
【変見自在】 「親授は拒否」 高山正之 週刊新潮 ’12.6.28
新橋駅から少し下った赤レンガ通り沿いにインドネシア料理の店「インドネシ週刊新潮の高山氏のコラムは、東京裁判史観で教育を受け育った私の脳ミソを毎回隅々まで除染してくれる。
アーラヤ」があった。
少し前に92歳で鬼籍に入った中島慎三郎の店だ。あるいは外務省の官僚のだれよりアジアに精通した人と言った方がいいか。
誘われて一緒に行った先にインドネシア大統領が待っていたこともあった。
その折に「彼も偉くなる」と紹介されたのが今の大統領ユドヨノだった。
それだけ顔が広く、かつ信頼されていたのは彼が皇軍の兵士だったからだ。
応召は昭和14年。三軒茶屋の野砲連隊に入り、翌年はもう支那戦線にいた。
南京を捨てた蒋介石軍は九江に逃げ、街を丸ごと接収し糧食を奪った。人々は
自分の街で難民になった。
日本軍が迫ると「長江の堤防を切り」「井戸にペスト菌をまいて」(石川達三『武漢作戦』)また逃げた。
日本軍は街の人々にコメを分け、堤防を直し、井戸水を浄化してから蒋の軍勢を追った。中島はその防疫を担当していた。
部隊は南寧を落として北部仏印に進駐した。 米国は蒋介石を抱き込んで日本軍と戦わせた。そのための武器弾薬をビルマ側から送り込んでいた。
これがいわゆる援蒋ルートで、仏印進駐はそれを潰すための行動だった。
仏印で彼は街ごとにギロチンを見た。子供にも人頭税をかして働かせるフランス人の残忍さも目撃した。自分の国を取り戻したいというベトナム人愛国者、安国柱らに会ったのもこのときだった。
日本と仏ビシー政府は一応友好国同士。彼らに表立って支援はできないので鹵獲した武器を野積みにして彼らに盗ませた。
その武器を手に2000人が決起し仏正規軍と戦い、そして全滅した。
ベトナムの教科書が対仏独立闘争の最初を飾る「戦争」として今に伝えている。
中島は彼らへの武器放置がばれて営倉に入れられたが、「上官も思いは同じですぐ放免された」。
開戦後はマレー、ジャワ作戦に参加した。8万のオランダ軍はバンドン要塞に
龍ったが日本軍800人が攻めると「9日目に降伏した。黄色と戦って死んでも犬死。のんびり捕虜でと彼らは考えていた」。
戦後、虐待されたと言い出し、日本兵を大量処刑したのは「戦わず降伏した臆
病さを隠すためだった。彼らほどの卑劣漢はいない」。 日本はインドネシアを解放すると学校を建て、ジャカルタ語を標準語にして教えた。彼らの軍隊(PETA)も作った。 共通語を持った彼らは初めて守るべき祖国を自覚し、「戦後、戻ってきたオランダ軍と4年間も戦い続けて独立を勝ち取った」。
中島はシンガポールで終戦を迎え、昭和21年夏に復員した。 上官の遺品を届けるため東京・下町の実家を訪ねた。 一面の焼け野原だった。
上官の遺族から米軍の東京空発の話を聞いた。325機のB29が低空で進入し
下町を包むように焼夷弾を落とし、人々が三つ目通りに集まると、黄燐弾を降ら
せて生きながら10万人を焼き殺した「小名木川と横堀川は熱湯でした」と。
「6年間いろいろ戦場を見た。支那人もオランダ人も醜かった。しかしこれほど醜く残虐な戦場は初めてだった」「ここには今も10万人の怨霊が彷徨う。100年先でもいい。米国を焼け野原にし、米国人10万人を焼き殺さねばこの怨霊は消えない」(中島慎三郎「元兵隊日記」)
100年の最初の20年が過ぎたとき、日本政府は東京空襲の指揮を執ったカー
チスールメイに旭日大綬章を授与した。「米国の無差別殺戮に謝罪も賠償も要求ない」ことを形にしろとジョンソンが要求したからだ。
旭日大綬章は天皇の親授なるが、このとき陛下は拒絶された。
100年の半分以上をぎた先日、「国は空襲の死者に100万円を支給する」法案が出てきた。原爆被者だけがカネをもらうのはおかしいという主張か。
あの戦争がもはやたかりの材料でしかなくなったとしたら悲しい。
日本人にとって大東亜戦争の空襲被害を関東大震災や3.11の津波被害などの自然災害と同列に考えている傾向がある。
第一次世界大戦においてはドイツ軍のUボートは無制限潜水艦戦で豪華客船ルシタニア号を無警告で撃沈し、1,198人の犠牲者を出すなど一般市民の犠牲もあったが、戦争での死者のほとんどが塹壕戦で戦った兵士達であった。
ところが、第二次世界大戦において一般市民の犠牲者は甚大な数に及んだ。連合国による戦略爆撃は明らかに一般市民を屠殺する大虐殺・許されない大量殺人行為であった。参考:第二次世界大戦等犠牲者数
卑劣な連合国は自分たちが犯した残虐行為を正当化する為に敗戦国である日本を悪の帝国に仕立て上げる為の理由を探した。南京大虐殺は一般市民の格好をして逃げた国民党軍をゲリラとして大量処刑した事件(戦時においてゲリラは捕虜扱いされない)をあたかも皇軍が一般市民を無差別虐殺したというありもしない作り話が創られてしまった。
大虐殺を行ったのは中国国民党軍である。通州事件において中国国民党軍は日本人居留民を大量虐殺しており、更に国民党軍は平気で自国民を各地で虐殺してまわった。第二次戦後勃発した国共内戦において国民党軍が共産党軍に敗北したのは永年の国民党による所業が原因である。
戦後まもなく、中国は南京事件のことなど気にもしていなかった。
p30-31
時は昭和三十九(一九六四)年七月、毛沢東と会見した社会党議員団の佐々木団長が「日本軍国主義の中国侵略によって大きな損害をもたらしたことを非常に申し訳なく思っております」と挨拶したとき、毛沢東の返答は以下のようなものであった。
「何も謝ることはありません。日本車国主義け中国に大きな利益をもたらしました。お陰で中国人民は権力を奪取しました。日本の皇軍なしには、わたしたちが権力を昨収することは不可能だったのです。この点で、私とあなたの間には、意見の相違と矛盾がありますね」(「毛沢東主席との会見記録」『社会主義の理論と実践』昭和三十九年九月号)
ところが最近の日本人は、謝罪が得意な左翼人士だけでなく、自民党の政治家や外務省役人、格別左巻きではないインテリまでが、謝罪の安売りに励んでいる。なぜなのだろうか。
「歴史認識問題」の発端となった「歴史教科書誤報問題」をまき散らして中・韓の内政干渉を招き入れたマスコミの罪は大きいが、その後それが誤りであったことを認め紙面ではっきりと謝罪したのは、産経新聞だけであり、あとは頬かぶりをしたままである。歴史認識に関するマスコミの不誠実さと政治的偏向は、驚くべきものがある。
それ以上に問題なのは、当時の日本政府の対応である。官房長官を務めていた宮沢喜一は、中・韓をなだめるために歴史教科書の新検定基準として「近隣諸国条項」を導入した。
近現代史の叙述に際しては、近隣諸国との友好に配慮して教科書を作れという、驚くべき内容である。
戦後連合国が戦場で鬼神のように戦い、最後は神風攻撃を行った皇軍と二度と戦いたいとは思わなかった。陸海軍を解体し対米報復戦争を行わないと決めた。
その手段の一つとして日本人に東京裁判史観という自虐史観を徹底的に植え込む洗脳プロパガンダが行われた。
自虐史観の洗脳戦略は日本人に対し非常に的を得た戦略であった。元々誠意溢れるのが日本人である。誤った情報をインプットされ、誠意がある人間ほどこの自虐史観を信じて中国人や朝鮮人に接する。華夷秩序の呪縛にかかっている上、狡猾な中国朝鮮人に謝罪すればするほど、誤った歴史認識が拡大再生産され、次世代へと引き継がれていってしまうのである。
連合国からすれば合理的な行為であり、自国を守る国家戦略であったのだ。
問題なのは終戦から67年も過ぎその歴史的経緯を合理的に判断できず東京裁判史観を未だに信奉する第二第三世代の日本人が生まれてしまったのである。
本書はその元凶がどこにあるかを考察した本である。
そもそも東京裁判とは戦勝国が国際正義に名のもとにおこなったリンチ「復讐裁判」である。
米国は一般市民を虐殺した原爆投下や無差別戦略爆撃を行った。ソ連は終戦間近国際法を無視し、中立条約を一方的に破棄して参戦、戦後も日本軍人多数をシベリアで強制労働させた。これはあきらかに国際法違反である。
戦勝国は日本を戦争犯罪国家に仕立て上げ、植民地支配を含めみずからの犯した犯罪行為から目をそらせる必要があったのだ。
そのためアジア解放戦争であった大東亜戦争を日本による侵略戦争である太平洋戦争として贖罪意識を植え付け洗脳する「ウォー ギルト インフォーメーション」政策が展開された。勝者の側に立つ歴史観をマスコミやアカデミズムに注入され、日本軍が野蛮な犯罪行為を行ったと印象づける情報操作が行われた。完全な思想統制下において教育とマスメディアを通じて展開されたのである。 その集大成というべきものが、現憲法といわゆる東京裁判(極東国際軍事法廷)なのだ。
p36-38
近代法治主義の大原則に違反
第二。国際法土の問題としては以下のものがある。
一 近代法治国家の大原則として、法治主義に由来する罪刑法定主義がある。かつて多くの国では、政治的その他の理由で公平さを欠いた恣意的な裁判が行われたが、そういうことのないように、あらかじめ法という客観的ルールを定め、このような 罪に対してこのような刑罰を科すということを明らかにしてにおくのが近代国家の大原則である。ここから事後法(遡及法)の禁止という原則が生まれる。国際問題を裁く根拠は、国際法しかないが、この裁判では「人道に対する罪」「平和に対する罪」という当時の国際法にない新たな罪を事後的につくってそれによって裁くということが行われたのである。
二 裁判の根拠法とされたのは、連合国最高司令官であるマッカーサーが布告したものである。勝者が軍事占領下において一方的に敗者を裁くために出した命令が、果たして公正な国際裁判の根拠になりうるかという疑問がある。
三 裁判の狙いは、日本が「侵略」国家であったと断定し、すべての戦争責任を被告にかぶせることにあったが、当時の国際法では、しつけ「侵略」の定義が確立していなかった。
「侵略」の内容が明らかでないのに、日本が「侵略」したのは間違いないとされたのである。 「侵略」と簡単にいうが、侵略を定義するのは実際にはなかなか困難なのである。例えば、相手国からしばしば挑発が行われていた場合、それに対する反発、あるいは挑発制止の行動として戦闘行為に訴えたとき、これを侵略と言えるかどうか。例えば日本が支那事変で国民党軍と戦っていたとき、日本の敵であった国民党に大量の武器・経済援助を行っていたアメリカの行為は、挑発に当たらないのか、日本がアメリカに依存していた戦略物資(石油、屑鉄など)の輸出を禁じ、資源のない日本に対し真綿で首を絞めるような政策をとったのはどうなのか、といった問題である。
そのほか、「共同謀議」という英末法にしかない罪状を用いて、昭和の初めに日本政府の指導者が対外侵略の計画を立て、その後着々とそれを実行に移したという筋書きをつくり、被告個人の罪をいちいち論証する手間を省いて有罪とするなど、強引な法廷指揮を行っている。
具体的な史実に関しての判断がいたるところで偏っているという問題も見逃せないが、これは取り上げるときりがないので、残念ながら割愛する。
自国に不利な解釈をする法匪たち
「東京裁判史観」は白黒史観である。善と悪の二分法による歴史の単純化である。これに厳しい検閣下におかれたマスコミが追随した。唯物史観という同類の白黒史観の信者である社会党・共産党支持者がこれに合体した。両党に属する教員が主導権を握っていた日教組が教育現場を支配することによって、占領軍シンパと左翼の統一戦線は強力となり、戦後日本の「正史」がつくられたのである。左翼だけでなく、このような「正史」が教えられ浸透することによって、保守の陣営に属する指導者までが、戦前の歴史認識を突きつけられると、簡単に謝罪の安売りをするようになったのである。














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猪口孝 氏

