久々に一気読みの本だった。建国以来この卑怯で破廉恥な韓民族のDNAは1000年どころか、2000年来不変だった。自国内の派閥争いを周辺諸国に広げたうえ、外国軍隊を自ら招き入れることを繰り返し、侵略されたと被害者面をするのが朝鮮人でる。
2013年3月1日、「三・一独立運動」の記念式典で、朴槿恵が「(日本と韓国の)加害者と被害者という歴史的立場は、千年の歴史が流れても変わることはない」という発言を行った。
既に日本国民の一員となっていた石平氏には、この発言に衝撃を受け、改めて過去の歴史において、朝鮮人は果たして一方的な被害者であったのか疑問に思ったそうだ。実に丹念に研究して、膨大な資料や多くの研究家に当たり、幾つもの歴史上の論点を摘出して、本書にまとめた。
7世紀初頭の高句麗・百済・新羅の三国統一戦争から、元寇、日清、日露戦争、そして朝鮮戦争まで幾度となく朝鮮半島は周辺諸国を巻き込み、トラブルの種を撒き散らかしてきた。事大主義、告げ口外交、繰り返す身内の勢力争い、残酷な処刑、そして壮大な裏切りの数々。太古の昔から、おなじことを繰り返すその救いがたき韓民族のDNAは今日でも不変ではなかろうか?1000年来のトラブルメーカー(加害者)であるというのが本書の結論である。
この本を読まずして、朝鮮の歴史や外交を論ずるなかれ、韓民族がいかなる民族で、その恥ずべき歴史を白日の下に曝した石平氏の傑作である。
今後、韓国がどうなろうと日本は一切関与せず、泣こうが喚こうが関わらないことが、日本の国益であると確認することができる本でした。
外国軍巻き込む悪癖に警鐘 『韓民族こそ歴史の加害者である』石平著 【産経ニュース】2016.6.11 11:30
2013年3月、朴槿恵(パククネ)大統領の「(われわれは)千年不変の被害者」発言に疑問をもった人は多かったようです。著者もその一人で、3年をかけて朝鮮史の専門書を読破、「韓民族はその長い歴史において、たびたび外国からの侵略を受けてきたと主張しているが、それは一概に真実とはいえない。大半の場合、むしろ韓民族自身が、外国に嘆願するような形で、外からの侵略軍を半島内に招き入れてきた」との結論に達したのです。
古代の三国統一戦争で唐に頼って百済と高句麗を滅ぼした新羅の行動。さらには高麗が日本侵略を元に提案し、そのお先棒を担いだ理由。有力者が日清露の間を揺れ動いたために日清・日露戦争が起きたこと。米中の若者に多大な流血を強いた朝鮮戦争のいずれも、「外国軍を半島内の勢力争いや内輪もめに巻き込んで、その力を利用する」悪癖の結果だと断じるのです。
1500年の歴史の教訓は、半島の内紛に巻き込まれた外国はいつも多大な犠牲を払うということ。今日の北朝鮮の言動も「トラブルメーカー」の変わらぬ本質が表れたものと指摘、関係国に警鐘を鳴らします。
よく誤解されますが、本書は日本の責任を全否定する内容ではありません。日韓の不幸な過去に起因する感情論に陥りがちな日本人に、「半島の歴史の実態は、一方は単なる加害者で、他方は単なる被害者であるという単純な図式で片づけられるものだったのか」という冷静な議論の材料を提供しているのです。(飛鳥新社・1389円+税)
飛鳥新社出版部 工藤博海
韓民族こそ歴史の加害者である 目次
まえがき――6
第一章 侵略軍を半島に招き入れた 「三国統一戦争」――13
「民族の不幸」と評される三国統一戦争――14
高句麗と百済の「告げ口外交」とその結末――22
高句麗侵略の先導役を買って出た百済――28
復讐に燃える金春秋の執念と謀略――34
招かれた唐王朝軍の百済侵略――43
唐の侵略軍の先導役を務めた、高句麗の元最高権力者――48
白村江の戦いで梯子を外された大和朝廷軍――57
韓民族は単なる「侵略の被害者」だったのか――64
第二章 日本侵略の主役なった高麗王朝の生存術 ――71
高麗は元寇の「単なる脇役」だったのか――72
自ら進んでモンゴルの「忠僕」となった高麗王朝――80
自国への蒙古軍出動を要請した高麗国王――88
こうして蒙古軍と高麗軍は友軍となった――93
日本遠征の時機がついに熟した――97
対馬と壱岐で行われた虐殺と戦争犯罪――102
高麗国王が日本征伐の再開を提案した理由――106
高麗王朝と韓民族の祖先こそ、戦争の加害者であった――112
第三章 アジアの大迷惑だった 朝鮮王朝の「近代化」―――121
朝鮮の「近代化」を遅らせたのは何か―――122
清王朝の朝鮮干渉を招いた「壬午軍乱」―――131
日清戦争の遠因がこうして作られた―――136
外国勢力の力を惜りた甲申政変乱顛末―――143
日清を戦争に巻き込んで「漁夫の利」を得る朝鮮―――149
ロシア大使館から生まれた「大韓帝国」―――157
一進会が押し進めた日韓併合への道―――165
第四章 朝鮮戦争最大の「A級戦犯」は李承晩だった―――173
朝鮮戦争とは何だったのか―――174
「民族分断」の原因を作ったのは誰なのか―――180
最初から戦争するつもりだった金日成と李承晩―――190
朝鮮戦争はこうして始まった―――198
三ヵ月で終わったはずの朝鮮戦争―――205
中国が参戦した理由―――210
「三十八度線突破」の首謀者は李承晩たった―――215
あとがき―――226
私が、読んだ韓国史の本のほとんどは、李氏朝鮮に関する本ばかりで、いかに李朝500年が堕落していたというものが多く、新羅統一王朝ができる三国時代以前は、ここまで堕落した民族だと描かれていなかった。ネットでもそれほど詳細なものは少なかった。
崔 基鎬(チェケイホ)/著
などでも、
韓国堕落の2000年史 p22-23
当時の韓国は三つの国に分かれていたが、その時代までは、国際的に高貴な「紳士の国」として知られていた。「紳士」は日本では明治以後に英語の「ジェントルマン」の訳語として定着するようになったが、もっと古い言葉である。「紳」は貴人が衣冠束帯の時に用いる大帯であって、ここに笏をぱさむことから、高い人格と教養をもった男子を意味した。と、韓国人であるから・・・李朝には厳しくても、三国時代は美化して描かれていた。
三国時代以前の韓国は、中国古代の地理書である『山海経』や、中国の前漢の文学者である東方朔(生没不明)による書物や、『三国志魏志東夷伝』などに現われるが、「仁と義」、「礼、勇、寛大」、「博愛と禁欲的な廉潔」、「自尊、武勇、快活」さに溢れた国として描かれている。
しかし、わずか1ページ強だが、新羅王朝が唐と組んで高句麗と百済を滅ぼしたのが、大きな禍根を残したと書いてあって、わたしの記憶に大きく残るページがある。
P24-26
なぜ、新羅による統一が問題なのか?以上により、新羅による統一王朝の出現がいかに朝鮮にとって不幸な出来事か本書を読むまえから、私も知っていた。だが、本書を読むと、新羅統一前から半島のDNAには、事大主義・告げ口外交・裏切・売国・卑怯が刻まれていることがわかる。
だが、これほど高い徳と輝かしい文化を誇った朝鮮半島の三国時代は、一つの予期せざる大事件によって終止符を打った。新羅による朝鮮半島の統一である。
同じ民族によって統一がなっだのだから、一見問題ないように見えるかもしれないが、新羅の場合は事情が違う。
新羅による統一は、外勢である唐と結託して、同胞の国であり、当時、アジアの強国であった高句麗と、世界の最高級の文化と芸術の国であった百済を不意討ちすることによって滅亡させたものだった(百済が六六〇年、高句麗が六六八年)。民族反逆の末に、自らを唐の属国としてしまった。ここに韓国人の意識構造に、異常を招く事態となった。
新羅は進んで唐の属国となることによって、卑怯い利己主義、機会主義、事大主義を蔓延らせ、韓民族を転落させたのだった。これは朝鮮半島に禍根を永久に残すことになった大事件であるが、今日の表現を用いてみれば、″無頼漢(ゴロツキ連中)"が他民族の勢いを借りて、自分たちの民族国家を打倒したのだった。
第一章 侵略軍を半島に招き入れた 「三国統一戦争」
石平氏は、韓国人の書籍を引用し、古代史を解説する。三国時代から高句麗・百済が南北朝~隋王朝に告げ口外交を繰り返し、三国時代から紳士の国などではなかった。それどころか、歴史上最初の半島の国家衛氏朝鮮が、紀元前2世紀漢民族の衛満が漢より逃げ出して成立した亡命政権であった。半島最初の国家がシナ人ということを打ち消すために、漢民族はありもしない檀君神話を捏造した。
衛氏朝鮮を滅ぼしたのは漢の武帝である。その後半島全部を朝鮮四郡として統治した。漢帝国が衰退すると、紀元前一世紀後半、半島北部に朱蒙という英雄が現れ高句麗を建国し、南部にも百済もほぼ同時期に建国された。任那のことは触れていないが、紀元三世紀に新羅の前身斯蘆と言う国ができてそれが新羅へと発展し、三国鼎立時代に突入する。
この三国は国の存亡をかけ、数百年にわたり合従連衡と軍事衝突を繰り返した。中国は漢崩壊後統一王朝が出現せず、南北に中心の国ができては潰れる南北朝時代であった。隋が誕生するまで繰り返していた。
新羅がはじめて告げ口外交や、シナに対する事大主義で統一国家を成立させたのではない。この三国鼎立こそ、事大主義、裏切り、告げ口外交、外国勢力の招き入れとその後の属国化という韓民族の悪弊の全てが詰まっているのである。もちろんそんな国民民族は、嘘つきで自分勝手で、信義に欠ける民族に成り果ててしまうのも納得できる。
p23-34
南北朝時代の中国では少数民族の作った北魏・北斉・北周などの王朝が交替えしつつ、大陸の北部を支配したので「北朝」と呼ばれる。そして大陸の南部では、宋、斉、梁、陳という四つの王朝が興亡を繰り返した。それらが「南朝」と呼ばれるのである。
他方、同時期に朝鮮半島でしのぎを削っていたのは高句麗、百済、新羅の三国である。
生き残りを図るため、あるいは半島 内の覇権争いで優位に立つために、彼らは競って中国大陸の王朝に接近し、朝貢国となった。中国王朝からの支援を求めなり、中国王朝の権威を借りて自らの立場を強化するのが目的である。
たとえば高句麗は、中国大陸で北朝の北魏が南朝の宋、斉と対立する中で、南北両朝に朝貢する政策をとった。高句麗の国王は、北朝と南朝に毎年、使者を派遣して朝貢を繰り返し、両方の王朝から「都督・将軍」などの称号をもらった。対立する北朝と南朝を互いに牽制することによって、大陸からの侵略を未然に防ぐことが、その「両面外交」の狙いの一つであった。
時には、中国王朝の権威を利用して、敵対する他の半島国家を圧迫するのも、高句麗の戦略となった。たとえば高句麗の文官明王(在位四九二年~五一九年)の治世、百済が新羅と同盟して高句麗に対抗していた中で、北魏の宣武帝(在位四九九年~五一五年)に朝貢の使者を派遣した文言明王は、次のように訴えた。
「弊国は藩属となってから朝貢を欠かしたことは一度もありません。しかし今、真珠などを産出する耽羅(現在の済川島)は百済に併合され、黄金などを産出する扶余(中国東北部)は勿吉(のちの女真族)に逐われてしまいました。百済と勿吉のせいで、もはや真珠と黄金を捧げることができません」
つまり高句麗の王は、使者を遣わして中国皇帝への「告げ口外交」を展開したわけだ。
皇帝様に真珠を捧げることができなくなったのは、百済が悪いからだと訴えた真意は当然「百済を何とかしてくれませんか」と、中国の皇帝に「直訴」することにあった。半島内の戦いに勝つために、中国皇帝の力を借りようとするこの発想は、異なる歴史を持つ日本人の目にはいかにも奇異に映るだろうが、本書を通読して頂ければ分かるように、実はそれこそ、現在にまで受け継がれている、朝鮮半島の人々の不変の習性なのである。
しかし、高句麗の訴えにたいする北魏からの返事は、まことに絶妙なものであった。宣武帝は使者をこう諭したという。
「杯に酒がないのは、注ぐべき酒のない徳利の恥だ。真珠と黄金が手に入らないのは、高句麗自身の恥ではないのか。高句麗の責任でもって百済や勿吉と交渉すべきだ。真珠や黄金の貢ぎは怠ってばならない。朕の考えを王に伝えるがよい」と。
要するに、官武帝は高句麗からの直訴をまったく受け付けず、逆に文沓明王の尻を叩いて朝貢を実行するよう、責め立てたのである。高句麗の「告げ口外交」は見事に失敗した。
非常に興味深いことに、この同じ北魏王朝にたいして、実は百済も同じような「告げ口外交」を行っていた。
北魏史上もっとも英明といわれる孝文帝(在位四七一年~四九九年)が即位した時、百済国王の蓋歯王(在位四五五年~四七五年)はさっそく慶賀の使節を遣わして、北魏への国書を呈上した。その中で蓋歯王は、何と、高句麗に対抗するための軍事的支援を孝文帝に求めたのである。
国書は概略、次のようなことを述べている。
――弊国は建国以来、歴代中華王朝の教化を受けておりますが、高句麗が道を塞いでいるため、思うように朝貢ができません。しかも高句麗はますます高圧的になって弊国を圧迫し続けていますo。うか弊国を憐れんで下さい。軍を派遣して弊国を救って下さい。
前述の高句麗からの直訴と同様、百済もまた、「満足に朝貢できない」ことの責任を、敵対する隣国に押し付けて、中国皇帝の心を動かそうとしている。かしそれにたいする孝文帝の返事もまた、冷淡そのものであった。
孝文帝曰く、高句麗が百済の領土を侵犯していることは分かった。しかし高句麗はわが北魏にもちやんと朝貢しているから、北魏の命に背いたわけでもない。したがって北魏が(百済のために)高句麗を討伐するのは道理に反する。もし今度、高句麗が朕の命に従わないことがあれば、改めて討伐するのでも遅くはない。その時は、高句麗までの道案内を頼もう。
孝文帝からのこの返事をもって、中国王朝の軍事力を借りて高句麗をやっつけようとする百済の目論みは、見事に失敗に終わったが、当時の北魏王朝の状況からすれば、それはむしろ当然の結果だ。
その頃の中国大陸では、南朝と北朝が常に軍事的対立を続けており、いずれも、朝鮮半島の内紛に軍事介入する余裕はなかった。半島の国々が朝貢してくることは、中国皇帝にとって、自らの権威を高めるために役に立つ、嬉しいことではあるが、それだけのために、一朝貢国の口車に乗せられて、軍事支援までしてやるつもりはさらさらない。こういうわけで、北魏にたいする高句麗と百済の「告げ口外交」は、両方とも失敗に終わった。
このような冷淡な対応をしたのは、もちろん、北魏に限ったことではない。中国の南北朝時代を通して、朝鮮半島内部の争いに軍事的介入を行った王朝は一つもなかった。南北対立に明け暮れる中国王朝からすれば、半島内部の争いは取るに足らない「子供の喧嘩」でしかない。介入しないのは当たり前のことだ。それよりもむしろ、自分かちの争いに中国王朝を巻き込もうとする半島の国々のやり方が、かなり異様なのである。
しかし、半島の国々にとって幸か不幸か、「介入しない」中国王朝の基本姿勢に、大きな転機が訪れる時が来た。良く続いた中国大陸の南北朝時代が、とうとう終焉を迎えたのである。紀元五八一年、北朝の北周から政権を受け継いだ隋示建国されると、五八九年、隋は南朝の陳という国を滅ぼして、中国を再統一しか。西晋滅亡以来、三百年ぶりに、中国大陸に強大な統一帝国が誕生したのである。
その結果、中国王朝の朝鮮半島にたいする関わり方が、劇的に変化した。韓国史学界の一部がそう考えているように、中国大陸で隋という統一帝国が成立したことが、まさに、朝鮮半島における「三国統一戦争」の始まりをもたらしたのである。
高句麗侵略の先導役を買って出た百済
五八一年に隋王朝が成立すると、高句麗と百済はさっそく、隋にたいして朝貢を行い、隋の初代皇帝の文帝「在位五八」年上ハレ四年)からそれぞれ「帯方郡公」、「遼東郡公」として称号を授けられた。同時に、両国は、南朝の陳王朝にたいしても、今まで通りの朝貢をしばらく続けていた。しかし五八九年に隋示陳を滅ぼして中国を統一すると、半島の国々の両面外交はもはや通用しなくなった。ここにおいて、彼らは、中国大陸で久しぶりに出現した統一帝国にどう対処するのか、という、国の存亡にかかわる大問題に直面したのである。
高句麗、百済、新羅の三国ほとりあえず、隋帝国に朝貢して恭順する姿勢を示した。しかしその中でもっとも大きな不安を抱えていたのは、やはり高句麗である。他の二国と違って、高句麗だけが隋帝国と国境を接しているために、大陸での統一帝国の出現はそれだけ、高句麗にとって大きな脅威となるのである。
したがって高句麗は、隋王朝に朝貢を続けながらも、ひそかに軍備の増強や兵糧の蓄積を急いだ。そして五九八年、高句麗の嬰陽王(在位五九〇年~六ー八年)は一万の軍を率いて、高句麗との国境に隣接する隋王朝支配の遼西郡に突然、侵攻した。おそらくこれは、隋王朝の出方をうかがうための偵察的な意味合いの軍事行動であったが、それに激怒したのは隋の文帝である。隋王朝はさっそく嬰陽王に授けた称号をはく奪しか上で、三十万人の大軍を高句麗にさし向けた。
隋の文帝がそこまで本気になって怒るとは、予想すらしていなかった高句麗側は、慌てて文帝に使節を遣わして、謝罪した。その国書の中で、嬰陽王が自らを「遼東の糞土臣」と貶めて、文帝のご機嫌をとったことは有名な話だが、高句麗征討に向かった隋王朝軍が長雨に遭って、疫病が流行したなどの要因も手伝って、隋王朝は結局、高句麗討伐を途中で取りやめた。
高句麗はこれで一安心したが、その時、隋王朝の討伐軍をふたたび朝鮮半島に呼び戻そうと躍起になったのが、同じ半島国家の百済であった。隋軍がすでに撤退した五九八年九月、百済の威徳王(在位五五四年~五九八年)は、使者を隋王朝に派遣して、高句麗にたいする再度の討伐を嘆願した。
その際、威徳王が隋の文帝にたいして、「陛下が高句麗に再征する時には、わが百済は道案内役を務めたい所存(軍導を為さんと請う)」と伝えたという(『隋害百済伝』による)。要するに百済国王は、同じ民族の高句麗にたいする隋王朝の再度の侵攻を嘆願しただけでなく、侵略軍の先導役を自ら買って出たのであった。日本人の感覚からすると、実に驚くべき無節操ぶりであるが、実はそれこそが、本書を通してこれから嫌というほど繰り返し見て頂くことになる、半島民族の一貫したやり方なのである。
百済からの「侵略要請」にたいして、高句麗討伐を取りやめたばかりの文帝は、当然のごとく断った。それからしばらくの間、隋王朝と高句麗の間では平和が続いたが、六〇四年に文帝が死去して二代目皇帝の煬帝(在位六〇四年~六一八年)が即位すると、状況はまたもや変化した。
野心家の煬帝は、皇帝に即位した後、隋王朝の創始者である父親の文帝を超えるような、何らかの「大業」を成し遂げたいと狙っていた。そこで、父親が挫折した高句麗討伐の再開が、魅力的な選択肢の一つとなった。高句麗を征服できれば、先代の文帝どころか、漢帝国の偉大なる皇帝である、武帝さえ超えることができるのだ。
漢武帝の作った「朝鮮四郡」が高句麗によって滅ぼされて以来、朝鮮半島への支配権の回復は歴代中華王朝の宿願で、それこそ中華皇帝としての自分の使命だと、先代が作り上げた統一帝国を受け継いだ煬帝は決め込んだようだ。高句麗再往の意志を固め、機会をうかかっていた。
ちょうどそこで、新中華皇帝となった後継者の野心に付け込む形で、隋王朝軍による半島侵略を再度、懇願してきたのべやはり同じ半島国家の百済だったのである。
『隋書百済伝』の記述によると、煬帝の即位から三年目の六〇七年、百済は隋に使節を遣わして、高句麗再征を要請した。それにたいして、新皇帝の煬帝からは肯定的な返事を得ることができた。煬帝はきらに、高句麗の内部情勢を偵察しろという指示まで出した。
百済は当然、積極的に協力したが、それでも隋王朝は、すぐに動こうとはしなかった。隋王朝の鈍い動きに焦りを感じたのか、六一一年に百済はふたたび使節を隋に派遣して、高句麗出兵の具体的な期日を問い合わせてきた。そこでついに、やる気満々の煬帝は、百済に高句麗征伐の決行を伝えると同時に、そのための謀議を百済との間で行ったと、『隋書』は記している。
実はその時、もう一つの半島国家である新羅も動いた。高麗時代に編纂された、正史である『三国史記・新羅本紀』の記述によれば、六一一年に、新羅も隋に使者を遣わして、高句麗への出兵を要請したという。
このようにして、半島国家の百済と新羅が揃って、同種同族であるはずの高句麗を侵略するよう、外国の王朝に頼み込んだのである。
特に百済の場合、当の隋王朝よりもこの侵略戦争の開始を待ち望んでいるような様子であった。それはまさに、世界史上の奇観ともいうべき光景であるが、煬帝の戦争決断を後押しした大きな要素として、百済と新羅の要請があったと考えざるを得ない。
実際、『隋書・煬帝紀』の記述によれば、侵略を要請した百済の使者が隋に到着して朝貢したのは六一一年二月四目であるが、同月二六日に煬帝が高句麗討伐の詔書を発したという。百済の使者到来は、彼が高句麗征伐を決心する一つのきっかけであったことがうかがえる。
百済と新羅の願い通り、紀元六一二年、隋は百万人の大軍を派遣して、高句麗征伐を再開した。しかしこの時も、高句麗が国の命運をかけて徹底的に抗戦した結果、煬帝の軍事行動は完敗に終わった。その後も、場帝はその短い治世の中でさらに二回、高句麗への再征伐を試みたが、いずれも失敗に終わっている。そしてこの挫折が、煬帝の国内の権力基盤を大いに揺るがし、隋王朝の崩壊を早めたことは、中国史上の常識である。
その一方で、高句麗が隋王朝の侵略を撃退し続けたことは、朝鮮半島にとって幸いだった。ある意味で、高句麗という国はずっと、朝鮮半島を中華帝国の侵略から防ぐ「防波堤」の役割を果たしていた。
しかし、それにもかかわらず、大陸の軍勢から守られているはずの、南の百済と新羅は、高句麗と協力して隋王朝の侵略に抵抗するどころか、むしろ隋王朝を焚き付けて高句麗への侵略をそそのかし、さらには侵略戦争に「先導役」として加担しようとした。
この二つの半島国家の無節操ぶりと愚かさには、まったく驚くばかりであるが、本書を読み進めていけばお分かり頂けるように、こうした愚行はむしろよくあることで、韓民族のDNAともいうべき、独自の行動パターンから出てくるものなのである。
この半島の歴史として残る最古の記録からして、新羅が初の韓民族による統一国家を作る前から外国の勢力を利用して、告げ口外交、裏切りをするのが現在にまで受け継がれている、朝鮮半島の人々の不変の習性なのである。
ながながと引用してしまったが、すくなくとも記録に残る1500年間、今日に至るまで、この半島人のDNAは不変である。推測にすぎないが、歴史として残る以前、紀元前2世紀衛氏朝鮮の時代から2000年来、事大を繰り返していたのだと思う。
さて、新羅の半島統一だが、これまた酷いものだった。
隋の文帝は、半島からの要請をことごとく断ってきたのだが、二代目の煬帝が愚かだった。先代を越えようとする煬帝に百済が、高句麗をいっしょに倒しましょうと、悪魔の誘いをしてきたのである。このオファーは煬帝の心に刺さってしまったのだ。
新羅からも同じ要請が入り、高句麗と同種同族のはずの百済・新羅が揃って、異民族の王に侵略を願い出てたことになる。
紀元612年、百万の隋の軍隊が高句麗に殺到した第二次高句麗遠征である。百万はどう考えても誇張と思えるが、wikiでも60万となっていたが、退却を重ね伸びきった補給線を断ち切るところで、高句麗はこれを撃退し、以後第三次、第四次遠征も守りきったのである。 このまま高句麗が半島を統一すれば、韓民族はここまで卑屈で嘘つきの国民性にはならなかったかもしれない。そして、独自の文化も生み出すことが出来たかもしれなかった。独自の文化がまるでないから起源を主張するしかできない可哀そうな民族に成り果ててしまったのである。
隋王朝は高句麗遠征の失敗がたたり、崩壊すると、代わってシナには唐王朝が成立した。
唐王朝も、高句麗には手を焼いていた。高句麗は唐の侵攻に備え、百済と同盟を結んでいた。百済は、新羅を攻め、新羅は崩壊寸前であった。
新羅は日本の大和朝廷に支援を求めたのであったが、日本は新羅の要請を断った。困った新羅の宰相(当時)金春秋(後に第29代国王)は、唐に最後の望みを託したのである。
唐は高句麗に手こずっていて、朝貢してくる百済を攻める意思はなかった。
しかし、新羅の金春秋は、高句麗が陥ちないのは、南から百済が支援しているからだと唐に告げ口をして、高句麗攻撃前に百済攻撃を仕向けたのであった。
しかし、唐第二代皇帝太宗が口説かれたが死去、第三代皇帝高宗は優柔不断で、新羅が唐に対し十数年あの手この手で出兵を要請したが、新羅の要請を受け付けなかった。西暦660年皇后の則天武后が宮廷内で権力を握ると、たちまち百済を攻撃することを決断した。新羅が東から5万の大軍で百済を攻め、海からは唐の軍隊13万が上陸してたちまち百済を滅ぼしてしまった。
百済を滅ぼした唐新羅連合軍は661年高句麗を攻めたのだが、唐新羅連合軍に対し準備をしていた高句麗は首都平壌城を半年包囲されたが、それまで三度も唐を撃退させた宰相淵蓋蘇文(えん がいそぶん)は撃退に成功した。その後も淵蓋蘇文が存命中は唐新羅連合軍を撃退し続けた。
665年最高権力者淵蓋蘇文が死去すると、高句麗が滅びる。韓民族の裏切りDNAが発動したのだ。
p53-55
淵蓋蘇文には、男生、男建、男産という三人の息子がいた。晩年の淵蓋蘇文は、自らの死後の一族の安泰を考えて、三人の息子それぞれに軍権を移管し、三人が協同して軍事政権を運営する後継者体制を作っておいた。668年唐新羅連合軍は愚かな三兄弟の疑心暗鬼と、裏切り、売国行為によって600年東アジアの強国として半島北部~満州に存在した高句麗が滅亡したのであった。
淵蓋蘇文が死去すると、長男の男生が後を継いで、次の大対盧(宰相)に就任し、政権の頂点に立ったが、男建、男産の残る二人はけっして心服したわけではなく、兄弟間の疑心暗鬼が始まった。
六六六年初め、男生は地方の巡回視察に出かけて、首都平壌の留守を二人の弟に任せた。
しかし配下の者にそそのかされた男建、男産は、突如として反旗を翻しか。彼らは平壌を占領して政権の中枢を握り、兄の男生が首都に戻ってくることを拒んだ。
突然の政変で権力の座から追放された男生は、急いで高句麗の両都である国内城(現在の中国古林省にある)に逃げ込んで、弟たちの中央政権と対峙した。しかし全体的情勢は男生に不利であった。首都と政権の中枢が弟たちに奪われた以上、自分の力だけで奪還するのはもはや不可能。国内城に閉じこもっていたら、ジリ貧となって、いずれ中央政権に討伐され、滅ぼされる運命にある。
では、どうやって生き延びればよいか。そこで男生が思い当たったのも、やはり唐帝国であった。彼の拠点である国内城とその支配する地域は、ちょうど高句麗と唐帝国との国境近くにあるから、唐王朝に降り、その強大な力を頼りにすることが、男生にとって、起死回生の秘策となった。
こうして、あれほど唐帝国に徹底抗戦した英雄・淵蓋蘇文の嫡子であり、しかも一度は高句麗の最高権力者の立備にあった男生は、自らの生き残りのため、唐王朝に降伏する決断を下したのである。
降伏の意を伝えるため、彼はさっそく、自分の側近を長安に遣わした。しかし唐王朝側は男生の投降話を、にわかに信じられなかった。何しろ、一度は高句麗の最高権力者の立場にいた人間である。簡単に降伏することなどありえないと思われたのだ。
男生は再度、もう一人の高官を派遣して、投降の意思を明らかにした。それでも唐王朝は受け付けてくれない。途方に暮れた男生はついに一大決心して、六六六年夏、嫡男の献誠を名代として長安に派遣した。献誠に自分の窮状を訴えさせ、降伏を申し入れたのである。それと同時に、唐王朝軍の高句麗攻略の先導役を務めることを申し出た。
これで初めて、唐王朝は男生の申し出が本当であると信じた。もちろんこれは、再度の高句麗征伐を考えていた唐王朝にとって、願ってもない絶好のチャンスであった。
さっそく動き出した唐王朝はまず、援軍を派遣して、男生の閉じこもる国内城の救援に向かわせた。唐軍が高句麗領内に入ると、男生は、国内城はもちろん、自らの支配下にある南蘇、蒼岩など六つの城と十万戸の人民を、唐王朝に献上した。
そして六六七年、男生は自ら長安へ赴き、唐に入朝した。韓国古代史研究家・盧泰敦博士の前掲書の記述によると、長安に入った男生は、高句麗の国内事情を次々と唐王朝に教えて、高句麗攻略の具体案について色々と献策した。そして、その後に展開されていく高句麗征伐において、男生は当然のように侵略軍を先導する役割を果たし、死ぬまで唐王朝に積極的に協力したという。
男生の投降によって、高句麗の北の玄関口が聞かれた。それに加えて、高句麗の元の最高権力者である男生自らが、高句麗攻略の先導役まで買って出てくれた。もはや唐王朝に、再度の高句麗征伐をためらう理由は何もない。時は戻るが六六六年十二月、唐の高宗は李勣を総司令官とする大規模な遠征軍を編成させ、高句麗征伐を命じた。六六七年二月、李勣軍は唐と高句麗の国境にある遼河を渡り、一路平壌へと向かった。
日本も、古代日本の大事件、白村江の戦いで韓民族に大迷惑を被っている。
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唐王朝軍を半島に誘い入れたのが新羅であったのにたいし、日本の大和朝廷軍を半島内の戦いに巻き込んだのは、新羅と争っていた百済である。
白村江の戦い(六六三年)のはるか昔から、百済は日本の大和朝廷と緊密な関係にあった。
半島が三国鼎立時代に入った当初より、百済は高句麗・新羅と対抗するために、大和朝廷に積極的に接近して、同盟関係を結ぼうとしていたのである。
百済が大和朝廷に初めて交渉を求めてきたのは近肖古王(在位三四六年~三七五年)の時代であったっ当時、高句麗と激しい攻防戦を展開していた百済は、中国の晋王朝に朝貢を続けながら、日本の大和朝廷にも使者を遣わして、外交関係を結んだ。
三七二年、高句麗と戦っていた近肖古王から、大和朝廷に「七枝刀」という宝刀が贈られた。それは今でも、奈良県天理市の石上神宮に保存されているらしい。
三九七年、高句麗との戦いで劣勢に立たされていた百済は、太子の腆支(余映)を人質として日本に送り、よりいっそう緊密な関係を求めてきた。
それ以来、日本に人質を送ることは、百済の対日外交上の慣例となった。百済が半島内の紛争で形勢不利となった特に、大和朝廷に何らかの支援を求めてくるのも、それ以来の”慣例”となった。その代わりに、百済は中国大陸から伝来した文化や文物、そして五経博士や医博土、採薬師などの人材を次から次に日本へ提供して、対日関係の強化に努めた。
時代を下って六世紀の初め、百済の武寧王(在位五〇二年~五二三年)の時代、百済が朝鮮半島最南部の加耶諸国の覇権をめぐって、新羅と争うことになった時、武寧王は加耶地域に大きな影響力を持つ日本に支援を求めた。大和朝廷の継体天皇から「水軍五百」などの軍事後助を受けた百済は、対新羅戦に勝利して、加耶地域の一部を併合することに成功した。
そして武寧王の後を継いだ聖明王(在位五二三年~五五四年)の時代、百済は新羅にたいする本格的な攻略戦を実行に移そうとして、大和朝廷の欽明天皇に軍事支援を求めた。それを受け入れた欽明天皇は、「兵一千人、馬百頭、船四十隻」からなる救援軍を半島に派遣したと伝えられている。その見返りとして、百済の聖明王が大和朝廷に仏像と仏経を贈ったようで、これが日本における「仏教公伝」の始まりであるといわれている。
このようにして百済は、建国以来数百年間、大陸伝来の先進文化を日本に伝えることを最大の外交カードにして、大和朝廷と緊密な関係を結び、対高句麗・新羅の覇権争いで優位に立とうとしていた。時には大和朝廷に軍事後助を求めることも珍しくなく、外国勢力を半島内の紛争に巻き込むやり方は、その後の金春秋や新羅のそれと一脈相通じるところがあった。
しかし、紀元六世紀か 七世紀にかけて、中国大陸で隋王朝と唐王朝という二つの強大な統一帝国於相次いで出現すると、百済の「日本巻き込み戦略」は効果を失った。中華帝国が半島内の紛争に本格的に介入してくると、国力が比べものにならない日本の存在感は、薄くなる一方となったからだ。そして前述のように、唐帝国が新羅と手を組んで半島に侵攻してきた時点て、百済の運命はすでに決していたといえる。
唐王朝・新羅連合軍の侵攻に直面した危機的な状況で、百済は当然、あらゆる形の軍事支援を日本に求めた。しかしその時点では、どういうわけか、大和朝廷はいっさい動かなかった。
おそらく、唐・新羅連合軍の襲来があまりに迅速だったため、大和朝廷には反応する時間も与えられなかったのではないか。物理的な距離を克服する通信手段がなかった時代、海を隔てた日本が正確な情報を得て、半島の急変に反応するのは、どうしても遅れ日本が百済救援を決めたのは、結局、百済が滅亡した後のことである。
六六〇年七月、泗泚城か唐・新羅連合軍によって陥落させられ、国としての百済は滅びたが、その直後から、旧領内の各地で百済の遺臣たちが蜂起し、百済復興運動を開始した。
蜂起の中心となったのは、百済の王族に連なる鬼室福信という人物だ。彼は任存城を拠点として勢力を拡大し、あっという間に三万人規模の復興軍を作り上げた。
この年の十月、百済復興軍は使者を日本に遣わして、大和朝廷の援軍を求めた。彼らは、日本からの援軍を得ることで、百済の地から唐・新羅連合軍を追い払い、国を再興しようと考えた。
当時、百済の遺臣たちが日本から援軍を引き出すにあたって、とっておきの切り札があった。百済最後の王・義慈玉の王子で、人質として日本に滞在していた扶余豊璋である。彼は百済王子として二十年以上、日本の都で暮らしており、天皇宗をけじめ、大和朝廷の政権中枢と密接な関係にあったと考えられる。
そこで百済復興軍は大和朝廷にたいして、復興運動のシンボルとすべく、豊璋王子を半島に送還してもらうよう嘆願すると同時に、王子の祖国帰還を護衛する形で、大規模な援軍を送ってもらうことも要請した。
これを受けて、斉明天皇の下で大和朝廷の実権を握っていた中大兄皇子(後の大智天皇)は百済支援を決断し、豊璋王子の送還と援軍の派遣を決めた。翌六六一年九月、中大兄皇子は安曇比羅夫など数名の将軍が率いる兵五千と軍船百七十隻に豊璋王子を護衛させ、帰国させた。帰国した豊璋王子は鬼室福信らに迎えられ、復興運動の本拠地となった周留城に入城した。豊璋は百済の新しい国王に立てられ、復興の象徴となった。
その時、日本から派遣された五千の援軍も豊璋と共に周留城に入ったと思われるが、その後、大和朝廷はさらに二万七千人の第二次派遣軍と、一万人あまりの第三次派遣軍を続々と朝鮮半島に投入し、本腰を入れて百済復興運動を支援したのである。
日本はこうして、古代史上最大規模の「海外派兵」に踏み切った。しかし百済が健在ならともかく、国家としてすでに滅亡してしまっていたこの段階で、大和朝廷はなぜ、今さらのように援軍派遣を決めたのか。その真意は今なお歴史の謎であるが、おそらく大和朝廷の意思決定の背後には、豊璋王子の存在が大きかったのではないか。
長期間にわたった日本滞在で、豊璋王子は皇室をはじめとする大和朝廷の中枢と親密な関係を結んでいた。彼が母国に迎えられて、復興運動の中心となる話が持ち上がったから こそ、大和朝廷と中大兄皇子は百済復興を支援する気になったのではないだろうか。
実際、豊璋王子を祖国に送り届ける時、中大兄皇子は大和朝廷の高い地位の象徴である織冠(官位)を王子に授け、貴族の多臣蒋敷の妹を娶せたことからも、厚遇ぶりと期待の高さがうかがえる。
しかし結果的には、中大兄皇子と大和朝廷の期待を裏切ったのも、この豊璋王子であった。帰国してまもなく、豊璋王子は復興運動の事実上の中心人物であり、自分の帰国の立役者でもあった鬼室福信を「謀反」の罪で殺してしまった。もちろん単なる濡れ衣であろう。「謀反」するくらいなら、鬼室福信は最初から、豊璋王子をわざわざ迎えようとしなかったはずだ。
しかし鬼室福信の殺害によって、百済復興運動はその勢いを大きく削がれた。復興運動の大黒柱であり最大の功労者である福信が内紛で殺害されたことで、復興勢力の団結が一気に崩れたのである。
もちろんそのことは、日本から百済に派遣された援軍にとっても、極めて深刻な事態だった。復興運動を支援しようと、はるばる半島までやって来だのに、肝心の百済側の組織が内輪もめで空中分解してしまったことで、梯子を外された格好になったのは日本軍の方である。
それ以降、日本からの軍勢は百済復興勢力からの協力をほとんど得ることができなくなり、異国の地で強大な唐王朝・新羅連合軍と、ほぼ単独で戦うことになった。
その結果がすなわち、「白村江の戦い」における大和朝廷軍の完敗と全滅であるが、日本からの軍を半島に誘い込んだ百済復興勢力が分裂した時点で、この敗北はすでに決まっていたといえ日本兵の血が白村江を赤く染めていた時、肝心の豊璋王子はどうしていたか。数名の腹心と共に戦場から離脱して、高句麗へと逃げていたのである。
日本という外国の軍勢を自国の戦争に巻き込んでおきながら、いざとなると自分だけ、上手く逃げようとする。それが、豊璋という半島人の卑怯極まりない生存術であった。
2000年前から恩を仇で返す韓民族。隋・唐・大和朝廷は、半島人に情けをかけたばかりに、巻き込まれいつのまにか手痛い被害をうけてしまったのが歴史の真実である。日本やシナは加害者ではなく、どう考えても被害者である。
正直なところ、半島の三国統一戦争について、詳細に書いた本を読んだことがなかったが、改めて本書を読み勉強になったが、ほんと韓民族とは2000年前から面倒くさい大迷惑な民族だ!
【参考】