に左右される事が殆どである。そのために感覚や、風評で人や物をその場で判断する。体験してもいない事柄を勝手に価値づけし判断をする。
 
要するに、人間は動物に何の屈託もない澄み切った生き方、聡明な生の時間が存在しているのを具体的に見るのだ。そこに人間は癒しを覚えるのだろう。あるいは、真の生き方を感じとるのかもしれない。
  
最近評判のゲゲゲの女房は観た事がないが、ゲゲゲの鬼太郎の主題歌に「お化けにゃ試験も何にもなんにも無い♪」とある。妖怪はどちらかといえば、動物的であって、幽霊は苦悩を抱えた人間かもしれません。
 
苦悩は現代人の専売特許ではない、古の昔より人は挫折を経験し、悩み、苦悩しつづけている。
 
悩みから逃げることに成功したと思われる人物は有名なところでは、ゴーダマシッダルダ氏があげられよう。彼は、古代インドのある小国シャカ国の王の子供として生まれた。
 
ところが、何不自由ないはずの人生であるにもかかわらず、悩み苦しみ、エスケープしてしまった。だが、彼は苦しみから逃れられる方法を発見した。未来への執着を煩悩というレッテルを貼り切り捨て、ありのままを受け入れる方法だ。
 
確かに、キリスト教の言う人間の原罪にあたる部分を最小とする生き方は、今風に言えばロハス、もしくはエコな生き方を極めることになる。
 
それは確かにすばらしい生き方かもしれないが、これはズルイ生き方である。未来を予測し、食糧を生産し備蓄する労働も否定することになるのだ。未来を予測し労働した大衆の貴重な労働に寄生しない限りできない方法でもある。
 
全員が、未来への執着を捨て、全員が僧侶となってしまっては、人類は人類ではなく文明は崩壊し裸の猿へ回帰するしかなくなるのである。
 
仏教はその矛盾をはらんだまま日本において成熟していった。やがて仏教は、日本において換骨堕胎され日本教仏教派として江戸時代に、苦しみから解脱するすばらしい思想へと昇華した。
 
江戸時代の思想家鈴木正三の説いた「農業即仏業なり」という思想である。
 
これは、プロテスタントの人達が行った、禁欲的な労働すなわち資本主義の精神と通じるものであった。人類は資本主義の精神を取得することにより、文明を発展 させることに成功した。
 
苦しみや悩みから逃れるには、日々の労働に精魂を込めよという思想は、日本人の思想のもっともベーシックな思想となったのであります。この日本的な考え方こそ山本七平氏が発見した日本教であり、日本人が、苦悩から逃れる最善な方法なのだろうと思います。
 
労働こそ崇高なことである。仕事に従事していない人も日々苦悩したならば、勉強でもいい、家事でもいい、失業者の方は職探しでもいい。魂を込めて、日々の行を行うことではないだろうか。
 
弱音はすっきりするから吐けるだけはいてしまいましょう。でも、弱音を吐かれている皆さん、「日々是仏行です!」人間生きていること自体が修行だと思い、打ち込める何かを見つけ魂を込めましょう!苦悩から逃れるひとつの手段だと思います。
 
私ですか?このブログに魂を込めて書き綴っています!
 
 
 
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この不干斎ハビアンを山本七平氏の著書において最初の日本教徒だと定義した。
 
そもそも日本教とは何か?
 
現在の日本人が縄文以降アジア各地から現代に至るまで,さまざまな思想,宗教や,文化などが入り、時間をかけて出来上がっていった自分たちの「精神を支える」ものです。
日本人が教会で結婚式をあげ,神社に初詣や七五三にいき,葬式で寺にいっても,それは決して宗教に寛容で多様性があるからではありません。それらてら宗教実質はすべて日本教なのです。
 
寛容なのではなく、見方によれば他の宗教に対して完全に排他的なのかもしれない。 
日本人に仏教徒はいません。日本教徒仏教派で、日本人キリスト教徒もクリスチャンを日本教徒キリスト派にすぎません。
 
なぜ山本七平は日本最初の 日本教徒としたかといえば、仏教、儒教、神道、キリスト教を並列させてた上で他宗教との比較検討を通して批判する態度こそ日本教徒ではないのかと考えたからである。
 
 日本教なる考え方は、山本七平氏が発見するまで概念的にすら、指摘されたこともありません。キリスト教の聖書、イスラム教のコーランなどようなの絶対契約文書がないため,正確な定義ができない。
 
日本人は空気(ニューマ)に支配されている。例えば人間同士の力関係と感情の関係によって、話し合われたことがその場その場の「絶対」となり物事が決まっていきます。
 
キリスト教,イスラム教などの一神教は、個人別の垂直的構造をとっていて「自分個人が契約した神」が絶対なのであって,それ以外のものは『無価値』です。
 だから同じ文書によって同じ契約を結んだ同一教徒の間では,人間同士の約束も信用できますが,異教徒は一切信用できない存在となります。
 
ハビアンは、自分の都合で、禅僧となり、キリシタンとなり、キリシタンを棄教した男である。意図的に、ハビアンがキリスト教を普及させる『妙貞問答』とキリスト教を否定する『破提字子』を著述したのだが驚く事に内容が大差ない。
 
破提宇子』でハビアンは「妙貞問答」の焼き直しを行っているが、そのまま日本初のキリシタンの批判書となった。
 
初のキリシタン批判書
(略)
提宇子の宗旨とするところの依経の名目、本尊、因位等の事、説き教ゆるところの法理、仏家にこれを聞かざれば、かの宗を抵排するに及ばず。神官これを知らざれば、かの徒を攘斥することを得ず。故に邪説、甘に起り、無道月盛んなること年久し。
ここでハビアンは、「仏教も神道も、キリシタンをきちんと理解していないから批判できない。
自分もキリシタンとして懸命に学んだが、愚かだったのでよこしまな宗教だと気づかずに二十余年を過ごしてしまった。棄教して十有五年。親友(長谷川権六と末次平蔵のこと)から『君が学んだキリシタンという宗教を書き記し、批判すれば、破邪顕正というだけではなく、真実を知る手引きとなるだろう』と勧められて、引き受けることとなった」と自ら著作の経緯を述べている。
この「キリシタンという宗教をきちんとわかっていないから、的確な批判ができない」というところにハビアンの思いがこめられているのであろう。また、私でなければ本物のキリシタン批判はできないはずだ、という自負も読み取れそうだ。

三位一体説というアキレス腱(第一段)
(略)
このように、『破提宇子』の構成は、キリシタン体系の語り手とその批判者の応答といった形式になっている。まずはキリシタン教義の要点を記述し、次に「破して云く」という出だしでその要点に対する意見や批判を展開するのである。『妙貞問答』では、Q&A的な問答形式であり、ちょっとした人物設定や状況設定もなされていたので読み物としても成立していたが、『破提宇子』では両論併記、というよりもキリシタンを解説した上で批判を加える、といった体である。
分量も『妙貞問答』よりも小部となっている。見方を変えれば、キリシタン教義の肝要を述べた
初のキリシタン批判書
(略)
提宇子の宗旨とするところの依経の名目、本尊、因位等の事、説き教ゆるところの法理、仏家にこれを聞かざれば、かの宗を抵排するに及ばず。神官これを知らざれば、かの徒を攘斥することを得ず。故に邪説、甘に起り、無道月盛んなること年久し。
ここでハビアンは、「仏教も神道も、キリシタンをきちんと理解していないから批判できない。
自分もキリシタンとして懸命に学んだが、愚かだったのでよこしまな宗教だと気づかずに二十余年を過ごしてしまった。棄教して十有五年。親友(長谷川権六と末次平蔵のこと)から『君が学んだキリシタンという宗教を書き記し、批判すれば、破邪顕正というだけではなく、真実を知る手引きとなるだろう』と勧められて、引き受けることとなった」と自ら著作の経緯を述べている。
この「キリシタンという宗教をきちんとわかっていないから、的確な批判ができない」というところにハビアンの思いがこめられているのであろう。また、私でなければ本物のキリシタン批判はできないはずだ、という自負も読み取れそうだ。

三位一体説というアキレス腱(第一段)
(略)
このように、『破提宇子』の構成は、キリシタン体系の語り手とその批判者の応答といった形式になっている。まずはキリシタン教義の要点を記述し、次に「破して云く」という出だしでその要点に対する意見や批判を展開するのである。『妙貞問答』では、Q&A的な問答形式であり、ちょっとした人物設定や状況設定もなされていたので読み物としても成立していたが、『破提宇子』では両論併記、というよりもキリシタンを解説した上で批判を加える、といった体である。
分量も『妙貞問答』よりも小部となっている。見方を変えれば、キリシタン教義の肝要を述べた
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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戦後の右翼運動は戦前の未遂のクーデター神兵隊事件が大きく関わっている。
p122~126
戦前の良質な右翼思想家のほとんどがかかわつたのが「神兵隊事件」だ。白井、中村をはじめ、これから紹介する片岡駿、毛呂清輝、影山正治も参加した未発のクーデター事件だ。神兵隊事件出身者は、戦後の右翼運動もリードした。そして、僕らはこの先生方の指導を受け、大きな影響も受けた。だから、「神兵隊が新右翼を作った」といえるかもしれない。

右翼による変革運動は.「維新運動」と呼ばれる。明治維新は達成されたが、まだ不十分だ。維新運動の流れは続いた。特に昭和初期は、不況、貧困、飢餓への怒りが政府・財界へ向かい、昭和五年(一九三〇年)の佐郷屋留雄(後に嘉昭)による浜口雄幸首相狙撃事件から昭和一一年(一九三六年)の二・二六事件までのテロやクーデターなどの直接行動を「昭和維新運動」と呼んでいる。

その一つ、神兵隊事件は血盟団事件、五・一五事件の翌年、昭和八年(一九三三年)に起こった。いや、起こるはずだつた。この三年後にニ・二六事件が起きているが・集まった人数やその質においては維新運動でも飛びぬけた意味があった。

右翼の直接行動には、血盟団のような民間人が政財官の要人を襲うテロと、の二・二六事件のように軍を動かすクーデターがある。いずれにしても、現状の悪をとりのぞく「破壊」が先決で、そのあとに望ましい状況が生まれれぱいいという”他力主義”だ。自分たちが破壊のあとの「建設」の主役になろうとは思わない。主役の座を狙うのでは自分たちの権力奪取と同じだ。自分たちは破壊のための"捨石”で十分だ。そう考える。

ところが、神兵隊事件はちがう。まず、民間人によるクーデター計画だ。ごく少数の軍人もいたが、ほとんどが民間の右翼だ。また、決起後の「建設プラン」も考えている。破壊のあとは、東久適宮殿下に出馬を願い、一挙に維新内閣をつくりあげる。そして、自由主義的な明治憲法を廃し、新たな憲法をつくりあげるというのだ。

「破壊」も徹底している。山口三郎海軍中佐が空から首相官邸、警視庁を爆撃し、これを合図に地上部隊は首相官邸に突入、閣議を開いている全閣僚を暗殺する。別の一隊は牧野邸、政友会、民政党の両総裁を襲う。警視庁を占拠し、ここに神兵隊の司令部をおく。さらに獄中の井上日召ら血盟団の同志を奪還し、市街戦に備え、銃砲火薬店から武器を奪う。

ともかく、大規模なクーデター計画だった。しかし、決行寸前に発党し、二〇〇人余りが検挙され、五四人が起訴される。判決まで一一六回の公判が開かれるが、この裁判闘争もすごい。

†思想闘争の場となった神兵隊裁判

「朝憲紊乱を目的とする内乱予備罪」に問われた被告側は、徹底的に反駁した。「国を憂えて立ち上がつた人問を内乱罪とすることは、自分達に本当は国体観念がないという証拠だ」と逆襲する。そして、検事、裁判官の一人一人に天皇機関説にっいての態度を明確にせよと迫る。裁判所は、「国体明徴」の戦場となり、裁くものと裁かれるものの立場が逆転する。
右翼のもっとも優秀な人たちが結集した神兵隊の総司令官は愛国勤労党中央委員の天野辰夫と皇国農民同盟幹事の前田寅雄だった。この二人を中心に一騎当千の活動家が集まった。彼らは思想家であり理論的指導者でもあつた。天野辰夫は弁護士でもある。
天野はいう。「朝憲の紊乱というのは、天皇が定め言うた、国家の根本的秩序・要するに国体に対する反乱になる。これは根本的におかしいし、問違っている」。そして、こう主張した。「お前たちの計画杜撰で努力が足りない、真心が足りないために失敗していたずらに社会を騒がせたということなら、甘んじて制裁を受ける。しかし、朝憲紊乱とはとんでもない。要するに今の司令部そのものが天皇機関説に毒されているからだ。

戦前の「天皇制国家」というイデオロギーを逆手にとった思想閾争だ。足かけ五年にわたる長期戦となる。
判決は昭和一六年(一九四一年)三月。開戦の年である。政府自らが国民に対して「国体」観念の徹底強化をはかる立場にあり、神兵隊事件被告たちに「憂国の至情」を語られては、司法当局にとっても否定することは難しかった。

「内乱予備」という罪名ではじまった公判は、異例の結末を迎える。裁判長は内乱予備罪を構成するものではないと断定し、検事の論告求刑を全面的にしりぞけたうえで、殺人放火予備や爆発物取締罰則違反に当たる事実はあるので、無罪にはできないが、全員刑を免除するという異例の判決を下した。被告側の全面勝訴だった。神兵隊の幹部に弁護士がいたこともある。

この「勝訴」は、実際のテロやクーデターよりも効果は大きかったかもしれない。国を思う真心、尊皇心は裁けないという確信を被告のみならず、後世の右翼運動家たちにもたらした。戦後になって、昭和四七年(一九七二年)、野村秋介らの「経団連事件」の際、弁護に立った成田健治弁護士は深く野村に傾倒していた。そして、野村たちの行為は民族の「正当防衛」であり、無罪であると主張した。個人と同じように、民族.国家にも「正当防衛権」があり、それを行使しただけで、裁判官には裁くことができないといったものだった。神兵隊事件裁判をほうふつとさせる。

ところで神兵隊事件の被告たちは一枚岩で戦つたわけではない。途中から・天野辰夫を中心とする「告り直し組」と「非告り直し組」に神兵隊は分裂する。いろんな事件が重なり、誤解や猜疑心も生まれ、のちに殺人事件も起きている。しかし、幸いにも両派の殲滅戦にはならなかった。お互いが、別な形での決起を考えたからだ。内ゲバのエネルギーを国家改造に向けた。その競い合いによつて相手を見返してやろうとしたのだろう。

結果的に不発に終わつたが、神兵隊事件のなかには右翼運動の「すべて」があるといってもいい。理論、決起、裁判、密告、対立、殺人---と。しかも、未発であったことが重要だ。

僕は、血盟団、五・一五、二・二六事件の関係者には何人もあっている。実際に実行されたテロであり、クーデターだった。だから、それ書の「達成感」をみなが感じていた。「やれるだけはやつたんだ」と。その点、神兵隊事件の関係者はちがう。「俺たちはなにもできなかった。これからだ」という意欲が漲っていた。だから、戦後になっても意気が高い。テロやクーデタ、が通用する時代でないと見通すと、自分の拠点差る団体をっくり、機関紙を発行し言論戦に打って出た。後進の指導にも尽力した。戦後右翼活動は彼らがリードしつくったのだ。
革命のプランナー片岡駿 
昭和45年「日本再建法案大綱」を著している。北一輝の「日本改造法案大綱」にも匹敵すると評判になる。
改造後世界連邦を目指そうという構想だ。
修理固成の神勅と云ひ八紘為宇の建国理想と謂はれるものは、これを現代的に表現すれば世界恒久平和の実現を志向する民族理想の宣言に外ならぬ。(大東亜戦争中軍部によって行はれた「大東亜共栄圏」の国際的宣言には戦略的意図が合まれたが、この時においてさへ国民自身が対外侵略の意図に燃えたといふ事実はない)。世界恒久平和の基礎としての世界連邦の実現を我国外交の終局的理想とし、遂に実現せらるべき世界連邦の理想的一単位となるべき、「皇国日本」を完成することは、祖宗民族の附託に応へる所以の途であると共に、一君万民.平和和楽の国体を実現しようとする国家改造の大目的である。
世界恒久平和のための世界連邦の実現といふ人類の悲願を果すことが、日本外交の終局目的であるとすれば、凡ての外交も差その目的に連奪ので無けれぱならぬ。世界連邦の実現という、世界的大事業を遂行するために最も必要なことは、万国に恥ぢざる国際信義と一国の道念であって、そこに何らの権謀術策も不要である。
日本は国際連合(国際教育科学文化機関)をして現代の理性と良心が次代の国民に対して要請すべき道徳の教材を討議決定せしめ、且つこれを国際語(エスペラント)と共に国連加盟諸国における義務教育の必須科目たらしむべし。
世界における人口・食糧問題の解決と、併せて来るべき世界連邦の布石たらしむるため、飢餓と貧困に悩む全世界の難民及び後進国プロレタリアートに対しソ連、中共、米共和国、カナダ、濠州等大地主国家の一部を解放し、これを自由共和国建設の新天地たらしむべきことを国連に提案、これが実現のために世界の識者と提携すべし
右翼の理論的 機関紙 月間「新勢力」を出版した毛呂清輝<参考>維新運動の本流をさぐる
新勢力は右翼機関紙としては群を抜き、高名な論客がこぞって寄稿していた。河野一郎宅焼き討ち事件で千葉刑務所に服役していた野村秋介の獄中からの手紙も掲載されていた。毛呂は京都出身で神兵隊事件にかかわり戦後は、中村武彦・小島玄之らと右翼運動の統一を図り、「救国運動全国協議会」を創立
 
右翼のバイブル「維新者の信條」を書いた 影山正治
戦後最大の右翼論客 葦津珍彦
既成右翼から脱却を図った 野村秋介
戦後の混乱期、横浜で無頼な日々を送つている。「俺は横浜の愚連隊だった」と自分の過去を隠さなかつた。長い獄中生活でもいろいろなヤクザと一緒になっている。生きるためにヤクザを選ばざるを得なかった同世代の親分たちをよく知っていた。
野村は昭和三八年(一九六一二年)に起こした河野一郎邸焼き打ち事件についてこんな罪言をしている。「河野一郎の(ソ連との)漁業問題とか、そうした行動に対して野村さんは反対したのですね」という外国人ジャーナリストの質問を受けてのものだ。
〈いや、それよりも本当は、河野一郎と児玉誉士夫ラインが標的だったんです。児玉は河野と組むことによって、関東会という関東のヤクザを全部政治結社にしたんですよ。それが今の右翼なんです。そういうことは駄目だ、ヤクザはヤクザ、ナショナリストはナショナリストと明確にしておかないと、ごちゃごちゃになってわからなくなる時代が来ますよ、と僕はその前年に主張したんです〉(『さらば群青』、二十一世紀書院)
野村は、「右翼の敵は右翼だ」といっていた。ときには「俺を右翼と呼ばないでくれ」とまでいっていた。ここで野村が批判の対象としたのは、任佼系右翼というような個別の問題ではなかった。それは、六〇年安保を通過し、食べるに困らない社会状況に流されていく右翼運動全体に対しての激しい批判だった。
今も右翼=ヤクザ=暴力団というイメージがある。事実、重なる部分もある。かつては賛助金などを集めるのに有利だったという二とがあったろうが、いまはそんな旨味はない。右翼を装って人を脅かす奴がいても、冷静に判断すれば、すぐに見破られるはずだ。「名刺右翼」「看板右翼」とかいわれる人たちだ。世問ではそうした人たちを「任侠系右翼」と勘違いしがちだが、それはちがう。
任侠右翼というレッテルにとらわれると右翼運動の実態を見誤ることになる。世間でイメージされるような、ヤクザがその時々に右翼の看板を掲げ活動しているようなところは僕の知る限り見当たらない。創立時に任侠と関係があったとか、設立者がその世界にかかわるるとかが任侠といわれる理由のほとんどだ。メンバーとは全く関係ない。
 
以上紹介しきれないが、本書では詳細に右翼思想を解説している必見の書です。
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児玉誉士夫と右翼再編
†「三島事件」、〈狼〉と新右翼
p83~85
イメージ 1
三島事件で衝撃を受けたのは右翼運動家だけではなかった。たとえば新左翼では、日本赤軍の岡本公三が「骨のない左翼人に対する警告の意味で、三島事件は前向きに受け止められるべきである」と評価した。同じく赤軍の奥平剛士は「あいつはようわかつとるやつや…」と漏らしたという。東大全共闘も事件後「追悼・三島由紀夫」の立看板を出した。新左翼でもそうなのだから、森田必勝とともに民族派学生運動をしていた僕たちが受けたショックは言葉では表せないほどだった。僕たちは月に一度の勉強会を昔の仲間と始めた。「一水会」のはじまりはそんな風だった。
数年したころ、自衛隊への抗議活動で僕は逮捕され、産経新聞社をクビになる。バイトをしながら一水会の専従になった。昭和四九年(一九七四年一のことだ。そんなとき、新左翼グループ「狼」による「三菱重工爆破事件」が起きる。犯行グループのうち一人が自決(服毒自殺)した。この事件には多くの右翼が大きな衝撃を受けた。一般市民に被害を与えた爆破事件そのものは肯定できないが、革命家としてのストイックな姿勢に心を打たれたのだ。いや、「三島・森田烈士の精神を継承せよ」と口だけは唱えていた右翼陣営の先を越されたという焦りすら感じたのだ。
僕は日刊の『やまと新聞』に「〈狼〉たちと右翼武闘派」という連載を始める。それが三一書房の目にとまり、『腹腹時計と、〈狼〉』(昭和四九年=一九七四年)としてまとめられ、2万部が売れた。「右翼武闘派が新左翼を評価した」「左右接近か」とマスコミに大きくとりあげられた。そのころから、僕たちは「新右翼」と呼ばれだした。命名者は評論家の猪野健治だ。猪野によれば「新右翼」とは「民族派学生青年運動を通過してきた反体制・反権力志向の諸潮流」に連なる連動家となる。
著者鈴木邦男の「一水会」=新右翼は三島精神の継承者であり、反体制右翼=戦前右翼の流れであって、児玉誉士夫らが戦後右翼運動変質させたのであって、どちらかといえば新右翼の方が正統右翼なのかもしれません。
†右翼・任供界を再編した児玉誉士夫

イメージ 2「今までの右翼」を代表する大物が、児玉誉士夫だった。「右翼」のイメージにダーティで暴力的な面がすくなからずあるのは、児玉の影響が濃い。「暴力」と「顔」を背景にして政財界のフィクサーとなり、裏から日本社会を動かす、そんなイメージだ。
児玉は明治四四年(一九一一年)、福島県に生まれる。十代なかばで赤尾敏の建国会に入るが、その名前を一躍広めたのは、昭和七年一九三二年)に当時の井上準之助蔵相に、金解禁策による経済混乱の責任を問い切腹用の短刀と脅迫状を送り付けたことだ。井上蔵相は血盟団事件で暗殺されるが、いわばそのさきがけとなる脅追事件だった。さらに、天行会などと発電所を襲撃し帝都を混乱させ、軍部の決起を促すというクーデター未遂事件も実刑判決を受けている。
しかし、児玉を児玉たらしめたのは、政財界の「黒幕」としてだ。戦時中は、中国大陸を舞台に「児玉機関」を率い資材調達に従事する。海軍航空本部と関係が深かったといわれている。戦後、A級戦犯となるも、復帰後、鳩山一郎らの自由党設立に資金を提供して、昭和三〇年(一九五五年)の自由民主党結党に力を貸すなど、政界の顔役となる。河野一郎とはとくに親しかった。さらに財界にも食い込み総会屋の世界でも重きをなす。表と裏の世界をつなぐ超大物フィクサーとして君臨したのだ。
右翼としての児玉がその実力をいかんなく発揮したのが岸政権下の六〇年安保のときだった。左翼運動の高揚に.「左翼による革命前夜」と危機感を強めた右翼陣営は、政財界だけでなく裏社会にも顔の利く児玉を頼った。そこで児玉は、全国の親分衆に、「(任侠社会での)抗争を廃してお国の旗のもとへ結集せよ」と呼びかけた。全国の任侠団体を「東亜同友会」というひとつの右翼的親睦団体の傘のもとに大同団結させようというのだ。実際には、その関東版として名高い「関東会」がつくられた。
アイゼンハワー米大統領訪日反対運動の高まりに対抗して、警察力の不足を補うために、ヤクザやテキヤの大量動員が計画された。このとき、自民党幹部からの要請で、全国のヤクザに顔が利く大物親分を動かしたのが、児玉だった。
任侠団体が結集した「アイク歓迎実行委員会」のもとに、最終的に博徒一万八〇〇〇人、テキヤ一万人、右翼団体四〇〇〇人にものぽる動員が予定されたが、アメリカ大統領側が訪日を中止したため「計画」自体が白紙になった。しかし、右翼、宗教団体とヤクザを糾合して政治利用する動きが加速する一大モニュメントとなったのは事実だ。
いわぱ、ヤクザと右翼が一体化して時の政権に奉公するという動きがこのときから始まったのだ。それも体制側のお墨付きによってだ。
戦後の右翼は戦前の反体制右翼と異なり体制側に立つ右翼である。そうに変質させたのは児玉の力によるものだった。私(Ddog)も玄洋社の頭山満や大川周明の本を読むまでは、北一輝は例外であって右翼の定義とは体制を擁護する側と勘違いしていた。児玉誉士夫の実力というより赤尾敏が右翼の先頭として親米主義を掲げていた為に、GHQやCIAが右翼の利用を許諾したのではないかと私(Ddog)は考えます。朝鮮戦争のさなか共産党の実力闘争に実力で対抗する国内治安維持即戦力として「反共抜刀隊」構想が持ち上がづたこともある。法務総裁・木村篤太郎の呼びかけで、右翼テキヤ・ヤクザが大同団結して共産革命と闘う計画で、年間三億円以上の予算案まで作成されたという。終戦直後の日本の治安は任侠団体が三国人達の暴力から日本人を守ったのだ。その代表が山口組三代目田岡組長だったのである。
 
 
 
白井為雄 児玉系右翼の理論家 革命より対話を重視 戦前神兵隊事件に関連
p90
 
白井為雄は戦前、戦後を通じて、昭和の右翼運動を牽引してきた理論家だ。右翼のルーツとして知られる玄洋社と黒龍会はそれぞれ頭山満と内田良平が創設者だが、内田はその後、より大衆的な右翼運動を目指し「大日本生産党」をつくる。白井はこの大日木生産党に入り、運動のスタートを切る。昭和八年(一九三三年)のクーデター未遂〕神兵隊事件に関係して検挙され、戦後は昭和二九年(一九五四年)に大日本生産党が再建されると書記長に就任する。一九六〇年代後半に新左翼学生運動が全盛を迎えると、来る「七〇年安保闘争」に備える趣旨で昭和四二年(一九六七年)、「日本青年講座」が発足、その事務局長になる。「日本青年講座」は既成の右翼の枠を破る大きな国民運動を目指した。小林秀雄、林房雄など、大物知識人を招いて講座を開いたのだ。児玉は一方で実践.行動団体として「青年思想研究会」を指導し、”武闘訓練”も実践していた。左翼に対抗する思想.理論面に力を入れようと「講座」をつくったのだ。文武両面から右翼全体を鍛え、革命に備えるという考えのようだった。
白井為雄氏は著者鈴木邦男氏の恩人でもある。産経新聞をクビになった鈴木邦男を「日本青年講座」の機関紙「青年群像」の編集長として雇い鈴木氏の編集に口を挟まず、新右翼運動にも理解を示した児玉系右翼の巨人である。
 
中村武彦 児玉系右翼のもう一人の巨人
p106~107
中村武彦は、大正元年(一九一二年)に福岡県に生まれた。国学院大学に入学し、民族主義運動に入り、内田良平の大日本生産党に入党している。昭和八年(一九三三年)・神兵隊 事件に参加し、検挙される。
昭和一二年(一九三七年)、片岡駿らと維新公論社を創立し、機関誌『維新公論』を発行。
同年八月、生産党員の松石一が同誌の記事に抗議したことから流血の事態となり、松石を刺殺する。
翌年、片岡駿、奥戸足百らと「聖戦貫徹同盟」を結成、昭和一六年(一九四一年)に平沼駿一郎国務相狙撃事件に連座し、さらに昭和一八年の「勤王まことむすび・維新公論社事件」に連座、服役するも、昭和一九年には「尊擦同志会」を結成、”敵前維新”を図る。
敗戦七日後の昭和二〇年八月二二日、同志会会員ら一二名が集団自決するが・中村は獄中にあつて参加を果たせず、敗戦は獄中で迎えた。このとき慙愧の思いから・東京・愛宕山で毎年命目に「尊接義軍十二烈士女慰霊祭」を営む。
戦後は、昭和二四年から維新運動の再建に臨み、昭和二六年に新生目本同盟、八千矛社などを結成。昭和二九年、救国国民総連合書記長、昭和三六年からは、黒龍倶楽部、児玉系の日本青年講座、青年思想研究会に関係し、後進の理論指導にあたる。
楠公祭世話人、全国有志大連合副会長などを務め、多くの団体の指導、育成につとめた。
多くの肩書き(日本一多くの役職についていたといわれる)からもわかるように、戦前、戦後を通じて右翼理論家の大家として、光彩陸離たる活躍をしたが、戦前の思想家らしく、活動家としても内に激しい闘志を燃やしていた。それが、僕たちもふくめて後進への温かい指導にあらわれていた。
昭和維新を目指した、中村武彦は終戦を獄中で迎える。
その懊悩(おうのう)は、鬼気迫り三島由紀夫の英霊の聲そのものであった。
p113~115
〈私ははじめ、断じて承詔必謹できなかった。恐れながら差し違えたいと思うほど、天皇陛下をお怨み申し上げた。二・二六の磯部菱海よりも烈しく、三島由紀夫の英霊の声よりも痛切だったかも知れない。
どうして陛下は皇祖皇宗の御神霊に背き、忠誠なる赤子たちの死をむだになさいますか、と訴えた。
元来、大皇にいかなる降参もあろう筈はない。いわんや悪魔鬼畜の軍門に降られては、神ながらなる天皇の御権威は地に落ちた。腹が立ち、情けなくなり、陛下を陛下として拝し得ない虚ろな思いをどうすることもできなかった〉
そうした憂悶苦悩が続く。天皇に怒り、怨み、刺し違えたいとまで思う。こうしたく〈天皇体験〉は中村の世代の活動家にしかない。僕らの世代では体験できない、究極の天皇体験だ。終戦に至る経緯を、獄中では詳しく知るよしもない。怒りたける、しかし、悶々として悩み続けるうちに、気がつく。濃霧が晴れるような気持ちになる。
〈二・二六の時もそうだが、その名に値する皇軍統帥部なく、政府にも宮廷にも忠臣良弼がいないのである。陛下の側近みな茶坊主であろう。(略)独り社稷(しゃしょく)を憂い給い御心労あそばす陛下が、御いたわしくてたまらなくなかった。これは陛下を責める筋はない。もっぱら我々の罪であり、責任ではないか。息まいて討奸を叫ぶだけで遂に実行しなかったのは我々だと、腹の底かち思い直した〉
他を責めるのではなく、自らの問題として考えている。日本のことは全て自分の責任だと思えるのが本当の維新者なのだろう。また、他人の雑音が入らない獄中だったからこそトコトン自分と対面し、突きつめて考えられたのかもしれない。さらに中村はいう。
〈開戦の責任も終戦の責任も、敗戦降伏の恥辱も、心なき我々国民の怨嗟も御一人で負い給うのである。そのような事態を招き、天皇を御護りできなかったのは、輔弼の臣ども、大臣、大将はもちろんであるが、我々草奔の民にも断じて逃げられぬ責任がある。更に思った。肇国のいにしえから御歴代天皇はみな国民一同の苦患を御一身に引き受け給うたのである〉  そして悟る。維新者としての自らの罪に気づく。
〈私は、情然としておのれの罪を悟らずにおれなかった。聖戦貫徹、昭和維新の空念仏を唱え続けた結果、何ができたというのか。まさに、死をもつてしても償うことのできぬ大不忠の犯罪である。私は、腹の底から申し訳ないと痛感し、承詔必謹の大義に帰り着いた〉
中村武彦氏は、戦後は児玉系の青思会の顧問となったが、児玉にも面と向かって直言苦言できる人だった。左翼に対抗して児玉が右翼団体を大量動員しようと画策したのは、かえって右翼にとってマイナスだと中村氏はいっている。
 
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大学紛争と三島事件
 
著者一水会最高顧問鈴木邦男氏は 生長の家の信者である。
https://image.blog.livedoor.jp/con5151/imgs/7/4/74aeb0e0.jpg創設者である谷口雅春は、明治二六年(一八九八年)に神戸に生まれた。早大英文科中退後の大正六年(一九一七年)、出口王仁三郎の「大本教」に入信。機関紙『神霊界』を編集するが、まもなく脱退し、昭和五年(一九三〇年)に生長の家を創設、「万教帰一」「物質は在い、実相がある」「病はない、人問神の子」と説く。このころ『生命の実相』を出版し、ベストセラーになる。現在まで会員を中心に一九〇〇万部が読まれている。
戦時中は「聖戦」を熱烈に支持したことから戦後公職追放に会うが、昭和二一年(一九四六年)には早くも日本教文社を創立し、生長の家の本以外にもユングやフロイトの全集、さらには青年に自国への誇りを回復させようと「国史シリーズ」を刊行する。戦中、戦後と一貫して熱烈な愛国者だった。
現行憲法は米国に押し付けられた憲法だと「明治憲法復元改正」を主張、紀元節復活、優生保護法改正などを訴え、昭和三九年(一九六四年)には生政連(生長の家政治連盟)をつくり、公称三〇〇万人の信者を背景にこののち、玉置和郎、村上正邦などを国会に送った。
昭和四一年に右派学生運動に大きな足跡を残す「生学連」をつくり、僕は二代目の書記長になった。このとき、谷口に直訴し機関紙『生学連新聞』を創刊したのも僕だ
 
三島最後の演説(小室直樹著 三島由紀夫と天皇より)
この日本でただ一つ、日本の魂を持っているのは自衛隊であるべきだ。われわれは自衛隊に対して、日本人の根底に…されたんだ。しかるにだ、われわれ自衛隊というものに…静聴しろ、静聴!…静聴せい!
自衛隊には、日本の国軍たるべき裏に、日本の大本を正すということはないぞ、ということを、われわれが感じたからだ…しかるにだ、去年の十月二十一日には何が起こったか…去年の十月二十一日には、新宿で反戦デーのデモが行われて、これは完全に警察力で制圧されたんだ…おれはあれを見た日に、これはいかんぞ、これで憲法は改正されない!と慨嘆したんだ…なぜか、それを言おう・・・それはだ、自民党というものがだ、警察力でもって、いかなるデモも鎮圧できる、という自信を持ったからだ…自衛隊はいらなくなったんだ…諸君は去年の一〇・二一からあとの、去年の一〇・二一からあとだ、もはや憲法を護る軍隊になってしまったんだよ…自衛隊が二十年問、血の涙で待った憲法改正というものの機会がないんだ…去年の一〇・二一から一年間、おれは自衛隊の興るのを待っていた…もうこれで憲法改正のチャンスはない!…自衛隊にとって建軍の本義とはなんだ!日本を守ること…日本を守るとはなんだ!日本を守るとは、天皇を中心とする、歴史と文化と伝統を守るんだ!…よく聞け!聞け、聞け…静聴せい!…男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ!…いいか、いいか!…おれがだ、いま日本人がだ、ここでもって起ち上がらなければ、自衛隊が起ち上がらなければ、憲法改正というものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ!……諸君は武士だろう、武士ならぱだ、自分を否定する憲法をどうして守るんだ…自分らを否定する憲法というものにペコペコするんだ…諸君の中には一人でもおれと一緒に起つヤツはいないのか…一人もいないんだな…よし、おれは死ぬんだ、憲法改正のために起ち上がらないという見極めがついた、自衛隊に対する夢はなくなったんだ!それではここで天皇陛下万歳と叫ぶ。(皇居に向かい正座し)天皇陛下万歳!万歳!万歳!
 
 
 
【三 島 由 紀 夫 割 腹 余 話】
 
†「三島事件」の真相は「森田事件」だった
http://nippon-nn.sakura.ne.jp/zyusyu/enkaku/sodai.jpgいまでも三島を批判する右翼は誰一人いない。だが、三島とともに自決した森田の事蹟は一般の人たちには忘却の彼方だろう。それほど、人気作家が決起し自刃したことが世間には衝撃だつた。だが、「三島事件」は森田必勝が主導したという意味では、むしろ「森田事件」だと思う。岡村青の『森田必勝・楯の会事件への軌跡』(現代書館)のなかで森田必勝の実兄・森田治はこう語っている。
<あの事件はむしろ弟のほうが積極的だったぐらいなんです。『先生、早くやりましょうよ』とけしかけたといいますから。それに一般的には弟はあたかも三島さんに殉じたかのように解釈されてますが、それはとんだ誤解ですね。弟は弟なりの信念にもとづいてやったことです>
これは何も実兄の欲目でいってるのではない。かなり事件の本質を衝いた証言だと思う。
大体、考えてもみてほしい。三島の方から、二十五歳の青年に「ともに死のう」といえるだろうか。三島は「楯の会」の人間にこんな「命令書」を書いている。
<今回の事件は楯の会隊長たる三島が計画、立案、命令し、学生長森田必勝が参画したるものである。三島の自刃は隊長としての責任上当然のことなるも、森田必勝の自刃は自ら進んで楯の会全会員および現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、身自ら範をたれて青年の心意気を示さんとする鬼神を哭かしむる凛烈の行為である。三島はともあれ森田の精神を後世に向かつて恢弘せよ>
森田必勝は筆者鈴木氏の2つ下で右派系の学生組織「日学同」発足以来のメンバーだった。
だが、いかに森田が鈴木の知友であろうとも、三島由紀夫の著作英霊の聲や遺作「豊穣の海」を読めば、三島の固い意志は読み取る事ができ、いかに森田必勝が積極的であったとはいえ首謀者だったとは言いがたい。
 
†三島は「右翼の敵」から「神」に
イメージ 1それまで三島は右翼にとつて不快感を美れていた。二・二六事件を題材にした小説も多かつたし、自決する青年将校を描いた「憂国」は映画にも書、三島自身が監督.主演した。
最も右翼的テーマだし感激してもいいはずなのに、血みどろの切腹シーンに「グロテスクだ」と批判した。青年将校夫妻が自決する前に最後の交わりをする場面にも「エロ映画」といって罵倒した。
「英霊の聲」という小説がある。霊媒を通して、二・二六事件の青年将校や戦争中に特攻で死んだ若者たちがさまざまな主張をする。まさに憂国小説だ。そのたかで彼らは口々に、天皇に訴える。天皇は白分たちの気持ちをくんでくれなかった。神なる天皇を信じて特攻で死んでいったのに、戦争が終わると「人間宣言」をした。「などてすめろぎは人間となりたまいし」と。これに対し、右翼は「これは英霊の声ではない、天皇への恨みを並ベた怨霊の声だ」といって攻撃した。
深沢七郎の「風流夢謹」を評価したとの噂が流れた際には、連日自宅まで右翼が押しかけ、警察がガードに立ったことについてはすでにふれた。
三島のスター性が「作家の遊び」として、ねたまれた面もあるだろう。地道に右翼活動をしている自分たちの声はどこにも取り上げられないのに、という慣懲もあったかもしれない。だから、楯の会も「オモチャの兵隊」とバカにされたのだ。
226事件の本質を考えると、昭和天皇が激怒するのは当然であって、226の青年将校達は逆賊の極みである。
彼らの純真な心情は理解できるが、陸軍内部上層部の権力闘争の駒に使われた挙句、天皇に無断で、天皇の軍隊を動かし、天皇が信頼する臣を虐殺する暴挙は許されるものではない。陸軍上層部の狼狽からかけ離れただ一人昭和天皇だけは、動ぜず冷静に謀反人達を誅したのである。
 
三島のスター性を右翼が嫉んだという鈴木氏の見解にも異議がある。226の青年将校達は「天皇親政」を旗印とするも、畏れ多くも天皇陛下を傀儡化して、唯々諾々彼らの意見従わせようとするとんでもない不敬罪であった。右翼の理論家達はその点を攻撃したのである。
p78
http://penjyu.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_62a/penjyu/E794B1E7B480E5A4AB.jpg谷口は三島の自決についてもこう記す。
<氏は、”肉体の美”を此上なく愛した。それは氏自身の裸身の写真を多くとらせているのでもわかる。愛したが故にこそ、それを無駄に萎びさせて滅ぼしてはなら在いと感じたのである。「この肉体美を、一層高き次元の価値にまで捧げなければならないL。三島氏は、その肉体の生命を捧ぐべき、一層高き次元の「価値存在」として日本国家を選んだのであった>
そうか、変な表現だが「日本国家との心中」だったのか。僕は山口二矢も三島由紀夫も、谷口を通して「理解」した気がした。二人の最大の理解者が谷口のように思えた。
谷口はこうもいっている。
<無論、三島氏は、今の日本の、表面的には豊穣で、内部は偽善と欺臓に充満している、悪夢の如き現状を、覚醒せしめたい。そのためには、自分の肉体を抹殺し、生命を、眠っている民衆の心にぶっつけて、これを覚醒させるほかに道はない。もう普通の文書宣伝位 ではだめだ、日本の伝統的武士的切腹の方法で体当たりするほかに遣はないと信じての切腹であったことには間違いない>
しかし、手放しの評価ではない。理解しながらも、<三島由紀夫氏が、もっと私の本を読んでいたならば、あんな悲惨な(ある意味では壮烈な)死に方はしなかったと私は思うのである>というのだ。

意味深長だ。自著をもっと深く読めば宗教的境地に達して実行はできなかったはずだという。でも、山口二矢も三島も、「もっと読まなかったから」決起できた。歴史の皮肉だが、そのほうが二人には幸せだったのかどうか。
三島最後の作品豊穣の海は輪廻転生の話である。難解な遺作であるが三島のすべてを注いだ仏教観は生長の家の教祖谷口は何も感じなかったのか?自分の著作を読めば三島は死なずに済んだのか?三島の死は民衆を覚醒させる為の死ではないことぐらい気がつかないのか?三島自身が宗教的境地に達したからこその法悦の中で三島は死ぬ事ができたのだ。鈴木氏の谷口教祖への評価は甘すぎる。
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敷島の大和心を人問はば、
 
朝日に匂ふ山桜花。        本居宣長
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(略)
私たち日本人のサクラを好む心情は、それがわが国固有の産物である、という理由によるものではない。
サクラの花の美しさには気品があること、そしてまた、優雅であることが、他のどの花よりも「私たち日本人」の美的感覚に訴えるのである。
(略)
私たちの日本の花、すなわちサクラは、その美しい粧いの下にとげや毒を隠し持ってはいない。
自然のおもむくままにいつでもその生命を棄てる用意がある。
その色合いはけっして華美とはいいがたく、その淡い香りには飽きることがない。
 
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私はかつて数寄屋橋の交差点で演説をする、80過ぎの愛国党”赤尾敏”に神々しさを感じたことがあった。
80過ぎの老人とは思えぬその気迫と気高さに、その演説が終わった時思わず拍手をしてしまったのだ。
もちろん、拍手をしたのは私だけだったかもしれない。
 
私が大学に入学した1980年代初頭は、新左翼の活動家が、成田党争や、内ゲバ事件が新聞報道を賑す時代だった。私は日教組だった父親が購読していた赤旗と朝日新聞を読んで育った。私の進学した私立大学は新左翼運動家がまだ盛んに活動しており、入学当初、先輩に連れられヘルメットを被りデモに参加させられた。1981年、少なくとも我が母校では、一般学生が全共闘の生き残り学生会の動員で、デモに参加した最後の年であったと思います。盛んな勧誘活動もあったが、新左翼の人達の話を直接聞けば聴くほど、あまりの馬鹿さかげんに呆れかえり目が覚めた。(ソ連のアフガン侵攻を明確に答えることが出来なかった)80年代初頭の日本は繁栄を謳歌し、革命という刷新をするのは日本ではなく、それを叫ぶ連中こそ刷新されるべきだと確信した。時代は、テクノポップにおいしい生活、赤旗より変態良い子新聞、ビックリハウスにライブハウス、ディスコ全盛の活気に溢れかえる都会生活を楽しむことに決めた。だが、左翼少年だった私が、新左翼の連中の勧誘には乗らなかった理由の一つは赤尾敏の数寄屋橋での演説が終わった時無意識に拍手していた自分の思想の変化に影響したかもしれない。
 
私は大学時代から読書に目覚め、神保町界隈で古本を買い漁り、政治・経済・軍事・歴史・哲学・心理学に関する本を乱読し始めた。大学に入学して半年も経った頃には、四畳半の下宿は本で埋まり始め、左翼から保守主義者へ180度転換していた。
 
保守主義者となったが、反米的新右翼とはどこか思想が違うと感じていた。一水会最高顧問 鈴木邦男氏の本は「夕刻のコペルニクス」を社会人になって読んだが、共感するというよりどちらかというと違和感を感じ、新右翼のオピニオンリーダーであるにもかかわらず、鈴木邦男氏の本は読んでいません。本書を読んで、その違和感は誤りであったかもしれないと思った。
 
鈴木氏は、日本の右翼の源流を玄洋社の頭山満としているが、賀茂真淵本居宣長や水戸学そして尊皇攘夷運動そのものがナショナリズムであると私は考えます。戦前の右翼活動は、玄洋社頭山満は自由民権運動の流れから大アジア主義・反欧米主義の流れであったと思う。頭山満・大川周明・北一輝に代表される戦前の右翼運動は、5.15事件2.26事件失敗した神兵隊事件と同じく新右翼一水会鈴木氏の思想の源流といえよう。
 
愛国党の赤尾敏は若干異なる。戦前国会議員でもあった赤尾敏は、一貫して「親英米反共」の立場で、公然と反戦運動=対米英戦争反対を続けていた。東條批判を体を張って行い翼賛会議員を除名され、憲兵隊の監視下に置かれた。ゆえに赤尾は右翼運動者全体から一目置かれる存在となった。
 
ちなみに街宣車は戦後赤尾敏が昭和30年頃発明したものだ、赤尾の街宣車が日本の選挙カーの元祖となった。戦後の右翼の大物児玉誉士夫がロッキード事件でロッキード社の代理人としてロ社に便宜を図ったと報道された際、児玉の自宅まで赤尾は街宣車を乗りつけ児玉を批判した。理論でも行動でも突出した戦後右翼を代表する赤尾敏を誰も文句を言うものが無かった。
 
赤尾が総裁を務める大日本愛国党には、昭和35年社会党の浅沼稲次郎を刺殺した17歳の青年山口二矢(おとや)が所属していた。
 
 
著者鈴木邦男と同い年、著者鈴木は衝撃を受けた。
Ddogは恥ずかしながら、本書を読むまで山口二矢を理解していなかった。山口二矢のテロ行為は戦後右翼活動が日陰の存在となってしまったきっかけであり、日本のナショナリズムの復興を阻害したと私(Ddog)は考えている。だが、私心無き純粋な山口二矢のテロはただ口先だけで国を憂うだけの自分(Ddog)に比べ、なんとも崇高なのだろう、私心無きその心に私は打たれた。事件から3週間後、少年鑑別所で自ら責任を取り、清く自決した。私はテロを肯定するつもりはないが、山口二矢の心境を知らず誤解していた、そして無知の自分を恥じた。
事件の後、公安(警察)は、これを「偽装脱会」ではないかと疑った。たしかに、決起を決意した人が、所属する団体に迷惑をかけないために直前に脱会届を出すケースは多い。
ただ、山口二矢の場合は違つた。愛国党を飛び出したのは運動方針の違いからだった。赤尾のやり方では生ぬるいと思ったのだ。そして、銀座に自分たちの組織の事務所を構えた。
しかし、事件後、赤尾総栽は飛びだした山口二矢のことを絶賛した。なかなかできることではない。
右翼団体も皆、賛美した。沢木耕太郎の『テロルの決算』によれば、事件の翌日、右翼100人が集まり、「愛国者時局懇談会」がもたれた。赤尾総裁はこういった。
「これは立派なことである」「日本民族の血の叫びであり、日本生命の発露であり、天地正大の気が時によつて煥発するという、このひとつのあらわれだ」と。
他の出席者からも少年の・美挙・に対して賛美の声が続いた。そして、最後に・その壮挙を讃え、健康を祈つて全員で乾杯をした。会場には「おめでとう!」との声があがったという。
まるでお祝い気分だ。それにしても「美挙」とは。ふつう右翼が命を賭けて決起すると「義挙」という。はじめて聞く言葉だ。「大義」があると感じる前に「美しい」と感じたのだ。そうか、「美しい殺人」だったのか。
山口二矢のテロは、いくつもの偶然が重なって行われた。奇跡のテロであり、計画しでできることではなかった。人智を超えて、天佑神助を感じた人もいた。それを「美しい」と感じたのか。
あの日、日比谷公会堂には多くの右翼が詰めかけていた。浅沼委員長が登壇し、演説を始めると、右翼のヤジは一層激しくなった。壇上に登りビラをまく人問もいた。「右翼はどうせヤジを飛ぱし、ビラをまくだけだ」と警察も高をくくっていたのだろう。右翼が会場に入るとき、公安は一人一人ボディーチェックをしたはずだ。だから、安心していた。
山口二矢は、それを受けなかった。遅れてきたので、もう右翼も公安も会場内に入っていた。入場係員は右翼の顔など知らない。ただ、「券がないと入れない」と断った。山口も仕方がない、と帰ろうとした。山口は、学生服姿でいかにも生真面目そうな青年だ。かわいそうになって係員は「二枚券があまってるから」と山口にあげて、中に入れた。
さらに偶然が重なる。彼が会場に入ると浅沼の演説はすでに終わりに近づいていた。
「時間だ、時間だ」というヤジが飛ぶ。山口は舞台に進むが、どこから上がっていいかわからない。そのとき、舞台の下に手ごろな箱が見えた。取材に来ていたニュース映画の機材を入れた大きな箱だ。彼はそれを踏み台にして舞台に駆け上がる。それまでも、右翼が何度も舞台に上がってビラを撒いたり騒いでいた。最前列で山口とは反対側にいた愛国党の人たちだ。警備陣も愛国党のほうに注意を向けていた、それに「またビラまきか」と油断していた。その一瞬の隙をついて、山口は短刀を構え、体ごと相手にぶつかっていった。誰も止める者はいなかった。
沢木耕太郎は『テロルの決算』のなかで、「強運」と表現している。そして、こう書く。
〈入口から浅沼の立っている舞台までは距離にして百メートルとなかったが、そこに達するまでの問にはいくつもの難関が壁のように立ちふさがっていた。しかし、二矢は、強運としかいいようのない無数の偶然の連鎖によって、ひとつひとつ厚く重い扉を開けていくことになった。後に、家族の者が「あの子はあれをするためにだけ生まれてきたのかもしれない」と考えたとしても無理はないほど、入口から舞台の浅沼に至る筋道には多くの偶然がちりばめられていた〉

「私心なき忠」

右翼が「神のような」と絶賛したのも、そこに「神慮」としか思えないような、なにかの意志を感じたからだ。少なくとも人間業とは思えなかった。
そして、「山口は救国の英雄だ。これから右翼を背負って立つ人問になる」と右翼の誰もが期待した。供述でも警察が驚くほど冷静で堂カとしていた。一切を認め潔く裁きを受け、刑に服する、十七歳なのに「国士」の風格すら漂う。そんな大人たちの思惑をも山口は超えてしまう。
11月2日、警察署から少年鑑別所に移されたその夜、自決する。
「相手を倒し、その場で自分も死ぬ」。それが右翼テロリストの心情だと思っていた。あまりにも純粋だった。
安田善次郎を殺して白決した朝日平吾、大隈重信に爆弾を投げて自決した来島恒喜など右翼テロリストの歴史には、国のために一人の生命を奪う以上、白分もその場で自決する
という美学があった。
山口にもそれがあった。名誉も称賛もまるで求めなかった。はじめから白分は死んでいた。それが本来の右翼の「常識」だった。山口を絶賛する大人のほうがそんな「常識」を忘れ去っていた。だから、決行の三週間後に少年鑑別所で山口が白決したことを知ると、称賛の声がさらに高まった。「山口神社をつくろう」という声もあった。山口の慰霊祭は浅沼が殺され「社会党葬」が行われた日比谷公会堂で大々的に執り行われた。
山口二矢 辞世の句
国の為神州男子晴れやかに
ほほえみ行かん死出の旅路に
大君に仕えまつれる若人は
浅今も昔も心変らじ
完璧すぎるテロであった。
とても17歳の人間がわずか17年で到達できる境地とは・・・・・
 
もう一つの事件。浅沼刺殺事件から4ヶ月目、元愛国党員で17歳 小森一孝が、不敬小説「風流夢譚」を載せた中央公論社社長宅にて社長夫人とお手伝いさんを殺傷する事件をひきおこした。
右翼のテロというより、先ごろ起きた厚生次官を狙った連続殺傷事件のほうに似ている。
変だと思い、右翼の人が書いた本をずいぶん読んだが、皆これと大同小異だった。眼鏡を落とした事実はない。「誤爆」ではなかったのだ。奥さんも主人と同罪だと狙いを定めて刺し、止めに入った家政婦を殺した(丸山さんは救急車で搬送途中に死亡、雅子夫人は瀕死の重傷だったが一命は取り留めた)。
暗澹たる気持ちになった。これでは申し開きができない。せいぜい「こんなことが起きるのも、あんな不敬な小説を載せたからだ」と反論するくらいしかできない。
右翼の正史を記したともいえる『大右翼史』にはこうある。
「この事件に関して、時局対策協議会はこれを是とし」・…「是」とした団体もあったのか。
しかし、これは例外だ。その次である。
〈全日本愛国者団体会議はその動機の真実さは納得できるが、事情は如何にあれ、女子供に手をかけることは右翼人としてあるべからざる処とし直に佐郷屋嘉昭、荒原朴水を丸山かねさんの遺族及び嶋中夫人におくって謝罪し、又声明を内外の知名人、報道関係者等に送付したのである〉
この「全愛会議」(全日本愛国者団体会議)は右翼のなかで一番大きな協議体だ。このなかで出てくる佐郷屋嘉昭は、戦前、浜口雄幸首相を襲い重傷を負わせ、死に至らしめた(当時は佐郷屋留雄と称した)出所後右翼活動を再開し、全愛会議の代表となった。
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湊かなえさんの「贖罪」は小説として面白かったが、「罪に対する償い、贖罪とはいったいなんであろうか?そもそも罪とは悪とはなにか?」といった疑問を湧き上がらせてしまった。

私の10/3記事切ない話:『赤い靴の真実』と新型インフルエンザでも取り上げた 幼児虐待ごみ箱閉じ込め窒息死事件の判決が18日下され継父菅野美広被告(35)は懲役11年となった。はたして11年の懲役で贖罪できるのか?懲役20年なら許せるのか?事件内容を知ればしるほど死刑にしても余りある非道な犯罪であったと思う。

湊かなえさんの「贖罪」で比較した 菊地寛の「恩讐の彼方に」http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/496_19866.htmlあらすじ
主人を切り殺した贖罪から20年かけ一人の人間の力だけで3町(327.3m)の岩をくりぬき洞門を開こうとする老僧、そして仇と狙う遺児が現れ本懐を果そうとするが、村人達の懇願から貫通後に仇を討つことで思いとどまる。1年半後二人して鎚打つ姿があったが、遂にその時が来た。「最後は二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙にむせび合う」贖罪と許しの物語である。
を調べているうちに、本書にめぐり合った。

この「恩讐の彼方に」が大正8年正月号中央公論に掲載され、同年4月号に同じく凶悪犯罪の罪と罰について深く考えさせられる小説「ある抗議書」http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/1341_19214.htmlが発表されていることが書いてあった。

「ある抗議書」
凶悪犯に親族を殺された人物から、司法大臣閣下へ宛てた抗議書。「九人もの人を殺した坂下鶴吉は、獄中でキリスト教に改宗し、すっかり心を入れ替えて処刑されたそうです。彼は天国へ行ったかもしれません。それに対して被害者たちは、地獄の苦しみで死んでいったのだから、地獄へ落ちたのでしょう。殺した者が天国へ、殺された人が地獄へ。これで良いのでしょうか?」
もしも、坂下鶴吉の欣々然たる最期が、――国家の刑罰に対してなんの恐怖をも感じない態度が、彼の悪人としての根性から自発的に出たものならば、私はなんとも申しません。九人の人間を殺しながら欣々然として絞首台上に立ち得るような恐ろしい人間に姉夫婦が殺されたことを、不幸中の不幸と諦めるほかはありません。が、坂下鶴吉のかかる態度は彼の自発的のものではなくして、彼が在監中キリスト教に改宗した結果なのであります。私は、今ここでキリスト教そのものに対してなんの非難をするのではありません。キリスト教が罪人の教化に努めようとすることは、当然なことかも知れませんが、キリスト教の感化が、本当に効果を示して坂下鶴吉の場合の如く、絞首台に上ることが天国へ行く梯子段にでも上るようになっては、それで刑罰の目的が達せられるでしょうか。世の中に於て、多くの人間を殺し、多くの婦女を辱(はずか)しめた悪人が、監獄に入ると、キリスト教の感化を受け、死の苦悶を少しも感ぜず、天国へでも行く心持で、易々と死んで行っては、刑罰の効果は何処にあるのです。キリスト教にとっては、如何にも本懐の至りかも知れませんが、その男に依って、殺され辱しめられた多くの男女、もしくは私の如き遺族の無念は何処で晴らされるのです。

人間の罪とは、国家の刑罰とは、贖罪とは、そして悪とは何か深く考えさせられるものであります。

幼児虐待ごみ箱閉じ込め窒息死事件の菅野美広被告(35)は懲役11年、模範囚なら8・9年ではたして反省するのでしょうか?殺人事件の時効が無くなる事は当然と思いますが、国家の刑罰について考えさせられるものであります。

凶悪な犯罪者が許されるのは無限に近い贖罪行為が積み重ねられて初めて可能になるもので、国家による刑罰、法による死刑は贖罪とはならないであろう。(だからといって死刑制度は不用ではない)

死刑制度を反対する人達がいるが、その理由のなかに、「死刑囚の何割かは高徳を積んだ修行僧の如く人間に変化する、死刑を執行する刑務官が刑の執行にとても耐えられなくなることもある、そのような人間を国家がなぜ殺さなければいけないのか?」というものだ。一見理屈があるようにも見えるが、死刑という現実があってこそ起き得る懺悔や後悔による変化であり、「死刑廃止を唱える人達」は犠牲者の家族の心情、被害者の心情を考えない「偽善者」にすぎない。

日本では読みかえられた善悪二元論 p71
日本の仏教において善悪の問題はどのように考えられてきたのか。それが次の問題である。

インドの仏教で「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」とは、文字どおりに解釈すると、「すべての人間には仏性があり、仏になりうる種が宿っている」という考え方である。ここにおいては、すべての人間は完全に平等であり、異端的な存在として排除される人間は一人もいない。

この立場からすると、仏教は、キリスト教的善悪二元論を超えて、善悪を超える仏性一元論であるということができるかもしれない。

この「一切衆生悉有仏性」の考え方は、大乗仏教の最重要の経典とされる大乗の『涅槃経(ねはんきょう)』で説かれている。
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ただ日本の仏教の歴史のなかでそのことを例外的に正面から真剣に考えたのが、親鸞だったのではないかと私は思う。彼こそは善悪の問題を宗教のレベルでとことんつきつめて考えた人間であったと思う。つまり一闡提(いっせんだい:仏法を誹謗する人間・異教徒)のような悪人でも救われるのかどうかというこ
とを、本気で考え続げたのが親鸞であった。

そしてこのテーマについて、一般には親鸞の『歎異抄』のなかの悪人正機説が取りあげられる。

特に明治以後そのように考えられるよらになったが、私はかならずしもそうは思わない。親鸞の悪人成仏論を『歎異抄』の世界だけで考えるのはきわめて不十分だと思うからだ。

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親鸞はその『教行信証』のなかで、父を殺して王位についた阿闍世(あじゃせ)王のような悪人でも阿弥陀仏によって救われることができるのかどうか、という問いを発している。ところが彼はそこで、そのような悪人が無条件に成仏できるとは言っていない。なぜなら後から述べるように、阿闍世王のような父殺しの罪を犯した人間が救われるには、善き師につくことと繊悔することが必要だと言っているからである。

つまり、悪を犯した人間でも救われるのかどうかということは、親鸞にとっては命をかげた問いかげであった。そう簡単に、悪人こそ救われるのだ、とは言っていないのである。

しかし、こういう問いを発した親鸞は日本の仏教史のうえではむしろ例外であったと思う。日本の仏教は全体の流れから言えぼ、善悪の問題について無頓着であったからだ。それは一つには、中国経由の仏教の影響もあっただろう。仏教では、中国に伝わった段階で、「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじようぶつ)」ということがいわれるようになる。

仏になるのは人間だげではなくて、草も木もすべてのものが仏になるのだという考え方である。これは、最近のエコロジー運動においてよく利用される言葉だが、ここに至ると、善悪の問題はほとんど消えてし
まう。

一闡提を排除するとかしないとか、仏法を誹諺する人間はどうだとかこうだとかいう議論は、ここではもう意味がなくなってしまう。特に日本にそのような思想が入ってきたときに、そういうことになってしまったのではないかと思う。

しかし、『歎異抄』は、成立から数世紀の間ほとんど知られて来なかった。しかし江戸時代中期になって、荻生徂徠や本居宣長などの影響により再発見された。

『歎異抄』は、日本古来の考え方やその後の日本仏教の考え方「諸行無常」「因果応報の感覚」とは異質な考え方である。行為における個人の能力や責任と、そういう個人的なものを超える大きな力のはたらきが同時に意識されている。人間の行為を善と悪の二方向に分げることを困難にする原因がそこにあるがゆえに、表に出てこなかったと考えられる。

キリスト教の終末論と仏教の末法思想

神を信じるものは生き残ることができ、あるいは終末のときにあっても天国に行って永遠に生き続げることができる。そうでないものは悲劇的な死に直面し、あるいは地獄に堕ちる。キリスト教の善悪二元論からすれば、ノアの箱舟のような思想が出てくるのは当然のことである。

仏教では、末法に滅びのときにはすべての人間が滅びると考える。生き残る人間は一人もいない。無常とはそういうことである。一切のものに永遠性はないと考えるのであり、仏法を信じるものだげが生き残るという考え方はそこからは出てこない。

すべてのものが無常であるとする日本人の考え方は、すべてのものは滅びるという思想をもちだすことによって、人間的な善悪の問題を空無化してしまうというところに特色がある。

善悪についての考え方が日本人にまったくなかったわげではない。ただそれが、キリスト教杜会におげるように、個人の立場や責任において、あるいは杜会は善悪を選り分けたりコントロールする方向に動かなかった。
     

日本古来の神道という自然と共生する考え方がああり、仏教が「無常観」「浄土観」という思想が加わり、儒教からは、「五倫五常」(五倫:父子の親、君臣の義、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)(五常:仁・義・礼・智・信)自己修養の考え方か加えられた。キリスト教および近代西洋思想からは、自由・平等・博愛、それに加えて個人主義の考え方が今日の日本人の価値観を形成している。

私が尊敬する山本七平氏は日本人の思想を多元的価値観を認める世界のありようを「日本教」であると表現した。。さまざまのカミや神、仏や菩薩たちが、それぞれに自立性を保ちながら共存する世界である。

既存宗教から「日本教」の時代へ
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地球上では、いま、さまざまなところで、宗教間や民族間の対立・葛藤が原因となって紛争や戦争が起こっている。皮肉なことに宗教がそれ自体の力で、そういう紛争を解決することができない状況に追い込まれているのである。とすれぼ、もはや特定の宗教が、快刀乱麻を断つがごとくに問題を解決すると考えることの方がおかしい。この点からいっても、伝統的な宗教は確実に本質的な改変を迫られているのではないだろうか。

21世紀の宗教は、したがって教祖や教義をそなえる体系化されたものではなくなっていくのかもしれない。攻撃的な自已主張をする宗教は、すでに二十一世紀をみちびく宗教たりえなくなっているのではないかと私は思う。

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ただ、このような時代の大きな転換期において、多元的価値を共存させる日本の伝統的な宗教観や自然観が、あるいは一つの意味ある役割を果たすことにたるのではないだろうか。そのような可能性に私はいちるの望みを託したいと思っているのである。
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フランスを代表する文化人類学者クロード・レヴィ=ストロース氏が10月30日染織美術の研究者である妻のモニークさんと暮らす自宅で逝去。100歳だった。レヴィ=ストロース氏は、20世紀の思想家として最後の巨匠とも言われた人物で、ソシュール、ヤーコブソンなどの言語学から示唆をうけ、文化の構造分析の方法論を確立。構造主義の祖とされた。

1908年、ベルギーでユダヤ人家庭に生まれる。

幼い頃から植物や地質に興味を持ち、無秩序とされるものの背後に秩序を見出すことに関心があった。パリ大学で法学と哲学を学ぷが、文化人類学に転じ、35年からブラジルのサンパウロ大学で教鞭を執りながら現地民を調査した。ナチスの迫害を避け、アメリカで研究を続けた時期もある。昨年11月には、100歳を迎え、サルコジ大統領が訪間して敬意を表した。

フランスでは60年代に構造主義が実存主義に代わって影響力を持つようになるが、日本では、構造主義を反人間主義と見なす誤解もありました。新左翼の影響が低下した70年代になり構造主義やエコロジーが受け入れられ、マルクス主義にふれすぎた針を戻した役割があった。

代表作はフランスで1955年に出版され、大反響を呼んだ『悲しき熱帯』と『野生の思考』である。『悲しき熱帯』は1930年代のブラジル奥地で現地民を研究した体験(現地人の性感研究に没頭したとの風説あり)や自叙伝的な要素も含む作品である。

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【週刊新潮09.11.19:墓碑銘より】
『悲しき熱帯』で喝えた西欧中心の見方への異議をふまえ、西欧と未開の人達の思考の違いは発展段階の差ではなく、そもそも関心が違うために別の思考であり、優劣はつけられない。歴史の進歩を一直線にとらえるのは傲慢と批判したのだ。「人間が主体的に行動して歴史を作っていると考える実存主義へのアンチテーゼでした。自分では主体的に判断や行動をしていると信じているが、社会の深層には当事者も自覚していない、共通する不変で無意識の構造があるととらえたのです。

ごく簡単に言えば構造主義とはこのような考え方です」
と、中央大学名誉教授の木田元氏は言う。
例えば婚姻の研究をふまえて、つきつめれば親族は女性を交換するために存在するなど、感情や論理以前に先立つ構造が社会に共通してあると述べたのだ、「実存主義やマルクス主義は共感をおぼえやすい。で
も変革のかけ声だけのようにも聞こえる。60年安保の余波の時代でしたから構造主義の考え方には思わぬ形で足をすくわれたような新鮮さを感じた」(木田氏)

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『野生の思考』は1962年に発表され最終章でサルトルを批判した部分が「構造主義」の宣言として注目された。著者の主なメッセージは、野生の思考を通じて人類の共有する普遍的な論理を明らかにし、西欧近代の自民族中心主義を批判することである。ただ人類学界では、彼の親族構造の研究についての評価は高いが、南米の原住民の神話に数学的構造を見出す分析は、反証可能性のない物語にすぎないという批判が多い。しかし著者は『神話論理』第1巻の「序曲」で、さりげなく予防線を張っている
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301033.html
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人類学の究極の目的が、思考を対象化し、思考と思考の仕組のよりよい理解に貢献することであるならば、本書において南アメリカの先住民の思考法の輪郭が私の思考の操作のもとで見えてくるのと、私の思考法の輪郭が南アメリカの先住民の思考操作のもとで見えてくるのは、結局は同じことである。(訳書p.22)
『神話論理』最終巻の「フィナーレ」(未訳)
神話の根底にある基本的な二項対立は、ハムレットによって正確に述べられたものだが、彼はそれを楽観的すぎる形で表現した。人は存在するか否かを選ぶことはできないのだ。歴史の本質である精神的な努力によって、人は自明の矛盾した真理を認識し、その根源的な矛盾を解決しようとして限りなく二項対立を作り出してきたが、その矛盾は決して解決できない。

矛盾の一方には、存在という事実がある。日常生活や精神的・感情的な生活、政治的な選択や社会的・自然的な世界、実用的な努力や科学的探究に理由や意味を与えられるのが人だけであることを、彼は深いレベルで知っている。他方には無という事実があり、それは存在の認識と不可分である。人は未来もずっとここにいることはできず、この惑星の表面から消えることは避けられないが、その惑星も死ぬ運命にある。人の労働や悲しみや喜びや希望など、はかない現象の記憶を保持する意識も生き残りえず、やがて人類のわずかな証拠も地球の表面から消されるだろう――まるでそれは最初から存在しなかったかのように。
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クロード・レヴィ=ストロース氏といえば、我々新人類世代にとって、1983年浅田彰の『構造と力』を読み、構造主義、ポスト構造主義、そして実存主義批判????なんじゃらほいと思いつつも、ニューアカデミズムの洗礼を受けた。

浅田はフラソスの構造主義、ポスト構造主義の思想の流れの系列をかなりの腕力で整理して伝えた事は評価したい。そして、構造主義までのフラソス思想は、構造が存在すると考えていたが、デリダやドゥルーズ、ガタリらのポスト構造主義では、構造というのはやや動的な「力」あるいはエネルギーという要素を切り離せないと考えていると指摘している。

浅田が構造主義を駄目な二元論といって批判するのは、構造主義が持っている実体(あるいは深層)-表層、のような考えかたである。これは言うたれば、サルトル型の実存主義がとっていた、実存-外見的現実、といった対立の名残りをレヴィ=ストロースらの構造主義も持っていたという批判である。

「構造主義では現実に刻々と変化する出来事にうまく対応できないと批判され、変化や人間の動きをとらえようとしたのがポスト構造主義。構造主義が時代遅れになった訳ではない。

近代科学に強い幻想を抱いていたレヴィ=ストロースであっても、構造を実体とし、実体とらえるのではなく、関係として抑えるという姿勢を基本としていたのであって(そうでなければ構造主義はサルトル的な実存主義と同じことになってしまう)、浅田の言うポスト構造主義以前の構造主義は、まだ不十分だった構造主義と呼び、ポスト構造主義をちゃんとした構造主義と呼べぱいいのではないか、といった点である。つまり、ポスト構造主義という言いかたは、不正確なものではないかということだ。

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本棚にも眠っている「はじめての構造主義」橋爪大三郎(1986)でも結局理解しきらずに、社会人となりましたが、私は、アマゾンの原住民と対極にある資本主義の総本山、株式マーケットで、構造主義を実感体験しました。

投資家が主体的に行動して判断や行動をしていると信じているが、マーケットの深層には当事者も自覚していない、共通する不変で無意識の構造がある。マーケットを観察しチャート特に一目均衡表やエリオット波動の動きを追うと、そこにはマーケット参加者の無意識な力が働いているのは明確に見える。『ひょっとすると、一目均衡表の転換線・基準線・スパン1・2そして「雲」、エリオット波動の第1波2波3波4波5波といった構造はこれは構造主義かもしらん!!!』と、一人勝手に思い込むのでした。

まず構造は一挙に、一つの要素が他のすべての要素との関係において初めて相互依存的に決定されるものとして与えられる。このような構造主義の構造理解においては、構造を構成する要素は、原則として、構造を離れた独立性を持たない。

行動経済学やマーケットを理解するうえで、構造主義的思考は非常にわかりやすい論理である。

金融工学にもこの構造主義的数学手法が応用された。多様なバリエーションを持つ現象において、それぞれのバリエーションが、その(必ずしも顕在的に観察されない、事後的に変換群から理論的に抽出された)構成要素の間の組み換えによって生成されたものだと見なしうるとき、その顕在的な一連の変換を規定する潜在的な構造に重心をおいて分析するような計算をする手法も構造主義の影響である。

取り留めの無い話となってしまいましたが、100歳の天寿を全うした偉大なる哲学者クロード・レヴィ=ストロース氏に黙祷を捧げるものである。
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ほーら不思議でしょう、貴方が見ている世界がシュールレアリズムのダリが画いた絵画のようにぐにゃぐにゃに見えませんか?このビデオを観て、脳って単純に騙されやすい構造になっていることに驚きあきれかえりませんか?

私のオフィスに、周囲に愛する人がいないのか、よほど人に騙されたのか、自分の猜疑心を人格の表層に出してしまう方がいます。社会生活を営むには信頼関係の構築が必要不可欠で、信頼関係が構築できなければ、快適な社会生活は営めません。「世の中を疑う作業を通じて真実を求める作業と結果」=「哲学」とは己の内面においてのみすべき作業です。実社会で常にすべてのことを疑い続けている事を公言しては社会生活が営みません。

私も80年代、大学生時代ニューアカデミズムの洗礼を受け、哲学にかぶれで、人生を悩み心の内面の迷いを人格の表層に出していた時期も有りました。内面の悩みを表層に出す行為は、パンツをはかずに人前に出るようなもので、今思えば人としての修行が足らない青二才もいいとこでした。

人生不惑の年を越えると、確かに大概の事に迷いはありません。しかし、このビデオを観ると改めて『コギト・エルゴ・スム 「我思う、ゆえに我あり」の哲学の第一原理』の大切さをを実感します。

私は世の中を疑う、そして考え続ける。考えて考える。マスコミ報道はまず出所をチェックする。情報の出たタイミングを疑い考える。新聞は行間を読む。その情報で誰が得をして誰が損をするのかも配慮する。過去や歴史において類似の事象を検証する。雑誌や本は出版社、著者の来歴からチェックする。考えて考えて我に近いものを我は真実に近いものとして我の世界の一部として加えています。

ネット・ブログの書き込みの80%~90%はゴミ(私のブログも愚者にとってはゴミ)。でも稀にこの私のブログのように玉はある(少なくとも私にとっては珠玉の情報の蓄積です)。玉を探し出す目は日々修練しなくてはなりません、「我思わなければ、我無し」迷い疑い続けることをしなくなってしまっては、進歩も無いどころか我の存在価値すらも無いのだ、プログレッシブな日々、毎日一歩づつ前進しつづけるのだ、日々勉強、人生は楽しい!
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この2枚のピサの斜塔の画像は、実際にはまったく同じものだが、異なるアングルから撮影されたかのように、右の塔の方が傾きが大きい印象を受ける。

この現象が起こるのは、視覚系がこの2つの画像を、1つの風景の一部であるかのように処理するためだ。通常は、2つの隣り合った塔が同じ角度で建っている場合、遠近法により、塔の輪郭線は視界の中心部にある一点に収束するようなかたちになるはずだ。視覚系はこのことを計算に入れている。そのため、輪郭が平行関係にある2つの塔の画像を突きつけられると、視覚系は2つの塔が上に行くに従って離れているはずだと思い込む。そのためこの錯視が生まれるのだ。

仮面の裏側が見える人・見えない人:「ホロウマスク錯視」研究
http://wiredvision.jp/news/200904/2009040923.html
お面の裏側に存在する凹んだ顔を、普通の凸面の顔として知覚する、「ホロウマスク錯視」と呼ばれる錯視がある[Hollow face錯視、凹面顔錯視とも呼ばれる]。

下の動画でこの錯視を経験することができるが、それが目の錯覚だと分かっていても、凹面の顔を凹面と見ることができず、脳が凹面を凸面ととらえてしまう。


この錯視は、人間の脳が視覚世界を解釈する際の戦略によって起こる。それは、実際に目に見えるもの(ボトムアップ処理と呼ばれる情報処理法)と、過去の経験に基づいて見えると予想されるもの(トップダウン処理)を組み合わせて判断するという戦略だ。

「トップダウン処理では、ストック写真のモデルのように記憶が蓄積されている」。『NeuroImage』誌に掲載された今回紹介する論文の執筆者の1人で、ドイツのハノーバー医科大学に所属するDanai Dima氏は説明する。「脳内のモデルでは、すべて顔が凸面になっているため、どんな顔を見ても、当然凸面のはずだと考えてしまう」

この予想の影響力が強いせいで、顔が反転していることを示す視覚的な手がかり、たとえば影や奥行きといった情報は無視されてしまうのだ。

この錯視は、顔を使った場合にはよく成功するが、他の物体ではそうでもなく、顔を逆さにしただけでも効果が下がる。これはおそらく、人間が顔に対して持っている特別な関係性によるものと考えられる。神経科学者の多くは、人間の脳には顔を専門に処理する領域があると考えており、そのため、脳の損傷の仕方によっては、視覚や他の記憶には何の影響もないのに、顔の認識だけができないということも起こり得るという。

興味深いことに、統合失調症の患者はこの錯視を起こさない。彼らは凹んだ顔を凹んだ顔として知覚する。米国では1000人中7人ほどが患っている統合失調症は、幻覚や妄想、計画能力の低下などを特徴とする疾患だ。このような現実からの解離は、ボトムアップ処理とトップダウン処理のバランスが取れていないことが原因ではないかと、一部の心理学者は考えている。この仮説をテストするべく、ホロウマスク錯視を使った研究が行なわれた。

Dima氏と、ロンドン大学ユニバーシティー・カレッジ(UCL)のJonathan Roiser氏は、統合失調症患者がなぜこの錯視にだまされないのか突き止めようと考えた。そこで、統合失調症患者13人と、比較対照群として健常者16人を被験者に、fMRI(脳スキャン)を使って脳の活動を測定し、凹面と凸面の顔の三次元画像を見せた。結果は予想通りで、統合失調症患者は凹面の顔を凹面と知覚したのに対し、健常者は誰も知覚できなかった。

Dima氏とRoiser氏は、動的因果性モデリング(DCM)という比較的新しい技術を用いてfMRIのデータを分析した。この技術によって、被験者がタスクを実行中に、脳の領域間での結びつきに違いがあったことが突き止められた。健常者が凹面の顔を見ているときには、トップダウン処理に関与する前頭頭頂ネットワークと、目から情報を受け取る脳の視覚野との間で結びつきが強くなった。一方、統合失調症患者にはそのような結びつきの強化はみられなかった。

錯視において健常者の脳は、この結びつきを強めることで自らの予想する視覚(通常の凸面の顔)が優勢になるように処理し、それによって、実際には見えているが自らの想定には存在しない視覚情報を圧倒するのだと、Dima氏は考えている。一方、統合失調症患者の場合は、このような脳の経路をうまく調整できず、その結果、凹面の顔を現実として受け入れている可能性があるという。

凹面の顔が凹面として見えるのは、統合失調症患者だけではない。酒に酔っている人や、ドラッグでハイになっている人も、この錯視には引っかからない。この場合もやはり、脳が見ているものと、見えると予想されるものとがうまく結びつかない状態が、アルコールやドラッグによって引き起こされている可能性がある。

[以下は、ホロウマスク錯視の一例とされる「首振りドラゴン」動画。

Paper dragon illusion

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先日wiredvisionで見かけた記事ですが、驚きませんか?
最後の種明かしの構造の写真を下に貼り付けて観察しても、私の脳は騙され、ドラゴンの視線が追いかけてきているように私の脳では情報処理されました。WIRDの記事によれば、私は統合失調症ではないようなのでホッとしました。(笑)

人間であるならば錯覚を、錯覚として共通の認識を持つようです。このことは、人間が神の分身といった霊的な存在であるよりも、脳という中央演算装置と記憶媒体を備えたたんぱく質のパーツで出来ている機械にすぎないことを示唆しているのかもしれません。

サルトルやハイデガー、メルロ=ポンティの師匠に当たるドイツの哲学者フッサールの残した言葉
認識は、それがどのように形成されていようと、一個の心的体験であり、したがって認識する主観の認識である。しかも認識には認識される客観が対立しているのである。ではいったいどのようにして認識は認識された客観と認識自身との一致を確かめうるのであろうか?認識はどのようにして自已を超えて、その客観に確実に的中しうるのであろうか?(『現象学の理念』講義)
「世界は客観的に存在する」という前提で、それはどう「意識」(人間の脳の情報処理)するかを考える時、これは脳科学や哲学的問題に限らないのではないかと、私は考えるのです。

金本位制や貨幣価値、株式の時価総額なども同じく錯覚から成り立っている気がするのです。

例えば、株式の時価総額ですが、これも実は「ホロウマスク錯視」のと同じですね。株式会社の発行株数の何千分の1が毎日取引された値段によって残りの大部分の価値があるものだと錯覚しているに過ぎないのです。発行株数1億株で1000円の株の時価総額は1000億円ですが、実際に1日に市場売買されているのは20~30万株ですから0.2~0.3%で残りの時価総額があると錯覚しているに過ぎないとも考えられます。
実際に5000万株を市場で売ろうとすると、1000円ではなくストップ安で値がつかずそれこそ100円以下にしかならないかもしれなくなるのです。

ジンバブエの状況を見れば紙幣は紙切れにすぎないことをつくづく考えさせられますが、紙幣も単に紙切れに福沢諭吉の肖像画を印刷して、壱万円と書き込んだ紙切れかと思いますが、私は有難くてなかなか手放したくない紙切れです。壱万円札が諭吉の肖像がで錯覚だと言う方がもしいらっしゃるなら喜んで諭吉の肖像画を引き取りに出向きますのでご一報下さい。※偽札は逮捕されますので、論外です。

株券や債権紙幣がどんどん電子化されていますが、株式や債券通貨の価値・富というものは、株券や債権紙幣に価値があるのではなく、幻想を共有できるシステムそのものではないかと考えます。

昨今の金融危機で市場価値もけして万能ではないとシステムそのものを否定し、「蟹工船」ブームなど共産主義復古を主張する短絡的な意見がみうけられますが、共産主義復古を主張する短絡的な意見には賛成しかねます。共同幻想される富の尺度を測るとき昔マルクスは労働価値を基準に考察しましたが、マルクスの時代には無かったロボットや農業、工業機械発達すれば労働価値で富の尺度では測ることはできません。複雑な現代社会においては、共産主義が復活することは不可能ではないでしょうか?それでも共産主義に魅入られるという人達は、チャップリンのお面のように単に錯覚しているだけなのかもしれません。

脳という中央演算装置を持った、たんぱく質で出来た機械である人間にとって、錯覚とは健常者であれば共通されるものであると積極的に肯定する考え方を社会に啓蒙するのも一案です。錯覚を受け入れられない人は統合失調症の人間であると考えるのは、少々極論過ぎますが、皆で共同幻想を共同幻想として受け入れる新たなシステムを模索すべき時に入ったような気がします。

例えばマジックショーを見に行ったとします、皆マジシャンの種明かしは皆が見たいのは確かです、しかし種明かしを知ってしまえば興ざめしてしまい、見に行く価値がなくなってしまいます。種を知らないからこそマジックショーを見に行く価値があるのであって、マジシャン自ら種明かしをしては、もはや誰もマジックショーは見に行かなくなってしまいます。マジックショーを成り立たせるには、密かに種を作るマジシャンと錯覚を錯覚として楽しむ観客によって成り立っているようなものです。

錯覚は錯覚かもしれませんが、皆で共通にこれは錯覚にすぎないが、皆が錯覚を共有しているとして錯覚を受け入れる事が大切ではなかろうか?現代文明を維持しようとするならば、現代文明と言う夢を維持する為に、我々は、映画マトリックスのように胡蝶の夢の中の住人に過ぎないという認識を持つことこそ、今は大切な時なのかもしれません。


私と意見が相違されるかたも多いと思いますが、マトリックスに置き換え考えた時、キアヌ・リーブス演じるところのネオにとって、現実に目覚めたことが本当に幸せだったのか?私には疑問です。もし、ネオが生命維持装置の夢の中で天寿を全うできたなら、それはそれでもしかしたらネオにとって幸せだったのかもしれないと私は考えてしまいます。覚醒と引き換えにネオは現代文明を失い過酷な現実に直面し、元の文明生活に戻ることなく死んでいくことになっていくと思いますが、果たして本当に幸せだったのだろうか?覚醒した一握りの人間が、己のエゴの為に、生命維持装置の中で生きる人間の幸せを一方的に破壊することが許されるのか?考えさせられます。
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私はよく、証券の価値、貨幣の意味することを論ずる場合、壱万円札=福沢諭吉の肖像画の例えを使います。日経新聞2008年5月30日29面で東京大学の岩井教授が、言語と法と貨幣を平易な例えを示してくれました。貨幣に言語と法を関連づけさせ、人間が社会との関わり無くして生きていけない例え話として、なるほどと思いました。今後この例えは私の思考回路の中に埋め込み応用して使って行きたいと思います。
日経新聞2008年5月30日29面
やさしい経済学 21世紀と文明 言語・法・貨幣と「人文科学」
1.社会的な実体
東京大学教授 岩井克人
近年、自然科学や生命科学の発展はめざましい。その中で、人文科学は科学ではないという人が増えている。学問として消え去るべきだという人さえいる。
だが、私はそうは思わない。ある日、考え事をしながら歩いていると、道の上の小石につまずき、転んでしまったとしよう。擦りむいた手からは血がにじむ。
しかし、もし道にあったものが紙切れであったら、私は転ばなかっただろ、踏みつけたものも気がつかずに歩き続けたに違いない。
ところで、その紙切れの上に福沢諭吉の肖像画とともに「壱万円」という文字が印刷されていたならば・私はハッと立ち止まったはずだ。あたりを見回し、その紙切れをそっとポケットに入れようとしたかもしれない。そのとき運悪く強い風が吹いて、その紙切れが大きな家の庭の中に飛んでいってしまったとしよ、庭の周りには、簡単に越えられる柵しかない。それでも、私は庭の中に入るのをためらうだろう。
だが、つい出来心から庭に忍び込んでしまったとしよう。さらに運悪く、その家の人が庭にいる私の姿を見とがめて、「ドロボー」と叫んだとしよう。その声に驚いて私は一目散で逃げ出すだろう。あまりに慌てふためいて転んでしまうかもしれない。
この話は、何を教えてくれるのだろうか?
私がつまずいた小石は、物理的な実体である。転んだ私の身体や擦り傷の血も物理的実体だが、ともに生命現象に関与しているという意味で生物的な実体(生命物質)である。
しかし、この世には物理的実体とも生物的実体とも異なる「社会的な実体」が存在している。それは私の歩みを止めた1万円札であり・私の侵人を防いだ法的所有権であり、私を追い出した泥棒という言葉である。すなわち、貨幣であり、法であり、言語である。
人文科学とは「人間の科学」という意味である。その中核をなす経済学や法学、言語学
や政治学や歴史学は、貨幣や法や書語といった杜会的実体を対象にした学問である。これから私は、人文科学が人間の科学としての存在意義をもっているのは、まさに人間が貨幣や法や言語を媒介として初めて「人間」となる社会的生物であるからだと論じてみたい。

いわい・かつひと47年生まれ。マサチューセッツエ科大大学院修了。専門は経済理論。
人間は貨幣や法や言語を媒介として初めて「人間」となる社会的生物である

6月4日27面
なぜ私はたんなる空気の振動でしかない「ドロボー」という声が泥棒という意味であると思い、低い柵でしか囲われていない庭の使用はその所有者だけの権利だと思い、1枚の紙切れにすぎない1万円札に1万円の価値があると思っているのだろうか?それは他のすべての人間が、その声が泥棒を意味すると思っており、その庭の使用は所有者だけの権利だと思っており、その紙に1万円の価値があると思っているからである。それだけではない。他のすべての人間がそう思っているのも、それぞれ他のすべての人間が、その声が泥棒を意味すると思っており、その庭の使用は所有者だけの権利だと思ってっており、その紙に1万円の価値があると思っているからである。

これは「自己循環論法」である。言語とは会話すべての人問が言語として使うから言語なのである。法とはすべての人間が法として従うから法なのである。貨幣とはすべての人間が貨幣として受け取るから貨幣なのである。言語も法も貨幣も・まさにこのような自己循環論法の産物であるからこそ、物理的性質にも遺伝子情報にも還元しえない意味や権利や価値を持ちうるのである。

もちろん、多くの言葉は音の響きや文字の形と結びっいた意味を持ち、多くの法律は人間が当然従うべき道徳義務に基づき、多くの貨幣は商品としても価値がある。だが、これらの要因だけでは、言語と法と貨幣とが歴史的に多様な発達をとげ・杜会ごとに大きく異なっていることを説明できない。

私は言語や法や貨幣のことを「杜会的実体」と呼んだ。それは人間から大きな反応を引き出すという意味で「実体的」である。だが・それはどういう意味で「社会的」なのだろうか?

第1に、言語も法も貨幣も、それを言語や法や貨幣として用いている杜会から切り離されてしまえば、言語でも法でも貨幣でもなくなってしまうからである。日本語と異なった:言語を話す集団ではドロボーと叫んでも誰も「振り向いてくれない。日本の法律が及ばない領域では高い柵を巡らせても誰かまわず庭を行き来するだろう。日本経済と取引関係のない人には1万円札は単なる紙切れにすぎない。言語も法も貨幣も、それぞれ特定の杜会の中でのみ意味をもち権利を与え価値となるという意味で、杜会的なのである。
そして、社会的であるということには更に深い第2の意味がある。
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