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タグ:歴史



久々に一気読みの本だった。建国以来この卑怯で破廉恥な韓民族のDNAは1000年どころか、2000年来不変だった。自国内の派閥争いを周辺諸国に広げたうえ、外国軍隊を自ら招き入れることを繰り返し、侵略されたと被害者面をするのが朝鮮人でる。

2013年3月1日、「三・一独立運動」の記念式典で、朴槿恵が「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、千年の歴史が流れても変わることはない」という発言を行った。

既に日本国民の一員となっていた石平氏には、この発言に衝撃を受け、改めて過去の歴史において、朝鮮人は果たして一方的な被害者であったのか疑問に思ったそうだ。実に丹念に研究して、膨大な資料や多くの研究家に当たり、幾つもの歴史上の論点を摘出して、本書にまとめた

7世紀初頭の高句麗・百済・新羅の三国統一戦争から、元寇、日清、日露戦争、そして朝鮮戦争まで幾度となく朝鮮半島は周辺諸国を巻き込み、トラブルの種を撒き散らかしてきた。事大主義、告げ口外交、繰り返す身内の勢力争い、残酷な処刑、そして壮大な裏切りの数々。太古の昔から、おなじことを繰り返すその救いがたき韓民族のDNAは今日でも不変ではなかろうか?1000年来のトラブルメーカー(加害者)であるというのが本書の結論である。

この本を読まずして、朝鮮の歴史や外交を論ずるなかれ、韓民族がいかなる民族で、その恥ずべき歴史を白日の下に曝した石平氏の傑作である。

今後、韓国がどうなろうと日本は一切関与せず、泣こうが喚こうが関わらないことが、日本の国益であると確認することができる本でした。
2013年3月、朴槿恵(パククネ)大統領の「(われわれは)千年不変の被害者」発言に疑問をもった人は多かったようです。著者もその一人で、3年をかけて朝鮮史の専門書を読破、「韓民族はその長い歴史において、たびたび外国からの侵略を受けてきたと主張しているが、それは一概に真実とはいえない。大半の場合、むしろ韓民族自身が、外国に嘆願するような形で、外からの侵略軍を半島内に招き入れてきた」との結論に達したのです。

 古代の三国統一戦争で唐に頼って百済と高句麗を滅ぼした新羅の行動。さらには高麗が日本侵略を元に提案し、そのお先棒を担いだ理由。有力者が日清露の間を揺れ動いたために日清・日露戦争が起きたこと。米中の若者に多大な流血を強いた朝鮮戦争のいずれも、「外国軍を半島内の勢力争いや内輪もめに巻き込んで、その力を利用する」悪癖の結果だと断じるのです。

 1500年の歴史の教訓は、半島の内紛に巻き込まれた外国はいつも多大な犠牲を払うということ。今日の北朝鮮の言動も「トラブルメーカー」の変わらぬ本質が表れたものと指摘、関係国に警鐘を鳴らします。

 よく誤解されますが、本書は日本の責任を全否定する内容ではありません。日韓の不幸な過去に起因する感情論に陥りがちな日本人に、「半島の歴史の実態は、一方は単なる加害者で、他方は単なる被害者であるという単純な図式で片づけられるものだったのか」という冷静な議論の材料を提供しているのです。(飛鳥新社・1389円+税)

 飛鳥新社出版部 工藤博海


韓民族こそ歴史の加害者である 目次

まえがき――6

第一章 侵略軍を半島に招き入れた 「三国統一戦争」――13

    「民族の不幸」と評される三国統一戦争――14
    高句麗と百済の「告げ口外交」とその結末――22
    高句麗侵略の先導役を買って出た百済――28
    復讐に燃える金春秋の執念と謀略――34
    招かれた唐王朝軍の百済侵略――43
    唐の侵略軍の先導役を務めた、高句麗の元最高権力者――48
    白村江の戦いで梯子を外された大和朝廷軍――57
    韓民族は単なる「侵略の被害者」だったのか――64

第二章 日本侵略の主役なった高麗王朝の生存術 ――71

   高麗は元寇の「単なる脇役」だったのか――72
   自ら進んでモンゴルの「忠僕」となった高麗王朝――80
   自国への蒙古軍出動を要請した高麗国王――88
   こうして蒙古軍と高麗軍は友軍となった――93
   日本遠征の時機がついに熟した――97
   対馬と壱岐で行われた虐殺と戦争犯罪――102
   高麗国王が日本征伐の再開を提案した理由――106
   高麗王朝と韓民族の祖先こそ、戦争の加害者であった――112

第三章 アジアの大迷惑だった 朝鮮王朝の「近代化」―――121

   朝鮮の「近代化」を遅らせたのは何か―――122
   清王朝の朝鮮干渉を招いた「壬午軍乱」―――131
   日清戦争の遠因がこうして作られた―――136
   外国勢力の力を惜りた甲申政変乱顛末―――143
   日清を戦争に巻き込んで「漁夫の利」を得る朝鮮―――149
   ロシア大使館から生まれた「大韓帝国」―――157
   一進会が押し進めた日韓併合への道―――165

第四章 朝鮮戦争最大の「A級戦犯」は李承晩だった―――173

   朝鮮戦争とは何だったのか―――174
   「民族分断」の原因を作ったのは誰なのか―――180
   最初から戦争するつもりだった金日成と李承晩―――190
   朝鮮戦争はこうして始まった―――198
   三ヵ月で終わったはずの朝鮮戦争―――205
   中国が参戦した理由―――210
   「三十八度線突破」の首謀者は李承晩たった―――215


あとがき―――226

私が、読んだ韓国史の本のほとんどは、李氏朝鮮に関する本ばかりで、いかに李朝500年が堕落していたというものが多く、新羅統一王朝ができる三国時代以前は、ここまで堕落した民族だと描かれていなかった。ネットでもそれほど詳細なものは少なかった。

崔 基鎬(チェケイホ)/著
などでも、
韓国堕落の2000年史 p22-23
当時の韓国は三つの国に分かれていたが、その時代までは、国際的に高貴な「紳士の国」として知られていた。「紳士」は日本では明治以後に英語の「ジェントルマン」の訳語として定着するようになったが、もっと古い言葉である。「紳」は貴人が衣冠束帯の時に用いる大帯であって、ここに笏をぱさむことから、高い人格と教養をもった男子を意味した。
 三国時代以前の韓国は、中国古代の地理書である『山海経』や、中国の前漢の文学者である東方朔(生没不明)による書物や、『三国志魏志東夷伝』などに現われるが、「仁と義」、「礼、勇、寛大」、「博愛と禁欲的な廉潔」、「自尊、武勇、快活」さに溢れた国として描かれている。
と、韓国人であるから・・・李朝には厳しくても、三国時代は美化して描かれていた。

しかし、わずか1ページ強だが、新羅王朝が唐と組んで高句麗と百済を滅ぼしたのが、大きな禍根を残したと書いてあって、わたしの記憶に大きく残るページがある。
P24-26
なぜ、新羅による統一が問題なのか?
 だが、これほど高い徳と輝かしい文化を誇った朝鮮半島の三国時代は、一つの予期せざる大事件によって終止符を打った。新羅による朝鮮半島の統一である。
 同じ民族によって統一がなっだのだから、一見問題ないように見えるかもしれないが、新羅の場合は事情が違う。
 新羅による統一は、外勢である唐と結託して、同胞の国であり、当時、アジアの強国であった高句麗と、世界の最高級の文化と芸術の国であった百済を不意討ちすることによって滅亡させたものだった(百済が六六〇年、高句麗が六六八年)。民族反逆の末に、自らを唐の属国としてしまった。ここに韓国人の意識構造に、異常を招く事態となった。
 新羅は進んで唐の属国となることによって、卑怯い利己主義、機会主義、事大主義を蔓延らせ、韓民族を転落させたのだった。これは朝鮮半島に禍根を永久に残すことになった大事件であるが、今日の表現を用いてみれば、″無頼漢(ゴロツキ連中)"が他民族の勢いを借りて、自分たちの民族国家を打倒したのだった。
以上により、新羅による統一王朝の出現がいかに朝鮮にとって不幸な出来事か本書を読むまえから、私も知っていた。だが、本書を読むと、新羅統一前から半島のDNAには、事大主義・告げ口外交・裏切・売国・卑怯が刻まれていることがわかる。

第一章 侵略軍を半島に招き入れた 「三国統一戦争」

石平氏は、韓国人の書籍を引用し、古代史を解説する。三国時代から高句麗・百済が南北朝~隋王朝に告げ口外交を繰り返し、三国時代から紳士の国などではなかった。それどころか、歴史上最初の半島の国家衛氏朝鮮が、紀元前2世紀漢民族の衛満が漢より逃げ出して成立した亡命政権であった。半島最初の国家がシナ人ということを打ち消すために、漢民族はありもしない檀君神話を捏造した。

衛氏朝鮮を滅ぼしたのは漢の武帝である。その後半島全部を朝鮮四郡として統治した。漢帝国が衰退すると、紀元前一世紀後半、半島北部に朱蒙という英雄が現れ高句麗を建国し、南部にも百済もほぼ同時期に建国された。任那のことは触れていないが、紀元三世紀に新羅の前身斯蘆と言う国ができてそれが新羅へと発展し、三国鼎立時代に突入する。

この三国は国の存亡をかけ、数百年にわたり合従連衡と軍事衝突を繰り返した。中国は漢崩壊後統一王朝が出現せず、南北に中心の国ができては潰れる南北朝時代であった。隋が誕生するまで繰り返していた。

新羅がはじめて告げ口外交や、シナに対する事大主義で統一国家を成立させたのではない。この三国鼎立こそ、事大主義、裏切り、告げ口外交、外国勢力の招き入れとその後の属国化という韓民族の悪弊の全てが詰まっているのである。もちろんそんな国民民族は、嘘つきで自分勝手で、信義に欠ける民族に成り果ててしまうのも納得できる。

p23-34
南北朝時代の中国では少数民族の作った北魏・北斉・北周などの王朝が交替えしつつ、大陸の北部を支配したので「北朝」と呼ばれる。そして大陸の南部では、宋、斉、梁、陳という四つの王朝が興亡を繰り返した。それらが「南朝」と呼ばれるのである。

 他方、同時期に朝鮮半島でしのぎを削っていたのは高句麗、百済、新羅の三国である。

生き残りを図るため、あるいは半島 内の覇権争いで優位に立つために、彼らは競って中国大陸の王朝に接近し、朝貢国となった。中国王朝からの支援を求めなり、中国王朝の権威を借りて自らの立場を強化するのが目的である。

たとえば高句麗は、中国大陸で北朝の北魏が南朝の宋、斉と対立する中で、南北両朝に朝貢する政策をとった。高句麗の国王は、北朝と南朝に毎年、使者を派遣して朝貢を繰り返し、両方の王朝から「都督・将軍」などの称号をもらった。対立する北朝と南朝を互いに牽制することによって、大陸からの侵略を未然に防ぐことが、その「両面外交」の狙いの一つであった。

 時には、中国王朝の権威を利用して、敵対する他の半島国家を圧迫するのも、高句麗の戦略となった。たとえば高句麗の文官明王(在位四九二年~五一九年)の治世、百済が新羅と同盟して高句麗に対抗していた中で、北魏の宣武帝(在位四九九年~五一五年)に朝貢の使者を派遣した文言明王は、次のように訴えた。

 「弊国は藩属となってから朝貢を欠かしたことは一度もありません。しかし今、真珠などを産出する耽羅(現在の済川島)は百済に併合され、黄金などを産出する扶余(中国東北部)は勿吉(のちの女真族)に逐われてしまいました。百済と勿吉のせいで、もはや真珠と黄金を捧げることができません」

 つまり高句麗の王は、使者を遣わして中国皇帝への「告げ口外交」を展開したわけだ。

皇帝様に真珠を捧げることができなくなったのは、百済が悪いからだと訴えた真意は当然「百済を何とかしてくれませんか」と、中国の皇帝に「直訴」することにあった。半島内の戦いに勝つために、中国皇帝の力を借りようとするこの発想は、異なる歴史を持つ日本人の目にはいかにも奇異に映るだろうが、本書を通読して頂ければ分かるように、実はそれこそ、現在にまで受け継がれている、朝鮮半島の人々の不変の習性なのである。

 しかし、高句麗の訴えにたいする北魏からの返事は、まことに絶妙なものであった。宣武帝は使者をこう諭したという。

 「杯に酒がないのは、注ぐべき酒のない徳利の恥だ。真珠と黄金が手に入らないのは、高句麗自身の恥ではないのか。高句麗の責任でもって百済や勿吉と交渉すべきだ。真珠や黄金の貢ぎは怠ってばならない。朕の考えを王に伝えるがよい」と。

要するに、官武帝は高句麗からの直訴をまったく受け付けず、逆に文沓明王の尻を叩いて朝貢を実行するよう、責め立てたのである。高句麗の「告げ口外交」は見事に失敗した。

 非常に興味深いことに、この同じ北魏王朝にたいして、実は百済も同じような「告げ口外交」を行っていた。
 北魏史上もっとも英明といわれる孝文帝(在位四七一年~四九九年)が即位した時、百済国王の蓋歯王(在位四五五年~四七五年)はさっそく慶賀の使節を遣わして、北魏への国書を呈上した。その中で蓋歯王は、何と、高句麗に対抗するための軍事的支援を孝文帝に求めたのである。

 国書は概略、次のようなことを述べている。

――弊国は建国以来、歴代中華王朝の教化を受けておりますが、高句麗が道を塞いでいるため、思うように朝貢ができません。しかも高句麗はますます高圧的になって弊国を圧迫し続けていますo。うか弊国を憐れんで下さい。軍を派遣して弊国を救って下さい。 

前述の高句麗からの直訴と同様、百済もまた、「満足に朝貢できない」ことの責任を、敵対する隣国に押し付けて、中国皇帝の心を動かそうとしている。かしそれにたいする孝文帝の返事もまた、冷淡そのものであった。

 孝文帝曰く、高句麗が百済の領土を侵犯していることは分かった。しかし高句麗はわが北魏にもちやんと朝貢しているから、北魏の命に背いたわけでもない。したがって北魏が(百済のために)高句麗を討伐するのは道理に反する。もし今度、高句麗が朕の命に従わないことがあれば、改めて討伐するのでも遅くはない。その時は、高句麗までの道案内を頼もう。

 孝文帝からのこの返事をもって、中国王朝の軍事力を借りて高句麗をやっつけようとする百済の目論みは、見事に失敗に終わったが、当時の北魏王朝の状況からすれば、それはむしろ当然の結果だ。

 その頃の中国大陸では、南朝と北朝が常に軍事的対立を続けており、いずれも、朝鮮半島の内紛に軍事介入する余裕はなかった。半島の国々が朝貢してくることは、中国皇帝にとって、自らの権威を高めるために役に立つ、嬉しいことではあるが、それだけのために、一朝貢国の口車に乗せられて、軍事支援までしてやるつもりはさらさらない。こういうわけで、北魏にたいする高句麗と百済の「告げ口外交」は、両方とも失敗に終わった。

 このような冷淡な対応をしたのは、もちろん、北魏に限ったことではない。中国の南北朝時代を通して、朝鮮半島内部の争いに軍事的介入を行った王朝は一つもなかった。南北対立に明け暮れる中国王朝からすれば、半島内部の争いは取るに足らない「子供の喧嘩」でしかない。介入しないのは当たり前のことだ。それよりもむしろ、自分かちの争いに中国王朝を巻き込もうとする半島の国々のやり方が、かなり異様なのである。

 しかし、半島の国々にとって幸か不幸か、「介入しない」中国王朝の基本姿勢に、大きな転機が訪れる時が来た。良く続いた中国大陸の南北朝時代が、とうとう終焉を迎えたのである。紀元五八一年、北朝の北周から政権を受け継いだ隋示建国されると、五八九年、隋は南朝の陳という国を滅ぼして、中国を再統一しか。西晋滅亡以来、三百年ぶりに、中国大陸に強大な統一帝国が誕生したのである。

 その結果、中国王朝の朝鮮半島にたいする関わり方が、劇的に変化した。韓国史学界の一部がそう考えているように、中国大陸で隋という統一帝国が成立したことが、まさに、朝鮮半島における「三国統一戦争」の始まりをもたらしたのである。

高句麗侵略の先導役を買って出た百済

 五八一年に隋王朝が成立すると、高句麗と百済はさっそく、隋にたいして朝貢を行い、隋の初代皇帝の文帝「在位五八」年上ハレ四年)からそれぞれ「帯方郡公」、「遼東郡公」として称号を授けられた。同時に、両国は、南朝の陳王朝にたいしても、今まで通りの朝貢をしばらく続けていた。しかし五八九年に隋示陳を滅ぼして中国を統一すると、半島の国々の両面外交はもはや通用しなくなった。ここにおいて、彼らは、中国大陸で久しぶりに出現した統一帝国にどう対処するのか、という、国の存亡にかかわる大問題に直面したのである。

 高句麗、百済、新羅の三国ほとりあえず、隋帝国に朝貢して恭順する姿勢を示した。しかしその中でもっとも大きな不安を抱えていたのは、やはり高句麗である。他の二国と違って、高句麗だけが隋帝国と国境を接しているために、大陸での統一帝国の出現はそれだけ、高句麗にとって大きな脅威となるのである。

 したがって高句麗は、隋王朝に朝貢を続けながらも、ひそかに軍備の増強や兵糧の蓄積を急いだ。そして五九八年、高句麗の嬰陽王(在位五九〇年~六ー八年)は一万の軍を率いて、高句麗との国境に隣接する隋王朝支配の遼西郡に突然、侵攻した。おそらくこれは、隋王朝の出方をうかがうための偵察的な意味合いの軍事行動であったが、それに激怒したのは隋の文帝である。隋王朝はさっそく嬰陽王に授けた称号をはく奪しか上で、三十万人の大軍を高句麗にさし向けた。

 隋の文帝がそこまで本気になって怒るとは、予想すらしていなかった高句麗側は、慌てて文帝に使節を遣わして、謝罪した。その国書の中で、嬰陽王が自らを「遼東の糞土臣」と貶めて、文帝のご機嫌をとったことは有名な話だが、高句麗征討に向かった隋王朝軍が長雨に遭って、疫病が流行したなどの要因も手伝って、隋王朝は結局、高句麗討伐を途中で取りやめた。

 高句麗はこれで一安心したが、その時、隋王朝の討伐軍をふたたび朝鮮半島に呼び戻そうと躍起になったのが、同じ半島国家の百済であった。隋軍がすでに撤退した五九八年九月、百済の威徳王(在位五五四年~五九八年)は、使者を隋王朝に派遣して、高句麗にたいする再度の討伐を嘆願した。

 その際、威徳王が隋の文帝にたいして、「陛下が高句麗に再征する時には、わが百済は道案内役を務めたい所存(軍導を為さんと請う)」と伝えたという(『隋害百済伝』による)。要するに百済国王は、同じ民族の高句麗にたいする隋王朝の再度の侵攻を嘆願しただけでなく、侵略軍の先導役を自ら買って出たのであった。日本人の感覚からすると、実に驚くべき無節操ぶりであるが、実はそれこそが、本書を通してこれから嫌というほど繰り返し見て頂くことになる、半島民族の一貫したやり方なのである。

 百済からの「侵略要請」にたいして、高句麗討伐を取りやめたばかりの文帝は、当然のごとく断った。それからしばらくの間、隋王朝と高句麗の間では平和が続いたが、六〇四年に文帝が死去して二代目皇帝の煬帝(在位六〇四年~六一八年)が即位すると、状況はまたもや変化した。

 野心家の煬帝は、皇帝に即位した後、隋王朝の創始者である父親の文帝を超えるような、何らかの「大業」を成し遂げたいと狙っていた。そこで、父親が挫折した高句麗討伐の再開が、魅力的な選択肢の一つとなった。高句麗を征服できれば、先代の文帝どころか、漢帝国の偉大なる皇帝である、武帝さえ超えることができるのだ。

漢武帝の作った「朝鮮四郡」が高句麗によって滅ぼされて以来、朝鮮半島への支配権の回復は歴代中華王朝の宿願で、それこそ中華皇帝としての自分の使命だと、先代が作り上げた統一帝国を受け継いだ煬帝は決め込んだようだ。高句麗再往の意志を固め、機会をうかかっていた。
 ちょうどそこで、新中華皇帝となった後継者の野心に付け込む形で、隋王朝軍による半島侵略を再度、懇願してきたのべやはり同じ半島国家の百済だったのである。
 
『隋書百済伝』の記述によると、煬帝の即位から三年目の六〇七年、百済は隋に使節を遣わして、高句麗再征を要請した。それにたいして、新皇帝の煬帝からは肯定的な返事を得ることができた。煬帝はきらに、高句麗の内部情勢を偵察しろという指示まで出した。

百済は当然、積極的に協力したが、それでも隋王朝は、すぐに動こうとはしなかった。隋王朝の鈍い動きに焦りを感じたのか、六一一年に百済はふたたび使節を隋に派遣して、高句麗出兵の具体的な期日を問い合わせてきた。そこでついに、やる気満々の煬帝は、百済に高句麗征伐の決行を伝えると同時に、そのための謀議を百済との間で行ったと、『隋書』は記している。

実はその時、もう一つの半島国家である新羅も動いた。高麗時代に編纂された、正史である『三国史記・新羅本紀』の記述によれば、六一一年に、新羅も隋に使者を遣わして、高句麗への出兵を要請したという。

 このようにして、半島国家の百済と新羅が揃って、同種同族であるはずの高句麗を侵略するよう、外国の王朝に頼み込んだのである。

特に百済の場合、当の隋王朝よりもこの侵略戦争の開始を待ち望んでいるような様子であった。それはまさに、世界史上の奇観ともいうべき光景であるが、煬帝の戦争決断を後押しした大きな要素として、百済と新羅の要請があったと考えざるを得ない。

 実際、『隋書・煬帝紀』の記述によれば、侵略を要請した百済の使者が隋に到着して朝貢したのは六一一年二月四目であるが、同月二六日に煬帝が高句麗討伐の詔書を発したという。百済の使者到来は、彼が高句麗征伐を決心する一つのきっかけであったことがうかがえる。

 百済と新羅の願い通り、紀元六一二年、隋は百万人の大軍を派遣して、高句麗征伐を再開した。しかしこの時も、高句麗が国の命運をかけて徹底的に抗戦した結果、煬帝の軍事行動は完敗に終わった。その後も、場帝はその短い治世の中でさらに二回、高句麗への再征伐を試みたが、いずれも失敗に終わっている。そしてこの挫折が、煬帝の国内の権力基盤を大いに揺るがし、隋王朝の崩壊を早めたことは、中国史上の常識である。

 その一方で、高句麗が隋王朝の侵略を撃退し続けたことは、朝鮮半島にとって幸いだった。ある意味で、高句麗という国はずっと、朝鮮半島を中華帝国の侵略から防ぐ「防波堤」の役割を果たしていた。

しかし、それにもかかわらず、大陸の軍勢から守られているはずの、南の百済と新羅は、高句麗と協力して隋王朝の侵略に抵抗するどころか、むしろ隋王朝を焚き付けて高句麗への侵略をそそのかし、さらには侵略戦争に「先導役」として加担しようとした。

この二つの半島国家の無節操ぶりと愚かさには、まったく驚くばかりであるが、本書を読み進めていけばお分かり頂けるように、こうした愚行はむしろよくあることで、韓民族のDNAともいうべき、独自の行動パターンから出てくるものなのである。
この半島の歴史として残る最古の記録からして、新羅が初の韓民族による統一国家を作る前から外国の勢力を利用して、告げ口外交、裏切りをするのが現在にまで受け継がれている、朝鮮半島の人々の不変の習性なのである。

ながながと引用してしまったが、すくなくとも記録に残る1500年間、今日に至るまで、この半島人のDNAは不変である。推測にすぎないが、歴史として残る以前、紀元前2世紀衛氏朝鮮の時代から2000年来、事大を繰り返していたのだと思う。

さて、新羅の半島統一だが、これまた酷いものだった。

隋の文帝は、半島からの要請をことごとく断ってきたのだが、二代目の煬帝が愚かだった。先代を越えようとする煬帝に百済が、高句麗をいっしょに倒しましょうと、悪魔の誘いをしてきたのである。このオファーは煬帝の心に刺さってしまったのだ。

新羅からも同じ要請が入り、高句麗と同種同族のはずの百済・新羅が揃って、異民族の王に侵略を願い出てたことになる。

紀元612年、百万の隋の軍隊が高句麗に殺到した第二次高句麗遠征である。百万はどう考えても誇張と思えるが、wikiでも60万となっていたが、退却を重ね伸びきった補給線を断ち切るところで、高句麗はこれを撃退し、以後第三次、第四次遠征も守りきったのである。 このまま高句麗が半島を統一すれば、韓民族はここまで卑屈で嘘つきの国民性にはならなかったかもしれない。そして、独自の文化も生み出すことが出来たかもしれなかった。独自の文化がまるでないから起源を主張するしかできない可哀そうな民族に成り果ててしまったのである。

隋王朝は高句麗遠征の失敗がたたり、崩壊すると、代わってシナには唐王朝が成立した。

唐王朝も、高句麗には手を焼いていた。高句麗は唐の侵攻に備え、百済と同盟を結んでいた。百済は、新羅を攻め、新羅は崩壊寸前であった。

新羅は日本の大和朝廷に支援を求めたのであったが、日本は新羅の要請を断った。困った新羅の宰相(当時)金春秋(後に第29代国王)は、唐に最後の望みを託したのである。

唐は高句麗に手こずっていて、朝貢してくる百済を攻める意思はなかった。
しかし、新羅の金春秋は、高句麗が陥ちないのは、南から百済が支援しているからだと唐に告げ口をして、高句麗攻撃前に百済攻撃を仕向けたのであった。

しかし、唐第二代皇帝太宗が口説かれたが死去、第三代皇帝高宗は優柔不断で、新羅が唐に対し十数年あの手この手で出兵を要請したが、新羅の要請を受け付けなかった。西暦660年皇后の則天武后が宮廷内で権力を握ると、たちまち百済を攻撃することを決断した。新羅が東から5万の大軍で百済を攻め、海からは唐の軍隊13万が上陸してたちまち百済を滅ぼしてしまった。

百済を滅ぼした唐新羅連合軍は661年高句麗を攻めたのだが、唐新羅連合軍に対し準備をしていた高句麗は首都平壌城を半年包囲されたが、それまで三度も唐を撃退させた宰相淵蓋蘇文(えん がいそぶん)は撃退に成功した。その後も淵蓋蘇文が存命中は唐新羅連合軍を撃退し続けた。

665年最高権力者淵蓋蘇文が死去すると、高句麗が滅びる。韓民族の裏切りDNAが発動したのだ。
p53-55
 淵蓋蘇文には、男生、男建、男産という三人の息子がいた。晩年の淵蓋蘇文は、自らの死後の一族の安泰を考えて、三人の息子それぞれに軍権を移管し、三人が協同して軍事政権を運営する後継者体制を作っておいた。

 淵蓋蘇文が死去すると、長男の男生が後を継いで、次の大対盧(宰相)に就任し、政権の頂点に立ったが、男建、男産の残る二人はけっして心服したわけではなく、兄弟間の疑心暗鬼が始まった。

 六六六年初め、男生は地方の巡回視察に出かけて、首都平壌の留守を二人の弟に任せた。

しかし配下の者にそそのかされた男建、男産は、突如として反旗を翻しか。彼らは平壌を占領して政権の中枢を握り、兄の男生が首都に戻ってくることを拒んだ。

 突然の政変で権力の座から追放された男生は、急いで高句麗の両都である国内城(現在の中国古林省にある)に逃げ込んで、弟たちの中央政権と対峙した。しかし全体的情勢は男生に不利であった。首都と政権の中枢が弟たちに奪われた以上、自分の力だけで奪還するのはもはや不可能。国内城に閉じこもっていたら、ジリ貧となって、いずれ中央政権に討伐され、滅ぼされる運命にある。

では、どうやって生き延びればよいか。そこで男生が思い当たったのも、やはり唐帝国であった。彼の拠点である国内城とその支配する地域は、ちょうど高句麗と唐帝国との国境近くにあるから、唐王朝に降り、その強大な力を頼りにすることが、男生にとって、起死回生の秘策となった。

 こうして、あれほど唐帝国に徹底抗戦した英雄・淵蓋蘇文の嫡子であり、しかも一度は高句麗の最高権力者の立備にあった男生は、自らの生き残りのため、唐王朝に降伏する決断を下したのである。
    
 降伏の意を伝えるため、彼はさっそく、自分の側近を長安に遣わした。しかし唐王朝側は男生の投降話を、にわかに信じられなかった。何しろ、一度は高句麗の最高権力者の立場にいた人間である。簡単に降伏することなどありえないと思われたのだ。

 男生は再度、もう一人の高官を派遣して、投降の意思を明らかにした。それでも唐王朝は受け付けてくれない。途方に暮れた男生はついに一大決心して、六六六年夏、嫡男の献誠を名代として長安に派遣した。献誠に自分の窮状を訴えさせ、降伏を申し入れたのである。それと同時に、唐王朝軍の高句麗攻略の先導役を務めることを申し出た。

 これで初めて、唐王朝は男生の申し出が本当であると信じた。もちろんこれは、再度の高句麗征伐を考えていた唐王朝にとって、願ってもない絶好のチャンスであった。

 さっそく動き出した唐王朝はまず、援軍を派遣して、男生の閉じこもる国内城の救援に向かわせた。唐軍が高句麗領内に入ると、男生は、国内城はもちろん、自らの支配下にある南蘇、蒼岩など六つの城と十万戸の人民を、唐王朝に献上した。

 そして六六七年、男生は自ら長安へ赴き、唐に入朝した。韓国古代史研究家・盧泰敦博士の前掲書の記述によると、長安に入った男生は、高句麗の国内事情を次々と唐王朝に教えて、高句麗攻略の具体案について色々と献策した。そして、その後に展開されていく高句麗征伐において、男生は当然のように侵略軍を先導する役割を果たし、死ぬまで唐王朝に積極的に協力したという。

 男生の投降によって、高句麗の北の玄関口が聞かれた。それに加えて、高句麗の元の最高権力者である男生自らが、高句麗攻略の先導役まで買って出てくれた。もはや唐王朝に、再度の高句麗征伐をためらう理由は何もない。時は戻るが六六六年十二月、唐の高宗は李勣を総司令官とする大規模な遠征軍を編成させ、高句麗征伐を命じた。六六七年二月、李勣軍は唐と高句麗の国境にある遼河を渡り、一路平壌へと向かった。
668年唐新羅連合軍は愚かな三兄弟の疑心暗鬼と、裏切り、売国行為によって600年東アジアの強国として半島北部~満州に存在した高句麗が滅亡したのであった。

日本も、古代日本の大事件、白村江の戦いで韓民族に大迷惑を被っている。
P58-64
唐王朝軍を半島に誘い入れたのが新羅であったのにたいし、日本の大和朝廷軍を半島内の戦いに巻き込んだのは、新羅と争っていた百済である。

 白村江の戦い(六六三年)のはるか昔から、百済は日本の大和朝廷と緊密な関係にあった。

半島が三国鼎立時代に入った当初より、百済は高句麗・新羅と対抗するために、大和朝廷に積極的に接近して、同盟関係を結ぼうとしていたのである。

 百済が大和朝廷に初めて交渉を求めてきたのは近肖古王(在位三四六年~三七五年)の時代であったっ当時、高句麗と激しい攻防戦を展開していた百済は、中国の晋王朝に朝貢を続けながら、日本の大和朝廷にも使者を遣わして、外交関係を結んだ。

 三七二年、高句麗と戦っていた近肖古王から、大和朝廷に「七枝刀」という宝刀が贈られた。それは今でも、奈良県天理市の石上神宮に保存されているらしい。

 三九七年、高句麗との戦いで劣勢に立たされていた百済は、太子の腆支(余映)を人質として日本に送り、よりいっそう緊密な関係を求めてきた。

 それ以来、日本に人質を送ることは、百済の対日外交上の慣例となった。百済が半島内の紛争で形勢不利となった特に、大和朝廷に何らかの支援を求めてくるのも、それ以来の”慣例”となった。その代わりに、百済は中国大陸から伝来した文化や文物、そして五経博士や医博土、採薬師などの人材を次から次に日本へ提供して、対日関係の強化に努めた。

 時代を下って六世紀の初め、百済の武寧王(在位五〇二年~五二三年)の時代、百済が朝鮮半島最南部の加耶諸国の覇権をめぐって、新羅と争うことになった時、武寧王は加耶地域に大きな影響力を持つ日本に支援を求めた。大和朝廷の継体天皇から「水軍五百」などの軍事後助を受けた百済は、対新羅戦に勝利して、加耶地域の一部を併合することに成功した。

 そして武寧王の後を継いだ聖明王(在位五二三年~五五四年)の時代、百済は新羅にたいする本格的な攻略戦を実行に移そうとして、大和朝廷の欽明天皇に軍事支援を求めた。それを受け入れた欽明天皇は、「兵一千人、馬百頭、船四十隻」からなる救援軍を半島に派遣したと伝えられている。その見返りとして、百済の聖明王が大和朝廷に仏像と仏経を贈ったようで、これが日本における「仏教公伝」の始まりであるといわれている。

 このようにして百済は、建国以来数百年間、大陸伝来の先進文化を日本に伝えることを最大の外交カードにして、大和朝廷と緊密な関係を結び、対高句麗・新羅の覇権争いで優位に立とうとしていた。時には大和朝廷に軍事後助を求めることも珍しくなく、外国勢力を半島内の紛争に巻き込むやり方は、その後の金春秋や新羅のそれと一脈相通じるところがあった。

 しかし、紀元六世紀か 七世紀にかけて、中国大陸で隋王朝と唐王朝という二つの強大な統一帝国於相次いで出現すると、百済の「日本巻き込み戦略」は効果を失った。中華帝国が半島内の紛争に本格的に介入してくると、国力が比べものにならない日本の存在感は、薄くなる一方となったからだ。そして前述のように、唐帝国が新羅と手を組んで半島に侵攻してきた時点て、百済の運命はすでに決していたといえる。

 唐王朝・新羅連合軍の侵攻に直面した危機的な状況で、百済は当然、あらゆる形の軍事支援を日本に求めた。しかしその時点では、どういうわけか、大和朝廷はいっさい動かなかった。

おそらく、唐・新羅連合軍の襲来があまりに迅速だったため、大和朝廷には反応する時間も与えられなかったのではないか。物理的な距離を克服する通信手段がなかった時代、海を隔てた日本が正確な情報を得て、半島の急変に反応するのは、どうしても遅れ日本が百済救援を決めたのは、結局、百済が滅亡した後のことである。

六六〇年七月、泗泚城か唐・新羅連合軍によって陥落させられ、国としての百済は滅びたが、その直後から、旧領内の各地で百済の遺臣たちが蜂起し、百済復興運動を開始した。

 蜂起の中心となったのは、百済の王族に連なる鬼室福信という人物だ。彼は任存城を拠点として勢力を拡大し、あっという間に三万人規模の復興軍を作り上げた。

 この年の十月、百済復興軍は使者を日本に遣わして、大和朝廷の援軍を求めた。彼らは、日本からの援軍を得ることで、百済の地から唐・新羅連合軍を追い払い、国を再興しようと考えた。

 当時、百済の遺臣たちが日本から援軍を引き出すにあたって、とっておきの切り札があった。百済最後の王・義慈玉の王子で、人質として日本に滞在していた扶余豊璋である。彼は百済王子として二十年以上、日本の都で暮らしており、天皇宗をけじめ、大和朝廷の政権中枢と密接な関係にあったと考えられる。

 そこで百済復興軍は大和朝廷にたいして、復興運動のシンボルとすべく、豊璋王子を半島に送還してもらうよう嘆願すると同時に、王子の祖国帰還を護衛する形で、大規模な援軍を送ってもらうことも要請した。

 これを受けて、斉明天皇の下で大和朝廷の実権を握っていた中大兄皇子(後の大智天皇)は百済支援を決断し、豊璋王子の送還と援軍の派遣を決めた。翌六六一年九月、中大兄皇子は安曇比羅夫など数名の将軍が率いる兵五千と軍船百七十隻に豊璋王子を護衛させ、帰国させた。帰国した豊璋王子は鬼室福信らに迎えられ、復興運動の本拠地となった周留城に入城した。豊璋は百済の新しい国王に立てられ、復興の象徴となった。

 その時、日本から派遣された五千の援軍も豊璋と共に周留城に入ったと思われるが、その後、大和朝廷はさらに二万七千人の第二次派遣軍と、一万人あまりの第三次派遣軍を続々と朝鮮半島に投入し、本腰を入れて百済復興運動を支援したのである。

 日本はこうして、古代史上最大規模の「海外派兵」に踏み切った。しかし百済が健在ならともかく、国家としてすでに滅亡してしまっていたこの段階で、大和朝廷はなぜ、今さらのように援軍派遣を決めたのか。その真意は今なお歴史の謎であるが、おそらく大和朝廷の意思決定の背後には、豊璋王子の存在が大きかったのではないか。

 長期間にわたった日本滞在で、豊璋王子は皇室をはじめとする大和朝廷の中枢と親密な関係を結んでいた。彼が母国に迎えられて、復興運動の中心となる話が持ち上がったから こそ、大和朝廷と中大兄皇子は百済復興を支援する気になったのではないだろうか。

実際、豊璋王子を祖国に送り届ける時、中大兄皇子は大和朝廷の高い地位の象徴である織冠(官位)を王子に授け、貴族の多臣蒋敷の妹を娶せたことからも、厚遇ぶりと期待の高さがうかがえる。

 しかし結果的には、中大兄皇子と大和朝廷の期待を裏切ったのも、この豊璋王子であった。帰国してまもなく、豊璋王子は復興運動の事実上の中心人物であり、自分の帰国の立役者でもあった鬼室福信を「謀反」の罪で殺してしまった。もちろん単なる濡れ衣であろう。「謀反」するくらいなら、鬼室福信は最初から、豊璋王子をわざわざ迎えようとしなかったはずだ。

 しかし鬼室福信の殺害によって、百済復興運動はその勢いを大きく削がれた。復興運動の大黒柱であり最大の功労者である福信が内紛で殺害されたことで、復興勢力の団結が一気に崩れたのである。

 もちろんそのことは、日本から百済に派遣された援軍にとっても、極めて深刻な事態だった。復興運動を支援しようと、はるばる半島までやって来だのに、肝心の百済側の組織が内輪もめで空中分解してしまったことで、梯子を外された格好になったのは日本軍の方である。

 それ以降、日本からの軍勢は百済復興勢力からの協力をほとんど得ることができなくなり、異国の地で強大な唐王朝・新羅連合軍と、ほぼ単独で戦うことになった。

その結果がすなわち、「白村江の戦い」における大和朝廷軍の完敗と全滅であるが、日本からの軍を半島に誘い込んだ百済復興勢力が分裂した時点で、この敗北はすでに決まっていたといえ日本兵の血が白村江を赤く染めていた時、肝心の豊璋王子はどうしていたか。数名の腹心と共に戦場から離脱して、高句麗へと逃げていたのである。

 日本という外国の軍勢を自国の戦争に巻き込んでおきながら、いざとなると自分だけ、上手く逃げようとする。それが、豊璋という半島人の卑怯極まりない生存術であった。
2000年前から恩を仇で返す韓民族。隋・唐・大和朝廷は、半島人に情けをかけたばかりに、巻き込まれいつのまにか手痛い被害をうけてしまったのが歴史の真実である。日本やシナは加害者ではなく、どう考えても被害者である。

正直なところ、半島の三国統一戦争について、詳細に書いた本を読んだことがなかったが、改めて本書を読み勉強になったが、ほんと韓民族とは2000年前から面倒くさい大迷惑な民族だ!

【参考】
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まえがきより抜粋
p-2-3
日本軍というのは、当時、費用効率が世界一高い軍隊だったといえる。経済力では欧米に歯が立だないなか、彼らの数分の一の予算で、彼らに匹敵するような軍軍力を持てたのである。

 第一次世界大戦の末期の大正6(1917)年には、日本は保有する戦艦数でイギリス、アメリカに次ぐ世界第三位にまでなっている。1917年といえば、明治維新からわずか50年後のことである。

 もちろん、その間、日本は軍軍力の増強だけに力を注いでいたわけではない。
 社会制度の改革やインフラの整備、産業の促進など、近代国家に生まれ変わるために取り組まねばならない課題は多かった。日本はそれら課題をひとつずつクリアしながら、世界的な強国になったのである。”ビジネス”という視点から見ても、見習うべき点は多々あるはずだ。

 そもそも大日本帝国というのは、「欧米列強の侵攻から国を守る」ということから始まったものである。
 幕末の日本は、他のアジア諸国と同様に、文明的には欧米にかなり後れをとっていた。これといった資源があるわけではなく、豊饒の土地を有していたわけでもない。
 しかし日本は決して恵まれてはいない条件の中、非常に短い期間で、欧米列強を跳ね返すほどの軍隊をつくりあげた。その手際の良さは、世界中を見てもあまり例がない。

 アジア諸国が軒並み植民地化されていく中で、なぜ日本だけがそれをできたのか?
 知識も金もなかった国が、どうやって強い軍隊をつくりあげたのか?

 我々日本人は、「敗戦時に生まれ変わった」というような歴史観を持っている。
 「戦前の日本と戦後の日本は別の国である」
 そういう考えを持ち、戦前の日本から目を背けてきた。
 そして「日本軍は独善的で科学軽視の恥すべき存在である」と、日本軍を全否定することで、敗戦の責任を逃れようとしてきた。
 しかし、それでは我々は、過去から何も学べないのではないか。
そうなのだ、日露戦争後、第二次世界大戦前、日本軍の鬼神のごとき強さに欧米列強は皆恐れおののいたのだ。

ソ連軍を完全に圧倒した日本陸軍

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 それでは、ノモンハン事件か発生してから、戦闘かどのように展闘していったか、その経過を検証してみよう。ノモンハン事作は時期でいえば、第一次ノモンハン事件(五月)と第二次ノモンハン事件(六~九月)の二つに分けられる。

 まず、第一次から見てみよう。この戦闘は文句なしに日本軍の圧勝だった。五月四日に始まり三十一日に終結したこの戦闘で、ソ連軍は一七九機撃墜されたか、日本機の損害はわずか一機(そのパイロットは無事脱出して生還している)だ
った。しからその空中戦に参加した飛行機の機数を見ると、たとえば日本機九機に対してソ連機八〇機とか、日本機一八機に対してソ連機六〇機といりたように、圧倒的に少数の日本機か敵の大編限と戦って、これを打ち負かしている。

赤子の手をひねるとはまさにこのことをいうのであろう。この信じがたいような空中戦の大戦果のニュースが世界に流れると、各国の空軍関係行は驚愕した。

 ノモンハンの前半(五~7月)における空中戦での、日ソ双方の飛行機の損失を比ぺてみよう。数多く戦われた空戦のなかで主立ったいくつかを抜粋してみる。

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この数字を見て、どう表現したらよいのか、言葉を失う。鐙袖一触だとか赤子の手をひねるだとかいった形容では追いつかない、まさしく日本の一方的な勝利といってよい。

 地上戦でもソ連軍は日本軍の激烈な抵抗を受け、侵人地を確保できずにハルハ河の左片に撤退した。日本軍の死傷者二九〇名に対し、ソ連軍の死傷者は六〇〇名以上であった。関東軍はこれで事件は収束したと判断し、戦勝報告を行なっ
た。

 次はノモンハン事件の第二次に目を向けよう。六月一七日にソ連軍の飛行機は突如として満州国各地を爆撃し、地上軍は満州国の各地を攻撃してきた。第二次ノモンハン事件の始まりである。戦闘の始まったのは将軍廟という場所であり、
ソ連が主張する国境線からでも二〇キロも満州国へ入ったところであったから、明らかにソ連軍が侵入してきてしかけた戦争でありた。

 第二次ノモンハン事件は、開戦から二力月たった八月二十日まで日本軍が完全にソ連軍を圧倒していた。具体的な数字で見てみよう。

 ノモンハン事件全体でこうむった双方の戦死傷者数は、日本軍の一万七四〇五名に対し、ソ連軍は二万五五六五名である。そのうち八月二十日までの戦死傷累計数字を見ると、日本軍の七○○○名に対しソ連軍は一万五○○○前後である。
わずか一個師団二万の少数の日本軍が二三万の敵の大軍を相手に、これだけの戦果を挙げているのである。これを日本軍の大勝利といわずして何といおう。                                        
 八月二十日以降、ソ連軍がいかなる犠牲をも厭わない人海戦術とでもいってよい大攻勢をかけてきたために、日本軍の戦死傷は急増した。ノモンハン事件全体における日本軍の犠牲は、大部分がこの時町の、わずか数日間の戦闘に集中しているといってよい。これは日本側かノモンハン事件に際して終始、不拡大方針を貫き、侵入してきた敵軍を追い払うことに主眼を置いて、現地に増援軍を派遣しなかったために生じた悲劇である。
 だか八月二十日以降のソ連側の犠牲も甚大で、ソ連の大軍はノモンハンの国境地帯で少数の日本軍に喰い止められ、突破することかできず、膠着状態になりた。ソ連軍の死傷者数は今後の資料公闘により、現在判明している分よりも、実数かさらに増人すると考えて間違いない。

 ことここにいたって、日本の大本営も事懲の深刻さを認直し、第二三師団を救うための増援軍派遣を決定し、日本軍一〇万の精強部隊かノモンハン付近に集結した。これを見てスターリンは恐怖に震え上がった。

わずか1個師団2万の軍隊が23万の大軍と対等以上に戦う、そこに10万の帝国陸軍の精強師団が投入されたら、どうなるか?ソ連軍は壊滅し外モンゴルを失いかねない。最悪の場合、ドイツと日本に挟み撃ちに合うとスターリンは恐怖した。
スターリンは、九月に入るやいなや、直ちにリッベントロップを通じてヒトラーに停戦の仲介を依頼した。その直前の八月二十三日に調印された独ソ不可侵篆約は、全世界を驚倒させた大ニュースであったか、これもノモンハン事作の処理に手を焼いたスターリンか、その早期解決を図るぺく、ドイツに急接近したと見るのか正しい。

 対ソ前面戦争を可能なかぎり回避する方針でいた日本政府は、ドイツの仲介を受け入れ、九月十五日に急遽、停戦が成立した。じつはソ連は八月下旬からすでに日本に停戦を申し入れていたのだが、日本から回答がないのを見て、焦慮のあまりついにドイツに泣きついたのである。日本が「恐ソ病」にかかりていたのは事実であるか、ソ連はそれ以上に「恐日病」にかかっていたのである。

ノモンハンがソ連側から休戦を申し込んだのは当然だ。


如何に日本兵が鬼神のように最強だったか、

世界最強だった日本陸軍からの引用でもう一つ

四名の日本兵が三〇〇名のソ連兵を追い立てた

 それではノモンハン事件の全戦闘を通じて、現場の兵士たちかどのように勇戦富闘したか、いくつか記録を紹介しよう。まずは、八月二十三日、梶川大隊の記録(前掲、小川洋太郎・田端元著書から)。

 「高山正次少尉が前戦(ホルステン左岸高地)の観測所に行くと、敵軍戦車侵入のためほとんどは死傷し、下士官ら三名が守っていた。夕方、三〇〇名の敵歩兵が手榴弾を投げながら稜線を駆け下りてきたので、先頭のソ連将校が壕の上に顔を出したときに拳銃で射殺してから、兵三名と突撃した。
兵はたちまち一〇名を刺殺し、被は切りまくり、敵は崩れて手榴弾を投げながら逃走した。これを追ったため、引き返せば手榴弾か爆発しているなかに入るので退れず、四名で三〇〇名をどこまでも追う形になり困ったが、稜線まで追いそこで引き返した。凹地に一二,三名の敵が潜んでいるのを見つけ、全員を片付けた」
日露戦争や、その後の日本陸軍の神がかった強さは世界中に知れ渡っていた。
銃剣術を主体とした日本陸軍の歩兵による白兵戦は天下無敵で、この点世界最強であった。このことはソ連兵も十分承知で、わずか四名の日本兵の振りかざす銃剣と日本刀に、三〇〇名のソ連兵が悲鳴を上げながら潰走していく姿はさぞや痛快であったろう

話が「大日本帝国の国家戦略」からそれてしまった。

この強い日本軍を作ったのは、アヘン戦争で英国に敗退し、列強に蹂躙された清国の惨状を見たことによる。

日本を列強の植民地にさせてはならない、幕府も佐幕派も倒幕派も思いは一つであった。日本が戊辰戦争が短期間で終結し、明治維新プロジェクトが成功したひけつであったと思う。

富国強兵プロジェクトは、いかに行われたか。



執筆中




















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白人がいまだに怖がる日本軍の実力
【週刊新潮】2014年7月10日<変見自在> 高山正之

 日本について欧米の人たちが正直な感想を漏らすことはほとんどない。
 経済学者ジャンピエール・レーマンが「欧州諸国は植民地を失い、おまけにキリスト教徒にとっては大いなる罰とされる使役までさせられた。その仕返しもしていない」「でも米国はいい方だ。彼らは原爆を落として幾分かその恨みを晴らしたから」と言ったくらいか。

 「Two nukes just wasn’t  enough(2発じゃ足りなかった)」と米ニューハンプシャー州の田舎議員ニック・ラバッサーが口を滑らしたときも、そんな表現が米社会で結構膾炙されていたことに驚いたものだ。

 その意味で元英紙特派員ヘンリー・ストークスの『英国人記者が見た連合国戦勝史観の虚妄』は凄い。先の戦争で欧米がいかに強い衝撃を受けたかをごく正直に語っている。

 「唯一の文明世界であるはずの白人世界で、最大の栄華を極めた大英帝国が有色人種に滅ぼされるなど思考の限界を超えていた」

「チャーチルが日本を口汚く罵った背景にはその悔しさと怒りがあった」

「英国はナポレオンやヒトラーの侵略を退けた。だが、その帝国の植民地が有色の日本人によって奪われ、その他の有色人種が次々独立していったことは想像を絶する悔しさだった」

 「アメリカは原爆を落とす必要はまったくなかった。生体実験のように人間の上に原爆を投下したのは『辱めをに与える必要性』があったからだ。日本人を完膚なきまでに叩きのめさねばならなかった。正義は建前で、復讐せねばおさまらなかったのが本音だ」

 「日本は白人の持ち物の植民地を侵略した。侵略が悪いのではなく、有色人種が白人さまの領地を侵略したから悪いのだ。白人が有色人種を侵略するのは『文明化』で、劣っている有色人種が白人を侵略するのは『犯罪』なのだ」

 「東京裁判は復讐劇であり、日本の正当性を認めることなど最初からありえなかった。認めれば自分たちの誤りを認めることになる。広島長崎の原爆や東京大空襲で民間人を大量虐殺した罪を明らかにされてはならなかった。それが連合国の立場だった」

 「植民地を搾取することで栄えた白人世界」はその植民地を失って貧乏国になり下がったが、それ以上に「白人世界には戦後も一貫して日本への憤りが蔓延していた。怨念もあった」。

 それは「日本軍はこの世の現実とは思えないほど強かったことだ」。
 彼は戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」をその例に挙げている。

 この戦艦が生まれるきっかけは日本海海戦だった。東郷艦隊は世界の常識を覆して装甲された軍艦を砲撃だけで20隻も沈めてしまった。

 英観戦武官ペケナムは帰国してすぐ日本の戦艦に負けない戦艦「ドレッドノート」をつくり、10年後にはもう一回り頑丈なスーパー・ドレッドノート(超弩級)をつくり、さらに無敵の超々弩級として「プリンス・オブ・ウェールズ」を生み出した。

 それを日本は予想もしない航空機攻撃で沈めてしまった。「この世のものとは思えない」強敵だった。

 陸上でも同じ。英国は東洋の真珠・香港の九龍の奥に堅固な要塞を築き、マレーにもいくつもの要塞を置いてインド兵や獰猛なグルカ兵を密林に潜ませた。
 そのどれもが軍事常識では3か月は持つ堅塁たったが、日本軍はそれらをたった1日で落してしまった。

 白人世界ではそんな強い敵と過去に戦ったことはなかった。
 英国の国立陸軍博物館がナポレオンとの戦いや第一次、第二次大戦の陸上戦のうち、何が歴史的、政治的に重要だったかのアンケート調査を行った。
 110人の投票者はノルマンディ上陸(27票)、ワーテルローの戦い(24票)を大きく引き離す54票でなんとインパールの戦いを選んだ。

 理由は一つ。「どの白人国も勝てなかった日本軍を英軍が破った」から。
 白人世界の日本への恨みの深さを知らされる結果だった。

 朴槿恵が20万人性奴隷の嘘を並べた。見え透いた嘘だ。日本軍の品の良さは戦った白人がよく知っている。朴の品のなさも知っている。それでも日本の肩を持とうとしないのはなぜなのか。 日本が悔しがるから、そんな楽しいことはないと彼らは考えているからだ。
                                (二〇一四年七月一〇日号)
高山正之氏が指摘するように本書の衝撃は、生粋の英国人で元フィナンシャルタイムズの東京支局長を務めたヘンリー・ストーク氏が書いたと言う点だ。

同じ歴史的な事実を文章を書いても、敗戦国側で有色人種の高山氏が書いたのと戦勝国側で、白人であるストーク氏が書いたのでは重みが違う。我々日本人が書くと負け惜しみと解釈されてしまう。

私もそうだが、自分の一番恥ずかしい過去や本音は決して口にしないし、口に出していけないことは山ほどある。それはタブーであり人格を疑われたり、周囲からバッシングされるようなことだ。白人にとってのタブーはなぜ日本を叩くのかその深層心理を暴露される点ではないだろうか?

長年日本に住み続けて日本人と同化したストーク氏だからこそ、そのタブーを超えることが出来たのではないかと思う。

イメージ 1日本のパヨク/左翼は実は西洋かぶれの流れを汲んでいると私は思う。本書を読むんで、改めて確信しました。

日本を叩く白人の理論の奥底にある反日心理を誤認し、日本を叩くことがグローバルスタンダードであり、自ら先頭に立って日本を糺すと、勘違いしてしまっているのだ。日本人パヨク/左翼による反日運動は、日本人を啓蒙するという間違った使命感を持つ西洋崇拝者=西洋かぶれのイヤミなのである。

左翼/パヨクは口を開けば日本は遅れていると言う。
日本はなんでもかんでもダメと言う発想が、日本のパヨク/左翼の心理の奥底に潜む。左翼は中途半端な出来の悪い洋行学者が煽動している。中途半端な学者は、欧米人の日本人叩きの理由も理解せず自分も欧米人になったかの錯覚から、自らが先頭に立って日本を叩いているだけなのだ。

自らが先頭に立って日本を叩くことにより、日本における自分の位置を彼らの頭の中では他の日本人より相対的に上に置くことが出来る。その為、パヨク/左翼らの反日思想は彼らのフラストレーションを解消する為の道具にすぎないのだ。


近年欧米に蹂躙されたアジア諸国における日本の評価はうなぎ上りだ。自分達の国や民族の歴史を研究すれば、大東亜戦争と日本が自国の独立にいかに重要だったか認識しはじめてきたようだ。

いかに「日本がアジアの希望の光だった」か、このインド独立の父チャンドラ・ボース発言したことに注目しインド独立に関する記述が秀逸である。
p157-163
 二十世紀で最も驚く展開は、五〇〇年続いた植民地支配、その呪いが終焉を迎たことにあります。白人による支配が霧散してしまいました。誰もまったく予想しなかったことでした。

 一九三〇年代末に「インドの独立はいつになるか」と問われ、ネルーは「七〇年代には実現するかもしれない」と答えました。つまり彼の亡き後という意味で

しかし一九四〇年代初頭になると、インド人だちから独立の気運が高まりました。なぜ独立の気運が高まったのでしょうか。

 答えは簡単です。第二次大戦が勃発し、五〇〇年のドラマの中の新興勢力が、白人植民地支配に痛烈な打撃を加えたからです。その新興勢力が、日本でした。インド独立のタイムテーブルは、ネルーの七〇年代から第二次世界大戦の終焉時へと短縮されたのです。ここで、二十世紀から十七世紀初めまで時間をもどしてみましょう。

インドでは、イギリスが一六〇〇年に東インド会社を設立し、植民地瓦配に着手しました。イギリスは、 マドラス(一八三七年)、ボンベイ(一八六一年)、カルカッタ(一六九〇年)に東インド会社を進出させました。イギリスの侵略は、プラッシーの戦い(一七五七年)、 マイソール戦争(一七九九年)、シーク戦争(一八四二年)と続き、 一八五七年から五九年にかけて反イギリス民族闘争である有名なセポイの反乱が起こりました。

 こうしてイギリスがインドを抑圧する中で、日本で一八六八年に、明治維新が起こりました。また、ほぼ同じ頃に、インドでは独立のために戦った、歴史的な人物が生まれています。

  一八六九年にマハトマーガンジーが生まれ、一八九七年に、チャンドラーホースが誕生しています。
  一八七七年、イギリスが直接インド全土を統治するインド帝国が成立し、ビクトリア女王が『インド皇帝』として即位しました。つまり、ホースはイギリスのインド植民地支配の絶頂期に生を享けたのです。

 ボースは今でも、インドで『ネタージ』と呼ばれています。 ネタージとは『偉大な指導者』という意味です。日本の支援を得て、ホースはINAを結成しました。「{Indian N ational Army(インド国民軍)」です。イギリスの植民地支配と非暴力主義で戦ったガンジーと対照的に、ホースは司令官として戦闘を戦いました。

ホースは一九四三年五月十六日に来日し、嶋田海軍大臣、永野海軍軍令部総長、重光外務大臣などと面会し、そのうえで、東條英機首相と会談しました。

 ボースは日比谷公会堂で講演し、そのメッセージは当時のアジアの人々の気持ちを代弁していました。

 「約四〇年前、小学校に通い始めた頃に、アジア人の国が世界の巨人・白人帝国のロシアと戦いました。このアジアの国はロシアを大敗させました。そしてその国が、日本だったのです。このニュースがインド全土に伝わると興奮の波がインド全土を覆いました。

インドのいたるところで、旅順攻撃や、奉天火会戦、日本海海戦の勇壮な話によって、沸き立っていました。インドの子供たちは、東郷元帥や乃木大将を素直に慕いました。親たちが競って、元帥や大将の写真を手に入れようとしましたが、できませんでした。その代わりに市場から日本製の品物を買つてきて、家に飾りました。
  
 ボース は「日本はアジアの希望の光だった」とハッキリと語りました。
 ボースはこう続けました。「このたび日本はインドの仇敵のイギリスに宣戦布告をしました。日本はインド人に、独立のための千載一遇の機会を下さいました。われわれは自覚し、心から日本に感謝しています。一度この機会を逃せば、今後一〇〇年以上にわたり、このような機会は訪れることはないでしょう。勝利はわれわれのものであり、インドが念願の独立を果たすと確信しています」

 重要なのは、主張より行動でした。ビクトリア女王が「インド帝国」皇帝に即位して六六年目にあたる一九四三年十月、自由インド仮政府が樹立されました。シンガポールでの大会で、ボースは満場の拍手をもって、仮政府首班に推挙されました。

 ホースは「チャロ・デリー」つまり「デリーヘ!」と進撃を宣言し、人々はそのメッセージを掲げ行進しました。祖国インドヘ向けた歴史的な進撃の開始でした。

インド国民軍INAの将兵は日本軍とともに、インドービルマ国境を越え、インパールを目指し「チャロ・デリー!」と雄叫びをあげ、進撃しました。「われらの国旗を、レッド゜フォートに掲げよ」 と、「ボースは将兵を激励しました。

 自由インド仮政府は、日本とともに、イギリス、アメリカに対して宣戦布告しました。
 同年(一九四三年)十一月五日より六日間にわたって、東京で大東亜会議が開催されました。
 これは人類の長い歴史において、有色人種によって行なわれた最初のサミットになりました。

 東條首相、満洲国の張景恵国務総理、中国南京政権の汪兆銘行政院長、フィリピンンのラウレル大統領、ビルマのバー・モウ首相、タイのピブン首相代理のワイワイタヤコン殿下と、アジアの首脳が一堂に会し、ホースはインド代表を務めました。

 今日、日本の多くの学者が大東亜会議は日本軍部が「占領地の生動」を集め、国内向けの宣伝のために行なったと唱えています。しかし、そのようなことを言う日本人こそ、日本を売る外国の傀儡というべきです。

 会議では大東亜共同宣言、が満場一致で採択されました。ホースは「この宣言がアジア諸国民のみならず、全世界の被抑圧民族のための憲章となることを願う」と訴えました。ホースは、日本は「全世界の有色民族の希望の光だ」と宣言しました。

この五OO年の世界史は、白人の欧米キリスト教諸国が、有色民族の国を植民地支配した壮大なドラマでした。
 そのなかにあって、日本は前例のない国でした。第一次世界大戦の後のパリ講和会議で、日本は人種差別撤廃を提案したのです。

 会議では各国首脳が、国際連盟の創設を含めた大戦後の国際体制づくりについて協議しました。人種差別撤廃提案が提出されると、白豪主義のオーストラリアのヒューズ首相は、署名を拒否して帰国すると言って退室しました。

 議長であるアメリカのウィルソン大統領は、本件は平静に取り扱うべき問題だと言って日本に提案の撤回を求めました。山本権兵衛内閣で外務大臣も務めた日本代表団の牧野伸顕男爵は、ウィルソン議長に従わず採決を求めたのです。

 イギリス、アメリカ、ポーフンド、ブラジル、ルーマニアなどが反対しましたが、出席一六カ国中一一力国の小国が賛成し、圧倒的多数で可決されました。しかしウィルソン大統領は「全会一致でない」として、この採決を無効としました。牧野は多数決での採択を求めましたが、議長のウィルソン大統領は「本件のごとき重大な案件は、従来から全会一致、少なくとも反対者なきによって議事を進める」としました。

 人種差別撤廃提案が一一対五の圧倒的多数で可決されたにもかかわらず、ウィルソン大統領はこの議決を葬りました。今日の文明世界では、ありえないことです。

いま、アメリカの大統領は黒人ですが、当時ではそのようなことは、まったく考えられないことでした。日本人も白人ではなく有色民族です。同じ有色民族として誇りある日本人は、白人の有色民族への暴虐を看過することができなかったのです。
インドと日本に対する考えが対極にある 近年中国韓国の歴史観についてストーク氏は辛辣だ。

南京大虐殺がいかに虚構であるか、欧米人ジャーナリストとしてはとても書きづらいことを書いている。

p101-102
私は歴史学者でも、南京問題の専門家でもない。だが、明らかに言えることは、「南京大虐殺」というものが、情報戦争における謀略宣伝だということだ。

 その背後には、中国版のCIA、が暗躍していた。中国の情報機関は、イギリスの日刊紙『マンチェスター・ガーディアン』中国特派員のH・J・ティンパーリーと、密接な関係を持っていた。

 ティンパーリーは『ホワットーウォー・ミーーンズ(戦争とは何か)』と題する本を著して、南京での出来事を造り上げ、ニューヨークとロンドンで出版した。この著作は当時、西洋知識人社会を震憾させた。「ジャーナリストが現地の様子を目の当たりにした衝撃から書いた、客観的なルポ」として受け取られた。いまでは国民党中央宣伝部という中国国民党の情報機関がその内容に、深く関与していたことが、明らかになっている。

 ティンパーリーの本は、レフト・ブック・クラブから出版された。この「左翼書籍倶楽部」は、北村教授の調査によると、一九三六年に発足した左翼知識人団体で、その背後にはイギリス共産党やコミンテルンがあったという。

さらに、ティンパーリーは、中国社会科学院の『近代来華外国人人名事典』にも登場するが、それによれば、「盧溝橋事件後に国民党政府により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」と書かれている。

 また、『中国国民党新聞政策之研究』の「南京事件」という項目には、次のような詳細な説明もある。
 
「日本車の南京大虐殺の悪行が世界を震撼させた時、国際宣伝処は直に当時南京にいた英国の『マンチェスター・ガーディアン』の記者のティンパーリーとアメリカの教授のスマイスに宣伝刊行物『日軍暴行紀実』と『南京戦禍写真』を書いてもらい、この両書は一躍有名になったという。このように中国人自身は顔を出さずに手当を支払う等の方法で、『我が抗戦の真相と政策を理解する国際友人に我々の代言人となってもらう』という曲線的宣伝手法は、国際宣伝処が戦時最も常用した技巧の一つであり効果が著しかった」


p115
「南京」が虚構であることの決定的証拠

 一九三八年四月に、東京のアメリカ大使館付武官のキャーボット・コーヴィルが調査のために、南京にやってきた。米国大使館のジョン・アリソン領事などとともに、ベイツなど外国人が集まって南京の状況を報告した。

 コーヴィルは「南京では日本兵の略奪、強姦は数週間続いている。アリソンは大使館再開のため一月六日午前十一時に南京に着いたが、掠奪、強姦はまだ盛んに行なわれていた」と報告している。なぜ、コーヴィルは殺人や虐殺を報告しなかったのか。ベイツまでいたというのに、一人として市民虐殺をアメリカ大使館付武官のコーヴィルに訴えなかった。

コーヴィルが「虐殺」を報告しなかった以上に、もっと摩詞不思議なことがある。アメリカの新聞記事が「日本軍による虐殺」を想わせる報道をしているにもかかわらず、中央宣伝部は「南京大虐殺」を宣伝材料にして国際社会にアピールをしなかった。南京陥落の四ヵ月後に中央宣伝部が創刊した『戦時中国』(China at War)の創刊号は、「南京は一九三七年十二月十二日以降、金と略奪品と女を求めて隈なく町を歩き回る日本兵の狩猟場となった」と報告しただけで、「虐殺」にはまったく触れなかった。


p119
世界が注目する中で行なわれた、敵の首都陥落戦である。天皇の軍隊である「皇軍」の名を汚すことがないように、南京攻略軍の司令官だった松井石根大将が、綱紀粛正を徹底していた。
 東中野教授の、南京事件に関する研究は徹底したもので、敬意を表したい。証拠を丹念に調べ、その主張をきわめて論理的に説明して、裏付けている。
 さらに加瀬英明氏によれば、蒋介石と毛沢東は南京陥落後に、多くの演説を行なっているが、一度も日本軍が南京で虐殺を行なったことに、言及していないという。このことだけとっても、「南京大虐殺」が虚構であることがわかる。
ストーク氏は一九八〇年韓国で起きた光州事件の現場に立ち会った。その時体験から南京事件の外国人記者の状況が理解できると言う。いかに現場にいたとはいえ、外国人記者が誰が誰を何人打ち何人犠牲者が出たか全体を把握することは極めて困難であるということだ。これはきわめて信憑性が高い。
p122
 一九三七年の南京で起こったことも、当時現場にいたジャーナリストが事態を掌握できたはずがないことは、断言することができる。一九三七年夏には、人々が南京から逃げ始めていた。上海戦の敗北を知れば、当然のことだった。

 国際委員会の報告によれば、南京に残っていた人目は、南京戦の時点で二〇万人だった。しかし、南京が陥落してから人口が増え始め、翌一月には、二五万人に膨れ上がった。戦闘が終わって治安が回復されて、人々が南京へと戻ってきたのだ。

 このことからも「南京大虐殺」などなかったことは、明白だ。歴史の事実として「南京大虐殺」は、なかった。 それは、中華民国政府が捏造したプロパガンダだった。
中国や韓国の歴史観こそ日本を貶めるプロパガンダの歴史観であり、糺すべきは中国や韓国の歴史観である。

日本は東京裁判で刷り込まれた自虐史観を払拭すべきだとストーク氏は訴える。

p166-168
日本は「占領の呪い」から脱却を

 二〇一三年は、大東亜会議が開催されてから七十周年にあたる。
 この節目の年は、二度目の安倍政権のもとで迎えられた。安倍政権は「アベノミクス」を掲げ日本経済を好転させ始めた。六月に行われた参議院議選挙でも自民党が圧勝した。 前回の安倍政権では「戦後レジームからの脱却」を訴え、多くを成し遂げたが、おぞましい「占領の呪い」は、まだ解かれていない。

 日本ではいわゆる「東京裁判史観」が、まかり通っている。日本は「侵略戦争」や「南京大虐殺」を犯した「犯罪国家」であるとレッテルを貼られてしまった。   出鱈目な東京裁判や、中国のプロパガンダや、アメリカのウォー・ギルト・インフォメーション戦略(戦争についての罪悪感を植え付ける戦略)によって刷り込まれた「南京大虐殺」という虚構を打破して、戦前の日本はアジアを侵略したのではなく、欧米による植民地支配から、「アジアを解放した」という事実を、世界に訴えるべきだ。

 チャンドラーホースが説いたように、「日本はアジアの希望の光」だったのだ。そして、日本がアジアヘ進攻して、アジアを植民地として支配し搾取してきた欧米列強と戦い、アジアから侵略者を駆逐し、「アジア人のアジア」の建設を進めた。そのことにアジア各国の独立の志士たちが呼応して、アジア諸民族とともに、日本は「アジア解放戦争」を戦ったのだった。

 これこそ、日本民族の最良の時だった。ヒトラーがヨーロッパ大陸を制覇して、イギリスが「孤独な戦い」を続けたときに、チャーチル首相は「もしイギリスが向こう数千年にわたって続くなら、『これぞイギリス最良の時』と言って称えよう」と訴えて、国民を鼓舞した。

 今日、七十代以下の日本人のうち、何人が大東亜会議を知っているだろうか。この日本の歴史が白熱した瞬間について、ほとんどの日本人が無知である。

 アジア諸国が、そしてアフリカの国々が第二次大戦後に、次々と独立を達成することができたのは、日本、が「アジア人のアジア」を建設するために、大東亜戦争を戦ったからである。

 「戦後レジームからの脱却」は、そうした大きな歴史の流れから位置づけ、「東京裁判史観」からの脱却を果たすというのが、あるべき姿であろう。
そうだそうだ!
反日左翼パヨク及びその考え方に共感する諸君、ストーク氏の本書で東京裁判史観の呪縛から目を覚ましてほしいものである。




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南京、慰安婦、強制労働-バトルの舞台は国際社会へ
  新たな段階に入った論争にどう向き合うべきか
   深田政彦(本誌編集部)          【NEWSWEEK】2015年10月27日号

戦争は人の心の中で生まれるから、人の心に平和のとりでを築かなければならない―。ユネスコ(国連教育科学文化機関)の崇高な平和理念だ。しかしそのユネスコを舞台に今年、「戦争」が2度も勃発した。

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 最初は世界文化遺産をめぐる争いだ。「明治日本の産業革命遺産」登録を申請した日本に対し、申請施設で中国や朝鮮出身者が第二次大戦中に「強制労働」させられたと中国と韓国が抗議。2ヵ月の攻防の末、「労働を強いられた」ことを日本が認め登録が実現した。

 今月には世界記憶遺産でも火の手が上がった。中国が申請した旧日本軍による「南京大虐殺」の文書が登録されたことに日本が反発。ユネスコヘの分担金拠出の見直しを示唆し、登録撤回を求める構えを見せたのだ。世界記憶遺産をめぐっては、申請・登録された日本人のシベリア抑留等の記録「舞鶴への生還」も登録後にロシアの高官から批判された。

 東アジアにくすぶってきた歴史問題は、戦後70年目にして収束するどころか地域の枠を超え、世界を舞台にした「歴史戦争」に突入したようだ。

 歴史教科書や靖国神社参拝、慰安婦や南京といった問題はこれまで日中韓の間の歴史認識論争にとどまってきた。

中心は日韓関係で、両国にとって互いは主張すべき「対象」であり、厄介な「敵」だった。中国の最高指導者だった鄧小平が80年代初めに経済優先の政策を打ち出して以来、友好と反日を戦略的に使い分ける中国はどちらかと言えば脇役だった。

 だが、「歴史戦争」はその様相を一変させた。日中韓はもはや互いに向き合って主張をぶつけるだけではない。新たな舞台はユネスコなどの国際機関やアメリカを中心とする国際社会。ロビー活動で駆使されるのは主に英語だ。日本の正当性を訴えた新聞連載をまとめた『歴史戦』(産経新聞出版)は中国語でも韓国語でもなくまず英語に翻訳され、帯には「真実を世界に広めるための書」とうたわれている。

 また同書が「主戦場はアメリカ、主敵は中国」と唱えるように、対立軸も日韓から日中へと変化した。鄧の唱えた「絹光養晦(実力を隠して力を蓄える)」路線をかなぐり捨て、習近平政権は拡張路線を続けている。これまでは主に韓国が訴えてきた慰安婦問題も、近年は中国に主導権が移っている。今回ユネスコで「慰安婦に関する資料」の記憶遺産登録が却下されたが、申請したのは韓国ではなく中国だった。

 「韓国にはパッチワーク的に対応すればよかったが、中国の脅威を見るとそれでは済まない」と、自民党の原田義昭衆議院議員は危機感を募らせる。
 党国際情報検討委員会の委員長である原田は先週、ユネスコ’の分担金拠出停止を求める党決議文を安倍晋三首相に手渡した。「安倍さんや菅(義偉)官房長官に申し入れるたびに、『いつも(委員会の提案が)遅いじゃないか』という雰囲気がある。政府の立場では言いにくいだろうが、僕らはまったく(方向性が)一致している」と、原田は言う。日本政府もまた、歴史戦争に前のめりのようだ。

 東アジアの歴史論争が国際社会に持ち込まれたのは、今回が初めてではない。96年に国連人権委員会で慰安婦を性奴隷と記す「クマラスワミ報告」が採択され、07年にはマイクーホンダ下院議員の提案で、米下院議会が慰安婦問題の対日非難決議を可決。13年5月には韓国の朴槿恵大統領が米議会で日本の歴史認識を批判する演説を行った。

 そして同じ年の7月、カリフォルニア州グレンデールで慰安婦像が完成したのを皮切りに、ミシガン州やサンフランシスコなどへ慰安婦の像や碑の設置が「飛び火」。サンフランシスコの中華街ではごく小規模ながらも、抗日戦争記念館も開館した。

 こういった動きは中国系・韓国系市民の草の根運動に加え、中韓のロビー団体の働き掛けが背景にあるとされる。ただ、こうした動きを知るアメリカ人はごく一部でしかなく、むしろ国内外の日本の保守系団体やネットの過剰反応が騒ぎを増幅させた側面がある。
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きつかけはアメリカの「失望」 

このように国際社会でくすぶっていた歴史戦争が本格化したのは13年末。きっかけは、安倍首相の靖国神社参拝とアメリカの「失望」声明だった。安倍の参拝直後、駐日アメリカ大使館と国務省が相次いで「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化」させたことへの失望を表明。アメリカはそれまで靖国参拝に対してあからさまな批判を避けており、その衝撃は大きかった。

 中韓の批判には慣れていても、アメリカは何も言ってこないと高をくくっていた保守派はオバマ政権の反応に驚いた。そして、アメリカの声明は事態の沈静化に向かわなかった。

 「中韓による情報の刷り込みがオバマにまで届いた」-欧米に対する中韓の情報戦に日本も応戦しなければ、という思いが広がり、原田が働き掛けて翌14年3月に自民党に国際情報検討委員会が設けられた。「砲弾ではなく情報と言葉を駆使して戦う」と、産経新聞が連載『歴史戦』を始めたのは4月のことだ。

 その後、6月に原田らが安倍に中間報告書を手渡したが、そこからは「主戦場は米国」という歴史戦争の新たな認識が浮かび上がる。中韓の反日宣伝によって2国間の案件がアメリカなどの第三国や国際社会に持ち出されたとした上で、「主として英語」による情報発信や「米国をはじめとする」議員との交流の強化を提案している。

 さらに9月、朝日新聞が慰安婦問題での誤報を正式に謝罪したことで、歴史戦争はさらに加速。自民党国際情報検討委員会の決議文も「虚偽の記事が国際的な情報メディアの根拠となり、国際社会がわが国歴史の認識を歪曲」したと、もっぱら国際社会への影響を懸念している。

 クマラスワミ報告などで日本が手をこまねいたツケがアメリカの靖国参拝批判であらわになった、今度こそ日本は「自衛」しなければIそんな保守派の思いが、今回のユネスコをめぐる歴史戦争の伏線だ。

 ただ国際社会を巻き込んだこの戦争は不毛な戦いにならざるを得ない、と情報戦に詳しい近現代史研究者の辻田真佐憲は分析する。情報戦は本来、国家が人員と予算をかけて行う外交の一手段で、最終的にどこかで和解するまでのプロセスにすぎない。南京や慰安婦など数々の問題についても、国家として交渉の余地を残す必要がある。

 しかし現在の歴史戦争は「正義」「誇り」といった価値観が出発点になっているため、容易に妥協点を設定することができない。日本の場合、交渉をめぐる意思統一もできていない。これまでのように政府内で南京や慰安婦の存在そのものを否定する不規則発言が飛び出せば、中韓がそこを追及して簡単に泥沼に陥ってしまう。

 さらなる懸念が「歴史修正主義」への国際社会の警戒感だ。戦後問題を突き詰めれば、戦後レジームに行き着く。実際、記憶遺産となった「南京大虐殺の文書」の申請書には東京裁判の記述が多く登場し、犠牲者数の根拠の1つとして同裁判が示した「20万人以上」という数字を挙げている。東京裁判はアメリカなど連合国による勝者の裁きであり、連合国を主体に設立されたのが国連だ。いくら英語で発信しても、国際社会から「歴史修正主義者」と認識されれば敗北は避けられない。
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歴史にこだわり過ぎる不毛

 逆にこうした懸念を克服すれば、歴史戦争の不毛さから抜け出せるかもしれない。そのために必要なのは、日本政府が目指す目標を明確にすることだろう。これまで日本では歴史家や記者が論争の中心で、歴史的事実の追及に焦点が置かれがちだった。だが歴史家や記者は外交戦の主役にはなれない。

最終的には政府が何をもって勝利とするのかをはっきり示すべきだ。 史実にこだわり過ぎる姿勢も不毛だ。慰安婦の強制性を問うのも大事だが、声高に主張するほど歴史修正主義の誤解を招く。戦後の日本が積み重ねてきた人権尊重や民主主義、国際貢献を実績として冷静に訴えるほうが、国際社会の共感を呼ぶ。そうすることで、特に現在も人権弾圧を続ける独裁国家・中国と日本のどちらに説得力があるか、各国は次第に理解するはずだ。

 来年には中国が慰安婦資料を記憶遺産に再申請するという。ユネスコが本当に「平和の舞台」となるのはいつのことだろうか。 


そもそも歴史戦などという言葉を使われること自体不愉快だ。捏造した歴史を使い自国民を統治し、外交を有利に展開しようと言う悪意に対する正当防衛である。

公平な歴史を記録し、言われない祖先、先達たちへの侮辱を糺すのは今を生きる日本人の義務である。

中共指導部は自らの統治を正当化する神話(=正確な歴史ではなく「権力を正当化する修正版」)を何より必要とする。共産主義のイデオロギーが崩壊した現在、民主主義や人権など欧米の価値観に対抗できる他のイデオロギーや文化を反日とナショナリズム以外持ち合わせていないからだ。毛沢東時代に封建主義の権化として排斥した孔子を、今になって再評価するのもその表れだ。

支那の歴史は次の王朝が前の王朝の歴史を編纂している。前の王朝がいかに腐敗し、堕落したので、現王朝が天の命令で成立したかという正当性を確立する易姓革命の理論から歴史を編纂するのである。易姓革命とは天は己に成り代わって王朝に地上を治めさせるが、徳を失った現在の王朝に天が見切りをつけたとき、革命(天命を革める)が起きるとされた。そもそも支那においては歴史とは現王朝を正当化する道具なのだ。

欧米や中国人の中には公正な歴史をジャッジできる人達が存在する。その知的な人達に向かって日本は中共のプロパガンダまみれの歴史を論破する事実を提示する義務があると思う。支那の歴史を振り返れば納得のいく理論だ、中国共産党の前王朝は台湾の中華民国ではなく大日本帝国と欧米による植民地支配なのだ!

支那における歴史とは現王朝の権力維持装置であって、政治的なものでアカデミックな歴史ではない。21世紀の今も現王朝である中国共産党が歴史自分に都合が良く書き換えているということを世界中の人達が知るべきである。

『一九八四年』においてジョージーオーウェルは、「現在を支配する者は過去を支配し、過去を支配する者は未来を支配する」と書いている。欧米人の多くも歴史とは勝者歴史であって勝者が書く歴史とはいかがわしいものであることは理解しているはずだ。だが、独逸を含む欧米にとって、己の悪の歴史である植民地支配の終焉の切っ掛けとなった戦前の日本を悪者とする中共(朝鮮も含む)のプロパガンダは実に都合が良い。中共指導層は、オーウェルの洞察を裏付けるようなことを実践してきた。権力を維持するために不都合な過去を検閲し、改竄している。 

 中国共産党は都合のいい歴史とは、先日の習近平が英国でぶった傲慢で失礼な演説からもうかがうことができる。

(略)中国は「過去に、立憲君主制や議会、大統領制などを導入しようと試み、失敗し、それに学び、最後に社会主義の道を選んだ。社会主義は人民が求めた結果だ」と説明した。

 演説は約27分間。中国語の演説を、通訳を介して聞いていたことや、一日の疲れもあったのだろう。演説する習氏の隣で、英王室のエスコート役、アンドルー王子らが疲れたような表情で下を向いて話を聞く様子がカメラに収められた。          
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習近平主席のあいさつ中、下を向く出席者(AP)                                                                                  
 一方、20日の議会演説については、英紙フィナンシャル・タイムズが「議会制が誕生した揺りかごでみせた習氏のぶざまな瞬間」と紹介した。

 習氏は演説で「英国は最も古い議会制国家だが、中国は2000年も前から法治の重要性を語ってきた」と述べ、民主主義に関係した中国批判は受け付けないとの姿勢を暗に示した。

 同紙はこれに対し、「法の支配」の理念を生み、近代民主憲法の礎石となったマグナカルタ(大憲章)制定800年を迎え、中国で巡回展示を行う予定が急きょ、当局に中止させられたことを紹介。「中国に法治と民主主義を強調する資格があるのか」「自分たちに有利な歴史だけ言及した」などと批判する議員たちの声を報じた。
(略)

1989年の天安門事件以降鄧小平がはじめ、江沢民が加速させた、ナショナリズムを吹き込み、日米欧諸国へ憎悪を掻き立てる教育をもう四半世紀以上続けている。

中国共産党は、自国民にも巧妙なプロパガンダを吹き込む。シナは古来より文化や技術における偉大な業績や近隣諸国への博愛心で知られる比類なき文明国である、漢字を発明し、儒教や道教は世界の思想に影響を与え、紙・印刷・火薬・羅針盤を世界に教えてやった、世界は中国に感謝し、何でも言うことを聞くべきだと・・・

欧米と日本は過去に中国を蹂躙しただけでなく、今もTPPなどで中国の封じ込めをたくらみ、中国の台頭を阻む敵なのだとも洗脳し、共産党が無ければ再び植民地になるという巧妙なプロパガンダを行う。特に安倍首相は戦前の極右であるという自分のことを棚に上げた恥ずべきプロパガンダを続行中である。

毛沢東の大躍進政策(3600万人以上が餓死)や文化大革命、天安門事件などの不都合な事実は隠蔽し、共産党は貧しい非力な国を世界から一目置かれる近代国家に変貌させた力強くて慈愛に満ちた党といのが、中共が描く自画像だと言うから噴飯ものだ。

現在のシナは強大なので、国民の外国嫌いをあおっても経済的、地政学的な悪影響はないと中共は考えている。シナは強くなったが、日米欧に比較するとまだ弱くて貧しい。日米欧は中国の最大の輸出先であり、シナは日米欧のテクノロジーに頼っている。経済が減速中の中国は今後、日米欧をさらに必要とするだろう。 シナの熱狂的なナショナリズムは日本、ベトナム、フィリピン、インドな
どをアメリカに接近させている。いずれはこれらの国々が同盟を組み、中国を封じ込めようとするだろう。オーウェルの歴史観も、こう修正すべきではないか。過去を支配する者は、必ずしも未来を支配しないと

シナにはまともな人民が少しばかりは存在する。やがて中共が歴史を権力維持の道具に使うことには致命的な欠点が露呈するだろう。経済が崩壊すれば、怒りによる反欧米主義的なナショナリズムは、すべて共産党への憎悪へと変化するだろう。やがて共産党政権は崩壊し、シナは四分五裂するだろう。

シナの本当の歴史や諸外国との関係を知る我々は、こうした歴史の歪曲や改ざんを決して許すべきではない。中共のプロパガンダに対してはシナの本当の歴史をその都度声を上げていくべきである。世界に対し本当の歴史を発信し続けるとともに、日本人全てがシナのプロパガンダに抵抗力を持ってほしいと思うのであります。


執筆中

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異常気象が変えた人類の歴史 [著]田家 康
[文]江田晃一  [週刊朝日]2014年10月10日

歴史を理解する時、英雄の登場や為政者の行動などに背景を求めがちだ。本書はこうした歴史の理解に、自然科学の視点を持ち込むことで読み手の認識を一変させる。先史時代から未来予測まで、数万年単位での気候変動が歴史にどう関わってきたのかを40の話を通じて読み解く。                      
例えば、6世紀に領土を拡大していた東ローマ帝国の進撃を止めたのは、地球の裏側の巨大火山の噴火だったと指摘する。ナポレオンがワーテルローの戦いで大敗したのは戦略の誤りではなく、エルニーニョ現象によるものだと推論する。                                                 大国の趨勢を左右する事象だけでなく、最高品質の弦楽器であるストラディバリウスの音色や京都のアカマツ林の秘密にも迫っており、話題の幅も広い。     
異常気象は歴史を変えた全てではないが、分岐点となる出来事に影響を与え、文化や生活そのものを変えてきたことがわかる。同時に、本書は温暖化や寒冷化の恐ろしさを改めて教えてくれる。日本のみならず世界で異常気象が相次ぐ今、多くの示唆に富んだ1冊だ。
目次
第1章 現生人類の最初の試練 — 先史時代
- 第1話 氷期(氷河期)は4回ではなかった
- 第2話 現生人類の最初の試練
- 第3話 ひとつ前の間氷期の気候 — 海面水位はどこまで上昇したか?
- 第4話 人類はいつ頃から衣服を身に付けたのか? — シラミとトバ火山
- 第5話 ネアンデルタール人と現生人類の生存競争
- 第6話 狩猟採集生活における男女の役割
- 第7話 突然訪れた急激な寒冷化へのサバイバル術 — 農耕の開始
- 第8話 縄文人の食文化
第2章 海風を待ったテミストクレス — BC3500年~AD600年
- 第9話 サハラの砂漠化とエジプト文明の誕生
- 第10話 紀元前2200年前の干ばつと『旧約聖書』の中のユダヤ人の流浪
- 第11話 巨大火山噴火による大津波に襲われたミノア文明
- 第12話 海風を待ったテミストクレス — サラミスの海戦
- 第13話 ハンニバルが越えたアルプスの峠 — 第2次ポエニ戦争
- 第14話 フランスのブドウの先祖は耐寒品種
- 第15話 倭国内乱と聖徳太子の願い
- 第16話 皇帝ユスティニアヌスの夢をくじいた新大陸の巨大火山噴火
第3章 京都東山のアカマツ林の過去・現在・未来 — 700年~1500年
- 第17話 日本と中国での漢字の違いはいつ頃生まれたのか
- 第18話 京都東山のアカマツ林の過去・現在・未来
- 第19話 中尊寺落慶供養願文にみる奥州藤原氏の繁栄
- 第20話 火山噴火が多発した13世紀後半
- 第21話 侵攻時期を逸したクビライの遠征軍 — 弘安の役
- 第22話 怪鳥モアを絶滅に追い込んだ森林放火
- 第23話 寒冷期の訪れが芸術のテーマに「死の勝利」を選んだ
- 第24話 コンスタンティノープル市民を絶望に陥れた月食
第4章 ストラディバリウスはなぜ美しい音色を奏でるのか — 1500年~1850年
- 第25話 民衆を魔女狩りに駆り立てた悪天候
- 第26話 オレンジ公ウィリアムを運んだ「プロテスタントの風」 — 名誉革命
- 第27話 ストラディバリウスはなぜ美しい音色を奏でるのか
- 第28話 宝永噴火の火山灰は江戸町中に降り注いだ
- 第29話 フランス革命の扉を開いた異常気象
- 第30話 ナポレオンの進撃を阻んだ温帯低気圧 — ワーテルローの戦い
- 第31話 フレデリック・ショパンとジョルジュ・サンドの愛の旅路
- 第32話 アイルランドのジャガイモ飢饉を起こした湿潤な天候
第5章 破局的な自然災害をもたらすもの — 1900年~未来
- 第33話 タイタニック号沈没の背景
- 第34話 大寒波で頓挫したヒトラーの野望
- 第35話 「氷河期が来る!」と叫ばれた1960年代
- 第36話 食料安全保障を生んだ世界食料危機
- 第37話 桜の開花日からみた京都の春の気温
- 第38話 人為的温暖化の危機とは何か
- 第39話 次の氷期はいつ来るか?
- 第40話 破局的な自然災害をもたらすもの
おわりに
主な参考文献

田家先生の新しい本が出た!
毎度、知識欲を刺激する濃い内容に本当に感服する。

数年ごとに発生するエルニーニョ現象や偏西風の蛇行の変化、十年ごとの太平洋の海面水温の上下動、数十年・数百年といった単位での太陽活動の変化といった大規模でゆっくりとしたうねりは、各大陸、北半球・南半球さらに地球の気候全体を変える力を持っている。

私たちの生活も、こうした時間的・空間的にみてさまざまなスケールの気象・気候の変化と無縁ではない。

私は相場を生業としているヤクザな者です。相場の変動要因になるものは森羅万象ありとあらゆるものに興味がある。太陽黒点周期、気候変動と景気の変動には関連性がある。1キチン循環(約40ヶ月:在庫循環2 ジュグラー循環(約10年:設備投資、太陽黒点周期3 クズネッツの波(約20年住宅や商工業施設の建て替え、建設需要4 コンドラチェフの波(約50~60年技術革新)と関連性がある。
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今、気になっているのは北米が今年も厳冬となり経済活動が低下するか否かだ。
昨年、記録的寒さと大雪で、北米の経済活動は大きく滞った。株価や為替、エネルギー価格、食料価格、景気に大きく影響を与える。

北米の五大湖周辺 記録的大雪
 【tenki.jp】  2014年11月19日 23時18分

アメリカでは寒気の影響でこの時期としては異例の寒さとなり、五大湖周辺では記録的な大雪となっています。雪はしばらく降り続き、大雪などに警戒を呼びかけています。
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気象衛星GOESから撮影した可視画像 日本時間で19日(水)午前3時        
上空にはこの時期としては強い寒気が流れ込み、
北米の五大湖周辺(上の画像参照)には
冬季の日本海でもよく見られる筋状の雲(雪雲)が確認できます。

この雪雲が次々と流れ込んでいる
ニューヨーク州西部の都市バッファロー周辺では記録的な大雪となっています。

もともと冬季に北西の季節風が吹くと、北米の五大湖の風下にあたる
ミシガン州やニューヨーク州北西部では大雪に警戒が必要で
このような雪を「Lake-effect snow(湖に起因する降雪)」と呼んでいます。

その発生のメカニズムは実は日本海側の降雪と同じなんです。

<冬に日本海側で降雪となる理由>

冬季、冬型(西高東低)の気圧配置になると
等圧線は縦縞模様になり、
大陸の高気圧から北西の冷たい風が吹き出すようになります。

その冷たい風が日本海を通過する際に
相対的に暖かい海面から多量の水蒸気が補給されることで
空気が湿り気(水蒸気は雲のもと)を帯びて
日本の山脈にあたり上昇気流となることで降雪となるのです。

スケールこそ違いますが
北米の五大湖が、まさに日本海と同じような役目をすることで
その風下側では大雪となることがあります。

ニューヨーク州西部では雪はしばらく続く見込みで
アメリカの気象当局(NWS)では「Lake-effect snow警報」を出して
大雪や降雪雲下での視界不良などに警戒を呼びかけています。
エルニーニョが発生すれば暖冬となるのですが、11月から記録的雪となり、昨年同様厳冬の予感がある。となると相場は・・・米国の相場は厳しいものとなりかねない。

地球は、太陽黒点の減少から小氷期に向かいつつあるが、温暖化も進み、異常気象が多発している。異常気象という概念は、過去の発生頻度からみて30年に一度の頻度のものを異常気象とよび、確率的な現象であり、地球全体の観測点が膨大であることを考えれば、毎日、地球上のどこかで局所的な異常気象が起きても不思議ではない。

温暖な天候の恩恵を受け望外の豊作を得ることもあるだろう。不思議なもので、自然環境の好転によって社会や経済が発展すると、人間はすべてを自分自身の実力だとうぬぼれ、反対に環境悪化で苦難を強いられると、禍の主因を外部に求めて不運を恨む。これも人間の性なのだろうか。 ことほど、自然環境とわれわれの歴史は切っても切れない関係にある。

中でも気象の変化や気候の長期変動は大きな要素であり、私たちの宗教、美術、音楽といった文化的側面から、国や社会、社会のおり方まで、深く関わってきたことに驚かされる。過去の話ばかりではない。未来をみすえた際も、私たちは今までと同様に気象・気候という自然現象のふるまいに無関心ではいられない、人為的な地球温暖化によって異常気象が増加するとの見方もあるように、異常気象と社会の関係とは未来にもつながる大きなテーマである。

閑話休題

第3話 ひとつ前の間氷期の気候 — 海面水位はどこまで上昇したか?
p26-27
(略)                                              およそ12万年前の間氷期は、今世紀の半はから顕著になると予測されている地球温暖化による環境変化を考える上で貴重な事例といえる。現在よりも北半球平均気温で2℃の上昇、極地では5℃の上昇、これはまさに気候変動にかかる政府間パネル(IPCC)の報告書での未来の気温上昇予測の数値である。     
海面水位は、12万9000年前(±1000年)から11万8000年までの間に4~6メートル上昇した。エーミアン間氷期ほどの海面水位の上昇は、その後現在に至るまでない。このため、当時のサンゴ礁の形跡は陸上に残っており、地殻変動の要因を考慮すれば当時の海面水位の仁昇を知ることができる。インド洋沿岸では1・7~6メートル、アルゼンチン南部のパタゴニアでは2~6メートルと各地で確認されている。                                           
エーミアン間氷期の海面水位の上昇は、主にグリーンランド氷床の融解によると考えられる。コンピューターシミュレーションでは、グリーンランド氷床の要因での海面上昇は3・7~4・4メートルとの計算結果かおり、仮に6メートルの上昇であったならば、グリーンランドだけでなく南極氷床の一部も融解していたのであろう。また、リスボン沖の海面水温が上がっていることから、海水の熱膨張という要因も加わっていたに違いない。                                
もっともエーミアン間氷期では、現在よりも気温や海面水温が高かった時代が 5000年以上続いており、海面水温上昇も数千年という時間軸で起きたものだ。                                                 一方、ICPPによる温暖化予測は温室効果ガスの排出が現在のペースで続いたとのシナリオで、21世紀末までに45~82センチメートルの上昇幅となっている。とはいえ、平均気温が現在に比して2℃以上で高止まりすれば、海面水位の上昇はその後も続き、エーミアン間氷期の水準にまで達するのかもしれない。
第6話 狩猟採集生活における男女の役割
p38-39
(略)                                               男性が狩猟を担うことになったのは、何も背が高く力が強いためだけではなかったかもしれない。もうひとつ、赤と緑、が判別しにくい色覚異常という観点がある。哺乳類の先祖は、古生代末に登場したキノドン類などの単弓類(哺乳類型昶虫類)である。中生代三畳紀になると、哺乳類は恐竜によって生息域を狭められ、小型で夜に食物を探す生態へと追い込まれた。魚類、両生類、爬虫類、鳥類は青、赤、緑を識別する3色型色覚、あるいはこれに紫外線を加えた4色型色覚を持っている。しかし、夜行性を強いられたことで、哺乳類の先祖は赤への維体視物資を失い2色型色覚になった。イヌやネコを含む哺乳類のほとんど、が2色型色覚ゆえ、赤を識別できない。

ところが、およそ3000万年前、狭鼻猿類はX染色体の一部に長波長型の遺伝子を持つようになり、3色色覚を再び獲得した。X染色体の中での変異ゆえ、もともとは女性だけが3色色覚を待ったのだが、相同組換えによる遺伝を重複を通してX染色体のペアの中に短波長の緑と長波長の赤を認識しり遺伝子が共存するすることになった。これによりX染色体をひとつしか持だない男性も3色色覚を得ることになる。ただし、相同組換えでは赤と緑の遺伝子にきれいに振り分けられるとは限らない。このため、2色色覚に由来する色覚異常は、男性に多い。日本人の場合、女性ではO・5%以下であるのに対し、男性では約3・5%となっている。

3色色覚で赤を認識できるならば、森林で葉の中に隠れている野イチゴを探すのに非常に有利だったであろう。有毒な昆虫、昶虫類、キノコ類など、が発する警戒色の識別も容易だ。食物を森林で採集をするには3色色覚を持つ女性が分担するのは合理的であったに違いない。一方、狩猟を行う際、明け方や夕方に大地が赤く染まると赤色の認識によってかえって視界が見えにくくなる。この時に2色色覚の男性は有利に働いたのではないか。

森林で生活する狭鼻猿類のマカクザルは、人類に比べて2色型色覚ははるかに低い。食物を得るために3色色覚が有利であるためだ。人類の場合、狩猟を行い始めたことで3色色覚への淘汰圧が下がったからだと考えられている。
第9話 サハラの砂漠化とエジプト文明の誕生
p50-53
およそ1万年前から6000年前にかけて、地球の軌道の関係で北半球中緯度の夏季の日射量は現在よりも8%ほど多かった。北緯20度の6月から8月の平均的な日射量でみると、1平方方メートルあたり現在の450ワットに対し、1万年ほど前は480ワットを超える値であった。北半球は南半球と比較して大陸が多く分布しており、日射をより多く吸収する。
自然環境の要因だけからすれば、完新世でもっとも地球の気温が高かったのは、1万年前から6000年前にかけてであり、「完新世の気候最適期」とよばれている。

この時期のアフリカ大陸サハラ一帯は緑におおわれていた。これは熱帯収束帯という上昇気流が発生し雨を降らせる地域が、夏季に現在よりも北上していたからだ。インド洋や大西洋からのモンスーン(季節風)が強く、風によって大量の水蒸気がサハラに運ばれていた。加えて、サハラの植生、が水蒸気を保有し、地衣に湿潤にする効果もあった。

このように、サハラは常に砂漠であったわけではない。一方、最終氷期の時代にはモンスーンが活発ではなく、サハラでは現在よりも砂漠が広かっており、砂漠と熱帯雨林の境界のサヘル(草原地帯)は、現在よりも500キロメートル南側にあった。完新世に入ってから、アフリカ大陸北部は高温湿潤の気候に変わり、熱帯雨林の地域は広、がり、その北側の草原サヘルが現在の砂漠のある地域まで北上したのだ。

アフリカ大陸サハラの高温湿潤な気候は、6000年前を過ぎるころから変わっていっ
た。主たる要因は、太陽との距離がもっとも近くなる近日点が北半球の夏から冬へと移っていったからだ。日射量が減少する過程で、モンスーンの強弱が気候の与える影響が目立つようになる。さらに植生範囲が少しずつ狭まくなっていき、サハラ全体での土壌に含まれる水蒸気の長期的な減少傾向となった。

モンスーンの弱化により、サハラの砂漠化傾向が顕著になった時期は、5500年前から5000年前にかけてだ。この時代に地球全体の気候が人きな変化をみせた。乾燥化した地城はサハラだけでなく、中国、インド、中東、メキシコでも証拠がみつかっている。ヨーロッパ、アフリカ雨部、北アメリカ、ニュージーランドでは寒冷化した。

サハラの草原に住んでいた人々は、1万年前は野生動物を狩猟する生活を行なっていた。
その後、8200年前に400年程度の一時的な寒冷化時代に、羊を飼育する牧畜を開始している。この時の寒冷化とは、アメリカ大陸北部で最後に残った大きな氷床の塊が大西洋に流れ込んだためだと考えられている。短期間の寒冷化の後、再び高温・湿潤な気候に戻ったが、彼らは羊を連れてサハラの草原を遊牧する生活を続けた。そして、5500年前に寒冷化・乾燥化の波に襲われることになった。

羊を育てる適地が少なくなると、遊牧民は水を求めてナイル川流域へと流れ込んだ。ナイル川流域では8000年前から農耕が行われており、この地域の人口が急増していったのだ。当時の遺跡があった場所をみると、上エジプ卜とよばれるナイル川中流域で5300年前以降にその数が増えている。

人口密度の増加によって、人々の社会は複雑化していった。社会階層が生まれたことは、墓地での埋葬品が人によって異なることから推察できる。ナイル川沿いで農業を行いながら生活するならば、農耕の技術者と牧畜しか知らない避難民との間で指示する者と指示される者の関係も生まれたに違いない。かくして、奴隷という身分が出来、役人が生まれ、やがて統治者たる王が現れた。

農耕開始以前から、戦闘も行われていたと考えられている。1万2000年前から1万年前とされるナイル川沿いのジュベル・サハバ117遺跡では、49の人骨の約4割に石鏃が食い込んでいた。この戦闘集団は社会の複雑化によって、さらに高度な組織になっていったであろう。王権は武力によって支配を強めたに違いない。

エジプトではナイル川の中流に上エジプト、下流に下エジプトという2つの支配グループがあった。5200年前を過ぎた紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王が下エジプトまで支配し、エジプト第1王朝を創始した。サハラからの人口流人はナイル川中流の方が多かったとみられ、上エジプトが国力で下エジプトを圧倒したのであろう。上エジプトは下エジプトを平和の中で併呑したのか、それとも武力で打倒したのか。定かでない。しかし、上エジプトの首都ヒエロコンポリスで発見されたナルメルのパレットには、大きな姿の国王が敵の髪の毛を握ってこん棒で殴りかかる姿が描かれ、裏面には首のない死体が並んでいる。激しい戦闘があったことを暗示させるものだ。

第11話 巨大火山噴火による大津波に襲われたミノア文明
p59-62
紀元前1700年前から同1600年前の間に、エーゲ海キクラデス諸島にあるサントリーニ島で巨大火山の噴火があった。アメリカ西部のブリストルコーンパインの年輪幅では紀元前1628年から1626年が狭く、アイルランドのオークの年輪幅では紀元前1630年が最も狭い。また、グリーンランドの氷床コアによる火山灰のデータによれば、噴火年は紀元前1669年、1642年、1623年あたりと推定される。噴火規模は過去1万年で3本の指に入る大きさで、マグマ換算体積という尺度でいえば、20世紀最大の噴火である1991年のピナトゥボ火山の12倍に相当したと考えられている。

現在、衛星写真からみるサントリーニ島は三日月型の形状をしており、海底に没した噴火口の大きさは、東西6キロメートル、南北8キロメートルという大きさを知ることができる。地質学訓査では、カルデラ状の島弧全体がかつては巨大な火山島であったことが確認されている。

直接的な影響を受けたのが、クレタ島のミノア文明だ。ミノア文明はエーゲ海文明の一つとして位置づけられ、紀元前1900年頃から繁栄をとげていた。青銅器や土器は芸術性が高いとされ、クノッソスの宮殿には世界最初の水洗トイレも設置されていた。島内では穀物、オリーブ、ブドウを栽培し、ヤギ、ヒツジ、ブタを飼育していた。主たる経済活動はアナトリア、キプロス、メソポタミアといった地中海東部との交易であった。このため、ギリシャ本土との中継地点として、サントリーニ島にあった植民都市アクロティリはミノア文明にとって重要拠点になっていた。

サントリーニ島の巨大噴火に際し、クレタ島は東南東に100キロメートルあまりの近距離にあることから巨大津波が到来した。島東部の港町パレカストロは、海洋国家の玄関口であり、町の規模は宮殿のあるクノッソスよりも大きかった。商船のみならず洋上交通を確保するための軍船もこの港に置かれていただろう。津波に流されたためか、パレカストロを含めて海岸沿いの町の城壁は残っていない。ミノア文明の力の根源であった海軍力のほとんどを喪失した。サントリーニ島の植民部市アクロティリは姿を消した。

パレカストロが壊滅的な被害を受けアクロティリを失ったことで、ミノア文明の打力は変容していった。噴火による津波から数世代経つと、ミヶーネ系のギリシャ人が島を支配する。もともと多神教の文明であったが、噴火後にそれまでと違う寺院が建てられ、新しい宗教的なデザインが描かれており、宗教の変化があったようだ。ミノア文明の土器の文様ではイルカ、タコ、海など海をモチーフにするものが増加している点も、住民の心の有り様の変化を示すものかもしれない。

さらに、クレタ島で用いられてきた文字は、線文字Aからギリシャ語へとつながる線文字Bへと変わった。線文字Bは1950年にイギリス人のマイケル・ヴェントリスによって解読された。しかし、サントリーニ島噴火時に用いられていた線文字Aについては今日でも未解読であり、巨大火山噴火についての文献記録を知ることはできない。地震と津波による大災害というイメージは、プラトンによる『クリティアス』でのアトランティス大陸の伝説へと引き継がれたのであろう。

サントリーニ火山の噴火は、近隣諸国に異常気象をもたらした。エジプトは紀元前1782年頃以降、ヒクソスがナイル川下流を支配する第2中間期とよばれる分裂時代であった。
第18王朝を開いたイアフメス1世(在位一紀元前1570‐同1546)の神殿のヒエログリフからは洪水を伴う激しい暴風雨の記録が残っている。自然災害は、サントリーニ島に近いナイル川下流の方が大きかったに違いない。イアフメス1世は兄カーメス(即位一紀元前1573-同1570)の後継者としてヒクソスを完全に駆逐し、エジプトを再び統一して第18王朝たる新王国を築いた。

最後に、旧約聖書に描かれたモーセによる「出エジプト記」のエピソードについて触れたい。出エジプトについての考古学的証拠は見つからず、ラムセス2世(在位一紀元前1279‐同1213)の時代に起きたとするのも、『旧約聖書』の解釈に過ぎない。

しかし、もし海が割れるようなイメージを喚起させる自然現象があったとしたら、サントリーニ島の火山噴火を原因とする異常気象や地震、洪水によるものではないか。『旧約聖書』の「出エジプト記」にある電、雷鳴、強風といった描写には、巨大噴火に伴う自然現象を連想させるように思われる、が、いかがだろう。
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サントリーニ島画像




執筆中
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NHK連続テレビ小説「花子とアン」。『赤毛のアン』の翻訳者・村岡花子が貧しい農家に生まれながらも英語を学び、関東大震災や戦争の苦難を乗り越えて翻訳家として成長していく反省を、明治、大正、昭和にわたって描くドラマだ。本書は、上記ドラマの時代背景ならびに実像が「ひと目でわかる」よう、写真でなぞる。関東大震災から立ち直る日本の姿と併せて、女性のファッションが着物から洋風化する様子なども紹介する。

他方、昭和8年の「昭和三陸地震」では、東日本大震災のときのように大型船が打ち上げられている写真もあり、日本は大打撃を受けたことが「ひと目でわかる」が、その直後に、日本が大正時代に中国に与えた借款約10億円(現在の2~3兆円)が踏み倒されたことをご存じだろうか? 何やら現在の状況とオーバーラップするが、それでも我が国は衰退しなかったのだ。

日本人が自信と誇りを取り戻せるビジュアル解説本。

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大正時代には、欧米で流行っていたものはリアルタイムで紹介されていた

 一九二五(大正十四)年頃になると、欧米の映画やレビューだけでなく、様々なものが誌面で紹介されていました。
上の写真は、上半身をカットしたわけでなく、そのままの写真が掲載されていました。すぐにでも原宿の女の子たちが、ア
レンジして現代に甦らせてもおかしくない斬新さがあります。

この写真の横には、。どれだけ喰べたらいいのか”「呼吸の度数で、基礎的代謝機能を測定する器械。この結果でどれだけのカロリーを含む食物が、その人に適当であるかがわかる」と、疑わしい写真があったり、誌面の半分を占めている”復活した
英国の槍兵”の写真など、面白い写真が掲載されていました。

ちょうどこの頃、レコードとラジオが普及しはじめて、蓄音機やラジオの受信機の広告がたくさん掲載されていました。ま
た、すぐには一般化しないベルギー製カットグラスの水差しやフルーツスタンド、ワイングラスなどの高級品も紹介されてい
ました。

”夏の流行いろいろ”『アサヒグラフ』 (一九二五年五月二十日)
では、「あひると蛙ゴム人形」の水遊び用の玩具が紹介されていたり、時計応用のラジオ蓄音機などの新商品まで紹介されていました。 中国との交流が薄かったこの時代は、誌面に暗くなる記事はいっさいありませんでした。


国民は米国の圧倒的な国力を知っていた                              P19

 戦後教育では、日本が軍国化していって、米国との無謀な戦争へ突入したことになっています。しかし実際には、本頁の『アサヒグラフ』の表紙を見てわかるように、国民は、日米開戦の十年前から米国との国力の差を、リアルタイムかっ様々な情報で十分認識していたのです。

『アサヒグラフ』には、一九四一年夏に石油の八割が米国からの輸入で、戦時で一年半の備蓄しかないと記事になっており、山本五十六連合艦隊司令長官が、「やれと言われれば半年や一年は存分に暴れてご覧にいれますが、二年、三年となれば確信は持てません」との発言は、石油備蓄状況をなぞっただけだったのです。

パール東京裁判インド代表判事は、「ルクセンブルクのような小国でも、米国が日本へ通告した『ハルーノート』と同様のものを突きつけられたら、国家存亡をかけて矛を手にするであろう」と、判決文に記載したのです。 日米開戦を望んだのは、一九四一年八月一日に、日本への石油を全面的に禁輸した米国だったのです。

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「排日移民法」施行下で一九二五年三月六日に松平大使の大歓迎会が開催されていた                        p38-39

「排日移民法」は、一九二四年九月一日に米国で施行された法律です。この法律は、ヨーロッパからの移民には比率の制限でしたが、アジア人だけが全面的に禁止された「人種差別」に基づくものでした。当時、アジアから米国への移民のほとんどが日本人だったことで、日本を狙い撃ちした通称「排日移民法」と認識されています。

日本政府は、日本人の排斥をしないように米国に要請をしていたこともあり、施行は衝撃だったのです。この法律の遠因は、一九一九年のパリ講和会議で日本政府が「人種差別撤廃決議案」を提出したことへの嫌がらせ法案の意味合いがあります。当時の五大国間では、このような差別的な法律が施行されただけで開戦の要件になると、当時、在日本イギリス大使が発言していたほどの挑発的な法律だったのです。

そうであるなら、「排日移民法」の裏にある米国の「悪意」を察知し、ロビー活動を徹底的に実施する必要があったのですが、十六年後の日米開戦まで、ほとんど何も行われませんでした。

そのような険忠な日米関係の最中の一九二八年三月六日、日本人排斥の本場サンフランシスコで、松平大使の大歓迎会が開催されていました。
記事には、「桑港日本協会は三月六日フェアモント・ホテルにおいて松平大使一行歓迎晩餐会を開き、会衆は同地政界、実業界の代表者、外国領事、陸海軍武官等約四〇〇名に達した。席上、キャンベル加州大学総長、ハナ旧教大僧正、ブリッチェット・カーネギー財団代表等の演説あり、なおルーミス日本協会長は、クーリッジ大統領およびヒューズ氏の歓迎文を朗読し、会衆に非常の感動を与えた」と、記されています。

この当時の米国は、まだ朝野を挙げての排日(反日)になっていなかったので、この時点であれば、情報戦(ロビー活動)によって巻き返す余地は残っていたのです。しかし、日露戦争を前にしてのロビー活動のように、米国にはルーズベルト大統領とハーバード大学時代の同窓だった金子堅太郎男爵、英国にはケンブリッジ大学を卒業して各界に人脈をもっていた末松謙澄男爵をそれぞれ派遣してロビー活動にあたらせたような危機感は、当時の日本政府にはまったくありませんでした。

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戦後の「十五年侵略戦争史観」のからくり            p79

写貞に「満洲事変画報」とありますが、この号の三一頁中三頁しか満洲事変の記事はありません。その他は前頁で解説したとおりです。戦後、この三頁の部分を針小棒大に扱って、その他を封印してきたのが実態だったのです。

GHQ占領下から現在まで、わが国は長い問、言論統制をされている状態といっても過言ではないと思っています。

その根本には、一九四五(昭和二十)年九月十九日に発令された検閲の指針を示した「プレス・コード」があるのです。

戦後、日本国民は、米国が自由と民主主義をわが国に与えたと徹底的に洗脳され、それを日教組を中心とした団体 が教育の現場やマスコミをコントロールして、現在に至っています。

米国の日本人に対する洗脳は、まずメディアにターゲットを絞り、同九月一日、同盟通信に「連合国側の不利益になるニュースの配信禁止」を指令。同九月十日には、GHQ民間検閲支隊が、NHKラジオ放送の事前検閲を開始していました。

現在、日本政府もマスーメディアも、米国や中国そして韓国に対して腰が引けた対応をしている原因は、「プレス・コード」三〇項目の条文で、次に列記した主な禁止事項を見ると理解できるでしょう(条文は江藤淳『閉された言語空間』文春文庫より)。

1、SCAP:連合国最高司令官または占領軍総司令部批判/2、極東国際軍事裁判批判/3、SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判/4、検閲制度の言及/5、米国に対する批判/6、ロシアに対する批判/7、英国に対する批判/8、朝鮮人に対する批判/9、中国に対する批判/10、他の連合国に対する批判/B、連合国の戦前の政策に対する批判/22、戦争犯罪人の正当化および擁護(筆者注一靖国神社問題の本質はこれです)/23、占領軍兵士と日本女性との交渉(筆者注:占領下に米軍兵士が日本人女性数千名を強姦していたことの封印が目的でした)

満洲事変以前から現在も変わらない中国の条約無視  p80-82

満洲事変に至る道程は、日清戦争で勝利した日本が、清岡と取り交わした下関条約(一八九五〈明治二十八〉年四月)で、清国は遼東半島の割譲を約しましたが、清国は、当時、軍事大国だった三力国(ロシアードイツーフランス)をそそのかして、日本に遼東半島の還付を勧告させたので、日本は清国に還付せざるを得ませんでした。これが、日本との条約を中国が反故にするこうしだったのです。

そして日露戦争後に日本が清国(中国)と取り決めていた条約をことごとく無視していた無法国家中国と、法治主義に基づいた施政を行っていたわが国は、溢れ出そうなコップに最後の一滴を垂らすかのような状態だったのです。

実際、一九三一 (昭和六)年九月十八日に、関東軍兵士が爆破した柳条湖事件(満洲事変)の満州鉄道線の被害は、破損箇所が上下線合わせて一メートル足らずと枕本二本だったので、直後に奉天行きの列車は通過できていたのです。

ここまでに至る要因を検証することは、現在の中国が、一九七二(昭和四十七)年の日中共同声明を無視して、賠償を要求する行動に出てきた目的が理解できるようになるでしょう。

中国は、日本からの円借款など様々な援助で為政者が豊かになると、円借款などを踏み倒すだけでなく、鉄道や民間が投資した工場などの権益を奪い取る目的で抗日・侮日世論を煽り、それらを平定する目的で軍隊を出動させた日本だけを「侵略した」などの虚言を弄して非難し、日本が投資した鉄道や民間の工場などの権益をすべて強奪することが今も変わらない漢民族の伝統なのです。

戦後教育で、昭和初期からの中国のやり口を学んでいたら、経済界は中国への投資を控えていたことでしょう。

日露戦争の結果、日本は清国(中国)と「日清満洲に関する条約附属取極め」(一九〇五〈明治三十八〉年十二月)第三条で「清国政府は南満洲鉄道の利益を保護するの目的をもって該鉄道をいまだ回収せざる以前においては、該鉄道附近にこれと併行する幹線または該鉄道の利益を害すべき枝線を敷設せざることを承認す」と、約定しでいました。

それにもかかわらず、一九〇七(明治四十)年、清国は英国資本を導入して併行線を計画したため、日清間で軋轢が起きました。

それを踏まえて、一九〇九(明治四十二)年九月四日、日清間で「清国政府は新民屯-法庫門間の鉄道を敷設せんとする場合には、あらかじめ日本国政府と商議することに同意す」と、約定したのです。

一九一五(大正四)年五月二十五日に締結した”日華条約”で「日本国臣民は南満洲において、各種商工業上の建物を建設するため、または農業を経営するため、必要なる土地を商租(譲渡)することを得」と規定していましたが、中華民国は、その調印一ヵ月後の同六月二十六目付大統領令で「懲弁国賊条例」を発布して、「日本人に土地を商租した者は『売国罪』として死刑に処す」と規定したのです。本来、国家間の条約は国内法に優先しますが、それらの国際的な法理が逆転することが中華思想の核心なのです。

以上の条約を中国側が履行していたら、日本が戦争に巻き込まれることはなかったのです。

一九二七(昭和二)年に張作霖は、米国の資本協力を得て南満洲鉄道の併行線を敷設していました。

一九三〇(昭和五)年だけで、南満洲鉄道とその附属地における被害は、関東庁警察で取り扱った被害事件が一二九四件もあり、関東車が扱った事件も「運行妨害・貨物被害=六○件」「電線妨害=二〇件」などがあったのです。

満洲と朝鮮国境地域では、中国人と朝鮮人の争いは激烈を極め、一九三一(昭和六)年七月四日『南鮮版朝日新聞』には、「万宝山事件で仁川の朝鮮人憤慨し、支那町は刻々に危険」とか、『西北版』同七月五日付には「京城の鮮支人衝突事件衝突、破壊、脅迫、傷人市内の各所に頻発す支那人街休業の姿」などと、当時の『朝鮮版朝日新聞』には連日、朝鮮人と中国人の衝突記事が掲載されていました。すでに戦争状態の様相を呈していたのです。

関東車兵士を激高させた事件は、一九三一(昭和六)年六月二十七日、中国東北部を調査していた中村震太郎大尉が張学良軍に惨殺され、遺体が焼き捨てられたもので、それが「コップがあふれる一滴」になったと思っています。

関東車は、米国が張学良を支援していたことを承知していても、米国の民間人を手厚く保護していました。

官民一体の排日・侮日運動と円借款の踏み倒し       p84-85

満洲事変前には、南京国民政府が排日を奨励する訓令を発し、学校や軍隊で排日教育を宣伝する手段として、排日唱歌と排日軍歌まで歌わせる徹底ぶりだったのです。

一九九〇年代に江沢民中国国家主席が反日教育を徹底していたときと満洲事変前の排日教育は、ほとんど同じです。日清戦争後に中国へ提供した円借款について、一九三三(昭和八)年七月三十日付『大阪朝日新聞』には次のように報道されています。「南京政府の手によって処理せられるに至らば(筆者注:欧州列強の借款)その幾分は必ずや抗日資金として使用せらるべきは明らかであり、したがって列強の対支借款は連盟の対支技術協力とともに平和を撹乱するものといってよい、対支借款はいわゆる西原借款などの政治借款と称せられるものを合算すれば、いまや元利合計一〇億円にも達しているが、この政治借款について南京政府は全然責任なきが如き態度を執っており、その不都合は別に考慮するとしても、なお明らかに南京政府において償還の義務を有しながら知らざる振りをせるものの主要なるものを挙げると、次のようになっている。                                                         ……このほか南京政府車山借款、陸車被服借款、第一次軍器借款、印刷局借款、済順、高徐両鉄道借款、参戦借款など国庫券を担保とせる借款は約一億二〇〇〇万円ある。これら南京政府として逃れ難い厳然たる担保を提供しておりながら、最近数年間は利払いをもなさず、はなはだしきものは大正十三年以来不払いになっているものもある。よって現在これらの元利金を正確に計算すれば三億円に達するであろう。しかもいずれも元利償還期限のあるものであるが、支那の財政の状態を考慮して断乎たる処置を執らずに来たものである」と。ちなみに、当時の一〇億円は現在の三兆円相当です。

ヨーロッパ列強の対中借款は、最大の対支借款を提供していた日本の借款を  「踏み倒す」ための「排日ビラや運動」に利用されていたのです。これらの円借款は、排日・侮日から日支事変への流れで「踏み倒され」たのです。
結局、列強五大国でババを引かされたのは日本だけだったのです。


本書は大正~昭和初期の文化流行もアサヒグラフを中心に紹介しており、このブログではあまりコピペしませんでしたが、目から鱗が落ちるものばかりです。是非紹介したい本です。

参照

【子供たちに伝えたい日本人の近現代史】<産経新聞>
(30)戦間期に花開く大正文化

「赤い鳥」が生まれ歌があふれた
名コラムニストとして知られた山本夏彦氏はエッセー集『愚図の大いそがし』の中でこんなことを書いている。                                  
「大正デモクラシーをひと口で言えと言われて、恋愛が謳歌(おうか)された時代、親不孝が公認された時代、猫なで声を出す時代と答えることにしている」
日露戦争が終わって7年後に迎えた大正という時代は「戦間期」と呼ばれることがある。第一次大戦に限定的に参戦したり、シベリアに出兵したりもしたが、日本にとっておおむね平和な時代だったという意味だ。                  
加えて大戦景気で経済的余裕も生まれた。政治的には、明治の軍閥・藩閥に代わって政党が主役になることが多く「大正デモクラシー」と言われた。        
明治時代を「強」とするなら「柔」と言ってもいい。そうした時代の変化を山本氏は「恋愛が謳歌され」「猫なで声を出す」と表現したのだろう。その時代の変化が「大正文化」を生んだ。                                       
代表的なものが、児童文学雑誌「赤い鳥」である。大正7(1918)年7月、夏目漱石門下の鈴木三重吉が、芥川龍之介や詩人の北原白秋、童話作家、小川未明らに呼びかけて発行した。                                 
テレビやラジオすらないこの時代、子供たちの楽しみはもっぱら活字だった。明治以来、政府が教育に力を入れ、字を覚える識字率は世界でも極めて高かった。子供たちは少年、少女向け雑誌をむさぼるように読んでいた。
ただ中には、現代の一部のテレビ番組や漫画で問題になるようなセンセーショナルな刺激で満ちているようなものもあった。                        
これに対し三重吉は「子供たちに芸術性の高い優れた文章を読ませたい」という理想に燃え「赤い鳥」を創刊した。創刊号には龍之介が有名な『蜘蛛の糸』を書き下ろしたほか島崎藤村ら当代一流作家が執筆に当たり、発行部数はすぐに3万を数えた。                                           
その後も龍之介の『杜子春』、未明の『月夜と眼鏡』などの童話、さらに童謡でも白秋の『赤い鳥小鳥』、西条八十による『かなりや』など日本の児童文学史上に残る名作を生み出す。                                     
「赤い鳥」以外でも『村の鍛冶屋』『故郷』『浜千鳥』『七つの子』など、今でも愛唱されている童謡・唱歌はほとんどがこの時代に作られたのである。
むろん大正文化が花開いたのは児童文学の世界だけではない。                      
「ラメチャンタラギッチョンチョンデパイノパイノパイ」という意味不明な囃子詞(はやしことば)で一世を風靡(ふうび)した『東京節』は大正8(1919)年に作られた。作詞は添田さつきで、曲は西洋音楽のジョージア・マーチをそのまま借りた。
『東京節』などはバイオリン演歌と呼ばれた。書生姿の演歌師たちがバイオリン片手に街で歌うからである。ほかに物価高や家の狭さを嘆いて最後に「ア ノンキだね」と結ぶ『ノンキ節』などが代表作だった。                        
『カチューシャの唄』や『船頭小唄』など、いわゆる流行歌が生まれたのもこの時代である。都会から村まで歌であふれていたといっても過言ではなかった。
これより前、大正2(1913)年には少女たちによる「宝塚唱歌隊」が誕生する。大阪の梅田と郊外の箕面や兵庫県の宝塚を結ぶ箕面有馬電気軌道(後の阪急電鉄)の小林一三が、宝塚を一大観光地とするため考えたショーだった。後の宝塚歌劇団である。                                         
大正7年には俳優・歌手を養成する宝塚歌劇学校も開校、「世界のタカラヅカ」として数多くのスターを生み出すことになる。                         
映画界でも忍術映画を数多くヒットさせたマキノ(牧野)省三が大正10年にマキノ教育映画製作所を設立した。 ここで350本もの映画をつくり「日本映画の父」と言われるようになる。                                      
さらに、マキノがかつて所属していた日本活動写真会社(日活)をはじめ、松竹キネマや国際活映(国活)などの映画会社が林立、映画は昭和前期にかけての「娯楽の王様」の地位を確立していく。(皿木喜久)                      
【用語解説】モガ・モボ
「モダン・ガール」「モダン・ボーイ」の略である。経済的・文化的に豊かになってきた大正10年ごろから、カフェやデパートの店員、バスガールなどとして女性の社会進出が盛んになった。これにつれ、日本髪に代わって西洋風の髪形や洋装の女性が増えた。                                         
中には競うように派手な服装で東京の銀座などを歩く者も多く、彼女らはモガと呼ばれるようになる。そのモガたちの相手をつとめるように、派手な洋服姿の若い男性も現れた。彼らがモボである。大正末には大阪や東京にダンスホールも登場、モガやモボたちでにぎわった。



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サラエボの銃声は日本を震撼させた。複数政党制、長期停滞、格差社会・・・・・・、現代日本が抱える課題の原点は第一次世界大戦にあった!

◆著者紹介
井上寿一(いのうえ・としかず)

1956年、東京都生まれ。一橋大学社会学部卒業。同大学院法学研究科博士課程、学習院大学法学部教授などを経て、現在、学習院大学学長。法学博士。専攻は日本政治外交史。主な著書に、『危機のなかの協調外交――日中戦争に至る対外政策の形成と展開』(山川出版社、吉田茂賞)、『日中戦争下の日本』『戦前昭和の国家構想』(講談社選書メチエ)、『吉田茂と昭和史』『戦前昭和の社会 1926-1945』(講談社現代新書)、『戦前日本の「グローバリズム」』(新潮選書)、『昭和史の逆説』(新潮新書)、『山県有朋と明治国家』(NHKブックス)、『政友会と民政党』(中公新書)、『理想だらけの戦時下日本』(ちくま新書)などがある。



サラエボの銃声は日本を震撼させた。複数政党制、長期停滞、格差社会・・・・・・、現代日本が抱える課題の原点は第一次世界大戦にあった!

2014年は第一次世界大戦の開戦100年目です。その影響は第二次世界大戦以上で日本にも深く及んでいました。大戦前後の日本社会を観察すると「複数政党制への過渡期」「好景気から長期停滞へ」「大衆社会のなかの格差拡大」という、まさに今日的な課題がみえてきます。この戦争が浮かびあがらせた課題は21世紀の現在も構造としては変わっていないのです。本書は、さまざまな側面から「現代日本」の始まりを考える一冊です。


『第一次世界大戦と日本』(講談社現代新書)を書くことになったきっかけをさかのぼると、2011年のフランス・アルザスでの不思議な体験にたどり着く。

宮崎駿監督の『ハウルの動く城』に出てくる町は夢のなかのようなフィクションではない。実在する。山の向こうはドイツとの国境に近いフランス東部アルザス地方の町コルマールがモデルである。

コルマールからアルザスワインのブドウ畑を横目に、車で20分ほどのところにアルザス・欧州日本学研究所がある。これは夢かと錯覚する。フランス人スタッフが流暢な日本語を話している。「ボンジュール」とあいさつすると、「こんにちは」と返される。2011年から毎年9月初旬、夢のなかのようなこの研究所を訪れている。

欧州の若手日本研究者とのワークショップは楽しかった。最初の年、大正時代の政党の財政政策(!)を研究しているイタリア人研究者に「なぜ日本なのか、中国の方がいいのではないか?」と疑問を投げかけた。愚かな質問だったと今も悔やんでいる。「そりゃあビジネスへの関心だったら中国でしょう。でも日本への関心は多様です」。教えることよりも学ぶことばかりのワークショップだった。

レストランでの夕食後、皆で付近を散策した。そこにキリスト教の教会があった。ドイツ人の若手研究者が指し示した。そのさきを見ると、戦没者の名前が教会の壁に刻まれている。この地域からの戦没者は第一次世界大戦の方が第二次世界大戦よりも多い。すぐには吞み込めなかった。平均的な意識の日本人にとって、戦争といえばアジア太平洋戦争(第二次世界大戦―アジア太平洋戦線)である。第一次世界大戦は忘却の彼方に押しやられている。

翌年の九月、今度はひとりで確認した。戦没者数の差はまちがいなかった。ヨーロッパにとってこの世界大戦が持つ重い意味を伝えているかのようだった。それでは日本にとって第一次世界大戦はどのような意味を持つのか。考えてみることにした。

100年前と今との間に類似点があることに気付いた。第一に、当時の日本は今日と同様に、格差社会の問題に直面していた。第二に、第一次世界大戦にともなう戦争景気と戦後の反動不況の長期化は、バブル経済とその後の長期経済停滞と重なる。第三に、当時も今も政党政治システムの模索の時代として似ている。この世界大戦をはさんで非政党内閣から政党内閣と二大政党制へ、政権交代(2009年)と自民党の政権復帰(2012年)後の複数政党制の模索へ、政党政治状況が類似する。

100年前の日本とは今の日本のことか。史料を読みながら、何度もそう思った。当時の人々に感情移入せずにはいられなかった。本書の登場人物はそのような人々ばかりである。

なかには無名氏もいる。第一次世界大戦後、顕在化する格差拡大社会のなかで、朝鮮人は悲惨な生活を強いられていた。朝鮮人の生活状況を調査した東京府の担当者は言う。「彼等が原因となって、発生する処の数々の社会的諸問題の責任は、彼等自身の力に依りて解決を望むより、むしろ吾々と共同的努力に依って、之が解決を待たなければならない」。100年後の今、近隣諸国に対する不寛容なムードが広がっている。当時から学ぶべきことは多い。

引用したエピソードにはどれも強く感情移入している。とくに気に入っているのは、石井菊次郎と安達峰一郎の出会いである。ふたりの「国際会議屋」外交官は、大学生の頃、討論会で出会った。石井の発言に「ノン、ノン」と流暢なフランス語で反論したのが安達だった。

ふたりは外務省で机をならべて同じ仕事をするかのように、強い信頼関係を築く。外国語を自由に操り国際法に通暁する彼らが会議外交の最前線に立つ。石井は中立的な立場から、国際連盟で欧州の国境線と民族をめぐる問題の解決に力を尽くす。安達は常設国際司法裁判所の所長の地位に就く。日本は国際協調外交を展開する。彼らのような「国際会議屋」のプロフェッショナル外交は、今日の日本でも、政治家のアマチュア外交と比較して、もっと積極的に評価されてよいのではないか。

第一次世界大戦が日本にもたらしたのは何か。開戦から一〇〇年の今年、議論が活性化することを願う。
私(Ddog)は井上先生の著書のファンである。明治~昭和戦前期の日本について「暗黒の戦前」という戦後GHQが流布したプロパガンダを打破する痛快な著書が多い。過去を断罪も美化もせず、ありのままの戦前の日本を追体験できる。

本書はちょうど100年前の日本と第一次世界大戦のかかわりについて一つ一つ丁寧に解説されています。

そのなかのエピソードの一つとして、初めて知った興味深いエピソードがある。日本は海軍を派遣し、陸軍は欧州に派兵されなかったのだが、日本人の義勇兵が第一次世界大戦の欧州大陸で多数戦っていた。現代日本では先日日本人元大学生がイスラム国へ参加しようとして刑法の私戦予備及び陰謀罪等が適用されたが、当時は現代と違いそのような刑法がなかったせいか、多くの日本人が参加したようだ。また、従軍看護婦も赤十字社から派遣されていたそうだ。
P218-221
義勇兵

欧州大陸に日本兵がいた。海軍が地中海に艦隊を派遣したのに対して、陸軍は派兵しなかったはずである。それなのになぜ欧州大陸で日本兵が戦っていたのか。彼らは在外日本人の義勇兵だった。

欧州大戦が勃発する。在外日本人が立ち上がる。なかでも在カナダの日本人義勇兵が多かった。欧州大戦に対する見方は、在外とくにカナダと日本国内とではまったくちかっていた。カナダ人にとって欧州は故郷である。欧州を救うために、カナダ人と在カナダ日本人の協力の気運が高まった。

在カナダ日本人義勇兵には別の目的もあった。欧州大戦に参加することで、日本の信用至局めて、帰化日本人の参政権と平等待遇を獲得する。これがもうひとつの目的だった。

フランスもイギリスもロシアも「黄色義勇軍」を歓迎した。日本の正規軍が参戦すれば、代償を用意しなければならず、やっかいである。義勇軍であれば、欧州車の指揮下に入って戦うのだから都合がよい、欧州連合国側にはそのような判断があった。

日本国内ではカナダの日本人義勇兵に賛否両論があった。「無謀の暴挙だと評する者茶気が過ぎると貶す者、痛快だというもの、排日感情融和の妙策圭褒める者、邦人権利獲得の賢案と称える者」などさまざまだった。このような賛否両論かおりながら、カナダの日本人義勇兵は志願者が二百余名に上った。

フランスなどの欧州大陸で彼らは勇敢に戦う。新聞は報じる。日本人義勇兵は「敵の壕内に侵入し機関銃の猛射やスナイパーの狙撃にも屈せず敏捷に小幅を利用し間断なき光弾を潜り投弾を為し」だ。

アルザスで殊勲を立てた宮城県出身の佐藤徳次は、イギリスの最高勲章ヴィクトリア十字章を授けられた。しかしその直後に戦死した。最初の戦死者が出だのは前年(一九一六年)一〇月九日のことだった。岐阜県出身の志賀貞吉がソンム戦線で「弾丸命中して即座に無惨の戦死を遂げ」だ。

志賀の戦死を伝える同志の義勇兵の手紙は、悲惨な戦場の現実を描写している。「首も手足もなき死体は諸処に放棄せられ、ようやく負傷兵を始末後送するのみにて、実に悲惨の極にござ候」。

戦死者の数が増していく。大正六(一九一七)年六月二四日付の新聞報道によれば、カナダからの義勇兵は戦死二二、負傷六〇、行方不明五であり、この数字は今後「非常の数に上るべく想像せらる」といった状況だった。戦死者は五四名に達した。
義勇兵の活躍と犠牲によって、カナダの帰化日本人は参政権を獲得できたのか。獲得できた。しかしそれは欧州大戦終結から一二年後の昭和六(一九三一)年のことだった。


従軍看護婦

戦時下の欧州大陸に向かったのは義勇兵だけではない。従軍看護婦もそうだった。日本赤十字社はフランス派遣の救護班を組織する。ふたりの看護婦長と二〇人の看護婦、遣英救護班の先遣隊として五人の看護婦が大正三(一九一四)年一二月一六日、新橋駅に集合した。赤十字救護班の看護婦はカ-キ色の制服姿だった。
新聞各社にカメラを向けられながら、一行は横浜へ出発する。横浜の埠頭では約四〇〇人に見送られて船上の人となった。

救護班一行がパリに到着して開院式を挙げたのは、翌年四月三日のことだった。式にはフランスの陸海軍関係者、前駐日大使、フランス赤十字や日仏協会の関係者、一〇〇名あまりが参列した。担当する病院のベッド数は一五〇、一二八名の重傷者が収容されていた。新聞は日本人従軍看護婦を「シヤンゼリゼーの花」と報じる一方で、看護婦のフランス語能力に不安を感じているようで、「本国赤十字社に於ても一行に対して余りに過ぎた幻影を懐いてはならぬ」と釘を刺している。それでも日本人従軍看護婦が「日仏友好の好個の表明」であることに変わりなかった。

このように日本は欧州大陸の戦場においても、義勇兵や従軍看護婦をとおして、当事国意識を強めた。
海軍の活躍についても海軍主計中尉片岡覚太郎氏の「遠征記」を通して再現された項があり、非常に興味深かった。
P56-67
日本海軍、地中海へ

欧州人戦が始まると、イギリスは地中海へ日本海軍の派遣を求めるようになった。日本は断った。日英同盟の適用範囲は地理上インドまでのアジアと決まっていた。遠く地中海は日英同盟の適用範囲外だった。

今の日米同盟の極東条項とは異なる。日米同盟の適用範囲は「極東」である。しかしこの「極東」は地理的な意味ではない。「極東」の平和と安全を守るためならば、「極東」以外の地域でも在日米軍は使用できる。

日米同盟は「人」=アメリカ(在日米軍)と「物」=日本(在日米軍基地の提供等)の同盟である。対する日英同盟は「人」と「人」との対等な軍事同盟だった。

対等な軍事同盟である以上、日英同盟に参戦義務はなかった。日本は大戦勃発当初の一九一四大正三年八月四日、中立を宣言している。それでも八月二三日になると、ドイツに対して宣戦布告する。中国大陸のドイツ権益が目当てだったことは明らかである。

そうはいっても中国大陸と地中海はちがいすぎる。権益を確保するためでもなく、なぜ地中海に艦隊を派遣しなければならないのか。国民の理解は得られそうもなかった。
海軍はイギリスに不信感を抱いていた。中国大陸で日本がドイツとの戦線を拡大すると、イギリスは日本の兵力の行使範囲を制限しようとしたからである。なぜイギリスは日本の軍事行動を抑制しようとしたのか。中国に既得権益を持つイギリスは、日本の参戦によって、自国の権益が危うくなるのをおそれたからである。イギリスの態度は不条理だった。海軍内で不満が漏れた。イギリスは九月に続いて一一月に二度目の派遣要請をおこなった。日本側は応じなかった。

一九一七年になると状況が変化する。この年の二月一日、ドイツが無制限潜水艦作戦を宣言したからである。アメリカが立ち上がる。日本政府は二月一〇日の閣議で海軍の地中海派遣を決定する。ドイツの潜水艦は翌三月、アメリカの船舶三隻を撃沈した。

中立国の船舶を撃沈する。このような戦時国際法にもとる作戦を宣言したドイツと戦う。日本海軍の地中海派遣は国際正義の観点から正当化される。寺内正毅首相はドイツの無制限潜水艦戦を非難する。「天人共に許さざる罪悪であるから人類公道を擁護する為之を鷹懲する」。寺内にとって国際正義とは武士道精神のことである。寺内は言う。無制限潜水艦戦によって「味方連合国」を「見殺にするのでは日本の武士道が立だない」。日本は軍国主義(=ドイツ)と民主主義(=連合国)の戦争に本格的に参戦することを決めた。

日本が派遣したのは巡洋艦一隻と駆逐艦一二隻による第二特務艦隊である。第二特務艦隊の駆逐艦「松」に片岡覚太郎主計中尉が乗り組んでいた。片岡は地中海派遣の記録を残している。

この記録は作家のC・W・ニコル氏が片岡の孫から提供を受けたものである。ニコル氏は言う。「この若い士官の、率直で、正直で、ユーモラスな記述に惹かれた」。作家の阿川弘之氏も片岡のことを知っていた。なぜ阿川氏は片岡を知っていたのか。「何故なら私か海軍に入っだ昭和十七年当時、此の人は海軍主計中将で、築地の海軍経理学校長だったから」。海軍経理学校とは将校相当官の主計科士官となるための海軍の教育機関である。一八八八年二月一八日生まれの片岡は一九〇九年入学の海軍経理学校一期生だった。海軍兵学校とは異なるルートで海軍将校になった片岡の『遠征記』は、軍内業務日誌や戦闘詳報とは異なり、精彩に富む記述になっている。以下ではこの遠征記録から日本海軍の地中海派遣を再現する。

佐世保から出発する前に片岡は記す。「世界の禍源はこれを東にしては支那、西にして『バルカン』半島にあり」。この「識者の言」から片岡は、中国での対独戦と地中海遠征によって、欧州大戦が日本にとって世界大戦になったことを確認する。
欧州出兵は「猫の額のような青島を攻め落したり洋中の飛石のような南洋群島に旭旗を翻したりした」のとはわけがちがう。欧州でドイツは「三面に敵を受けながら、御得意の科学の力を極度に応用して、毒瓦斯を放ったり、飛行船を飛ばしたり、潜水艇を使っては無辜の商船を撃沈したり、人道も国際法も知らぬ顔に荒れ廻」つていたからである。

白色人種対有色人種

日本海軍の地中海派遣は、日英同盟に基づいて欧州の連合国とともに戦うのが目的だった。ところが片岡はこれとは別の目的によって高揚感を得ている。片岡は誇示する。「何かというと二目目にはジャップと軽蔑した西洋人の鼻先に、ジャップが自分で拵えた艦を持って行って、骨のあるジャップの腕ッ節を見せてやる。世の中にこれ程愉快なことがまたとあろうか」。

片岡は白色人種対有色人種の観点から参戦の目的を示している。この参戦目的はドイツ皇帝ウィルヘルム二世の黄禍論に対する応答でもある。黄禍論とは何か。黄色人種が白色人種に禍をもたらす。一九世紀末から二〇世紀の初頭にかけて、黄色人種の台頭に対する白色人種の危機感が強くなった。日露戦争によって黄色人種の日本が白色人種のロシアを破ったことも、黄色人種の台頭の現われだった。ドイツ皇帝ウィルヘルム二世はこのような黄色人種脅威論を持っていた。

片岡はドイツ皇帝の黄禍論に敵愾心を抱く。「潜望鏡に写る妙な旗の影に……『ハハア日本か。先生到頭出て来たな、それにしては恐ろしく貧弱だな。イヤなに構うことはない、青島の仇だ、一泡吹かしてくれようか』と微笑んでいるカイゼル暫の顔が眼の前にちらつく」。

石炭補給のため、エジプトのアレキサンドリアに寄港した時の印象は、悪くなかった。「『アラブ』の人足が、全身を真黒にして、大きな筑に入れた石炭を担ぎ込む。同色人種と思って、肩身が広かったのか、作業が案外に早く進捗する」。
しかしほどなくして印象は変わる。チュニジアのビゼルトに上陸した際のことである。「貧弱な珈琲店がある。その前に珈琲碗を持ちながら、日の傾くのを忘れたような老人が、二人、しきりに何か話し合っている。赤い帽汚れた白服、贔屓目に見ても、これでは一流所の文明国と対等の交際は危ぶまれる。人種平等は前途なお遼遠である」。

人種平等の観念を持ちながらも、片岡は福沢諭吉の脱亜論のような議論を展開するようになる。片岡は批判する。「折角生れながらの自分の土地を、自分等のうちで統治して行くことが出来ないで、他国の主権の下に屈服していることを、同情すると共に、意気地ない、楡安(とうあん)的な、卑屈な――約言すれば被征服者に共通な――態度気象を実に慊(あきた)らず思う。
時によっては、腹立たしいまでに、歯痒く思うことがある。彼等の眼前には、ただ、今日の日がある、爛(ただ)れた浅間しい現在の生活があるばかりである。理想もない、自覚もない。向上の意気もなければ、発憤するだけの勇気もない」。

片岡は「征服者」に対しても批判的である。「西洋人は一体に命を惜む。……命が惜しいようでは戦争には勝たれない。文明が進んで人間怜俐になると、だんだん命を惜み出す。そして成るべく機械に戦争をさして、人間はその蔭から見物するというような横着なことを考え出す」。これはまるで『葉隠』の「武士道と云うは死ぬ事と見つけたり」のような物言いである。

日英異文化交流

日英の共同作戦行動は、別の見方をすれば、異文化交流だった。イギリスの将官が乗艦する。片岡たちは食事の接待に手を焼いた。「吾人は握飯に沢庵を齧(かじ)っても済まされるが、先生達には少し都合が悪い。殊に一緒に食事をすると一層苦しい。お互いに洋食の時は、構わないが、麺麹(ぱん)の相手が飯をかきこむ時、作法の相違はまだしもとして、こんな時には、得て先方からいろんなことを話しかける。それがこの上もない迷惑だ。さらぬだに話の相手に不適任な僕等は、戦争のために来たので、会話をしに来だのではないという頭がある」。

それでも夜食にパンや卵、ローストビーフを出して、片岡は接待役を務めた。接待されたイギリス海軍少佐は背が高い。くの字に体を折り曲げても、天井に頭がつかえる。起居に不自由があったことは想像に難くない。よく眠れないのか、生あくびをかみ殺している。耐えかねて就寝時刻を尋ねる。何時でもよいと片岡は答える。それでは一〇時に就寝するという。ベッドのカーテンを開けて起床は何時かとの問いに片岡は八時起床、八時三○分朝食と返事しながら、翌朝、一足先に朝食を済ませる。「茶漬で麺麹の相手も妙」だと思ったからである。遅れたイギリスの海軍少佐は「ひどい奴だ」と肩をたたいた。

片岡はあきらめた。「国粋保存を忠君愛国の第一義と心得ている僕等」はイギリス将官と食事を別にした。
一見のどかで平和そうなエピソードではあっても、ここは地中海の戦場だった。ドイツの潜水艦はクラゲのように波間を漂う。姿が見えそうな時もあれば見えない時もる。片岡たちは地中海が目前に迫る頃から、ジグザグの稽古をしたり、英式手旗信号の練習をしたり、救命袗(きゅうめいしん:ライフジャケット)を各員に渡したり」し始めた。

対潜水艦戦は勝手がちがった。潜水艦の潜望鏡が水面に現われたかに見えると、二、三秒後には潜没する。片岡たちは潜水艦の航跡の前方で爆雷攻撃をおこなう。攻撃後、付近を捜索した。戦果はなかった。「潜水艇相手の戦闘は非常に歩の悪い喧嘩で、こちらがやられると、眼前に負けたところが見えるが、敵を仕止めても、参ったところを押えるわけには行かないから、奏功の確実を、絶対に断言することは困難」だったからである。不利な戦いが続く。

日本海軍の役割は対潜水艦戦と輸送護衛である。一九一七年六月のその日もそうだった。駆逐艦「松」の乗組員片岡は、その日の午後、照りつける日の光のなかで、うとうととまどろみかけた。「榊がやられました」。最前まで僚艦「榊」と並走していた「松」の片岡には信じられなかった。艦の前半分か砕かれている。勇ましい姿はもはやない。煙に包まれて停止している。魚雷が「榊」の左舷艦橋下に命中した。船体は前方に傾いて爆煙のなかに頭を突っ込んだ。一瞬の出来事だった。

すでに前月、トランシルバニア号の救助作業中に、「松」が雷撃されたことがあった。今度の被害はそれどころではなかった。艦長以下五九名が戦死、負傷者二二名を出した。艦長は海中に吹き飛ばされたようで、姿かたちが見えなかった。「酸鼻の状到底名状することが出来ない」ほどだった。片岡は痛感した。「最前迄の平和の海はたちまちにして修羅の巷と早変りした」。幸い「榊」は沈没を免れた。

無線が急を告げる。日本海軍は連合国軍と共同作戦中である。味方がつぎつぎと救助に駆けつける。真っ先に近づいたのはイギリスの駆逐艦「リップル」だった。「リップル」は付近の敵もものかは、停止しボートを降ろす。負傷者を移送する。曳航を始める。イギリスの駆逐艦「ゼッド」が後方の護衛位置につく。イギリス軍艦「パートリッジ二世」と掃海船「ガゼル」が救助に加わる。救助する側か救助された。

片岡はイギリス海軍に感謝した。「吾人は四月以来九ヵ月、勇敢に地中海に活動した。しかし地中海に活動するものの中で、吾人は僅かなる一部分である」。対するイギリス軍はどうか。「勇敢、義侠は、必ずしも日本人の専売でない」。日英協調の絆は強くなった。

戦時下のパリ

片岡たちは不眠不休で戦っていたのではない。戦争は長期化していた。休息もしなくては長期戦を戦えなかった。片岡たちはフランスに上陸し、パリをめざす。

移動中の列車内はもちろん、ホテル、レストラン、カフェ、バー、およそ人の出入りする場所はどこにもものものしい掲示があった。「沈黙なれ、心許すな。壁に耳あり」。パリは戦時下だった。エッフェル塔は戦時無線電信用に用いられている。昇るのは禁止だった。凱旋門は土嚢で囲われている。ナポレオンの墓も防護が施されている。「火の消えたように寂れた」パリは、「花の粧を捨て、武装して敵弾を待ち受け」ていた。西部戦線が不利な展開を示していた。それゆえ「常には美しい仏蘭西人の顔が曇っているように」見えた。パリ行の列車には乗れる。しかしパリから南下する列車はだめだった。逃げ出す人が多くなっていた。

「眼前の戦況を救うの途は、軍隊の増派の外にない」。連合国軍は大輸送船隊(ビッグ・コンボイ)を組む。片岡たちの日本海軍はこのビッグ・コンボイを前後五回にわたって護送する。片岡は誇らしかった。「何しろ大部隊の航海で、雄壮なることは、この上もない。そしていずれも揃いも揃った快速な船で、不穏な海を並んで走って行く堂々たる光景は、絵のように美しかった」。

片岡たちは行く先々で厚遇を受けた。ホテルはアップグレード、レストランは上席で列車運賃は無料か半額、四分の一だった。軍服の効用だったことはまちがいない。「武装した都には、武装した人間が一番よくもてた」。

厚遇には犠牲があった。マルタ島に記念碑が立っている。銅版には日本語で任務中に亡くなったすべての艦隊員の名前と階級が彫り込まれているという。
こうして一年九ヵ月に及ぶ第二特務艦隊の任務は終わった。地中海のマルタ島を基地として護衛回数は三四八回に上る。護衛した船舶数七八八隻の大半はイギリス船籍で、軍艦二一隻、輸送船六二三隻だった。

第二特務艦隊の規模(二回)はアメリカ海軍の派遣と比較すれば、見劣りする。米海軍は駆逐艦六四隻、駆潜艇七七隻を派遣した。撃沈は日本海軍○隻に対して米海軍は一〇隻だった。

ささやかな貢献にすぎなかった。それでも第二特務艦隊は連合国側から評価された。第二特務艦隊の出勤率(出動日数÷三〇日)約七〇パーセント、対するイギリス軍六〇パーセント、フランス・イタリア軍四五パ-セントだったからである。さらに第二特務艦隊の「敏速、勇敢な救助活動と被害者に対する暖かい配慮」も高く評価されたという。

大戦終結後、パリ講和会議が開催される。第二特務艦隊は講和会議の開催中、
イギリス、フランス、ベルギー、イタリアなどを訪問する。日本が五大国の一員に列することになったデモンストレーション効果は大きかった。同時に日本は連合国間協調のネットワークのなかに参入することになった。

第二特務艦隊の軍事的な貢献は限定的だった。それでも地中海での共同作戦をとおして、日本は欧州大戦後の国際協調の潮流に乗るきっかけを手にした。
他方で日本海軍の地中海派遣は個別利害確保の観点が濃厚だった。日本はあらかじめイギリスから講和会議の際に、ドイツの権益だった中国山東省と南洋諸島に関して日本の要求を支持するように求めていたからである。

以上のような地中海派遣をめぐる理想主義と現実主義の均衡は、欧州人戦後の日本外交の基調となっていく。
海軍は地中海に派兵したが、陸軍は欧州に派兵しなかった。なぜ陸軍は応じようとしなかったのか。その理由を井上先生が解説している。
p79-83
陸軍の欧州戦線派兵問題

海軍は地中海に派兵した。陸軍はどうだったのか。戦争勃発の一ヵ月後にはロシアが日本に派兵を要請している。翌一九一五年になると戦況が連合国側に不利に転じる。派兵要請が強まる。一九一七年になるとアメリカが参戦する。それでも日本は派兵を決めかねていた。

連合国側からの派兵要請に積極的だったのは欧州大陸在勤の外交官である。たとえば松井慶四郎駐仏大使は本省に対して、このままでは「連合国としての温き感情は之がため或は冷却するに至る」と警告している。松井はアメリカ参戦のインパクトを重視する。アメリカの参戦によって、この戦争は「人道」をめぐる戦争になった。このような国際正義を目的とする戦争に加わらないと、「其反動も亦軽からざるべし」。
松井は戦後国際秩序を視野に入れながら、派兵が重要であることを強調した。

内田康哉駐露大使も同じ考えだった。派兵要請に対して不可能と弁明したところで、国際世論が反発する。そうなると「甚だ面白からざる立場に陥る」おそれがある。内田はそうならないためにも派兵すべきだ、と促した。

連合国の世論を気にするのは珍田捨巳駐英大使も同様だった。珍田は日本の欧州出兵不可能論によって「対日感情は暫時面白からざるものあり」と報告している。日本は日英同盟の相手国からも批判を招きつつあった。

再三の派兵要請にもかかわらず、なぜ陸軍は応じようとしなかったのか。

第一に、欧州大戦の行方が見えにくかったからである。欧州戦線は塹壕戦となり、膠着していた。このままでは「勝敗付き難く列国共に怨を呑んで一時」の休戦となるだろう。陸軍はそう観測した。この観測の背景には陸軍の伝統的な親独感情があった。なかには大島健一陸軍次官のようにドイツの勝利を断言する者すらいた。陸車内の風潮は「公然と日独同盟説を高唱し、日本が連合国側に立ちて宣戦したるを大なる失蹟なり」と批判するまでになっていた。日英同盟があるにもかかわらず、陸軍は戦後の極東におけるイギリスとの利害対立を見越していた。イギリスを抑制するためにドイツに接近する。この観点から陸軍は欧州派兵をためらった。

第二に、派兵にかかわる膨大なコストに見合うだけの利益が得られそうになかったからである。陸軍は試算した。欧州戦線で戦果を上げるには二○師団を派遣しなくてはならない。二〇師団を海路派兵するには五〇〇万トンの船舶を必要とする。しかし日本には七〇万トンの船舶しかない。少数兵力の派遣では効果がなかった。
このように説明したものの、アメリカの参戦によって、日本は連合国の理解を得ることがむずかしくなっていく。世界最大の軍事大国・経済大国=アメリカの参戦によって、連合国は輸送船舶や経費の調達が容易になったからである。それでも日本側は「輸送上の困難」を上げて、派兵を渋った。

第三に、日本陸軍は自衛軍だったからである。陸軍の所見は言う。陸軍の任務は「祖国の防衛、国権の擁護」であって、「欧西に出すべき考慮を建軍の一因に加えたることなし」。それゆえ欧州戦線に「出兵の義務を生ずべき理由存在せず」。これが陸軍の基本的な立場だった。

しかしこれら三つの理由は建前にすぎなかった。実際のところ陸軍は二〇個師団の派遣が可能であるとも述べている。それでも欧州への出兵を拒んだのは、この戦争に別の目的で参戦したからである。別の参戦目的とは何か。それは「東洋平和の禍根」を取り除くことだった。

青島をめぐる日独戦争

日本陸軍は、親独感情を背景に、欧州戦線への派兵を拒んだ。しかし日本陸軍の親独感情もどこまで本当なのか、怪しかった。なぜならば日本陸軍は、欧州大戦に乗じて、中国のドイツ領青島をめぐって戦争を始めたからである。

一八九八(明治三一年)に中国山東半島の膠州湾を租借したドイツは、青島に要塞を構築した。日本陸軍はこの青島要塞を攻略する。一〇月三一日の総攻撃開始後八日目、要塞は日本軍の手に落ちる。

「猫の額のような青島」であっても、短時日のうちに攻略に成功したのにはわけがあった。ドイツ軍司令官は一一月一日に記す。「火砲の凄まじい有様は何うであったか。吾人は適当の詞を以て形容することが出来ぬ。一全弾は防楯を貫き、一門は戦闘力を失うまでに毀れて居た」。一一月五日になると、日本軍は「我背面にある砲台からも撃ち出して、終に吾人は敵の十字火に陥った」。

これらの記述が端的に示すように、勝敗は火力の差だった。より広く物量の差と言い換えてもよい。日本車は日清・日露戦争とは異なる戦争を戦って勝った。かつてのような肉弾戦、白兵戦は影をひそめた。歩兵の突撃前に、砲戦であらかた決着がついていた。

日本陸軍は、日露戦争後、兵器の近代化を進めていた。兵器の近代化は三八式(明治三八〈一九〇五〉年式)兵器の整備を促す。火砲については、三八式野砲、三八式一〇センチ加農砲、三八式コーセンチ榴弾砲、三八式一五センチ榴弾砲による兵器体系が確立する。

日本陸軍は最新装置を備えた世界水準の火砲を持つことになった。日本陸軍はこれらの三八式火砲を総動員して青島を攻略した。

あとがら考えれば皮肉なことに、三八式火砲は日露戦争末期にドイツから輸入して国産化したものだった。

他方で欧州戦線でも砲撃戦が中心となっていた。多数の重砲による大量の砲弾が飛び交った。歩兵の出る幕はなかった。歩兵が突撃する前に敵の陣地を破壊しなくてはならなかった。しかし両陣営ともに塹壕を掘っていた。塹壕陣地をめぐる砲撃戦が続く。塹壕戦によって戦線は膠着した。

青島攻略は守備隊程度が相手だったから容易に片づいた。そうではあっても、欧州戦線と青島攻略が交差していたのほまちがいない。戦闘の規模は異なるものの、どちらも総力戦だったからである。戦争の勝敗は物量が決める。日本は欧州戦線と連動する青島攻略でこのことを学んだ。
当時の日本を代表するジャーナリスト徳富蘇峰は日本が第一次世界大戦 欧州に陸軍を派遣しなかったことについて鋭い指摘をした。「欧州やロシアや米国も、第一次世界大戦で高い代価を支払ったて戦争と平和について心底学べたことがあったが、日本は戦争の舞台に立たず見物席で呑気にしているばかりであったがゆえに、学び損ねてしまった。その学習の差がじきに国難を招き、日本を滅ぼすことにつながりかねない」蘇峰は警笛を発したのでした。

約四半世紀後、日本はまさに蘇峰の予言通りとなった。

第一次世界大戦青島攻略戦において日本陸軍の神尾光臣将軍は、近代的な新しい戦争で、旅順攻略における乃木将軍の失敗を繰り返さなかった。

神尾将軍は西南戦争に出征し、日清戦争では大山巌の情報参謀、日露戦争では乃木将軍傘下の旅順攻囲軍の歩兵第二二旅団長であった。

戦史的には青島攻略は、戦意のないドイツ軍相手に楽勝の戦いで済まされていますが、青島攻略が楽勝で終わったのは旅順攻撃の戦訓を十分に生かした神尾将軍の功績が非常に大きい。旅順よりは小さいとはいえドイツが心血注いだ要塞である青島を大きな犠牲を払わず陥落させたのは神尾将軍が近代戦はいかに戦うか熟知していたからこそ大勝できたのであって、神尾将軍の功績が非常に大き

神尾将軍が行った近代戦とは、歩兵が突撃して砲兵が支援する戦争ではなく、砲兵の火力で片づけてしまい、歩兵は後始末に行くだけといった戦争です。火力の強い方、弾数の多いほうが勝つ、白兵戦や突撃戦ではない、遠距離から物量で圧倒しようという戦争です。

青島攻略戦で近代戦を行った帝国陸軍が第二次世界大戦におい近代戦との対極にある精神主義に陥り、なぜ玉砕や特攻をする軍隊になってしまったのか・・・

現代に視点を移すと、「集団的自衛権」の議論が行われている、日英同盟を軸に考察するとリベラル派は日英同盟が第二次世界大戦を引き起こした、だから「集団的自衛権」は問題があると言っているのだが、本当に第一次世界大戦前後の歴史を正しく理解していない。

日英同盟があったにもかかわらず日本が欧州に派兵しなかった。そのことが日英同盟の解消が行われ、第二次世界大戦への引き金となった事実の方を強調したい。
集団的自衛権議論において、人と人軍隊と軍隊の信頼感が平和を構築するうえで重要であることを第一次世界大戦と日英同盟の視点から私は強調したい。

戦後長く続いた属国的日米安保条約から日本は北朝鮮、中国の脅威に向き合うために集団的自衛権に踏み、日米の連携をより深め、日米同盟をより対等な同盟関係に進化すべきなのだ。

左翼やリベラルの連中は脳天気としか言いようがない。中国が尖閣を足場に沖縄侵略を目論んでいることに目をつぶり、日本が米国の戦争に引き込まれることばかりを騒いでいる。

違うのだ、日米同盟があるにもかかわらず米国の方が日中の紛争に巻き込まれないようにしようとしている動きがあることを知らないのだろうか。もちろんそんなことを言っている連中は左翼リベラルな民主党と、外国のことに感心の無い共和党のティーパーティの連中である。だがこれは日本にとって憂慮すべき深刻な問題なのだ。

日米で連携して中国の脅威と向き合わなければ日本は中国の属国になってしまう。現在日本が米国の属国であるが、紛いなりにも民主主義国家である米国の属国の方がまだましであるのだが、私はいずれは日米同盟が対等な関係へとなって米国の属国から脱皮してほしいと思っている。今日のチベットやウイグルのような惨状を見れば見るほど、集団的自衛権は日米同盟を対等な同盟関係にするには必須な問題だと思う。

対等であるからにはアメリカの戦争に巻き込まれる危険性を犯さなければ、日本の戦争にアメリカを巻き込むができないのである。

つまり、アメリカが引き起こすあらゆる戦争に、日本は同盟国と責任を共有してはじめて、対等な日米同盟が成立するのである。集団的自衛権には慎重でなければならないという卑怯者達は永遠に日本は米国か中国の属国でいいと考えていると言える。日本人として人間として卑しい連中だ。





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      http://s2.reutersmedia.net/resources/r/?m=02&d=20140919&t=2&i=974975146&w=450&fh=&fw=&ll=&pl=&r=LYNXMPEA8I114    [エディンバラ 19日 ロイター] - 18日に実施されたスコットランド独立の是非を問う住民投票では、反対票が50%を上回り、独立が否決された。

スコットランドの独立賛成派のリーダーであるサモンド・スコットランド民族党党首は敗北を認めた。

サモンド党首は支持者を前に「スコットランドの人々は現時点で独立をしない決定をした。それを受け入れる」と述べた。

その上で、英国への残留が決定した場合にスコットランドの権限を拡大するという約束について「迅速に履行されることを期待している」と語った。

スコットランド民族党の副党首を務めるスタージョン行政府副首相は、独立が僅差で実現せず失望したと表明。BBCテレビとのインタビューで「スコットランドの多くの住民と同様、私は独立支持キャンペーンに心血を注いできた。ほんの少しのところで独立が実現せず、本当に失望している」と述べた。

キャメロン英首相は、独立が否決されたことを受け、独立反対派リーダーのアリスター・ダーリング氏に祝意を示した。

独立支持派は最大都市グラスゴーなどで優勢となったが、他の選挙区で十分な票を得られなかった。

今回の住民投票では、有権者の97%に相当する428万人が投票手続き登録を行った。投票率は過去最高となった。

英国はさすがにデモクラシーの宗主国、家本である。力づくで国境を書き換えたロシアのクリミア編入とは異なり、極めて民主的な手続きに則って独立の可否が問われた。

投票権者は428万5323人。投票率は英国史上最高の86%という記録的な投票率に達した。

今回のスコットランド独立騒動は、スコットランドと英国(ブリテン連合王国)だけではなく、個人と社会、国家の帰属を考えさせられる問題であった。
有史以来戦乱に次ぐ戦乱を経験したヨーロッパが恒久平和を願って結成したEUであったが、現状、国家の枠を壊し、新たな混乱の種となっているのだ。EUの富める国が貧しいEUの国の経済を吸収して一つの国家としない歪で中途半端なは国家もどきである限り、スコットランドの独立は阻まれたが、今後も国家の枠が崩壊する可能性は依然残されたままだ。

考えてみれば富めるドイツ・フランス・ベネルック三国の国民にとって、欧州が完全な国家となるにはPIIGSや新たに加入した東欧の国々は負担以外の何物ではない。

富める国家の国民が既得権とエゴを捨てない限りいずれEUは空中分解しかねず、今回のような騒ぎはは繰り返されるであろう。

20世紀の秩序である現在の国境線の変更は、民族と国家関係の見直しと国家のあり方にとって大きな変動をもたらし、混乱の時代への転換点となりかねない出来事となったかもしれな。だが、デモクラシイが英国では生きている証明となった。そして無秩序と混乱を予防したり収束させるにはデモクラシイこそが最良の選択権であると世界に示したのではないだろうか?

スコットランド独立騒動は、イスラム国のような虐殺と恐怖で統治を行っている、愚か者達の国々へ強烈なアンチテーゼとなった。

しかしながら、デモクラシイとは天から降ってきたものではない。デモクラシイを成立させるまでに英国では長い歴史と多くの血が流されて確立していったものだ。

英国人の優先順位は1位がプライベートで2位がデモクラシー3位が仕事だとスコットランド独立の是非を問う選挙レポートを送ってきた記者が言っていたのだが、英国人にとってデモクラシイを守ることは、なによりも尊いことであり、膨大なコストを掛け守られるべきものと考えている。民主主義において自由は、たいへんに高価なものであると国民が認識していることに改めて感心した。

英国の歴史とデモクラシイ成立の流れをおさらいします。まず、1215年民主主義の元祖であるマグナカルタが制定された。
ジョン王がフランス王フィリップ2世との戦いに敗れてフランス内の領地を失ったにもかかわらず新たに戦を仕掛けて再び敗戦したために、1215年5月5日に貴族の怒りが爆発した。貴族側はジョン王の廃位を求めて結託し、ロンドン市が同調する事態になるとほとんどの貴族と国民は反ジョンでまとまってしまった。当時はこのように臣民の信頼を失った王は自ら退位するか処刑されるしかなく、その後新たな王が立てられるのが通常であったが、このときはジョン王は、王の権限を制限する文書に国王が承諾を与えることで事態の収拾を計ったことで制定された。 
王といえどコモン・ローの下にあり、古来からの慣習を尊重する義務があり、権限を制限されることが文書で確認されたという意味が大きい。王の実体的権力を契約、法で縛り、権力の行使には適正な手続を要するといった点は現代に続く「法の支配」、保守主義、自由主義の原型となった。

1642年にイングランドで清教徒革命が起こった。革命の指導者オリヴァー・クロムウェルは1649年にチャールズ1世を処刑し、王政が廃止された。議会派はクロムウェルを護国卿に任命したが、その死後に護国卿を継承した子のリチャード・クロムウェルには政治力が無く、自ら辞任を申し出た。また、国民全体が清教徒のよく言えば純粋、悪く言えば独善的な行動に嫌気がさしていた。そのため、議会はチャールズ1世の子チャールズ2世に王権を返還し、1660年に王政復古(ステュアート朝が復活)した。そして1688年名誉革命を経て1707年にイングランドとスコットランドの合同法が成立し、両王国はそれまでの同君連合からさらに統合を進め、グレートブリテン王国として一体化した。

英国(グレートブリテン王国)におけるデモクラシイの成立は、高いコストの代償として勝ち取ってきたものである。デモクラシーを守為には戦争や貧困をしてでもあがなう価値のあるものという意識がイギリス国民には浸透している。民主的発想の最も根源的であるところは自由と、豊かさと、平和  「自由か、しからずんば死を与えよ」 (パトリック・ヘンリのアメリカ独立運動の演説1775年)というように、デモクラシーというのは米国や英国においては、最も尊いものである。デモクラシイはイデオロギーに基づく信念であり、デモクラシイを信奉する者にとってある意味で宗教かもしれない。
デモクラシイとは法の支配であって暴民政治ではない。デモクラシイが法の支配を失ったら、あっという間に暴民政治になり、デモクラシイを信奉する英国(グレートブリテン王国)人にとってデモクラシイを失くせば国家が荒廃すると信じているのであろう。

>スコットランドの独立賛成派のリーダーであるサモンド・スコットランド民族党党首は敗北を認め、持者を前に「スコットランドの人々は現時点で独立をしない決定をした。それを受け入れる」と述べた。
たとえ結果が反対であったとしても、イングランド側は結果を尊重したであろう。デモクラシイが浸透した英国(グレートブリテン王国)において結果を不服とした人達が武力的な反乱は起こさず、アラブの春のような未成熟社会が陥っているうような混沌とした混乱に今後陥ることはないはずである。

1707年にイングランドとスコットランドの合同法が成立し、両王国はそれまでの同君連合からさらに統合を進め、グレートブリテン王国として一体化した。
その民主的に成立した英国(グレートブリテン王国)において、民主的にスコットランド独立の可否を投票において問い、敗北した独立派が結果を受け入れることをは、まさにデモクラシイである。英国(グレートブリテン王国)はデモクラシイの灯であり、混沌とする世界において、希望の灯であると私は思った。





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文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司

5月30日に月刊誌、中央公論元編集長の粕谷一希氏が84歳で亡くなった。氏は名編集者として知られているが、また、評論家として戦後日本に対する明晰(めいせき)な批評を遺(のこ)した人でもあった。戦前からの良質な教養を受け継いだ真の知性であったといえるであろう。

≪「醤油組」糾弾した粕谷氏≫

氏の著作のうち主要なものを3巻にまとめた『粕谷一希随想集』が今、刊行されている。その編集に協力者として参加した私は、氏の評論のほとんどを改めて読み直してみて、戦後日本の諸問題に対する鋭利な指摘から得るものが多かった。その中でも特に深く心に突き刺さったのは、「醤油(しょうゆ)組の天下」という寸鉄人を刺す鋭さを持った言葉であった。この寸鉄は、確かに「戦後」という時代にとどめを刺す力はある。

昭和53年の「鶴見俊輔氏への手紙」の中に、「私たち多少下の世代から眺めていますと、戦後の論理には、“醤油を飲んで徴兵を逃れた”、いってみれば醤油組の天下といった風潮がありました。『きけわだつみの声』の編集方針も、意識的に反戦学生の声だけが集められました。愚劣な戦争に駆り出されて、無駄な死を強制された。だから、二度とこうした戦争を起させてはならない。もう『僕らは御免だ』、ドイツの戦没学生の手記も訳されて、戦後の反戦感情・反戦運動は盛り上げられてゆきました。それは半面では正当に思われました。けれども微妙なところで、何かエゴイズムの正当化といった作為的な思考のスリカエがあるように思われて、当時から私にはなじめなかったことを記憶しています」と書かれている。

「醤油組」とそれに従った人々によって「戦後の論理」は支配されたのであり、「醤油組」の倫理的問題は、実は心の奥底の単に戦争に行きたくないという「エゴイズム」を「反戦」とか、「平和主義」とかの美辞麗句で「正当化」したことである。行きたくないということを直接的に表明するだけであれば、その人間は卑怯(ひきょう)者のエゴイストと指弾されるわけだが、「反国家主義」とか「戦後民主主義」とかを装うことによる「微妙」な「スリカエ」が行われて、さも「正義」の人であるかのように振る舞うという悲喜劇が蔓延(まんえん)したのが、戦後の生ぬるきヒューマニズムの見苦しい風景であった。

晩年の粕谷氏が、「醤油組」とは対極的な生き方をした『戦艦大和ノ最期』の著者、吉田満に深く共感していったのは、「当時から」「なじめなかった」氏としては当然の流れであった。

≪『戦艦大和ノ最期』に共感≫

随想集第1巻の巻頭に掲載されたのは、「『戦艦大和ノ最期』初版跋文(ばつぶん)について」である。GHQ(連合国軍総司令部)の検閲で発禁となったこの名作が漸(ようや)く世に現れたのは占領が終わってからだ。初版には、吉川英治、小林秀雄、林房雄、河上徹太郎、三島由紀夫が跋文を寄せた。氏は、これらの文学者を「戦後の風潮に同調しなかった人々」と称讃している。氏は5人の跋文を紹介した後、「晩年、吉田満が改めて戦争の記憶に回帰し戦後日本に欠落したものを問いつづけたのも『戦艦大和ノ最期』の作者の十字架であった。飽食のなかで忘却している悲劇の感覚を、もう一度、日本人に喚起したかったからであろう。それに答えうるか否かは、残された者の課題である」と書いている。

この「課題」に今こそ、我々(われわれ)は真摯に対峙(たいじ)しなければならない。「戦後日本に欠落したもの」は、あまりにも多いからである。

かつて私は、或(あ)る会で戦後日本の文学作品の中で百年後に残っているのは『戦艦大和ノ最期』だけだと「放言」して会場から呆(あき)れられたことがある。確かに極論に違いあるまいが、少なくとも「醤油組」の卑しい精神からの所産に過ぎないものは、日本の精神の本質にとって何の意味もあるまい。

そして、戦後長く続いた「醤油組」の天下は、今や漸く終わろうとしているかに見えるが、集団的自衛権の問題に表れているように未(いま)だに根強く日本の社会の中に残っている。「醤油組」の天下を完全に終焉(しゅうん)させることは、戦後の日本人の偽善性という倫理的問題を解決することであり、卑怯者の天下ではなく勇者の天下の日本国に改造しなければならない。

 ≪敗者の方が豊かな教訓得る≫

私が編者としてまとめた『「海ゆかば」の昭和』に氏からは「敗者の教訓」と題した寄稿文を頂いたが、末尾には「敗者の方が勝者よりも豊かな教訓を得る。日本人はいまこそ二十世紀前半の自民族の悲劇を誇りをもって語りはじめたらよい」と書かれている。

歴史認識の問題、あるいは歴史戦というものに立ち向かっていく心構えの根底には、この「誇り」がなければならない。8月15日の敗戦の日は、戦後70年の来年に向けて苛烈化する歴史戦で英霊の名誉と我々の「誇り」のために、必ずや勝利することを英霊の前に誓う日にしなければならない。(しんぽ ゆうじ)

大東亜戦争は政府陸海軍もちろん天皇陛下も全員避けたいと願っていた。
対米戦争は全員が負けると思っていた。

しかし、日本は戦争せざるを得ない状態に追い込まれた。

日本が三國同盟組んだ時点で日本は大きな誤りをおかしてしまったのだ。

ドイツがポーランドを侵攻し、英仏と戦争になった時点で日米は戦わなくても良い戦争に巻き込まれたのだ。日米はお互いに戦争をしたくないと思いつつ戦ってしまったと思う。

米国の一部勢力、イギリス、ソ連、中国国民党政府は日本を唆し対米戦争に巻き込みたかった。

特にチャーチルは米国が参戦しない限り対独戦争を勝利出来ないと確信していた為なんとしても日本を対米戦争をけしかけ、米国を第二次世界大戦に引き込みたかった。ソビエトは日本に南進政策をさせることで対独戦に全勢力を注げる。もちろん国民党は負け続けた日中戦争の打開策として、米国内で反日宣伝を行い米国の介入を熱望していた。

愚かにも日本は大局的判断を誤った。
しかも全員反対しているのに責任をとりたくないが故に対米関係をを悪化させての開戦では大東亜戦争で亡くなった300万同胞も浮かばれない。

連合国側はA級戦犯というのは軍国主義から対米戦争を仕掛けたので戦犯という言い方をしている。しかしながら、我々日本国民からすれば、ちゃんとした対米戦争の戦略計画や準備をしないまま軍国主義的政策をとらず無責任に開戦に引きずり込まれたことに対して責任がある。
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開戦を決定した大本営連絡会議



今年(※2014年)、アメリカで日米の熾烈な戦いを記録した113本のフィルムの存在が明らかになった。
撮影地はフィリピンの東800キロに位置するパラオ諸島の小島・ペリリュー。「地球最後の楽園」と呼ばれるサンゴ礁の美しい島だ。
70年前、日米両軍はここで死闘を繰り広げた。米海兵隊の最精鋭部隊と言われる第1海兵師団第1連隊の死傷率は、史上最も高い約60%。そのあまりの犠牲者の多さと過酷さから、ほとんど語られてこなかったため、「忘れられた戦場」と呼ばれている。
ペリリュー島は、太平洋戦争の中でも特異な戦場だった。日本軍はアッツ島以降続けてきた組織的な“玉砕”を初めて禁じ、持久戦を命令。米軍が当初「3日以内で終わる」と予想した戦闘は2カ月半に及んだ。
今回発掘したフィルムには、日米双方が日増しに追い詰められていく様が克明に記録されている。
NHKはフィルムを撮影した元米海兵隊のカメラマン(91歳)や、生き残っている日米元兵士の証言を記録。フィルムと証言から、ひとたび戦争が始まるとそれを終結することがいかに難しいか、戦場とはどんなものなのか、その厳しい現実を伝える。





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イメージ 1古田博司     日本の政治学者・歴史学者。筑波大学人文社会科学研究科教授。専門は政治思想・東洋政治思想史・北朝鮮政治・韓国社会論・朝鮮中世史・思想教化研究。神奈川県横浜市出身。韓国滞在が長く、その体験と研究を下地にした韓国論を複数出版している。著者に『悲しみに笑う韓国』『朝鮮民族を読み解く』『新しい神の国』『日本文明圏の覚醒』『「紙の本」はかく語りき』(以上、筑摩書房)、『東アジアの思想風景』(岩波書店)、『東アジア「反日」トライアングル』(文春新書)、『東アジア・イデオロギーを超えて』(新書館)など多数。

否韓三原則 韓国に対して教えず、助けず、かかわらず」の「否韓三原則」を提唱している

日韓歴史共同研究をご存じだろうか?2002年から2010年まで2回にわたり日本と韓国が共同で行った歴史研究のことである。

日韓で歴史の共同研究をするという話を聞いたとき、やっても無駄であり困ったことだと思った。下手に日本の左翼の学者が共同研究にかかわって、韓国のファンタジーの歴史を受け入れたら、朝鮮人の妄想が歴史となってしまっては歴史を愚弄することになると思った。

私の危惧は杞憂に終わった。日韓の議論は噛み合わず平行線で終わった。日本側の学者がまともな学者で気骨のある人達で本当によかった。もし、ここで韓国側の妄想を受け入れていたら、第二の河野談話になってしまうところであった。古田博司教授はその第一期と二期にかかわった胆力と気骨がある学者であった。私は正しい歴史を守ってくれたことに対し、心から御礼を言いたい。

それにしても、何と過激なタイトルであろうか!韓国を「醜い」と断言してしまいます。確かに醜く汚ない。だがそこまで断言できる程に、古田教授の朝鮮の知識は韓国人学者より深い。
日韓両国の超えられない政治課題を民間に「丸投げ」の形で委託された日韓歴史共同研究は、そもそもの立ち上がりから政治の手段だった。

このための埋めがたい溝は第2期研究でより明白になった。
政治的には「緩衝地帯」、学会間ではお互いを知る意味はあるものの、「歴史」の共通認識形成にはほど遠い現実が浮き彫りとなった。 

教科書小グループ新設は平成17年6月の小泉純一郎首相と盧武鉉大統領の首脳会談で決まった。
小泉氏の靖国神社参拝で冷却した日韓関係修復に向けた日本側の配慮の色彩が濃かった。 

安倍晋三政権でスタートした第2期。
安倍氏は韓国側の狙いは承知の上で、主力委員に「がんばって闘ってください」とエールを送り、「健全な議論」に期待を表明していた。 

しかし韓国側は、日本の歴史教科書を「日本の近代史を帝国主義の侵略と戦争を擁護し正当化する立場」(金度亨延世大教授)とひとくくりにし、採択率約0・4%の扶桑社「新しい歴史教科書」などを過半数以上の採択率の東京書籍の教科書と同等に扱い、「右翼」「軍国主義」などの用語で攻撃した。  

一部には『日本の教科書は戦争の拡大過程と占領地の事情についても記述している』(鄭在貞ソウル市立大教授)などと、バランスをとろうとした韓国側委員もあったが、「従軍慰安婦」と「(女子)挺身隊」と混同したままの『重大な欠陥を有した論文』もあり、大半の議論は平行線。

このため『2年半にもわたる「歴史共同研究」を行いながら…はっきりした点がある。それは日韓の歴史教科書共同研究が不毛だったということである』(山室建徳帝京大准教授)と書いた委員もいたほどだ。 

教科書小グループ幹事の古田博司筑波大教授は「韓国側のサンプリングは恣意(しい)的。
当初から善玉・悪玉史観があり、それに合わせて資料を張り付けた観が否めない。日本側は多くの資料からの帰納的研究を目指したが、議論は全くかみ合わなかった」と総括した。 

一方、植民地時代を含む19世紀中盤から現代までの近現代をあつかった第3分科会の日本側委員は「今年は日韓併合100年。植民地時代は35年だが、日韓にはその後の65年、日々新たに積み重ねた歴史がある。今研究では近代をトータルにみようと、共存の65年に文化や女性、人の動きといった違う視覚からのアプローチを試みた」と述べる。 

だが、このテーマ設定に加え、韓国側は近現代分科会でも日本の教科書記述を扱うべきだと主張するなど紛糾。委員の一人は「文化的なテーマ設定に韓国側はことごとく反対し、議論は“格闘技”だった」と振り返った。 

産経msnニュース 2010.3.23 19:35 
http://sankei.jp.msn.com/politics/policy/100323/plc1003231938012-n1.htm
研究会の様子は次のようだった。日韓の意見が対立した時に、日本側が「資料をご覧になってください」と言うと、韓国側は立ち上がって「韓国に対する愛情はないのか!」と怒鳴り、日本側がもう一度「資料を見てくれ」と言うと、韓国側は再び「研究者としての良心はあるのか!」と怒鳴る。韓国側は、民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけである。
ただし、当研究が不成功に終わった主な原因として、委員の1人である木村幹は「政治的意図の介在」「共同研究の制度的不備」「対立を解決する為の手段の準備不足(全会一致か多数決かという基本的なルールさえ存在しなかった)」の3点を挙げている。

 まえがき  ―― 「隣国のかたち」 3
P3-5
 朝鮮半島をイタリア半島に比す人がいる、が、両者は非常に違っている。

イタリア半島は北部にアルプス山脈という要害かおり、自然に守られている。ゆえに、カルタゴのハンニバルやフランスのナポレオンは、イタリア遠征の折、この苛酷な山をまず越えなければならなかった。

朝鮮半島は、北の日本海側こそ峨々たる山が隆起しているが、黄海側は北から南に平地がつづき丘のような小山はあるものの、ほぼ平坦である。つまり半島西側は、まったく無防備であり、祖国を守ることができない。遼の契丹族も、清の女真族も、数日で首都を抜いた。そのたびに、王は民を捨て輿に乗って逃げ出したのである。

朝鮮戦争時、南の李承晩大統領は漢江大橋を爆破し、民衆を置き去りにし先に後方へ退避した。北の金日成首相は敗走を垂ね、彭徳懐将軍(当時、中国人民義勇軍総司令)に軍を放り出して退いた。

この国の地政学的な特徴が作り上げた心性は、無防備で楽天的な民衆と、無責任で他者転嫁型の支配層にわかれる。民衆は支配層に伝統的な不信感を抱き、その無念を「藍」として歌い、支配層は無力で無責任であることを隠蔽するため、過度に威圧的、強権的かつ差別的である。知識層は支配層の一翼を担うが、ゼノフォビア(外国人嫌い)である一方、現実の弱者を自覚した時には度を越して事大的かつ卑屈になる。

朝鮮半島情勢が流動化して以来、四十年間朝鮮研究に携わってきた私は、最近、朝鮮が好きか嫌いかという質問をよく受けるようになった。もちろん、民衆は好きだが、支配層、知識層は大嫌いである。前者は、「率直・単純・端的・直人・きんきら・のびやか・あっけらかん」だが、後者は、「ウソつき・ほら吹き・卑劣・ごますり・ふまじめ・エラそうな・見栄っ張り」である。好きになれるわけがない。

もう一つ、多い質問が、朴正煕大統領は親日だったのに、娘の朴槿恵大統領はどうしてあんなに反日なのか、というものである。答えは、朴止煕氏は国外では親日だったが、国内では反日だった。日本の援助がほしかったので使い分けていたのだ。

朴槿恵女史は、中国が助けてくれると思い込んでいるので、日本にまったく気を使わない。

そのまま国内の反日が外にも反日として出てくる。親子の似た点は、威圧的かつ強権的であること。別に血脈によるのではない。朝鮮の為政者は多かれ少なかれ、この傾向をもつ。ただ二人ともこれが強いことは確かである。

中国もそうだが、韓国・北朝鮮が専門の大学の先生方は、あまり本当のことを言わない。言うと、嫌いになる人々が増え、学ぶ学生や大学院生も減り、自分の首を絞めることになるからである。                                                                            さらに海を越えて、現地の知識層に嫌われると、共同研究の機会もなくなり、研究費もガタ落ちになる。支配層にまで嫌われると、人国を拒否されたり、図書館での資料閲覧を断られたりする。果ては大使館や出先機関の情報員に付きまとわれる。こうなると研究に支障が生じる。だから悪いことを言わない。優しくゴマカシの解釈をする癖がついてしまう。                                                                             そして心のなかでは、彼らに同情したつもりで、精神の平衡をたもつ。

以下略
なるほど!日本の朝鮮や中国専門の大学教授の先生方々の多くは、研究した結果本当は朝鮮や中国が嫌いになるという。
>あまり本当のことを言わない。言うと、嫌いになる人々が増え、学ぶ学生や大学院生も減り、自分の首を絞めることになるからである。                   そりゃそうだ、私も朝鮮史を知れば知るほど嫌悪感が募る。ところが朝鮮史が生業となった場合、本当のことを言うと、朝鮮史を学ぼうと言う学生が減ってしまい自分の首をしめてしまうのだ。 
>さらに海を越えて、現地の知識層に嫌われると、共同研究の機会もなくなり、研究費もガタ落ちになる。支配層にまで嫌われると、人国を拒否されたり、図書館での資料閲覧を断られたりする。果ては大使館や出先機関の情報員に付きまとわれる。こうなると研究に支障が生じる。だから悪いことを言わない。優しくゴマカシの解釈をする癖がついてしまう。                                      
なるほど、古田先生は入国を拒否されたり、付きまとわれたり研究に支障を受けているのでしょう。呉善花さんら韓国にとって好まらざる言動をした有名人国会議員の入国拒否を平気でする、およそ近代民主主義国家とは異質の国である。

第1章あの、朝鮮民族とりき合う方法
韓国との歴史共同研究は怒鳴り合いの論争 21
戦争とは武器を使ってする戦争だけが戦争ではない。武器を使わない戦争は外交であるが、日韓歴史共同研究は外交であり戦争であった。会議は怒鳴りあい。
韓国側が歴史的事実を曲げて嘘をつく⇒日本側は「嘘をつくんじゃない!」と怒鳴る⇒韓国側は「良心は無いのか!」「愛情わないのかという!」
ある訳ないじゃん!
韓国人はウソをつくのがあたりまえ 23
p25
日韓のやりとりから次のようなことが言える。
日本人は嘘はつかない。しかし不正直である。全部の教科書をしっかりと調べていくけれど、会議をわざと長々としたりする。他方、韓国人はその逆で、嘘つきだけど、正直である。始めから狙い撃ちにすることは決まっているけれど、それを隠さないから結局不正直な我々に負けてしまう。
中国人も同様である。嘘という概念が我々日本人と違い、彼らにとっては嘘というのは「さらに多くの利益を確保するための虚偽の申告」(坂東忠信『通訳捜査官』経済界、二〇〇八年)に過ぎない。嘘だという自覚がない。だから嘘なんかいくらだってつくわけである。ここが非常に難しいところで、不正直だけど嘘はつかない日本人と、正直だけど嘘をつく韓国人や中国人とは絶対に合わない。
朝鮮民族とつき合うには、つき合いたい人だけつき合えば良いと私は考えている。
やってみたい人だけやってみればいいのであって、合わない人は合わない。
韓国人にはストレートに伝えるしかない 26
韓国人にはこんなことを言ったら相手に失礼かななんて思ったらいけない。     相手の欠点も思ったことを正直に言った方が巧く関係が築ける。

平気でウソをつくがハッタリである 29
      「全面肯定反転畳み返し」で攻める 31
      相手の嫌がることをやれ 34
      「ウソをつくんじゃない」と繰り返せ 36
      文化・習慣のまったく違う国と認識する 39
      生理的嫌悪感を無理に否定しない 41
      北朝鮮とはさらにつき合いにくい 42
      朝鮮半島はガタガタ 44
      核をもって北が南を脅す 45
      愛国ではなく反日のナショナリズム 46
第2章 いまや「正続性の奴隷」と化す韓国
      韓国人特有の行動パターン 53
      言いつけるイガンヂル゜ワールド 55
      中韓腐れ縁の長い歴史 57
      中韓の「正しさ」の押しつけ 60
      歴史に学んでしくじる民族 62
      正統性闘争が反日に化ける 64
      朝鮮朱子学が文化破壊を招いた 66
      殺しあう学者、棄てられた民 68
      反日運動の根源は何か 70
      韓国人の正統性コンプレックス 73
      韓国とかかわらない方法も考えておく 75
第3章朝鮮民族の復讐のカタルシス
      拉致も竹島支配も復讐のつもり 81
      「反日のうねり」が盛り上がらなくなってきた 82
      植民地化された「失政」を決して認めない 83
      「チャングム」は史実の改竃 85
      歴史教科書に国内批判も出始めた韓国 86
      増殖する韓国の「自尊史観」 88
      世界史的視点で見る朝鮮半島 89
      著しく発展の遅れた半島の李朝 92
      国家の正統性確立に苦しむ韓国 94
      無責任極まりない歴代朝鮮の為政者たち 95
      史実書きかえは韓国のほうが困る 97
      史実書きかえを支援した日本の左派学者たち 98
      教育の改悪で韓国の若者はアメリカヘ脱出 100
      戦後のとさくさに紛れて竹島を奪取 101
      日本は不正直な対応をやめるべき 103
      アジアの中の中韓の特殊性が見えた事件 104
      「ウソも通ればめっけ物」の世界 106
      国を捨てた「独立運動家」を英雄とあがめる 108
      中韓と北の「悪」はとどまるところを知らない 109
      日本軍と戦わない屈折が反日に 111
      中共軍は日本軍と戦わず延安に敗走しただけ 112
      韓国国民に知られたら困ることばかり 114
      北朝鮮のバッファしゾーンの価値がゼロ以下に 115
      朝鮮半島を再びバッファしゾーンにする 117
      棚ぼた式独立国家の劣等感 119
      韓国の民族主義史観が外国によって打ち砕かれた 121
      最後は中国が助けてくれると思い込んでいる国 122
第4章東アジア贖罪意識から目を覚ませ
      反省しない非道徳な中国 127
      孔子のような聖人では執政できない国 129
      すでに道徳を失った人たち 130
      殴られても聡るキョンシーと化した左派リベラル 132
      国家総動員体制化の中国に警戒すべき 134
      漁船衝突事件が平和の幻想を砕いた 137
      中華文明は一度滅んでいた 138
      中華にひれ伏さなかったモンゴル人 139
      独裁国家群のツナミをはね返せ 141
      東アジアの平和は終わった 144
      「助け、裏切り、恨まず」の中朝関係は終ったのか 146
      若き指導者の空騒ぎと派閥闘争 148
      張成沢一派粛清事件の波紋 150
      中国の北朝鮮離れ? 151
      もうアジア主義者の反発するネタは消えた 153
      退行しダークサイドに落ちる韓国 155
      格差の拡大と左翼の台頭 158
      韓国の初な左翼たち 160
      東アジアを見るコツ 163
第5章鋭い直観で東アジアを見よ
      唯名論と実念論の国がある 167
      中韓首脳会談は「日本外し」でなく「北朝鮮外し」 169
      マスコミはなぜ「日本外し」でバカ騒ぎするのか 172
      中韓では領土だと思ったモノが領土 174
      中国の威を借りて日本を徹底侮辱する韓国 176
      水戸黄門はいつから在日韓国人が作っているのか 178
      中韓の下町のおばちゃんは日本が大好き 180
      生理的嫌悪を隠す市民派たち 183
      韓流ドラマが国民の嫌悪感を潜在化した 184
      マルクスの荒唐無稽な学説を信じた人たち 187
      「李朝はまるで平安の藤原時代のようだ」 190
      儒教は韓国の恥辱そのもの 191
      李朝には荘園台帳の一冊もなかった 193
      長年の朝鮮研究から得た直観 195

 あとがき 198




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本文については下記URLリンクにより抜粋箇所を読むことができます。

『謎解き「南京事件」』阿羅健一著
【msn産経】2014.1.26 09:30

 昭和12年12月に起こったとされる南京事件。日本軍が南京の一般市民30万人を殺害したなどと、中国が宣伝しているが、実際はどうだったのか。

南京には100万人以上が居住していたが、戦争が始まると80万人が脱出、残留した市民は安全区に残った20万人だけだった。そして南京陥落後には、脱出者が戻ってきて25万人に増えた。これだけをみても30万人虐殺がでっち上げであることが明らかだ。

著者はこのようにして、強姦、略奪、火災などについても実証的に南京事件を検証、事件の真実に迫る。(PHP研究所・1575円)


歴史は日本では「ヒストリー」だが、中国では「プロパガンダ」、韓国では「ファンタジー」であるという話がある。5年前に米スタンフォード大学の研究グループが米国、台湾を加えた各国の歴史教科書を比較研究して得た結論だ。

中国が宣伝する南京事件の真実を追及する阿羅健一氏の力作だ。中国のプロパガンダを裏書きする東京裁判の判決自体、検察側証言だけを採用し、弁護側の反論を一切取り上げない一方的なプロパガンダであったのだ。

1937(昭和12)年12月の南京で起こったとされる「南京事件」の真実は何なのか――「最初の2、3日で男女子供1万2000人が殺害されたか」、「2万人が強姦されたか」、「欲しいものはなんでも奪ったか」、「南京の街の3分の1は燃え落ちたか」、「2万人の一般男性は殺害されたか」、「郊外で5万7000人の一般人が殺戮されたか」、「降伏した3万人の中国兵は殺害されたか」、「20万人以上が殺害されたか」、「日本は事件を認めていたのか」――。

検察側の証言と証拠ばかりが認められ、弁護側の反論はいっさい認められなかった極東国際軍事裁判。争われた事実の真偽をあらためて問う。検察官はどのような証拠を提出したのか。弁護側はどう反論したのか。判決はそれらをどう取り入れたのか。そして、なぜ南京事件は持ち出されたのか。

はじめにp2-5
一九三七(昭和十二)年の七夕、日本軍が北京郊外の盧溝橋で夜間演習していると、どこからか銃弾が飛んできました。それをきっかけに日本と中華民国の問に小競り合いが起こったのです。争いは収束しそうな気配を見せながら、なかなか止まず、七月二十七日、日本は三個師団を動員して短期決着を図ろうとしました。

当時の大陸は中華民国で、竹都は南京だったのですが、最大の都市は上海でした。上海には欧米や日本の租界があって国際都市として繁栄しており、日本人も三万人が住んでいました。小競り合いは遠い北京の出来事でしたが、すぐさま上海に伝わり、上海に伝わると、日本人の生命が危ぶまれるようになったのです。

女T供たち二万人はただちに上海を後にし、残る一万人を海軍特別陸戦隊が守ることになりましたが、陸戦隊は五〇〇〇人で、その周りをI〇倍の蒋介石直系軍が取り巻いています。八月九日、陸戦隊の将校が射殺され、下士官も殺害されるという事件が起きました。十二日、海軍は陸軍に派兵を要請し、翌日、派兵が決まったのです。二個師団からなる上海派遣軍で、司令官に松井石根大将が任ぜられました。

中華民国は、日本と戦うなら、挙げて上海で決戦する作戦を立てていました。なんとしてでも上陸を阻止し、上陸を許したならそこで殲滅する。そういった思想からドイツ軍事顧問団の指導のもとで準備を進めていました。

このため上陸しようとするその瞬間から、日本軍はひどい反撃を受けます。予想以上のことでした。上陸してからも激しい戦いに引きずり込まれました。

二個師聞を派遣してからひと月のうち、日本は三個師団と一個支隊を追加投入しなければなりませんでしたが、それでも上海を制圧できず、さらに第十軍を編成して送ることになりました。上海派遣軍と第十軍の上に中支那方面軍が設けられ、松井石根大将が司令官を兼任します。

ようやく十一月十一日、三ヵ月の期間と、四万一〇〇〇余の戦死傷者を出し、日本軍は上海を押さえることができました。ここに派兵の目的である在留邦人の安全確保が成し遂げられました。

そのころ、北京一帯の戦いは北方に拡大していました。上海から潰走する中国軍を前にして、この際、徹底的に中国軍を叩いて事変の解決を図ろうとする意見が現地軍に生まれたのは当然でしょう。上海のほかに、首都の南京ともう一つの中心地杭州を攻めようという考えでした。

その意見は参謀本部でも取り上げられ、十二月一日、南京攻略が決まりました。
中華民国では、上海が落ちそうになったころから、南京を守るか、あくまで放棄する
か、議論が重ねられていました。六人の軍首脳とドイツの軍事顧問団長が意見を述べることになったとき、戦わずに首都を放棄するのは屈辱ではあるが防衛できる望みはない、と南京放棄論が相次いだのです。

そういったなか、唐生智は南京死守を主張します。するとそれまで聞き役に回っていた軍事委員長の蒋介石が□を開き、唐生智の意見に賛成するとともに、唐生智を南京衛戊軍司令長官に任命しました。

蒋介石の一言で、南京はあくまでも防衛されることになったのです。

南京攻略を決めた日本軍では包囲作戦が立てられ、一部は迂回して背後から向かいはじめました。新たに戦闘に加わった第十軍は積極的で、上海派遣軍も元気を取り戻していました。潰走する中国軍に立て直す余裕はなく、攻撃命令から九日目の十二月九日、鯖江の歩兵第三十六連隊は城門の一つである光華門を攻撃しはじめます。上海の戦いとは違い、南京戦は日本軍の一方的な様相となりました。

大勢は決し、これ以上戦っても中国軍の犠牲が増えるだけです。南京には明の故宮や孫文の陵などもあります。鯖江の歩兵第三十六連隊が攻撃を始めた九日、松井司令官は中国軍に降伏を勧告することにし、ビラをまき、翌十日正午を期限に指定しました。

しかし、中国軍では降伏を認めてなく、唐生智南京衛戌軍司令長官は降伏を拒否しました。

日本軍は攻撃を続け、十二日になると、光華門以外でも城門を挟んだ戦いが繰り広げられるようになったのです。

その日の夕方五時、唐生智は師長たちを集め、日本軍の包囲網を突破して指定した地に集結することを命じます。夜八時、唐生智は揚子江を渡って南京から脱出し、それとともに中国軍の南京脱出が一斉に始まりました。

十三日、日本車は城内に入り、突破脱出しようとする中国軍と戦いになりました。中国軍は壊滅状態となり、夜になって、南京は陥落した、と日本軍は発表しました。
それでも、城の内外にはまだ多くの中国軍がいて、十四日以降、掃蕩戦が続けられ、十六日まで続きました。
p9-13
判決文はそのときの日本の対応を、次のようだったとも述べました。

《日本の大使館貝は、南京にいる宜教師たちに、憲兵はわずか一七名にすぎないと知らせ、大使館員らは日本軍の行動を緩和させようとしているとも話したが、やがて、宜教師のほうから実情を日本内地に知らせてはどうか、と言い出した。

日本軍の不法行為は南京につくられた国際委員会によって抗議され、外交団、新聞記者、日本人使館員たちは上海の日本公使に詳細を報告した。日本の公使はその大要を広田弘毅外務大臣に送った。広田外務大臣はそれらを陸軍省に送り、連絡会議で日本軍の 不法行為について検討された。

軍司令官の松井石根大将は不法行為の報告を受けたが、事態を改善する効果的な方策 を講じなかった。

日本軍の不法行為は新聞報道で広まり、全世界の世論の圧迫によって日本政府は松井司令官と約八〇名の将校を召還した。しかし、処罰はなされなかった〉

こういった事実からも南京事件は明確である、と判決は述べています。
一言で言えば、日本軍の入城直後から、南京では見るに堪えない残虐行為が繰り返されたということです。起訴状で数千人の犠牲者とされていましたが、実際は二桁も違う二〇万以上という大規模なものだったのです。

判決文の朗読は七日間続き、最後の日、被告に対する訴因の判定に移り、松井大将についてこのように判定されました。

《南京で不法行為が広く行われたことは、日本側証人によって否定されたが、いろいろな国籍の、また疑いのない、信憑性ある中立的証人の証言は、圧倒的に有力である。松井軍司令官は自分の軍隊に対して行動を厳正にせよと命令を出したが、何の効果ももた らさなかった。松井司令官は、南京市民を保護する義務と権限を持っていたが、義務の履行を怠った》

このように、不法行為を命令したわけではありませんが、松井は最高司令官として適切な処置をとらなかったと判定しました。また、ここでは事件の全容をこう判定しました。

《昭和十二年十二月十三日から翌年二月上旬までの六、七週間、何千という婦人が強姦
され、一〇万人以上の人が殺害され、無数の財産が盗まれたり、焼かれたりした》

前の訴因第五五の判決と比べ、強姦の件数は二万人から何千人、殺害の数は二〇万人以上から10万人以上と変わりました。不法行為が大規模なため、このような曖昧な言い方になったようでもあり、この数字だけが松井司令官の責任と言っているかのようでもあります。

南京事件については、外務大臣だった広田弘毅と中支那方面軍参謀副長の武藤章大佐も問われました。広田弘毅外務大臣は、松井大将同様、適切な措置をとらなかったとして有罪とされ、武藤参謀副長はその地位から責任はないとされましたが、そのほかの戦争責任から有罪となります。

朗読の最後に、量刑が宣告され、松井石根は絞首刑を宣告されます。
絞首刑の判決が下りたのは松井石根を含め七人です。松井を除く六人は侵略戦争の全面的共同謀議で有罪とされ、それについて松井は無罪、訴因第五五だけ有罪とされました。

全面的共同謀議で無罪、南京事件だけで死刑を宣告されたことは、南京事件がそれだけの戦争犯罪であることを示していました。

ちなみに広田外務大臣も絞首刑の判決を受けましたが、広田外務大臣は侵略戦争の全面的共同謀議で有罪とされており、南京事件にかかわらず死刑判決が下されたと考えられます。

東京裁判が閉廷すると、弁護側がアメリカ最高裁判所に訴願しました。対してアメリカ最高裁判所は干渉する権限がないと判定、マッカーサー連合国軍最高司令官は予定通り刑の執行を命じ、十二月二十三日、七人は絞首刑に処せられました。

裁判に対する批判は占領軍から禁止されていたため、判決への反論が表明されることはありませんでした。

昭和四十年代になると、改めて南京事件を主張する人が現れました。
それに対して反論が出されます。論争が起き、判決より大規模な犠牲者三〇万人とする意見から、事件は架空というものまで、さまざまな見方が出されました。多くの著作が刊行され、そのなかから本多勝一 『中国の旅』や鈴木明「「南京大虐殺」のまぽろし』といったベストセラーも生まれました。戦後、歴史論争、文学論争、あるいは政治論争などたくさん起きましたが、南京事件は特筆すべき論争となったのです。

南京事件の真実は何か。ここでは、東京裁判で検察官がどのような証拠を提出し、それに弁護側はどう反論したか、そして判決はそれらをどう取り入れたのか、それを振り返り、検討することにします。


まえがき――事件の経緯 1

第一部 東京裁判が判定したことは事実か

第一章 最初の二、三日で男女子供一万二〇〇〇人が殺害されたか 24
対立する死者目撃の証言 24
一万二〇〇〇の死体を完全否定する文書 31
検察側の証言はすべて崩壊した 37
第二章 二万人が強姦されたか 42
前代未聞の不法行為はあったのか 42
ここでも検察側の証言をすべて採用 4
どの資料にも証拠となる記述がない 50
第三章 欲しいものはなんでも奪ったか 58
単なる伝聞の記録を主張する検察 58
掠奪のほとんどは中国人によるものだった 65
第四章 南京の街の三分の一は燃え落ちたか 71
南京の大火災は自作自演だった 71
放火どころか消火に努める日本軍 76
第五章 二万人の一般男性は殺害されたか 83
独り歩きする二万という数字 83
掃蕩戦が明らかにしたものとは 90
戦時国際法を無視する便衣兵の行方 99
第六章 郊外で五万七〇〇〇人の一般人が殺戮されたか 104
たった一人の証言が大量殺戮の証拠に 104
一万五三〇〇余の中国兵を捕らえる 107
偶然が重なった捕虜解放の順末 111
第七章 降伏した三万人の中国兵は殺害されたか 117
これほど荒唐無稽な証言はない 117
城外での遭遇戦がもたらすものとは 120
水増しされた数字と目撃の真相 125
第八章 二〇万人以上が殺害されたか 131
作為された埋葬死体数は何を意味するのか 131
人口の推移から明白になった市民殺戮の嘘 136

慈善団体の活動をここまで偽造するとは 心
第九章 日本は事件を認めていたのか 149
当事者の知り得ないことを法廷が認める 149
一〇か二〇の事件が何百、何千に膨張する 155
召還を不法行為の証拠と見なされる 四

第二部 事件が言い出された理由

第十章 なぜ南京事件は持ち出されたのか 166
1―事件を起こす原因はあつたのか 166
苦戦と日本軍の体質が原因なのか 166
南京戦の戦死傷者は上海戦の一〇分の一以下 170
事件の原因は日本軍が存在したという妄言 175
2―ドイツ人の証言は信用できるのか 179
本当に信憑性のある中立的証人か 179
あまりにも中国寄りの委員長 181
日本との開戦を進言する軍事顧問 184
3―なぜ南京事件は持ち出されたか 188
日本の戦時宣伝は他国に比べて劣っていた 188
中国には「通電」という謀略戦が下地にあった 195
親中宣教師たちの裡造は、ある意味当然だった 万   
4―なぜ中華人民共和国は南京事件を言い出したのか 212
三光政策という批判の対象が変わっていく 212
どんなに日本を非難しても南京事件は持ち出さなかった 217
戦後日本を批判するためだけの道具になった 223

あとがき 227



執筆中
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世界的大家が見る、日本の過去・現在・未来

領土紛争、沖縄と基地、憲法改正、集団的自衛権、核・原発、歴史認識問題など、未解決の課題が山積する中、東アジア情勢は一層その緊迫度を増している。日本の選択はどこにあるのか。これまでと同様に米国への「従属」を続けるのか、アジア中心の新たな安全保障体制を構築するのか、それとも……。戦後日本の歩みに限りない共感を示す、二人の歴史家からの日本へのメッセージ。
渡辺利夫氏 の本が歴史教科書を「右」から書き直そうという試みだとすれば、本書は「左」から書き直そうとするもので、彼らが高く評価する『戦後史の正体』に近い。日本の戦後史を日米同盟からみる着眼はよく、著者の指摘する事実はおおむね正しい。

日本は「サンフランシスコ体制」でアメリカが自由に基地を置くことを容認し、軍事的に自立できない属国であり、国際社会では一人前と認められない。今までは「パックス・アメリカーナ」に安住してきたが、中国の台頭でアメリカがいつまで日本をアジアのもっとも重要なパートナーと見てくれるかはわからない。

ここまではいいのだが、どうすればいいのかという話になると話は曖昧になる。憲法第9条の平和主義は守るべきだが、日米同盟は今のままではいけないという。「市民のネットワーク」によって「パックス・アジア」をつくるべきだという鳩山由紀夫氏のような理想が語られる。

当然、本書は安倍首相にも批判的で、彼の「積極的平和主義」は軍国主義への回帰であり、戦争の反省もしない自民党政権はアジア諸国に許されないという。うんざりするのは、著者のような歴史家でさえ「性奴隷」を糾弾することだ。朝日新聞と福島みずほの嘘が、世界の常識になってしまったのだろう。

本書のような空想的平和主義の最大の弱点は、それが日米同盟に代わる現実的な選択肢を示せないことだ。日米同盟(特に地位協定)があるかぎり日本が属国だということは事実だが、日米同盟を破棄して、今の憲法で十分な防衛力が構築できるのか。それは戦前の日英同盟の破棄のように、国際的な孤立と暴走の始まりになるのではないか。

サンフランシスコ体制で植えつけられた平和ボケのおかげで、日本では左翼も右翼も戦争にリアリティをもてない。残念ながら、今の日本がアメリカから独立することは困難で危険である。そこには空想的平和主義か明治ナショナリズムかという感情的な対立しかないからだ。
池田 信夫 のほかの記事を読む

『転換期の日本へ――「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か』 ジョン・W・ダワー、ガバン・マコーマック/著 明田川融、吉永ふさ子/訳      メールマガジン オルタ (プロ市民側のサイト:書評)


今の日本がアメリカから独立することは困難で危険である!

上掲 池田信夫氏のブログの結論だが、同感である。
私は、保守本流(親米保守)に近い消極的親米保守を名乗っています。
対米独立はいずれ果たすべきだが、現在の国民意識、政治家官僚の実力、インテリジェンス能力のレベルから判断すれば、対米従属からの脱却は、ともすれば反米国家へ成り下がる可能性を有し、再び破局的な結果を招くと私は思っています。

本書がダメな理由は序章p10-12を読むと、理解する。
P10-12
 そして日本は? 日本は一九九〇年代初期の経済と金融バブルの崩壊に始まる「失われた二〇年」から脱却する道をまだ見つけられないでいる。「ジャパンーアズーナンバーワン」が人目に官鍬した一九七〇年代、八〇年代は、まるで短い寸劇だったかのように、今では遠い昔の出来事に思える。

しかし、日本にとって問題は、経済面で自信とエネルギーを取り戻すことだけにとどまらない。多くの問題があるにもかかわらず、日本経済はいぜん強力である。この国の人的資源はなお傑出している。日本の難題は、新しい「アジア太平洋」共同体をイメージし、敵対的対立ではなく経済的・文化的な協力関係の構築に資源とエネルギーを注ぐことのできる指導者が存在しないことにある。日々生起する危機を乗り切るだけで精一杯ということではなく、指導者には、将来に対する聡明な洞察力と勇気が何よりも必要とされているのだ。

いずれか一つの国が圧倒的支配力を持つことのない、ある種の「パックスーアジア」(アジアによる平和)構想を描いてみると、そこでは、対立ではなく共同体的な活動が基本となり、何よりも実質的に平等であることが参加国の必須条件となる。これらは理想的目標であるが、達成可能な目標でもある。話し合いで解決可能な緊張や問題に対して、武力による威嚇と戦争によって対処するという反応をあまりにも頻繁に目にするが、こうした平和構築の方向へ向けて思考やエネルギーを注ぐ方がはるかに現実的ではないのか。

欧州連合(EU)は、かつて血まみれの戦争を繰り返した大陸諸国が、それぞれの違いを認め、永続的平和を達成するために努力してきたことを如実に示す例である。
ヨーロッパ統合の先例が示すように、アジアにおいて欧州連合と同様な共同体を作り上げることは、すべての関係各国にとって途方もない挑戦となる。中国、韓国、日本、米国(アジアの国とは言えないが、日米関係のしがらみから切り離せない)といった国々が、権力分担(power sharing)を行う難しさを想像してみてほしい。特に、今まで米国の「属国」として存在してきた日本という国の指導者たちにとって、それがどれはどの難題であるかは明白であろう。

第二次世界大戦後の米国――を主力とする連合国――による日本占領以来、日本の指導者たちにとっては、ワシントンの政策に黙々と従うことが得策であった。日米の意見が食い違うことはあっても、重要な国際的問題において深刻な見解の相違が生じることはまれであった。冷戦の最中になされたワシントンのきわめて愚かな政策、たとえば一九五二年から一九七二年までつづいた中国封じ込め政策においても、日本にはそれに従う以外の選択肢はなかった。沖縄をいわゆる本土から分離し、米軍政下に置くことも文句も言わずに受け入れた。米国の歯止めのない核政策を支持し、重要な局面では中国や北朝鮮に対し、核で脅迫することをワシントンに示唆することもした。

日本は一九六〇年代、七〇年代のインドシナ戦争や9・11以後のイラク戦争などにおいても、それがどれほど残虐なものであれ、米国の戦争を献身的に支持してきた。一九七二年の沖縄に対する日本の主権回復も、同年の米中和解も、それから約二〇年後の冷戦の終結も、日本の対米従属を弱めることにはつながらなかった。

アジアにおける恒久平和をどうしたら達成できるのかとあらためて考えるとき、こうした歴史的な出来事を並べてみると、日本が自主的に建設的な役割を担うことは簡単なことではない。また過去の一時期、日本がアジアの新秩序建設に邁進した記憶がアジア諸国に残っていることが問題を複雑にする。大失敗に終わった、大東亜共栄圏で頂点に達した大日本帝国時代のアジア新秩序建設の構想は、今日、日本が音頭をとって新アジア共同体構想を強く提唱することにブレーキをかける。

現在の転換期にまで導いた、第二次世界大戦後の歴史を理解し、認識することなしには、現在および将来の東アジアについて鋭い考察を加えることはできない。

この二人は、亜細亜の歴史は年表でしか理解していないのではないか?中華思想や、大東亜戦争の本質をまるで理解していない。
 いずれか一つの国が圧倒的支配力を持つことのない、ある種の「パックスーアジア」(アジアによる平和)構想を描いてみると、
中国によるベトナム・フィリピンへの高圧的な態度を見れば、この二人の言っていることは、まったくリアリティがない。

へたをすると、この二人、中国の工作員である可能性が非常に高い!

そこでは、対立ではなく共同体的な活動が基本となり、何よりも実質的に平等であることが参加国の必須条件となる。
ジョンレノンのイマジンかよ!


これらは理想的目標であるが、達成可能な目標でもある。話し合いで解決可能な緊張や問題に対して、武力による威嚇と戦争によって対処するという反応をあまりにも頻繁に目にするが、こうした平和構築の方向へ向けて思考やエネルギーを注ぐ方がはるかに現実的ではないのか。
なにを根拠に達成可能なのか?ヨーロッパができたからアジアでもできるだろう?
小学生の理論だ、学級会の議論程度の根拠に呆れかえってしまう。
中国人に言ってくれ、「平和にやりましょう!」って。お二人の脳天気な考えに呆れかえってします。本当に歴史学者なのか?疑いたくなる。

大日本帝国時代のアジア新秩序建設の構想は、今日、日本が音頭をとって新アジア共同体構想を強く提唱することにブレーキをかける。
日本が主導権をにぎっちゃダメです。・・・ハァ?
この二人、中国のエージェントである可能性が非常に高い!!!

第三章はダワーとマコーマックの対談である。

2012年から混乱の時代に入ったとダワーは言う。マコーマックはアジア(中国)は19世紀初頭世界の中心であった頃の力を回復すると言う。

アジアが統一できないのは、サンフランシスコ条約のせいだと言う。この二人はまったく中国のエージェントだ。サンフランシスコ条約を破るということは尖閣を中国のもの、へたすりゃ沖縄も中国のものと言い出しかねない。この二人日中が和解すると思っているが、どう和解しろと言うのだ。日本は開闢以来中国への従属は絶対ないし、日中は同じアジアにあり距離的には近いが、文化文明はまったく別の文明であるという基本的なことを理解していないことに私は苛立つ!

アメリカの国力が低下し「パックス・アメリカーナ」(アメリカによる平和)の時代が終焉を迎えつつある中で、次の時代が「パックス・アジア」の時代になるべきであるという意見で一致している二人の見識の無さ!笑止千万!

パックス・アジアがどういうものかは不明確だが、おそらく両者はアメリカ・中国・日本・アジア諸国の連携による多極的な国際秩序を想定しているようなのだが、両者が認めているようにこのような国際秩序の実現は困難である。当たり前で、長々むりやりこの本を読んだ私の神経を苛立たせる。

p234
ダワー「誰も『パックス・アメリカーナ』がある種の覇権的な『パックス・シニカ』(中国による平和)といったようなものに変わるのを見たいわけではありません」
中国が力で各国を押さえつけるような世界秩序は人類にとって不幸な未来である。

執筆中
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人類文明の秘宝『日本』   馬野周二・著  徳間書店 

p229-236
戦後にはそんな人はあまり見かけなくなったが、戦前の大実業家には、功成り名遂げると、引退して茶をやるとか、書画に凝るといった人達がいた。名誉、金銭に淡白になるのだ。この物欲、金欲から離脱して、精神性に帰る過程は、すなわち現代工業文明から縄文の哲人に復帰する、先祖返りなのである。茶と花と能とは、その精神の根源を、深く上古日本の精神文明に負っている。

日本語が日本人を作る

一つの民族の性格、文明の型は、彼らが使う言語によって太枠として規定されている、そう私は考えている。二十年くらい前まで、北極空路が開かれない時代にヨーロッパから日本に帰る人達は、インドを離れてタイに着くと、急に身近かな感じを待ったものだ。インドとヨーロッパ、あるいはタイと日本は、まったく違うように見え、むしろ日本とヨーロッパは同じように思うけれども、現実にその社会に入って見ると、やはりインドは西洋でタイは東洋である、と感ぜざるをえない。

この原因は、西洋の一体性が、インドーアリアン言語を共通項としているというところにあろうし、タイと日本の近しい感覚は、同じく東洋人種という点と、仏教信仰を同じくしていることにあろう。しかし同じ東洋人種といっても、フィリピンでは日本人は異和感を覚えることが多い。

これは彼らが英語、スペイン語で長く育てられ、キリスト教が一般化しているせいであろう。

在米邦人でも、一世と二世はずいぶん異なる。日本語で子供の時から育てられたか、あるいは英語で育てられたかの差が、決定的なのである。逆にアメリカ人、ヨーロッパ人でも、日本で、日本語で育つと、心の深いところで日本人の性格を持つようになると思われる。これは肉体の物理的構造でも説明できるので、一般に左脳と右脳といわれている部分の聴覚機能が、日本語で育つと変ってしまうのだ。これは角田忠信氏の発見である。

たとえば秋の野にすだく虫の音を、日本人は情感をもって聞くが、西洋人はもちろん、お隣の韓国人も、単なる雑音として聞く。この一事で、日本語がいかに特殊か、したがって日本人とその作る文明が、他のあらゆる民族のそれと異なるかがわかろう。すなわち、日本語は日本人の存在の根源につながっているのだ。日本でなぜ音声が神になるのか(言霊)、そのわけはこの辺にあるのかも知れない。

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言語の「もと」はただ一つである  

人間は言語を、一体どの進化の時代に作り出したのだろうか。われわれ新人は、わずか三万五千年前に出現している。とすれば、その時代には現代の各言語の根本はもうできていたはずである。黄・白・黒色人種いずれも同じホモサピエンス・サピエンスで、当然その時に発生した祖先から分かれたわけである。そうすると、現在使われているあらゆる言語の「もと」はただ一つだ、と考える外はない。

彼らが世界の各地に散っていく途中で、各人種、各民族に特有の言語ができてきたと思う外はない。

事実、比較言語学というのがあって、インド・アリアン語族については、その原語から分かれて、現在のインドからイラン、ギリシア、ローマ、近代西欧語に何年くらい前に枝分かれしたかが、十分に調べられている。ところが東洋の諸言語については、インド・アリアン語族の歴史よりずっと複雑で、今のところ十分な分析はできていない。とくに日本語については、この起源は五里霧中といってよい。だから各人各様の珍説さらには奇説が現われる。

だが私は日本語は日本で作られたと考えている。もちろんホモサピエンス・サピエンス原語から出たのだが、きわめて早期に日本に渡ってきて、列島内に固定されたものと見てよいだろう。その証拠はいろいろとある。したがって、日本語はどの言語の範囲にも入らない。他の言語は多民族との摩擦の中で、いわばスレてしまっているのだから。

このような言語を数十世紀も保持してきた日本人が、他の民族とまったく異なった心情を持つことは当然であり、脳の言語部の物理構造が原初のまま今日まで変化しないで続いてきた。世上、日本人の起源や国家の由来について荒唐無稽な言説が多いが、列島全体が均一な言語で覆われ、近似した言語が近辺にさえ一つもないということは、日本人とその国家の起源が、太古から正しく列島内に局限されてきたことの、破ることのできない証である。このようにして、言語の構造が変わるほどの大量の異種族の流入は考えることはできないものとなる。

私はいろいろ世界を見て歩き、アメリカ人、ヨーロッパ人と一緒に仕事をしてきたのだが、日本人は、心中深いところで、まったく別種であることを切実に感ぜざるをえなかった。このことは、とりも直さず、日本語が他の言語と大きくちがっているということからくる。これは図表ー8示されたような文字八十個から成っているが、この文献と同類の漢字音で書かれた『間之統志(マノスベシ)』、『神名比々執(カムナヒビキ)』という本もあるという。このことはすでに述べた。
この内容を現代の言詰二要約すると、次のようになろうか(宇野多美恵氏による)。
1.万物、万象の根源は、一つの潜体であり、あらゆるものはその「始元」をここに発している。
2.したがって生物も無生物も人間に知覚されるすべての「現象」には、それと対をなす「潜象」が遍満しており、それはこの「始元」に連なっている。
3.宇宙から原子核まで、生物から文明まで、相似則が貫通している。       
ユダヤ、キリスト、イスラム教では、唯一真神としての人(神)格が存在し、人間はこの神の意志の下で生きる。そこで彼ら教徒は、いかなる行動をとっても、それは「神」に見られ、その意志によって動かされていることになる。よくいわれる彼らの契約の観念においても、彼ら相互間の約束は、実は当事者が暗黙、無意識のうちにあってもそれぞれ神と契約しているという、精神的プロセスなのである。

日本人は「神」でなく「始元」を相手にしている 

ところが日本人の間では、契約は当事者の間だけの約束で、「神」などが入ってはいない。ではわれわれは本当に当事者だけで事を済ませているのだろうか。それなら、相手が死んでしまえば、契約はなくなり勝手なことができるはずである。かくして監視者「神」のいない日本社会は、没義道(もぎどう)な無残なものとなっているはずだ。西洋人はよく日本人に、あなたの信仰はと聞く。その問の裏は、信仰のない人間は何をするか分からぬという不信感があるのだ。神のいなくなった西洋社会は恐るべきものとなろう。                           
しかし世界歴史上大国家としては、おそらく日本ほど犯罪の少ない穏やかな社会はなかっただろう。これはなぜなのか。日本には特定の神格は存在しない。外から入ってきても変質してしまう。何となれば、日本では「一神」は居ず、「万神」は万象に遍在しているからだ。                                  
われわれは主語のない言葉を普通に使う。西洋カブレの人達は、それだから日本語は曖昧で駄目だと託宣する。だが、それで十二分に意味は通じる。主語を入れると、かえってブチ壊しになるのだ。必要のある場合には主語を入れればよい。日本語はいくらでも厳密な表現ができるのである。漢文よりも日本文の方がずっと精密な表現ができる。法律などは極めて厳格な用語で書かれている。    
「有難うございます」「すみません」「もったいない」などという言葉は、西洋流に穿鑿(せんさく)すれば、訳がわからなくなる。一体誰が誰に有難いのか、すまないのか、何に対してもったいないのか。それは宇宙に遍満している「始元」に対していっているのだ。西洋人が「神に監視されている」とすると、日本人は「神に包まれている」とでもいえようか。

 日本人的精神を持っていた古代ギリシア人 

実はこのような現代の日本人の保ち続けている心理は、古代ギリシア人もある程度持っていた。彼らは「すべて神気に満つ」という日本人的精神を持っていた。われわれが早朝の人気のない神社にお参りした時の、あの感じと同じであろう。古代ギリシアと日本の親近性に注意した人はこれまでもいる。だがその理由を説明した人はいない。私の見るところ、古代ギリシア人は、なお人類文明の始源に近く、したがって「始元」が万物に遍満していることを直観できたのだろう。日本人と同じく彼らも多神教であった。                                 
日本語は非常に母音が多い。私はこのことが、日本人の性格の原因であり結果だと思っている。ホモサピエンス・サピエンス原語は、日本語と同じように母音が多かったのだ。そして太古の人達はみな、虫の音が音楽に聞こえていたのだ。だからこそ万物に神が宿っていた。彼らが民族移動して他種族と闘争し、農業社会で相克を重ねるにつれて、言語から母音が落ちていき、人の心が乾燥し、人間不信となり、「人格神」を作り出して彼と契約しなければ、社会秩序が保てなくなった。
西洋では神を二人称で呼ぶ。神もまた人間を二人称で呼ぶ。“お前”であり“あなた”である。だが日本人で神、「始原」を人称代名詞で呼ぶ者はいない。およそ、そんな発想はでようがないのだ。おそらく古代ギリシア人も同様であったろう。
アメリカ合衆国の政治学者サミュエル・P・ハンティントンが1996年著した『文明の衝突 の中で世界を8つの文明に分け、日本を単一の文明圏とみなした。ハンティントンは日本文明が100年ないし400年ごろに中華文明から派生して成立した独自の文明であるとしている。
日本文明がが中華文明と異なる大きな要素は日本語であり、日本語の感性は太古の昔から醇乎(じゅんこ)たる[混じりけがない]精神が今も宿っている。

虫の音がわかる日本人
p16-19
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6b/53/b8e60b16fcdf971679c062531a00652c.jpg餌取: 秋に虫が鳴くのを意識して聞くというのは、そうしてみると日本人だけの持つ風流さなのですね。

角田: ええ、中国人にさえ通じないようですよ。

餌取: そうしてみると右半球・左半球の分かれ方のお話は、日本人だけが特別なのですか・・・・・東洋人と西洋人、という具合にわかれるのではないのですか。

角田: 私がいままでに調べたインド人、香港にいる中国人、東南アジアの一部の人達・・・・・インドネシア、タイ、ベトナム人は、日本人にみられるような型は示していないようです。

餌取: 欧米と同じパターンですか。
角田: ええ。私が興味深く思ったのは朝鮮人で、これは多分日本にとても近いだろうと思われたのですが、全然違いました。

餌取: そうすると、日本人固有というわけでしょうか。
角田: そうですね。
餌取: どうして日本人にだけ、そんなに特殊な脳の働きが出てきたのでしょう。
角田: それはやはり、母音の扱い方の違いだと思いますよ。


日本語の特殊性

餌取:考えてみれは、たしかに日本語は母音主体のことばですし、それに比べて英語などは子音が主体ですね。
角田:速記術の場合なども、英語では母音は省いてしまう、それで充分わかるそうです。日本語だったら子音だけではまるで意味をなさない・・・・・。それから、よく考えてみると、アイウエオそれぞれに意味がある。あ、しまった! とか、あ、いけない! という時のア、井や胃のイ、鵜の鳥のウ、絵と柄などのエ、尾のオ・・・・・これは他の国の言葉にはない、特殊な事情ですよ。たしかに朝鮮語にイ、というのがあったのでしたが・・・・・。
餌取:なるほどねえ。それをうかがってみると、イタリア語などが音節などは日本語に似通っているとしても、やはり意味づけという点からは全く違いますね。
角田 イタリア語、スペイン語、ポルトガル語などは、発音の面ではよく似ているように思って興味をもって調べてみましたけれども、全部違いました。
餌取:母音主体ではあるけれども、その母音の一つ一つが意味を持っていることばではないわけですね。
角田:したがって日本人の脳だけが、母音に対して特殊な反応形式を示すと考えられます。ですから面白いですよ。いろいろ実験してみますと、動物の声のようなものはみんな左側にいってしまうんです。けれども楽器の音のように整然としたものは右側へいきます。これはどうも脳幹にあるスイッチのような機能の作用らしくて、日本人以外では、そのスイッチの作用の仕方が違う・・・・・。
餌取:日本人のスイッチは感度が大変敏感で、西洋人などでは右側にやってしまうような音でも拾い上げる・・・・・。
角田:そうですね。厳密に音節単位のものでなければ拾わない・・・・・単純な音の場合には右側に入れてしまっていますからね、西洋人の場合は・・・・・。自然界の音などは、楽器や機械音と同じように無意味音として処理されます。
餌取:見方によっては、西洋人のほうが、論理的なものを非常に厳しく選別しているともいえますでしょう。そのへんが、日本人は感覚的で西洋人は論理的だ、という点につながってくるのかもしれませんね。
角田:そうですね。よくいえば情緒的、感覚的、わるくいうならば感情的・・・・・。
餌取:論理的でない・・・・・。
角田:しかも、教育を受けたから論理的になる、というものでもないのです。その分野だけは論理的になりますけれども本質は変らない。
餌取:さんは耳鼻科の医学者餌取章男氏

角田忠信博士の 日本人の脳特殊説は追試が確認できないトンデモだとの説だとか、リビジョニスト(日本異質論者)の格好の材料にされるだけとの批判あるが・・・

数学者 藤原雅彦のベストセラー「国家の品格」p101
十年ほど前に、スタンフォード大学の教授が私の家に遊びに来ました。秋だったのですが、夕方ご飯を食べていると、網戸の向こうから虫の音が聞こえてきました。その時この教授は、「あのノイズは何だ」と言いました。スタンフォードの教授にとっては虫の音はノイズ、つまり雑音であったのです。
虫の音を雑音扱いされて、藤原氏はあぜんとしたという逸話である。日本人であるならば秋の夜の虫の音は美しい音色に聞こえるのだが、この米国人大学教授には雑音にすぎないのである。
このことからしても8-9歳まで日本語で育った人間の脳の働きは、西洋人のみならず日本人以外の他のすべての民族と人種とは全く異質であるという角田説の信憑性は結果として正しいと私は感じています。

小室直樹先生も、日本に日本教という「ネガ宗教」があるが日本には「宗教」と「論理」が無く、日本人はものを考えるときに、論理ではなくフィーリングで感じる(平成二十六年建国記念日に思う )と指摘している。

日本では認識過程をロゴス(論理)とパトス(感情、情念、情緒)に分けるという考え方は、西欧文化に接するまではついに生じなかったし、また現在に至っても、哲学、論理学は日本人一般には定着していないように思う──と角田博士は指摘している。
 日本人とポリネシア人を除く、他のすべての民族と人種は、左脳(言語半球)はロゴス的脳。言語は子音(音節)、そして計算。右脳(劣位半球)はパトス的脳と機械音、楽器音、自然音、そして母音、という。しかし、日本人の場合は、左脳(言語半球)は、子音のみならず母音、あらゆる人声。そして、虫の声、動物の鳴き声などの自然音、そして計算を司どる。右脳は楽器音、機械音を司るという。   渡部昇一上智大学教授は「日本語だけが変にユニークで原始の尻尾をつけたような言葉である」とさえ語っており、「西洋人も太古には日本語みたい左脳で処理される言葉だったのではないか」と続ける。

  日本以外の民族では、何度も何度も「原始の尻尾」を切られた。日本は幾度か「切られそう」にはなったがその度に生き延びた。  「日本語のユニークさ」とは、つまるところ、人類の原始太古時代の言葉が生き延びている、いや単に言葉というのではなくて、脳の仕組み、脳の働きが太古のまま維持されている、ということなのであろう。その1でも取り上げたように、縄文人は南九州での1000年ごとに起きる大噴火の度に南米やポリネシアに旅立っているので、ポリネシア人も縄文人のDNAを持っている可能性がある。

人類文明の秘宝『日本』 p276-278
キリスト教はヨーロッパ古来の信仰を根切りにした

私は世界文明が、第Ⅰ文明から第Ⅳ文明へと継承展開してきたものと考えている。それらは古代西南アジア・インダス文明、ギリシア・ローマ、インド・シナ文明、西ヨーロッパ・日本文明、そしてロシア・アメリカ文明である。これらの各文明は、先行する文明の流人によって育てられ、成長し、停滞し、死滅する。

Ⅰ~Ⅳの各文明の寿命は二千~三千年である。ユーラシア大陸の文明は西南アジアで初発し、そのパターンの根本は今日まで引き継がれている。日本第Ⅲ文明はシナ第11文明を受容して組み立てられているし、ヨーロッパ第Ⅱ文明はギリシアーローマ第Ⅱ文明の上に築かれている。しかしさらに遡ればいずれも第Ⅰ文明に行きつく。

ところで、ヨーロッパおよび日本第Ⅲ文明には、第Ⅱ文明の生んだ高等宗教が取り付いた。キリスト教と仏教である。宗教の日欧固文明に対する影響は、ヨーロッパにおけるキリスト教の方がはるかに徹底的だった。

日本での仏教は、縄文以来の日本の独特な根を切ることができず、むしろこれに同化され、仏教ならざる日本仏教が発生したのにくらべて、キリスト教はヨーロッパ古来の信仰を根切りにした。ここに、一見するといずれも同じような近代工業文明社会を持っているように見える日本と、欧米社会の深層に横たわる差異かある。

つまり日本社会の根が一万年以上の深さがあるのに対して、ヨーロッパ文明の根は、千五百年にすぎないといえよう。固有の民族精神こそ、その文明のアイデンティティーであり、達観、サトリの源であるのだから、根切られた文明では、もっとも深い意味において、真正の創造力を育てることが難しいのではあるまいか。と同時に、他文明を包摂することも困難になる。何となれば、頼るべき根がなければ、新しい文明を入れると、それに完全に占領されて、またIからやり直すことになるからだ。

 異種文明を融合し得たのは日本だけの特殊事情

日本が支那の論理と文字、インドの宗教を受け入れ、さらに西洋の科学、技術、政治制度、軍事組織を受容して変容しつつも、あくまでも中心軸を失わず、東西両洋文明のハイブリッド化しつつあるような現象を、ヨーロッパ人、アメリカ人が今後、東洋、あるいは日本を摂取することによって再現することは、あり得ない。

異種文明を融合し得だのは日本だけの特殊事情であって、それは日本人にとっては発展であり新生であっても、西洋にとっては自殺行為となる。何となれば、それはキリスト教、ユダヤ教を離脱することを意味し、人間に絶対必要な精神的規範を完全に失ってしまうからだ。彼らにはこれらの宗教の代りはないのだから。

アメリカの場合はさらに問題が複雑である。それは複合民族国家、社会である彼らは、内部における軋轢抗争が自然発生し、キリスト教という単一の規範が取り外されると、社会は崩壊するからだ。どんな国家であれ、崩壊には自衛手段がとられる。今後のアメリカの自衛手段は、かくて、人工的な強制力しかない。古代ローマの共和制から帝政への移行がそれであった。外見がいかに柔らかな大統領であろうと、その本質は、皇帝となる。その外の道はあり得ない。
日本が太古の昔より連綿と持ち続けた普遍的価値は、神社や神道に受け継がれ、自然への畏怖心、跪(ひざまずく)く心、自然への繊細で審美的な感受性といった美しい情緒です。それにインド発祥の仏教思想や儒教思想が融かされ、日本的な「もののあわれ」といった感性や高い道徳性からなる武士道精神という日本独特の思想が日本文明です。

フランスの作家オリヴィエ・ジェルマント氏は『日本待望論』(1998 年)で、「人間と天の間に太古の時代よりあった絆が失われた。これを失ったことで西洋人は窒息状態にあるが、日本の神道だけにはそれが生きている。神道こそ日本の最も重要な文化財である」という趣旨のことを語っています

4.日本の精神文化論から

はじめに

日本には古来より誇るべき精神文化がある、との見方がある。それは失われつつあり、取り戻さなければならないという。本論は、そのような精神文化の保持を切に願う人々の主張を取り上げ、彼らが我々にどのような人間になることを期待しているのかを明らかにしたい。
実際にここで取り上げるのは、お茶の水女子大学教授藤原正彦、評論家黄文雄、「日本青年会議所 」会頭の池田佳隆の三者である。

藤原はベストセラーとなった著書『国家の品格』(新潮新書、2005 年)で日本の精神文化、主に「美しい情緒」と「武士道精神」の重要性を述べている。黄は台湾に生まれながら日本の大学を出て、評論家活動を通じて『日本人よ、自分の国に誇りを持ちなさい』(飛鳥新社、2006 年)たる書物を著している。「日本青年会議所」とは、「『明るい豊かな社会』の実現を目指す指導者たらんとする」団体である。その会頭池田は、2006 年度の「新年式典会頭所信表明演説 」で日本が「かつて有してきた美しき精神性を復興させ」よと力強く語っている。

彼らが誇りとする日本の精神文化とは何か、また、なぜそれを取り戻さなければならないのか、について探る。まずは彼らが重要とする精神文化が、なぜ誇れるのかについて考えておく必要がある。それは他者からの評価に拠るところが大きい。つまり、日本を訪れた外国人が、日本のあるいは日本人のある振る舞い、ある精神が素晴らしい、と驚嘆したことが、「誇るべき」根拠となっている。故に、藤原、黄、池田の三者によって日本人が保持するべき精神を提示する時、三者に共通して、日本を訪れた外国人の日本人に対する評価を用いることが多々ある。

自然を大切にする日本人

では、彼らが取り戻したい日本の精神文化を具体的にあげる。藤原によると、それは日本人の「美しい情緒」である 。「美しい情緒」というのは「もののあわれ」とか、「自然への畏怖心」、「懐かしさ」、「自然への感受性」といったものだと言う。以下は、それぞれの精神を絶賛する文言である。尚、( )内は筆者による補足である。

彼女の本(イギリス人キャサリン・サンソムの著書『東京に暮らす―1928~1936』)を読みますと、「自然への感受性や美を感じる心という点で日本人に勝る国民はいないでしょう」と書いています。
これは日本人の「自然への感受性」の鋭さを述べたものである。

物が朽ち果てていく姿を目にすれば、誰でもこれを嘆きます。無論、欧米人でもそうです。しかし、日本人の場合、その儚いものに美を感ずる。日本文学者のドナルド・キーン(1922 年‐)氏によると、これは日本人特有の感性だそうです。儚く消えゆくものの中にすら、美的情緒を見いだしてしまう。

これは「もののあわれ」という「美しい情緒」を述べたものである。「もののあわれ」は日本特有の美的情緒だという。ちなみに藤原によると「もののあわれ」に対応する英語は存在しないようだ。

自然というのは、人間とは比較にならないほど偉大で、自然に聖なるものを感じ、自然と調和し、自然とともに生きようとした。そういう非常に素晴らしい自然観があったのです。だからこそ、神道は生まれた。この情緒が、ある意味で日本人の民族としての謙虚さを生んできた。

これは「自然への畏怖心」という「美しい情緒」を述べたものである。自然を征服すべき対象とする欧米人の自然観と比べた上での、日本人の「非常に素晴らしい自然観」とそこから生じる謙虚さの説明である。なお、神道について言及しているが、フランスの作家オリヴィエ・ジェルマント氏は『日本待望論』(1998 年)で、「人間と天の間に太古の時代よりあった絆が失われた。これを失ったことで西洋人は窒息状態にあるが、日本の神道だけにはそれが生きている。神道こそ日本の最も重要な文化財である」という趣旨のことを語っています。と、日本の神道が外国人によい評価を受けていることも記されている。

日本人の郷愁は、緊迫感とでもよべるものを伴った濃厚な情緒です。いかに濃厚かは、懐かしさを歌った文学が山ほどあることからも明らかです。

これは「懐かしさ」という「美しい情緒」の話。ここでの文学とは主に俳句や短歌、詩を指している。ちなみにこの「懐かしさ」という情緒は「郷土愛」次いで「祖国愛」となるという。「祖国愛」とは、「自国の文化、伝統、情緒、自然、そういったものをこよなく愛することです。これは美しい情緒で、世界中の国民が絶対に持っているべきもの 」であるから、この基本となる「懐かしさ」はとても重要なのだ、と。

これら四つの精神が「美しい情緒」であり、このような精神を見直していこうと藤原は言うのである。このように「美しい情緒」は自然と日本人との密接な関係から生まれてくるものである。黄も、これと似たような発言を著書『日本人よ、自分の国に誇りを持ちなさい』で展開する。日本人の自然や美に対する感度を大いに誉める外国人の声を記している。

インドの詩人ラビンドラナート・タゴール(1861-1941年)も日本の自然・風景の美を愛するとともに、日本人が老若貴賎を問わず美を味わう能力があると感動している。

ほかにもドイツの物理学者アインシュタイン(1879-1955 年)の「絵の国、詩の国」「心優しく謙譲の美徳を持つ国」など、日本に対する絶賛の言葉は少なくない。と、やはり日本人の精神が高く評価されていることを述べた上で、黄自信も日本人の自然観について、周囲の自然との融合から、季節感と密接に結びついた生活習慣や年中行事、詩歌や小説などの文学、また、音楽、芸能、建築など、日本人の情緒や美を表す作品が生まれたのである 。

日本人と自然との密接な関係が日本人の美を生みだすと分析している。

道徳心の高い日本人

次いで、日本人の道徳心の高さについて述べる。藤原は「武士道精神」の復活を願っている。藤原のいう「武士道精神」は新渡戸稲造(1862-1933)の武士道解釈によっている。

彼によると「武士道精神」たるものは、多くの日本人の行動基準、道徳基準として機能してきました。この中には慈愛、誠実、忍耐、正義、勇気、惻隠などが盛り込まれています。惻隠とは他人の不幸への敏感さです。それに加えて「名誉」と「恥」の意識もあります。名誉は命よりも重い。実に立派な考え方です。この武士道精神が、長年、日本の道徳の中核を成してきました。というもので、この「武士道精神」が日本人の道徳心の軸となっていて、「金銭よりも道徳を上に見る精神性 」や「卑怯を憎む心 」なども生まれてくるのだという。

また、黄は武士道が育んだ「敵を思いやる心」を持つ日本人の逸話をとりあげ、日本を「敵にまで優しい日本はやはり武士道の国なのだ 」と言っている。こうした「武士道精神を中核とした日本人の道徳心」が高く評価されていた。藤原は言う。

アメリカの生物学者モース(1838-1925 年)は・・・「日本に数ヶ月も滞在していると、どんな外国人でも、自分の国では道徳的教訓として重荷となっている善徳や品性を、日本人が生まれながらに持っていることに気づく。最も貧しい人々でさえ持っている」と。昭和の初め頃までに日本に長期滞在した外国人の多くは、同様のことを記しています。逆に、日本からアメリカへ行ったキリスト者の内村鑑三(1861-1930 年)や新渡戸稲造は、故国の道徳の高さに打たれました 。と、かつての日本人の道徳心が優れていたことを述べている。

また、黄も、イギリスの女性旅行家イザベラ・バード(1831-1904 年)の日本人の道徳心に対する評価を紹介している。

彼女は三等車に乗って「平民」に接し、礼儀正しく親切な日本人にただただ感心するばかりであった、と記録に残している 。

さらに、かつての日本は決して豊かではなかったが、初めてキリスト教を伝えた宣教師のフランシスコ・ザビエル(1506‐1552 年)は清貧な日本人がきわめて善良で「富」にもまして名誉を重んじていること、貧しい武士でも金持ちと同様に尊敬されていたことを記している 。やはり、日本人の道徳心は非常に優れていたと外国人から絶賛されていたと言う。

日本人の優れた精神を取り戻す

以上述べたように、日本人の精神は絶賛されていた。これを池田は総括的に表すかのように、戦前の日本を訪れた多くの外国人が、日本人の凛々しい国民性、穏やかな人柄、道徳秩序を重んじる精神に驚きました。

彼らは、日本の四季が織り成す美しき山河と、この国に力強く生きる人々の美しき精神性とが奏でるハーモニーに、感激し、将来は日本こそが世界をリードする国になりえる、と評価していたのです。と、語る。だが、先に述べたようにこれほどの評価をされていた精神を、今日の日本人は失っているというのが藤原、黄、池田三者の見解である。

従って池田は、日本人特有の高潔にして勇敢な大和魂、指導者の規範であり自己犠牲をもいとわない武士道精神、思いやり溢れ、利他の心溢れる許容性豊かな道徳心といった伝統的な日本の精神性を復興し、心美しき民による、かつての「美しき日本」を再興するのです。と、かつての日本人の精神の復活を願うのである。

さらに、ここで注目したいのは「かつての『美しき日本』を再興する」との文句である。日本の精神復活の先には日本という国家が意識されている。黄も同様、いくら英明な君主や「人類の太陽」となる 領 袖がいても、それなりの民度を持つ国民がいなければ品格ある国家にはなれない。かつての日本は訪れた人々から、愚民・乱民の国ではなく品格ある国だと見なされていた。と「品格ある国家」を意識している。

続いて、藤原も、その著『国家の品格』という書名からも明らかであるが、日本人それぞれが情緒と形(=武士道精神)を身につけることです。それが国家の品格となります。品格が高い国に対して、世界は敬意を払い、必ずや真似をしようとします。

と言うように、日本人各々がよい精神を身につけ、よい国民となり、よい国家を形成すると三者が口をそろえて言うのである。さらに付け加えるならば、よい国家どころか世界が「敬意を払」う国家である点も見逃せない。日本が最も優れた国家になるといわんばかりで、同じように黄も、国内から見ても、世界から見ても、日本は普通の国というより強い国でなければならない。それは日本人一人ひとりの誇りにとどまらず、日本のためであるとともに世界のためでもある。という。

そして池田。市民の意識が変われば世論が変わる。世論が変われば政治が変わり、日本が変わる。日本が変われば、世界さえも平和へと変革できるのです。このように三者共々、日本人がかつての精神を取り戻せば、世界に影響を及ぼすことが可能であると信じている。

むすび

これまでみてきた三者の主張をまとめる。かつての日本人の自然や美に対する感覚、道徳心は日本を訪れた外国人に絶賛されてきた。だから、このよい評価を得ていた日本の精神文化は取り戻すべきだ。そういう国民から構成される、日本という国家は「品格ある」国家として、世界に貢献するに至る、と言うのである。世界を左右するであろう、かつての日本人の精神に頗る自信を持っているのだ。内閣総理大臣安倍晋三もこの点について自信を持っているようだ。

日本人は、昔から道徳を重んじてきた民族である。儒教から礼節を学び、仏教の禅からは自らを律する精神を、そして神道からは祖先を尊崇し、自然を畏怖するこころを学んできた。寛容なこころは、日本人の特質のひとつでもある。
日本にはかつての素晴らしい精神があったが、残念ながら現代の日本には上記のような精神は非常に希薄になっている。例えば上記引用慶応大学の論文著者のように依然東京裁判史観から覚醒できていない情けない日本人が非常に多い。

論文著者は、[その精神が日本人に「固有」だの、日本人の「特質」だのと捉えることは非常にナンセンスである。それが日本人しか持ちえない精神であると、そのことを理由に自信をもってしまうと、藤原の言うところの「日本人の民族としての謙虚さ」の精神を見失うことに等しい。]と書いている。普通に祖国を愛する行為をナショナリズムは悪と洗脳されていた。お茶の水女子大学教授藤原正彦、評論家黄文雄、「日本青年会議所 」会頭の池田佳隆の三者に対してまるで批判になっていない。80年代初頭、大学の学友たちに日本がいかに素晴らしいか説明する行為はとても難しかった。

更に、[もし我々に「謙虚さ」があるならば、他国の人々に誉められたとしても、誉められた精神については、日本人以外の人々もそれを受け入れる余地があったのであり、従って、その精神は他国の人々にも通底しているものである、と認識するべきである。これこそが「謙虚」な姿勢ではあるまいか。]と、批判しているのだが・・まるで性善説の日本人的視点であって、おもわず笑ってしまった。この東京裁判史観から脱却できない感性では支那・朝鮮人やアングロサクソン人とは議論すらできないであろう。

日本以外では、太古には存在した自然と調和を保った高い精神性や道徳性が、いずれかの時点で切断されて消滅している。しかし日本だけはそれが生き続けている。我々保守主義の守るべきものはまさにこの、太古より連綿と続く日本文明そのものなのだ。 日本文明は21世紀人類のを救う使命が託されていると信じている。



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イメージ 2本日、伊勢の国一宮「椿大社」に参拝をしてきました。椿大神社は、紀元前三年「道別大神の社」として造営された日本最古の神社であり、知る人ぞ知るたいへんなパワースポットとのことで、参拝しお祓いを受けてきました。伊勢神宮にも劣らぬ神々しい気に満ちた空間であった。伊勢神宮があるにもかかわらず、伊勢の国の一宮として崇敬を集めるだけのパワーに満ちているような気がして、納得できました。
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一宮(いちのみや)とは、古(いにしえ)よりの六十六ヶ国の各々において、朝廷からのお達しなどを最初にその神社に伝えることになっていた神社で、多くはその国において最も格式の高い神社とされています。伊勢の国においては、伊勢神宮は別格とのこと、伊勢神宮は日本の一宮ということなのかもしれない。

日本全国いたるところに縄文時代から由来が貫流すしている神社が存在し、今日なお日本人の心の拠り所となっている。日本人は古来より仏教や道教、儒教、キリスト教など外国の思想が流入してきても、すべてを飲み込み日本教へと換骨堕胎を繰り返してきた。

日本人とは何か日本の運命と未来について参拝の行きかえりに考えることがあった。現在安倍総理が獅子奮迅の戦いで戦後日本の歪みを必死に立て直そうとしています。アベノミクスが成功するか否かはさておき、安倍総理の出現は、安倍総理の個人的な資質ではなく、多くの日本人の集合的無意識が安倍総理の出現をもたらしたのではないかと考えるのであります。

スイスの心理学者カール・ユングは、個人的な意識の領域を超えた,民族・集団・人類など人々の集合のもつ無意識として集合的無意識の存在を提唱しました。

ユングは「すべての人の『意識』は、その奥底で、『集合的無意識』につながっている」つまり私達個人の「意識」の奥底には「個人の潜在意識(無意識)」があり、さらにその奥底では、私達は「人類共有の共通意識(集合的無意識)」につながっているということを、ユングは発見しました。

私達は、肉体という一面だけで見ると、一人一人が分離した個体なのですが、心の側面から見ると、すべてに人間は奥底で一つにつながっているわけです。

これらは、人間の意識が奥底でつながっているから起こるのです。集合的無意識には、人類が過去の時代から体験してきたことの記憶が蓄積されています。

つまり、私達の祖先の体験も記憶されているわけです。例えば、子どもの多くは、ヘビを見るとなんとなく気味悪がるのですが、これは、世界のあらゆる民族に共通する傾向です。人類共通の体験として「ヘビの危険性」が、集合的無意識に記憶されているのです。

また、集合的無意識の力は、時間と空間を越えています。集合的無意識には、過去だけでなく、未来の情報も含んでいます。

ユングは、ひんぱんに予知夢を見ています。ヨーロッパ中が血だらけになる夢を、第一次世界大戦の数ヵ月前から、何度も見ています。
また、ジョセフ・マーフィーは、第二次世界大戦が始まる何ヵ月も前に、夢の中で、「ハワイの真珠湾に爆弾が落下している光景」ならびに「日本とアメリカの間に戦争が始まったことを報じる新聞」を見たのです。その後、夢で見たとおりのことが実際起きたわけです。

また、多くの発明や発見が、「夢」や「ひらめき」からヒントを得たものです。集合的無意識からの情報が、「夢」や「ひらめき」になることがあるのです。これは、心が、あることに非常に集中しているときに起こります。
我々がよく言う、「幸運なチャンスに恵まれた」「ある選択が、人生の転機になった」などといった人生を変えるような、人との出会い、きっかけとの出会い、情報との出会い・・・これらは、偶然出会っているようで、そうではないのです。
自分の生き方が、それにふさわしい人やチャンスや情報を引き寄せているのです。これこそ、意味のあるシンクロニシティです。

では、「集合的無意識」は人間だけに特有の現象なのでしょうか? 

有名な話に「百匹目の猿現象」というものがあります。
宮崎県の幸島に棲息する猿の一頭がイモを洗って食べるようになり、同行動を取る猿の数が閾値(仮に100匹としている)を越えたときその行動が群れ全体に広がり、さらに場所を隔てた大分県高崎山の猿の群れでも突然この行動が見られるようになったというものです。これは、仮説として用いられていますが、以下の様な、動物の不思議な能力も「集合的無意識」であると考えられます。
日本においてよく使われる「空気を読む」の「空気」とこの「集合的無意識」とは実は同じものではないかと私は思うのであります。

日本人の特性として空気に支配されていると最初に気がついたのは「空気の研究」の著者、山本七平氏である。池田信夫氏もブログで「空気の研究」に興味があることが書いてあった。
毎年のように首相が代わり、歳出が際限なく膨張する日本の政治と、グローバル資本主義の中で大胆な事業再構築のできない日本の企業には、共通の欠陥がある。それは中枢機能が弱く、利害の対立する問題を先送りすることである。このまま放置すると、経済の停滞が続いて財政が破綻するのは時間の問題だが、これを是正することは容易ではない。その根底には、これから説明するような日本社会の構造があるからだ。

役所や企業のタコツボ的な自律性が強く、人々がまわりの「空気」を読んで行動するため、責任の所在が曖昧で中枢機能が弱い。部下が上司の足を引っ張る「下克上」の風潮が強いため、長期的な戦略が立てられない。こういう特徴は多くの人に指摘されてきたが、なぜ日本社会にそういう特徴があるのかはよくわからない。

もちろん「日本人」という人がいるわけではなく、その特徴が日本人以外にまったくみられないわけではない。しかし統計的にみても、日本人の思考や行動には独特のパターンがある。これを「あなたはどう考えているか」と質問する国際的なアンケート調査でみると、日本人が特に上位にあるのは次のような答である 。
祖先には霊的な力がある:34ヶ国中1位
宗教を信じていない:93ヶ国中5位
自然を支配するのではなく共存する:60ヶ国中1位
リスクはすべて避ける:51ヶ国中2位
職場では人間関係がいちばん大事だ:81ヶ国中1位
仕事より余暇のほうが大事だ:79ヶ国中1位
余暇は一人で過ごす:34ヶ国中1位
自国に誇りをもっていない:95ヶ国中4位
国のために戦わない:90ヶ国中1位

ここから典型的な日本人を想像すると、宗教は信じていないが祖先信仰は強く、自然を支配するより調和が大事だと考え、リスクは徹底的に避ける。職場では人間関係が大事だが、仕事より余暇が優先で、わずらわしい人間関係から離れて一人で過ごしたい。日本に誇りをもっていないので、国のために命を捨てる気はない――という保守的で他人に気を使い、政府を信頼していない人物像が浮かび上がってくる。読者のみなさんにも、思い当たる節があるだろう。
>日本に誇りを持っていないとは、戦後教育の仇花で、本当に情けないと私は感じます。

欧米のキリスト教の国々は、その根本書である聖書が予言している破局、ハルマゲドンを常に意識していて、クリミアを巡る争いも、目には目を、歯には歯をといった争いに見える。

 チャーチルが米国を対独戦争に巻き込むために、日本に真珠湾攻撃をさせ始まった太平洋戦争は、人類史上はじめて原爆が投下され、またB29による無差別爆撃は日本人一般市民が米軍によって虐殺される結果となった。

戦争犯罪を行った米国はじめ連合国は日本が「目には目を」の対米報復戦争を起こし、復讐の悪鬼と化することを恐れた。連合国は当然それを何よりも恐れたから戦後は日本に非武装化を課した。

その後事態が変って、ソ連が出現し、ソ連崩壊後は中国が新たな敵対国として登場したために、米国は表面上は日本軍備強化を求めるように変わってはきたが、しかしもし日本が核兵器を持ち米国の戦力に対抗しうる軍備をするような事態になれば、日米関係は同盟から敵対関係に変わるリスクもある。対米報復戦争を恐れた連合国は日本=悪という自虐史観を戦後徹底的に教育させたのである。日本に誇りを持てない日本人が多いのは、戦後自虐史観の結果であることは、皆気がついてきた。

それにしても連合国は余計なことをしてくれた。欧米や中国朝鮮文明の本心は「俺は生きる、お前は死ね」といった世界観であるが、日本人は何によらず対決は不毛であり、お互いに相手の立場を察して譲り合えば、共存しうるものと考える民族である。和をもって尊きを成す十七条の憲法をはじめ、日本人はそんな不毛なことはしない文明なのだ。戦前の皇国史観ですら八紘一宇、人類は兄弟であると、本心から性善説で世界をとらえているのだ。

 日本人の〈達観〉からすれば、「目には目を」の対米報復戦争の応報はわが身
に至り、自分達の社会を破壊するに至ることは明らかである。原爆の洗礼を受けた日本人は、アメリカを怨み、報復を誓うかわりに、広島に平和記念公園を建て、千羽鶴で飾った。だが、この敬重すべき行為は、欧米や支那・朝鮮人の目には理解を絶する。

 お互いの思いやりといたわりの中に浸っている日本の社会にくらべると、支那・朝鮮や欧米諸国の個人主義社会は恐ろしく淋しい。文字通り頼れるのは自分一人だけだからだ。そして他人は敵でなければ競争者である。一見お互いに切磋琢磨して好結果を生むようにも思われるが、この社会には大きなマイナスが付きまとう。

支那文明とは異なる日本文明が持ちうる〈達観〉とは一体どんな由来のものなのだろうか。
 日本人しか持っていないとなれば、それは日本人に特有な精神ないし肉体的原郷は大和時代よりもさらにずっと古いところにある。縄文時代、無土器時代、さらに大陸と陸つづきだったころにまで遡って、日本人の心の変遷を探ることが求められる。現代日本人の中核をなす人達は、きわめて古くからこの列島に住み込んでいて、縄文末期の三千年くらい前にはすでに日本は均一になっていた可能性が高い。

世界最古の土器は2万~1万8000年前の最終氷期最盛期後半に中国南部において出現したとされる。日本では、縄文人が16500年前に土器を作っていた。日本も世界最古の文明を持っていたのである。

 おそらく日本列島で最初の土器が作られ始めたころは氷河期が終わりを告げる時代で、日本列島と大陸は陸続きであった。大陸より温暖な日本に中国より先に文明が芽生えたとしても何等不思議ではない。大陸の文化は、日本列島のそれにくらべ、黒潮の影響が少なく、気候が大陸的で、人間の活動には日本列島ほど好適ではなかっただろうからだ。

 一万年以前でも、日本列島のほうが人口が多く、文明も進んでいたのではないか。七千年前の支那浙江省の遺跡から、縄文遺跡で見付かる首かざりと同種のものが出ている。また黄河文明灰陶土器(約4000年前)のルーツが縄文土器と考えても不思議ではない。支那が日本列島を追いこすのは、大陸の平原で農業が始まって後のことである。

 しかも農業に伴う文明は、狩猟採取の前農業文明とは異種のものである。それはどちらが高いとも低いともいえない。

縄文中期の貝塚には南アフリカ原産のヒョウタンとか、トルコ原産のクロガラシ、あるいはヨーロッパ、シベリア原産のゴボウなどが栽培されていた(これはまだ耕であっ
て農業ではない)。漆塗りの土器、婦人の赤漆塗りの櫛なども出ている。漆(うるし)は支那の浙江、福建が原産である。

 鏃に使う黒曜石も列島を横断する広範囲に流通していたし、縄文都市といわれる諏訪亜久遺跡の例もある。ヒョウタン、カジ、ウルシ、サトイモなどが日本列島に入ったのは、おそらく陸つづきのころで、それは人が歩いて持ってきたものだろう。これらは六千年前には列島全域に拡がっていると思われる。

縄文人の移動は地球規模であった、約6300年前、九州の南の海底に横たわる鬼界カルデラが史上空前の大爆発を引き起こしていた。 更に、約5500年前と4500年前にも南九州の指宿地方で、巨大な火山噴火が起こっている。こうした一連の巨大火山噴火が、縄文人を命の危険を冒し南米まで大航海に駆り立てた説がある。事実、この出来事以降、南九州が発祥と思われる磨製石斧などが、関東などにも広がっている。楽園を求めた縄文人 

縄文早期には黒曜石の全国的流通が確認され、言語においても列島内では大和民族間では共通言語があり、列島を貫く交通、通信が行なわれていたという痕跡が近年発見されている。

縄文早期時代の日本列島の発達は、支那大陸より「活程度が高かったのである。
 敗戦後の日本人は自己卑下が極端になり、自らをアジア大陸東辺の僻地、文化の吹き溜りの地とする考えがまかり通っているが、それは殷代以降、支わが縄文早期が終って後のことなのである。殷文明は中原が農業化して以降にすぎない。
 
日本と言う国はユーラシア大陸の東の海上に浮かぶ最果ての島国であるがゆえに、津軽地方には殷遺民の来往があり、九州から日本海沿岸には有名な徐福をはじめ支那、朝鮮から日本列島に脱出してきた人たちが、漂着した。

人類は肥沃の三日月地帯である黒海からチグリス・ユーフラテス川、シュメール文明において農業を始め文明を持つようになった。日本文明にはシュメール文明の痕跡を見ることができるとの「日本人シュメール起源説」や「日ユ同祖論」が存在します。

縄文時代には日本文明の元型が既に出来上がっていたからこそ、シュメールも殷の青銅器文明もすべてを呑み込み融解して世界でも稀な日本文明が誕生していったのだと思う。





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小野田寛郎氏が今年の1月16日にお亡くなりになった。それから小野田さん関連の本を読んだ。戸井十月氏と小野田さんの本は本当に面白かった。

ルバング島でのサバイバル生活は30年それを体験したものでなければ書きえない冒険談義でした。だが、小野田さんの語る終戦は知らなかったという話にどうしても納得できないし、中野学校とは単なるスパイ学校ではない。日米開戦の早期に日本の敗戦を予想し戦後を見越した準備をしたした組織である。

事実、斉藤充功氏が取材した戦後の中野学校出身者の貴重な証言は、歴史の闇に隠れた真実を照ら
す貴重なものです。

証言 陸軍中野学校 卒業生たちの追想
p181~193
小野田少尉と丸福金貨
昭和四九年(一九七四年)三月一二日、フィリピンのルバング島から陸庫中野学校二俣分校出身の小野田寛郎少尉が生還して三四年の年月が流れていた。

筆者が小野田にインタビューしたのは、平成二○年(二○○八年)五月、場所は都内の病院のカフェテリアであった。当時、八六歳の小野田は検査入院の手続きで病院に来ていて、ついでに取材に応じるという段収りになっていた インタビューは同伴者が手続きをする間のわずかな時間を割いて行ったが、小野田の「ルバング島の任務で話していないことがたくさんある」という一言に、筆者は身を乗り出してその先を促した だが、同伴者が席に戻ってきたためその先の話を聞く機会を逸してしまった。以来、小野田の取材は同伴者のガードが固くて実現していない。

それから二年余りが過ぎた。しかし、筆者は小野田の口から洩れた「ルバング島での任務」のことが頭から離れなかった。その真相を何とか知りたいと思った。

その後筆者は、二俣分校卒業生を訪ねて取材を続けていたが、ある時一期生の一人から「村越君が静岡にいるはずだから、訪ねてみたら」とアドバイスを受けた。その時、彼は一枚のコピーを渡してくれた。コピーは手記の一部で『日本軍埋蔵財宝始末』と表題が付されていた。その手記を記したのは、小野田と同期の一期生でフィリピン戦線に配属された村越謙三であった。

村越は、昭和一九年(一九四四年) 一二月、フィリピン防衛を担っていた第一四方面軍司令部参謀部防諜班に小野田と共に新任少尉として着任している。同期生三九人はフィリピン各地に配属されたが、そのうち二三人が任務遂行中に戦死している。

ちなみに、方面軍全体で勤務していた中野学校卒業生(二俣分校を含む)は総員で九八名であったが、戦死者六六名、戦死率は六七パーセントに達していた。

ところで、フィリピン当局がルバング島に残留日本兵がいることを知ったのは、終戦翌年の昭和二一年(一九四六年)三月、投降日本兵の情報からであった。その時点で当局は、小野田寛郎、島田庄一、小塚金七、赤津勇一の四名の名を確認していたという。

それから三年して、赤津一等兵が島の北西部で地元警察官に保護され、マニラに送られて取調べを受け、一年後に日本に送還された。取調で赤塚は当局から「埋蔵財宝」と「仲間のこと」を執拗に聞かれたというから、フィリピン当局はマルコス時代以前からルバング島の残留日本兵と埋蔵財宝についての情報を得ていたことになる。だが、その詳細が公表されることはなかった。

赤津が日本に送還された後、昭和二九年(一九五四年) 一〇月には島田伍長がフィリピン軍のレインジャー部隊に発見され射殺される。次いで、昭和四七年(一九七二年) 一〇月には小塚一等兵がジャパニーズーヒルと呼ばれていた丘の上で地元警察官に射殺された(小野田もそこにいた)。その結果、ルバング島に残ったのは小野田一人となっていた。

後述するが、小野田救出のために日本政府が予備調査を始めたのは、小野田と同期の山本繁一少尉がミンドロ島で保護されたことがきっかけになっていた。

筆者が村越家を訪ねたのは、平成二二年(二〇一〇年)夏のことだった。取材に応じてくれたのは長男(五八歳)であった。「親父が亡くなって九年になります。戦時中のことはほとんど話さない人でした。仲間がだいぶ戦死したようで、戦地では地獄を見たんでしょう。それと、中野学校のことに関しては、小野田さんの消息が報じられるようになってから、戦友の人たちと三回ほど現地に行ったことがあります。小野田さんのことだけは、なぜか父はよく話をしていました」

筆者は、持参した前出のコピーを見せて感想を聞いてみた。文章には以下の記述がある。「昭和四三年七月、大学の講師を通訳として立派な比島人が訪ねて(自宅)きて、「ベン少年から、命の恩人に礼を言ってくれ、と頼まれて来た」という。二三年間、恩を忘れぬとは感心した。数日後、通訳が再び訪れ、「実は日本軍の埋蔵財宝の地図の所有者の確認が目的で、先日の比島人はマルコス大統領の情報担当の少将(長官の名はフロレンティノービラクルシス)である」と語った」

長男は、何か思い出したようだ。
「親父がこんなものを書いていたんですか。初めて見ます。昭和四三年といえば、私か高校一年の時です。思い出しましたよ。突然、家に父を訪ねて外国人数人が来たんです。村でも評判になりました。こんな田舎に外国人なんて、珍しい時代でしたから」

長男の記憶に残る村越家への外国人の訪問とは、何が目的でめったのか?
「後で親父に聞いた話ですが、訪ねてきたのはフィリピンの軍人と大使館の人間だと言っていました。何でも、軍人はマルコス大統領の特使だと話していたそうです。当時、外国人が我が家を訪ねてきたことは県警にも知られていて、警備のために一ヶ月くらい私服の警察官が家の周りを警備していたことを覚えています」

五八歳の長男が高校一年の時に体験した外国人の突然の訪問。それは四二年前の一九六八年ということになり、年号は昭和四三年である。

村越謙三宅を訪ねてきたフィリピン人は、軍人と大使館員であったと長男は父親から聞かされていた。村越とフィリピンを繋ぐ糸は、彼が遺した『日本軍埋蔵財宝始末』という手記のみである。

手記にあるベン少年とは「ベン・ファミン少年」のことで、手記の続きには「秘密保持の為に処置した方が良いという意見もあったので、自分か菊水隊転出の後を考えてトランク、布類を持たせて家に帰した者である」と記されている。村越は、戦地でベン・ファミン少年とは面識があった。そして少年にトランクを預けていた。では、肝心のトランクの中身はどんなものであったのか。

トランクを村越に預けたのは、同期の森井重次少尉(ヌエバビスカ州パンパンで戦死)であり、森井は村越に「日本軍が戦争に負けた時の、ゲリラ戦のための資金資材の埋蔵場所を記した地図だ」と話したそうだ。

フィリピンの埋蔵財宝といえば、『山下財宝』を連想する読者もいるだろう。現地では、今日でもその発掘が続けられている。

ちなみに、村越が転出した菊水隊とは三五軍が編成した「陸の特攻隊」とも呼ばれた切り込み隊であり、米軍との戦闘で隊員だった二俣一期生は村越を除いて全員戦死している。

小野田少尉のルバング島における「残置諜者」としての真の任務は何であったのか。
小野田の任務については、アメリカのジャーナリスト、スターリングーシーグレーブ夫妻が共著で平成一五年(二〇〇三年)五月にロンドンで『GOLD WARRIORS(黄金の戦士たち)』という四五〇頁のペーパーバック本を出版している。

この本は未訳だか、チャプター11に興味深い記述があったので、小野田に関する記述を抜粋して訳してみた。小見出しは『POINTING THE WAY(道案内)』と付けられている。「彼(ベン)は戦時中、竹田皇子とともに財宝金庫の隠匿にルバング島で数週間過ごした。その時、ベンは小野田に会っていた。その施設を守るよう小野田に命じたのは竹田皇子であることをベンは知っていた。だから、命令は竹田皇子だけが解除できるのだ。数週間後、散人の日本の役人が小野田に投降を説得するためフィリピンに到着した。注目は谷口義美少佐に集まった。テレビでは小野田の司令官だと紹介された(中略)。数日後、小野田は日本に帰還した。だが、彼は近代的な日本にぱ馴染めないと主張し、ブラジルのマターグロッツソにある大きな日本人所有の農園に送られた。ルバングの財宝が回収されるまで、誰も彼を訪ねて来られないように多くの護衛が付けられた。ルバング島での回収(筆者注:隠匿軍資金)は裕福な日本人旅行者のためのリゾート開発を装い、笹川が成し遂げた。それはマルコスの要望でやったことだと笹川ぱ言った(後略)」

昭和四九年(一九七四年)三月九日、小野田は救出隊に参加していた中野学校の元上官谷口義美少佐から任務解除の命令を口頭で伝達され、この日を以ってルバング島における戦闘は終わった。同月 一一日にはヘリで大統領府のあるマラカニアン宮殿に運ばれマルコス大統領に謁見。日本(羽田飛行場)に帰国したのはて一二日であった。

フィリピンでは、小野田が救出される一八年前の昭和三一年(一九五六年) 一〇月にも、ミンドロ島で二俣一期生の山本繁一少尉他三人の日本兵が救出され、ロハスからマニラに護送されていた。この時の引率者は、日本大使館(日比友好条約が締結されたのは同年七月)の中川豊一書記官であったが、機内で中川は山本に「取調べの時は中野学校出身のことは話さないように」と釘を刺したという。

中川の情報源は、二俣同期の末次一郎からであった。
しかし、山本ら四人が日本への帰国に際して乗船したのは、貨物船『山萩丸』の三等船室であった。上陸地は門司港で、四人は一一月二八日に日本の地を踏んだ。歓迎する日本人はほとんどいなかった。

一方、小野田の帰国は熱烈な歓迎を受け、その後日本中に「ルバング島の英雄・オノダ」ブームが巻き起こることになる。この違いは何であろうか。

その後、時が経つにつれ小野田のルバング島における真の任務について『山下財宝』との絡みで語られることが多くなった。

山本は当時の大統領マグサイサイと謁見することもなかったが、小野田はマラカニアン宮殿でマルコス大統領と謁見している。その後、大統領の側近同席でマルコスと話し合う時間があったそうだ。

もちろん、会談内容はオフレコで小野田もマルコスとの会談については今日に至るも一切語っていない。これは筆者の推論だが、会談の席で小野田はマルコスに「ルバング島で守ってきた日本車の隠匿財宝」の在り処について語ったのではあるまいか。大統領との謁見。フィリピン政府の破格の小野田への待遇。そして帰国。その一連の様子は日本で報道され、小野田フィバーとなったわけだ。

それから二九年後、前述の『GOLD WARRIORSが、取材に基づく事実(?)として出版し「山下財宝と小野田少尉」の関わりを暴露した。

文中に出てくる「竹田皇子」とは昭和天皇の従弟で旧皇族の竹田宮恒徳王のことであり、宮は昭和 一八年(一九四三年)当時、参謀本部作戦課の少佐参謀(宮田参謀を名乗っていた)として比島に派遣され、マニラで軍務に就いていた。また「ベン」なる人物は「ベン・ヴァレモレス(村越謙三の手記ではベン・ファミン少年)」のことで、彼が竹田宮の従者として働いていたとシーグレーブは記述している。

また、文中の「谷口義美少佐」は中野学校二甲出身の情報将校で、小野田がマニラに着任する以前から第一四方面軍参謀部別班(看板は南方自然科学研究所)の班長として情報活動に就いていた人物である。「マルコス」とは当時のフィリピン大統領。「笹川」は東京裁判でA級戦犯として巣鴨プリズンに収容された後釈放され、戦後は日本のドンと呼ばれ競艇の収益金の配分を一手に握った日本船舶振興会の会長として君臨した笹川良一のことである。

シーグレーブは小野田寛郎―竹田宮―ベン・ヴァレモレスー笹川良一―マルコス大統領の関係を「財宝」に結び付けて論じているが、決定的な誤りは小野田寛郎と竹田宮の接点を取り違えたことにあるに小野田寛郎が二俣分校を卒業してフィリピンに着任したのは前出の村越と同じ昭和一九年一二月。竹田官が派遣軍の参謀職を解かれ昭和一八年八月に中佐に進級して満州の関東軍参謀として転出した後、内地の第一総軍防衛主任参謀に転属したのが四五年七月。満州時代もそれ以後も、竹田宮はフィリピンには戻っていない。このような初歩的なミスが散見できるシーグレーブの著作は、果たして「取材に基づいた事実」を記述したものなのか、疑問を提さざるを得ない。

ところで、冒頭で記したように、小野田は「ルバング島の任務で話していないことがたくさんある」と語っている。小野田は任務の真相を私に話したかったのだろうか。残念ながら、その先は語らずに終わってしまった。だが、小野田のその言葉が気にかかり、筆者が同期生への取材を続けたことは既述の通りである。そして探し当てたのが前出の村越謙三の長男であった。

彼の父親は、貴重な手記を遺していた。手記の続きは、次のように記されていた。
「この時(昭和四三年)以来、マニラから地図を解読して(財宝資材の)埋蔵場所を教えてくれ、また我々は大統領の命令でやっているので生命の保障は必ずするからマニラに来でくれ、とひっきりなしに電話がめった。そして四四年の秋マニラ在往の、バンクマン(銀行員)が地図一〇枚を持参して、解読してくれと懇願した。地図には上部に時計が記してしてあり、一枚に金参千萬と記してあり、計参億であった」

そして、下記の結語はこう結ばれている。
「昭和五四年四月、マルコス大統領と関係の深い某日本人が現地人の絵図を持参し、解読を求めてきたが、金に絡んだ話は危険が多いので、いずれも断り今日に及んでいる」
村越家にフィリピン人が最初にアプローチしてきたのは小野田が帰国する六年前で、帰国してからも一度日本人が訪ねてきていた。目的はいずれも「地図の解読」依頼であったが、小野田がそれらの人物と接触していたのかどうかは不明である。

執拗に村越家を訪ねてきたフィリピン人。彼らは持参した地図が山下財宝の在り処を示す地図と信じていたのだろう。この時、彼らが持参した地図は、ルバング島とは関係のない場所に隠匿された財宝を示す地図で、その地図こそ戦死した森井少尉が村越に預けた地図であり、村越はその地図をトランクに詰めて「ベン・ファミン少年」に渡したに違いあるまい。このトランクは何らかの経緯を経て、マルコス政権に回収されたようである。フィリピン人が最初に村越を訪ねてきた時、マルコスはすでに大統領に就任して三年目になっていた。ルバング島の残留日本兵についての情報も、当然マルコスは掴んでいたことになるが、代理人たちは村越にルバング島のことは質問しなかったという。

小野田と同期でフィリピン戦線に配属された岡山在住のB氏は、小野田の二九年間のルバング島生活を、「小野田がルバングで守ったのは丸福金貨だと思うよ。戦地は終戦末期になると軍票はまったく使えず、物資の調達は丸福でやっていた。ルソンからルバングに運んだのは安全性を考えての方面軍の命令だったと思うよ。目的は軍資金の隠匿、それ以外考えられない」と、小野田の「残置諜者」としての使命を推測した。

筆者がB氏に「小野田さんが守った軍資金は小野田さんの帰国後に笹川がマルコスと組んで発掘してしまったのではないのか」と聞くと、B氏は「笹川とマルコスの関係はわからない」と答えている。

笹川がルバング島の開発を目的に、現地に「リゾート施設」なるものを計画して建設を始めたのは事実で、その時期は小野田が帰国してからのことであった。開発は途中で中止されたものの、「リゾート施設」建設を理由にすれば土木機械を堂々と使えるわけである。開発は「隠匿された軍資金の発掘」が目的ではなかったのか。そして、手がかりの「地図」を笹川に渡したのが小野田であった、と私は想像した。ところで、B氏の話に出てきた丸福金貨とはいかなるものなのか。   
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丸福金貨
 「丸福金貨ぱ戦争末期の私生児で、大蔵省や造幣局の記録にも載っていない(中略)。前線軍部の物資調達用に密かに鋳造された金貨であった。

福・禄・寿の三種類を作り、そのうち比島方面に向けられたのが、マルの中に福の字を浮き上がらせたこの純金メダルであった」(ミノル・フクミツ『モンテンルパの戦犯釈放と幻の財宝』)。

 金貨カタログによれば、量目は「直径三センチ、厚さ三ミリ、重量二一・二二グラム、品位一〇〇〇/二四」とある。要するに純金であった。この丸福金貨はメダル仕様で、戦後フィリピン各地で発見されているが、その総量は一千枚にも満たない。大本営の情報参謀(中佐)であった堀栄三ぱ、自著『大本営参謀の情報戦記』(文春文庫)の中でフィリピンに運ばれた丸福について記していた。

 「その量は金貨五〇枚ずつの木箱入り一〇箱を単位に頑丈な木箱で梱包、それが五○梱包あったから、金貨の数は二万五千枚になる。表面に福の字が刻印されていたので関係者は「マル福金貨」と呼んでいた」

 丸福一枚の重さは三一・二二、グラム。二万五千枚だと、その重量・はネットで約し八〇キロ、取材当時の金価格は地金ペースで一グラム三九〇〇円台であったから、七八〇キロの総額は三〇億四千万円ということになるい過去、ルソンやミンダナオで発見された数が推定で1000枚といわれており、残りの二万四千枚が仮にルバング島に軍資金として運び込まれたとしても、想像を絶するというほどの金塊ではない。『山下財宝』はルバング島とは関係なく、憶測に天上屋を重ねた結果、途方もない数量に膨らんでしまった幻の山吹色なのかもしれない。

 元帝国陸軍少尉小野田寛郎。彼は、本当にルバング島で山下方面軍の財宝を守るための番人として、二九年間もの長きにわたって「残置諜者」の任務を全うしたのであろうか。同期生の何人かは「小野田は間違いなく丸福を守り通したはず」と答えている。それが「残置諜者」としての小野田の使命だったのだろうか。

 彼は、帰国に際して「天皇陛下万歳」と連呼した。しかし、帰国後は一転、天皇批判も辞さなかった。その心中を察するに、「天皇の金塊」を守ったことが「帝国軍人最後の奴隷」と自らの生き方を揶揄したのではないか。ルバング島では、未だ残り二万四千枚の「丸福金貨」が発見されたという公式発表はない。当然であろう。財宝は既に二〇数年前に当時の独裁者マルコス大統領の手で回収されていたのだから。そして協力したのが笹川良一、この推論、決して的を外しているとは思わないのだが。

 小野田寛郎、現在九一歳。中野学校二俣分校一期生出身。「残置諜者」の任務を全うして職務を完了したが、その後一度もルバング島を訪ねてはいない。いつの日か、彼が「ルバング島の真実」を語ってくれることを期待している。
小野田さんは何も語らず1月17日お亡くなりになった。

>小野田もマルコスとの会談については今日に至るも一切語っていない。
小野田さんはマルコストの会談について何か喋ったかいまのところ確認はできないが、
戸井十月氏の小野田寛郎終わらない戦いには小野田少尉とマルコス大統領との会談内容が書かれてある。
p121
フィリピン空軍の大型ヘリは、ルバング島からマニラヘ小野川を運んだ。マラカニアン宮殿で待っていたマルコス大統領は、小野田の肩を抱いてこう言った。
「あなたは立派な軍人だ。私もゲリラ隊長として四年間戦ったが、三十年間もジャングルで生き抜いた強い意志は尊敬に値する。われわれは、それぞれの目的のもとに戦った。しかし、戦いはもう終わった。私はこの国の大統領として、あなたの過去の行為のすべてを赦します」 小野田の全身から力が抜けた。
ルバン島での住民やフィリピン軍・警察に対する、強制徴用・殺傷事件に関する罪状は一切不問として許され、小野田さんがあるいわ心を開いたかもしれませんね。

小野田さんの本当の任務と上司とはだれであるか?垣間見える部分がある。

わがルバン島の30年戦争
P46-49
私か読み終るのを待って高橋参謀が言った。
「敵のルソン島攻撃を阻止するため、まず、ルバン飛行場の滑走路と桟橋を破壊せよ。また、敵が上陸して、飛行場を使用せる場合は、敵機の爆破及び搭乗員の殺傷をはがれ」
かたわらから谷口少佐が言い添えた。
「游撃戦の指導には最低二名が必要だが、現状はそれを許さない。お前一人では苦しいだろうが、がんばってくれ。いいか、はじめてのことを一人でやろうとすると、その人間の性質上、必ず欠陥が生じる。骨の折れるのはわかっている。しっかりやってくれ」
残る一名、山崎操は師団の予備要員ときまって命令下達が終り、私たちは師団長へ申告することになった。たまたまこのとき、第十四方面軍参謀長の武藤章中将が陣地視察の帰りに師団司令部に寄り、いま、師団長室にいるという。

私たちはまず、武藤参謀長に申告した。
申告が終ると、参謀長は私たちをゆっくり見わたして言った。
「お前たちが来ていることは知っていたが、忙しくて会う機会がなかった。偶然、ここで会えたことは首もうれしい。戦局不利なときだ。全力をあげて任務を遂行してくれ。いいな、頼んだぞ」 有名な参謀長からしかに激励されたのは意外だった。
つづいて師団長に申告しようとすると、
「ああ、膿はいい、膿はいい。参謀長閣下に申告したんだから……」
師団長、横山静雄中将は、手をあげて私たちを押しとどめてから、私のほうにじっと目をそそいで、こう言った。
「玉砕はいっさい、まかりならぬ。三年でも、五年でも、がんばれ。必ず、迎えに行く。それまで、兵隊が一人でも残っているあいだは、ヤシの実をかじってでも、その兵隊を使ってがんばってくれ。いいか。重ねていうが、玉砕は絶対に許さん。わかったな」
小がらで温和な風貌をした師団長は、静かな口調で命令し、激励した。
私は大きな声で、「はいツ」と答え、二俣で受けた教育を思い起こし、決意を新たにした。
師団長がじきじきに一見習士官を励ます。これはめったにないことであろう。任務の重大さを痛感しないわけにはいかなかった。私は胸の中で自分に誓った。
「よし、きっとやる。たとえ草の根をかじっても生きながらえて、命令を守らねばならぬ。」

 私の直属上官はだれか

ここで軍の命令系統を簡単に説明しておこう。
軍人は、いかなる場合もすべて直属上官の命令によって動かねばならない。そして命令権を持つの は師団長、連隊長、中隊長である。小隊長、分隊長は、いわばその補佐で、俗にいう小隊命令や分隊命令は、中隊長の命令を伝達するにすぎない。
たとえば、ある兵隊が歩哨に立っているところに、他の部隊の上級将校がきて、別のことを命じたとする。歩哨はこれに従う必要はない。
「自分はいま小哨長の命令で歩哨に立っています。命令が解かれるまで、ここを一歩も動くわけにはいきません」
相手がたとえ大将でも同しである。つまり直属上官以外の任務上の命令は、きかなくてもいいのである。
私は二俣で第十四方面軍へ転属を命じられ、さらに杉兵団に配属された。私には直属の中隊長も、連隊長もいないい私の直属の上官は杉兵団長――横山中将ということになる。別班長の谷口少佐も、口頭で命令を下達した高僑参謀も、私の直属上官ではない。両少佐とも指示権、区処権はあっても、私に対する命令権はない‥私かルバンヘ派遣されたのは、あくまでも横山師団長の命令によってであった。

もう一つ、説明しておきたいのは、「区処」という言葉である これは独特の軍隊用語で、命令権を持たぬ上級者が、下級者に対して、その行動を一時指導するだけの権限である。

つまり、私が命じられたのは、あくまでも游撃戦の指導であって、指揮ではない。この指揮権を持 たぬことが、その後私を何十回となく歯ぎしりさせることになった。

申告を終えて参謀室に戻ると、高橋参謀が笑いながら私に目を向け、 「おい、小野田、ルバンヘ行って驚くなよ。何しろ、あすこは日本一の部隊なんだからな」
すると谷口少佐が、すかさず口をはさんだ。「いまのは、冗談だぞ」
かたわらの山口後方班長がニヤッと笑って言った。
「しかし、ルバンは宝の島だ。いまどき、あんな島は、どこにもない。食い物だけはたっぷりある。小野田、安心していけ」
こんなやりとりのあとで谷口少佐は、表情を引きしめて、つけ加えた。
「本来なら異民族を部下に持って戦わねばならないわれわれ秘密戦士が、陛下の赤子をお預り申せるのだから、それだけでも光栄と思わなきゃならん。そうだろ、小野田」
「はいッ」私はまた大きな声で返事をした。
私たち游撃戦士は、戦場におもむいたら、異民族を使って作戦を展開するように教育されてきた。それなのに、陛下の赤子――皇軍の兵士を部下に持つことができるのだから、その光栄に感謝して、しっかりやれというわけである。確かに、言葉がわかるだけでも有利である。
さらに谷口少佐は、私に二枚の地図を渡しながら念を押した。
「ルバンは戦略上、きわめて重要な島だ。たとえ、どんなに游撃戦がやりにくくても、みだりに他の島へ移動してはならんぞ」
いくら偶然であるとはいえ、第十四方面軍参謀長の武藤章中将が見習士官の赴任の為、直々に訓示をしていることを示唆している。やはり秘密の命令があったような可能性を匂わせている。

中野学校の上司であるならば「玉砕はいっさい、まかりならぬ。三年でも、五年でも、がんばれ。必ず、迎えに行く。」と言っても不思議ではないが、戦陣訓に曰く『生きて虜囚の辱を受けず』という指示が徹底している正規の陸軍師団長が指示してという下りは些か不自然ではないか?

「游撃戦がやりにくくても、みだりに他の島へ移動してはならん」島外に出るなという命令だ・・・遊撃戦をしかけるなら、場合によっては近所の無人島を基地とすることだってありうる。この命令は合理性に欠け不自然ではなかろうか?

参謀たちが更にP85とP101にすごく不自然な一文が載っている。
P85
私はまだ自分の特殊任務を島田伍長にも小塚一等兵にも打ち明けていなかった。
p91では小野田少尉の派遣理由は游撃戦の指揮であることは、投降組も敵も全員知っていることを書いてある。
にもかかわらず
P101「わたしはまだ自分の特殊任務をについて、彼にはっきり打ち明けてなかったが・・・」
游撃戦以外に特殊任務があることを小野田氏は自分の自伝の片隅にほのめかしているのではないか?私にはそう思えてならない。

















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