Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ

政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、脳の外部記憶媒体としてこのブログを利用しています。2020/11/30以前はGoogle検索でキーワードを入れると常に上位にありましたが、日本のトランプ大統領デモを紹介した記事が米国でバズって以降検索アルゴリズムから排除され検索ヒットされにくい状態です。是非ブックマークをお願いします。このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

タグ:歴史



サマーズのIMF講演がいろいろ話題を呼んでいる。「1993年には日本のGDPは現在の2倍になるとクリントン政権は予想していた」というが、それが今のようになったのはなぜだろうか?
一時は日本政府の経済運営がまずいからだと思われていたが、日本の人口増加率から考えるとバブル期の成長が過大で、本来のトレンドに戻っただけだ。同じような長期停滞(secular stagnation)が、アメリカにも起こっているのかもしれない。それは財政・金融政策ではどうにもならないので、もう裁量的なマクロ政策はやめたほうがいい、というのが彼の示唆である。

クルーグマンも基本的には賛成し、アメリカも人口増加率が0.2%ぐらいになるので、成長が減速することは避けられないという。リフレや財政政策も短期的にはきくかもしれないが、長期的にはサマーズが正しいだろう。

マーティン・ウルフも世界が日本のような停滞に入るおそれが強いと指摘し、それは「世界金融危機の前に見られた金融の行き過ぎが以前からの構造的な弱さを覆い隠していたからだ」という。構造的な弱さとは、世界的な貯蓄過剰(あるいは投資不足)である。

長期停滞論は、経済学の歴史とともに古い。最初にそれをとなえたのはマルサスだったが、リカードはそれを「収穫逓減」という形で理論化した。マルクスも「利潤率の傾向的低下」をとなえ、ケインズも長期停滞論者だった。市場経済の中のスミス的発展には限界があり、それが18世紀に中国が成長の限界に達した原因だ。

そういう主流派に唯一、反対したのがシュンペーターだった。人口が飽和しても、イノベーションで生産性を高めることができる。戦後の歴史はシュンペーターが正しいことを証明したようにみえるが、ここにきてそれはあやしくなってきた。もちろんイノベーションは大事だが、それは需要があっての話だ。人口の減少する国では、需要逓減が起こるのだ。

世界的にみると新興国の消費意欲は旺盛なので、ウルフもいうように貯蓄過剰の先進国の資金を資金不足の新興国に投資するのも一つの方法だろう。しかし中国も貯蓄過剰になっており、ここでも需要不足が成長を制約している。

資本主義の歴史は、スミス的発展の限界を植民地からの掠奪でカバーして資本を蓄積するマルクス的発展だった。それは露骨な帝国主義から戦後の資本輸出による<帝国>型のグローバル支配に変わったが、世界的な需要不足という慢性の病が資本主義の限界を示しているのかも知れない。

ノア・スミス「富の再分配?いいや、敬意を再分配しよう」

Noah Smith “Redistribute wealth? No, redistribute respect.” (NoahpinionDecember 27, 2013)

http://econ101.jp/wp-content/uploads/2013/12/kaitenzushi.jpg
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」 -福澤諭吉

僕は心の中では常に共産主義革命家であり続けている。人類の間の不平等はいつも心を痛めてきたし、そうした不平等を根絶することを望む強い欲求を抱えている。アメリカ社会では、僕らは普通3つの種類の「平等」について議論する。1)「結果の平等」、これは大抵の場合は富や所得の平等を意味する。そして2)「機会の平等」と3)法の下での「権利の平等」だ。1)を典型的に支持するのは、真の共産主義者や社会主義者、そして一部のリベラルだ。2)については中道リベラル、そして3)はリバタリアンと保守主義者だ。この3種類の平等の支持者間の主張は、膨大なもので終わりも見えない。そして、僕と言えばこの3つ全部が大切だと考えている。

でもここから漏れてしまっているものもあると思う。僕は僕が大切だと思う平等のもう一つの重要な側面があることを実感するようになった。そしてそれはそれ以外のどの側面よりも重要かもしれない。それは敬意の平等だ。

僕はこうした実感(他のとてもたくさんのことともに)を日本で生活するうちに持つように至った。それに最初に気付いたのは、回転寿司屋で席に着いて、何人かの調理師が魚を切っているのを見ていた時だった。彼らの仕事は機械的かつ反復的で、ハンバーガーの肉をひっくり返すのと大差ない難しさで、給料もあまり変わらないものだった。だけど日本人である僕の友達は、そうした調理師のうちの一人を寿司屋さんと呼んだ。これは「ミスター・スシ・シェフ」という意味だ。彼女はそうした敬称を反射的に使ったのであって、偉ぶったり、皮肉を込めていたのではなかった。低収入かつ低熟練の労働者に対する敬意は反射的で、自動的なものだった。ふいに僕は、アメリカ人にバーガーの肉をひっくり返す人を「サー」と呼ばせ始めることができるだろうかと考え込んだけど、その考えで笑ってしまった。

日本社会の習慣が平等な敬意を後押しするような場合は他にもある。日本は所得の面で特に「平等な」国というわけじゃない。ジニ係数はほとんどのヨーロッパの国々よりも高い。だけど、富が目立って目につくことは稀だ。お金持ちは人の少ないところにあるアパートや、高い石の壁で中が見えないような一軒家に住んでいて、アメリカのお金持ちが好むような宮殿みたいな豪邸には住んでいない。誰がいくら稼ぐかについて話す人はいない。派手な車はあることにはあるけれど、数は少ないし、それを転がしているのは企業法律家や若い投資銀行家であるよりもヤクザである場合がほとんどだ。日本人は(間違いだけれどもはっきりと)「日本に貧困はない」と主張する。富を目につかせることは大きなタブーで、それは貧困も同じだ。物乞いは限りなく稀だ。

今やこれは時とともに変わっていくのかもしれない。たくさんの人が誤って信じ込んでいるけど、日本文化は静的でも不変でもない。日本の比較的大きな不平等はほんのここ数十年の話で、自分の国が「勝ち組と負け組の社会」へと向かっていることを悩む日本人は多い。でも、敬意に値するのがお金だけである必要はないということを日本は僕に教えてくれた。

この点について、僕の故郷であるアメリカが日本から一つ二つ学んぶことができればと思う。1980年代以前に「負け組(loser)」という単語がよくある侮辱だったかどうかは知らないけど、ここ数十年でこの単語は至る所に現れるようになった。サービス業に従事する人たちは、どうやって生計を立てているかを僕に伝える際、ほとんどいつも恥じ入っているように見える。低熟練労働者は上から目線にさらされており、自分が「負け組」であることを常に思い出させられるんだ。アメリカ人は「2着は最初の敗者(Second place is the first loser)」、「勝利は全てじゃない、唯一のことだ。(Winning isn’t everything; it’s the only thing)」と書いてあるTシャツを着る。

かつてのアメリカはそうじゃなかったという漠然とした感じがある。僕らは揚げ物屋をさん付けしたことはないけれど、(誰かが以前ツイッター上で僕に言ったように)僕らはそれよりもさらに平等主義的な伝統を持っている。それは誰に対してもファーストネームで呼びかけることだ。アメリカ式の敬意は、全ての人を「ただの人(one of the guys)」と扱うことだ。どんなお金持ちでも貧乏人でもね。最近読んだ1920年出版のメインストリート(邦訳「本町通り」岩波文庫)という小説では、こうした意図的に砕けた形の平等主義の振る舞いを「デモクラシー」と呼んでいる。こうした使われ方はふざけたものとも思えない。アンドリュー・ジャクソンが1828年の就任式典でホワイトハウスの敷地を一般に開放した際、それは「ジャクソニアン・デモクラシー」という新時代の始まりとして歓迎されたんだ。

今日僕たちが「デモクラシー」について考えるとき、考えるのは選挙や憲法、法の下での権利といった形式的な制度だ。でも僕らの祖先は、社会的地位に関わらず全ての人に対する平等に敬意を払うという振る舞いも「デモクラシー」だと考えたんだ。平等な敬意はしたがってアメリカの「建国の精神(founding virtues)」の一つともみなせるんだ。独立宣言の起草者たちが「すべての人間は平等につくられている」という勿体ぶった、議論の付きないこの一文を書いた際に意図したのは、能力の平等ではなく、社会から平等な敬意を受ける資格というものであったことは想像に難くない

アメリカがこの建国の精神から向きを変えたという確かな証拠はほとんどない。でもそうだという気持ちは確としてあるんだ。

こうした敬意の平等の衰退については、保守主義者やリバタリアン、ビジネス界を非難したくなる。1980年代、アメリカ人は自分たちの経済的優位は「超競争社会」となることによってのみ維持することができると教えられた。「負け組」になるという脅しだけがアメリカ人を必死に働かせる動機となるという向きがあったのは間違いない。競争よりも協力を擁護したリベラルは、もちろんのことながら右派から馬鹿にされた。そしてリバタリアンは、アメリカの中流階級の富と所得の不平等を広げるとともに上位1%の取り分を成層圏まで打ち上げた、規制撤廃とグローバル化の最大の応援団だった。

でもアメリカのリベラルも、成功の指標として所得と富に焦点を置きすぎるという過ちを犯したんだと思う。アメリカの「不平等」の拡大に関するチャートやグラフの全ては、お金かお金を手に入れる見込みについてのものだ。もちろん、富の格差は嫌悪すべきだし、お金が社会的地位をもたらす物の一つであることも間違いない。でもそこに異常なほど焦点を当てることで、リベラルは社会で一番大事な物としてのお金の最重要性を固定化させる役割を果たしているんだと思う。

これはよろしくない。なぜなら、それが粗野な物質主義というアメリカの姿勢を固定化させてしまうのもそうだけれど、それが達成可能な種類の社会的平等を無視して達成不可能なものを追い求めてしまうというのも理由だ。社会は程度の差こそあれ富と所得については平等になりうるけれど、それはある程度まではという話だ。ヴィルフレード・パレートが観察し、そしてその後の研究が確かめたように、地球上の全ての社会では富と所得の分配は一種のべき乗の法則にしたがっていて、小さな部分が大多数よりもずっと多くのお金を稼いで意のままに操る。これを均すことは出来るけど、均一に近くなることは決してない。

お金に基づく狭い視野の平等を追い求めているのであれ、物質的な不平等によって作られた「競争力」を無感情に称賛しているのであれ、僕らアメリカ人は敬意の平等についてほとんど忘れ去ってしまったように見える。単に僕がこれを嫌いだからというだけじゃなく、僕らみたいな先進国では敬意は人々を幸せにするもののうちの大きな部分を占めているということからも、これはよろしくない。平等主義からの僕らの回れ右が、階級社会へと向かう分岐点の裏にある要因の一つじゃないかとも僕は思ってるんだ。

このままじゃいけないと思う。どれだけのお金を稼ぐかに関わらず、非熟練労働者の一生懸命な仕事が社会交流の中で価値あるものと見なされる社会へと立ち戻りたい。良き親、良き隣人であることが、ウォール街で100万ドル稼ぐのと同じように敬意を払われるような社会へと立ち戻りたい。

つまり、僕は僕らの「デモクラシー」を取り戻したいんだ。僕らには敬意の再分配が必要だ。


ノア・スミス の記事がちょっとおもしろいのでコメント。日本では、金のある人には権力がなく、権力のある人には金がないという(與那覇潤氏のいう)地位の非一貫性がある。これは遅くとも江戸時代に始まるもので、その原因を丸山眞男は徳川幕府の意図的な政策だとしている。『「空気」の構造』122~3ページからから引用しておこう。 
徳川幕府の地位は不安定だったので、幕府は徹底的な相互監視システムをつくり、農民を土地に縛りつけ、貨幣経済を制限して米で徴税し、鎖国によって海外との交流を断ち切ることによって260年以上の長期にわたる平和を実現した。それを支えた江戸時代の「文治主義」が成功した要因を、丸山は次の5つに分類している(『講義録6』148~9ページ)。
1.兵農分離に基づき、支配身分としての武士を他の三民から隔離した
2.武士を細分化された階層的構成をもつ家産官僚行政職にまで馴致した
3.武士内部の身分的ヒエラルヒーを社会生活の典型として全社会に拡充した
4.階層化されたさまざまの特殊社会を各々の「場」に釘付けした
5.それらの特殊社会のよって立ついかなる価値も絶対価値とならないようにチェック・アンド・バランスを作用させた

このような徳川幕府の統治原理を、丸山は集中排除の精神と呼んだ。そこでは軍事力が全国300の藩に分散され、権力が武士に集中する一方で富は商人に集中したため、幕府に反抗する勢力が富を蓄えて革命を起こすことがむずかしい。
 
他方、こうした「分割統治」システムは、人や物の移動を阻害して経済的な停滞をもたらし、才能ある者も身分制度に阻まれて埋もれてしまう、福沢のいう「門閥制度は親の敵」という状況を生み出した。同時代のヨーロッパでは大規模な宗教戦争で何百万人が死んだことを考えると、「徳川の平和」は誇ってよい歴史かもしれない。
 
幕末に来日したアーネスト・サトウは幕藩体制は「政治的停滞を安定と取り違えている」と評したが、「これは少なくとも初期には意識的な取り違えだったのである」と丸山は評している(同161ページ)。
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日本が長期停滞に入ることは避けられないだろう。生産年齢人口の減少による成長率の低下は労働市場改革で避けられるが、需要不足は避けられない。エネルギー価格の上昇も政策で避けられるが、政権にやる気がないのだからどうしようもない。

しかし人々の幸福度は富とほとんど相関がなく、自分の生活に意味があるかどうかが大事だ。江戸時代の平均寿命は40歳前後で平均年収は今の1割ぐらいだったが、人口の圧倒的多数を占める百姓には自治を認め、経済を支える商人には権力はないが非課税で、その富を文芸や美術に使った。その結果、江戸は世界でも最高水準の文化を生み出した。

貧しくても権力と富を平等に分配して幸福度が下がらない生き方を、江戸時代の人々は工夫したのかも知れない。その間接的な証拠は、日本でキリスト教が普及しなかったことだ。それは不幸な時代に流行するので、日本社会の幸福度は相対的には高かったのではないだろうか。ここには、これから衰退する日本が学ぶべき知恵があるような気がする。




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小野田元少尉がお亡くなりになった。ちょうどこの本を読んでいる最中に小野田氏の訃報を聞いた。小野田元少尉は侍であった。旧帝国陸軍の軍人として、日本人として、いや人間として尊敬できる人物であったが、その対極ににある悪の権化の代表は「辻政信」だろう。



本書は辻を絶対悪として書いている。本書を読むとこの辻政信さえいなければ帝国陸軍や日本はどれだけ汚名を注がれずにに済んだであろう。

本書を読んだ印象からすると辻は、石原莞爾に師事して以降、自分を日本軍の枠から離れ、皇国軍人ではなく、辻政信という個人を世界に売り込みたいと言う野望に目覚めたのではないかと私は思う。自分をルーズベルト・スターリン・ヒトラー・蒋介石に売り込む為の実績つくりを大東亜戦争中に行ったのではないであろうか?その為に武士、人間と言ったモラルを捨て、皇軍の名誉を汚し、日本軍は世界一残虐な軍隊であるというイメージつくりを辻が独断で行ったのではないかと疑いたくなる事実が沢山出てくる。

事実辻政信という軍人の存在は、帝国陸軍史上、いや日本近代史上で最悪の汚点である。ノモンハン事件において、いったん捕虜になったのち帰還してきた将校や兵士に、何の権限もなく自殺強要を行い自決させた。更にノモンハンの停戦交渉にやってきたソ連の外交使節団に暗殺の脅迫して事件を拗らせた。

陸軍皇統派一層を目的とした謀略陸軍士官学校事件(11月20日事件)を引き起こし2.26事件を誘発させた。辻は戦争中投降捕虜虐殺命令を勝手に軍上層部の命令を偽造して乱発した。フィリピンバターン半島で米軍捕虜の大量虐殺を独断で企てたが、実行されなかった。もし実行されていたら戦後日本の発展はなかったろう。 シンガポール華僑虐殺事件イギリス軍捕虜の人肉試食事件。ガダルカナル島の戦いの無謀な作戦も辻の無責任さは有名だが、ポートモレスビー作戦本営の決定前に独断で攻略命令にすり変えたため作戦が実行されたとの説もある 。この作戦の無謀さは多くの人が指摘していたが、結果的に数多くの犠牲者を出しながら日本軍は何ら成果を残さないまま転進した。

これに匹敵するであろう狂気の悪はすこし差を開けられ麻原彰晃かもしれない。近代以降日本のあらゆる凶悪犯の「悪」を軽々超えてしまう存在だ。 いったい、これはどの絶望的な人物が、軍内部の規律によって罰せられることがなかったばかりか、理不尽なまでに戦勝国によって些細なことで戦犯として厳しく指定されていったが、指定も逮捕も免れていた。もし事後法にて裁いた東京裁判を正当化するのならば日本の戦争犯罪の張本人は辻政信だ。辻を裁かなかったことで東京裁判は茶番でしかなくなった。

戦争犯罪人から逃れた方法が日本を裏切り、蒋介石と取引しスパイの可能性である。本書はそのことを露わにした。

辻は終戦をバンコクで迎えた、そしてあろうことか、シンガポール華僑虐殺事件の張本人であるにもかかわらず重慶の蒋介石の元へ逃避行を行ったのである。

蒋介石は戦争全体を通じて一番欲していたものそれは中国国内戦線各地において、自らが指揮する諜報機関の総力を持って「日本=ジェノサイド(大量虐殺)国家」であるという物語を世界全体に信じ込ませることに他ならなかった。蒋介石のこの謀略は、その当時の世界にあってかなり不完全だが、成功を収めた。

今日、中国共産党が行なっている「日本=ジェノサイド(大量虐殺)国家」という宣伝工作の大半は、共産党のオリジナルではなく、国民党がかつて徹底して行なった宣伝工作の受け売りに他ならない。もちろん、事実の問題からすれば、日本はナチスドイツのような計画的ジェノサイト国家ではまったくなかった。しかし、その日本にあってただ一人例外的行動をなして、蒋介石の意図通り「日本=ジェノサイド国家」の汚名をあえて着せようとした人物がいたのである。その人物こそ辻政信なのである。

辻は昭和20年8月10日の時点でポツダム宣言受諾を知り、8月11日サイゴン飛び、先輩林秀澄大佐と次のような会話を交わした。
辻:「日本の降伏後、東亜の盟主は誰ですか?」
林:「蒋介石だよ。しかし、蒋介石には毛沢東と言う毛虱がついている。蒋介石の反共作戦を援助すべきだ。ときに辻君。重慶に行かんか」と尋ねると辻は「はい、自分は重慶に行くつもりであります」

ノモンハンはじめ各戦場で捕虜生還者に対し「恥を知れ」と自殺強要をしていた張本人であるはずの辻は、武士でも人としても最悪の人間であった。

逃げ足は早く、8月15、タイの僧侶に変装した辻氏は7人の部下とともにメナム河畔の寺院に潜み、タイ脱出の機会を窺う。タイに英軍が進駐してきたのは9月2日。

イギリスの東南アジア軍の最高司令官・マウントバッテン元帥は英軍捕虜人肉事件もあり、BC級戦犯の筆頭として「草の根を分けても辻参謀を捜しだせ」と命令を下していた。

開戦当時にマレー・シンガポール作戦を行った山下奉文中将麾下の第二十五軍にあって、作戦主任参謀だったのが辻中佐(当時)であった。英軍の防衛線を突破してシンガポールが陥落させたのだが、占領後、シンガポール華僑虐殺事件が発生している。英軍は虐殺の命令を下したのは辻作戦主任参謀調査済であった。

辻は英軍に逮捕されれば、軍事法廷で戦犯として処刑されるのは避けられなかった。そこで辻は運を天に委せて、蒋介石の懐に飛び込む挙に出ている。バンコクのスリオン街に重慶藍衣社の本部があったが、そこに単身で逃げ込んでいる。特務機関・藍衣社のボスは戴笠将軍。



支那派遣軍総司令部第三課長時代に辻は、昭和19年蒋介石の母堂の慰霊祭を行っている。奇怪な振る舞いなのだが、ご本人は重慶政府との和平工作を考えていたという。田々宮氏は第三課の兼任参謀だった三笠宮が、蒋介石の故郷の写真を持っていて「お母さんのお墓だけでも祀ってあげたいですね」と言ったのを、辻氏が聞いていて”法要作戦”を思いついただけと手厳しい。

だが逃げ込んだ藍衣社では、慰霊祭の殺し文句がきいたらしい。さらに「重慶に赴き、戴笠将軍及び蒋介石主席に会見し日華合作の第一歩を開きたい」と大風呂敷を広げたから、バンコクの藍衣社幹部たちは本気にして、二人の護衛をつけて辻氏のバンコク脱出を助けている。昭和21年3月19日に辻氏は、目的地の重慶に着いた。

しかし一番当てにしていた戴笠将軍が、5日後の24日南京で飛行機事故によって急死してしまった。蒋介石は辻氏とは会おうともしなかった。敗戦国の一参謀将校と国民政府を率いる蒋介石では格が違う。日華合作の第一歩を開くどころか、招かれざる客という扱いを受けている。

蒋介石政府は重慶から南京に還都し、辻氏も南京に送られて、一枚の辞令を交付されている。「史政信 国防部第二庁弁公 部長白崇禧」。第二庁は情報部門で、そこで一介の職員の扱い。昭和23年5月27日に辻氏は引揚船で帰国した。大陸では中華人民解放軍が延安奪回作戦に成功し、風雲急を告げていた。

蒋介石は日本軍の大陸打通作戦で大惨敗を喫し、太平洋線で日本軍と死に物狂いで戦っている米国から失望されもはや見放されていた。米国は戦後の中国大陸は毛沢東の政権に任せる方がいいのではないかと考えるようになっていて、ドイツからもソ連からも米国からも見放されはじめた蒋介石は、己の保身の為再度日本から資金援助を引き出すことを考えていた。

そこに飛び込んできたのが辻政信である。蒋介石は辻をエージェントとして日本に送り返し、日本に再度国民党を援助させようと考えたのである。

まず、辻の盟友であり上司であった服部卓四朗を中国大陸からGHQの管轄に置かれた旧帝国陸軍の残務機関復員局に送り込んだ。

日本では蒋介石といえば日本の兵学校で学び「以徳報恩」演説により私を含めた保守派は親日家と錯誤していたが事実はだいぶ違う。それでも結果として終戦後中国大陸に残された日本人の大虐殺は行われなかったことは評価すべきかもしれない。

辻と蒋介石の関係を説明するには宮崎氏の書評を読んでほしい。

書評『蒋介石の密使 辻政信』   宮崎正弘      【杜父魚ブログ】

蒋介石の「以徳報恩」なる世紀の欺瞞と親日家ぶる演出はなぜ生まれたのか。
気絶するほどの欺瞞、偽善、悪魔の詐欺師は某参謀に共通した・・・。

■渡辺望『蒋介石の密使 辻政信』(祥伝社新書)

個人的なことを先に書くと、辻政信は石川県出身で、金沢で育った評者(宮崎)にとっては『郷土の英雄』だった。おなじく石川県出資の作家・杉森久英が辻政信の小説を書いた。 その軍人としての闊達なほどの人生は波瀾万丈、しかも戦後はベストセラーを書いて国会議員を務め、ラオスで消息を絶った。

伴野朗、宮城賢秀らの作家も、辻をモデルに冒険小説を書いた。
本書は、そうした庶民的人気の高い辻政信の虚像を、CIAなどの新しい証拠を並べて実像を暴き出し、地獄の底にたたき落とすほどの破壊力を持っている。  

まさに新角度からの分析であり、意表を突かれる新資料が網羅されている。
すなわち辻は関東軍の一介の参謀でありながら無謀な軍事作戦を好み、部下に畏怖され、大量の犠牲を怖れずに滅茶苦茶な作戦要項を発令した。しかもそのうちの幾つかが偽の命令書だった。

シンガポールでは華人虐殺を命令し、ノモンハンでも強硬派、そして大東亜戦争で日本の敗色が濃くなるとさっと身を翻して、あろうことか敵の蒋介石の代理人として南京へ赴き、戦後パージが解かれ裁判に引っ張り出される心配が消えるやいなや、こんどはCIAにも接触し、あげくに法螺話をまとめた伝記を発行したらベストセラーとなり、その人気を背に衆議院議員に立候補して連続三回当選。参議院一回当選。あげくのはて「アジア情勢の調査に行く」と言い残してラオスで僧侶に変装し、そのまま行方不明となった。

石川県で辻政信人気が極めて高かったのは、彼が戦後、アジアに身を隠していたと称した冒険的な逃避行を本当の話として受け取ったからだ。

ところが真実は、終戦前から蒋介石に投降する準備をし、いやそればかりか中華民国の利益のために、蒋介石の偽装親日演出を助言し、日本人に対して「仇に報いるに徳を以てなす」などという、史上空前の偽善を拡大宣伝した片棒を担いだ売国奴だったというのだ。

新発見のCIA資料を基にして、辻政信の行動と軌跡を改めて追求すると、従来の伝記や噂や第三者の証言と大いなる齟齬が発見される。

料亭に入り浸る高級将校を殴って日本軍人相手の高級料亭を放火したというのは本当だが、彼がそこまで軍人の綱紀粛正に走り、「女遊び」を嫌ったという病的な潔癖癖は、どうやら出生地が金沢でなく、山中温泉だったこと、色香と淫靡な温泉町の売春宿が環境だった辻は、はやくから故郷を抜け出すために、猛勉強したのも、この幼年期の精神的トロウマによるところが大きいと著者は指摘する。

そして次は病的なサディストの面を併せ持ち、やっかいなことに石原莞爾を尊敬しており、この点でまた病的に女遊びが嫌いな東条英機とウマがあった。

梟雄かと思えば「魔の参謀」だったというのが結論だが、しかし一介の参謀にすぎない軍人の暴走を止めることができなかった軍の全体の空気と、そのシステムの欠陥こそが問題ではないだろうか。

▼日本にとって問題は蒋介石が展開した世紀の欺瞞だ

さて今稿の後半部を、評者(宮崎)は辻政信よりも、むしろ蒋介石に光をあてて、この未曾有の詐欺師的な政治家の実態を対照してみよう。

蒋介石は日本に留学したほどで、だからといって「親日家」ではなかった。強く親日家を偽装した。それは孫文が親日を偽装すると民間の愛国活動家やら右翼の頭目たちがころりと騙されて、資金を貢いだからである。資金ばかりか愛人も世話した。蒋介石はそれをみていた。だから第一回の親日家演出をやって、日本に高く売り込んだ。

途中で米国に擦り寄り、米国から資金援助と武器援助にありつくや、日本は不要となった。このパターンは孫文をまねたもので、日本に何回も「亡命」して骨の髄まで日本からカネを搾り取りながらも、孫文は最後に日本を裏切ってソ連に援助を求めた。

蒋介石もソ連とは異様に親しかった。

日本軍は昭和十九年四月から大陸打通作戦を開始し、太平洋方面での惨憺たる敗北とは対照的に「河南省、湖南省、広西省にいたる1400キロの戦線で中国国民党を次々と撃破、洛陽、長砂、衡陽、桂林などの中国側の重要拠点を次々と陥落した。この会戦での中国軍(つまり蒋介石軍)の敗北ぶりのひどさ」ときたら史上稀なほどに無様であり、なにしろ寄せ集めの兵隊はまっすぐ歩くこともできず、援助をえるための「員数合わせ」、訓練も受けていない。

しかも蒋介石軍は米英から蒋介石援助ルートをつうじてふんだんに武器、食料を貰っていたにもかかわらず大敗北したのだ。

スティルエル将軍は軍事顧問として派遣されていたが、克明な報告を残しており、蒋介石軍の「一個師団は五千人を超えていない」「兵士は給料をもらえず、栄養失調と病気に悩まされているが、軍隊に医療班もない」「汚職がはびこっていて賞罰がひどく不公平である」「兵士達は商売にはしっている」「中国の赤十字は、ヤミ市場の本場である」

ルーズベルトは怒った。おおよそ現代の貨幣価値に置き換えると、十兆円ちかくを米国は蒋介石支援にあてた。「にもかかわらず、中国大陸で蒋介石は一度も日本に勝てない」
この状況の報告に米国はフライングタイガーの空爆を強化した。つまり、あの戦争は日本vs中華民国ではなく、日本vs英米軍との戦争であり、蒋介石は英米にすっかり信用を失って、ヤルタには呼ばれず、蒋介石不在のカイロ宣言も、あとから署名を強要されたほどだった。

▼するりと闘うべき敵と自分を引き入れる味方を入れ替える芸術的処世

蒋介石は、と著者は続ける。
「アメリカがもはや自分を見限ろうとしていることを、はっきりと意識した。彼はこれまでの政治的人生のパターンに従って、自分が闘うべき敵と、自分を引き入れるべき味方を入れ替える時期にきていることに気がついたのだ。ここから蒋介石のおそるべき単独行動が始まる」

そこで蒋介石は「貳回目の親日家」を演ずる必要に迫られた。
台湾に逃げ込んで、台湾支配は国際法上いささかの合法性もないのに、蒋介石の台湾支配を正当化するためにも、台湾経済復興のためにも、どうしても日本の援助が必要だった。
そこで演じられた世紀の芝居が「以徳報恩」である。

蒋介石にとっては徹頭徹尾、便宜的打算的である。最愛の妻を離縁してアメリカへ追いやり宋美齢と結婚したのは孔家のカネが目当てであり、宋美齢のキリスト教に便乗したのも、各地で蒋介石別荘をみればわかる。

キリスト教徒は演技である。わざとらしい礼拝室にマリア像がある。評者は、台北の陽明山でも南京や廬山の宋美齢別荘でも目撃したがマリア像がでんと応接室の中央に置かれていた。

蒋介石は利用する者はあくまでも利用した。だから利用しがいのある辻政信がタイミング良く登場するや国民党国防部から、共産党作戦計画に従事した。辻にとってもその歴史感覚に「愛国」の基軸にないことが、よく理解できる。

つまり帝国軍人参謀だった辻政信がある日、唐突に敵国の密使になっても感覚的に平気だったのは、武士道精神の虚実を老かいに使い分け、人間の最低限度の恥を超える、一種魔女的な要素を身につけていたのだ。その意味で蒋介石と辻政信は一卵性双生児のようである。

本書はラオスから忽然と消えた辻の、その後のルートを克明に追うが、それは本書を読む楽しみだから、この稿では書かないことにする。

蒋介石がなぜ「以徳報恩」演説をしたか補足しなくてはならない。昭和19年4月~19年劣勢な南洋戦線とは異なり帝国陸軍が行った大陸打通作戦で日本軍は大勝利し、国民党は大惨敗を喫してしまった。もはや多額の資金をつぎ込み日本軍と血みどろの戦いをしていた米国のルーズベルトはまともに日本軍と戦闘できない蒋介石と国民党を見限ることにした。

1943年11月22日に行われたカイロ会談には蒋介石が呼ばれたが、1945年2月4日11日のヤルタ会談にはもはや呼ばれなくなってしまった。ルーズベルトとチャーチルは中国に相談することなくソ連が満州から対日参戦することを決定してしまった。

蒋介石と国民党の本質は海外勢力から援助を引き出して生き延びようとする今の北朝鮮とまるで同じである。軍隊としても国家としてもまるでその体を成していなかった。

辻は日本に帰国して、厚顔無恥にも自分のことを正当化するベストセラー逃走潜伏中の記録「潜行三千里」を発表し「十五対一」などを発表、国民的人気を得て衆議院議員となった。当選4回、岸を批判して自民党を除名となった直後、参議院全国区に鞍替えして当選。この時期蒋介石のエージェントとして服部卓四朗らと組み、国民党の台湾防衛に旧帝国陸軍根本中将らを軍事顧問として送り台湾防衛に成功した。

戦後辻の悪行が次々と暴かれ始めた、1961年突如辻は参議院に対して東南アジアの視察を目的として40日間の休暇を申請し、4月4日に公用旅券で日本を出発した。

辻は北ベトナムでホー・チ・ミンに会うことを望んでいた。予定では1ヶ月程度の日程であったが5月半ばになっても帰国しないため、家族の依頼により外務省は現地公館に対して調査を指令している。辻はラオス入りを支援した旧日本軍兵士・現地軍将校が4月21日に目撃したのを最後に消息を絶った。その後の調査によって、仏教の僧侶に扮してラオス北部のジャール平原へ単身向かったことが判明している。

失踪の真相を巡って様々な説が主張された。虎か毒蛇に襲われ死亡した、アジアの政治に介入するのを恐れたCIAが暗殺した、ベトナムで反共義勇軍で戦って死亡などの情報が流れた。ラオスで消息を絶ってから9年後の1970年4月13日従軍カメラマンの楊光宇による証言によると、1961年4月に辻はパテート・ラーオに捕らえられ、「中国語なら少しわかる」という辻の申し出により、中立派軍からカンカイの司令部にいた従軍カメラマン楊が通訳にかり出された。

6月頃に楊は、脱走しビエンチャンへ向かうのに協力して欲しいと辻から報酬を引き換えに持ちかけられたが、ほどなく軍の命令により北京へ写真の研修に向かい、1962年3月にラオスへ戻った。カンカイには既に辻の姿はなく、パテート・ラーオの司令官や兵士からは「辻は逃げた」、「楊が北京に向ってから1ヶ月ほど経って姿が見えなくなった」などと言われ行方不明となった。その後辻は僧衣をつけていたことや軍歴・経歴からスパイと疑われ、フランス軍将校の関与により処刑されたという証言がある。

しかし、本書ではCIAが入手した情報が確度は低いとされながらも載っている。辻は中国共産党の懐に飛び込もうとして毛沢東に会いに行こうとした。
p189
①辻はビエンチャンに一度戻ることに成功したあと、雲南省の中国共産党過激派に誘拐され、雲南省に軟禁されている。

②中国共産党は、辻を思想改造したあと、エージェントとして利用し、党の戦略企画部長のポストを与えようと考えている。

③同時に、辻の身柄帰還について、日本政府と身代金などを取引きする用意も、中国共産党にはある
辻はかつて国民党と蒋介石に行ったように共産党・毛沢東の懐に飛び込もうとした。
そして共産党のポストを手に入れハノイに乗り込み今度は世界に対しセンセーショナルを巻き起こそうとしたと考えられます。これは著者だけでなく男の性はそう変わるものではないから、私(Ddog)もその可能性を考えていましたが、この著者の研究の足元にも及びません。引用します

p192-195
辻のラオス潜入は知人や周囲への偽装であり、彼はもともと、中国本土に向かうことを計画していたのではないだろうか。辻と中国共産党の共謀に、中国共産党の子分のパテトーラオが最初から加わっていた可能性さえある。

有馬氏はあくまで雲南省共産党の拉致ととらえるが、私は拉致というよりは、あらかじめ同意のあった連行であったと思う。

ホーチミンとの会談は、確かに彼の重要目的の一つだったかもしれない。しかし、中国国内に潜入し、中国共産党の戦略企画部長のポストに就いてからの方が、ベトナム和平工作は、はるかにセンセーショナルでスムーズにいく。ホーチミンとの会談という目的は二次的なものだったのだろう。つまりどの時点かはわからないが、辻は中国共産党と示し合わせることに成功し、それによって、中国に潜入することが辻の第一目的になったのではないか、ということである。

辻は、かつて終戦時、中国国民党に対して行なったと同じこと、その懐に飛び込むことを、中国共産党に対して今一度行なおうとしたということである。辻にしてみれば、ビエンチャンからの失踪は、終戦のときのあのバンコクでの失踪と同じものだった。

パテト・ラオはかつての重慶藍衣社であり、目指すところは重慶ではなく、雲南あるいは北京であった。謀略がすべて成功し、辻政信がかつての国民党でそうであったように、中国共
産党幹部になったとすれば、これはアジアだけでなく、全世界を揺るがすような大事件になったであろう。

辻はラオス行きの直前、大統領に就任したばかりのケネディに、中共の国連加盟をアメリカが推進することを要請する意見書を送っている(秦郁彦『昭和史の軍人たち』)。この時期はまだ、台湾政府は大陸反攻の意欲に燃えており、中共の国連加盟の可能性はまだ絵空事であった。にもかかわらず、辻は中国共産党に、自分の新たな野心を預けようとしたのである。

辻が今一度見ようとした見果てぬ「夢」

しかしそうした事態の読みは、あまりにも辻の独りよがりだったのであろう。まず辻と共産党との問には、かつての辻と蒋介石の間のような、長期間にわたって培った蜜月は何もない。大東亜戦争の時期全体を通じて辻、が幾度もつくった「手土産」を、何も持っていなかったのである。

辻は自著で、周恩来はじめ、自分が面会した中国共産党幹部の人格を高く評価しているが、共産党幹部への辻への態度はまったく表面的な装いにすぎず、毛沢東も周恩来も、蒋介石と違って、辻に対して根本的な信頼は、ほとんど持っていなかったと見るべきであろう。辻が中国共産党の「信頼」を得るためには、かつて中国国民党に対して行なったような時間をかけた、規模の大きい「手土産」の数々が必要ではなかったか。たとえば中国共産党員の政治活動をサポートしたり、党員の命を助けたりというような行動を、戦前・戦後の辻はまったくしていなかった。

またこのCIA文書に「改造」ということがあることが非常に気にかかる。いくら口八丁の辻であっても、思想改造されて自分を共産党的人間に変換することには(たとえ演技であったとしても)、さすがに激しいためらいがあったに違いない。ソビエト共産党や中国共産党の思想改造教育の過酷さは、辻が知っている日本の憲兵隊や特高警察の比では、まったくない。

私は、雲南省共産党のもとに庇護されるまで、辻の謀略は計算通りに進行したのではないかと思う。しかし思想改造の段階になって、辻と共産党の間に致命的な難敵が生じ、辻は客人から囚人へと待遇を変えられたのではないかと推測する。CIA文書も、雲南省に監禁されているという指摘をもって、辻に関しての記述は終わってしまっている。つまり、辻の命運は、雲南の地で、ついに尽きたと解釈すべきであろう。

同じ頃、雲南省からそう離れていない台湾では、蒋介石が、親日派への白色テロを繰り返しながら、次第に遠のく大陸反攻の可能性に絶望を感じていた。大陸に戻ることが絶望的になるにつれて、蒋介石の顔は、若い頃とは比べ物にならないような温和なものになっていった。世界の列強に依存しまくり、辻のような魔性を利用しまくる必要性から解放されたからだろうか。個人的な好みの問題をいえば、晩年の蒋介石の柔和な表情が、私はなぜか好きである。

蒋介石のもとにも、ラオスや雲南省での、辻の活動の情報は入っていたに違いない。自分の人生の暗黒部分に最もきっちりと付き合ってくれた日本人の最後の報に、安穏とした後半生を過ごしつつあった蒋介石は、いったいどのような思いを馳せたであろうか。
文章も読みやすく、是非本書を戦後史秘史として一読することをお勧めします。



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A級戦犯こそ靖国に相応しい 高山正之】        ジョージブッシュが日本を救ったより


日本の神様はいつも神社にいるわけではない、と柳田国男が『神道私見』に書いている。
神様は祭礼のあるときだけお渡りになる。神社の方も神様が場所を見間違わないように、目印に高い木などを傍に植える。ご神木と呼ばれるものだ。
ご神木がないところでは山から切り出してくる。これが「御柱」になる。
祭礼の準備が万端整うと神様はその前夜、つまり宵宮にやってくる。
そして氏子から初穂を捧げられ、酒肴のもてなしを受けて翌日、帰っていく。
この間、失礼があってはと緊張しきっていた氏子たちは神様を見送ったあと、ほっとして酒を飲んでどんちゃん騒ぎをする。これが「無礼講」である。

ただ、中にはお祭りのときにだけやってくるのではなく、いつも神社におわす神様もいる。八幡様だ。 奈良時代、仏教を信仰しその布教に努めた聖武天皇は全国に国分寺、国分尼寺を建立する。その本山、総国分寺が奈良の東大寺だが、聖武天皇はここに大仏造営を思い立ち、いつもいます八幡様にお願いをしている。
八幡様なら時間のかかる大仏鋳造の間ずっと見守ってくれるからだ。八幡様がいつも神社にいる、つまりそこで寝起きしている証拠に、八幡神社は枕をご神体にしている。

実は他にも常在型の神がいる。菅原道真のように人からなった神様たちだ。
迫真は藤原氏に疎まれ大宰府に左遷され、恨みを呑みながら死んだ。
その後に迫真を追い落した当の人物が急死したり、清涼殿に落雷があったりして藤原一門に次々と不幸が見舞う。「これは菅公の崇り」とみて藤原氏は神社を建ててその霊を慰めた。これが天神様だ。 
ちなみに道真の領地の桑原には雷は落ちない。 それで雷が鳴ると「桑原、桑原」と唱えれば雷に打たれないという言い伝えも生まれている。

 この説話でも分かるように人が神として祀られるのは無念の死を遂げた者たちの霊を鎮める、あるいはその崇りを封ずるためだ。
 無念の残る人たちには兄の桓武天皇に追われた早良親王、讃岐に流されて憤死した崇徳上皇などがいる。その霊は京都の御霊神社や各地に残る御霊塚に神として祀られている。

 文久二年、津和野藩士が幕末の騒乱の中、志半ばにして斃れた殉難志士の霊を祀る招魂社を建てた。これも同じ趣旨になる。
 そしてこれが東京遷都のおりに東京・九段に引っ越して靖国神社となった。
 戊辰戦争、さらに西南戦争に斃れた者が祀られていくが、西郷隆盛については南洲神社を建立、その霊を鎮めている。

 靖国神社にはその後、日清、日露戦争、そして第二次大戦での戦死者が祀られていった。 当然ながら、いかに武勲甲の士官、将軍でも畳の上で死ねば靖国には祀ってもらえない。ここは家族や祖国のために戦い、斃れた、つまり幸せな人生を断ち切られた者を神として祀り、その霊を鎮める所なのだ。

 日米戦争の末期、コーデルーハルは「日本をアジア解放に殉じた国と思わせてはならない」とルーズベルトに言った。大統領はそれを占領政策の柱にした。
 それが「War Guilt Information Program」。日本は侵略戦争を仕掛け、アジアを戦場と化し、残虐非道を働いた。そう日本人にも吹き込んだ。

 日本車は略奪し、女を強姦しまくったと、そのプログラムをまだ信奉する朝日新聞は書く。おまけに多くの女性を従軍慰安婦にして連れて歩いた、とも。
 米国みたいに強姦で済ませば有料の慰安婦は要らないのに。そういう矛盾も気づかない。

東京裁判ではハルの狙い通りに日本は我利我慾に走った侵略国家に仕立てられ東条英機ら七人は平和と人道に対する罪で死刑に処された。
 彼らは白人国家とその尻馬に乗った中国が着せた濡れ衣に二言の文句も言わず処刑台に立った。
 その無念を思えばA級戦犯者こそ靖国神社に最も相応しい人たちなのだ。
 王毅・中国大使がそれに文句をつける。日本通が聞いてあきれる。
 墓を暴いて死者を鞭打つお国柄とはいえ、そんな無礼な口をきいていると、大使よ、あんたが崇られるぞ。
                                (二〇〇五年二月十日号)
ゲストブックに韓国が嫌いだと言う韓国人HI ^ ^から投稿を貰ったが、その返答をした。だが、所詮チョウセン人、その反論に絡むわけではなく一方的に自己主張して結論を頂いた。

私の結論です。

急進的右翼。 
原子爆弾に対する高強度の羞恥心。
日本中心主義、閉鎖的な態度
2次大戦に対する合理化 
利己主義的日和見主義 
脱することができない中国韓国恐怖症 
急進的右翼を批判鋭敏に
いずれも中国工作員韓国人扱い。
両極端的の思考方式=原始人のレベル 
急進的右翼はないとし、自称保守主義。
日本人を下位に置いた発想だ。反発
被害意識。
国家はすぐ自分自身。
理由は原子爆弾に対する深い羞恥心
脱することができない歴史

私は日本と志向する点がほとんど似ています。
性格も似ています。 
韓国人たちは私を置いて日本人とみなします。 
それほど韓国人らと考え方が大きく違います。生まれなのかもしれません。 
日本人とほとんど同じと思うのでベスト友達だと思います。 
しかしあなたは反対します。私が考える日本は日本の左翼とあなたはありません。

たいへん失礼しました。 
お幸せに ^^


私は急進的右翼だそうです。(笑) いったいどんな人間で思想なのか?
彼は私の考え方が日本における少数派で多数派ではないと信じたいようだ。
残念ながら日本は韓国と断交もしくは国交謝絶すべきと考えるのは福沢諭吉以来少数派ではないことを理解できていないようだ。

(略)

シナ・朝鮮二国と日本との精神的隔たりはあまりにも大きい。(略)教育といえば儒教を言い、しかもそれは表面だけの知識であって、現実面では科学的真理を軽んじる態度ばかりか、道徳的な退廃をももたらしており、たとえば国際的な紛争の場面でも「悪いのはお前の方だ」と開き直って恥じることもない。


(略)

もはや、この二国が国際的な常識を身につけることを期待してはならない。「東アジア共同体」の一員としてその繁栄に与ってくれるなどという幻想は捨てるべきである。日本は、むしろ大陸や半島との関係を絶ち、先進国と共に進まなければならない。ただ隣国だからという理由だけで特別な感情を持って接してはならないのだ。この二国に対しても、国際的な常識に従い、国際法に則って接すればよい。悪友の悪事を見逃す者は、共に悪名を逃れ得ない。私は気持ちにおいては「東アジア」の悪友と絶交するものである。

まあ、馬鹿相手に時間を費やすほど暇ではない。
A級戦犯の合祀問題については保守派でも意見が分かれる問題ではある。
合祀は先帝陛下と相談してすべきであったし、憲法を改正するまではすべきではなかった、時期尚早であったこもしれない。しかしながら、祭神として合祀したからにはいかんともし難いだろう。

神道における概念で、神の霊魂は荒魂(あらたま、あらみたま)と和魂(にきたま(にぎたま)に分けられる。荒魂とは神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。

神道をある程度理解している日本人にとって反日日本人や韓国人達の靖國批判には我慢がならない。死者を鞭打つ文化を持つ中国は韓国の価値観を理解できないが、靖國は日本にあり日本人が持つ文化を侮辱することは許されない行為である。

硫黄島の英霊をなおざりにした国会議員 高山正之サンデルよ、「正義」を教えよう より

 硫黄島は東京の南、千三百キロのところにある。
 南端の摺鉢山から北の端までたった八キロのこの孤島に二万一千人の将兵が拠って米軍と戦った。
 米軍の硫黄島上陸は昭和二十年二月十九日たった。
 彼らは前年秋からほぼ毎日、爆撃機を飛ばして爆弾を降らせ、上陸前には丸三日間、一万五千トンの砲弾を撃ち込んだ。
 「生き残りがいるとしても、その処分は五日もあればいいだろう」と米軍は思った。
 しかし上陸した米兵は正確な砲撃で片端から吹き飛ばされていった。
 最初の三日間で米側の損害は千七百人に達した。ノルマンデイ上陸作戦のそれを上回る数字だった。
 ここを守る栗林忠道中将は地下に壕を巡らせ、将兵を潜ませ、砲も分厚いベトンで囲んだ上に砲台そのものを厚い土で覆って米軍の砲爆撃をしのいだ。
 上陸部隊を待っていたのはほぼ無傷の日本軍たった。
 ただその地下壕が凄まじい。今は海上自衛隊が管理する滑走路のすぐ脇に千田少将の壕が残る。垂直に三メートルの縦坑を降り、七メートルの急勾配の階段を下り、通路の先をまた数メートル降りたところに少将の部屋があった。
 壕内は地熱と水蒸気でじっとしていても汗が噴き出す。サウナに近い。
 実は硫黄島自体が活きている火山で、滑走路には噴出するガスを逃がす管が走り、間近に噴煙と熱水を噴き出す火口が望める。火山活動のため、島は年に一メートル近い隆起を続けている。
 別府温泉の地獄池の脇に地下壕を掘ったようなもので、千田壕では二年前、硫化水素が漏出して陸自の佐官が死亡している。
 栗林中将の壕も同じような熱気がこもる。正直、数時間でも耐えられるかどうかという感じだった。
 しかし二万一千人の将兵は米軍の予想を超えて一か月以上もここに拠って米軍を叩き続けた。
 飲み水もない、死に勝る苦痛に耐えて全将兵がなぜ戦い続けたのか。

 その理由を栗林中将が家族宛ての手紙に書き送っている。「ここを一日長く持たせれば (将兵の)家族が殺される日が一日先送りされる」
 米国の戦法はインディアン討伐が原型だ。まず滅ぼす相手の糧道を断つ。それでバイソンを皆殺しにした。戦士が決起すると、それを避けて銃後の家族の方を襲って殺した。
 米国のフィリピン制圧も同じ手法だ。植民地支配に抵抗するアギナルド軍二万将兵とは戦わず、彼らの故郷の田畑を焼き払い、彼らの妻子二十万人を殺した。
 対日戦でもまず、屑鉄石油の禁輸で糧道を断ち、日本が決起すると、兵士の待つ戦場を飛び越えて日本本土をひたすら爆撃した。
 ただ、爆撃するB29はテニアン辺りから飛んだ。硫黄島からもう一千キロ南だ。直掩(ちょくえん)するP51ムスタングの航続距離の外側になる。
 B29は裸で日本に飛んだ。絶対落ちない「空飛ぶ要塞B17」は大戦劈頭に零戦にあっさり落とされた。もっと無敵にした「超空飛ぶ要塞B29」も屠竜や紫電改にばたばた落とされた。
 百三十機が迎撃機に撃墜され、地上砲火を入れると四百機近くがやられた。
 B29を守る直掩戦闘機を飛ばすにはどうしても硫黄島が必要だった。
 言い換えれば、ここが落ちれば直掩機を伴ったB29が好きに日本を焦土にできる。硫黄島守備隊はだから飲み水もない蒸し風呂壕に拠って一日でも長く戦い続けた。

米軍はその壕に燐とガソリンを流し込んで兵士を焼き殺し、今の滑走路をその上につくった。二万将兵の半分がその下に眠る。
 天皇、皇后両陛下がそんな壕の一つを慰霊されたのは平成六年のことだ。それまで海自の宿舎に夜毎、兵士の叫び声や靴音が聞こえた。両陛下の慰霊のあと、それはぴたり止んだ。
 先日、社民党の照屋某らが普天間の追っ払い先にならないかと視察に来た。
 彼らはここが活きた火山島で、かつての戦場だったことを初めて知ってこりゃだめだとさっさと帰って行った。
 照屋らが壕を慰霊したとは聞いていない。輿石の推す教科書にはそんな歴史も作法も載っていないからだ。
                                (二〇一〇年四月八日号)
硫黄島の幽霊の噂 
栗林 中将の決別の電文の中の一首
国の為 重き努を 果し得で 矢弾尽き果て 散るぞ悲しき
※新聞発表では、「悲しき」の部分を「口惜し」と改竄の上、発表された。
今上天皇の返歌
精根を 込め戦ひし 人未だ 地下に眠りて 島は悲しき 

英霊の存在を感じる私達日本人にとっては靖國を侮蔑する人間は日本国籍であろうとシナ人やチョウセン人と同じ犬畜生だ!

ニューヨークタイムスやワシントンポストの反日リベラル新聞の靖國批判の理由は下記コラムを一読すれば理解できる。

欧米のジャーナリズムがグローバルスタンダードで正義だと勘違いする韓国人HI ^ ^君、理解できるかな?

威信回復は原爆投下で 【高山正之】
ジョージブッシュが日本を救ったより

二十世紀には「世紀の大事件」が随分あった。
まず思いつくのは、アポロ11号のアームストロング船長が月に降り立った。ライト兄弟が飛行機を飛ばした。
フレミングが抗生物質を発見し、人類は病苦の半分から解放された。
広島と長崎に原爆が投下された。
共産国家ソ連が誕生し、七十年で消滅した。その引き金となったのがベルリンの壁の崩壊だった。
ナチスードイツの四百万人ユダヤ人虐殺、いわゆるホロコーストがあった。
ENIAC、つまりコンピュータが発明された。
個人的な興味でいえばアルフレッドーウェゲナーの大陸移動説も面白かったし、意味は分からないけれどアインシュタインの相対性理論の発見もあった。 

そういうもろもろを眺めて「さて貴方はどれが二十世紀を代表する最大の事件だと思いますか」と米国の新聞博物館「Newseum」が二十世紀最後の年に全米のジャーナリストを対象にアンケート調査を行った。
同じ質問を当時、教鞭をとっていた大学の授業でもやったが、一位は圧倒的に「人類、月に立つ」たった。次がソ連の崩壊。共産主義という人類の悪夢が終ったことはやはり大きかったようだ。
ちなみに旧東独ではベルリンの壁が崩れたあと、偉そうにしていたマルクス学者どもが今はタクシー運転手をやっているとか。和田春樹みたいな勘違い学者がいまだに偉そうにしていられるのは日本と北朝鮮ぐらいなものだろう。

話をもどす。さて米国のジャーナリストが二十世紀最大の事件に選んだのは月でもソ連でもなく、なんと「原爆投下」で「それによって日本を降伏させた」ことだった。
「人類、月に立つ」はさすがに二番目にきたが、三番目には「日本軍の真珠湾攻撃」がくる。
以下ライト兄弟が四番目でナチのホロコーストは七番目。世界を対立と殺戮に追い込んだソ連の崩壊はやっと十三番目たった。
米国の知的階級がなぜ二十世紀総代に原爆投下を選んだのか。真珠湾がなぜライト兄弟やホロコーストより重大だったのか。

その答えはちゃんと歴史の中にある。
日本は二十世紀に入ってすぐロシアをやっつけた。産経新聞の連載「日露開戦から100年」には「ロシアは有色人種国家に負けた初の白人国家の熔印を押され、その恥辱がロシア革命につなかった」と書いている。
日本に負けた屈辱が欧州最強のロシアを滅ぼしてしまったわけだ。
日本は人種には無頓着だが、白人たちは違った。ロシアを他山の石として、日本の封じ込めを図った。最新の軍事情報も漏らさないのは当たり前。世界恐慌の際も日本の船を彼らの植民地から締め出したし、航空路もバンコク止まりで日本には乗り入れなかった。
しかし日本は耐え、こつこつ腕を磨いた。あのころの日本人はみなプロジェクトXたった。
おかげで日米の開戦時に、零戦に勝てる戦闘機は米国にもなかった。
それ以上に白人国家を恐れさせたのが第三世界の不服従たった。明らかに「日本」に刺激されたためで、従順の手本だったタイも好きにやられてきたフランスに宣戦し仏印に攻め込
んだ。しかし腐ってもフランス。タイが危なくなって日本が仲裁に入り、タイの顔をたてて
やった。昭和十六年の東京条約のことだ。
そして第二次大戦。英国は最新戦艦二隻をあっという間に失い、シンガポールも簡単に落とされてしまう。

オランダは日本に宣戦布告してきた国だが、いざ日本軍が攻め込むとすぐ降伏して世界一臆病な軍隊の不名誉を背負った。
米国は迂闊にも先制攻撃され、海軍力の大半を一瞬にして失った。白人史上初めてのことだ。
フィリピンのコレヒドール要塞も粉砕された。みんなそろってロシアの轍を踏み出してしまった。

その日本をなんとかやっつけられたのは米国だった。それも「下等な有色人種」には思いもつかない「太陽のエネルギー」(トルーマン大統領)原爆で降伏させた。
白人の威信を取り戻した原爆こそ二十世紀最大の偉業だというわけだ。
それから半世紀。抹殺したはずの日本は今回のサミットでブッシュの隣に立った。
小泉首相をでしゃばりとモノがよく見えていない日本の新聞はからかうが、プーチンやフレアは別の思いでこの事態を見つめていることを忘れてはならない。
(二〇〇四年六月二十四日号)




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イメージ 1

昨年「大本営参謀は戦後何と戦ったのか 有馬哲夫/著」を読んだ。ブログにUPしませんでしたが、こちらの本の内容も面白かった。本書は「大本営参謀は戦後何と戦ったのか」に登場する人物のうち服部卓四郎陸軍大佐を中心に描かれています。

イメージ 2大本営参謀とは服部卓四郎陸軍大佐、辻政信陸軍大佐、河辺虎四郎中将、陸軍参謀部参謀次長、有末精三陸軍中将、参謀部第2部長、辰巳栄一陸軍中将が、戦後に行った活動を、アメリカのCIAなどの公開された資料から解き明かしている。

戦前、組閣の大命を受けながら軍部の反対によって総理大臣につけなかった宇垣一成大将がキーマンである。吉田茂などとともに、戦争反対派としてGHQより信頼を受けていた。
そこでGHQは戦後、宇垣と取引をし、戦争犯罪を免じ、米軍の治安維持の協力、インテリジェンス活動を認める。

宇垣機関の下に河辺機関、有末機関、児玉機関(児玉誉志夫)、服部機関、及川機関などが活動していた。

秘録・日本国防軍クーデターの内容に関しては実にいろいろな方が紹介している。
私が書こうとしていた要約を掲載しているサイトを見つけたのでコピペします。

 2013.11.2村川 淳一
はじめに

これは今年の8月8日に講談社から出た単行本である。戦後旧軍高級将校らが、私利私欲からではなく、純粋な気持ちで国防軍を創設したいと願って行動するが、それに対し内務省出身者や一部の政治家たちが、自らの勢力の回復・維持・拡大などのために反対したことが述べられている。
服部卓四郎大佐(陸士34期:元参謀本部作戦課長)がGHQの目を逃れ、いかに必死で大東亜戦争史料を収集し隠匿したか、また、国防軍創設のために尽力したかなど、大佐の行動を巡る出来事が実に詳細に描かれており、警察予備隊、保安隊そして自衛隊がどのような経緯で成立したのかが、よく理解できる。証言記録も多数あり、説得力に富む。著者・阿羅健一は「20年間材料を温めてきたが、国防軍の創設が叫ばれるようになった今、初めてこれを世に出した」と述べている。

この本の最後に、自衛隊の上級幹部を独占していた内務省出身者が、服部らが作成した『大東亜戦争全史』に続いて戦史研究を続けようとする旧軍人の動きに対して、  
「敗戦に終わった大東亜戦争には学ぶべきなにものもない。戦史研究とはもってのほか」 と言って反対したことが書かれている。この事実からも、私は、内務省出身の素人幹部が形だけ自衛官の制服を身にまとい、偏った考えのもとに自衛隊を導いてきたのではないかという疑念を抱く。

防衛省は来年度から制服組も内局の重要ポストに就くことを検討しているようであるが、これまでの体制が改善されるのではないかと期待する。
本の標題の『日本国防軍クーデター計画』は、売り上げを伸ばすために講談社が付けたものであろうが、内容を読むと、実際にはクーデター計画はなかったことが分かる。戦史編纂のために多忙で余計なことは考えられなかった。この作品の概要と若干のコメントを記述する。敬称は省略する。

第1章 松本清張の最後の仕事「服部機関」

松本清張は、服部卓四郎と辻正信との交友関係、国防軍創設を唱えた服部とそれに反対した吉田茂との関係及びGHQ参謀第2部長・ウイロビー少将と強い繋がりがあった荒木光子を書こうとしたが、執筆を決めた十日後の平成4年4月13日に脳溢血で倒れ、8月に亡くなった。
服部はGHQの戦史編纂業務を任されていたが、裏でいわば『服部機関』を指揮して諜報活動をしていたのではないか、また、警察予備隊の総指揮官に予定されたが、なぜ実現しなかったかについても書きたかったそうである。服部は帰国当初から、新日本軍を国防軍と呼んでいる。
著者は、平成2年から4年にかけて、元参謀本部第二部長・有末精三(ありすえせいぞう)中将(29期)と元作戦課員・井本熊男(いもとくまお)大佐(37期)から服部について話を聞いており、平成10年に南京への団体旅行で偶然知り合った大谷一枝(おおたにかずえ)曹長からも服部の下で働いていたときの貴重な証言を得ている。さらに大谷からは、佐藤公貞(さとうきみさだ)曹長と谷内守男(たにうちもりお)という二人の下士官を紹介され、取材している。

昭和21年5月23日、歩兵第65聨隊(会津若松の部隊)長であった服部は、部下を連れずに一人で、辰巳栄一(たつみえいいち)中将(27期)らとともに大陸から帰国した。服部の帰国は、戦史編纂に当たらせるためのGHQの命令だった。服部は対米作戦について最も詳しかったからである。
復員省には史実部が立ち上げられていた。部長は宮崎周一(みやざきしゅういち)中将(28期)で、その下に天野正一(あまのまさかず)少将(32期)、細田 煕(ほそだひろむ)大佐、秋山紋次郎(あきやまもんじろう)大佐(37期。のちに第2代空幕副長)、和田盛哉(わだもりや)中佐、高木作之(たかぎさくゆき)中佐、原 四郎(はらしろう)中佐(44期)、岩越紳六(いわこししんろく)中佐(44期)、田中耕二(たなかこうじ)中佐(45期。のちに空将)、舞 伝男(まいでんお)中佐たちがいた。同じ史実部だが、別の部屋に堀場一雄(ほりばかずお)大佐(34期)と橋本正勝(はしもとまさかつ)中佐(45期。のちに北方総監)がいた。服部を呼んだのは堀場であった。服部、堀場は、西浦進(にしうらすすむ。のちに防衛研修所初代戦史室長で戦史叢書を編纂)大佐とともに、『34期の三羽烏』と称される秀才であった。服部は史実調査部員を命ぜられ、米軍の質問に答えるよう命令された。

第2章 焼かれていなかった機密資料

昭和20年8月7日、外務省は重要書類を焼却することを決め、14日の閣議で日本に不利となる機密文書の焼却が決められ、その日から外務省、大蔵省、陸軍省、海軍省、内務省などで焼却が始まった。こうして、明治以来の政府資料の多くが焼かれた。
それから8年後に服部著『大東亜戦争全史』が刊行されたが、そこには、大陸命(たいりくめい。大本営陸軍部命令)、大本営政府連絡会議決定事項などの多くが引用されていることが判明した。多くの有志が焼却したように装って隠蔽したが、大陸命は、清書係であった椎名典義(しいなのりよし)中尉が持ち出し、宮崎中将の命令で、参謀本部庶務将校の古野直也(ふるのなおや)中尉が8人のタイピストに複写させた。それは厚さ10センチで、30冊に及んだ。

10月には合衆国戦略爆撃調査団が来て、焼却を免れていた史料を発見し没収、昭和21年1月には、八王子に隠していた大日記(だいにっき。陸軍省大日記)も没収された。昭和21年5月に服部が帰国してからは、GHQが「史料を不当に隠匿している者は厳罰に処する」と言い始めた。史料収集は危険な作業になったのである。しかし、服部はひるまなかった。
大本営政府連絡会議議事録、重要国策決定綴、御前会議議事録などが見つかった。軍務課高級課員・山田成利(やまだなりとし)大佐の許可で、中根吾一(なかねごいち)少尉がドラム缶に入れ、八王子の自宅の地下に隠したものである。そして、それを原中佐が表紙を焼却し、偽装名を付して生家に隠した。服部はそれをもとに、戦争指導班にいた原中佐と橋本中佐に一大冊を作るように命じ、翌、昭和22年に東京裁判の清瀬一郎弁護人に届けられた。

その後、作戦に関する発来翰綴、上奏原文も見つかり、清瀬事務所で秘密裏に複写された。この間、史実部は史実調査部になっており、その後は資料整理部になった。因みに陸軍省は第一復員省になり、その後復員庁第一復員局となった。
昭和21年11月、服部は米軍に呼ばれ、大陸命と大陸指(たいりくし。大本営陸軍部指示)の複写の一部を見せられ、本文のありかを尋ねられた。なぜか復員局で最初に複写したものが流れていたのである。服部は「原本は焼却した」と答えるとともに、復員局にある原本は宮崎の松戸の自宅、写は杉並区にある兄の家に隠した。

前年の昭和20年11月、関東軍の特務機関の名簿提出を故意に遅らせているとして、復員局主任の山本 巍(やまもとたかし)中佐を逮捕しに来た米軍の憲兵は、出張中であった山本中佐の代わりに、人事課長の榊原主計(さかきばらかずえ)大佐を逮捕している。したがって、服部に協力する者はあまりいなかった。米軍の対敵諜報部隊隊員の尋問に遭ったこともあった。保管場所はめまぐるしく変わる。
服部は陸軍大学校教官の本郷 健(ほんごうたけし)大佐が自宅に隠していた史料を、本郷が中華民国の軍事顧問として台湾に渡る前に、すべて引き取った。大きなリュックを背負って歩いていた山下義之(やましたよしゆき)と大谷が闇米運びと疑われて警官に取り調べを受けたりした。

第3章 極秘・国防軍計画の全貌

敗戦から2週間目の昭和20年8月29日、首相以下7名から成る終戦処理会議において、近衛師団から選抜した4千名による特別皇宮警察隊の創設を決めた。禁衛府(きんえいふ)のもとに特別皇宮衛士総隊が置かれ、最後の近衛第1師団長・後藤光蔵(ごとうみつぞう)中将(29期)が禁衛府長官となった。また、近衛歩兵聨隊長が第1皇宮衛士隊と第2皇宮衛士隊の隊長となった。しかし、昭和21年1月4日、将校が公職追放となって衛士総隊の将校はいなくなり、下士官と兵だけになった衛士総隊は機能しなくなった。そして2月13日に戦争放棄の憲法草案がGHQから示され、3月26日、皇宮衛士総隊は皇居の護衛を皇宮警察に委託して解散した。日本再軍備の芽が摘み取られたのである。
しかし、服部は帰国後、一貫して再軍備の研究をしていた。井本大佐、堀場大佐、元支那派遣軍高級参謀の西浦大佐に声を掛け、服部、堀場、西浦の34期三羽烏が国防軍創設の核となった。そのほか、航空の水町勝城(みずまちかつき)中佐(41期)、軍事課の稲葉正夫(いなばまさお)中佐(42期)、戦争指導班の原 四郎中佐(44期)、ニューギニアから帰った田中兼五郎(たなかけんごろう)中佐(45期)にも声を掛けたが、彼らはいずれも陸大を優秀な成績で卒業している。井本と同じ第2総軍にいた山口二三(やまぐちじそう。のちに空幕防衛部長)少佐(49期)も井本から誘われた。

マッカーサーは戦争中から戦史編纂を進めていたが、昭和21年11月に参謀第2部長のウイロビーが新しい責任者になると、同部に50人から成る戦史課を設けた。そして、編纂作業を進めているうちに、日本側から見た戦史編纂の必要性から、昭和22年3月、有末中将に相談してきた。有末は、共に米軍との窓口となっていた海軍の中村勝平(なかむらかつへい)少将と相談し、元参謀次長の河辺虎四郎(かわべとらしろう)中将(24期)を長として有末と中村が加わり、服部と海軍の大前敏一(おおまえとしかず)大佐が主任に就くという案を提出したが、ウイロビーは、河辺、有末、中村を顧問とし、元東大教授の荒木光太郎(あらきみつたろう)を責任者とした。主任は日本案どおりとした。

編纂官は、陸軍からは史実調査部にいた者を中心に、杉田一次(すぎたいちじ。のちに陸幕長)大佐、原 四郎中佐、小松 演(こまつえん)少佐、曲 寿郎(まがりとしろう。のちに陸幕長)少佐(50期)が選ばれ、遅れて加登川幸太郎(かとがわこうたろう)中佐(42期)、太田庄次(おおたしょうじ)中佐、藤原岩市(ふじわらいわいち。のちに陸自調査学校長)中佐(43期)、田中兼五郎中佐が加わる。海軍からは大井 篤(おおいあつし)大佐と千早正隆(ちはやまさたか)中佐が参加した。戦史編纂の場所は日比谷通りの日本郵船ビル3階であった。
服部はここでウイロビーと仲良くなり、国防軍創設意欲を膨らませたが、ここの主任と市ヶ谷台の資料整理部長の両方掛け持ちとなり、忙しくなった。

第4章 GHQを手玉にとった女帝

服部がウイロビーの信頼を得ることになった要件の一つに、荒木光子の引きもあった。光子は東大農学部教授兼経済学部教授であった荒木光太郎の夫人である。光太郎は反マルクス主義であったため、戦後復活したマルクス主義の大内兵衛(おおうちひょうえ)に大学を追い出された。そして、昭和21年4月に日本商工会議所専務理事に就いた1年後に、戦史編纂の長となった。
光子は美人で男まさりであり、東條英機夫人の勝子とも親しい間柄であった。彼女は編纂の指揮を執り、経費の采配も振るった。ウイロビーと直接会えるのは光子だけであり、専用の車も持っていた。
いっぽう、民政局次長のケーディス大佐は、鳥尾(とりお)子爵夫人の鶴代(つるよ)と恋愛関係に陥り、日本人の中には、鶴代にケーディス大佐へのとりなしを頼む者もいた。しかし、昭和23年ころからは、日本弱体化政策から日本重視政策に変わり、ケーディスが進めていた民主化が見直されて、彼は帰国する。ケーディスは離婚し、鶴代の夫は亡くなり、代わりに莫大な借金だけが残った。

マッカーサーの忠実な部下であるウイロビーは、戦争放棄には反対しなかったが、「国家が軍隊を持たないことなどありえない」という考え方で、昭和24年6月、斎藤 登(さいとうのぼる)国家地方警察本部長や田中栄一(たなかえいいち)警視総監たちの前で、「日本は共産主義に対する防壁であり、軍備をここまで潰すことは、私は反対であった。これは連合国の一大エラーであった」と述べた。
また、辰巳中将は、昭和25年ころ、ウイロビーが、「講和ができたら米軍は撤退することになる。そのときは、日本は自分の力で国を守らねばならぬ」と明確に述べたと、著者・阿羅健一に証言した。マッカーサーに次ぐ地位の第8軍司令官・アイケルバーガー中将やマッカーサーの後任のリッジウェイ中将も同様の考えであった。

第5章 国防軍に集まった軍人たち

昭和20年12月1日に陸軍省が第一復員省になり(海軍は第二復員省)、省全体の采配を振るう文書課長に元陸軍省高級副官の美山要蔵(みやまようぞう)大佐(35期)が就き、総務局長に元軍務局長の吉積正雄(よしづみまさお)大佐が就いた。これが昭和21年6月に第一復員局総務部長となった際には、荒尾興功(あらおおきかつ)大佐が就いた。美山と荒尾は士官学校同期で、二人を中心に第一復員局が運営されていった。
また、陸軍省が廃止される前に、米軍の命令で陸軍省軍務局に史実部が設けられ、陸軍省廃止とともに、史実部は第一復員省の一部局となった。史実部は昭和21年6月に史実調査部となり、昭和22年5月に資料整理部となった。

ソ連は、昭和21年6月26日~8月7日の対日理事会で戦争調査会を取り上げ、これを解散させた。そして今度は12月2日の対日理事会で、「史実調査部など、復員と関係のない部課をただちに撤廃し、保存する書類はすべて最高司令部に差し出せ」と主張した。米国はやむを得ず、史実調査部の仕事を年内に終えるよう指示した。また、ソ連の批判をかわすために、将官を辞めさせることとし、後任の史実調査部長に服部が指名された。このときに籍を置いていたのは、次の幹部である。

34期:西浦 進大佐・堀場一雄大佐、37期:秋山紋次郎大佐、39期:岡田安次(おかだやすつぐ)大佐、40期:宮崎舜市(みやざきしゅんいち)中佐・安崎 操(あんざきみさお)中佐、41期:水町勝城中佐・山口英治(やまぐちえいじ)中佐、42期:幸村健一郎(こうむらけんいちろう)中佐、43期:藤原岩市中佐・渡部長作(わたなべちょうさく)中佐・田島憲邦(たじまのりくに)中佐、44期:橋詰 勇(はしづめいさむ)中佐・原 四郎中佐・高橋 晃(たかはしこう)中佐・神 直道(じんなおみち)中佐、45期:橋本正勝中佐・田中耕二中佐(のちに空将)・深谷利光中佐・神田八雄(かんだやつお)中佐、46期:岩野正隆(いわのまさたか)中佐・久野清之介(くのせいのすけ)中佐、47期:小村谷康二(こむらたにやすじ)少佐、49期:山口二三少佐。

やがて米軍からの要求が少なくなり、資料整理部時代から残っているのは、服部卓四郎、秋山紋次郎、水町勝城、原 四郎、橋本正勝、山口二三、顧問の堀場一雄、西浦 進くらいになった。彼らは国防軍創設を研究する私的集団の構成員でもあった。原、橋本、山口は、服部の戦史の検討、国防軍の研究及び『大東亜戦争全史』編纂に深く関わった。

第6章 旧陸海軍の対立

日本の軍事史料は、防衛省防衛研究所戦史研究センター史料室に収められているが、かつては、陸軍将校の親睦団体である偕行社(かいこうしゃ)にも貴重な史料が集められていた。平成に入って会員の減少が進み、偕行社は靖国神社に3万5千余の蔵書を寄贈し、同神社が元々持っていた1万5千余の蔵書と合わせて靖国偕行文庫として平成11年に開館した。
その中に『日本再建・再軍備方策の研究史料綴 復員庁史実調査部内(服部グループ)原 四郎』というものがあるそうである。反省として、その中に最初に挙げられているのが、陸海軍の対立である。海軍は日本の戦力が開戦後2年以内に米国の4割以下になることを予想し、早期決戦を敵に強要しようとし、陸軍は、資源を確保し、長期の戦争を遂行し得る不敗態勢を築こうとした。

ミッドウェイ作戦の実施は海軍が陸軍に伝えるだけで行われ、同作戦に敗れたのちも検討はされなかったし、海軍からガダルカナル島の救援を求められたときも、陸軍はガ島がどこにあるかも知らなかった。陸軍は太平洋の東正面は海軍担当と考え、この正面においては施策が控えめであった。
航空機の製造にしても、三菱と中島では陸海軍の工場は分かれており、技術者や機材の融通もなかったが、昭和18年11月1日に軍需省が設けられてから、生産が一元的に行われるようになった。

昭和23年2月に西独自治政府が成立し米ソの対立が激化すると、服部たちは第三次世界大戦勃発の危機感を抱き、『今後約十年に亘る内外情勢推移に関する観察』をまとめた。そして、ただちに部隊を編成できるように、国防軍指揮官の人選を始めた。その対象は士官学校30期代半ばから40期代半ばであった。そして、年齢、簡単な略歴、住所などを記した名簿を作成した。
昭和24年に入ると、秋山紋次郎大佐、浦 茂(うらしげる)中佐、田中耕二中佐が研究に加わった。また、議題によっては、岸本重一(きしもとじゅういち)大佐、杉山茂大佐、野尻徳雄(のじりとくお)中佐、藤原岩市中佐、白井正辰中佐、天野良英(あまのよしふさ)中佐たちが出席した。ただし、復員局で再軍備を取り上げることは禁止されていたために、美山要蔵や荒尾興功が加わることはなかった。

服部が昭和24年4月にまとめた『国防軍の中央機構(第一次案)』には、「国防軍は所謂国防軍であって、旧観念に依る陸・海・空の対立思想を完全に放棄したるものとする。従って其の機構も亦地上部隊、航空部隊、海上部隊を完全に一体化する如く簡素強力なるものとする」とある。また、昭和25年3月にまとめられた編制大綱では、「国防軍は空、陸、海の三軍より成り」と、空軍を最重視した。統帥権についても、「統帥は内閣総理大臣、内閣、政治の最高機関に帰属せしめる」とされ、軍事行政は文官大臣に任せ、空陸海に分けずに一人とした。

第7章 女スパイ・荒木光子の蝶報活動

昭和20年10月4日、マッカーサーは日本の体制を壊すために、民主化の名のもとに治安維持法を廃止し、政治犯を釈放した。それをやったのは、民間蝶報局と対敵蝶報部隊を指揮したソープ准将だったが、昭和21年5月に反共主義者のウイロビー少将が着任してからは、この二つの組織を掌握したものの、いったん解き放たれた共産主義者の動きは止まらす、各地でデモ騒ぎが起きた。
ウイロビー少将は荒木夫妻に日本共産党の調査を依頼し、荒木夫妻は服部に相談して、橋本正勝と水町勝城が直接任務に当たった。当時、ソ連から引き揚げてきた将兵は舞鶴で「スターリン万歳」をしてそのまま代々木の日本共産党に行って入党手続きをしていた。荒木光子はウイロビー少将の期待を一身に受けて活動した。


第8章 毀誉褒貶の軍人・辻正信

辻 正信(本書から)
服部は辻を高く評価していた。昭和14年5月のノモンハンの戦いでは、関東軍の作戦主任参謀が服部で辻は作戦参謀であった。ノモンハンから2年後、参謀本部作戦課長の服部は辻を呼び寄せ、対米英戦の初戦で大勝利を収めるが、ガダルカナル戦で敗れ、作戦課長を解任された服部は辻と戦時中に会うことはなかった。
戦後辻は、国民党軍で対共産党軍の作戦指導にあたっていたが、幹部の汚職などに嫌気がさし、服部の誘いかけもあって辞職し、英軍の追及が厳しかったことから偽名で帰国、秘密裏に手紙のやり取りや自宅訪問をしたが、昭和25年1月に追及が解除となった。
辻は幼年学校及び陸軍士官学校を首席で卒業し、陸大においても御賜の軍刀を受けている秀才だが、毀誉褒貶の激しい人物であり、服部が辻を高く評価していたことについては、かなり疑問を感じる。
ノモンハン事件を引き起こし、陸軍内における下剋上の風潮を助長し、また、その後も科学的視野に欠け、精神力中心主義を捨てなかった二人は、私は同罪であると思う。
第9章 GHQ内部の対立

昭和25年6月25日に朝鮮戦争が勃発したとき、米国は南朝鮮にわずか500人の軍事顧問団を置いているだけであった。その頃、札幌・仙台、東京、大阪、九州には4個師団・7万5千人がいたため、急遽九州から先遣隊が出動するが、日本占領軍は戦闘部隊から警備部隊に変更されていたために、簡単に撃破された。そこで今度は、東京と大阪の部隊が派遣されることになる。

コートニー・ホイットニー(本書から)
当時の警察は、米国と同様に、国家地方警察と自治体警察に二分されていた。すなわち、市及び5千人以上の町村は自治体警察、それ以下の自治体は国家地方警察のもとに置かれていたが、それは日本の実情にそぐわないものであった。また、北朝鮮を支持する在日朝鮮人が数十万人いた。米軍が朝鮮半島に出たなら、日本共産党の蜂起、朝鮮人の騒乱、あるいは北方からのソ連軍の侵入という恐れが出てきた。
朝鮮戦争勃発から十日足らずの7月上旬、マッカーサーは独断で警察予備隊創設を決め、7月8日朝、日本政府に書簡を手渡した。そこには、在日米軍と同じ7万5千人から成る警察予備隊の創設と海上保安庁の職員を8千人増やすことが書かれていた。当時、警察官は全体で12万5千人いた。
現在のちょうど半数である。
岡崎勝男(おかざきかつお)官房長官と大橋武夫(おおはしたけお)国家地方警察担当国務大臣がホイットニー民政局長を訪問すると、国家地方警察と自治体警察は公安委員会の管理下とし、警察予備隊は政府直轄だという。また、警察予備隊は治安維持に当たるだけでなく、外国から侵略があればこれに対抗し、当面はカービン銃を持つが、将来は機関銃、戦車、榴弾砲を持つ。そのために軍事顧問団を派遣するという。
しかも、立法処置だと野党の反対などで時間がかかるため、政令でやるよう命令された。大橋は斎藤 昇国家地方警察長官に命令し、斎藤は総務部長の部屋を創設事務所とし、加藤陽三(かとうようぞう)総務部長に準備を命じた。因みに大橋武夫は同姓同名の中佐(39期)とは別人である。

米軍は、7月10日に文書を出した。「警察軍を9月15日までに創設し、3ヵ月後に4個の師団に改編して、抜けた米軍4個師団のあとを埋める」というものだった。ただし、警察軍では憲法草案に反するので、警察だと思わせるため、警察予備隊と称し、国家地方警察の募集に関わった参謀第二部公安課に管理させ、採用した者を国家地方警察管区学校で訓練させることとした。
ウイロビー参謀第二部長は、マッカーサー指令が出たその日、越中島の旧東京高等商船学校に創設準備の連絡室を設けた。第1騎兵師団が朝鮮に出兵した二日後に空き家となっていた。
警察予備隊創設に当たり、まずやらなければならないのが、幹部の人選であった。追放されている将校は採用できないが、専門家がいなければ、軍隊が烏合の衆になってしまう。実は、これより先の昭和20年9月18日、海軍省軍務局に掃海部が設けられ、田村久三(たむらきゅうぞう)大佐が部長に就いて、1万9千人・391隻の掃海部隊が活動していた。海軍省が廃止されると第二復員省、さらに第二復員庁復員局、運輸省海上保安庁と改編・縮小され、800人の将校は92人になって活動したが、この実績から、「警察予備隊に軍人を使うのは当然」と考えられた。

警察予備隊の育成・指導は、参謀第二部がやるのか参謀第三部がやるのか問題になったが、偽装のため民事局がやることとなった。ただし、採用の実権はウイロビー少将が握った。ウイロビーは服部を総指揮官に決め、中枢の人選を服部に任せた。突然のことであったが、服部は承諾し、国防軍の研究をしてきた者を中枢要員として推薦した。西浦 進、堀場一雄、井本熊男、和田盛哉、水町勝城、原 四郎、橋本正勝、田中兼五郎、山口二三らである。すべて陸士・陸大を優秀な成績で卒業し、陸軍の中枢で働いてきた者ばかりであった。
次いで、中堅指揮官の人選に入った。すでに3千名の名簿が準備されていて、それから500人を選んでウイロビーに提出した。部次長のブラットン大佐、公安課長のプリアム大佐も、服部らの登用に向けて動いた。ブラットン大佐は、昭和12年12月6日に解読した暗号電報によって真珠湾攻撃の危険を察知し、マーシャル参謀総長に知らせようと秘書官のスミス大佐に情報を渡したが、なぜかそこに留め置かれた。スミス大佐は中将にまで昇進するが、ブラットン大佐はそのまま留め置かれた。

昭和25年7月17日、警察予備隊の大綱がGHQから政府に示された。拳銃や小銃を持つ治安警察隊で、全国を四管区に分け、本部長官が統括するというものであった。この日、関西と関東の米軍が朝鮮半島に上陸し、残るは札幌・仙台の師団だけとなって、警察予備隊の編成が急務となった。また、18日には、軍事顧問団長・シェパード少将が岡崎と大橋に首脳人事を急ぐように要求した。そして20日、政府は香川県知事の増原恵吉(ますはらけいきち)を警察予備隊の本部長官に内定した。また、服部は制服組の長に内定し、いつでも主要幹部を招集できるよう、準備した。

ところで、警察予備隊創設の準備を進めていたのは内務省出身者であった。内務省は「官庁の中の官庁」といわれ、大学で最も良い成績の者が入った。警察を扱う警保局、地方行政を扱う地方局、河川や道路を扱う国土局などに分かれ、絶対的な権限を有していた。しかし、陸海軍が解体されると、次は内務省が睨まれ、昭和20年10月には、警保局や警視庁の特高(とっこう。特別高等警察)が廃止され、内務大臣以下各県の警察部長までと特高課員全員が罷面された。
さらに、昭和21年1月には公職追放令が出され、地方局の主要官僚が追放された。追放された者たちは、血眼になって新たな地位を求めた。そして、外部に対しては結束するが、内務省出身者同士では激しい地位獲得のための争いもした。そこで大橋は服部の任用に対し、「旧軍人をパージ解除して使うことは許されない」と言って反対した。増原、加藤も大橋とともに反対した。占領軍の中でも意見が分かれた。
警察改革について、警察を監督する参謀第二部長・ウイロビー少将は、従来の中央集権的機構を残そうとしたが、遅れてマッカーサーの配下に加わった民政局長・ホイットニー准将(戦前、フィリピンで弁護士をしていたとき以来、マッカーサーに好かれた人物)は、米国のように、二つに分けて公安委員会に任せ、政府の関わりを弱めようと主張し、マッカーサーの承認を勝ち取った。実はこれより先、公職追放のやり方で二人が争ったときも、ホイットニーが勝っている。
次に警察予備隊で三度目の対立があった。昭和25年7月8日、ホイットニーは岡崎官房長官に、「警察予備隊は普通の警察ではない。内乱や外国からの侵略があったとき、それに立ち向かうべきものだ。だから警察予備隊の隊員には、さし当りカービン銃を持たせる。将来は大砲や戦車を持つことになろう」と述べ、ウイロビーには、「予備隊は軍隊ではない。治安部隊だ。日本民主化推進のためにも、公職追放中の元軍人を採用すべきではない」と主張した。吉田首相は増原たちの意見を採用しホイットニーと手を組み、ウイロビーと対立した。

昭和25年8月9日、服部はシェパード少将から呼び出しを受け、自分が召集した西浦、堀場、原、橋本、山口らと越中島に行ったが、示された内容は「旧軍人を不採用とする」というものであった。服部は「事態は変わったようです。私は手を引きましょう」と宣言し、椅子を蹴って会議室から退出したが、堀場、原、橋本は激高し、堀場は「吉田なんか斬り殺してしまえ」と叫んだ。事前の吉田からの直訴もあって、マッカーサーは「当面、正規将校は使わない」という決心をしていた。7月上旬に国防軍創設の動きが始まったが、早くも一ヵ月後にそれが潰えたのであった。

(第1回了)
第2回目がUPされたら その3に追記する予定です。

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ノモンハン事件の作戦を立案し、戦後は連合国軍による占領下という制約がある中で、秘密裏に膨大な資料を集めて「大東亜戦争全史」をまとめた服部卓四郎。毀誉褒貶(きよほうへん)の激しいこの人物の実像に迫り、さらに本当の主権回復のため国防軍創設をめざし画策したとされるクーデター計画の真相にも肉薄している。

戦後史最大の謎の一つを、多数の関係者へのインタビューで明らかにしようと挑んだ労作。GHQ(連合国軍総司令部)とそれを取り巻く人々の群像劇はスリリング。戦争とは何か、国家とは何か、敗北とは何かと考えさせられる。(講談社・1995円)
本当にあったのか? 戦後のワンマン吉田首相暗殺計画。クーデター計画を練り上げたのは嘗ての参謀本部の逸材たちだった。

<<阿羅健一『秘録・日本国防軍クーデター計画』(講談社)>>

ノモンハン事件を「敗北」と総括してきた左翼の歴史家は、そのときに作戦を立案した辻政信と服部卓四郎を「愚将」と罵倒した。ところがソ連崩壊後、夥しい機密書類がモスクワからでてきた。ノモンハンは日本が勝っていたか、すくなくとも辛勝したことが、いまの歴史で常識となっている。

辻政信は戦後パージが解けるや、『潜行三千里』ほかのベストセラーを書いて戦後の人気者となり衆議院議員、参議院議員を務めた。参議院議員の現職中、国会に四十日間の休暇届を出し忽然としてラオスへ赴き、僧侶に変装してジャール平原で消息を絶った。パテトラオに処刑されたらしいとされた。

しかし、辻は「死に場所を探していたのではないか」と本書は示唆する。

理由は親友だった服部卓四郎の死である。服部は戦後、『大東亜戦争全史』を編纂した中心人物であり、いちどは参議院に出馬準備も整えたことがあった。

この克明な記録は歴史家の仕事でもあり、占領下の作業だった。ともかく辻政信と服部卓四郎は毀誉褒貶が激しい。

しかし服部の生涯には「謎」の部分が多く、とくにGHQとの関係や、GHQに出入りした女性らとの関係もすっきりしない所があるとされていた。

松本清張も、この謎に挑もうとして文春編集部に資料を集めさせていた。編集部員は、じっさいにビエンチャンへ飛んだ。資料集めが佳境となり、いざ書き始めようとしたとき、松本は脳溢血で仆れた。

とりわけ最大の謎は服部、辻、そして背後に児玉誉士夫らがいたとされた、クーデター計画である。警察予備隊、保安隊などと微温的な占領政策の変遷の下、服部らは本当の軍隊を創設しなければ主権国家の回復はならず、と関係者をまわっていた。強引にこの計画をつぶしたのは吉田茂だった。

「国防軍計画は吉田首相によって阻止され、日本は独立を果たしたが、国防はないがしろにされた。このため、服部だけでなく、旧軍人のあいだにも、吉田首相に対する反感が相当募ることになった。こうした昭和二十七年十月、服部たちのクーデター計画が米軍の情報網にひっかかった。三ヶ月前の七月、服部たちは吉田首相を暗殺して、鳩山一郎と首相にそえる計画を立てたというのである。それに対して辻政信が『今はクーデターを起こす時ではない』と説得、服部たちは思いとどまった、と情報は具体的でもあった」(本書391p)。

噂だけが一人歩きしたのが真相で、しかも出所を辿ると、中国の偽情報に行き着くとされた。この戦後最大の謎に本書は挑んだ。

杜父魚文庫
目次
第1章 松本清張の最後の仕事「服部機関」
第2章 焼かれていなかった機密資料
第3章 極秘・国防軍計画の全貌
第4章 GHQを手玉にとった女帝
第5章 国防軍に集った軍人たち
第6章 旧陸海軍の対立
第7章 女スパイ・荒木光子の諜報活動
第8章 毀誉褒貶の軍人・辻政信
第9章 GHQ内部の対立
第10章 吉田茂という名の壁
第11章 内務官僚の大罪
第12章 警察予備隊か国防軍か
第13章 『大東亜戦争全史』の秘密
第14章 史実研究所の狙い
第15章 再軍備の日

服部機関
http://ww1-danro.com/bio-photo/hattori.JPG服部卓四郎(1901~1960)
秋田県出身。仙台陸幼、陸士34期。陸大。関東軍参謀。1939年、参謀本部(大本営)作戦課長。

日本に来た米軍は、ポツダム宣言履行を保障占領するために来た。米軍は日本に総司令部(GHQ)を丸の内の第1生命ビルに設置した。このビルは東部軍司令部が設置されていた。

GHQに参謀2部(G2)があり、部長はウィロビー(Charles Andrew Willoughby)中将であった。ウィロビーにつけたマッカーサーの綽名は「私のファシスト・ペット」であった。ウィロビーの担当は「情報」であった。ただし朝鮮戦争のさい「中国軍鴨緑江渡河」の情報を握りつぶしてマッカーサーに渡さなかったことで有名である。

ウィロビーは終戦直後から帝国陸軍参謀本部作戦課に異様に興味をもった。終戦時参謀次長であった河辺虎四郎の「河辺機関」と服部卓四郎の「服部機関」をつくった。つまり占領経費と支払われる日本の国家財政から給与を払って雇ったのだ。そもそも保障占領業務からの重大な逸脱であった。

終戦時、支那派遣軍の第13師団歩兵65連隊長であった服部卓四郎を急遽復員させ、そのうえ「追放」(陸海軍将校全員が対象であった)の例外とした。

服部機関の大多数はGHQ歴史課に所属し、米国から見た太平洋戦史編纂(へんさん)の業務を担当した。東京・丸の内の郵船ビルで、第一復員局(旧陸軍省の後進の第1復員省の後身)の史実調査部長にも任命された服部卓四郎元大佐が兼務で勤務することになった。

服部機関は西浦進や堀場一雄ら十数人の元陸軍参謀将校が活動した。ウィロビーのこの危険な人事について、

「占領軍の方でも、日本を占領してから、戦争中のことをいろいろ聞くために、特に作戦関係、軍を動かすことについては服部さんは欠かすことができないと考えたようです。それで特別指令で服部を早く戻せと呼び返した」(大嶽秀夫編『戦後日本防衛問題資料集』)

殺吉田

昭和25年(1950年)9月、国会で社会党の猪俣代議士は、大橋法相にクーデター計画があるのではないかと迫った。

「朝鮮事変以来どうも何となく世間の風潮が、また終戰前のような空気がただよつているような感じをわれわれは持つのでありまして、ことに昨日も申しましたが、いわゆる辻参謀の名をもつて聞えております辻政信だとか、あるいは海軍中将でありました小林省三郎だとかその他今申しました三浦義一氏だとかいうような一派が、どうも最近猛烈に活動をやつているのじやないか。

これは昨日も特審局長に言つたのでありますが、新潟県下におきまして最大の発行部数を持つております新潟日報の紙上に、この辻政信が朝鮮事変前に現われて、士官学校の卒業生を全部集めて、われら立つべき時が来たというような演説をやつたということもあるのであります。

かような人物、これこそ国家を破壊すべき重大なる人物であると思うのでありますが、かような人物に対しての特審局の調査、監督ということが、どうも手ぬるいのじやないか。かような右翼の浪人、その他の軍人上りの連中の動向に対していかなる関心を持つてこれを指導されておるか、法務総裁の御決心のほどを承りたいと思うのであります」。

昭和25年のクーデター未遂事件は元大本営陸軍部作戦課長の服部卓四郎が計画したものである。海軍の小林省三郎(元霞ヶ浦航空隊長)をかつぎ、三浦義一から資金を得ようとしたもので、じっさいある程度進行したようである。小林は十月事件でも海相にかつがれており、余程かつぎやすかったのであろう。

三浦は、日本発送電9分割問題をめぐってGHQの間を周旋し、大金を得たといわれる。日本発送電とは国家総動員体制の下で、1938年、民営電力会社5社(東京電燈・日本発電など)が合同国営化されてできた。このとき配電局が全国9ブロックにつくられた。GHQは三浦と一緒になって、日本発送電を9分割し、かつ配電局をそれにくっつけたのである。現在の9電力(沖縄を加えれば10)地域独占体制の始まりで、電力・電灯料金高止まりの原因をつくった改悪であった。

『やまと新聞』の後身の『新夕刊』のオーナーでもあった(そのあと『国民新聞』となり、現在『東京スポーツ』)。編集局長は林房雄、尾崎士郎が文芸部長、吉田茂の息子で英文学学者の吉田健一は渉外部長であった。

6月、朝鮮動乱が勃発し、スターリンと毛沢東から後方攪乱のため武装蜂起を要求された日本共産党は、四全共を開催し、「武闘方針」を決定した。志田重男が「軍事委員長」になり、神楽坂の料亭に流連して、2300ともいわれる山村工作隊へ指示を出した。共産主義者が、戦前軍部の跳ね上がり分子の真似をして料亭革命家を志した(志田はそのあと、党費横領の嫌疑で除名された)。時局は騒然としていたのである。

日共の「武装蜂起」方針は、近藤栄蔵の下関料亭豪遊で始まり、志田重男の神楽坂の料亭流連で終了し、そのあと2度と試みられることがなかった。橋本欣五郎から服部卓四郎のクーデターも、この日共の武装闘争方針に対抗しようとしたものではなく、補完をなすものであった。社会主義が歴史の中で姿を消すと両方ともなくなった。

昭和23年に帰国した辻政信は、『潜行3千里』がベストセラーになり、一躍時代の寵児となった。辻はかつて服部卓四郎に愚直にまで仕えていた。服部は戦後、生活のためかGHQのウィロビー機関に職を得ており、朝鮮動乱勃発とともに警察予備隊をつくるため、旧軍将校に声をかけた。この時期と辻の「われら立つべき時が来たというような演説」をした時期は一致する。ウィロビー機関には河辺虎四郎や辰巳栄一もいて、こちらも同様の活動をしていた。吉田茂はとりわけ辰巳に信頼を置いており、服部を排斥した。

服部と辻は昔の作戦課のコンビを復活させ、警察予備隊への就職とバーターで、「殺吉田」「服部元帥」を認めさせようとしたのであるが、資金で吉田とも親しい三浦を頼みにするくらいで、情報は吉田側・米軍側に筒抜けであった。

最後は、辻政信が旧軍将校が笑うだけであったのをみて、昭和27年7月、服部卓に引導を渡し、やめさせたという。

吉田茂ら服部卓四郎「参謀総長」案を拒否

服部や有末精三ら旧陸軍グループから、警察予備隊復活後も服部を「参謀総長」のようなポストにつけよとの要求が、吉田茂首相の手に数多く届けられた。これには吉田も激怒した。吉田は「決して旧軍指導部を寄せ付けるな」と洩らした(『サンデー毎日』2010年6月27日号、保坂正康「第12部「最大の官僚機構、内務省、陸軍省、海軍省解体の日(22)」)。

旧内務官僚の海原治と後藤田正晴は、これを断然拒否した。後藤田は、

「旧軍の作戦部門にかかわった参謀たちは本来なら戦犯に値するといってもよい。今またGHQの力を借りて復活を図ることなど決して許さない」

海原治は、

「旧軍幹部はプロとして戦争に負けたのである。その失敗の責任者はもう新しい舞台に出てこなくていい」

と証言した。海原も後藤田も非常な官僚目線の人物であって、国益を中心に考えたとはいえない。多分に内務官僚支配の自衛隊を目論んだ感がなくもない。ただし「旧軍」ではなくて、戦時における権力集団、陸軍統制派と海軍条約派に置き換えてみれば、この見方が誤っているとはいえない。

こうして陸軍統制派残党の最後のあがきはあっけなく終了した。彼らは社会主義を信奉し、陸軍官僚による独裁体制を敷こうとし、海軍の提案になる「ハワイ作戦」計画に承認を与えた。ハワイ作戦の論理的帰結である島嶼作戦と海軍の敗北による補給の断たれた陸兵の無残な死を政治にかまけた結果、まったく見通すことができなかった。昭和25年のクーデターは政治的軍人の終わりの終わり、喜劇であった。

日本人義勇軍の結成

服部らの動きとは別に、朝鮮戦争開始直後の昭和25年7月ごろから、日本人によって義勇軍隊を編成し、米極東軍司令官(マッカーサー)の隷下に入り、朝鮮半島で戦う計画があった。米軍勝利を見越して、帝国陸軍を再建しようとするものであった。

服部らの動きはGHQのウィロビーに呼応したものであり、日本の内政をも支配しようとする陸軍統制派の考え方であった。河辺正三(終戦時航空総軍司令官)を総司令官に予定し、谷田勇中将、高嶋辰彦少将、堀場一雄大佐らが中心であった。

高嶋辰彦や堀場一雄は、統制派に属さず石原莞爾や皇道派に近かった。米軍隷下に独立した軍隊を組み込むことは米憲法に抵触する可能性があることとトルーマンの戦略は朝鮮戦争を局地に限定し、日本を安全地帯とすることであったから、朝鮮半島に派遣される日本人軍隊よりも日本にいてソ連や中国の侵攻を抑止する軍隊をより必要とした。

最終的には吉田茂の抵抗で、警察予備隊結成で落ち着いた。ただし、警察を牛耳る内務官僚と服部らを中心とする統制派軍人の同舟異夢で出発した。統制派には終戦クーデターを主導した竹下正彦らが含まれ、そのあと陸上自衛隊内部で複雑な人事抗争を惹き起こした。

警察予備隊については、規模をめぐって日米間で摩擦が生じた。

戦後秘史の類なのだろうが、吉田茂元首相の暗殺計画(未遂)があったと、参院議員の辻政信氏が教えてくれたことがある。昭和25年「潜行三千里」をサンデー毎日に連載して、一躍、時代の寵児になった辻氏だったが、昭和36年に旅行中のラオスで行方不明となり、消息を絶った。陸軍の高級参謀として服部卓四郎氏とともに”作戦の神様”といわれた半面、無謀な作戦指導をした張本人と指弾され、毀誉褒貶が分かれた人物。

辻氏は「吉田暗殺計画は、私が中止させた」と言って自慢した。権謀に憑かれたスタンドプレー男と思っていたから、辻発言をにわかに信じる気にはなれなかった。あまり気にもとめていない。ホラの類と思って調べるつもりもなかった。行方不明になった辻氏は、昭和43年に死亡宣告、やがて世間から忘れ去られた。

私の先輩記者に田々宮英太郎氏という昭和史の研究家がいる。存命していれば九十八歳の大長老だったが、二年前に亡くなった。亡くなる直前まで昭和裏面史を書いている。辻氏と同じ石川県の生まれである。

その田々宮氏が「権謀に憑かれた参謀 辻政信」という本を1999年に出した。これ以前にも「参謀辻政信・伝奇」(1986年)を出版している。戦時中の辻参謀の挙動については、いろいろと書かれもしたが、戦後、政界に出るまでの行動は、謎に包まれた部分が多い。田々宮氏はその謎の部分に斬り込んでいる。

昭和27年8月28日に吉田首相が抜き打ち解散の挙にでたが、GHQ追放令から解除されていた辻氏は、石川県第一区から衆院選に無所属で出馬して、6万4900票の最高点で当選している。田々宮氏によると辻氏を焚きつけたのは、自由党佐藤派の木村武雄氏だったという。これに反対したのは同期生の田辺新之大佐。「お前には政治家の素質はない。止めておけ」とズケズケ言われて、辻氏もその時は大人しく聞いていたという。

昭和29年11月に日本民主党が結成されたが、無所属だった辻氏はこの党に加わった。田々宮氏は松村謙三氏に私淑する人であったが、富山県福光町の旅館でドテラ姿で松村氏と懇談していたら、辻氏が現れたという。遙かな縁側に跪き、両手を前に揃えて最敬礼したので、ドテラ姿の皆が戸惑った。松村氏には慇懃な辻氏であったが、肌の合わない岸・佐藤兄弟には、噛みつく奇矯な振る舞いが多かった。

話は敗戦当時の外地に遡る。辻大佐は第三十九軍作戦主任参謀としてバンコクにあったが、その時に先輩に当たる林秀澄大佐と次のような会話を交わした。これは田々宮氏が林大佐から聞いた秘話。

辻大佐「日本の降伏後、東亜の盟主は誰ですか?」
林大佐「蒋介石だよ。蒋介石の反共作戦を援助すべきだ。ときに辻君。重慶に行かんか」
辻大佐「行きます」

八月十五日夜、タイの僧侶に変装した辻氏は七人の部下とともにメナム河畔の寺院に潜み、タイ脱出の機会を窺う。タイに英軍が進駐してきたのは九月二日。東南アジア軍の最高司令官・マウントバッテン元帥は「草の根を分けても辻参謀を捜しだせ」と命令を下していた。

開戦当時にマレー・シンガポール作戦を行った山下奉文中将麾下の第二十五軍にあって、作戦主任参謀だったのが辻中佐(当時)であった。英軍の防衛線を突破してシンガポールが陥落させたのだが、占領後、華僑の虐殺事件が発生している。英軍は虐殺の命令を下したのは辻作戦主任参謀とみている。

辻氏が英軍に逮捕されれば、軍事法廷で戦犯として処刑されるのは避けられなかった。そこで辻氏は運を天に委せて、蒋介石の懐に飛び込む挙に出ている。バンコクのスリオン街に重慶藍衣社の本部があったが、そこに単身で逃げ込んでいる。特務機関・藍衣社のボスは戴笠将軍。

支那派遣軍総司令部第三課長時代に辻大佐は、蒋介石の母堂の慰霊祭を行っている。奇怪な振る舞いなのだが、ご本人は重慶政府との和平工作を考えていたという。田々宮氏は第三課の兼任参謀だった三笠宮が、蒋介石の故郷の写真を持っていて「お母さんのお墓だけでも祀ってあげたいですね」と言ったのを、辻氏が聞いていて”法要作戦”を思いついただけと手厳しい。

だが逃げ込んだ藍衣社では、慰霊祭の殺し文句がきいたらしい。さらに「重慶に赴き、戴笠将軍及び蒋介石主席に会見し日華合作の第一歩を開きたい」と大風呂敷を広げたから、バンコクの藍衣社幹部たちは本気にして、二人の護衛をつけて辻氏のバンコク脱出を助けている。昭和21年3月19日に辻氏は、目的地の重慶に着いた。

しかし一番当てにしていた戴笠将軍が、五日後の24日南京で飛行機事故によって急死してしまった。蒋介石は辻氏とは会おうともしなかった。敗戦国の一参謀将校と国民政府を率いる蒋介石では格が違う。日華合作の第一歩を開くどころか、招かれざる客という扱いを受けている。

蒋介石政府は重慶から南京に還都し、辻氏も南京に送られて、一枚の辞令を交付されている。「史政信 国防部第二庁弁公 部長白崇禧」。第二庁は情報部門で、そこで一介の職員の扱い。昭和23年5月27日に辻氏は引揚船で帰国した。大陸では中華人民解放軍が延安奪回作戦に成功し、風雲急を告げていた。日華合作どころではない。

しかし辻氏の帰国は危険が伴った。占領下の日本では英軍の追及と監視が厳しいと思われた。皮肉なことに祖国に戻って、すぐ地下にもぐることになった。地下潜入を助けたのは服部大佐。旧高級軍人は、いずれもGHQ命令で公職追放処分を受けていたが、これを免れたグループがいる。

戦後政治の中で、吉田元首相と旧高級軍人グループの関係は、GHQ・G2(情報局)のウイロビー少将が絡んで密接であった。たとえば辰巳栄一元陸軍中将は吉田の腹心だったといわれる。辰巳中将の部下に服部氏がおり、ウイロビーの信任を得ている。

戦時中の服部大佐の経歴は、陸軍部内でも一頭地抜いている。昭和十五年に参謀本部作戰班長、昭和十六年七月に大本營陸軍部作戰課長となり、日米開戰からガダルカナル攻防作戰までを全般指導。

昭和十七年十二月にガ島作戰失敗の責任をとらされるかたちで 辻政信作戰班長とともに更迭されたが、辻大佐が以後 中央復帰が出来なかったのに比し、服部氏は東条首相・陸相秘書官兼副官の要職にとどまった。

まさに服部大佐は、辻大佐とともに日米開戦の作戦指導を行った中核人物。敗戦後、服部氏が第一級の戦犯として逮捕されても不思議ではない。第三師団長だった辰巳中将は歩兵六十五連隊長の服部大佐と同じ引揚船で中国から帰国している。まずに服部氏に戦犯容疑がかかるのは避けられないとみた辰巳氏は服部氏をかくまっている

やがて辰巳中将は在日米軍司令部に席を置いて、GHQ・G2(情報局)のウイロビー少将と親しくなる。GHQ側も服部氏らを戦犯として逮捕するよりは、有能な日本陸軍の高級軍人として、占領政策に協力させる方策に政策変更している。辰巳氏の働きかけがあったのではないか。

服部氏は第一復員局史実調査部長のポストを与えられ、辻氏も米軍の情報業務につくことを条件にGHQの庇護下に置かれた。これにより英軍の追及から免れることができた。ウイロビーの服部氏に対する信頼は絶大で、やがて情報網{服部機関」が作られ、旧軍の「服部グループ」が形成されている。

これらの動きは、米ソ冷戦構造が生まれ、朝鮮戦争が勃発するに及んで、GHQによる日本再軍備構想と並んで地下水脈で活発化されている。

自衛隊の前身となる警察予備隊の創設をめぐって、GHQ内部では、民政局(GS ホイットニー少将)と第2部(G2 ウィロビー少将)の対立があったのは、よく知られたところだが、ウィロビーはGHQの戦史編集局にいた服部氏を中心に約400名の幹部人選をしている。一方、ホイットニーは追放中の旧軍人の起用には消極的だった。

吉田内閣の内部からも、服部氏が予備隊幹部の人選にタッチするのは不適当という声があがった。「武官は服部が人選して新隊員を入隊させる」とのGHQ・G2の指示は、マッカーサーの裁定によって覆されている。吉田首相は宮内庁次長で軍幹部経験のない林敬三氏を警察予備隊の最高指揮官に据えた。

この決定にウィロビーや服部氏は不満を持ったに違いない。理解者だと思ってきた吉田首相に裏切られたという思いすら抱いた。吉田首相にしてみれば、GHQによる占領下にあったからウィロビーや旧軍人を近づけたに過ぎない。独立国になれば、違ったデッサンが必要になる。

ウィロビー周辺に集まった旧軍人グループは、辰巳氏や服部氏、辻氏だけでない。河辺虎四郎陸軍中将(敗戦当時参謀次長)、有末精三陸軍中将、中村勝平海軍少将らがGHQの戦史編集局の委嘱という形で参加した。いずれも旧軍主導による再軍備を目指している。これらの動きは、GHQやCIAの記録を保管する米国立公文書館の情報開示で少しづつ明らかにされている。

CIA資料によると、服部氏ら旧日本軍幹部の一部が1952年、国粋勢力に敵対的であった当時の吉田茂首相を暗殺しようとした際に、辻氏は時期を見誤らないよう諭し、計画の中止を説得したという・・・この情報は正しいものか、単なる噂の類か定かではない。

占領下ではGHQとCIAは、必ずしも良い関係になかった。とくにG2とCIAは犬猿の仲で、日本におけるCIAの活動は阻害されたという。またCIA報告がすべて正しいというものではない。情報開示で飛びつくと思わぬガセネタを掴まされることがある。

辻氏がいう吉田首相の暗殺計画は、こういう情勢下で一部の旧軍人グループの中で検討され、中心人物は服部氏だったのかもしれない。辻氏は吉田暗殺には反対したといったが、服部氏の名には触れなかった。この説を裏付ける日本側の証言は出ていない。

中心人物と目された服部氏は、昭和三十五年四月逝去、享年五十八歳であった。盟友を失った辻氏は翌年の昭和三十六年四月四日にエール・フランス機で羽田を飛び立った。ラオスの北東部に当たるジャール平原で殺害されたという噂を残して、消息は杳として分からない。
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歴史認識問題で、南京大虐殺があったとする人たちが必ず引き合いに出す夏淑琴名誉毀損裁判についてご紹介します。

2009年2月5日、南京大虐殺の生存者・夏淑琴(シア・シュウチン)さんが名誉毀損で東中野修道亜細亜大学教授及びその著書を出版した展転社を訴えていた訴訟で、日本最高裁は被告の上告を棄却した。これにより東中野教授と展転社に400万円の支払いを命じた一審、二審判決が確定した。6日、新華社が伝えた。 

南京大虐殺当時の情景を米国人牧師ジョン・マギー氏が撮影したというフィルムのなかに、住民11人が殺害されるシーンが収録されている。当時8歳だった夏さんはこの事件の生存者の一人。一方、東中野教授は展転社より出版した著書『「南京大虐殺」の徹底検証』で、フィルムの少女と夏さんは別人であり、証言はねつ造されたものと主張していた。 

夏さんはまず中国で東中野教授らを名誉毀損で訴えた。この裁判は2006年に結審し、夏さんの勝訴が確定した。また日本でも夏さんは提訴し、今回の最高裁で最終的な勝訴が確定した。(翻訳・編集/KT)


(九)一二月一三日、約三〇人の兵士が、南京の南東部にある新路口五番地の中国人の家にやってきて、なかに入れろと要求した。戸は馬というイスラム教徒の家主によって開けられた。兵士はただちにかれを拳銃で撃ち殺し、馬が死んだ後、兵士の前に跪いて他の者を殺さないように懇願した夏氏も撃ち殺した。馬夫人がどうして夫を殺したのか問うと、かれらは彼女も撃ち殺した。

夏夫人は、一歳になる自分の赤ん坊と客広間のテーブルの下に隠れていたが、そこから引きずり出された。彼女は、一人か、あるいは複数の男によって着衣を剥がされ強姦された後、胸を銃剣で刺され、膣に瓶を押し込まれた。赤ん坊は銃剣で刺殺された。

何人かの兵士が隣の部屋に踏み込むと、そこには夏夫人の七六歳と七四歳になる両親と、一六歳と一四歳になる二人の娘がいた。かれらが少女を強姦しようとしたので、祖母は彼女たちを守ろうとした。兵士は祖母を拳銃で撃ち殺した。妻の死体にしがみついた祖父も殺された。二人の少女は服を脱がされ、年上の方がニ、三人に、年下の方が三人に強姦された。その後、年上の少女は刺殺され、膣に杖が押し込まれた。年下の少女も銃剣で突かれたが、姉と母に加えられたようなひどい仕打ちは免れた。

さらに兵士たちは、部屋にいたもう一人の七、八歳になる妹を銃剣で刺した。この家で最後の殺人の犠牲者は、四歳と二歳になる馬氏の二人の子どもであった。年上の方は銃剣で刺され、年下の方は刀で頭を切り裂かれた。

傷を負った八歳の少女は、母の死体が横たわる隣の部屋まで這って行った。彼女は、逃げて無事だった四歳の妹と一四日間そこに居続けた。二人の子どもは、ふやけた米と、米を炊いたとき鍋についたコゲを食べて暮らした。

撮影者は、この八歳の子から話の部分部分を聞き出し、いくつか細かな点で近所の人や親戚の話と照合し、修正した。この子が言うには、兵士たちは毎日やってきて、家から物を持って行ったが、二人の子どもは古シーツの下に隠れていたので発見されなかった。

このような恐ろしいことが起こり始めると、近所の人はみな、難民区に避難した。一四日後、フィルムに映った老女が近所に戻り、二人の子どもを見つけた。彼女が撮影者[の私]を、死体が後に持ち去られた広々とした場所へ案内してくれた。

彼女と夏氏の兄、さらには八歳の少女に問いただすことによって、この惨劇に関する明確な知識が得られた。このフィルムは、同じころに殺害された人の屍の群に横たわる一六歳と一四歳の少女の死体を映し出している。夏夫人と彼女の赤ん坊は最後に映し出される。

0:58 銃の先のに日の丸が付いていたなんて・・・当時の皇軍が日の丸を銃の先に装着することなどあるだろうか?すくなくともこの部分からして証言の信憑性が低い。



イメージ 1
イメージ 2

P192-193
O「マギーの写真」④
「日本車が入城してきたとき、この家族は全員が日本軍に虐殺された。女性のうち二人がレイプされ、それから殺された。一人は実に恐るべき方法で」

「悲劇のあとの夏淑琴の家。彼女の家族とイスラム教徒の一家族は、子供や祖父母を含めると十三人になるが、日本車が雪崩れ込んできたとき、そこに住んでいた……
ジョンーラーベの説明によれば、兵士たちは夏淑琴の母と二人の姉をレイプしてから殺した。この情景は南京安全地帯国際委員会のメンバーであったジョンーマギー師がフィルムに収めた」(一八六頁)
この写真は生き残ったという八歳の少女(夏淑琴氏)と、現場にはいなかった隣人の老女性と八歳の少女の叔父からマギー師が聞いたという「夏淑琴氏の家族と家主一家の十一人の斬殺」の写真として使われていく。

マギー師がこの写真119に出ている「第一発見者」の「老女性」に案内されて死体を撮ったのは、フォースター師の記録(一九三八年一月二十五日)によれば、早くともマギー師が八歳の少々に初めて会った日、すなわち事件が起きたと言われる十二月十三日から1ヵ月半がたった一月二十五目のことであった。

それから約五十年、この写真の老女性と思われる「王芝如、女、七二才」が『この事実を……「南京大虐殺」生存者証言集』(平6)に出てくる。王芝如氏は「難民区に避難し」て「二十何日かして家に帰ってみたら」死体を発見し、「草々に弔い事を片付けた」と語ったあと、「夏淑琴、女、五五才」が「王芝如はわたしの叔母で、今言ったのはみんな事実です」三一五頁)と語っている。

この証言が正しいとすれば、そのとき(昭和十三年)二十四歳であった王芝如氏が「第一発見者」となり、マギー師を案内したことにもなる。しかし写真の「女性」は二十四歳には見えない。しかも死体発見後は早々に弔い事を片づけたと言われているのに、「草々に弔って片付けた」死体を写真撮影のために、事件発生から1ヵ月半後に、再び出してきたのであろうか。いずれにしてもマギー師は、この光景こそ市民虐殺の証拠として東京裁判に提出してもよかったのではないか。ところが、彼はそうはしていない。
簡単に言うと「南京大虐殺で生き残った少女の証言は信ぴょう性がない」と東中野教授が書いた本で名誉を傷つけられたとのシナ人の老婆の訴えに対し、東京地裁の三代川三千代裁判長は著者と出版社に400万円賠償しろと判決があった。
日本で出版された本の存在をシナ人の老婆が知るわけがなく、当事者だったかもしれないが、南京大虐殺を否定されたくない中国当局が裏で動いていることは誰の目からも明らかだ。老婆の頭の中は事実とプロパガンダの区別がつかなくなっていると思われる。

国家間の国益が絡むような事案にもかかわらず、三代川 三千代裁判官は単なる名誉棄損とする判断を下した判決は以下。
夏淑琴名誉毀損裁判において、東京地裁の三代川三千代裁判官は東中野の著書『南京虐殺の徹底検証』等における東中野の解釈について「東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」とし、東中野の夏に対する主張の核心部分である当事者性の有無について東中野の説は「真実性が証明され(てい)ない」と述べている。 wiki
南京虐殺があったとする伴天連爺さんの話を分かりやすくするために資料を提示しました。名誉棄損については敗訴は多少やむを得ない点もありますが、この判決が南京大虐殺肯定の論拠とするにはお粗末すぎる。

東中野教授の疑問は当たり前すぎて、三代川裁判官の言っている意味がまるで理解できない。
中国の対日宣伝を疑わない知能指数が低い左翼さん達はこの判決をもって、南京大虐殺はあったと、主張するが、私にはまったく理解できない。

夏淑琴が近くの老人に発見されたのは事件から10日後(フィルム解説では14日後)だという。暖房もなく血だらけの少女が厳寒の南京で生き延びたというのは本当だろうか?ずっと家に留まり残飯だけで生き残ったとする証言に疑問を持って当然だろう。

マギー氏の写真解説ではではフィルムに映った老女が近所に戻りと記されているが、夏淑琴は叔母王芝如に発見されたというが、叔母は当時24歳と推定できるのに写真解説と矛盾する。
夏淑琴の証言7:30あたりでは、あの写真は再現写真だと言い出す!!!
あの写真はラーベによる意図的な再現写真であって、証拠でもなんでもないと証言しているのだ!!南京虐殺があったというマギーフィルムの証拠写真はまた一つ捏造と言うことになり、夏淑琴名誉毀損裁判の判決はまったく不当ということになる。

国民党南京防衛司令官の唐生智は12月6日すべての城門を閉鎖した。このため城外の取り残された敗残兵は郊外各所の町や部落で略奪・放火などの自暴自虐の狂演を繰り広げるに至った。「南京事件」はすでにこのとき、支那軍自身の手によっておこなわれたものであり、夏淑琴一家は国民党の敗残兵か中国人の賊によって殺害されたと推測するほうが合理的だ。

12月8日に南京安全区国際委員会が、全市民に安全区に移るよう命令し、警察や支那軍による強制退去が行われ、12月13日には安全区以外の南京には誰も居なかったはずである。仮に12月13日の犯行だとしても、南京は前夜から本格的な戦闘状態に突入しており、南京入場直後日本軍は便衣隊掃討に忙しく、わざわざレイプ目的で夏淑琴一家を襲いレイプしている暇と理由がない。いちいち2人の中国娘を20~30人でレイプしながら中国人を惨殺していたならとても30万人を虐殺することなどできないだろう。レイプ目的なら一人の女性を10人単位でレイプせず、他の女性を物色すると考えるのが自然だろう。もし金品食料目的で侵入したのなら厳寒の南京で10日間生きながらえるだけの食料が残っているという夏淑琴の証言に疑問を抱くのが普通だろう。

東中野教授が疑問を持つのは合理的であり、夏淑琴名誉毀損裁判によって南京虐殺否定を否定する判決だと私には思えない。この判決が正しいと私は思えない。

伴天連爺さんが言う<東中野が誤魔化すことが出来ない写真>は、下の村瀬写真のことと思うが、日本軍が殺害したのではないと元第6師団45連隊第11中隊山砲砲兵指揮官(陸士47期)高橋義彦さんは証言しています。是非リンクを参照ください。

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もし、この写真ではないというならどの写真であるか指摘するべきではないかな?

それからこの記事も読んでどう思われえるかな?

伴天連爺さんは、かつて皇軍は悪逆非道の集団だったと懺悔することにより、自分は良心的な人間だと思いこんでいるのだろう。そのことで、己の魂を救いたいのだと思う。

東京裁判史観の反日日本人と中国安企部のプロパガンダを、自分の頭で考えて疑問を持たないというならば、一度脳のMRIで検査することをお勧めいたします。多分左脳ばかり血が巡り、右脳は壊死してるかもしれませんね。(笑)



この下のコメントは是非お読みください!南京大虐殺肯定派の怖いもの知らずの爺様がDdogに噛みつかれて自爆していく様が記録してあります。

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毛沢東は昭和39年、中国を訪問した社会党の佐々木更三、黒田寿男、細迫兼光らが、日本の皇軍が中国を侵略したのは、非常に申し訳ないことだとの謝罪に対し、
「何も申し訳なく思うことはありませんよ、日本軍国主義は中国に大きな利益をもたらしました。中国国民に権利を奪取させてくれたではないですか。皆さん、皇軍の力なしには我々が権利を奪うことは不可能だったでしょう。」(「毛沢東思想万歳」(下))
と、発言したことはご存じだと思います。

毛沢東も本気で皇軍に感謝しているのではなく、リップサービスで言っている部分もありますが、皇軍と国民党が戦わなければ共産党が国民党を打倒することができなかったのも事実です。

日中国交正常化の際に周恩来は「日本人民と中国人民はともに日本の軍国主義の被害者である」として、「日本軍国主義」と「日本人民」を分断するロジックを用いたのは事実だ。それは中国の対国内の日中友好条約締結反対派を説得する論理であって、日本に対し靖国神社にA級戦犯を合祀するなとか、何か日本に条件要求して日中平和友好条約を締結したのではない。日中平和友好条約には主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉が記述されている。中国側は賠償金請求を放棄する代わりに、日本側からODA等の巨額な経済援助を引き出した。日本側からの巨額のODAが今日中国の発展の礎になったわけであって、一方的に中国側から>日本国民も戦争の犠牲者である。赦してやれ!と、恩を着せられる理由はない。
満州事変で始まった、中国への侵略戦争???まったく歴史を知らず、東京裁判史観の洗脳から抜け出せない人は未だにそう信じているようだ。

内乱を繰り返し収拾がつかなくなった中国の統一を望む日本政府が中国に援助続けたが、中国の内乱に引きづりこまれ引くに引けなくなったというのが歴史の真実だ。第一満州はほとんど誰も住んでいない土地であり、中国の一部ではなく(一時的に中華民国の統治下に入っただけ)満州族の土地であった。

中国は、日中平和友好条約を無視し、主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉を無視している。そのことを正当化する為に、日本の軍国主義化などという屁理屈を言い立て、A級戦犯を合祀した靖国神社をやり玉に挙げているだけだ。

そもそもA級戦犯で靖国に合祀されたのは以下の14柱である。






少なくとも私が合祀すべきではないと思うのは、先帝陛下も絶句した松岡洋右、白鳥敏夫と木村兵太郎ぐらいのものであろう。

土肥原賢二
満州事変の後、市長の居なくなった奉天(現在の瀋陽)の臨時市長となり、運営経費を個人名義で借り入れた事もあった(後にこの借金の返済を巡って苦労することとなり、本人を含む家族は質素な家に住んだとされている)。そして、軍規に厳しく「中国民衆から徴発するな、部落を焼くな、女を犯すな」と言ったと片倉衷が述べている。

広田 弘毅
オランダのベルト・レーリンク判事は「広田が戦争に反対したこと、そして彼が平和の維持とその後の平和の回復に最善を尽くしたということは疑う余地が無い」と明確に無罪を主張している。
近衛文麿が自決していたために、文官の大物戦犯である広田は注目されていた。そんな中で文官で唯一の死刑判決に広く衝撃が走った。「戦争を止めようとしていた」という印象を国民の間にも強く持たれていた広田に対する死刑判決には、多くの疑問の声が上がった。占領軍の決定に対する反対運動などが皆無だった当時において、減刑するように全国から数十万という署名が集められた程である。また、死刑を求刑していたはずの連合国の検察側からですら判決は意外だったとの声もあり、最終弁論で「彼らは誰一人として、人類の品位というものを尊重していない」と被告人達に罵詈雑言を浴びせた首席検事のジョセフ・キーナンですら「なんという馬鹿げた判決か。どんなに重い刑罰を考えても終身刑までではないか」とのコメントを残している。

梅津美治郎
関東軍総司令官に就任したのはノモンハン事件の責任を取って植田謙吉大将が退いた後で、再三にわたり中央の統制を破って大事件を起こした関東軍参謀の粛正が求められたが、見事にその任を果たした。太平洋戦争中に関東軍が何の事件も起こさず静謐を保ったのは梅津の功である。後の東京裁判では、事件の直後(1939年)から5年間の間に関東軍の司令官を務めたという経歴が、前述の「梅津・何応欽協定」と共に最もウェートが置かれる事となる。
終戦時の御前会議では陸軍を代表して本土決戦を主張するが、個人的には本土決戦は不可能だと考えていたらしく、昭和天皇に本土決戦の準備が出来ていないことを明示した極秘資料を提示している。一部将校たちによる本土決戦を求めるクーデター計画を阿南惟幾陸軍大臣から知らされた際は絶対反対を唱え、計画を中止させた

東郷茂徳
東條内閣で外務大臣兼拓務大臣として入閣して日米交渉にあたるが、日米開戦を回避できなかった。鈴木貫太郎内閣で外務大臣兼大東亜大臣として入閣、終戦工作に尽力した。にもかかわらず戦後、開戦時の外相だったがために戦争責任を問われ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で禁錮20年の判決を受け、巣鴨拘置所に服役中に病没した。
東郷は剛直で責任感が強く、平和主義者である一方で現実的な視野を併せ持った合理主義者だったが、正念場において内外情勢の急転に巻き込まれて苦慮するケースが多かったと言える。

松井 石根

日中の友好のため生涯を捧げた軍人
この判決について、ジョセフ・キーナン検事は、『なんという馬鹿げた判決か!松井の罪は部下の罪だ。終身刑がふさわしいではないか』と判決を批判している。

石根は在学中に、川上操六の唱えた「日本軍の存在理由は東洋の平和確保にあり」という思想に感銘を受けたという。そのことは、後の松井の生涯に大きな影響を与えた。

日中戦争(支那事変)勃発前は予備役であったが、第二次上海事変が勃発すると軍務に復帰、上海派遣軍司令官として上海に派遣された。参謀本部と政府は上海事件の不拡大を望んでいたが、松井は上海近辺に限定されていた権限を逸脱して、当時の首都南京を攻撃・占領した。その際に南京攻略戦前に当時の中国の首都であった“南京攻略要綱”を兵士に徹底していたつもりであったが、南京戦後に、一部の兵士によって掠奪行為が発生したと事件の報を聞いたとき、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。しかし、後の東京裁判における宣誓口述書では、一部の兵士による軍規違反の掠奪暴行は認めたものの、組織的な大虐殺に関しては否定している[2]。 昭和13年3月に帰国。静岡県熱海市伊豆山に滞在中に、今回の日中両兵士の犠牲は、アジアのほとんどの欧米諸国植民地がいずれ独立するための犠牲であると位置づけ、その供養について考えていた

永野 修身
永野は裁判中、自らにとって有利になるような弁明はせず、真珠湾作戦の責任の一切は自らにあるとして戦死した山本に真珠湾攻撃の責任を押しつけようとはしなかった。また、真珠湾攻撃について記者に訊ねられても「軍事的見地からみれば大成功だった」と答えるなど最後まで帝国海軍軍人として振舞った。この裁判での姿勢を見たジェームズ・リチャードソン米海軍大将は真の武人と賞した。享年66。戦死ではなく病死ではあったが1978年、A級戦犯として絞首刑に処せられた東条英機らと共に法務死として靖国神社に合祀された。

武藤 章
近衛内閣末期に対米関係が極度に悪化、近衛首相は内閣を投げ出し同年11月に東条内閣が成立する。組閣に当たり天皇より開戦を是とする帝国国策遂行要領白紙還元の御諚が発せられ、東條首相も姿勢を改める。武藤はこれを受け、開戦に逸る参謀本部を制して最後まで対米交渉の妥結に全力を尽くした。
開戦後は戦争の早期終結を主張し、東條や鈴木貞一、星野直樹らと対立、1942年(昭和17年)4月にゾルゲ事件の発覚等により更迭され、近衛師団長となる。

東条英機、小磯国昭を含む上記の人達のどこが、軍国主義で 戦争を計画し、国民に強制した指導者だとお思いなのか?特に松井 石根大将にいたっては、日中友好に尽くした人物である。

東条英機も太平洋戦争に反対だった。戦争回避を努力していた人物だ、靖国神社に合祀された14柱について何も知らず、ただ単に戦勝国が下したA級戦犯であるといった理由で、>絶対に赦すことはできない。などという人がいるが・・・まあ、無知で歴史を知らないほどにもあきれ返ってしまいます。

東京裁判は、「東條英機元首相以下28人の戦犯は共同謀議を行っていた。目的は侵略による世界支配である。その目的を果たすために通常の戦争犯罪のほかに、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」を犯した」とするもの。「日本は世界征服をたくらみ、アジア各国を侵略していった」というのだが、結局、この裁判のメインテーマだった「侵略戦争の共同謀議」は証明できなかった。そんな事実がなかったためであるが、判決では25人が「A級戦犯」にされ、東条英機など7人が死刑となった。

「東京裁判」を説明するとすれば「戦勝国による復讐の儀式」、ありもしない南京虐殺を捏造して、連合国が行った戦争犯罪である東京大空襲、原爆投下といった「戦勝国の戦争犯罪の隠ぺい」、「日本人の洗脳」「白人のアジア侵略の歴史の帳消し」、「対米報復戦争の予防」といった目的があった。

現在、国際法学者の間では、この「裁判」は完全に否定され、不法なものであったということが定着している。裁判に加わった多くの判事も帰国後、裁判の不当性、違法性を証言している。現在、こ東京裁判の判決を信じている者は反日日本人・シナ人、朝鮮人、一部の戦勝国側の人間ぐらいだろう。

戦争犯罪の処罰についてはポツダム宣言10項で予定されていたが、国際法上認められてきた従来の戦争犯罪概念が拡張され検討され裁く側はすべて戦勝国が任命した人物で戦勝国側の行為はすべて不問だったことから、勝者の敗者に対する報復裁判で、事後法の遡及的適用であったことは、まったくおかしい。

極東国際軍事裁判所条例は国際法上は占領軍が占領地統治にさいしてハーグ陸戦条約第三款においても許可されてきた軍律審判に相当し、軍律や軍律会議は軍事行動であり戦争行為に含まれる。尤も、高級軍人等の交戦法規違反について審判する点についてはまだしも、言論人や国務大臣等がそれらの立場で過去におこなった行為や謀議、あるいはその思想に対して審判が行われたことは明らかに不当だ!

だいたいこの「裁判」を開廷させた当の本人であるマッカーサーは、東京裁判結審2年後の昭和25年 10月、ウエーク島で大統領のトルーマンと会談したときに、「日本を侵略国として裁いたのは間違いだったと認めているではないか。また、昭和26年5月にはマッカーサーは上院の軍事外交合同委員会で「日本の戦争は自衛戦争だった」ときわめて重大な証言をしている。

日本人で未だに東京裁判史観の洗脳から覚めない方々が多く、情けないやら悲しいと思います。





執筆中


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国難に際し、政府が機能を果たさなくなった時、日本には皇室という成文憲法や法律を超越した存在があるのだと思います。首相が3.11当時の管直人みたいな無能で無責任な人物であっても皇室がある限り日本は大丈夫であると国民の多くは思ったことでしょう。

皇室の存続、日本の国体の存続のために両陛下が一貫してとり続けてきた姿勢が、国民と共にある皇室というものです。日常の公務だけでも頭が下がる思いだが、災害時における被災地や避難した人々への慰問は、両陛下のこれまでの歩みそのものであると言っても過言ではないだろうと思います。正座をしながら被災者一人一人に声をかけ、年齢を考えるととても普通の人間では出来るものではありません。本当に頭が下がる思いです。

日本には宗教がなく当然その規範が無い。しかしながら3.11に遭遇した日本人の行動を見れば、宗教的規範がなくとも暴動や略奪は皆無で世界でも最も民度が高い国の一つである。このことは、あの反日の中国人や韓国人ですら認め、もちろん多くの世界中の人々が認めるところです。

日本における規範とは皇室がその範を示しているのだと思う。天皇陛下は、日本で最も権威がある人間にもかかわらず、謙虚で偉ぶらず、質素である。常に温和で心優しく、他人(国民)の為を思う心を持ち続けている。成果をあげた者を称え、、弱者を護る。皇室の存在は単なる象徴や王家ではなく、正気な多くの日本人にとって、知らず知らずに宗教の役割を担っていると言って過言ではないと思います。

科学がどれだけ進歩してもその先には必ず未知が存在し、大自然の驚異の前には人は唯々無力な存在です。宗教が果たしてきた役割には自分の存在理由を教え
生きていく為に、魂を救済する役割を担っています。魂を救済することは、社会を構成する人々規範を与え、精神や道徳を整える役割があるのです。皇室が行っていることは厳然とした宗教とは異なるが、日本の社会に規範を与え、魂を救済しているように思えるのです。

正気な多くの日本人にとっては宗教がなくても皇室が存在する限り正気を保てるのです。いわば、皇室の存在=日本教という宗教であると私は思います。

それゆえ、昨年李明博前韓国大統領が多くの日本人から非難を受けたのは、竹島に上陸したことよりも、天皇陛下に対する侮蔑発言ではなかったかと思うのです。

平成の今、天皇陛下は人間であって神だと思う人は皆無です。しかし、皇室を侮辱された場合多くの日本人は烈火のごとく怒るのです。これは自分の神に対する冒涜なのです。故に皇室の存在は平成の今でも擬似的宗教であって、天皇陛下はカトリックにおける法王以上の存在と言えると思います。

そう思うと、この玉音放送は神の慈愛を感じるがごとき有難さを感じざるを得ません。

執筆中
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<原文>
朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。

  朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。

  抑々、帝国臣民の康寧を図り万邦共栄の楽を偕にするは、皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々措かざる所、曩に米英二国に宣戦せる所以も、亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出て他国の主権を排し、領土を侵すが如きは固より朕が志にあらず。

然るに交戦已に四歳を閲し朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公各々最善を尽くせるに拘らず、戦局必ずしも好転せず。

世界の大勢、亦我に利あらず、加之敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。

而も尚、交戦を継続せむか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延て人類の文明をも破却すべし。

斯の如くむば、朕何を以てか億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せむや。

是れ、朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり。

朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し、遺憾の意を表せざるを得ず。

帝国臣民にして戦陣に死し、職域に殉し、非命に斃れたる者、及び其の遺族に想を致せば五内為に裂く。

且、戦傷を負ひ、災禍を蒙り家業を失ひたる者の厚生に至りては、朕の深く軫念する所なり。

惟ふに今後、帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず。爾臣民の衷情も、朕善く之を知る。然れども、朕は時運の趨く所、堪へ難きを堪へ、忍ひ難きを忍ひ、以て万世の為に太平を開かむと欲す。

朕は茲に国体を護持し得て、忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し、常に爾臣民と共に在り。

若し夫れ、情の激する所、濫に事端を滋くし、或は同胞排擠互に時局を乱り為に大道を誤り、信義を世界に失ふが如きは、朕最も之を戒む。

宜しく挙国一家子孫相伝へ、確く神州の不滅を信じ、任重くして道遠きを念ひ、総力を将来の建設に傾け、道義を篤くし志操を鞏くし誓って国体の精華を発揚し、世界の進運に後れざらむことを期すべし。

爾臣民其れ克く朕が意を体せよ。

御名御璽
昭和二十年八月十四日


<読み下し文>
(ちん)深く世界の大勢(たいせい)と帝国の現状とに鑑(かんが)み非常の措置(そち)を以(もっ)て時局(じきょく)を収拾(しゅうしゅう)せんと欲(ほっ)し茲(ここ)に忠良なる爾(なんぢ)臣民(しんみん)に告(つ)
は帝国政府をして米英支蘇(べい、えい、し、そ)四国(しこく)に対し其(そ)の共同宣言を受諾(じゅだく)する旨(むね)通告(つうこく)せしめたり
抑々(そもそも)帝国臣民(しんみん)の康寧(こうねい)を図(はか)り万邦共榮(ばんぽうきょうえい)の楽(たのしみ)を偕(とも)にするは皇祖皇宗(こうそそうそう)の遺範(いはん)にして朕の拳々(けんけん)(お)かさる所(ところ)
(さき)に米英二国に宣戦(せんせん)せる所以(ゆえん)も亦(また)実に帝国の自存(じそん)と東亞の安定とを庶幾(しょき)するに出(いで)て他国の主権を排(はい)し領土を侵(おか)すが如(ごと)きは 固(もと)より朕(ちん)が志(こころざし)にあらす
(しか)るに 交戦 (すで)に四歳(しさい)を閲(けみ)し朕が陸海將兵の勇戦 が百僚(ひゃくりょう)有司(ゆうし)の励精(れいせい)が一億衆庶(しゅうしょ)の奉公 各々(おのおの)最善を尽(つく)せるに拘(かかわ)らず戦局必すしも好転せず世界の大勢亦(また)我に利あらず
加之(しかのみならず)敵は新(あらた)に残虐なる爆弾を使用して頻(しきり)に無辜(むこ)を殺傷し惨害(さんがい)の及(およ)ぶ所  眞(しん)に測(はか)るべからざるに至る
(しか)も尚(なお)交戦を継続せんか 終(つい)に我が民族の滅亡を招來(しょうらい)するのみならず延(のべ)て人類の文明をも破却(はきゃく)すべし
斯の如(かのごと)くは 朕 何を以(もっ)てか億兆(おくちょう)の赤子(せきし)を保(ほ)し皇祖皇宗(こうそこうそう)の神霊に謝(しゃ)せんや 是(こ)れ 朕が帝国政府をして共同宣言に応(おう)せしむるに至れる所以(ゆえん)なり
朕は帝国と共に終始(しゅうし)東亞の解放に協力せる諸盟邦(しょめいほう)に対し遺憾(いかん)の意を表(ひょう)せざるを得(え)
帝国臣民にして戰陣(せんじん)に死し職域(しょくいき)に殉(じゅん)じ非命(ひめい)に斃(たお)れたる者及(および)(そ)の遺族(いぞく)に想(おもい)を致(いた)せは五内(ごない)(ため)に裂(さ)
(かつ)戦傷(せんしょう)を負ひ災禍(さいか)を蒙(こうむ)り家業を失いたる者の厚生に至りては 朕の深く軫念(しんねん)する所なり
(おも)うに今後帝国の受くべき苦難は固(もと)より尋常にあらず
(なんじ)臣民の衷情(ちゅうじょう)も朕善(よ)(これ)を知る
(しか)れども朕は時運の趨(おもむ)く所(ところ)      堪え難きを堪え 忍び難きを忍び                以て万世の爲に太平を開かんと欲す
朕は茲(ここ)に国体を護持し得て忠良なる爾(なんじ)臣民の赤誠(せきせい)に信倚(しんき)し常に爾(なんじ)臣民と共(とも)に在(あ)
(も)し夫(そ)れ情の激する所 濫(みだり)に事端(じたん)を滋(しげ)くし或(あるい)は同胞 排擠(はいせい)(たがい)に時局を亂(みだ)り爲(ため)に大道(だいどう)を誤(あや)り信義(しんぎ)を世界に失(うしな)ふか如(ごと)きは朕 最も之(これ)を戒(いまし)
(よろ)しく挙國(きょこく)一家子孫(しそん)(あい)(つた)え確(かた)く神州の不滅(ふめつ)を信じ任 重くして道 遠きを念(おも)い総力を將來(しょうらい)の建設に傾け道義を篤くし志操(しそう)を鞏(かた)くし誓(ちかっ)て国体の精華(せいか)を発揚(はつよう)し世界の進運(しんうん)に後れさらんことを期(き)すべし爾(なんじ)臣民(しんみん)(そ)れ克(よ)く朕(ちん)が意を體(たい)せよ
御名御璽(ぎょめいぎょじ)
昭和二十年八月十四日


朕(チン)=天皇の自称  鑑(カンガ)ミ=較べ合わせて考える
忠良(チユウリョウ)=忠実で善良なこと
爾(ナンジ)=同等以下の相手に呼びかける言葉  臣民(シンミン)=君主国の国民
共同宣言(キョウドウセンゲン)=ポッダム宣言 康寧(コウネイ)=平穏無事な状態
皇祖皇宗(コウソコウソウ)=皇室の始祖である天照大神ないし神武天皇と歴代の天皇
遺範(イハン)=先人の遺した手本  拳々(ケンケン)措(オ)カサル=常に心に持ちつづける
曩ニ(サキ)=先に  庶幾(ショキ)=こい願うこと  閲シ(ケミ)=経過する
勵精(レイセイ)=励み勤めること  衆庶(シュウショ)=一般国民
加之(シカノミナラズ)=そればかりでなく  残虐ナル爆弾=原子爆弾のこと
無辜(ムコ)=罪のない庶民  延テ(ヒイ)=さらには  赤子(セキシ)=国民の意  保シ=保護する
非命(ヒメイ)=思いがけぬ災難で死ぬこと  五内(ゴナイ)=全身  軫念(シンネン)=心にかける
衷情(チュウジョウ)=本心  時運(ジウン)=所の運
萬世ノ爲ニ太平ヲ開カム=招来のために平和への道を開く
國體(コクタイ)=国家としての体制ないし性格  赤誠(セキセイ)=まごころ
信倚(シンイ)=信じて頼ること  事端(ジタン)ヲ滋(シゲ)クシ=問題をたくさん起こし
排擠(ハイセ)=排斥 時局(ジキョク)ヲ亂(ミダ)リ=時局を混乱させる
神州(シンシュウ)=祖国。我が国で自国に対する誇称
進運(シンウン)=進歩・向上の方向にある趨勢  克(ヨ)ク=良く
御名御璽(ギョメイギョジ)=天皇のご署名と天皇のご印


<現代語訳:by Ddog>

先に、米国・英国二ヵ国に宣戦を布告したのも、我が国の独立とアジアの安定を願ってのものであって、他国の主権を侵害したり、領土を侵犯したりするようなことは、もちろん私の意志ではありません。

しかしながら、戦闘状態はすでに四年を経過し、我が陸海軍の将兵の勇敢な戦闘や、我が国の官僚・公務員、我が一億国民、それぞれ最善を尽くしたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の大勢も我々には不利に働いています。

それだけではなく敵は、新たに残虐な原子爆弾を使用して、何の罪もない多くの国民を殺傷しました。その惨状はまったく測り知れません。

それでもなお戦争を続ければ、最終的には日本民族の滅亡を招くばかりでなく、さらには人類文明をも破壊することになるでしょう。

もしそのような事態になったとしたら、一億の国民の命を預かっている私は、歴代天皇の霊に謝ることができましょうか。

このことが政府に対しポツダム宣言を受諾するよう命じた理由です。

私は日本とともに終始アジアの植民地解放に協力した友好国に対して、申し訳なく思わずにはいられません。

戦場で戦死したり、職場で殉職し、悲惨な最期を遂げた国民及び、そのご遺族のことを考えると全身が引き裂かれる思いがします。

さらに戦場で負傷し、戦禍にあい、家や仕事を失った人々の厚生については、私が深く心配するところです。

考えると、これから日本の受けるであろう苦難は、大変なものになると思います。

皆様の悔しい気持ちについては、私もよくわかります。

しかし、私は運命にしたがって、耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、将来のために平和をもたらしたいと思います。

私は、ここにこうして国を守り、善良な国民の皆様の真心を信頼し、そして、常に国民の皆様とともにあります。

もし、感情的にクーデターを起こしたり、国民同士が争って、国家を混乱におちいらせて世界から信用を失うような事態が起きることを私は強く懸念しています。

国を挙げて一つの家族のように団結し、子孫ともども固く神国日本の不滅を信じ、道は遠く責任は重大であることを自覚し、総力をあげ将来の建設のために傾け、道義心と志操を固く持ち、日本の栄光を再び輝かせるよう、世界の進歩に遅れないよう決意しましょう。

国民の皆様どうぞ私の気持ちを理解してください。

終戦詔書は、大まかな内容は内閣書記官長・迫水久常が作成し、8月9日以降に漢学者・川田瑞穂(内閣嘱託)が起草、さらに14日に安岡正篤(大東亜省顧問)が刪修して完成し、同日の内に天皇の裁可があったとはいえ、昭和天皇の意志そのものであったと思われます。

原文をYouTubeの現代語訳を参照しながら現代語文を書いてみました。先の大帝 昭和天皇陛下は当時の政治家、軍人、官僚数多いるなか、もっとも世界が見えていた人物だと私は思います。

乃木将軍による帝王教育を受け 青年時代欧米を歴訪したグローバル感覚を持ち且つ大変に聡明であらせられた。

政府、軍部は終戦を決断することができず迷走する中原爆が落とされ、最終的に終戦の決裁は、昭和天皇陛下が下された。陛下の強い意志が無ければ終戦を迎えることはできず、無意味な本土決戦を行っていたと思います。日本を破局から救い、今日の日本の繁栄と民族の存続は先の大帝のおかげであったと思います。



玉音放送と終戦直後の昭和天皇の全国巡行は日本人を奮い立たせ今日の日本の繁栄をもたらしたと信じています。平成23年3月11日未曽有の東日本大震災が発生し、発生から間もない3月16日今上天皇が、異例のビデオメッセージで国民を励まされました。これは平成の玉音放送と呼ばれるようになりました。


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http://www.uniqlo.jp/uniqlock/swf/blog_small.swf?user_id=Bo4uxIuSX6BfwXZC
次に「持たざる国」を「持てる国」にする計画を建て宗教的な世界最終戦争を目論んだ石原莞爾中将の思想を紐解きたい。


p175
石原莞爾は一八八九(明治二二)年、山形県の鶴岡で生まれました。(宮沢)賢治より七つ年上になります。父親は元は庄内藩士で警察官でした。莞爾は軍人を志し、一九〇二年に仙台陸軍地方幼年学校に入学。日露戦争があったのはこの仙台時代。東京陸軍中央幼年学校を経て、一九〇七年、陸軍士官学校に進みます。二一期生でした。ちなみに小畑敏四郎や永田鉄山は一六期、東条英機は一七期、阿南惟幾は一八期です。

(略)

石原は田中智学に傾倒し、一九二〇年の四月に国柱会の信行員になったわけですが、これは彼が陸軍大学校を卒業したのち、中支那派遣隊司令部付将校として漢口に赴任しようとする直前のことでした。なぜ、石原は智学に惹かれたのか。それは恐らく、智学が石原に、日本は何か何でも「持たざる国」から「持てる国」へと変身せねばならぬとの確信を与えたからでしょう。石原は智学の教えによって自らの思想と行動の原理を打ち立てたのです。

「統制派」の経済主義

「持てる国」と「持たざる国」。石原に限らず、第一次世界大戦の時代を経験した日本陸軍の軍人たちは、この二つの言葉にうなされていました。

第一次世界大戦で戦争のかたちはがらりと変わった。これからの大戦争は基本的には物量戦で消耗戦で補給戦で新兵器開発戦だ。要するに総力戦だ。総動員戦だ。鉄鋼生産量はどれだけか、石油の備蓄はどうか、食糧生産はどうなるか……。総動員されるべき事柄は山ほどある。どれもだいたい数字で勘定できる。その総計の多寡が戦争の結果を自ずと定めるだろう。例外は考えにくい。「持てる国」が圧倒的に有利である。

それはそうに違いありません。第一次世界大戦の現実を真摯に観察すれば誰の目にも明らかです。そのへんを素直に認めようとした陸軍軍人たちも大勢いました。特に砲兵畑や工兵畑に。しかしその先はどうなるでしょうか。日本は「持てる国」でしょうか。いや、「持たざる国」です。

国土は狭い。資源に乏しい。近代的総力戦にはおよそ向いていない。短期間で「持てる国」に生まれ変われるとは到底思えない。駄目ではないか。勝てないではないか。そこで荒木貞夫や小畑敏四郎ら、のちに「皇道派」と称される陸軍軍人たちは、大戦争にはなるたけ参加しないという極めて現実的な道に徹しようとしました。限定的な短期戦争しか行わない。それでさえ兵器や弾丸は不足するかもしれない。けれど「持たざる国」なのだ。軍備で背伸びすれば、国民経済に無理が生じる。国家や軍隊が反発を買いやすくなる。天皇制の存続の危機にもつながりかねない。

ロシア革命みたいなことが日本でも起きたら大変だ。だからなるべくお金をかけず無形戦力で補う。つまり作戦上の創意工夫と兵士たちのガンバリズムに頼ることにしたのです。
「皇道派」の人脈は、大正末期から昭和初期にかけて陸軍の覇権を握りました。極端な精神主義と初動のみに賭ける短期戦争論を基調とする『統帥綱領』等、重要作戦マニュアルの改訂にも成功しました。陸軍の思想を統一してゆけるようにも思われました。 が、そうは問屋が卸しませんでした。日本は「持たざる国」には違いない。しかし、表向きは第一次世界大戦の戦勝国として、世界の列強に数えられるまでになっている。小畑のようなつましく地味すぎる考え方では世界の中での日本の地位を主張できない。「持たざる国」を少しでも「持てる国」に変えてゆこうではないか。そのために知恵を絞るべきである。もちろん「持たざる国」を゜持てる国」にするなどという話は陸軍だけでは実現不能だ。国家の方針の問題だ。国を富ませなくてはいけない。急激な経済成長を奇跡的に達成でもしてくれたら、いちばんありかたい。軍の悩みは一挙に解決する。とにかく軍人が経済の心配をせざるをえない時代に突入したのだ。ならば、軍人としての身の程をわきまえつつも政界や官界や財界にだって、ある程度の働きかけを行うことさえ、時には必要ではないか。

そうした考え方を代表し、荒木や小畑と対立することになった陸軍軍人の旗手と言えば永田鉄山です。先述のように永田は小畑と陸軍士官学校以来の親友でした。けれど、「持てる国」と「持たざる国」を巡る思想の対立が、ふたりを分け隔てることになったのです。そして永田の周囲に集った陸軍軍人たちがのちに「統制派」と呼ばれるようになり、荒木や小畑から車内の覇権を取り返してゆきます。

(略)

「皇道派」は「持たざる国」でも「持てる国」に対してなお戦争をやり続けてしまえるほどの神がかった精神主義に関心があり、「統制派」はっ持たざる国」を「持てる国」に近づけるための算盤勘定、経済運営に関心があるのです。「持たざる国」が無駄なく資金を運用し効率的に経済発展を遂げるには、経済を市場のメカニズムに任せて自由放任にするよりも、統制経済や計画経済の手法に頼るのが適切ではないでしょうか。事実「統制派」と呼ばれた陸軍軍人の中には永田鉄山や石原莞爾、鈴木真一や池田席久など社会主義や共産主義の経済運営に強い関心を寄せる者が多かったのです。

p190-193
近代世界の苛烈な生存競争に勝ち残った二つの国が遠からず武力によって雌雄を決する。一方は西洋文明の代表国としてのアメリカである。もう一方は『法華経』の信仰を体現する日本でなければならない。これは石原の宗教的確信です。世界情勢を分析しての評論や学問ではない。

日本がアメリカに勝利して『法華経』の約束する理想郷をついに世界にもたらすのだ。世界最終戦争に日本が勝ち残ると、現世はそのまま仏国土に変じて永遠の理想郷と化す。理想郷にはもう戦争はない。だから本当に最終戦争である。そのためには「持てる国」のアメリカに負けぬ国力を日本が持つ必要がある。しかし、そんなことが可能でしょうか。

(略)

一九二八年一月、鈴木真一主宰の陸軍将校勉強会「木曜会」で日米の最終戦争の必然を力説し、同席していた永田鉄山に呆れられた石原は、同年夏、関東車参謀に任じられ、秋には旅順に赴任します。別に石原本人がそういう人事を希望したのではありません。陸軍の巨人な組織はいちいち希望を聞いてくれるようには出来ていません。たまたまと言うべきでしょう。

石原はそこに超越的なものの導きを感じていたものと思われます。伊勢神宮での啓示から一年を経ずして満洲の日本陸軍の中枢に入ったのですから。石原の計画に基づく満洲事変が起きたのは一九三一年九月一八日です。翌三二年三月一日には満洲国が建国されました。

石原は満洲で何がしたかったのでしょうか。どうすれば日本が最短で「持てる国」になれると思ったのでしょうか。言うまでもなく満洲に眠る豊富な資源を開発し、その地を世界的な重化学工業地帯へと育てることです。そして満洲の産業力を日本本国と連携させる。日本本土だけでは資源もなければ人口も足りない。朝鮮と台湾を合わせても世界に冠たる重化学工業を築くのは厳しい。だが満洲があれば可能である。当時は満洲の資源調査がまだまだ行き届いていたわけでもありません。未知不可測な要素がずいぶんある。それでも石原は突き進みました。やはり伊勢神宮での霊験のせいなのでしょう。

ただし、資源や工場だけあってもしようがない。産業を大きくするには人の力が不可欠です。豊富な労働力や知識力が要求される。当然日本人だけでは賄えません。だいたい日本がアメリカと最終戦争を行うのは『法華経』の教えの広がる東洋の仏教世界の代表者としてです。広くアジアに助けて貰って最終戦争の場に送り出して頂かねばならない。いわゆる「五族協和」の理念がここに生まれます1日本人、満洲人、中国人、朝鮮人、蒙古人という、満洲に生きる五つの民族が対等の立場で助け合ってこそ初めて満洲国は理想的な産業国家への道を歩めるというわけです。
たとえば煩悶青年の伊地知則彦が石原に傾倒した最大の理由は、やはりこの「五族協和」でしょう。

満洲国での「五族協和」の延長線上に生まれるのが中国を含めた広いアジアの連帯をはかる東亜連盟の運動になります。その中心にも石原が居ました。彼が「『戦争史大観』の由来記」を発表した雑誌は、この連盟の機関誌でした。

「持たざる国」を「持てる国」にする方法

ところで、石原の世界最終戦争とはどのような戦争なのでしょうか。「持てる国」と「持てる国」との総力戦です。「皇道派」の荒木貞夫や小畑敏四郎や鈴木率道らの思い描いた戦争、つまり「持たざる国」が物資の不足を精神力で補って無理々々に行う局地的で短期の殲滅戦争などとは規模が違います。世界大戦争なのです。かといって第一次世界大戦型の長期総力戦とも違います。徹底的な総力戦ながら、あっという間に終わる。それが石原の想像した世界最終戦争です。

石原によれば、第一次世界大戦的な総力戦、すなわち大国同士が何年にもわたって国力を絞り尽くし、消耗に耐え補給を切らさなかった方が勝つ戦争は、まだ近代戦の最終形態を表現してはいません。大戦争はその先で再び短い戦争に転ずると石原は言うのです。準備や前哨戦はいろいろあるでしょうが、戦争の本体は戦国時代の多くの合戦のように数日か一日か、もしかして数時間で終わってしまう。そんな戦争ができるようになると、ついに最終戦争時代だと石原は説きます。

なぜ、そんなに短く終わるのでしょう? 二〇世紀は科学の時代だからです。日露戦争ではまだせいぜい大砲と機関銃でした。それが約一〇年後の第一次世界大戦では戦車と飛行機と毒ガスと潜水艦です。兵器の破壊力は今後も加速度的に進化するでしょう。一瞬で大都市や国家そのものを破壊する、とてつもない兵器が現れる日も遠くないのかもしれません。最終戦争の決め手は結局最終兵器なのです。石原は最終兵器という言い方はせずに決戦兵器と呼んでいますけれど。ともあれ、あっという間に終わるのです。

決戦兵器は科学力と技術力の究極の結晶としてしか発明されないでしょう。その背景には巨大な重化学工業が存在せねばならないでしょう。研究開発のためには膨大な投資が必要でしょう。
決戦兵器を開発できるのはやはり「持てる国」なのです。「持たざる国」が決戦兵器を作り出すとは考えにくい。

p204-205
石原莞爾は日本を「持てる国」にするまで何十年か長期の大戦争をしてはいけないと考えました。小畑敏四郎は、日本はどこまで行っても「持たざる国」なのだから「持てる国」と正面きっての大戦争をやはりしてはいけないと思いました。

でも彼らのヴィジョンは、軍の中で軍人の本分を尽くしているだけでは達成される性質のものではありませんでした。どこの国とどういうタイプの戦争をするかしないかは結局かなり政治の問題だからです。石原も小畑も、あるいは石原の先輩格の永田鉄山も、それぞれの立場から政治に働きかけられないかと知恵を絞りました。けれども大日本帝国の法制度ないしは政治文化は、軍人の政治的振る舞いをはねつけるように出来ていました。

思想的軍人は排斥される運命にありました。そうやって大勢が消えてゆきました。満洲国は石原の手を、『統帥綱領』は小畑の手をそれぞれ離れ、生みの親が与えたかった歴史的使命とまったく無縁の道を歩き出しました。
原子爆弾は1933年(昭和8年)ハンガリー系ユダヤ人物理学者レオ・シラードによって、中性子を用いた連鎖反応のアイデアを思いつき、理論的な可能性を提案された。石原はそれより前に原爆や大陸間弾道弾の出現を予想していたことになる。

日本を「持てる国」にするまで何十年か長期の大戦争をしてはいけないと考えました。ある意味で正しい選択であったと思うが、現実問題として、米国から突き付けられた南部仏印進駐撤回や満州や大陸からの撤退などとても飲めなかった。

もし石原が陸軍の中心にいて日本は艱難辛苦を耐えることができたであろうか?
石原の世界最終戦争のifはあくまでもifにすぎない・・・




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p98-101
日本陸軍のジレンマ

いったいどうしたことでしょう? 勇気と決断さえあれば物的・数的にはどんなに不利でも必ず勝てるという「タンネンベルク神話」が、大正末期から日本陸軍にどんどんはびこりはじめる。

おかしいではありませんか。前章まで通観してきたように、日本陸軍は青島戦での経験や第一次世界大戦の全体的な観察や分析から、今後の戦争は科学力と工業生産力、国家としての総合力、最も単純には物量の多寡で勝敗が決するのであり、勇気や決断や精神力や果敢な突撃精神は時代遅れで副次的なものになりつつあるとの認識を深める一方であったのではないでしょうか。

それはその通りなのです。たとえば、欧州出張中の阿南中佐がタンネンベルク詣をした一九二七年、日本では吉田豊彦陸軍中将が、宇垣一成陸軍大臣と鈴本員太郎海軍大将の序文付きで『軍需工業動員二関スル常識的説明』を水交社から出版しています。第一次世界大戦で得られた最新の戦争観を、軍令政府部内だけではなく広く国民に訴えて理解を求め、新しい常識として広めようという内容です。
(略)
かたくなな軍国主義にしたがって、精兵を養うために民間の物質的繁栄を犠牲にし、国民に平素から禁欲生活を強いるのは愚の骨頂である。今日の戦争は物量の戦争であり、しかも戦時の軍需品と平時の民需品に必要な原材料はほとんど重なっている。もしも大戦争がはしまったら必要な軍需物資はあまりに膨大だ。いつ戦争になるか分からないのに、日頃から天文学的な量の軍需品を蓄えておくのは非現実的である。しかも科学技術は日進月歩なのだ。

結局、平時に物質的繁栄を誇り、新製品を次々と作り出して、一見享楽の限りを尽くしているような国家が、これからの戦争の勝者になるだろう。物質的欲望を抑えて精神力や気力を培って勇猛果敢を誇っても何の意味もない。いざ戦争になったら、民間生活における飽くなき物質への欲望を満たすための技術力と生産力を即座に軍需に振り替える。そういう体制を準備しながら、平時は民需を最大限に満たしてゆく。大量消費社会を目指す。みんなが物欲を追求する。それが出来る国が勝ち残る。女形として淫蕩な美を極めた俳優こそが荒事で真の凄みも表現できるのではないか。平時の経済大国のみが戦時の勝者へのパスポートを有している。そんな理屈です。
(略)
民間の経済力が即ち国家の戦闘力であるというテーゼを押し出す吉田中将は、あとはひたすら数字を列挙してゆきます。日露戦争の奉大の大会戦でクロパトキンの率いるロシア軍相手に日本車の消費した弾数は三三万発であった。ところが第一次世界大戦の西部戦線におけるヴェルダン
の戦いでドイツ軍の使った弾数は二〇〇〇万発である。奉大の六〇倍だ。同じくソンムの戦いでフランス軍の放った弾数は三四〇〇万発に達する。何と楽天の一〇〇倍だ。この調子でいけば、今後日本が戦争をするためにはどれだけの鉄や非鉄金属や火薬原料やゴムや石炭や石油が必要なのか。日本はどれはどの産業国家に成長しなければならないのか。
p102-103
日本陸軍の軍人たちがタンネンベルクの包囲殲滅戦を信仰し、絶対化したくなる逆説的なきっかけもあったというべきでしょう。

阿南惟幾も他のタンネンベルクに詣でた軍人たちも、筑紫中将や吉田中将に言われるまでもなく第一次世界大戦の教訓をよくわきまえていたかと思われます。でも、教訓を真っ正面から活かすためには、今後の日本の仮想敵国となるだろうアメリカやイギリスやソ連等々に見合った科学力や工業力や経済力が、この国に備わっていなくてはいけません。

吉田中将は国家の存立のために是非ともそうしなくてはならないと言い切っていますが、いったい誰がいつどうやってそうできるのでしょうか。第一次世界大戦後、日本の重化学工業はようやく本格的な離陸をはじめました。けれども、米英ソ大局を並べるほどの国力が短期問でつくとは想像しにくい。それに日本が成長するあいだに仮想敵国の経済規模はもっと膨らんでいる可能性も大である。

とすると、弾や兵器の多寡、あるいは科学技術の進展のための投資の大小で勝敗が決まるとの仮定の上に立つならば、今後の大戦争では日本に勝ち目はないという結論しか導けません。確かに日本車は第一次世界大戦の最初期に青島の戦いで物量戦の模範を示しました。けれど、極東の補給なきドイツ軍の小要塞相手だったからうまく行ったのです。日本の国力でも量で圧することができたのです。

一流国の補給が十分にある軍隊と正面からの物量戦をやるなんて想像するだけでも恐ろしい。日本の国力を一挙に飛躍的に高めれば問題は解決します。が、容易ではない。それでも軍人とすれば、仮に明日、世界列強と開戦しても大丈夫と思える計画を立てておかなくてはなりません。仮想敵国と戦争する見通しを持てないのでは軍隊の存在価値がありません。産業の中長期的発展に期待し、何十年後かにそうなってから改めて戦い方を立案するのでは済まないのです。

歴史の趨勢が物量戦であることは明々白々。しかし日本の生産力が仮想敵国の諸列強になかなか追いつきそうにない。このギャップから生じる忙みこそ、第一次世界大戦終結直後から日本陸軍を繰り返し悩ませてきたアポリア(「行き詰まり」「問題解決能力の欠如」)であり、現実主義をいつのまにか精神主義に反転させてしまう契機ともなったのです。

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なんと、皮肉・・・現実を見つめ理解したからこそ、精神主義に陥ってしまった・・・

タンネンベルグの結果を分析し帝国陸軍を変革した二人の軍人を著者片山准教授は、フォーカスした皇道派の小畑敏四郎中将と統制派の石原莞爾中将である。

まずは、「持たざる国」の身の丈に合った戦争を主張した小畑敏四郎中将の殲滅戦思想を紐解きたい。

一九二八年の精神主義
関ヶ原より桶狭間
p111
「持たざる国」日本の陸軍にとっての夢の福音。装備最優秀とは呼べない味方の寡兵によっても、敵の圧倒的な大軍をあっという間に包囲殲滅できてしまう魔法の戦争。国力戦、総力戦、長期戦、国家総動員、新兵器開発戦、機械化戦といった言葉を噛み締める前に、電光石火でかたのつくいくさのかたち。第一次世界大戦最初期の東部戦線でドイツ軍の寡兵がロシアの大軍を粉砕したタンネンベルクの戦いは、決して唐突に現出したわけではありません。長い歴史的な経緯の末、持たざる国の陸軍が、もしもそれでうまく行くのならと願い続けた戦争のひとつの理想型が、周到な作戦と訓練の当然の結果か、あるいは思わぬ僥倖が重なっての偶然の賜物か、とにかく本当に実現した。それがタンネンベルクの戦いであったのです。
 『統帥綱領』とは一九一四年に制定された日本陸軍の機密戦争指導マニュアルであるが、1928年(昭和3)年に『統帥綱領』が大幅に改訂されている。そのとき「短期決戦+包囲殲滅戦」論は、日本陸軍の基本戦略となった。

『統帥綱領』改訂の中心人物は参謀本部の第一部長だった荒木貞夫中将(のち大将)、同作戦課(一部二課)長だった小畑敏四郎大佐(のち中将)、同作戦課員だった鈴木率道少佐(のち中将)の三人です。荒木と小畑は第一次世界大戦時に観戦武官としてロシア軍に付いて、包囲殲滅された側から詳しく聞いて、戦闘経過を熟知していた「タンネンベルク信者」でした。

この殲滅思想は政治からの独立不羈(どくりつふき:他から制御されることなく、みずからの考えで事を行うこと。)、速戦即決、会戦を攻撃のみに限定しているなど、大東亜戦争で国を誤らせた原因のひとつとなった。

包囲殲滅による速戦即決に失敗した時の方策はない。兵站に焦点の移る長期戦は持たざる国にとっては敗北を意味するのである。

もともとこの戦略要綱は弱小軍隊に対してのみ有効としていたのである。敵がまっとうであれば「短期決戦+包囲殲滅戦」は不可能であることをこの要綱を作った皇道派の3将軍は熟知していたのである。

p151
小畑将軍は若い頃、大尉から少佐時代にかけてロシアからヨーロッパ、そして米国を巡ってその国土の広さ、人口の大きさ、資源の豊かさをはじめ、列強の工業力、技術水準の各般にわたって、軍事的な立場からつぶさに研究された。
その結果、資源のない後進国の日本はどんなにもがいても、欧米の列強には及ぶべくもないことを痛感された。そのため日本の独立、国民の安全を護る最後のギリギリの線として、日本の防衛は唯一つソ連の侵略防止のみに力を注ぐ。しかし、ソ連の膨大な国力にはとても敵わない。軍事力もソ連の大約六割か七割が限度である。したがって対ソ戦略は(中略)内線作戦、つまり侵入してきた敵を一部隊毎に徹底的に叩く。即ち各個に包囲殲滅して行く作戦だ。一部隊の全滅は敵の戦意を喪失させる。しかし、勝ちに乗じて敵を深追いしない、絶対に国境を越えない、つまりシベリアに進出しない作戦であった。(中略)
日本陸軍の戦車、飛行機、銃砲火力はソ連の六割か七割が限度である。つまり絶対的劣勢である。その劣勢を補うために無形戦力、つまり精神戦力を強調された。兵士一人一人に必ず勝つという信念をもたせる。その上に卓越せる統帥、巧妙な戦略、作戦などあらゆる精神的無形戦力を結集するというのが、小畑将軍の信念であった。(中略)
ましてや統一途上の国民政府に戦いをいどんだり、勝てる筈のない米国に宣戦布告をするなど、小畑将軍の眼から見れば、まさに「狂気の沙汰」であった。
ロジスティックを考えない日本陸軍が近代戦に勝利することは最初からできないことは誰しもわかっていた、日本は装備もよく補給力も十分な敵(米英)と戦うことは当分諦め精神力と奇手奇策で勝てる相手としか戦わないというのが「短期決戦+包囲殲滅戦」論の裏の戦略でした。それゆえ密教的な取り扱いでしたが、ですが日本陸軍は強い相手と戦争はしないと公言できない。想定外の相手(米英)に用いられてしまったことが悲劇である。

自分たち皇道派が、陸軍内の覇権を握り続けている限り戦争相手も自分達で選べると皇道派は考えていたようだ。そんな目算があったからこそ「短期決戦+包囲殲滅戦」論でしか陸軍は戦争準備をしなかった。ところが226事件が勃発し皇道派が粛清され、殲滅戦が一人歩きしてしまました。不敗神話と殲滅戦の思想が日本を大東亜戦争へと引きずり込んでいったように思えてなりません。
p151
アメリカ軍等を「必勝の信念」で包囲殲滅しようとする、いかにも無理筋の悲痛きわまるドラマが幾つも生み出されることになりました。
しかも、土壇場になるほどに、追い詰められるほどに、ついに殲滅できずにくじけるような「必勝の信念」は本当の「必勝の信念」ではない、信念が足りていない、信念を上積みすれば必ず殲滅できるはずだ、という論理がエスカレートします。そこから、敵を殲滅できずとも味方が殲滅されるまで戦い続けるという、とんでもない哲学が自動的に生起してしまいます。
これを玉砕と言います。玉砕は殲滅のウラ概念、すなわち被殲滅なのです。殲滅戦に失敗して不利劣勢の立場に追い込まれても「必勝の信念」を捨てぬなら、退却や降伏という選択肢はありえないのですから、もはや玉砕しか残りません。たとえばバンザイ突撃です。「天皇陛下万歳」を叫びながら装備劣悪な寡兵が敵の大軍に突っ込む。敵を殲滅させられるはずはなくとも、なお相手の側面に回り込もうとする。たとえ自殺的に思えても突撃を続ける。戦争はなまものですからどこで何か起きるかは最後の最後まで分からないとも言える。諦めずに全滅する気で敢闘精神を発揮しつづければどこかで局面はひっくり返せるかもしれない。そう信じてついに玉砕してしまう。相手の強さ弱さの次第によって殲滅精神は容易に玉砕精神へと転倒してしまうのです。

荒木貞夫や小畑敏四郎の想定外の用いられ方をすることで『統帥綱領』と『戦闘綱要』は「狂気の沙汰一の教典と化してしまいました。
本音と建て前、建て前が教条化してしまった先の大戦は日本の悲劇であった。
東京裁判史観の洗脳から未だ覚めない大多数の日本人には、日本が犯した失敗を学習することなく、ただ単に日本が侵略戦争をしたとしか理解していない。もしそうであるならば、日本を再び悲劇を襲うかもしれないと私は危惧します。


続く

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 日本は中国、北朝鮮、韓国と忌々しき国々に囲まれています。特に2月中国に石油を止められ追い詰められた北朝鮮の状況が戦前の日本に近いのではないか?
北朝鮮の金ファミリー/金正恩がヒトラーやスターリン、毛沢東型の独裁者というより、先軍政治の北朝鮮において金ファミリーは、明治~戦前の皇室のように君臨すれど統治せずの日本の皇室のように事実上象徴化しつつあると私は推測しています。そこで、北朝鮮の暴発の有無を考察するうえで、戦前の日本の政治/思想の状況の詳細を再度勉強しようと思いました。

※GWは新しいデスクトップPCとタブレットPC・無線LANを買い設定を悩みながら「戦争学言論 石津朋之/著 (筑摩選書)」他を読んでいる

さて本書も、とても勉強になった。昭和の軍人たちは何を考え、1945年の滅亡へと至ったのか。
日露戦争直後~第二次世界大戦突入までの日本において平和ボケであった大正デモクラシーから「天皇陛下万歳!」と特攻や玉砕の思想が生まれたのか・・・
本書は何度も読み返してしまうほど勉強になった!本書も前二冊同様目から鱗が落ちる良書です!推薦します。

日露戦争直後、帝国陸軍は旅順攻略の反省から近代的な遠距離から物量で勝負する新しい戦争を日露戦争型の塹壕戦をしていた第一次世界大戦のヨーロッパ諸国をしり目に青島攻略で行うことができた。ところが、大正~昭和の敗戦ヘ――時代が下れば下るほど、近代化が進展すればするほど、帝国陸軍はなぜ神がかっていったのか。皇道派VS.統制派での小畑敏四郎、石原莞爾の世界最終戦論、倫理学者和辻哲郎の総力戦思想、そして一倍玉砕を唱えた中柴末純……。第一次世界大戦に衝撃を受けた軍人たちの戦争哲学を読み解き、時代背景や第一次世界大戦を経験しなかった「持たざる国」だからこそ、現実的に分析して戦争に勝つには精神力しかないという結論に至った皮肉・・・・

なぜ、昭和一六年真珠湾を攻撃し、予想通り日本は敗戦に至ったのか・・・本書を読むと、日本がなぜ開戦に踏み切っていったのか理解できる気がします。き

本書を読むと、未だに東京裁判史観に洗脳され日本が侵略戦争をしたくて起こしたという自虐史観を持っている人間が、無知な赤子に思えてきます。

  はじめに  3

第一章 日本人にとって第一次世界大戦とは何だったのか………………13
小川未明の懊悩  15
「高みの見物」と「成金気分」  24
徳富蘇峰、日本人を叱る  31

第二章 物量戦としての青島戦役-日本陸軍の一九一四年体験…………43
神尾光臣将軍の新しい戦争  45
伊勢喜之助中佐の弾丸効力調査  56

第三章 参謀本部の冷静な『観察』…………………………………………75

第四章 タンネンベルク信仰の誕生…………………………………………91

第五章「持たざる国」の身の丈に合った戦争-小畑敏四郎の殲滅戦思想…109
一九二八年の精神主義  111
殲滅戦思想の密教と顕教  126
「皇道派」とは何か  141

第六章「持たざる国」を「持てる国」にする計画-石原莞爾の世界最終戦論 157
「銀河鉄道の夜」と『法華経』  159
「統制派」とは何か  173
「八紘一宇」の構想と挫折  189

第七章 未完のフアシズムー明治憲法に阻まれる総力戦体制………………207

第八章「持たざる国」が「持てる国」に勝つ方法-中柴末純の日本的総力戦思想………229
『闘戦経』と『戦陣訓』  231
「天皇陛下万歳」でなぜ死ねるか  244
一九四一年の死生観  261
玉砕という必勝哲学  277

第九章 月経・創意・原爆-「持たざる国」の最期……………………………297

主要参考文献  335
あとがき  341
大正時代、凄惨な塹壕戦を繰り返す第一世界大戦が欧州において起きていたことは、CNNもソーシャルネットワークもない当時の日本人にとっては別世界の出来事であった。対岸の火事どころかフィクションの世界にしか思えなかった。それどころか戦争は日本の工業化を一気に加速し、空前の好景気に沸き、戦争は富をもたらす好事でしかなかった。童話作家小川未明の短編小説「戦争」にはそのような時代の雰囲気が書かれていると紹介されています。

小川未明の短編小説「戦争」冒頭部分
p16
海のかなたで、大戦争があるといふが、私はそのことを時々口に出して話すが、実は心の底でそれを疑ってゐるのだ。「戦争があるなんて、それは作り話ぢやないのかしらん。私及び私のやうな人間をだまかさうと思って、誰かがうまくたくらんだ作り話ぢやないのか知らん。」と思ってゐるのだ。

大正時代の平和ボケした日本の空気を時代を代表するジャーナリストであり、思想家、歴史家、評論家、政治家としても活躍して、戦前・戦中・戦後の日本に大きな影響をあたえた徳富蘇峰は厳しく見つめていた。緩みきった時代の空気に警笛を鳴らしていた。

徳富蘇峰、日本人を叱る
p31-33
日本国民は世界列強の競争場裡に独り取り残されたり

第一次世界大戦は、日露戦争で背負った債務で沈没しかけていた日本経済を蘇らせました。それどころか爆発的に発展し膨脹する契機となりました。この時代には高度経済成長という言葉こそありませんでしたが、まぎれもなく同様の事態が起きたのです。
けっこうずくめと言えば言えます。近代国家が商売繁昌して何も悪いことはありません。しかし徳富蘇峰の話に戻りますと、彼はそれを喜びません。あまりに濡れ手で粟だったからです。くじに当たりつづけるかのように大金が転がり込んで笑いが止まらなくなった。蘇峰は著書『大戦後の世界と日本』で、そんな日本人を強く叱ります。

  乞食芝居さへも、尚ほ若干の木戸銭を徴す。然るに振古未曾有の大活劇を見物して、資に木戸御免のみならず、役者より種々の馳走は愚か、見物料まで提供せらるゝに至りては、冥加余りて、恐ろしき程ならずや。我が国民は倫敦、巴里の市民が、父は子を失ひ、妻は夫を失ひ、姉妹は兄弟を失ひ、而して残留する彼等さへも、日夜敵の長距離砲弾や、飛行機、飛行船の襲撃に威脅せられて、殆ど神経患者たらしめつゝある際に、悠々黄金の雨に潤ひ、泰平を楽めり。
其の一苦一楽、恰も現世に、地獄と極楽とを、活現したるの看なしとせず。是れ乃ち表面の得失と為す。


世の中は苦あれば楽ありでなくてはいけません。しかし日本はあまりに苦を味わわなかった。
楽あれば楽ありだけだった。ヨーロッパでは一般市民まで命懸けだったのに、日本人は安逸をかさばった。おもてなしつきの高みの見物という贅沢を決め込んだ。成金が札びらを焼いて明かりにしたとか、普通の職工が時間外手当てをたっぷり貰って大店の若旦那同然の暮らしをし、廓から工場に通ったとか、みんなこの時期の話です。つくづくおめでたすぎて、楽してあたりまえという時間が続きすぎたと、蘇峰は言うのです。
p34
彼は『大戦後の世界と日本』で、こう言います。

  古人は衣食足りて礼節を知ると云へり。されど我が社会は、財嚢充実して、否な財嚢の充実を夢みて、昏睡状態に入れり。改革何物ぞ、進歩何物ぞ、向上精進何物ぞ。此の如くして日本国民は、世界列強の競争場裡に、独り取り残されたり。然も我が国民は尚ほ、世界列強に一頭地を抜きつゝ、前進しつゝありと夢想し居るものに似たり。
蘇峰は欧州やロシアや米国も、第一次世界大戦で高い代価を支払ったて戦争と平和について心底学べたことがあったが、日本は戦争の舞台に立たず見物席で呑
気にしているばかりであったがゆえに、学び損ねてしまった。その学習の差がじきに国難を招き、日本を滅ぼすことにつながりかねないと蘇峰は警笛を発したのでした。

本書が次に取り上げたのが白樺派作家「有島武郎」の舅にあたる陸軍大将神尾光臣である。

第一次世界大戦青島攻略戦において日本陸軍の神尾光臣将軍は、近代的な新しい戦争で、旅順攻略における乃木将軍の失敗を繰り返さなかった。

神尾将軍は西南戦争に出征し、日清戦争では大山巌の情報参謀、日露戦争では乃木将軍傘下の旅順攻囲軍の歩兵第二二旅団長であった。

戦史的には青島攻略は、戦意のないドイツ軍相手に楽勝の戦いで済まされていますが、本書を読み、青島攻略が楽勝で終わったのは旅順攻撃の戦訓を十分に生かした神尾将軍の功績が非常に大きいといえます。旅順よりは小さいとはいえドイツが心血注いだ要塞である青島を大きな犠牲を払わず陥落させたのは神尾将軍が近代戦はいかに戦うか熟知していたからこそ大勝できたのであって、神尾将軍の功績が非常に大きいことに気が付きました。目から鱗が落ちました。

神尾将軍が行った近代戦とは、歩兵が突撃して砲兵が支援する戦争ではなく、砲兵の火力で片づけてしまい、歩兵は後始末に行くだけといった戦争です。火力の強い方、弾数の多いほうが勝つ、白兵戦や突撃戦ではない、遠距離から物量で圧倒しようという戦争です。

青島攻略戦で近代戦を行った帝国陸軍が第二次世界大戦におい近代戦との対極にある精神主義に陥り、なぜ玉砕や特攻をする軍隊になってしまったのか・・・

本書は鋭く分析しています。

日本は日露戦争の教訓から青島攻略を近代戦で戦うことができた。
ところが、第一次世界大戦緒戦において列強各国は精神主義的な肉弾戦が繰り返されました。これは日本がロシアの旅順要塞を陥落させた衝撃がいかに大きかったか・・・・ロシアですら第一次世界大戦の緒戦で日本軍のごとく肉弾戦を繰り返した。

日露戦争を観戦した欧州の武官達が203高地において日本が壮絶な肉弾戦を繰り返した鬼神のごとく戦った日本軍の印象が強烈で、近代戦で勝利した結果旅順を陥落させたことを忘れさせたからのようだった。特にフランス陸軍・ドイツ陸軍が日露戦争における日本軍歩兵の鬼神のごとくの突撃主義を評価していた。奉天開戦で圧倒的多数のロシア軍を劣勢の日本が打倒したことを評価していた。皮肉なことに第一次世界大戦では日本発の精神主義的な超肉弾主義が支配していた。

これが精神主義的なタンネンベルグ信仰となり、第二次世界大戦での日本陸軍の精神主義に繋がってしまう皮肉な結果となってしまうのであった。

タンネンベルグの戦いとは(wiki)。
第一次世界大戦におけるドイツ帝国とロシア帝国間の最初の戦いである。1914年8月17日から9月2日にかけて、ロシア軍の第1軍(6個師団半と騎兵5個師団)・第2軍(10個師団と騎兵3個師団)と、ドイツ軍の第8軍(7個師団と騎兵1個師団)によってドイツ領内の東プロイセンのタンネンベルク周辺で戦われた。ロシア軍の兵力はドイツ軍の2倍以上であったが、この戦いの結果、ロシア第2軍は東プロイセンで包囲殲滅され、ロシア第1軍はロシア領内への撤退を余儀なくされた。この戦いで注目すべきは、ドイツ軍が鉄道を利用して、素早く大量の兵力を移動させ、ドイツの1個軍が、ロシアの2個軍を各個撃破することに成功したことである。

昭和初期からの陸軍大学校において、物量戦、国力によって勝敗が決まるものだとタンネンベルグの戦いにおいても実証されたにもかかわらず、タンネンベルグの戦いの果敢な決断や精神主義がいつしか注目され、桶狭間の戦いのように勇気や決断や精神力=突撃精神信仰がはびこってしまった。日本陸軍の最高エリートは、指揮官や参謀としてタンネンベルクをいかなる戦場でも再現できるようにと、刷り込み教育を徹底され続けたのです。


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p26-27
このような支離滅裂な文章を読むと、これらの「国策」を作成した当時の政策担当者の知性と能力に疑いを持って当然だろう。そして、戦後流布された、視野が狭い馬鹿な軍人が日本を戦争に引きずり込んだというイメージに納得してしまうかもしれない。では、そんなに彼らは愚かだったのだろうか。答えは否である。

「国策」の決定者たち

戦前の軍は、その人材調達において、国民に最も門戸を開放していた組織であった。成績優秀でも経済上の理由から高等学校への進学を諦めざるを得ない階層の子弟の進学先は、陸士(陸軍士官学校)・海兵(海軍兵学校)か、師範学校(小学校教員を養成する)であった。その門戸の広さは、他の政府機関と比較しても歴然としている。そして、軍の人事は徹底した成績主義であった。つまり、最も幅広い階層から優秀な人間を集めて、さらに栄達に向けて組織内で競わせる、きわめて公平な組織が戦前の軍だったのである。

戦後、教育の機会均等が進み、より多くの優秀な人材が霞ヶ関に集まるようになった。一番人気は今も昔も財務省(旧大蔵省)である。その優秀な彼らが、バブル経済とその後の「失われた十年」を招来したことは、記憶に新しい。問題は、そのような官僚の能力にではなく、組織が持つ行動原理にこそ存在した。結果論から軍人を馬鹿呼ばわりすることは簡単である。しかし、そのような態度は、膨大な犠牲を払った戦争から教訓を得る貴重な機会を失わせることになるだろ。

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「国策」決定の手順
p38-41
 さて、「国策」は、どのような過程を経て、正式決定されたのだろうか。
問題は、「軍部」や陸軍が決して一枚岩ではなく、むしろパラパラたったことである。例えば、参謀本部では次長直属の第二十班が戦争指導を担当し「国策」の策定にあたったが、作戦部長~第二課(作戦課)のラインも「国策」を起草してイニシアチブを握ろうとしていた。つまり、「国策」は初発の時点から、軍官僚機構内の主導権争いを反映していたのである。

これらの原案は、次に部内調整というハードルをクリアしなければならなかった。官僚は、その主管業務の専門性を根拠に、所属する部署の利害を「国策」に盛り込もうとする。巨大組織の常として、この段階から紙の上での戦いが始まっているのである。

特に陸軍は組織が大きかったため、内部の調整が大変たった(図3)。二十班は参謀本部内をまとめた後(第1ステージ)、軍務局の軍事課長・軍務課長(及び高級課員)らと摺り合わせて(第2ステージ)、海軍に提示する(第3ステージ)。陸軍の二十班に当たるのが、海軍の軍令部第一(作戦)部長直属(甲部員・乙部員)であった。彼らは同じ軍今部の作戦課長、海軍省軍務局のI・二課長らと協議し、局部長レベルにあげる。

問題がなければ、そのまま大本営陸海軍部の原案として連絡懇談会に提案されることになる(第4ステージ)。しかし、事務当局の折衝でまとまらない場合は、省部の局部長レベルで攻防が繰り広げられた(陸海軍の軍務局長と作戦部長の四名が主)。開戦直前の日米交渉のような重大問題は、このレペルでの調整がメインとなり(外交問題なので、外務省のアメリカ局長がメンバーに加わる)、最後は大臣・統帥部長クラスの直接交渉まで待ち上がった。それでもまとまらなければ、玉虫色の作文で問題を先送りするか、それもできずに突き詰めれば内閣崩壊である。

また、連絡懇談会に提案されたからといって、「国策」はすんなりと可決されたわけではない。先の「対仏印、泰施策要綱」のように、会議が紛糾した挙げ句に本文と矛盾する文章が末尾にべたべたと添付される例は典型である。

そして、連絡懇談会で決定された「国策」をどのように取り扱うかは、その場の判断に任された。軽易なものは関係者限りの申し合わせとなるが、重要事項は天皇に説明された。その場合、統帥部から上奏(天皇に申し上げること)するか、首相が上奏するか、それとも両者が共同で上奏するかは、重要度・必要性に応じて対応された。上奏した後の扱いもさまざまであった。単に天皇の耳に入れるだけか、それとも裁可を仰いで允裁(臣下の申し出を許す)を得るかで、拘束力は異なる。先述したように、より重要な案件は宮中で御前会議を開催して同じ案件を決定し、権威付けがはかられた。その際、天皇は原則的には発言しないこととなっており、枢密院議長が代理をつとめていた。

このようなコンセンサス方式による文案の決定のありようは、先に指摘した特徴を「国策」に刻印した。明確な意思決定が困難な場合の「国策」決定の特徴を改めて整理すると、

①「両論併記」=一つの「国策」の中に二つの選択肢を併記する。二つどころか、多様な指向性を盛り込み過ぎて同床異夢的な性恪が露呈する場合もある

②「非(避)決定」=国策の決定自体取り止めたり、文言を削除して先送りにすることで対立を回避する

③ 同時に他の文書を採択することで決定された「国策」を相対化ないしは、その機能を相殺する

「両論併記」に象徴される「国策」内部の矛盾は言うに及ばず、それに従って策定された筈の具体策との矛盾など、その例は枚挙に暇がない。つまり、政策担当者の対立が露呈しないレベルの内容でとりあえず「決定したことにする」のが「国策」決定の制度であった(「両論併記」については、その提唱者である古沢南『戦争拡大の構図』青木書店 86年、を、「非決定」については、拙著『日米開戦の政治過程』吉川弘文館 98年、”非決定”という恐るべき「制度」『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下』NHK取材班編著 NHK出版11年、を参照)。
結局は日本という平和な談合国家の構造的欠陥であると思うのです。

私は憲法改正論者ですが、未だに憲法九条を守ろうという守旧派の方々はもちろんのこと、プログレッシブな保守派で改憲に賛成の方々ですらこの欠陥に気が付いているのは少数派だと思います。

憲法を改正したとしても、その憲法が日本国の構造を組織の利益より国益よ優先する仕組みに変化させなければ日本の未来は暗いと思います。

P44-47
官僚や政治家特有のレトリックである。現代でもその傾向は顕著だが、折衝の過程で拠って立つ論拠を変更することは、彼らの常套手段である。人間である以上、相手や状況によってレトリックを変えることは珍しいことではないが、政治家や官僚の場合は筋金入りである。

そして、この時期の日本外交の重要なキーパーソンだった松岡洋右外務大臣(第二次近衛内閣)は、能弁かつ支離滅裂な言動で有名な人物であった。松岡は連絡懇談会の席上で目まぐるしく意見を変え、そのレトリックが一八〇度ひっくりかえった場合もあった(典型的な例は、シンガポール攻略論〈南進〉から撃ソ論〈北進〉 への転向である)。そのような発言をどれだけ集積しても、彼が何を考えていたかを理解できるとは思えなくなるのが、通常の感覚だろう。これは松岡と折衝していた当事者でも同様だった。

しかし、このような松岡の逸脱的な言動も、広いパースペクティブと長いタイムスパンから検証すれば、それなりの合理性を有していた。当事者のなかにも、たとえ松岡が興奮して喋りまくっても、一晩おけば頭が冷えて冷静な判断をすると観察している者もいたのである。 問題は、松岡が何を喋ったかではなく、その言説がどのような効果をもたせようとして発せられたか、かつどのように政局を動かしたかである。松岡の支離滅裂な言動の奥底にどのような考えがあったかを示す逸話がある。彼のゴーストライターを自称する外務官僚の加瀬俊一に対して、松岡が語った言葉である。「外務省にデモが押しかけてきたらどうするか。大手をひろげて立ちはだかってはいけない。デモは凶暴になるばかりだ。いいかね、デモの先頭に立ってつっ走るんだ。いっしょに走る。そして、次の角でうまくまがるんだ」(『加瀬俊一選集 戦争と平和シリー ズV 日本外交の旗手』山手書房 84年)。

同様のことは他の政治勢力にも指摘できる。「国策」の折衝過程は、説得のための論理が横行 する場面でもあった。特に松岡はブラフを多用する政治家だったため、松岡を説得する側も勢い 強硬な言質を弄することがしばしばたった。つまり、文言をめぐる紙の上のパドルと相手を説得するための言葉のパドルが常に繰り広げられていた。戦いである以上、勝利が自己目的化してレトリックの整合性が軽視されるのも当然だろう。これが、日本の政策決定の常態だったのである。

このように、日本の意思決定システムは、「船頭多くして船山に登る」状態だった。何か有効な解決策を実行しようとしても、誰かが強硬に反対すれば決定できない。まさに独裁政治の対極であった。

ゴミ箱モデル

このような混沌に満ちた意思決定状況は、果たして日本に特有だったのだろうか。実は、そう でもない。日本よりもリーダーシップや責任体系が明確とされるアメリカにおいても、意思決定状況をカオスと捉えて説明しようとする議論がある。社会学者コーエン、マーチ、オルセンブルウェー)らが提唱した「ゴミ箱モデル」である。

この議論は、人間がさまざまな選択肢の中から最適のものを選ぶとする合理的意思決定モデルとは対極にあり、意思決定は場当たり的な決定の積み重ねと説明される。そもそも、我々が住む世界では、選択肢と予想される結果との関係が曖昧である。さらに、その選択に関与する集団(これも一定ではなく、入れ替わりがある)の関心や目標も曖昧である。そのような条件の下での選択は、まさにゴミ箱(選択機会)にポンポンとゴミ(条件)が投げ込まれるように決定される。いったん決定されればゴミ箱は退場するが、状況に応じて新たなゴミ箱が登場し、同様の過程が生起するというのである。つまり、全く異なる条件下での選択が繰り返されるため、そこには時間軸を貫く一定の構想は存在せず、局面局面の場当たり的な決定しか見いだせない(ゴミ箱モデルに関する平易な解説は、鎌田伸一 「対米開戦経緯と意思決定モデル」『軍事史学』99・100合併号、90年、を参照)。

このようなモデルで考えれば、開戦過程で投げ込まれた条件は何だったかを検討することが課題となろう。また、政治学者丸山員男は、日本の政治を神輿に喩えた(確固たる中心がなく、多くの担ぎ手が押し合いへし合いしているうちに物事が思いもかけぬ方向へ流れて行く)が、常に変動する神輿の担ぎ手を確定することは重要である。陸海軍の中堅幕僚(陸軍省、海軍省という軍政担当と、参謀本部と軍令部という統帥部に、それぞれ存在)、局部長(陸海の軍務局長と作戦部長)、陸海両相(陸軍大臣と海軍大臣)と陸海統帥部長(参謀総長と軍1 部総長)、文官の閣僚では外務大臣、その下のアメリカ局長。予算を司る大蔵大臣、統制経済の下で「物の予算」に相当する物資動員計画を担当する企両院総裁、そして、それら閣僚の筆頭である総理大臣。政策決定に直接的な責任があったのは彼らである。さらに統治権の総攬者であり、陸海軍の大元帥である天皇も、検討の対象となる。加えて、明治憲法体制では、これら以外の勢力も無縁ではなかった。大皇の弟である高松宮、枢密院、さらには重臣(総理大臣経験者)も意思決定過程から完全に疎外されていたわけではない。

となると、なぜ日米開戦のような重大問題で、これら当事者全員の意思統一が可能となったのだろうか。それは、日米間戦が、それ自体を目的として追求された結果、選択されたわけではなかったことも一因である。これから、そのプロセスを詳しく見ていくが、その中で明らかになってくることは、むしろ、効果的な戦争回避策を決定することができなかったため、最もましな選択肢を選んだところ、それが日米開戦だったという事実である。

(略)
本書はこのゴミ箱モデルを使い昭和16年開戦に至る過程が本当によく分析されています。詳細は本書を是非ご一読下さい。

最後に昭和天皇が、帝国憲法を順守しながらも、いかに、開戦に抵抗していたかの部分。文字数の関係で画像です。
p66-68
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(略)
【あらすじ】
急死したはずの父親から送られてきた一通のメール。それがすべての発端だった。創薬化学を専攻する大学院生・古賀研人は、その不可解な遺書を手掛かりに、隠されていた私設実験室に辿り着く。ウイルス学者だった父は、そこで何を研究しようとしていたのか。同じ頃、特殊部隊出身の傭兵、ジョナサン・イエーガーは、難病に冒された息子の治療費を稼ぐため、ある極秘の依頼を引き受けた。暗殺任務と思しき詳細不明の作戦。事前に明かされたのは、「人類全体に奉仕する仕事」ということだけだった。イエーガーは暗殺チームの一員となり、戦争状態にあるコンゴのジャングル地帯に潜入する。
【ネタバレ】
ストーリーは、「古賀研人の創薬」と「イエーガーのルーベンス脱出作戦」とに大きく分かれている。

古賀研人は、父親からの不可解な遺言(父親自身は、自身が大動脈解離で亡くなるとは思っていなかったが)で、肺胞上皮細胞硬化症の治療薬をつくろうとする。彼には『GIFT』という創薬のソフトが託された。そのソフトは、現代の科学では実現不可能なような、どんな創薬をも可能とするようなものだった。ところが、そんな彼に警察の手が伸びる。コンゴにいる"アキリ"の抹殺を試みるアメリカ大統領が、FBIを使い、創薬を阻止しようとしているのだった。

イエーガーは、未知のウィルスに感染したとされる現地民掃討作戦のため、現地入りしていた。ところが、現地にいたピグミー族は、ウィルスなどに感染してなかった。ルーベンスを庇護する生物学者・ピアースに説得され、実は狙いがアキリにあると知らされる。アキリは、新人類とでもいうべき、恐るべき知能を備えた子供だった。その新人類に支配されることを恐れたアメリカ大統領は、ルーベンス抹殺を指示したのだった。コンゴを脱出し、イエーガーはピアースに日本へと向かう警護を依頼する。その依頼の報酬は、肺胞上皮細胞硬化症で苦しむ息子の治療薬だった。
(略)

600ページ近くある本だが・・・大変面白かった。だが、だが・・・読み終わって悪意ある著者の自虐史観に反吐を吐きたくなった。本好きの私からすれば著者の自虐史観さえなければ万人にお勧めできる最高のエンターテイメントだ。しかし著者の自虐史観は現代史や世界情勢に無知な中高校生大学生には読ませたくないくらい、糞な世界観だ!日本人としての矜持の欠片もない著者の自己愛による自虐史観は醜く感じる。焚書にしたいくらいの残念なベストセラーだ。

著者の世界観は東京裁判史観+韓流汚染+陰謀史観である。

設定がこの著者の世界観だ。日本人主役の大学院生”古河研人”をサポートする韓国人留学生”李正勲”が登場する。頭脳明晰なのはよしとしよう。

だが戦後流布された自虐史観をもとに朝鮮人の嘘に載せられ日本人が残虐で、朝鮮人を差別している卑しい民族であると研人に著者の自虐史観を語らせている。

さらにコンゴでの傭兵4人のうち1人が日本人で、日本人だけが生まれつきの殺人者で残虐性を持った殺人者として設定する神経はどうかしている。日本人の傭兵のミックの存在の無意味さは4人の傭兵の中で読者に最も苛立ちを覚える人物として造形され、最後は「神の反乱軍」というアフリカ民兵の子供兵との戦いの最中に、イエーガーに射殺される。アフリカ民兵の子供兵をジェノサイドするのが日本人である意味があるのだろうか?

不自然なほど神経を逆なでする言動をとり続ける日本人傭兵ミックを登場させた著者の真意は、著者の自我の維持としか思えない。イエーガーに射殺される理由がまったく意味不明で納得できない。著者の心に巣食う邪悪な存在としての日本人を屠殺することで精神を安定している著者は統合失調症としか思えない。

GHQが対米反報復戦争を日本人に起きさせないために植え付けらた”日本人は残虐性が高い民族である”という洗脳から脱していないのである。

東京裁判史観とは連合軍が行った東京大空襲や原爆投下、ソ連の満州進攻で行われた大量虐殺(ジェノサイド)を隠し正当化する為の洗脳なのだ!

p143-146
「あいつらは信用ならん。シナ人も朝鮮人もだ」と酒の席で力説する伯父の言葉に研人は最初素直に驚いた。甲府の街に、そんなに多くの外国人が居住しているのかと意外だったのである。
「伯父さんたちは、中国とか韓国の人と付き合いがあるの?」
研人が訊くと、伯父は目を白黒させてから言った。「ない」
今度は研人が目を白黒させた。「付き合ったこともない人間を嫌うって、どういうこと?」
すると、横の祖父が怖い顔にな゜て割り込んだ。「おじいちゃんはな、若い頃、東京に出て朝鮮人と喧嘩になったんだ。それでひどく痛めつけられた」
腕っ節の強吝が自慢だった祖父に、研人は訊いた。「日本人と喧嘩をしたことは?」 「そんなのは何度もある」 「じゃあ、日本人も嫌いになった?」
祖父はあんぐりと口を開けた。「馬鹿なことを言うな。日本人が日本人を嫌いになるわけがないだろう」
「それはおかしいよ。同じ喧嘩なのに、どうして朝鮮半島の人たちだけ嫌うんだよ?」研人は、祖父の言う「朝鮮人」を「朝鮮半島の人たち」に言い換えた。老人の口から「朝鮮人」という言葉が発せられると、特定の民族を意味するだけの単語が、なぜか侮蔑的なニュアンスに塗れてしまうからだった。薄汚い差別感情を感じ収った研人は、彼らとは同類になりたくないと思った。「結局、おじいちゃんも伯父さんも、無理に理由をこじつけて相手を嫌ってるだけじゃないか」    
「屁理屈を言うな、馬鹿」と叱りつけた祖父の顔には怒気が浮かんでいた。心の奥底に淀んでいた根深い敵意が、一気に噴出したかのようだった。
「こういうことを言いたい年頃なんですよ」伯父も、研人を見下した口調で言った。「お前は父親に似て、理屈っぽいな」
こんなことで憎まれるとは、研人からすれば心外だった。祖父も伯父も、肉親への愛情よりも、 「シナ人」ら「朝鮮人」への憎悪のほうが大きいのではないかとさえ思えた。自分の住む狭い町しか知らない人間が、外国の人々を劣等と決めつけているのだ。しかし彼らが口にする「シナ人」や「朝鮮人」という言葉は、一体、何を指しているのか。会話を交わしたことすらない人々か。だとするなら、彼らはその言葉が意味する対象を知らないはずなのだ。いい歳をして、そんな矛盾に気づか ないほどのお粗末な頭なのかと、中学生の研人は呆れてしまった。

それからしばらく経って、研人は日本人が起こした大量虐殺(ジェノサイド)を知って慄然とした。関東大震災の直後、「朝鮮人が放火をし、井戸に毒を入れている」などの流言が飛び交い、政府や官憲、新聞社までもがこの根も葉もない噂を垂れ流し犬ため、煽動された日本人が数千人の朝鮮半島出身者を虐殺したのである。銃や日本刀、梶棒などで晰り殺しにした他、犠牲者を仰向けに地面に縛りつけてその上をトラックで轢くなどという残虐行為までが行なわれた。当時の日本人には朝鮮半島を武力で植民地支配した後ろめたさがあり、報復されるのではないかという恐怖が裏返って凶暴化につなが゜たのだという。そのうち暴力は見境がつかなくなり、多くの日本人までが在日朝鮮人と間違えられて殺された。

研人の背筋を寒くさせたのは、この蛮行が、多数の一般市民の手によって行なわれたということであった。人種差別主義者の祖父や伯父が現場にいたら、間違いなく大虐殺に加わっていたはずだ。普段、他民族への差別感情を平気万口にするような連中が、何かの拍子に残虐性を爆発させて殺戮者に姿を変えるのだ。

彼らの心の中には、どんな魔物が棲みついているのだろう。殺されてしまった人々の恐怖や痛みは、どんなものだっただろう。日本人の怖さは、日本人には分からない。

このおぞましい想像の裏で、研人口とって一抹の救いになったのは、伯父が憎々しげに言った「お前は父親に似て」というフレしスたったい研人が中学生になるまで、日本人社会に潜む差別感情に鈍感だったのは、家庭環境によるものだった。父の誠治は、海外からの留学生にとりわけ好意的で、「劉さんがいい論文を書いた」とか「金君の学会発表は見事だった」などと、事あるごとに嬉しそう
に話していたのである。そしてその性向は、一人息子に受け継がれていた。研人にとっては父親に似ていて誇らしく思える、唯一の美徳だった。

阪神大震災の時は在日韓国・朝鮮人と日本人が助け合ったことだし、と、研人は自宅アパートの階段を上りながら考えた。時代は変わりつつあるのだ。これからやって来る客が、どうか日本人を怨んでいませんようにと祈るしかない。愚かな先祖を持つと、末代が苦労する。

こういった、反日日本人が沢山存在することの方が日本の弱点であり、日本人として恥ずべきことである。関東大震災において朝鮮人アナーキスト達が蜂起した史実や、朝鮮人を日本政府が保護したこととか何も知らないのだろう。
詳しくは・・

東京裁判史観においては反日日本人は自国の先達達が築き上げた日本と日本人を否定する。
薄汚い差別感情を感じ収った研人は、彼らとは同類になりたくないと思った。
普段、他民族への差別感情を平気万口にするような連中が、何かの拍子に残虐性を爆発させて殺戮者に姿を変えるのだ。
東京裁判史観を有する日本人にとっては自我を確立する唯一の手段として近代日本と正しい歴史を主張する我々保守派を否定することである。

東京裁判史観は明治維新~終戦に至るまでの気高き日本人を否定することが彼らの信条だ。
>愚かな先祖を持つと、末代が苦労する。

彼のプロフィール
日本の大学を中退し、1984年から映画・テレビなどのスタッフを体験。1989年に渡米し、大学で学びながら映像業界のスタッフとして働く。1991年に帰国後、テレビ・映画などの脚本家となる。
それと本書謝辞p593
さらに、韓国の文化について興味深い話を聞かせてくれた、

キムーテワン氏

キムーヒョンオク氏

チエージョンファン氏

イーウンギョン氏の皆様にも深い感謝申し上げます。
とある
彼らの心の中には、どんな魔物が棲みついているのだろう。殺されてしまった人々の恐怖や痛みは、どんなものだっただろう。日本人の怖さは、日本人には分からない。
岡本喜八門下の著者は反戦思想もあったろうが、こんなことを書いてしまう理由は私なりの想像だが・・・こんなところだろう。

同世代である高野は1989年米国留学中日韓関係については無知だったと思う。
ところが反日教育を受けて育った韓国人留学生に韓国の主張を吹き込まれたのだろう。異国で苦労する著者にとっては同じ東洋人であるという勘違いから韓国の主張を認めることがグローバリズムと勘違いしたのだ!
※そういえば似たような例はわがブログのストーカー投稿者にも一人いたいた・・・(笑)

我々が日本人現在あるのは、先達の努力の積み重ねではないか。世界史的に考え明治維新以降の日本人が有色人種として唯一白人に怯まず矜持を維持し、奮闘努力しなければ、いまだ世界は白人が植民地経営をしていただろう。そして白人達は、世界中でジェノサイトを今の世界以上に自由にしてただろう!

欧米人からすれば日本人は自分達を没落させた敵役である。華夷秩序の世界観から抜け出せない朝鮮人からすれば、日本の成功は嫉み嫉妬する存在である。日本人のストーカーである朝鮮人は欧米人に日本の悪口を言いふらす行為を今もしている。そこで感化されたのが著者高野なのだろう。

 小説で思想を語る手法はあるが、単なる物語の叙述者という立場を逸脱して、ページの間に思想を語るのはルール違反である。思想や歴史観を語りたいのであれば、語る主体を明確にした本において堂々と意見を述べるべきだ。

品性の無いヘイトスピーチは日本人としてすべきではないが、新しい日本人は中国や韓国に対し媚びたり、過剰な自虐史観を持つべきではない。正論を正々堂々意見を言うべきである。東京裁判史観の呪縛から抜け出せない。高野和明こそ旧人類の代表と言えよう。
 
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p179-181
 松平永芳は宮司退任直後の二〇〇二年、A級合祀(一九七八年十月十七日)を決断した経緯について、次のように述べている。

私は就任前から、「すべて日本が悪い」という「東京裁判史観」を否定しないかぎり、日本 の精神復興はできないと考えておりました。それで就任早々書類や総代会議事録を調べますと、その数年前に、総代さんのほうから「最終的にA級はどうするんだ」という質問があって、合祀は既定のこと、ただその時期が宮司預かりとなっていたんですね。

私の就任したのは五十三年七月で、十月には、年に一度の合祀祭がある。合祀するときは、昔は上奏して御裁可をいただいたのですが、今でも慣習によって上奏簿を御所へもっていく。

そういう書類をつくる関係があるので、九月の少し前でしたが、「まだ間に合うか」と係に聞いたところ、大丈夫だという。それならと千数百柱をお祀りした中に、思いきって十四柱をお入れしたわけです。

その根拠は「日本とアメリカその他が完全に戦闘状態をやめたのは、国際法上、二十七年の四月二十八日」だから、処刑されたA級は「戦闘状態のさ中に敵に殺された」も同然だとされた。

(略)いささか強引な論理であるだけに、松平も各方面からの異議や苦情が出るのを予期したのか、「思いきって」と表現している。そして、それなりの配慮も忘れていない。

第一のハードルは十月六日の総代会であったが、一九七〇年の総代会で合祀は「既定のこと」(決定ずみ)という論理で臨んだと思われる。しかも八年間に総代の多くは入れ替り、合祀推進派の青木一男が健在だったから、難なく合意が得られたのだろう。

第二のハードルは政界だったが、靖国法案が流産して復活の見通しはないと判断した松平は『中外日報』(九月七日付)で、靖国は国や政治家の世話にならず、「国民総氏子」の理念に支えられて自立する方針を明らかにしじいた、「”国営化”には否定的」の大見出しを打ったこの報道で、松平は「ゴーイング・マイウェイ」を宣言したと言えよう。

第三のハードルは宮内庁筋であったが、新祭神の上奏簿を届ける(この年は十月七日)のは「慣習」にすぎないと割り切り、異議があっても独立宗教法人の決定として押し切る覚悟だったかと思われる。
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p183-185
こうした極端な秘密主義のおかげとはいえ合祀の事実が半年も明るみに出なかったのは、ふしぎとしか言いようがないが、松平にとっては思わぬ幸運であったろう。マスコミも半年前の旧聞に属する既定事実をむし返し騒ぎたててもしかた、がない、と早々にあきらめてしまったからである。しかし長い目で見ると、松平が関係各界のコンセンサスを得るための根まわしを怠ったことは、不満と不信の種を植えつけてしまう。神社界も、その例外ではなかった。

たとえば神道界の理論的支柱とされ、筑波前宮司が青木ら総代会の合祀強硬派たちを抑えようと設置した「祭祀制度調査委員会」(一九六一-七六)の中心メンバーでもあった葦津珍彦は、七九年二月のある日、子息の泰国(『神社新報』編集長)を派遣して国民のコンセンサスを得られない「A級の独断専行による合祀」に抗議した。A級戦犯には「悲惨な敗戦へとミスリードした責任がある」という立場からだったが、松平は「国から名簿が来たら合祀する。それが筋だ」とくり返すだけであった。

だが葦津父子の動きは水面下にとどまる。公然化して神社界が分裂しかねないリスクを避けたのであろうが、同様の動きは宮内庁内部でも起きていた。徳川義寛(侍従次長、ついで(一九八五――八八年侍従長)の回想録(一九九七)から、要所を引用したい。

靖国神社の合祀者名簿は、いつもは十月に神社が出して来たものを陛ドのお手元に上げるこ とになっていたんですが、昭和五十三(一九七八)年は遅れて十一月に出して来た。
「A級戦犯の十四人を合祀した」と言う。私は「一般にもわかって問題になるのではないか」と文句を言った、が……私は東条さんら軍人で死刑になった人はともかく、松岡洋右さんのように、軍人でもなく、死刑にもならなかった人も合祀するのはおかしいのじゃないか、と言ったんです。永野修身さんも死刑になっていないけれど、まあ永野さんは軍人だから。
でも当時、「そちらの勉強不足だ」みたいな感じで言われ、押し切られた……国を危うきに至らしめたとされた人も合祀するのでは、異論も出るでしょう。筑波さんのように、慎重を期してそのまま延ばしておけばよかったんですよ。

関連して昭和天皇が亡くなられた直後の一九八九年(平成一) 一月十六日付の朝日新聞に、次のような記事が掲載されている。

イメージ 3亡き陛下は、A級戦犯が合祀された後の靖国神社へは行かれなかった。当時の侍従長だった徳川義寛参与よると、昭和五十三年秋にひそかに合祀される前、神社側から打診があり。
「そんなことをしたら陛下は行かれなくなる」と伝えたという。

徳川の二つの証言をつなぎあわせると、合祀の前に神社側から打診があり、反対の「御内意」を伝えたにもかかわらず神社は合祀を強行し、一か月後に合祀者名簿を届けてきたという経過になる。ただし打診した日、名簿を受けとった日付は不明、またやりとりの当事者が誰だったのかもはっきりしない。

これに対し、靖国神社はのちに「七日新祭神合祀ノ儀上奏並二十八日勅使御差遣申請ノタメ池田権宮司、宮内庁侍従職及掌典職へ出向ス。古河禰宜、林権禰宜随行ス」と記載されている十月七日の社務日誌(図5-I)を公開、この日に上奏文とA級をふくむ全合祀者の名簿を宮内庁へ届けたはずで、前日に総代会の了承を経ているから手続き上の過怠はないと反論する。

だが、松平永芳宮司ら一部総代の善意の暴走が昭和天皇の逆鱗に触れたのは間違いなさそうだ。

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そこで徳川説と靖国の言い分をめぐる関係者の諸説(一部は要旨)を列挙して、争点をさらにしぼってみることにしたい。

○馬場久夫談話録(二〇〇七年)
十月七日とは別に十一月頃、池田権宮司に横地主典が随行して上奏名簿を  宮内庁へ届けたと記憶する。そのさいだったか、「これでは陛下はお参りでき  なくなる」と言われたと横地から 聞いた。
その後、参龍の席で数人の神職が池田権宮司を囲んで「なぜあんなことをし  たのか」と聞くと、応待した侍従から「これで陛下はお参りに行けなくなります   が、いいんですね」と念を押され「わかっています」と答えたとのことであった。  A級合祀はいわゆる「事後承諾」だったと思う。

○林昭太郎談(二〇〇七年三月七日)
十月七日、合祀事務を担当する調査課長の私は古河調査部長とともに、池   田権宮司に随行して宮内庁へ行った。A級十四名の「昭和殉難者」は厚い表  紙をつけた別冊となっていたが、七日に持参した記憶はない。横地はおくれて  それを届けたのかもしれない。「事後承諾」説に同感する。

○岩井克己談
『侍従長の遺言』は宮内庁詰記者として親しかった私が、徳川からのヒアリン  グをまとめたものだが、神社から十月七日の社務日誌に上奏簿を届けた記   録があると抗議され、徳川からの聞きちがいかなと思って、第三刷では「十一  月」を「ふだんよりおそく」と訂正した。

○伊藤智永(毎日新聞記者)の著書
十月七日の「上奏」は合祀者名簿を提出しない目頭での方針伝達に過ぎず、  恐らくは表現も婉曲だったため、宮内庁側はA級戦犯を合祀に含める方針に  ついての単なる「打診」と受け止め、懸念を伝えて制止した。
ところが松平は、戦後の上奏は戦前のような実質的な裁可の権限を伴わな   いのをいいことに、この目頭伝達を以て「上奏」済みと主張し、A級戦犯を含   む「上奏簿」の提出は、合祀が済んだ後で行った。

○松本健一 『畏るべき昭和天皇』
A級合祀の数年後、中曽根首相は「近隣諸国の国民感情に配慮し、首相の   公式参拝を取りやめた。岩見隆夫『陛下の御質問』(一九九二)によると、富   田宮内庁長官から中曽根のもとに、「靖国の問題などの処置はきわめて適切  であった。よくやった、そういう気持ちを伝えなさいと陛下から言われておりま  す」との伝言がもたらされたという。

○富田メモの公表を受けて開催された緊急総代会(二〇〇六年七月二十八日  )における神社側の説明資料(要旨)
昭和四十五年六月の総代会で「速やかに合祀すべきだ」と青木一男氏から   提案があり、筑波宮司が「時期は慎重に考慮し、御方針に従い合祀する」と   述べた。同五十三年十月六日の総代会で、松平宮司から提案があり「一同   異存なし」と再度了承している。翌七日に宮中へ報告した。松平宮司は決して  独断と偏見で決めたのではない。総代会で何度も決めておいて、最後に宮内  庁に相談した。

さて以上のような諸証言をどう読み解くかだが、整理すると次のような複数の筋書が想定できよう。

1、十月七日に上奏文と西田中尉を筆頭者とする出身府県別の合祀予定者名簿  を宮内庁へ届けたさい、A級の十四名は、
a 出身地の府県別に分散して記載し、池田権宮司、が目頭で総代会(六日)   の決定に基づき。合祀を予定していると報告(打診)した。
b 名簿から外した。
2、宮内庁側は担当の徳川侍従次長を中心に対応に苦慮したが、総代(加藤進  、東園佐和子)からの情報もあり、松平宮司の決意が固いと察し、法的な対    抗手段がないことも考慮して、
a 静観せざるをえなかった。
b そんなことをしたら陛下は親拝しなくなると伝え、翻意を期待したが、空振り   に終った。
3、十月十七日の合祀後、松平宮司はA級の合祀に正当性を与えるため、「昭和  殉難者」というカテゴリーの新設を考案、「昭和殉難者(仮称) 一覧表」(図5  ー2)を宮内庁に届け、異議が出ないと見定めたうえ十一月二十四日に、「仮  称」を外した宮司達を発出した。そのさいA級のみを抜きだして浄書した簿冊  を届けたとすれば、「遅れて十一月に出してきた」と徳川が記憶違いした可能  性もある。




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