Ddogのプログレッシブな日々@ライブドアブログ

政治経済軍事外交、書評に自然科学・哲学・聖地巡礼・田園都市ライフ、脳の外部記憶媒体としてこのブログを利用しています。2020/11/30以前はGoogle検索でキーワードを入れると常に上位にありましたが、日本のトランプ大統領デモを紹介した記事が米国でバズって以降検索アルゴリズムから排除され検索ヒットされにくい状態です。是非ブックマークをお願いします。このブログをご訪問していただいた方の知識や感性として共有できれば幸せに思います。

タグ:歴史


イメージ 1


【変見自在】 「親授は拒否」 高山正之 週刊新潮 ’12.6.28

新橋駅から少し下った赤レンガ通り沿いにインドネシア料理の店「インドネシ
アーラヤ」があった。

少し前に92歳で鬼籍に入った中島慎三郎の店だ。あるいは外務省の官僚のだれよりアジアに精通した人と言った方がいいか。

誘われて一緒に行った先にインドネシア大統領が待っていたこともあった。
その折に「彼も偉くなる」と紹介されたのが今の大統領ユドヨノだった。
それだけ顔が広く、かつ信頼されていたのは彼が皇軍の兵士だったからだ。
応召は昭和14年。三軒茶屋の野砲連隊に入り、翌年はもう支那戦線にいた。
南京を捨てた蒋介石軍は九江に逃げ、街を丸ごと接収し糧食を奪った。人々は
自分の街で難民になった。
日本軍が迫ると「長江の堤防を切り」「井戸にペスト菌をまいて」(石川達三『武漢作戦』)また逃げた。

日本軍は街の人々にコメを分け、堤防を直し、井戸水を浄化してから蒋の軍勢を追った。中島はその防疫を担当していた。

部隊は南寧を落として北部仏印に進駐した。 米国は蒋介石を抱き込んで日本軍と戦わせた。そのための武器弾薬をビルマ側から送り込んでいた。
これがいわゆる援蒋ルートで、仏印進駐はそれを潰すための行動だった。

仏印で彼は街ごとにギロチンを見た。子供にも人頭税をかして働かせるフランス人の残忍さも目撃した。自分の国を取り戻したいというベトナム人愛国者、安国柱らに会ったのもこのときだった。

日本と仏ビシー政府は一応友好国同士。彼らに表立って支援はできないので鹵獲した武器を野積みにして彼らに盗ませた。

その武器を手に2000人が決起し仏正規軍と戦い、そして全滅した。
ベトナムの教科書が対仏独立闘争の最初を飾る「戦争」として今に伝えている。
中島は彼らへの武器放置がばれて営倉に入れられたが、「上官も思いは同じですぐ放免された」。

開戦後はマレー、ジャワ作戦に参加した。8万のオランダ軍はバンドン要塞に
龍ったが日本軍800人が攻めると「9日目に降伏した。黄色と戦って死んでも犬死。のんびり捕虜でと彼らは考えていた」。

戦後、虐待されたと言い出し、日本兵を大量処刑したのは「戦わず降伏した臆
病さを隠すためだった。彼らほどの卑劣漢はいない」。 日本はインドネシアを解放すると学校を建て、ジャカルタ語を標準語にして教えた。彼らの軍隊(PETA)も作った。 共通語を持った彼らは初めて守るべき祖国を自覚し、「戦後、戻ってきたオランダ軍と4年間も戦い続けて独立を勝ち取った」。

中島はシンガポールで終戦を迎え、昭和21年夏に復員した。 上官の遺品を届けるため東京・下町の実家を訪ねた。 一面の焼け野原だった。

上官の遺族から米軍の東京空発の話を聞いた。325機のB29が低空で進入し
下町を包むように焼夷弾を落とし、人々が三つ目通りに集まると、黄燐弾を降ら
せて生きながら10万人を焼き殺した「小名木川と横堀川は熱湯でした」と。

「6年間いろいろ戦場を見た。支那人もオランダ人も醜かった。しかしこれほど醜く残虐な戦場は初めてだった」「ここには今も10万人の怨霊が彷徨う。100年先でもいい。米国を焼け野原にし、米国人10万人を焼き殺さねばこの怨霊は消えない」(中島慎三郎「元兵隊日記」)

100年の最初の20年が過ぎたとき、日本政府は東京空襲の指揮を執ったカー
チスールメイに旭日大綬章を授与した。「米国の無差別殺戮に謝罪も賠償も要求ない」ことを形にしろとジョンソンが要求したからだ。

旭日大綬章は天皇の親授なるが、このとき陛下は拒絶された。

100年の半分以上をぎた先日、「国は空襲の死者に100万円を支給する」法案が出てきた。原爆被者だけがカネをもらうのはおかしいという主張か。 
あの戦争がもはやたかりの材料でしかなくなったとしたら悲しい。
週刊新潮の高山氏のコラムは、東京裁判史観で教育を受け育った私の脳ミソを毎回隅々まで除染してくれる。

日本人にとって大東亜戦争の空襲被害を関東大震災や3.11の津波被害などの自然災害と同列に考えている傾向がある。

第一次世界大戦においてはドイツ軍のUボートは無制限潜水艦戦で豪華客船ルシタニア号を無警告で撃沈し、1,198人の犠牲者を出すなど一般市民の犠牲もあったが、戦争での死者のほとんどが塹壕戦で戦った兵士達であった。

ところが、第二次世界大戦において一般市民の犠牲者は甚大な数に及んだ。連合国による戦略爆撃は明らかに一般市民を屠殺する大虐殺・許されない大量殺人行為であった。参考:第二次世界大戦等犠牲者数

卑劣な連合国は自分たちが犯した残虐行為を正当化する為に敗戦国である日本を悪の帝国に仕立て上げる為の理由を探した。南京大虐殺は一般市民の格好をして逃げた国民党軍をゲリラとして大量処刑した事件(戦時においてゲリラは捕虜扱いされない)をあたかも皇軍が一般市民を無差別虐殺したというありもしない作り話が創られてしまった。

大虐殺を行ったのは中国国民党軍である。通州事件において中国国民党軍は日本人居留民を大量虐殺しており、更に国民党軍は平気で自国民を各地で虐殺してまわった。第二次戦後勃発した国共内戦において国民党軍が共産党軍に敗北したのは永年の国民党による所業が原因である。

戦後まもなく、中国は南京事件のことなど気にもしていなかった。

p30-31
時は昭和三十九(一九六四)年七月、毛沢東と会見した社会党議員団の佐々木団長が「日本軍国主義の中国侵略によって大きな損害をもたらしたことを非常に申し訳なく思っております」と挨拶したとき、毛沢東の返答は以下のようなものであった。
「何も謝ることはありません。日本車国主義け中国に大きな利益をもたらしました。お陰で中国人民は権力を奪取しました。日本の皇軍なしには、わたしたちが権力を昨収することは不可能だったのです。この点で、私とあなたの間には、意見の相違と矛盾がありますね」(「毛沢東主席との会見記録」『社会主義の理論と実践』昭和三十九年九月号)


ところが最近の日本人は、謝罪が得意な左翼人士だけでなく、自民党の政治家や外務省役人、格別左巻きではないインテリまでが、謝罪の安売りに励んでいる。なぜなのだろうか。

「歴史認識問題」の発端となった「歴史教科書誤報問題」をまき散らして中・韓の内政干渉を招き入れたマスコミの罪は大きいが、その後それが誤りであったことを認め紙面ではっきりと謝罪したのは、産経新聞だけであり、あとは頬かぶりをしたままである。歴史認識に関するマスコミの不誠実さと政治的偏向は、驚くべきものがある。
それ以上に問題なのは、当時の日本政府の対応である。官房長官を務めていた宮沢喜一は、中・韓をなだめるために歴史教科書の新検定基準として「近隣諸国条項」を導入した。
近現代史の叙述に際しては、近隣諸国との友好に配慮して教科書を作れという、驚くべき内容である。
戦後連合国が戦場で鬼神のように戦い、最後は神風攻撃を行った皇軍と二度と戦いたいとは思わなかった。陸海軍を解体し対米報復戦争を行わないと決めた。
その手段の一つとして日本人に東京裁判史観という自虐史観を徹底的に植え込む洗脳プロパガンダが行われた。
自虐史観の洗脳戦略は日本人に対し非常に的を得た戦略であった。元々誠意溢れるのが日本人である。誤った情報をインプットされ、誠意がある人間ほどこの自虐史観を信じて中国人や朝鮮人に接する。華夷秩序の呪縛にかかっている上、狡猾な中国朝鮮人に謝罪すればするほど、誤った歴史認識が拡大再生産され、次世代へと引き継がれていってしまうのである。

連合国からすれば合理的な行為であり、自国を守る国家戦略であったのだ。
問題なのは終戦から67年も過ぎその歴史的経緯を合理的に判断できず東京裁判史観を未だに信奉する第二第三世代の日本人が生まれてしまったのである。
本書はその元凶がどこにあるかを考察した本である。

そもそも東京裁判とは戦勝国が国際正義に名のもとにおこなったリンチ「復讐裁判」である。
米国は一般市民を虐殺した原爆投下や無差別戦略爆撃を行った。ソ連は終戦間近国際法を無視し、中立条約を一方的に破棄して参戦、戦後も日本軍人多数をシベリアで強制労働させた。これはあきらかに国際法違反である

戦勝国は日本を戦争犯罪国家に仕立て上げ、植民地支配を含めみずからの犯した犯罪行為から目をそらせる必要があったのだ。

 そのためアジア解放戦争であった大東亜戦争を日本による侵略戦争である太平洋戦争として贖罪意識を植え付け洗脳する「ウォー ギルト インフォーメーション」政策が展開された。勝者の側に立つ歴史観をマスコミやアカデミズムに注入され、日本軍が野蛮な犯罪行為を行ったと印象づける情報操作が行われた。完全な思想統制下において教育とマスメディアを通じて展開されたのである。 その集大成というべきものが、現憲法といわゆる東京裁判(極東国際軍事法廷)なのだ。

p36-38
近代法治主義の大原則に違反

第二。国際法土の問題としては以下のものがある。
一 近代法治国家の大原則として、法治主義に由来する罪刑法定主義がある。かつて多くの国では、政治的その他の理由で公平さを欠いた恣意的な裁判が行われたが、そういうことのないように、あらかじめ法という客観的ルールを定め、このような 罪に対してこのような刑罰を科すということを明らかにしてにおくのが近代国家の大原則である。ここから事後法(遡及法)の禁止という原則が生まれる。国際問題を裁く根拠は、国際法しかないが、この裁判では「人道に対する罪」「平和に対する罪」という当時の国際法にない新たな罪を事後的につくってそれによって裁くということが行われたのである。
二 裁判の根拠法とされたのは、連合国最高司令官であるマッカーサーが布告したものである。勝者が軍事占領下において一方的に敗者を裁くために出した命令が、果たして公正な国際裁判の根拠になりうるかという疑問がある。
三 裁判の狙いは、日本が「侵略」国家であったと断定し、すべての戦争責任を被告にかぶせることにあったが、当時の国際法では、しつけ「侵略」の定義が確立していなかった。
「侵略」の内容が明らかでないのに、日本が「侵略」したのは間違いないとされたのである。 「侵略」と簡単にいうが、侵略を定義するのは実際にはなかなか困難なのである。例えば、相手国からしばしば挑発が行われていた場合、それに対する反発、あるいは挑発制止の行動として戦闘行為に訴えたとき、これを侵略と言えるかどうか。例えば日本が支那事変で国民党軍と戦っていたとき、日本の敵であった国民党に大量の武器・経済援助を行っていたアメリカの行為は、挑発に当たらないのか、日本がアメリカに依存していた戦略物資(石油、屑鉄など)の輸出を禁じ、資源のない日本に対し真綿で首を絞めるような政策をとったのはどうなのか、といった問題である。
そのほか、「共同謀議」という英末法にしかない罪状を用いて、昭和の初めに日本政府の指導者が対外侵略の計画を立て、その後着々とそれを実行に移したという筋書きをつくり、被告個人の罪をいちいち論証する手間を省いて有罪とするなど、強引な法廷指揮を行っている。

具体的な史実に関しての判断がいたるところで偏っているという問題も見逃せないが、これは取り上げるときりがないので、残念ながら割愛する。

自国に不利な解釈をする法匪たち

 「東京裁判史観」は白黒史観である。善と悪の二分法による歴史の単純化である。これに厳しい検閣下におかれたマスコミが追随した。唯物史観という同類の白黒史観の信者である社会党・共産党支持者がこれに合体した。両党に属する教員が主導権を握っていた日教組が教育現場を支配することによって、占領軍シンパと左翼の統一戦線は強力となり、戦後日本の「正史」がつくられたのである。左翼だけでなく、このような「正史」が教えられ浸透することによって、保守の陣営に属する指導者までが、戦前の歴史認識を突きつけられると、簡単に謝罪の安売りをするようになったのである。



    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


イメージ 1

柴 五郎
p14-21
「日本兵が最も優秀であることは確かだし、士官のなかでは柴中佐が最優秀と見做されている。日本兵の勇気と大胆は驚くべきものだ。わがイギリス水兵がこれに次ぐ。しかし日本兵はずば抜けて一番だと思う」

イギリス公使館の書記生ランスロットージヤイル


北京市民に神として敬慕された駐在武官

1900年の義和団の乱(北清事変)当時、北京の諸外国公使館に対する20万の義和団軍の攻撃を最後まで防ぎ、大活躍したことで世にその名を知られ、北京市民にも神として敬慕されたのが、『北京龍城記』で知られる北京公使館付武官の柴五郎中佐である。

義和団は山東省で発生した秘密結社である。当時は列強による中国進出が相次いでいたが、西太后などによる清朝の政権腐敗、民衆弾圧、飢饉などにより、これら外国勢力のキリスト教会に助けを求める中国人も多かった。

こうして列強側の教会につく中国人と、それに反目する中国人の民族間争いが始まった。義和同は、排外主義を掲げ、外国人や外国人になびく中国人を襲い、次第に暴徒化していった。

最初は清朝もこの義和団を鎖圧、攻撃していたが、1900年に西太后が一転してこの反乱を支持し、万国(欧米列国)に宣戦布告する。

これにより北京の諸外国公使館は母国に応援部隊を要請し、各国は連合軍を派兵するが、清朝と義和団の攻撃により、各公使館は完全に孤立する。これが「北京籠城」である。

当時、公使館区域には、外国人925人、中国人クリスチヤン3000人ほどが逃げ込んでいたが、各公使館の護衛兵と義勇兵は181人に過ぎななかったという。

北京公使館区での籠城戦では、日本軍の活躍が際立ったその日本軍を指揮したのが、柴五郎中佐(後に大将)である。日本軍が受け持った防御陣地は、粛親王府 皇族粛親王の邸宅で、日英の公使館に隣接する広人な建物だった。

邸宅の使用許可を求めるために、わざわざ弾雨をくぐって粛親王を訪ねてきた中佐に対して、開明的な粛親王は快諾したという。戦闘が始まると、その粛親王府が最大の激戦区となった。

柴中佐は、自ら抜刀して敵陣に切り込むなど、その勇猛さや優れた指揮官ぶりは外国人の称賛の的となった。それだけではない。彼は、全能城者三千数百名の食糧の分配や傷病者の看病などにも、細かな配慮を怠らなかった。

籠城戦に参加したロンドンータイムズの特派員モリソンは、事変後に柴中佐以下、日本人の大活躍を大々的に報じた。こうしたことが功を奏して、イギリスの対日感情は好転し、やがて「栄光ある孤立」を謳っていた同国が、日英同盟を結ぶきっかけになったともいわれている。

粛親王府には、キリスト教徒や市民など2000人もの中国人避難民が収容され、日本人から手厚い保護を受けた。そのため、中国人たちは陣地構築などで、日本軍に献身的に協力したのだった。

後の中国哲学の大家で、当時は留学生として籠城戦に参加した服部字之吉は、「北清事変は主に欧米諸国やその宗教が原因で発生したもので、日本人は側杖を食ったということだ。しかし籠城中、中国人のキリスト教徒の大多数はわが国の保護を受け、また私たちのために協力したというのは奇縁というべきだろう」と、回想している。

日本軍の派兵目的は、外国の公使、居留民の救出と義和団の暴乱鎮定だけに限られていた。
そもそも日本は、ほかの列強の清国侵入には警戒心さえ持っており、戦闘の不拡大を望んでいた。日本政府も派遣軍も、同じアジアの国である清国には同情的だったのだ。

そのため、連合軍が北京の宮城(紫禁城)に迫ると、各地の清国側総督は日本軍による事態の収拾に期待していた。ロシア軍は残虐すぎる。信頼できるのは日本軍だけだとまで言っていたという。

実際、北京攻略当時、日本車だけが紫禁城の攻撃に反対している。ところが、ドイツ軍は皇帝から北京を焼き払うように命じられているという理由で、紫禁城の北側にある景山に砲台を据え、砲撃の態勢に人っていたのだった。

そこで日本軍は、ドイツ軍と交渉し、砲撃までの時間の猶予をもらい、その間に城内の清国軍を説得して開城させたのである。そして、城の守備を担当し、他国軍の侵入を禁止した。このようにして紫禁城は、日本軍のおかげで略奪どころか弾痕一つ受けることなく、守られたのである。もしこれがなかったら、城内の宝物は今ごろ世界中に散逸していたことだろう。

柴五郎は、1860年会津藩藩士の五男として生まれた。兄弟は多く、兄が4人、姉妹が6人いたが、幕末の会津落城の際、兄2人が戦死した。その戦乱の中、祖母、母と幼い妹たち、また嫁に行った姉は城内で自殺した。

このとき五郎はまだ11歳だったが、心に深い傷を負いつつ、朝敵藩士の子どもとして苦労を重ねた。長兄の秀治と四兄の四朗は、戊辰戦争に参加したが生きながらえ、四朗は後に東海散士と号して小説『佳人之奇遇』を著したことでも有名である。

また、四郎は谷干城が農商務大臣の時代に書記官を務め、さらに三浦梧楼中将が駐韓公使のときも秘書官となっている。暗殺された韓国独立開化派の志士、金玉均とは10年来の友好を温め、第1回国会では会津から選出され初代の国会議員にもなっている。

柴五郎は、1872年に開設された陸軍士官学校の3期生である。3期生には、明治の軍人を代表する英才、異才が多かったことで有名だ。上原勇作、秋山好古、落合豊三郎、藤井茂太、楠瀬幸彦などがそうである。

その後、柴五郎は84年に中尉となり、同期の青木宣純が広東に派遣されるのと同時に、福建省駐在となった。帰国後は、近衛砲兵大隊に勤務し、明治天皇の側近として仕えた後、大尉として参謀本部第二局支那課に移った。96年少佐に昇進し公使館付武官としてイギリスに赴任。

アメリカースペイン戦争の際には、観戦のためキューバを訪れている。日清戦争のときは、広島大本営で作戦に参画し、下関での和議では末席についている。その後は、樺山資紀初代台湾総督の随員として台湾にも渡った。

1900年、清国公使館付武官として北京に駐在していた青木宣純が、袁世凱の顧問として迎えられたため、その後任として北京に駐在することになった。
義和団の乱が起こったのは、まさにその時たった。

柴五郎は、北京各国の領事館区の2ヵ月におよぶ 籠城中、攻防戦の指揮官として各国からの信頼を得て、北京落城後は軍事街門長官(駐留軍司令官)として治安を担当し、きびしく取り締まりを行い、暴行や略奪を働いた連合軍兵士を現行犯で捕らえると、それぞれの軍司令部へ容赦なく突き出した。

日本軍がもっとも規律が正しく、その占領地の北城もすぐに治安が回復したので、商店も営業を町聞したという。そのため、市民は布や紙に「大日本順民」と書いて日本軍を歓迎したのである。

参謀本部編の『明治三三年清国事変史』にも、「他国の軍の占領区域は荒涼、寂莫たるにかかわらず、ひとりわが占領区内は人心安堵し、ところどころに市場開設し、売買日に盛んに至れり」と記録されている。

それに引き替え、ロシア車に占領された区域は悲惨であった。その地の住民たちは続々と日本の占領区に逃げ込み、保護を求めてきた。

当時の北京市長はたまりかね、マクドナルド英公使に苦情を訴え、ロシア車管区を~本軍管区に替えてほしいと懇願したほどだった。

北京市民の駆け込み寺と化した日本車占領区で、軍全体を指揮する柴五郎は市民にとって守護神だったのである。柴に帰国命令が出され、それが噂として一般に伝えられると町は大騒ぎとなり、老若男女こぞって別れを惜しみ、涙ぐんだという。

冒頭の一節は、イギリス公使として、籠城戦に参加したランスロットージャイルのものである(岡崎久彦著『小村寿太郎とその時代』)。さらに、イギリス義勇兵のシンプソンは、以下のように記している。

「少なくとも500名の兵を必要とする王府の城壁を守るのに、わずか十数人の義勇兵しかいなかったが、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。

この小男はいつの間にか混乱を秩序へとまとめていた。彼は部下を組織化し前線を
強化した。彼はなすべきことはすべてやった。自分はこの男に傾倒してしまった。自分はまもなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるであろう。・・・・なぜか自分は日本兵のそばから離れることができなくなってしまった」(同書)

こうして、柴は籠城中の人々の心に安心感と勇気を与えた。それは女性たちにとっても同様だった。
「ある女性は『柴中佐と会ったあとは、落ち着いた気分になりました』と言っていた(ラリー・クリントンートンプソン)

義和団の乱は、柴らの籠城側と救援に駆けつけた8力国連合軍の活躍により鎮圧された。こうして、「コロネルーシバ」の名は世界に知れ渡り、多くの国の元首と謁見する機会とさまざまな勲章を得ることとなった。

北京駐在2年の後に帰国した柴は、宮中に参内して明治天皇に謁見し、北京畿城の経緯を報告している。また、イギリスのエドワード7世、イタリアのエマニェル皇帝、ペルーの大統領、スペインの皇帝、ロシアのニコライ2世などにも謁見し、最大の賛辞を得たのである。

それでありながらも当時の回顧録を読むと、柴中佐は自らの功績は極力伏せ、あるいは功績を他者に譲るなどしているいまさに、明治の軍人の代表的な人物である。

明治の英雄達はかつて賊軍とされた旧会津藩など佐幕派の藩出身も多い。
かつての挫折体験、肉親の死などの強烈な体験をした人間こそ、真の人格者となるのであろう。


    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


イメージ 1

本書は、マッカーサーの側近中の側近GHQのG2=7参謀第二部長(諜報・治安担当)チャールズAロビー少将の回顧録である。

回顧録といっても、彼自身のことはほとんど書いていない。彼のボスであるダグラスマッカーサーと連合国の日本占領時代と1950年に起きた朝鮮戦争当時の事件に関することが中心になっている。

冒頭でウィロビー将軍は日米は戦うべきでなかったと述べている。
p16
この回想録をまとめるにあたって、私がまず第一に言いたいことは、太平洋戦争はやるべきではなかったということである。米日は戦うべきではなかったのだ。日本は米国にとって本当の敵ではなかったし、米国は日本にとっての本当の敵ではなかったはずである。歴史の歯車がほんの少し狂ったせいで、本来、戦うべきではなかった米日が凄惨な戦争に突入したのだから。
私が書いたもののすべての基調となるのは、日本との戦争、あるいはドイツとの戦争は西側の自殺行為であったということである。たとえ日本がどんな誤りを犯すとしても、どんな野望を持つとしても、米国が日本を叩きのめすなら、それは日本という米国にとっての最良の防壁を自ら崩してしまうことになるのである。ところが、あの不幸な戦争の結果、ロシア、中国を牽制してあまりあったはずの日本およびドイツの敗戦のゆえに、現在(編注:1971年現在)では、共産主義国家とされているソ連、かつてのツァーリ支配下のロシアそのままの圧政をしくソ連の指揮による破壊転覆の異常な発達が、今日われわれにとっての頭痛のタネとなっているのである。
共産主義国家のいわゆる『革命の輸出』と呼ばれる破壊工作は、もし、わが国が日本を東洋の管理者、ドイツを西洋の管理者にしていたなら、けっして現在のような脅威の対象にはならなかったはずである。わが国はこれら二国と協働戦線を組むかわりに、破壊してしまった。…
日米は共産主義国家に嵌められて開戦したのだと述べている。

この本には日本国内でソ連のスパイとして活躍した、リヒアルトーソルゲに関する興味ある話も述べられている。

ゾルゲ事件は戦後チャールズ・A・ウィロビー将軍が引き継ぎ米国内またGHQ内の共産スパイを次々に追放して行った。これはマッカーサーのもう一人の副官GS=民政担当のニューディーラー ホイットニー少将と日本占領下で占領統治をめぐり確執がいかにひどかたか理解するにかなり参考となる。 なぜ、トルーマン系のCIAとG2傘下のキャノン機関が対立しマッカーサーとともにキャノン機関が消滅した理由もわかった。

戦後日本と朝鮮戦争でのインテリジェンス分野においてウィロビー将軍の活動には輝かしいものがある。マッカーサーとトルーマンの対立の真相も理解できた。やはり日本に原爆を投下したトルーマンがマッカーサーの原爆使用に反対してマッカーサーを首にしたのではなく、トルーマンのマッカーサーへの嫉妬ともいえない無理解が、朝鮮半島に戦火を起こし国連軍を窮地に追いやりマッカーサーら現場を苦しめていたようだ。

ウィロビー陸軍少将は優秀なインテリジェンスオフィサーであった。数ヶ国語を流暢に使い、教養があり、広く戦史を読んだ優秀な雄弁家であり、すぐれた記憶力を持った人徳がある人物だ。

 ウィロビー将軍は1892年3月8日、ドイツのハイデルベルクでカールーアンドリュー・ボンーケエッペーウェイデンバッハとして生まれた。教育は18歳までヨーロッパで受け、そして親戚と一緒に暮らすべくアメリカヘ渡った。渡米後、市民権を得た将軍は約3年間、米国陸軍軍人として勤務したあとペンシルベニア州のゲティスバーグ大学に入り、卒業した。

1918年、将軍は米陸軍将校に任官され、アメリカの対独戦に参戦、当時フランスにあった米国遠征軍部隊で勤務した。

ベネズエラ、コロンビア、エクアドル駐在のアメリカ公使館付武官として勤務している。その後はしばらくのあいだ陸軍部隊に勤務のあと、約十年間は将校学生として専門的軍事学を学び、その後の歩兵学校と参謀指揮大学の教官として勤務した。

日本との戦いが始まった翌年の1942年、将軍はフィリピン政府からフィリピン軍の組織と訓練を要請されていたダグラスーマッカーサー将軍の参謀に任命された。それからまもなく将軍はマッカーサー司令官の情報参謀になり、以後十年間、太平洋戦争から朝鮮戦争に至るあいだ、マッカーサー将軍と行動をともにするのである。

情報官の任務は、司令官がそれを活用して作戦を成功させることができるよう、最善の情報資料を評価分析し、まとめて司令官に提供することにある。

しかし、情報官たちは作戦が成功した時の勲功は司令官に与えられ、失敗した時の責めは情報官に負わされることを知っている。作戦の成否にかかわらず、情報官は効果に対して沈黙を保ち、司令官に忠誠をつくさねばならない。

実際本書を読む限り彼のインテリジェンス能力には卓越したものを感じさせる。
p81-82
 私の率いるG2は終戦前から日本軍の構造を詳細に知っていたから、一九四五年八月のマニラでの降伏交渉に際して重要な役割を果たしたように、このときも日本車を復員させ、武装解除するための基本条件を整えるのには困らなかった。そこで四年間にわたる苛烈な戦闘を通じて、日本軍の組織を完璧に知っていたG2とG3(参謀第三部=作戦担当)は、最初の計画を引き継いで、日本本土における日本軍の復員監視にあたったのだった。

日本軍の兵員を武装解除し、除隊させるという複雑な業務を、われわれは日本側の技術的・行政的能力を十分に活用するため、当時まだ存在していた日本の陸・海両相に委ねた(その後「復員局」が担当)。
この複雑な仕事はあらゆるものに優先して行われ、GHQ、第八軍および米海軍が監督と統轄にあたった。

無条件降伏をしたとはいえ、その保有する軍事力の九〇パーセントを撃滅されたドイツとは違い、当時の日本本土はまだ巨大な武装陣地であった。そこに「申し訳程度の部隊」を引き連れて上陸するという、マッカーサーの当初の大変な軍事的危険――日本軍五十七個師団、十四個旅団、四十五個連隊に相対する米軍は二個師団半という明らかなギャンブル――の当否は、おそらく後世の軍事専門家たちが判断を下すであろう。なにしろ日本の東海岸にあるすべての戦略上の上陸地域は日本軍によって完璧に固められていたし、しかもこれらの地域は沖縄にくらべてはるかに大きな戦闘力を持っていた。本州、九州、四国にいたる東海岸沿いには、戦略的上陸適地が五、六ヵ所あった。

日本の大本営は、米軍がこれらのどこに上陸しても多大な損害を与えるだけの十分なる師団、旅団を保有していたのである。沖縄では日本車はわずか二個師団半の兵力で、米軍の上陸作戦に際して、わが方に合計四万から六万名の死傷者を出させた。それに加えてあの「神風特攻」という玉砕攻撃まで敢行してきたことを忘れてはなるまい。こうした軍事上の可能性があったのだから、わが軍が一発も発砲することなく、しかも一人の死傷者も出さずに日本本土を占領することなど、まさに奇跡以外の何ものでもあるまい。だが、事実が示すように。奇跡”は起こったのだ。いや、それは奇跡と呼ぶべきではなく、計算された作戦と呼ぶべきであろう。

すなわち既存の日本政府、天皇という伝統的な心理作用を活用するという単純な方法で、日本人の鋭敏な緊張感はまるで魔法でも使ったかのごとくほぐれてしまったのだ。他の方法は、どれひとつとして実用的ではなかった。マッカーサー元帥は、これら既存の政治的、軍事的、社会的ファクターについて良く知っていたし、日本人の心を鋭く見通していたからこそ、こういう方法のもたらす効果をあらかじめ計算し、利用できたのである。

かように既存の日本政府機関を如才なく活用し、これを適切に組み替えることによって本土のすべての日本軍は一九四五年十二月早々には武装解除された。そして、そのほとんどは両親や兄弟、愛する妻や子供たちのいる故郷や家々に帰っていった。
米軍は日本での成功体験が過信となってしまったのだ、日本が日露戦争に勝利してしまったように・・・・アフガン戦争やイラク戦争をしてしまった・・・ウィロビー少将のような卓越したインテリジェンスオフィサーもいない上に、アフガンやイラクには天皇陛下は存在しないのだ。

ウィロビー少将はゾルゲ事件を丹念に調査し日本と米国に張り巡らされたソ連の諜報組織の壊滅にも尽力した。GHQ内にもぐりこんだニューディーラーを装ったソ連に同調する職員を多数炙りだし排除していった。

また、少将は正確無比な戦前のゾルゲのスパイ活動を知ると、ゾルゲ事件ソルゲ一昧に対する調査に少将は多大な関心を持った。少将は直接、この事件を調べることにした。カウンターインテリジェンスとしてG2の総合特殊作戦本部(JSOB)直属行動部隊「Z機関」 (通称キャノン機関)を開設し、その長として活情報将校ジャック・Y・キャノン中佐(当時は少佐)を充てた。

キャノン機関は中野学校OBとも接触があり、松本清張は「日本の黒い霧」で下山事件で犯人としているが、共産主義者の巣窟国鉄を合理化しようとする下山総裁を反共の立場を取るキャノン機関が謀殺することはありえない。

ありえるとすればG2・キャノン機関と対立するGS側でトルーマンとも気脈が通じたOSSから改変したばかりのCIAがキャノン機関傘下の亜細亜産業に近づき引き起こしたように私は思える。

A級戦犯の処刑と公職追放

「日本国国民ヲ欺瞞シ之ヲシテ世界征服ノ挙二出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢カハ永久二除去セラレザルベカラズ」 (「ポツダム宣言」第六項)

 GHQの基本方針は日本の民主化にあった。そのための第一歩はポツダム宣言にもられた戦争犯罪人を処刑し、戦争協力者をすべての公職から追放することであった。占領初期の数カ月間にわたって、もっとも重要な渉外情報活動の一つは、A級戦犯容疑者たちの逮捕である。数百名にのぽる容疑者リストから選ばれた最初の連中は、一九四五年九月中に身柄を拘束された。

(略)

 対日理事会のメンバーたちは、極東国際軍事裁判をドイツ戦犯を裁いたニュルンベルク裁判の東京版に仕立て上げようと目論んでいた。だが、マッカーサーは頑としてこれに賛成しなかった。

マッカーサーは一人の歴史家として、かつてアメリカの南北戦争で敗北した南部が、戦争終了後数十年を経ても北部に対する深い恨みを抱き続けたことを知っていたからである。

 公職追放は一九四六年一月四日、マッカーサーにより指令が出された。その対象者の範囲は直接軍務に携わった指導者たちはもとより、政治・経済・社会・言論の各界に及び、その後の二年間に約二十万人以上が追放されている。その過程でGSとG2との対立は最高潮に達した。というのも、GSは。民主化”という口実のもとに、彼等が行おうとしていた。左寄り”とも思える政策の邪魔になる人間を次から次へと追放してしまったからである。日本人からもアメリカ人からも、そしてGHQの内部からも「GSは日本の最良の頭脳を取り除いてしまった」という批判の声が高まった。とりわけGSの次長ケーディス大佐に対する非難はとみに高くなっていた。

 公職追放はGHQが直接の手を下さず、日本政府が自ら実行する方法をとったのだが、実際はGSが指導し、ときとして強引な手法も用いた。そのGSのおかしな態度は、たとえば社会党代議士の場合に暴露された。CICなどからの報告によれば、その代議士は松本治一郎といい、戦争中 「東条選挙」 (編注・一九四二年の翼賛選挙)で推薦議員になっていて、GSの方針からみれば当然、追放の対象となるべきであった。ところが、GSはその代議士が革新系であるからか、あたかも手加減を加えているかのようにさえ報告書からはうかがえた。

 当時、ケーディス大佐は語ったという。
 「推薦議員を追放せよという指令を出した覚えはない。そんなことは日本政府の考えに基づくものだから、日本側が処理すべきだ。ただし松本治一郎はどんな理由があっても追放しないつもりでいる」

 一九四九年一月一日、吉田茂首相はホイットニー局長に宛てて、こんな書簡を送っている。

 「日本政府はすべての人を公正に、かつ法にあくまでも忠実に行動している。その結果、松本氏を追放者のなかに入れることに決定した。この推薦を貴下が承認されるものと信じる」 ところが、GSは吉田首相の要望を社会党に対する攻撃とでも受け取ったのか、一九五〇年の追放リストからその代議士だけを除外してしまった。私にはこの間の事情をはっきり説明することはできないが、松本の追放解除を許可したGSも、ついに一九五一年には折れて松本を再追放したのであった。

 GSは日本自由党総裁・鳩山一郎の追放も狙っていた。鳩山は次の総選挙後の最有力首相候補だった。CICからの報告によれば、この件に関して、当時、日本共産党がGSにかなりの。鳩山情報゛を流していた形跡がある。

一、田中義一内閣のとき、書記官長として大陸侵攻の基礎となった東方会議を主宰。
一、日本の民主化に一番悪い影響を与えた治安維持法を起案したときの書記官長。
一、自由主義学者を弾圧した滝川事件【京都帝国大思想弾圧事件】のときの文部大臣。


 わがG2では、GSがよもや鳩山を追放しようとは思ってもいなかった。しかし鳩山は追放された。ここで興味があるのは、当時の共産党機関紙『アカハタ』の鳩山攻撃記事と、GSの発表した説明とが酷似していたことである。こうしたことから、鳩山の追放が政治情勢のかね合いからなされても仕方ない要素があったことは事実である。

マッカーサーがA級戦犯を裁くことに反対していたことは初めて知った。
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


高まる先進国の主権債務リスク
p142-144
しかし、先進国の主権債務リスクは高まりはじめた。
最初の兆しは、一九九二年、日本の不動産バブルが崩壌したことによる、公的債務の増加と金融システムの機能不全であった。その後、日本経済は長い暗闇に落ち込むことになる。

同年には、スウェーデンでも不動産バブルが崩壊し、主要銀行が破綻寸前にまで追い込まれるとともに、公的財政が破綻し、ドイツ再統一の影響もあり金利が大幅に上昇した。スウェーデン政府は、国民の合意を取り付けて、公的費用を大幅に削減し、主要銀行を一時的に国有化する決断を下した。スウェーデンは、日本とは異なり、バブル崩壊の建て直しに成功した。

同様に、一九九五年には、公的債務が対GDP比一〇〇%に達したカナダは、三年間にわたって公的費用を二〇%削減するという荒療治によって、公的債務を削減した。

この間、アメリカの世帯が抱える民間債務は、一九七六年の対GDP比四六%から、二〇〇七年末には九八%にまで上昇した。なぜならば、銀行が、サブプライム・ローンなどによつて、アメリカの世帯に対して、彼らの資産の五〇倍まで融資したからである。銀行が抱えるリスクは、不透明な証券市場を通じて簿外債務となった。とくに二〇〇一年以降の大胆な低金利政策によって、政府と民問の債務は、貧しい者の家計に過剰な負担を強いることなく増加した。もちろん、経済成長だけが返済の頼みの綱であった。

ヨーロッパにおいても状況は同じであった。イギリスでは、一九九八年以来、実質賃金は低下した。イギリスの世帯が抱える債務は、三〇年間に、対GDP比が二〇%から八○%近くまで上昇した。次に、民問債務が限界に達したことにより、これを引き継いだ公的債務が増加した。

民間債務よりも公的債務の方が大きいフランスでは、一九九三年以降、公的債務は増加しはじめた。
一九九八年に対GDP比五八%であった公的債務は、二〇〇七年には六三%になった。
一九九〇年のバブル崩壊から立ち直れない日本の公的債務の増加は、さらに深刻である。バブル崩壊以降、日本の公的債務は景気を回復させることなく膨張しつづけ、二〇一〇年、国の債務が八八二兆円を超え、国と地方を併せた債務は一〇〇〇兆円を突破している。

世界を駆けめぐる資金は増加した。途上国の債務は増加した。モラトリアムが頻繁に宣言されるようになった。先進国の低い経済成長は、主権債務の増加によってしか維持できなくなってしまった。G7は、張り子の虎でしかなくなってしまった。
誰も、どこからともなくやってくる債務危機から逃れることはできない。だが、こうした現実を、誰も直視しようとはしないのである。
そして民間債務は、次世代の納税者に移し替えられたp147-149
そして、二〇〇八年の九月、ついに起こるべきことが起こった。
アメリカでは、過剰債務を抱えた最貧層の融資の返済が滞りはじめた。これは、サブプライムという返済能力のない人々に対する軽率な融資であった。リスクを付け替えた銀行は、こうした債権を証券化して組み合わせて転売したことから、こうした証券化商品の保有者が誰であるのか、誰にもわからなくなってしまったことを悟った。パニックが発生した。あとになって判明したこととして、金融業者の中には、これらの証券化商品の一部が、いずれ紙切れとなることを予想しながらも、これらを預金者に売りつけていた者が存在したのである。

金融市場は閉鎖され、銀行は流動性を失った。リーマン・ブラザーズなどの金融機関は破綻し、AIGなどの保険会杜は、破綻寸前で救済された。

金融システム全体が崩壊することを回避するために、かつてフーヴァー大統領がアメリカの銀行を破綻させた一九二九年の過ちを教訓として、アメリカ連邦政府は、金融機関を救済するために、資本参加や保証などの優遇措置を打ち出す決定を下した。

アメリカ財務省は国債を発行した。連邦準備制度理事会(FRB)は「紙幣」を貸し付けた。

より正確に言えば、FRBは量的緩和と称して、”バーチャルなドル”として支払われる「エージェンシー債」を発行した。これにより、金利は、きわめて低いレベルに維持された。

FRBは「腐った資産」を「健全な資産」と交換させた(いわゆる「リパーチェス取引」)。とくに、ゴールドマン・サックスやJ・P・モルガンは、途方もない恩恵を受けた。例えば、J・P.モルガンは、リーマン・ブラザーズを救済するためにFRBから流動性を受け取った。だが、実際には、J.P.モルガンは、リ-マン・ブラザーズを破綻させ、ベア・スターンズを買収するために、この資金を利用した。J.P・モルガンの株主が、この買収をファイナンスしたのではないのである。
こうして、またしても、民間債務は、次世代の納税者に移し替えられた。二〇〇九年末、アメリカの金顧システムには、およそ四兆ドルの損失が蓄積したが、この四分の三は連邦予算によってまかなわれた。このようにして連邦政府の借金は膨れ上がったのである。
途上国から借金する先進国
p151-152
二〇〇八年冬から二〇〇九年にかけて、世界の指導者たちは、世界金融危機に対処するために、G7,G20、さらにはG27と会合を重ねた。
そして彼らは、IMFと世界銀行に資本を割り当てることにより、これらの機関の役割を強化する、と誇らしげに宣言をした。しかし、割り当てる資本とは、IMFが保有する四〇〇トンの金塊を売却する以外は、ほとんどがバーチャルな資本であった。

さらに、世界の指導者たちは、金融機関や金融市場に対する規制原則を踏襲しながらも提唱したが、それは残念ながら誰も実行に移そうとは思わない夢物語のようなものである。また彼らは、金融機関幹部の巨額なボーナスやタックスヘイブン祖税回避地一を遠慮がちに非難した。だが、巨額ボーナスやタックスヘイブンは問題の一つではあるが、今回の金融危機の本質ではない。

そして、今回の金融危機の処用に注ぎ込んだ莫大な公的債務については、ひと言も語られなかったのである。

現実には、今回の世界金融危機により、世界は変化したのである。予見できなかった危機を自国の貯蓄によってまかなうことができなかった西側諸国は、途上国から借金せざるを得なくなつた。G7はG20となったのではなく、現実には、中国とアメリカという「G2」となったのである。

今回の金融危機をきっかけに、ある意味で、西側諸国に対する信用や、アメリカやヨーロッパに課せられた債務に対する信認は急速に失われ、彼らの破産を回避するための債務の返済方法を模索する段階に入ったとも解釈できる。

破綻寸前にまで激増した公的債務-兆候としてのギリシヤ
p155-158
世界金融危機は何も解決されていない

二〇一〇年春の段階で、二〇〇八年に勃発した世界金融危機は、まったく解決されていない。

二〇〇九年と二〇一〇年に金融機関が抱え込んだ民間債務は、現世代ならびに次世代の納税者に移し替えられた。公的債務が増加しつづける状況において、各国政府は、銀行の独立性や給与体系を見直すことなく、銀行が犯した失敗を穴埋めするための資金を銀行に貸し付けることを承諾した。後世の歴史家は、こうした選択の理解に苦しむことであろう。というのは、こうした誤った選択により、制御不能という恐ろしい状況に陥ることになるからである。

まずは、財政赤字である。二〇一〇年五月、世界のGDPの四〇%は、自国GDP比で一〇%を超す財政赤字の国によって産出されている。一九九五年以降、世界中で、国家の財政収支のプライマリー・バランスが大幅に悪化した。二〇〇九年、アメリカの国債発行額は、GDPの六〇%、年問の税収の七・五倍であり、財政赤字は税収の七二%に相当する。

(略)
債務危機が、すべての主権国を襲う危険性がある


主権債務についても同様である。主権債務は、今から三年前であれば想像できないレベルにまで達した。ジンバブエをのぞくと、純公的債務の対GDP比が最も高いのは、日本の二〇四%である。 

二〇一〇年、一一兆ドルに達したアメリカの公的債務の対GDP比は五四%であり、これは税収の六七四%に相当する。年間の借金は、税収の二四八%に相当する。債務の半分以上を、毎年、借り換えなければならないアメリカ財務省は、その半分を外国からの資金でまかなっている。また、外国からの借金の半分は、中国と日本からの資金である。二〇〇九年、アメリカ国債の金利は、平均利回り三・三%で、すでに債務負担の三四%に相当する。
カナダの公的債務は、対GDP比で八二・八%に達した。
ヨーロッパの公的債務は、対GDP比で八○%に達した。イギリスの公的債務は一〇〇%近く、ギリシャの公的債務は二二五%であり、ギリシャの借金の三分の二は、外国からのものである。

ギリシャ、ポルトガル、スペインなどの破綻寸前の国家は、借金の返済のために、すぐにでも緊縮財政を実施しなければならない状態である。

だが、緊縮財政が必要なのは、これらの国だけではない。フランスの公的債務は、対GDP比八三%で、税収の五三五%に相当する。年間の借り入れは、税収の137%に相当、する。

二〇一〇年には、フランスの債務額は四五四〇億ユーロとなり、イタリア一三九三〇億ユーロ)、ドイツ…八六〇億ユーロ)、イギリス(二七九〇億ユーロ一を抑え、ヨーロッパ最大の債務国になるのである。EU諸国は、市場から資金を調達しているが、すべてのEU諸国が、市場からの攻撃の射程距離内に入っている。

今後は、貧しい国が、裕福な人力の暮らし向きをファイナンスすることになった。またしても、銀行のバランスシートやさまざまなファンドに潜む金融商品に、すべてが左右されるようになっている。低金利のおかげで、公的債務が何とかまかなえている状況であるが、いずれ金利は反転する。

市場が、国家の債務返済能力に対して疑問を抱くようになると、金利は上昇し、国家は次々と破綻する。南ヨーロッパでは、こうしたことがすでに起こりつつある。まずは、ギリシャが破綻寸前に追い込まれた。二〇一〇年五月初頭、ギリシャが抜本的な構造改革を実施することと引き換えに、IMFとEUがギリシャを救済することで合意が得られた模様である。しかし、ギリシャが、こうした改革を実際に実施することは、まずないであろう。そして、ヨーロッパ諸国が、ギリシャが必要とする資金を、ギリシャにきちんと貸し付けることもまずないであろう。

したがって、公的債務のモラトリアムを宣言する国も現われるだろう(例えば、当のギリシャである)。これは、こうした国の国債の発行を引き受けたヨーロッパの銀行に、巨額の損失をもたらすことになる。何が起こっても不思議ではない.

しかしながら、こうした状況を回避することは可能である。ヨーロッパ、アメリカ、アジアの債務国(日本)は、依然として裕福である。アメリカの国際的な金融資産の現在価値は二〇兆ドル、ドイツとフランスでおよそ六兆ドルといったように、依然として巨額の資産がある。そして、これらの国には、高度経済成長へと復活する手段も残されている。

ブログですので、本書をすべて紹介するわけにはいかないのですが、欧州は有史以来デフォルトに次ぐデフォルトを繰り返し、欧州の戦争や革命の歴史はソブリン債務の歴史と言っても過言ではないだろう。米国も建国以来財政問題は重要な問題であり続けた。是非本書を読んでいただければフランス革命の舞台裏から米国の独立戦争の経緯がソブリン債券の歴史そのものであることに驚くでしょう。

しかし歴史的に何度も最悪を回避してきたことも事実です。現在の最悪の事態を回避することは可能であると私は思いますし、ジャックアタリ氏もその処方箋を書いています。人類は今大きな岐路に立っているのです、このまま世界的な動乱と破滅へ向かうのか否かは、債務問題如何によるでしょう。
 
債務危機が、すべてのむ先進国を襲う危険性があります。歴史から教訓を見出し、状況に見合った戦術・戦略を採用するべきかその4にて紹介するつもりです。


    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


イメージ 1

過去の債務の歴史は金貸しの受難ではじまる。
p47
古代ローマ帝国が崩壊してから紀元一〇〇〇年までは、借金は徴税と同様に、君主個人の特権でありつづけた。借金をする主な動機は戦争であり、同時に、戦争は借金の唯一の返済手段であった。金利付き貸金業務を許されたのはユダヤ人だけであり、彼らは、イスラムの領主、次にキリスト教の君主に対する貸し付けを強制された。この時もまだ、個人名義での貸し付けであり、主権機関としての王位と借金は別のものであったことから、君主に貸し付けた者は、君主のわがままに翻弄されることになった。君主は、借金を踏み倒すための口実を作るために、債権者と仲違いしようと常に心の中で考えていた。
七八九年、フランク王国とランゴバルド王国の国王カール大帝は、「万民への訓諭勅令」により、利子付きの貸金を禁止し、これまで君主たちに対して融資してきた「両替商」(つまりユダヤ人のこと)を国外に追放している。
2……イギリス「主権債務」のはじまり
p48-49
君主の死とともに消滅した公的債権ヨーロッパでは、九世紀になると、最初の安定した共同体組織であるキリスト教の団体が、借り手個人と借り手が代表する組織を明確に分けるようになった。

カロリング朝フランク王国内では、修道院の存続期問は、そこで暮らす修道士の寿命よりも明らかに長くなった一とくに五二九年頃、イタリアのモンテ・カシーノにおいてヌルシアのベネディクトゥスが創設したベネディクト会)。これによって、こうした施設では、施設の資産と大修道院長個人の資産を区分けすることになった。だが、施設自体が借り入れを行なうことはできなかった。

主権者に対する貸し手とは、相変わらずユダヤ人だけであった。ユダヤ人は、その国への滞在権を得るためには貸金の継続を強制されたが、君主が将来的にも借り入れを必要としない場合や、君主がユダヤ人の財産を一気に没収した方が有利だと判断した場合には、君主は容赦なく彼らを国外へ追放したのである。

例えば、一一八二年三月、一五歳でフランス王位についたフィリップニ世は、ユダヤ人の財産をすべて没収し、彼らを国外へ追放した。ところが、その六年後に資金不足に陥ったフィリップ二世は、彼らから借り入れをするために外国から呼び戻している。さらに、ユダヤ人が貸した金は、君主個人の債務であり、君主の死とともに債権は消滅したのである。

これと同時期、中国の宋の皇帝は、中国北西の国境にある陳西省でタングート族と戦うために必要な軍資金を、商人や大地主から借り入れている。

p54-56
1223年資金難に陥ったフランス王ルイ8世は自らの王国からまたしてもユダヤ人を追放し、彼らの財産を没収した。ルイ8世は彼らの財産を没収できるのに、なぜ彼らから借りなければいけないのか考えたのである。             フランス王国は慢性的な財政灘にあり,彼の後継者ルイ9世も1230年と1234年に、やはり父を真似てユダヤ人を国外へ追放し、その財産を得ている。この「聖ルイ」と呼ばれることになるルイ9世は、1366年、ほぼ純粋な銀貨(グロ銀貨)を鋳造した。しかし、その後継者であるフィリップ四世は、二一九五年、この銀貨の銀の含有量を減らして改鋳することによって利益が得られることを思いつき、ついに含有量を三分の一にまで減少させている。

このフィリップ四世は、経済的に豊かなフランドルを手に入れるために生涯にわたって戦いつづけたが、1306年には、アティス=シュル=オルジュの戦いでは優勢となり、和平協定に持ち込んでいる。しかしフランドルからは、当てにしていたほどの戦争賠償金は得られなかった。
そこで彼は、フランス国内のユダヤ人を一斉に逮捕し、財産没収を行ない、国外へと追放した。

これはユダヤ人の財産を奪うためという、まったく同じ理由から、一二九〇年七月一八日に、エドワード一世がイギリスからユダヤ人を追放してから、ニハ年後のことである。ユダヤ人の財産を没収したことにより、このフランス王国の主権者には、二〇万リーヴルが転がり込んできた。

この金額は、税収に加えて、ユダヤ人から借りようと思っていた額よりも、さらに多額であった。

追放または抹殺している。その中には、テンプル騎士団も含まれていた。
さらにフィリップ四世は、債務帳消しと資産没収のために、自国の金融関係者をも、
預かる財産管理者を任されるようになった。すると貴族をはじめあらゆる身分の者がテンプル騎士団に財産を預託するようになり、ヨ-ロッパ全土に発達させた金融システムを支配する"国際銀行の元祖。ともいうべき存在となった。テンプル騎士団はフランス国王をはるかにしのぐ財力を誇っていたが、フィリップ四世は、債権者に国家が支配されることを恐れ、彼らに異端の汚名を着せ、生きたまま火あぶりにして抹殺したのである。
テンプル騎士団は、11字軍遠征の護衛兵として創設されたが、やがて兵員輸送や中東との貿易によって富を築き、キリスト教徒への金融業を行なうようになっていった。そしてローマ教皇への寄進を行ない、その見返りとして、税の免除、領民から税を徴収する権利などの特権を得ると、さらにその富を拡大させ、一二四九年の十字軍遠征の際にルイ九世がカイロで捕らえられると、身代金の立て替えを行なっている。これによってフランス王室の信任を得て、王室の金庫の鍵を

1315年、後継者のルイ一〇世は、ユダヤ人に対して、一二年間だけの滞在権を与えるとして、フランス王国に呼び戻した。そしてユダヤ人が、彼らの債権を回収することを認めたが、その条件とは「債権の三分の二を、王家に差し出す」ことだった。つまりユダヤ人の債権を、王家の金庫に入れるために、彼らを呼び戻したというわけである。

現在ユダヤの陰謀論が広められている理由は、彼らの資産を簒奪するのを正当化するプロパガンダである可能性がある。はたしてどれだけの日本人が気がついているだろうか?

世界的な金融危機が今後起これば、国際金融資本の膨大な金が消えてなくなる可能性もある。また、国際金融資本家らから強制的に資産を簒奪し埋める選択肢は
悪魔の選択肢として、魅力的かもしれません。いずれ世界はそうするかもしれない。

その反ユダヤ=金融資本から簒奪正当性プロパガンダを流しているのはいったい誰なのか・・・・正義を自覚する個人の仕業とは思えない。シオン議定書等捏造された偽文書のどは・・・本当の世界の黒幕は存在するのだろうか?

日本のネットに満ち溢れる陰謀論と反ユダヤ意識・・・第二次世界大戦に巻き込まれていった戦前も反ユダヤのプロパガンダが撒かれた、これは危険な兆候ではないのだろうか?


    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 
イメージ 1
 
ナイ教授とアーミテージ氏は日本の友人であり信頼に足る人物ではあるが、基本的には米国の国益がファーストプライオリティーである。
第4章 天皇・原爆・沖縄返還の章を読むと如実にその事実に突き当たる。
我々ととしたら、そこを対立点とはしてはいけないが、いかに親日派を標榜されても言うべきことは言えるのが友人である。
 
ナイ教授は靖国神社の遊就館の歴史観について批判をし、こう主張しています。
米国は1930年台日本封じ込め作戦は行っていなかった。日本を封じ込めるよう意識したのは日独伊三国同盟が成立した1940年以降だと説明する。
 
1937年パナイ号事件 や、1939年の日米通商航海条約の廃棄は、米国による対日制裁ではなかったのか?、ナイ教授やアーミテージ氏は理解したうえで確信犯的に自国の国益を代表し発言しているのだ・・・
 
 
p158-161
アーミテージ: 歴史観にはいくつもの選択肢があるものでしょう。しかし、私が信じる事実はこういうものです。つまり、日本は第一次世界大戦では連合国側に入り、ドイツによる中国での権益などを確保するに至った。当時、まだ英国が世界ナンバー1の座にあり、さらにアジアで急速に力をつける日本があった。だから、我々はロンドン軍縮会議を招集して、日米英三カ国(仏、伊も参加)で話し合いに乗り出したのです。

当時、米国は日本の拡張政策を封じ込めたかったのでしょうか。答えはもちろん、イエスです。しかし、同時に英国の拡張政策も米国は封じ込めたかった。では、なぜ米国と英国は日本よりも軍艦の数で大きな量を確保できたのでしょうか?答えは日本の海軍は太平洋という一つの大海を相手にしているのに対して、米英両国は太平洋と大西洋という二つの大海を相手にしなければならなかったからです。

もうひとつ、言えるのは当時の経済状況です。一九一七年から二五、二六、二七年ぐらいにかけて、経済情勢は非常に悪かった。日本には米英両国と軍拡競争などする余裕はなかったのではないでしようか。もちろん、我々としては日本の拡張政策に歯止めをかけたかったのですが、日本にとっても自主的に規制するのは理にかなったものだったと思います。一九二七年から二八年にかけて、米国は日本における大正デモクラシーの動きも見ていました。それは明治維新よりもはるかに秩序立ったものだったと思います。別の言い方をすれば、明治維新はまだ基盤が弱かつた。我々は「弱さ」を恐れるのです。とはいえ、当時・米国が潜在的な対戦相手と想定し、戦争計画を策定していた相手は日本ではなく、英国でしたが・…-。

春原:今のお二人の話を聞いて、二つのことを思い浮かべました。第一に現在の中国の方向性です。かつての日本が辿った道を今の中国が歩んでいるような気がしてならない時がある。

もうひとつは、やや「陰謀史観的」なものですが、真珠湾攻撃当時、ルーズベルト大統領はその事実を暗号解読などで知っていてなお、知らない振りをして日本にハワイを攻撃させて、対日開戦の口実を作った、と。いわゆる「リメンバー・パール・ハーバー」という言葉で米国民の戦意を煽ったのは米政府の巧みな戦略だった、という見方が日本にはいまだに根強いのです。
 
ナイ:その点については、ロベルタ・ウールステッターの手による慎重な研究結果が出ていますが、確かに日本が対米攻撃を準備しているという事実を何人かの米国人は知っていて、ルーズベルトがそれ(対米攻撃)が起こらないかのようにしていた、という見方もできます。ただ、別の言い方をすれば、いくつかのインテリジェンスが手に入っていたとしても、別の問題に従事している時、それらの情報から全体図をどれほど理解できるのだろうか、という言い方もできます。そして、ロベルタの研究成果はその疑問に対して、「ノー」と答えています。
 
春原:つまりルーズベルト大統領は真珠湾攻撃の可能性を意図的に無視していたのではなく、恐らくホワイトハウスという政府中枢にまで十分な情報が届かなかった、と?
 
ナイ:そうです。
 
春原:十年近くワシントンに滞在し、ジャーナリストとしてホワイトハウスを担当した結果わかったのは、意外なほど重要な情報なり、情勢分析が大統領の手元には届いていないということでした。しかし、それが現実なのだとも知りました。ただ、多くの日本人は米中央情報局(CIA)の前身である米戦略情報局(OSS)が多くの情報を入手していて、それをホワイトハウスが知らないはずはないと思っています。
 
ナイ:いや、実際にはそうではなかった。現実はその通りなのです。
陰謀論の人達の最も愚かな点は、猜疑心を抱く組織が、神の如く正しい選択をして、一つも陰謀達成の為間違いなど犯さない、完璧な組織であると思い込んでいる点だと常々思っています。
 
人間が集まって、集団が形成されると、集団同士他の集団に対し猜疑心を抱いたり、戦いを含む利害対立が起こるのは太古の昔から21世紀の現代まで繰り返されてきました。
 
でも、いつの時代もいずれの集団も完璧ではない。陰謀はあったかもしれないが完璧ではない・・・だから歴史は面白い。
 
陰謀論の人達はそういった人間ドラマなどなく、勝者側が陰謀を完璧にこなしたと思い込んで歴史を断定しています。陰謀論の人達が決め込む完璧な人達による完璧な計画・・・ああなんとツマラナイ人達だろう。
p182-185
原爆投下の「正義」とは?

春原:ドイツと日本の違いというと原爆投下の問題にも触れざるをえません。日本では当時、あるいは今も「日本にだけ原爆を投下して、ドイツにしなかったのはドイツが白人国家だからだ」という、言葉に出せない感情論があります。

ナイ:原爆はあの年の五月までに投下準備が済んでいました。そして、最初の実験が七月。
さらにドイツは原爆投下の是非が検討される前に降伏していました。そうした事実を踏まえ、当時の状況を振り返ってみると、あの爆弾が落とされていなかったら、何と素晴らしいことだっただろうという思いを持ちます。言い換えれぱ、あの時、核兵器というものに十分な理解が浸透していなかった。核を人問に使用することのタブー感はその後から湧いてきたのです。あの時、人々は原爆を単に「より大きな爆発力を持つ兵器」としか見ていなかったのです。

春原:「より大きな爆発力を持つ兵器」ですか……。

ナイ:そうです。たとえぱ、東京大空襲では十万人が犠牲になり、ドイツ・ドレスデンでの空爆でもやはり十三万人が命を失いました。言いたいのは、そこには白人も黄色人種もなかったのです。そのいずれも大変、悲惨な爆撃作戦でした。戦争における大義、あるいは「正しい戦争」が持つ限界が忘れ去られた戦争において、悲惨なことが多々起こるのは事実です。

春原:ハーバード大学でのあなたの同僚であるマイケル・サンデル教授流に言えぱ、「正義はどこにあるのか」と言いたくなりますね。

ナイ:そうですね。だから、そうした文脈で言えば、東京大空襲もドレスデン爆撃も広島・長崎への原爆投下も「大規模な爆弾」という風に捉えられていた。誤解を恐れずに言えば、だからもし、原爆が投下されていなかったら、(当時の戦争状況に鑑みて)それは驚くべきことでもあったと思います。

春原:論理的にはそうかもしれませんが、多くの日本人、特に原爆の犠牲になった人たちは、なかなかそうは受け止められないのもおわかりいただけると思います。

ナイ:よくわかります。これは多くの歴史的事実に関して共通して言えることですが、後で冷静に振り返ってみるとはっきりと見えることがあります。今、核兵盤に対する我々の考え方、そしてそれが持つタブー性を踏まえてみれば、「どうして、あんなものが使えたのか」と人は言うでしょう。しかし、東京やドレスデンに大爆撃作戦を敢行した後、「より大きな爆発力を持つ兵器」を突然手にしたら、どうでしょう?そして、大統領の側近たちは皆、こう口を揃えるのです。「日本の本土上陸作戦には六十万人もの犠牲者が出る。それには米兵だけでなく、日本の民間人も含まれる」と。

春原:それこそ、サンデル教授が批判する「功利主義」の極致ですね。
 
ナイ:全く、その通りです。しかし、そうした文脈で見れぱ、(核使用に関する)今の我々の考え方と当時の考え方は違っていたこともわかるはずです。
 
アーミテージ:「日本が白人国家ではないからだ」という心情を埋解はしますが、その見方には与しません。一九四四年の十、一月前後、ドイツ軍による猛反撃で有名なバルジの戦いに我々は従事していましたが、欧州戦線の先はもう見えていました。そして、翌四五年の一月、欧州での対ドイツ戦はもう終わろうとしていたのです。
 
にもかかわらず、ソ連は我々の反対側から侵攻を始めていました。
一方、太平洋戦線に目を向けると、この翌年の三月、我々は沖縄本島で旧日本軍と血で血を洗う戦いを続けていたのです。これはもう信じられないほどでした。単に死傷者の数だけではなく、日本兵の自ら犠牲になることを厭わない戦い方や、民間人に対する残虐行為に我々はただ、圧倒されたのです。
 
春原:しかも当時の日本軍部はこの後、「本土決戦」の準備もしていた……。
アーミテージ:そうです。沖縄だけでもこの状況なのに。そうしたことがトルーマン(大統領)の考えに大きな影響を与えました。そこには「黄色人種」うんぬんの要素などありません。
 
さらに言えば、日本では(ドイツのように)米ソ両国による挟撃作戦もなかった。まあ、ソ連は終戦段階で突然、対日参戦を宣言するのですが……。
 
春原:それがいまだに日本人による対ロ不信の根っこになっています。
 
アーミテージ:それも当然のことでしょう。いずれにせよ、我々にとって欧州戦線と太平洋戦線は大きな違いがあった。そして、あの沖縄での激戦です。まったく信じられないほどの惨状といったらありません!
ドイツに投下しなかったのは単に原爆が間に合わなかっただけかもしれません。
 
沖縄と硫黄島そしてサイパンはじめ太平洋の島々での激戦は米国に一種のパニックを引き起こし、原爆投下を決意させたのは事実だと思いますであろう。米国は心底日本が怖いのだ。
 
 
広島に投下された原爆は日本に終戦を決意させた要素となったのは事実かもしれません。
 
ただし、長崎に投下した原爆は日本が既にポツダム宣言を受諾すると把握しているにも関わらず投下した。これは犯罪行為に等しい。ゆえに米国は日本の国防の為に尽してもらうのは当然だと考えれば、反米の方々は納得できるかもしれませんね。 
 
 『「日米同盟vs.中国・北朝鮮」アーミテージ・ナイ緊急提言 リチャード・L・アーミテージ ジョセフ・S・ナイJr 春原剛/著(文藝春秋)』を読む 
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


イメージ 1

p130
 イメージ 2湯は、以後、根本を「顧問閣下」と呼ぶようになる。根本を蒋介石から「借り受けた」という意識で常に根本と接するのである。

作戦立案をはじめ、湯は、根本の考えをどの幕僚のものより尊重するようになる。日常の生活においても、食事の際には一番の上席に根本を座らせ、風呂ですら根本が先に入らなければ、自分が入ることはなかった。根本が恐縮して辞退しても、湯はそれを許さなかった。そこまで湯は「根本中将」を尊重したのである。
 顧問閣下 林保源=根本中将        

イメージ 3それは、秀才と謳(うた)われ、日本の明治大学と陸軍士官学校に学んだ親日家湯恩伯の面目躍如たるものだった。
およそ一時間の「蒋・根本会談」は終わった。

根本らが辞去する際、蒋介石は、来た時以上の堅い握手を交わした。
「くれぐれも暑さに気をつけてください」蒋介石は、そう労うのを忘れなかった。
 
湯恩伯将軍
蒋介石にとっても、劣勢の国府軍がまさか根本が加わっただけで「勝利を得る」とは思っていない。だが、「何かが起こるかもしれない」という祈るような気持ちであったことは間違いないだろう。

こうして、根本らは、八月下旬、湯恩伯に従い、廈門(アモイ)に同行することになったのである。
p138
心配りはそれだけにとどまらなかった。一か月の小遣いとして根本には銀百元、吉川(民間人で、根本中将配下の対中国情報部員)には銀八十元、吉村と浅田哲大尉には銀五十元ずつ、さらに、まだ若い岡本秀俊少尉と中尾一行曹長、そして民間人の照屋林蔚(沖縄の女傑として有名な実業家 照屋敏子の夫)には銀三十元ずつが渡された。これは湯恩伯の指示によるものだった。

二十一日には、湯恩伯総司令が着任した。さっそく湯は根本らに軍服を新調することを命じた。彼らを幹部たちに紹介するためである。

根本らは、劉少将の案内で洋服屋、靴屋に行き軍服、帽子、靴などを注文した。将校用の茶色の国府軍の軍服に袖を通した一行は、身も心も引き締まった。
湯は、蒋介石の意向として、それぞれに中国名を賦与した。名前は、蒋介石自らが考えた、とのことだった。
根本博は「林保源」、吉村是二は「林良材」、吉川源三は「周志淑」、浅田哲は「宋義哲」、岡本秀俊は「陳萬全」、中尾一行は「劉台源」、照屋林蔚は「劉徳全」であった。

もはや「日本人」ではない。国府軍の「軍人」としての地位が彼らには与えられたのである。

新軍装に身を包んだ根本は、湯恩伯総司令と共に前線の各兵団を巡視するために出発した。
湯総司令は、各兵団長と会見する際、必要に応じて林保源こと根本博を幹部たちに紹介していった。もちろん、紹介された名は、「林保源」である。だが、根本に語りかける時、湯は「顧問閣下」と呼び、敬意を払うのを忘れなかった。

兵団長たちは林保源将軍こと、根本博に最敬礼した。もちろんこの人物が、終戦時に北支那方面軍司令官として、降伏文書にまで調印した日本側の要人であったことなど、誰も知らない。

しかし、総司令・湯恩伯の態度から、極めて重要な人物であることだけは明らかだった。
p139~140
総司令と、その総司令さえ一目置く顧問閣下。
二人の巡視を受ける兵団長たちは、いよいよ戦闘が迫っていることを肌で感じとっていた。
イメージ 4

廈門(アモイ)からの撤退

廈門は、福建省の中でも有数の商都であり、同時に軍の要衝でもある。

十七世紀に、かの鄭成功が本拠としたこの島は、東南アジア貿易で繁栄した歴史を持つ。十九世紀半ばには、アヘン戦争でイギリスに占領され、そのため、外国人に対して廈門港が開放された。
島の繁栄は、頻繁に出入りする外国船によって盤石になるが、栄えれば栄えるほど諸外国が触手を伸ばしてくるのも、また必然だった。

一九三七年、盧溝橋事件で日中の全面戦争が始まると、翌年には日本軍が廈門を占領している。そして、日本の敗戦までは日本海軍の支配下で商業、軍事両面で重要な港湾都市として栄えるのである。

根本が湯総司令と共に巡視した時、商民だけで、ゆうに二十万人を超える人間が島内に生活していた。

根本には、即座に「この島は守れない」ということがわかった。
島とはいえ、大陸からわずか二キロしか離れていない。しかも北、西、南の三方が大陸と向かい合っている。

三方から総攻撃を受ければ、ひとたまりもない。まして敵は勢いに乗っている共産軍である。

商業都市は食糧の自給もできないため、持久戦にも適さない。この島に固執すれば、廈門、金門は一挙に敵の地に陥ちるだろう。最初の巡視で根本には、それがひと目で見てとれた。

しかし、これは迂闊には口に出せないことだった。「廈門放棄」とは、福建攻防戦の敗北をそのまま意味する言葉だからだ。国府軍内部に計り知れない動揺が起こることは間違いない。

廈門は、それほど重要な地だったのである。

だが、前線の配備の概要を視察した根本は、いつかはこれを湯総司令に進言しなければならない、と思った。それが軍事顧問である自分の役目である、と。その時、湯はどういう反応を示すだろうか。根本にも、それは予想がつかなかった。

廈門の視察が終わると、次いで金門島を視察した。廈門と金門島との間には、いわゆる小金門島がある。一行は、ここには寄らずに先に大金門島に上陸した。

のどかな漁村がそこにはあった。説明によれば、全島が、おもに花崗岩から成る島であり、これといって農業には適さない島である。

根本は、金門島に、守備部隊が置かれていないことに仰天する。

湯も同じ思いだったらしい。ただちに自分の唯一の直轄兵力である衛隊一個団の中から、二個営を大小金門島の警備に投入した。湯はすでに、金門島には一個営を置いている。「営」とは「大隊」に相当し、四百人から五百人の兵力を有するに過ぎない。
根本中将は単なる軍事官僚ではなかった、諜報や分析に長けた戦略家であった。金門島の人口は公称10万であったが、出稼ぎに行って実数は4万人に満たないこと、土地は痩せてはいるが、甘藷や雑穀が取れ、孤立しても自活できる島であること、かつて侵攻する清を鄭成功が金門島に本拠地を置き、廈門を対清レジスタンスの前進基地とした理由を理解した。
 
根本中将は廈門を放棄する苦渋の決断を湯総司令に求め、湯総司令は金門島を台湾防衛の拠点とする苦渋の決断を下した。
 p162~165
古寧頭(こねいとう)の戦い
イメージ 5

根本は、吉川源二中佐を日本に帰国させた九月以来、金門の一戦に希望をかけて日夜、島内を巡視し、陣地の構築、交通路の整備、飛行場の開設などに邁進していた。

洞窟や岩陰に至るまで、根本は見逃さず、指示を与えた。海軍を持たない共産軍は、近辺の漁村からかき集めた小型の木造漁業帆船(ジャンク船)を連ねて、海峡を押し渡ってくることは確実だ。彼らにとって、それ以外に金門島攻略の方法はない。

唯一、戦力が上まわる海軍力をもって、上陸を阻止するのか、それとも上陸させてから殲滅するのか。これは、どんな名将であろうと「判断に迷う」ものだった。

海で戦えば一時的な勝利はできるに違いない。しかし、敵の損害は少なく、そのため長期にわたって金門島を防衛しつづけるのは不可能だろう。夜陰に乗じて仕掛けてくる敵の襲撃から、周囲を海に囲まれた金門島を守り抜くことは到底できないからだ。

最も望ましいのは、敵を上陸させて大兵力を「一挙に殲滅する」ことであるのはわかっている。雌雄を決しなければ、一時的な勝利では金門防衛戦は「成功」とは言えないからである。

しかし、言うまでもなく、それはイチかバチかだった。果たして、自分は国府軍を勝利に導くことができるのか竈そのためにはどうすればいいのか。
根本は考えつづけていた。なかでも、共産軍が海峡を押し渡る時に使う船をどうするか。その処置が最大のポイントと言えた。

敵船を対岸に戻してしまえば、増援部隊がやって来る。また戻れば、さらに増援部隊が来る。

つまり、船を返さないこと、すなわち「焼き払う」ことさえできれば、金門防衛戦を勝利に導くことができる。根本はそう考えていた。
そのためには、油をどこに隠し、どう兵員を散らして一挙にこれを焼き払うか。そこに勝敗の帰趨がかかっている。

根本は、海岸や岩陰に穴を掘ることを考えた。塹壕である。ここに兵を潜伏させるのである。

塹壕戦は、日本陸軍が得意とする戦法だ。戦車など、敵の兵力が上まわっている場合、日本兵は必ず塹壕を掘って土に潜った。

大きな塹壕を掘ることができない場合は、兵一人一人が自分が入るだけの穴を掘り、そこでひたすら戦闘のその時まで耐え忍び、敵戦車や歩兵が接近してから戦うのである。

根本の指導は、どこに塹壕を掘り、どこに兵を潜ませるか、という具体的で細かな点に及んだ。敵が海岸に船を乗りつけて上陸する時、敵兵が前進するや、海岸や岩陰に穴を掘って隠れていた者がすぐに敵船を襲撃するのである。そして、帆と舵と擢に油をかけて「焼き払う」のだ。

ジャンクが帰れないようにすれぱ、後続部隊の輸送を阻止できる。そうなれば、上陸した敵兵は袋のねずみだ。兵士に動揺も走るだろう。
根本はそう考えて陣地構築と塹壕戦の指導をおこなった。
 
イメージ 7

根本は、敵上陸地点を金門島北部の中心・后江湾に面した砂浜と見ていた。
「敵はここから上陸して、島を東西に分断しようとするに違いない。後続部隊をどんどん送り込んで、中央部分から左右(東西)に攻め広げていく」
それが、根本の読みだった。
 
幸いなことに、敵は、敗走を重ねる国府軍を舐めている。十月一日には、すでに中華人民共和国の成立が、毛沢東によって全世界に向けて宣言されていた。
"内戦"は、すでに決着がついている。少なくとも世界のジャーナリズムはそう見ていた。
 
福建省のさらに果てまで、かつての中国の盟主・蒋介石の軍隊は追い詰められているのだ。
一度、大勢が決した戦争が逆転することは、歴史が物語る通り、あり得ることではないのだ。
しかし、だからこそ相手は油断している。そこにつけ入るスキがある。根本はそう考えていた。
 
船さえ焼き払えば、こっちのものだった。増援部隊が来なければ、敵の火力はたかが知れている。ジャンク船で運んで来ることができるのは、兵隊だけだ。銃かそれに類するものしか火力はないだろう。もしそうなら、こっちには戦車もあれば、野砲もある。火力では圧倒的にこっちが有利だ。上陸させた敵を海岸線から引き入れて包み込めば、一挙に殲滅できるはずである。
 
イメージ 8
根本の頭にあったのは、毛利元就の「厳島の戦い」である。この戦国の名将は、中国地方の盟主となっていた陶晴賢の大軍を厳島に誘い込んで撃滅した。
元就は、陶晴賢の軍を厳島におびき寄せるためにあらゆる謀略情報を流した。その上で大軍を殲滅した戦いは、「海上」ではなく「陸上」であったからこそ可能だった。敵の第二、第三の波状攻撃を防ぐためには、敵の大軍を誘い込んで一挙に全滅させるしかない。
 
根本は、この厳島の戦い を念頭に置いていたのである。
イメージ 9
 
イメージ 6
 
そして、共産党軍は実際に上陸すると、ことの見事に根本中将の罠にかかった。
塹壕に隠れた国民党軍にジャンクを全て焼き払われ、退路を断たれ、新たな援軍も補給も来ない。それに加えて金門の熊と称された米国製M5A軽戦車が八面六臂の活躍をして、火力を持たない共産党軍は悲惨な運命を辿りました。
 
イメージ 10
 M5A軽戦車
 
イメージ 11共産党軍は追い詰められた古寧頭村に村民を楯に抵抗しはじめた。根本中将は巻き添えで一般の村民が大勢死ぬと判断し、包囲していた海岸部分を開け、退路を開いたうえで、反対側から猛攻を加えた。共産党軍は古寧頭村から海岸線へ撤退させることに成功し、村民の犠牲を最小限におさえた。
 
日没後、今度は海より海岸の共産党軍へ砲艇から砲撃し共産党軍は殲滅された。
後退に後退を重ねた国民党軍が初めてと言っていい大勝利だった。
 
その後、根本中将が築いた金門島は共産党の進撃を止め、台湾を共産党の侵攻から防ぐ要塞となった。
 
その後1958年8月23日に勃発した有名な金門砲撃戦にも金門要塞は持ちこたえ台湾を防衛したのである。
 
根本中将は廈門を放棄し金門島を防衛する決断を下し、台湾を共産党から防衛する事に成功し、蒋介石から受けた恩義を見事に返したのである。
 
 
 
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 
イメージ 1
 
イメージ 3日本と台湾との歴史の絆は母親が日本人の義士「鄭成功」以来深い絆がある。
 
イメージ 4
 
 
 
 
 
 
 
1945年第二次世界大戦終戦後中国大陸において毛沢東率いる共産党軍と蒋介石率いる国民党軍の内戦は、血で血を洗っていた。1948年淮海(わいかい)戦役に大敗した国民党軍は敗走に次ぐ敗走で北京・南京・上海と主要都市は落ち台湾へ落ち延びて行った。
 
 
 
 
イメージ 5勢いに乗る共産党は中華人民共和国の成立を宣言し、台湾へ落ち延びた蒋介石は、中国大陸最後の大都市廈門市(アモイ)が陥落寸前、大陸に橋頭堡を無くしては台湾すら危ういところまで追い詰められていた。
 
 
 
そんな最中、1945年終戦の際多くの日本人の命を救った蒋介石に恩義を感じ部下の元参謀4人東亜修好会の通訳日本人2人を連れ蒋介石を救いにはせ参じた日本人がいた。
イメージ 6
 
 p5
元日本陸軍北支那方面軍司令官・根本博中将。

終戦後の昭和二十年八月二十日、内蒙古の在留邦人四万の命を助けるために敢然と武装解除を拒絶し、ソ連軍と激戦を展開、そしてその後、支那派遣軍の将兵や在留邦人を内地に帰国させるために奔走した人物である。
在留邦人や日本の将兵が国府軍の庇護の下、無事、帰国を果たした時、根本はそのことにかぎりない「恩義」を感じながら最後の船で日本へ帰っていった。
しかし、今度は国府軍が共産軍との戦いに敗れ、絶体絶命の存亡の危機に陥った時、まさかその日本の元司令官が「自分たちを助けに来てくれる」と、台湾の誰が予想しただろうか。
「義には義をもって返す」軍人でありながらヒューマニズムの思想に抱かれ、生涯、その生き方を貫いた戦略家。
戦後、大転換を遂げた価値観によって混乱の波間を漂いつづけた日本で、なぜ彼のような軍人が存在しえたのか。
「命」を守り、「義」を守った陸軍中将。彼のしたことは、その偉業から六十年を経た今も、決して色槌せることはない。だが、同時にそのために多くの命が喪われたのも、また事実である。
六十年前の出来事は、現代に何を問いかけているのだろうか。
この歴史に埋もれた事実、著者門田氏の努力でその真相が語り継がれれることとなった。

日本に留学していた蒋介石と根本中将は大正15年日本で初めて会って以来、東亜の平和に関して何度か話す機会があったと言う。

蒋介石が1943年のカイロ会談でルーズベルト、チャーチルと日本の戦後について会談した際、「日本国民が自ら決めることが望ましいと」事実上天皇制が存続した奇跡の要因の一つとなった。

1945年12月17日、根本中将と蒋介石は敗軍の将として蒋介石と会談をしている。
p81~83
根本にはこの時、敵の総帥である蒋介石に対して、言葉では言い表せない感謝の気持ちがあった。それは、日本の国体、すなわち天皇制の存続に関する問題である。

二年前の一九四三年十一月にエジプトのカイロでおこなわれた「カイロ会談」は、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相と中華民国主席の蒋介石の三者によるものである。

ここで連合国側の「日本の無条件降伏を目指す」という大方針や「北海道、本州、四国、九州の四島のみを日本の領土とする」ことなど、連合国の対日基本方針が定められている。

この会談のなかで、蒋介石は天皇制度について意見を述べ、それが「天皇制の存続につながった」ことを根本は知る。カイロ会談に随行した蒋介石の部下の海軍武官から根本は直接、会談の内情を聞かされたのである。
事実、蒋介石は、一九四三年十一月二十三日午後七時半からの晩餐会の席上、ルーズベルトから日本の将来の国体問題について意見を求められ、「日本の軍閥がまた立ち上がり、日本の政治に二度と関与することのないよう徹底的に取り除かねばならないが、日本の国体をどうするかについては、日本の新進のしっかりとした考えを持つ人々に自ら解決させるのが望ましい。我々は日本国民が自由な意志で自分たちの政府の形を選ぶのを尊重すべきである」と述べ、戦後になってから「日本国民が自ら決める」ことを主張し、ルーズベルトの賛同を得たという(「中華民國三十三年元旦告全國軍民同胞書」より)。
これは根本にとって大きな意味を持つことだった。無条件降伏でありながら天皇制、すなわち「国体」を存続できたことは、大元帥のもとでひたすら軍務に励んだ軍人としてはかり知れない喜びだったのである。そして、前月から在留邦人の故国日本への帰国も始まっていた。部下将兵たちが命に代えて守り抜いた人たちが続々、日本への帰還を果たしていくことに対しても、根本は深い喜びを感じていた。
イメージ 8

根本は、敗軍の将としてこの時、死を覚悟して蒋介石の宿舎を訪ねている。だが、それ以上に感謝の思いが強かったのである。
根本は、椅子が二脚しかない書斎で蒋介石と対面した。

根本が部屋に入っていくと、蒋介石は、武官長官の商震上将、戦区司令長官の孫連仲上将など高官を立たせたまま、根本の手を取り、椅子に座らせた。

恐縮する根本に蒋介石は、にっこりと微笑みかけた。
「今でも私は東亜の平和は日本と手を握って行く以外にはないと思うんだよ」蒋介石は、そう口を開いた。
「今まで日本は少々、思いあがっていたのではないだろうか。しかし、今度はこれで私たちと日本は対等に手を組めるだろう。あなたは至急、帰国して、日本再建のために努力をして欲しい」
ねぎらいの言葉と共に、蒋は、諭すように根本に語りかけた。その態度には、戦勝国代表の騎りは微塵も感じられなかった、と根本はのちに回想している。

根本は感謝の言葉を蒋介石に述べた後、こう答えた。
「しかし閣下、私は三十五万の兵を残して先に帰国することはできません。北支那方面軍の司令官として、私は戦争の責任を問われなければなりません」
自ら北支那方面軍のトップとしての戦争責任を取ろうとする根本に、蒋介石は首をゆっくりと横に振った。
「戦争犯罪人の処罰は連合国の申し合わせだから仕方がない。しかし、いたずらに多数の戦犯を摘発し、日本の恨みは買いたくない」

そう言うと、蒋介石はさらにこう続けた。
「戦争である以上、罪は双方ともが犯している。だが、連合国からの強い要請もあるので、戦争以外のことで最も悪質なことをやった者だけにしぼって、戦犯として処理したい。中国側の責任者についても、その点、十分の注意を与えているつもりだが、もし日本側に不満があれば、遠慮なく申し出てください」

蒋介石の"日本の恨みは買いたくない。という言葉は、ある意味、リアルな表現である。この時、世界中が固唾を呑んで中国での「国共内戦」の行方を見守っていた。
台湾へ密航し蒋介石と会うまでの凄まじい命懸けの経緯は本書を読まれて欲しい。

蒋介石と根本中将が会談する前日、根本中将の台湾での盟友となった湯恩伯将軍と会っている。

p118~120
イメージ 7
指定の時間に指定の場所に到着すると、湯将軍自ら玄関まで出迎えた。茶菓や煙草で雑談をしている間に、根本は将軍の部下である将領たちを紹介された。

ほとんどが、談話に不自由がないほど日本語が堪能だった。湯恩伯は日本の明治大学と陸軍上官学校を出た知日派であり、部下には日本留学組や日本語が堪能なものが集まっていた。

湯はこれまで根本と面識こそなかったものの、その名前と実力のほどはかねて知っている。
根本たちは、湯とその幕僚たちと十年の知己に再会したごとく、すぐ打ち解けた。

湯の幕僚たちは、根本たちが「命をかけて」東シナ海を渡ってきたことに同じ軍人として感動を覚えていた。

敗走を重ねる国府軍の士気は、著しく衰えている。すでに内戦の大勢が決していることは誰の目にも明らかだった。わざわざ負け馬に乗る人間など中国にはいない。しかし、この日本人たちは、かつての敵である自分たちを助けるために、わざわざ海を越えてやって来てくれたのである。

彼らは、そのことに心を動かされていた。かつて刃を交えたことなど、忘却の彼方に置き去ったかのように、皆が腹の底から笑い合った。

根本は、そのようすを見て、無性に嬉しかった。「ここまでやって来た甲斐があった」という思いが胸に広がる。根本は、台湾まで彼らと「一緒に死ぬ」ために来たのである。

終戦時の日本同胞に対する蒋介石の恩義。それは、北支那方面軍司令官として、内地への引き揚げを一手に引き受けた自分が一番知っている。

敗戦に際し、自決を決意していた自分が今、生きているのは、あの時、内蒙古にいた四万人の在留邦人と三十五万人の北支那方面軍の部下を内地に送還してくれた寛大な蒋介石の方針によるものであったことは確かだった。

国民政府の要人と折衝を繰り返しながら、わずか一年という短期聞の内に日本への帰還を完遂できたことは、奇跡というほかない。それは、多くの日本人をシベリアに連れ去ったソ連の独裁者・スターリンとあまりに違っていた。

その恩義を日本人は忘れていない。そのことを、身をもって示すために、自分はわざわざここまでやって来たのだ。

根本はこうして国府軍の幹部たちと杯を交わしていることが、夢のように思えて仕方なかった。心地よい酔いが、その思いをさらに深くした。

「乾杯、乾杯」と、中国式の乾杯がつづいた。日本の旧軍人に対して敬意を忘れない宴会は、午後十時が過ぎてもつづいた。
やがて宴会が終わり、根本らが帰る時、湯恩伯は一行を玄関まで見送った。その時、湯が根本に近づき、こうささやいた。

「大総統が明日お会いすると仰っています。私が、宿舎に迎えに参ります」
その瞬間、根本の表情が引き締まった。
それは、今か今かと根本が待ちわびた会見だった。
「ありがとうこざいます。お待ちしております」
背筋をすっと伸ぱすと、根本はそう答えた。
蒋介石と根本元中将の会談
p124~125
(略)
と、間髪を容れずに根本が言うと、「好、好、好」と、蒋介石は再び満面に笑みをたたえた。おもむろにうしろを振り返った蒋は、そこに直立している湯恩伯に向かってこう言った。

「福建行きの話はしてあるのか?」
「いやまだです」

と、湯将軍。根本は初めて”福建行き”という言葉を聞く。蒋介石は、根本の方に向きなおった。そして真剣な表情でこう言った。

「近日中に湯恩伯が福建方面に行きます。差し支えなければ湯と同行して福建方面の状況を観ていただきたい」根本らの意思を確認した以上、蒋介石は、その力をどうしても貸してもらいたかったのだ。

長かった日中戦争で、蒋介石は日本軍の実力はいやというほど思い知らされている。
なにより日本軍の規律と闘志は、国府軍を遥かに凌駕していた。そして、陸士、陸大を出た日本陸軍のエリートたちが立案する作戦に苦汁を嘗めつづけた経験は、蒋介石にとって忘れようとしても忘れられるものではなかった。

その中でも先頭を走りつづけた日本の将軍が、命を捨ててわざわざやって来てくれたのである。これに「力を貸してもらう」ことに、誰に異存があろうか。

蒋介石は、風雲急を告げる福建攻防戦に、根本らの力をどうしても借りたかったのである。

根本は、蒋介石の要請に対して即座に、「私は、福建でもどこでもまいります」と、快諾した。同席した吉川大佐も、大きく頷いている。

蒋介石は感激した面持ちで、「ありがとう、ありがとう」と繰り返した。
「顧問閣下」の誕生である。
イメージ 2

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 
イメージ 1
 80年代初頭の頃からそれまでのマルクス主義的社会観から「江戸時代=封建時代=暗黒時代」といった否定的雰囲気に反発する形で江戸時代に関する関心が高まって行きます。江戸時代に関する各種の研究書がベストセラーとなり。江戸ブームというべき現象が起きてきてきました。石川英輔氏が出版した「大江戸~事情シリーズ」や2005年に若くして他界した杉浦日向子さんらによって、江戸時代=高度循環社会=エコ社会といった認識が今では確立されました。
 
そうした江戸時代本を何冊も読みましたが、本書の特徴は、豊富な江戸時代の図画資料に書き込みをして丁寧な解説をしている点です。好感を持ちました。
「江戸時代=エコ社会」にご興味を持つ方の入門書として是非お薦めです。 
 
イメージ 2
 
イメージ 4
 
イメージ 5
 
イメージ 6
 
イメージ 7
 
イメージ 8
 
イメージ 9
 
イメージ 10
 
イメージ 3
 
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 
イメージ 1天皇はなぜ万世一系なのか
平成の御世で百二十五代目、皇統は連綿とつづいてきた。その権力統治構造をつぶさに見ると、あることに気づく。はたして日本で貴ばれるものは「世襲」なのか、そ
れとも「才能」か?日本中世史の第一人者がその謎を解き明かす両期的日本論!
 
本郷和人(ほんごう かずと)
1960年、東京生まれ。東京大学史料編纂所准教授.東大文学部・同大学院で石井進氏・五味文彦氏に師事し、日本中世史を学ぶ。専攻は中世政治史、古文書学。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。主著に『中世朝廷訴訟の研究」(東京大学出版会)、『天皇はなぜ生き残ったか』(新潮新書)、『新・中世王権論』(新人物往来社)、『武力による政治の誕生』(講談社選書メチエ)、『武士から王へ』(ちくま新書)などがある。
 
 
 
本書は所謂皇国史観の本ではございません。世襲と才能の登用の間で揺れ動いた日本人の人事問題を考察し、その結果誕生したのが、結果として続いてきた万世一系の天皇という知恵であることを論じていている本です。
 
わたくしは、保守主義者で尊王思想を支持していますが、神話としての万世一系ではなくシステムとしての万世一系の皇室という知恵を支持したい。
 
本書は中世の貴族社会や僧侶の人事にかかわる実例を上げ、人事は日本人の一大関心事であったこと。そのなかで中堅貴族は生き残る為に専門職をみつけ家業としたり、武士は所領を安堵する為に命を懸けて戦い、所領を世襲する。人事において才能と世襲をうまくバランスをとる難しさはいつの世も同じであると思ったのであります。
 
p59
朝廷の人事では年功が重んじられている。けれども、年功に依拠してばかりいるならば、十九歳の権中納言は生まれようがありません。年功だけではない。でも、家実の出世の道すがら、格別なトラブルが起きた形跡はない。だれも憤慨している風はない。
これはなぜなのでしょうか。
ここに実は、「家格」というコンセプトが必要になってきます。上・中級貴族はおおよそ四つの家柄に分類することができる。摂関家、清華家、羽林(うりん)家、それに名家です。家柄には格があり、摂関家が最上で、名家がもっとも下位に位置づけられています。自分が属する家柄よりも上位の人が、先に昇進していく。これは仕方がないのです。良い気はしないでしょうけれど、ちっとも恥ではありません。ところが自分と同等、もしくは下位の家柄の人に追い越される。これが厳密な意味での超越です。耐えられぬ恥辱となるのです。
p58~61
家格です。家格の名称が厳密に定まったのは江戸時代なのですが、便利なのでこれを用いることにしましょう。家格は先述したように、上から摂関家、清華家、羽林家の順で、一番下が名家です。江戸時代には清華家の下に大臣家を設定しますけれども、中世においては両者は同一のものとして扱えます。
 
摂関家は名称の通り、摂政・関白になれる特別な家です。平安時代、摂関政治を行って朝廷をリードした藤原本家の子孫たちです。鎌倉時代初期に、まず近衛、松殿、九条の三家が成立しました。このうち、松殿家は政争に敗れ(滅亡した木紳義仲と組んでしまった)、早々に没落します。近衛家からは、鎌倉中期に別に鷹司家が立てられた。九条家からは同じころに二条と一条家が分立しました。この五つが摂政・関白に就任できる家として、所謂「五摂家」が成立しました。

五摂家の嫡子ともなると昇進はたいへんに早く、近衛中将から蔵人頭・参議を飛び越して、直に中納言に任じることが多いようです。先に例に出した近衛家実もそうでした。その後、早々に左大臣か太政大臣に昇りつめ、摂政もしくは関白になります。頃合いを見てさっさと引退し、間違っても老残の身をさらしたりはしません。「前関白太政大臣」の肩書きは、現職にいるのと同じくらい、政治的な発言権を有していました。家格が厳然と機能しているので、実際の官職にこだわる必要がないのです。

清華家は中世では大臣家とも呼ばれます。つまり、大臣になれる家なのです。有力な清華家の嫡子は近衛中将から蔵人頭を飛び越して直に参議に任じている人が多いようです。

二十代前半で中納言くらいでしょうか。大納言から大臣に進むのですが、重箱の隅を突きますと、
①内大臣→右大臣→左大臣→太政大臣、と順々に昇進する家が清華家の中でも格が高いのです。さきほど、摂関家の貴公子は蔵人頭や参議を飛び越していく、生言いましたが、大臣は飛び越さないのがえらい。三条・西園寺・徳大寺家などがこれにあたります。
②内大臣→太政大臣、と左右の大臣を経験しないで、状況を見ながら太政大臣に任じる家がそれに次ぎます。土御門・久我・堀川家など。
③内大臣にだけなって引退する。これが三番目です。

羽林家は、大納言もしくは中納言にまで昇進します。羽林とは近衛府の次官である近衛中将・近衛少将の中国風の呼び方であり、「武官コース」を経由することに由来した名なのです。家の先祖は摂関家・清華家の庶子であることがほとんどで、その家独自の特徴を内外に提示しないと、数代後の没落が待っています。生き残るのはたいへんですから、常に厳しい立場に立たされている家々といえましよう。『神皇正統記』の著者として有名な北畠親房を出した北畠家を例にすると、家の初代は親房の曾祖父の雅家で、清華家に属する中院家の庶子でした。彼の子息の師親は、大覚寺統へのひたすらな献身と、深い学識の習得を家の特徴として打ち出し、大納言に至る家格を維持しようとしています。

昇進コースでいうと、以上すべての家は「武官コース」を通っていきます。他方、最後の名家だけは「実務官コース」。吉田・葉室・二条・坊城・中御門.勧修寺などの家がこれにあたります。本章で例に挙げた中御門経任、姉小路忠方、平仲兼、吉田隆長はみな名家の人々です。忠方も仲兼も、羽林以上の家の人に追い越されたなら、不快には思ったでしょうが、怒りはしなかった。同じ名家出身の中御門経任、吉田隆長に超越されたので、激怒して官を辞したわけです。
 
もう少しだけ薀蓄を語ると、名家の人々は家格は低い。けれども、実務官としてのスキルをもっている。これに目を付けたのが、院政を行う上皇たちです。とくに鎌倉時代中期から、後嵯峨上皇以降の歴代の上皇は、彼らを積極的に登用した。彼らを白らの手足として活用することにより、摂関家や清華家などの伝統的な上流貴族を敬して遠ざけ、それまでとは異なる機能的な朝廷行政を目指したのです。能動的な行政者たらんとする上皇と、実務に堪能な名家の人々。この組み合わせによって、鎌倉時代の朝廷政治は推進されていきます。 
 
(1)朝廷における権勢とは
p154~156
これまで色々と書き並べてはきたのですが、これらは実に簡単にまとめることができます。日本の支配者層、貴族や武士についてみるならば、世襲は圧倒的に強力な理念であった、結局はそれに尽きるのです。
 
中国大陸では科挙が実施され、新しい才能が絶え問なく補充される。彼らは官僚として出世を競いながら、総体として皇帝の権力を支えます。ですから、皇帝権力は彼らのサポートを受けて、他の権力者を圧倒することができる。これに比べて日本では才能を基準としての登用や抜擢がない。権勢を得た者は自己の権力を子孫に伝えることをくり返しますので、代を重ねるごとに抜きがたい勢力を築いていきます。天皇も、後の世の将軍も、彼らの存在に手厚い配慮をする必要があるのです。
 
時間軸に添って、日本の「権力のかたち」を見ていきましょう。古代に導入された律令制は、本来は天皇だけをただ一人の王とし、その前ではすべての人が臣として横並びであるという「一君万民思想」を標榜していました。それは経済的には、全ての土地と民百姓は天皇の所有に帰するので、権勢者が勝手に私有したり世襲できないという「王土王民思想」になります。
 
東アジアに見られる律令国家は、①土地を貸与(班出という)し、その見返りとして②税を納入させ、③兵役を課す。また、これを国内で均等に行うために④地方行政制度を確立する。この四つを基本的な要素として有しています。ところがこれを満足させるためには、「1、法の整備」と、「Ⅱ、多くの官僚の育成」がどうしても必要になるのです。
 
ところが、日本では、もう何度もくり返していますが、官僚の育成を行わなかった。ですから、律令制は社会に根付くわけがなかった。大宝律令の制定は七〇一年ですが、早くも七四三年には、土地の私有を認めた墾田永年私財法が作られています。最近の古代史の研究者は、この法は律令制が進展するのを側面から援護したもの、との評価を与えているようですが、どうも木を見て森を見ない議論であるような気がしてなりません。先にも記したように、律令制の基本は「王土王民」です。それがもう破綻している、と考えるのが本筋ではないでしょうか。実際にこれ以降、私有地に近い荘園が各地に設けられ、その数は増加の一途を辿っていきます。

平安京への遷都が実現し、平安時代が始まると、律令制の衰退は次第に明らかになっていきます。右記③、朝廷の直轄軍は姿を消していき、④も有名無実になっていく。九〇〇年頃には、国司が任地に赴かなくなります。県知事は東京で賛沢に暮らしていて、現地は部下に任せきりにしているようなものです。①については、醍醐天皇が九〇二年に実施した班田が最後、といわれています。
こうした状況の中で、「一君万民」というありかたにも、揺らぎが生じてきます。天皇の政治的な突出に歯止めがかかり、実力を蓄えた貴族たちが台頭してきます。その代表が摂政(天皇が女性、もしくは子どものときに置かれる)や関白(天皇が成人男性のときに置かれる)として天皇権限を代行する、藤原北家の一流です。
下克上というけれど
p172~173
いかに実力重視の戦乱の時代とはいえ、やはり家柄が大事だったのです。
それは大名家だけではなく、大名を支える家臣団にもいえることです。強力な軍隊や支配体制を作るために、大名たちは才能をどんどん抜擢したでしょうか。いいえ、そんなことはできませんでした。名もない素浪人を重く用いたりしたら、有力な国人領主たちが納得しません。彼らの協力を得られなければ、大名は自滅する他ないのです。だから大名たちは、従来の秩序を無視するわけにはいきませんでした。

数多い戦国大名の中でも、才能の抜擢ができたのは、わずかに武田信玄と織田信長くらいではないでしょうか。信玄は有能な家臣に伝統ある家を嗣がせ、重臣として用いました。山県昌景(謀反人として処罰された飯富虎呂の弟)、馬場信春(もと教米右氏)、香坂昌信(豪農の出身)がこれです。より大胆な抜擢をしたのはいうまでもなく織田信長で、羽柴秀吉、滝川一益がこれにあたります。明智光秀も土岐源氏とはいうものの、出自が確かではないようです。

まとめましょう。戦国時代の戦乱によって、伝統的な秩序には大きな改変が加えられました。伝統の力は後退し、実力が前面に押し出されるようになりました。ですが、それでも一足飛びに「能力がすべて」という風潮が生まれたわけではありません。戦国大名もその重臣たちも、伝統的な勢力から生まれています。世襲の力はまだまだ強力で、伝統・世襲を基礎として、そのうえで能力の有無が問われたのが戦国時代である、といえそうです。
つづく
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 
イメージ 1
イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3
 
75pの薄い本であった為1時間もかからず一気に読みきってしまった。
面白い本でした。皆様にもお薦めします。昨年の大河ドラマ龍馬伝では勝海舟を武田鉄矢が演じておりましたが、苦労人勝海舟の懐の大きさ、人の痛みがわかる人情深い大人物を上手く演じていたと思います。
 p3~4
勝海舟は成臨丸で日本人で初めて太平洋を横断した人物として知られています。幕末から明治維新にかけて、海舟が日本という国家に果たした役割は大きく、海舟にまつわる著書は世に数多く出ています。
中でも海舟自身の談話集である『氷川清話』は有名で、作家の海音寺潮五郎も「明治維新を本当に知るために、海舟はもっと研究されねばならない人物である。薩長連合も、大政奉還も、その知恵を坂本龍馬に授けたのは海舟であった証拠がある」と、本の帯に推薦文を書いています。
『氷川清話」を一読すると、海舟は大変器が大きく、勤勉で情の深い魅力的な人物であったということがわかります。海舟はいかにしてそのような人物となったのでしょう?
一九七六(昭和五十一)年に出版された『クララの明治日記』という本があります。著者はクララ・ホイットニー。クララはのちに海舟の三男である梅太郎の妻となった人です。
日記は一八七五(明治八)年八月三日から始まり、一八八七(明治二十)年四月十七日で終わっています。クララが十五歳から二十七歳までの記録で、海舟はそのとき五十三歳から六十五歳。大小十七冊のノートにびっしりと書き込んであります。
この日記に海舟を含めた勝家の人々が登場します。クララは両親と兄妹の五人家族で、勝家の敷地内の家に住んでいました。クララ一家がクリスチャンであったため、勝家の人々はキリスト教に関わりを持つこととなり、海舟もその影響を受けます。
本書は海舟とキリスト教との関わりにスポットを当てー特にクララ一家と出会った頃の晩年の海舟をークララの日記を中心に見ていくことにします。
  p15~17
海舟は二十一歳で蘭学を志し、永井青崖に師事しました。蘭学とは、江戸時代中期以後に現れた、オランダ語の書物によって西洋の学術を研究しようとした学問です。海舟は勤勉に蘭学を学び続け、のちに私塾を開くほどになりました。海舟がキリスト教に出会った時期は定かではありませんが、おそらくこの頃に蘭学の勉強の一環として聖書を読み始めたのではないかと想像されます。

キリスト教を理解することなしには西洋の芸術を真に理解することはできない、とはよく言われる言葉です。西洋の音楽、文学、絵画、彫刻、舞踊、建築など、いたるところにキリスト教の影響がみられます。

このことを考えれば、世界に目を向けていた海舟が、キリスト教に興味を持ったのは当然のことで、単に教養という面からだけでも聖書を読み始めたのではないか、という可能性に頷けます。三十八歳のときに成臨丸でアメリカに向かった折りには、サンフランシスコ滞在中、日曜日ごとにプロテスタントの教会に出席しているのです。そんな海舟がキリスト教の影響を受けたと考えるのは、むしろ白然なことではないでしょうか。

キリスト教と出会って、影響を受けるその現われかたは人それぞれで、ある人にとってはその価値観が根底から変わってしまうような場合があります。けれど海舟の場合は、「もともと持っていた価値観が、キリスト教の価値観と合っていた」というのではないかと推察されます。だから海舟はキリスト教に好意を持ちました。海舟とキリスト教との関わりは、そういうところから出発したのではないかと想像されるのです。
 
海舟が長崎で出会ったクリスチャンの一人にカッテンディーケというオランダ人がいます。西役所におかれていた海軍伝習所に、新たに赴任してきた主席教官でした。カッテンディーケは「この国の人たちにキリスト教を押しつけてはならない。我々の信ずる神は愛なのだから、寛容な心で真実に語るならば、この国にキリスト教は伝わるに違いない」という考えの持ち主でした。
 
当時の日本はキリシタンは禁制で、通訳者はキリスト教のことには触れないように通訳し、またそれを見張るのが目付の役割でした。海舟はこのカッテンディーケという人物に魅せられ、策を用いて度々彼と二人きりになり、「通弁も目付もなく、直接、男と男として語った」と著書で述べています。彼との長崎でのつきあいは二年に及ぶものでした。
 
このカッテンディーケを始まりとして、海舟は生涯を通じてたくさんのクリスチャンたちと親交がありました。勝家に出入りしていた日本人キリスト者を列挙してみましょう。
 
津田仙、徳富猪一郎、横井時雄、巌本善治、山路愛山、富田鉄之助、戸川残花、中村正直、宮川経輝、小崎弘道、内村鑑三。いずれも鍾々たるメンバーです。また明治キリスト教界の重鎮といわれた伊勢時雄、湯浅治郎、海老名弾正、押川方義もいます。
 
日本人で最初のキリスト教伝道者といわれた新島嚢も忘れてはなりません。海舟と知り会った当時、新島はキリスト教主義の学校を創ろうと奔走していました。土地を取得するお金がなく、失望しているときに、海舟が京都府顧問の山本覚馬と交渉し、旧薩摩藩邸の敷地六千五百坪を僅か五百ドルで新島に譲るようにしたのです。
 
そのおかげで新島は一八七五(明治八)年、同志社大学の前身である、同志社と同志社英学校を設立することができました。
p21
維新後の日本では外国との通商が大幅に増えました。このために欧米流の商法や簿記を教える学校が必要だと、森有礼が考え、東京に商法講習所(一橋大学の前身)を開設することとなりました。駐米代理公使をしていた森はクララの父のことを聞き及び、ここに所長兼教師として彼を迎えることにしたのです。
クララの父、ウィリアム・コズウェル・ホイットニーは工ール大学を卒業後、ニュージャージーに実業学校を開いていました。商法の素養を十分に持っていましたが、学校の経営は行き詰まっており、ホイットニーは渡りに船とこの商法学校への招聘を承諾しました。
けれどそれだけではなく、ホイットニー一家が来日することに関しては、クララの母アンナの強い希望があったのです。アンナはニュージャージーの夫の学校で、富田鉄之助に英語を教えていました。富田は日本人として初めてこの学校に学んだ学生で、後に日本銀行総裁を務めた人です。
これは縁と言うものなのだろう・・
クララの母(アンナ)の妹(アデレート、愛称アディ)は富田鉄之助の夫人です。
p22~23
アンナは英語教師として富田に接していましたが、この富田の方から「聖書について教えてほしい」と、たっての望みが出されたそうです。
このことがきっかけとなって、アンナの心に日本人に対する伝道の志が与えられました。
それはしだいに強くなり、いつか日本に行って、日本人の救霊のために働きたいという、強い願いが起こったのです。
経済的な局面の打開をはかるための心機一転、また日本人に対する熱い救霊の思い、この二つの翼に乗って、ホイットニー夫妻と三人の子供たちが乗船したオーシャニック号は、一八七五(明治八)年、八月三日、火曜日、横浜に辿り着いたのでした。
ところが日本にきてみると、約束と違って商法講習所は開校のめどがたっておらず、ホイットニー一家はたちまちに経済的窮地に追い込まれます。
これを救ったのが海舟でした。森から窮状を訴えられ、商法講習所の設立のために千ドルの寄付を申し出たのです。
このことによって講習所は開校の運びとなり、ホイットニーは正式に雇用契約を結び、一家は森が提供した邸に落ち着くことができました。勝家とホイットニー家の交流はこのときから始まります。
ホイットニ一家が来日した年、海舟は五十三歳。参議を退いて、著述に専念、毎日訪れてくる多くの客と会っていました。
以後ホイットニー一家はやがて勝家の広大な敷地内に家を建て住むようになった。
勝邸内で、キリスト教を布教した。
 
米国にホイットニー一家は帰国した後再来日、母クララが亡くなった後、クララは三男の梅太郎とできちゃった国際結婚をして6人の子供をもうけました。しかし勝海舟の死後、生活力が弱い梅太郎に頼る事が出来ず、子供の教育問題から子供をつれ米国に帰国した。
 
p72~73
七十歳で子供を亡くした海舟の内心の悲嘆は、想像するしかありませんが、このときニーダムが語ったことを聞いて、海舟は、それまで知識としてしか知り得なかった聖書のことばの真理を、初めて理解したのではないでしょうか。年者いて死期が迫ったその心に、「天国」ということばが切実に響いたのかもしれません。
だからニーダムはこのことをクラークに伝え、クラークはこれを書き記したのです。
海舟の救いのために祈っていた人々にとって、これは特筆すべき出来事だったと思われるのです。
またクララのことばに対しても、「といっても、海舟が洗礼を受けたわけでもなかろうが」と、勝部氏は軽く流しています。
しかし、ウィリスが「伯から直接信仰に入った」という告白を聞いた、ということは、実は大変重要で、かつ決定的なことだと思われます。
だからこそクララは「ほんとに嬉しく思いました」とつづけ、「もっとも私共は伯はいつでも天国に近く居らるることを感じていましたが」と結んでいるのです。
キリスト教では通常の場合、入信を決意すると洗礼を受けます。洗礼を受けることが入信したことの証となるのです。海舟が洗礼を受けたという記録はどこにも見当たりませんが、聖書の解釈の違いなどによって、洗礼を受けなくともクリスチャンであるという考えを持つ人たちがいますし、そういった宗派もあります。また、何かの事情で、たとえば親族の反対などで、信仰を持っても洗礼を受けることができない人たちもいます。もし海舟がキリスト教を信じたのに洗礼を受けなかったのだとしたら、そこには海舟なりの考え、あるいは何らかの事情があったのだと推察されます。
海舟は六十五歳で伯爵となり、六十七歳で勲一等瑞宝章、七十六歳で旭日大綬章を授与されています。
しかし、平生から肩書きを嫌った海舟の墓石には、一切の称号、法号がありません。
本人の遺言によって、「海舟」とのみ彫られています。
昭和四年、海舟邸の二千五百坪の土地は、その千六百六十八坪が氷川小学校建築のために東京府に寄付されました。その後、屋敷は空襲で焼失。一度は再建されましたが、昭和四十年代、そこにマンションが建築され、氷川の勝邸はなくなりました。
勝邸の道を隔てた向かいには、クララの兄ウィリスが開いた赤坂病院が建っていました。
その跡地は教会となっています。現在の赤坂教会です。
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 
イメージ 1猪口孝 氏
(いのぐち.たかし)
1944年生まれ。国際政治学者。
東京大学名誉教授。日本学術会議会員。東京大学卒業後、マサチューセッッエ科大学にて政治学博士号取得。 
東京大学東洋文化研究所教授、国際連合大学上級副学長、日本国際政治学会理事長、日米教育委員会委員、法制審議会委員、中央大学法学部教授などを歴任。日本政治学術研究誌主宰編集長、アジア太平洋国際関係学術誌創立編集長。
著書に『社会科学入門知的武装のすすめ』(中公新書)、『国際関係論の系譜』(東京大学出版会)、『アジァとヨーロッパの政治文化市民・国家・社会価値についての比較分析』(共著/岩波書店)、『アジアの政治と民主主義ギャラップ調査を分析する』(共編)『日本の洗濯考えるエッセンス』(共著〕『トンボとエダマメ論何が夢をかなえるのか」『英語は道具力』『タンポポな生き方』(すべて西村書店)ほか多数。
現在は、新潟県立大学学長兼理事長。ホームページは
妻は元少子化担当大臣の
猪口邦子参議院議員  
日本は構造的に、高齢化人口減少社会のトップランナーを走っています。米国は移民の国ですのでヒスパニックを中心に人口が増えています。が、韓国や中国などアジアの国の人口はやがて減りだし、日本の後を追うでしょう。欧州の国々とて同じでしょう。ところが、そういったことを理解しない欧米のメディアの日本の評判は酷いものがあります。今の民主党政権のような無能集団による政治の混乱を見れば世界中から見下されてもしかたがありません。
 
経済が停滞しても幸せな国ニッポン【F.T誌】
 「日本は世界で最も成功した社会か? こう問いかけただけでも、冷笑を誘い、読者が朝食のテーブルでふき出すことになるだろう」
「韓国や香港、米国のビジネスマンに日本をどう思うか尋ねれば、10人中9人は悲しげに首を振り、普段はバングラデシュの洪水の犠牲者に向けられるような悲嘆に暮れた表情を見せる」
「『あの国に起きたことは、本当に嘆かわしいことだ』。シンガポールの著名な外交官は最近、筆者にこう語った。「彼らはすっかり道に迷ってしまった」。
 
私(Ddog)は、失われた20年について政治以外については意外に日本は健闘していると思っていますが、少子高齢化社会で苦しむ人が大多数という現状は打破しなければなりません。
本書は、現在の日本は徳川時代に確立した鎖国モデルから抜け出していないのではないかと問題点を洗い出し、21世紀の日本の指針を明快に示す本であります。
p21
少子高齢化社会で人生のたそがれに悩み、苦しむ人が大多数というのでは困るのです。変革期における日本の伝統は、革新にあります。これまでも、日本は地球上の大きな変化にしっかりと適応することによってここまできました。地球寒冷の時代でもドングリやシジミを採集し生き長らえてきた前古代日本人は、無資源を物ともせず、頭脳を使って、世界有数の経済、技術、文化を誇る現代日本人にまで発展してきたのです。大地球時代に正面から対時すること、これが我々日本人に突きつけられた喫緊の課題です。欧亜大陸の東の沖合、太平洋の西の周辺に位置しながら、ここまで発展してきた日本人にできないわけはありません。そのような強い思いが、本書を上梓する所以となりました。徳川モデルの問題点を明らかにし、新生日本人に必要な条件などを、皆様と一緒に考えていければ幸いです。
p33
吉田ドクトリンは鎖国のようなもの
第二次大戦後に外務大臣となった吉田茂は、後に日本自由党総裁になって内閣をつくります。長い間首相の座につきますが、この間、サンフランシスコ平和条約・日米安全保障条約を締結するなど、アメリカとの政治路線を方向づけました。
吉田茂は、冷戦構造の中で軍事的に日本が何かをすることは無理だと判断し、経済に重点をおいて日本の進む道を定めました。日本の復興、そして経済発展を実現するために、できるだけ軽武装、つまり軍事費にあまりお金をかけない方針をとったのです。この吉田の考え方を「吉田ドクトリン」といいます。
日本の安全をアメリカに依存し、経済成長に専念する国家戦略をとったわけです。安全保障に関していえば、アメリカは頼りがいのない日本の動きを抑えることにより、日本を守るということにしました。日本は海で囲まれているために、人の移動さえ止めれば、どうにか国を守れると思っていたのです。
p36
戦後から七〇年代までは「疑似鎖国」
徳川時代も、わずかひと握りの人しか外国語を話す人はいなかったでしょう。オランダ語、英語に至ってはもっと少なかったはずです。その時代に比べれば、戦後になり英語を話せたり、読めたりする人が増えましたが、戦後もそんなに盛んにならなかったのは、外国への門戸が誰にでも開かれていたわけではなかったからでしょう。
その意味で、戦後から一九七〇年代までは「疑似鎖国状態だった」といいたいのです。
p40~42
信長が描いた日本の姿とは?
戦国武将の一番人気は、なんといっても信長でしょう。
政治は政(まつりごと)とされ、帝(みかど)は国内をいかに安泰に治めるかに注力されていました。信長は天皇の地位を利用しつつも、「自分が国を治める」という強い意志をもっていました。「本能寺の変」が起きず、信長が生きていたら、日本はどうなっていたでしょうか。
信長は、近代日本の基礎を確実につくった人でした。基礎というより、きっかけといったほうがいいかもしれません。
現在はグローバルに物事を見つめないと、正しい判断ができない時代になりました。空を飛ぶ鳥の気分で日本を見てみると、何かちんまりしているよ
うな気がします。
なぜちんまりしてしまったのか、その大きな原因は「徳川260余年の歴史にあり」といえるでしょう。大きな争いもなく「平和な日々」が続きましたが、鎖国で海外と交易がなかったために日本は置いてきぼりをくってしまいました。

歴史の分岐点
今日の日本を形づくった分岐点は、明治維新と第二次世界大戦というのが日本の教科書の教えるところです。しかし、私には異論があります。人口と技術をより根底的な変数としてみると、そのような短期的な見方では説明がつかないからです。
日本の近代史の出発点は、本能寺の変による絶対王政の頓挫と、中世的要素を大きく温存しながらの徳川モデルによる近世の熟成にあると私は考えています。徳川モデルは実によくできたモデルで、だからこそ徳川二五〇年を超え、明治維新や第二次世界大戦敗北を経てなお生き長らえました。しかし、大地球時代に入るや、その綻びは明らかになり始めました。
翻ってみれば、安土桃山時代、つまり大航海時代、グローバル化が海を軸に大きく展開した時代から、五世紀が経ちます。現在の全地球規模のグローバル化を考えると、織田信長の対応法は参考になるかもしれません。(略)
 猪口氏はエリザベス女王と織田信長の類似点を指摘して、織田信長モデルの日本は東の大英帝国になっていたかもしれないことを示唆しています。
 
信長は絶対王政をを標榜した織田信長の政策とは、過酷で過激、そして無神論者、規制を撤廃し自由経済、実力本位で人を使い、秀吉にチャンスを与え、職業軍人を組織し、海外の科学技術のすばらしさを取り入れた。当時の日本は世界一の鉄砲製造/使用国となった。また、経済は活性化し、自作農の農民の自立と初歩的な工業化が萌芽したと猪口氏は評しています。
 
江戸時代の出来事が現代に続く新しい価値観を徳川幕府体制で作られた。
特に民主主義的日本政治の起源は徳川幕藩体制の下で種が撒かれ萌芽していたとの猪口教授の説は注目である。
 
徳川時代の五つの基本柱
 
基本柱一「対外関係は軽武装商人国家」
鎖国といっても実質自由貿易の制限であった。西欧諸国と諸藩が交易すると武器の輸入が出来、藩によっては幕府に反抗する藩も出るので禁止。宗教も幕藩体制を揺るがしかねないので、キリスト教の禁止をおこなう。だが西欧諸国の科学技術の成果は吸収したいので中国とオランダに対しては長崎出島では窓を開ける。松前藩にはアイヌとロシア、朝鮮は対馬藩、薩摩藩には琉球を管理させた。
この結果、日本は外国から、軍事・経済・宗教的脅威を軽減できた。
以上の事が書いてあったが・・・
 
日本は世界的な金・銀・銅の資源国で当時輸出を行い、中国オランダは日本の資源を必要としていた。江戸初期は、生糸や繊維製品は国産は品質が低く生糸を中国から輸入していて、日本は意外に多くの重要な貿易をしていた認識を著者は持っていないと思われる文章だったので、非常に残念だ。
 
猪口氏は鎖国による負の遺産である語学力の無さを英語教育の徹底で克服せよと主張される。確かにその通りだが、科学技術の発達で、対面でも瞬時に翻訳できるツールが間もなく普及するだろうから・・・私は日本語で正しく理解し思考する能力を高めればよいと思っているので著者の意見には若干賛成しかねる。
 
基本柱二「政治行政は疑似連邦制」
所謂幕藩体制だが、擬似連邦制と著者は言うが、馬鹿な国会議員達が提唱する日本を連邦制にしようと言っているが私は反対である。それこそ日本の崩壊を招く。
しかし、江戸時代の幕藩体制は巧妙であった。、公共事業は各藩が幕府の指定する藩に関係のない場所を行わせ、参勤交代や江戸屋敷の運営など幕府に反抗させる牙を1本1本抜いていったのである。実質的に水田開発可能な農地は開発されつくされ、藩財政を立て直す努力を各藩が必死で行ったのである。
p93~95
徳川の施政方針は、疑似連邦制的な措置に近いものといえます。参勤交代や天下普請などで出費を強いられた藩は、当然疲弊してしまいます。そこで、財政のためにどのような施策を講じるようになったのでしょうか。
本州最北端の弘前藩は藩の財政が圧迫されないように、軍人兼官吏たる藩士の一部を農村部に移し、農耕に従事させるようにしました。弘前藩は藩政にかかわる藩士の数を削減することにより、藩の支出を大幅に減らしまし
た。また、米沢藩は、漆製品で利益をあげるために、漆の植樹と精製に補助金を出しました。四国東部の徳島藩は、染色産業を興すとともに、瀬戸内海を挟んで対岸に位置する大坂一大阪)に特産品の阿波藍製品の市場を開拓する方針をとりました。徳島藩は大坂で巨大市場を切り開くことにより、藍染め製品に活路を求めた蚕業政策が大成功をおさめたのです。
道路、橋、港、関所といったインフラの全般的な整備は、おおむね徳川幕府の手にゆだねられました。しかし、こうしたインフラ整備以外の多くの事柄は各藩に任せられていました。各藩の財政政策は、農業経営の発展度の違いや人口構造の変化に応じて大きく異なっていました。(略)
地方分権が推進されたのは、鎖国が行われていたからであり、今日、グローバル化が世界各国に多大な影響を与えているのとほぼ同じように、着実に形成されつつあった国家経済が各藩に多大な影響を与えていたからであり、滞っていたとはいえないまでも、基本的に技術革新のスピードがゆっくりしていたからだと思います。
今日の安易な連邦制では地方が本当に努力するとは思えません。私は反対します。
 
 
 
 
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック


11月29日の議会開設120年記念式典で、民主党の中井洽前国家公安委員長が、来賓の秋篠宮ご夫妻が天皇、皇后両陛下のご入場まで起立されたのを見て「早く座れよ。こっちも座れないじゃないか」と不平を漏らしていたことが30日、分かった。 自民党は「懲罰の対象になりうる著しく品を欠く発言だ」と問題視している。西岡武夫参院議長も事実関係を調査する意向を示した。複数の国会議員によると、秋篠宮ご夫妻は式典会場の参院本会議場に入られ、天皇、皇后両陛下のご入場まで約5分間起立して待たれた。国会議員も立っていたところ、中井氏は1分半ほどで「早く座れよ」などとぼやき始めた。それほど大声ではなかったが、議場は静まっており、周囲に響き渡ったという。 みんなの党の桜内文城参院議員は30日にブログで「想像を絶することが起こった。これでは国会崩壊だ。1人の国民として今回の野次は決して許すことはできない」と批判した。中井氏は30日、産経新聞の取材に「『早く座らないとだれも座れないよ』と言ったかもしれないが、秋篠宮さまに向けて言うはずがない。副議長らに言った」と釈明した。中井氏は30日、産経新聞の取材に「『早く座らないとだれも座れないよ』と言ったかもしれないが、秋篠宮さまに向けて言うはずがない。副議長らに言った」と釈明した。

http://www.uniqlo.jp/uniqlock/swf/blog_small.swf?user_id=Bo4uxIuSX6BfwXZC我々が日本人が日本人であるアイデンティティのひとつは四季があり風光明媚な日本列島に住み、神話の時代より連綿と続く(万世一系は建前だけでも十分)世界一伝統がある皇室を戴くことである。
 
中井をはじめとする皇室を愚弄する民主党およびその熱心な支持者である非国民達は一般に日の丸君が代を否定し、天皇制を否定し、米国を嫌悪し、憲法9条を死守しようとしている。ついでに言えば韓国北朝鮮中国に親近感を抱き、大量の移民を入れようとしている。
 
彼らは戦後米国よりおしつけられた、東京裁判史観と憲法9条を教条主義的に死守を叫んでいるが、憲法第1条の天皇を否定しておきながら自らを護憲派と名乗る矛盾は言及しない。
 
非国民達は、天皇陛下の果たしてきた役割や、意義・有難さを認識せず、マルクス史観的な中途半端な革命ごっこ的気分で、皇室を愚弄する気持ちを持っている。ゆえに中井のような発言をついポロリとしてしまうのである。愚かだ。
 
日本人の主流である皇室を尊ぶ我々保守派の心情を著しく貶すものである。こういう人種を反日日本人といい私は殲滅してやりたい気持ちに駆られます。
 
天皇制度は承久の乱で一度地に落ちた。その後続く武家政権において天皇の存在は薄かったとはいえ、奇跡的に続いた。
 
明治維新で復権した天皇制度は、西洋諸国と対等になる為に、新政府は天皇陛下にはキリスト教における一神教的な神の役割を期待した。神になるには奇跡実現が必要であった。日清・日露戦争の勝利につぐ勝利は、奇跡であり、一度地に落ちた天皇の現人神伝説を復活させるに足るものであった。
 
それゆえ天皇陛下と皇室は日本人のアイデンティティとして明治期に再確認された。明治期から戦前にかけたは、封建社会の崩壊による共同体の喪失を、天皇陛下を日本の君主として戴く擬似家族性による共同体の補完が成されていた。
 
大東亜戦争の敗北と、天皇陛下の人間宣言によって、天皇陛下が現人神でなくなってしまったが、戦後の奇跡の経済復興と平和社会の維持は天皇陛下が現人神ではないにしても、その威光が健在であったからに他ならないとと思っています。

社会学・人類史的に見た場合、日本人とユダヤ人だけが世界史上唯二つとは神によって土地を約束されている民族である。(その他小さな部族社会の伝説はその部族が約束された地に住むなどの伝説は残っています)
 
第二次世界大戦後最後にやっと帰ってきたけれど。ユダヤ人のほうは、出たり帰ったり、また出たり。イスラエルの国は永遠に続く保証はない。
 
日本人は、約束された地に居ついて不動。ところが、日本人は外国へ出たら最後、三世ともたない。二世ですでに日本人らしくなくなりはじめる。日本列島に住んでこそ日本人なのである。
 
日本書紀によると、
日本は、神勅による。天孫降臨にさいして、主神天照大神は、「葦原の瑞穂の国は王(きみ)たるぺき地(くに)なり」と皇孫 瓊瓊杵尊(にぎぎのみこと)に神勅を下された。
 
天壌無窮(てんじようむきゆう:天地と同じように永遠に続くこと)の神勅である。

吉田松陰の講孟箚記 ( こうもうさっき )

天照大神の御子孫が天地とともに永遠にましますのであって、この大八洲(おおやしま)・すなわち日本の国土は大神が開かれたところ、大神の御子孫、すなわち天皇が末永く守られるものである。
それ故に日本国民たるものは、天皇とよろしく喜憂を一つにして、他念を持つべきものではない。

かの征夷大将軍の地位の類は、皇室が任命されたところで,あって、この職責に相応する人物のみがその地位におることができるものであるから、もし足利氏のごとく、その地位におりながら、、その職責を果たすことができぬものは、直ちにこれを廃してもかまわない然らば征夷大将軍の地位は、漢土の、民の君師となるという意味と灘はだ似通っている。

現代日本国の政治を司る閣僚は天皇陛下より任命されたものである。この職責に相応する人物のみがその地位に居られる。その職責を果たすことができぬものは、直ちにこれを廃してもかまわない。もっとも中井は独身とはいえ不謹慎な写真を写される間抜けな元閣僚であり、現在閣僚ではないが、この発言は、国会議員の発言というより、日本人として、いや人間として非常に卑しい発言であると思う。
 
日本における神としての天皇陛下は、キリスト教の神に近いもちろん、重大な違いはあるというもののい神としての天皇は、キリスト教的神であるが、そう認識しなくても70歳過ぎの一個人に対して投げかける言葉ではない

日本における神概念(神についての考え方)は、暖昧模糊たるものであり、天皇陛下を現人神などとはおそらく中井は考えもしなかったろう。

天皇陛下は、現人神であって、神がしばらく人間のかたちをとったものであると説明されても、現実主義的多くの日本人にとっては到底理解することはできない。その神とは、一体全体、いかなる神か。その神が、なにゆえに、またなんのために人間のすがたをとったのであるのか。というと、「受肉化」(incarnation神の化身あるいはキリスト)や、「権現」(化身)などとはちがって、その神学的意味がはっきりしない。もしかしたら神そのものの一部でもある使徒のようなものと私は考えている。

大嘗会(天皇即位時の儀式)の主旨からすると、その神とは天照皇大神であるが、天照皇大神じしん、その神学的性格が、まだどうも、はっきりしたものではない。それは、神道における神学の体系化がおくれているという理由にもよる。というよりも、天照皇大神の神格および彼女と天皇との関係の組織神学(systematic theology)研究がなされたことがなかったという理由によるのではなかろうか。

しかし保元の乱~承久の乱によって、神の子孫であって、不敗の神軍を率いる古代天皇イデオロギーは一度途絶えている。天皇予定説は消えたといってもいい。
ところがその後、幕末において天皇陛下は神として復活し、明治維新の奇跡を成し遂げた。日清日露戦争に勝利する事で、神としての奇跡は成し遂げられたのである。それゆえ、天皇陛下は現人神と奉られたのである。

ところが、大東亜戦争の敗北、天皇の人間宣言によって天皇のドグマは再び失墜した。にもかかわらず、日本は奇跡の経済復興、やはり天皇は神として復活したのであった。
 
天皇イデオロギーの教義の一つは、天皇は是非善悪を越えている。天皇が正しいことをするのではない。天皇がすることだから正しい。
キリスト教の神としての神格をもつ。かかる神を原像として出現した近代絶対君主としての人格をもつ。
「神が字宙において正しいがごとく、絶対君主は、彼が主権をもつ国家において正しい」(丸山貞男『現代政治の思想と行動』より)

戦後東京裁判史観に縛られ、皇室を尊ばない人たちは残念ながら日本国内に存在し続けている。

国際化が叫ばれているおり、そんな輩は日本から出て、北朝鮮か中国か、韓国へ行ってしまえ!


 
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 
イメージ 1
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

インパールを奪ったインドの非道
p101~104
英国がビルマ征服を思い立ったのはお茶の木のせいだ、という説がある。
当時、お茶は中国の特産で、鎖国中の日本を除いて他にはお茶の木は一本もないと信じられていた。
英国は中国に頭を下げて言い値でお茶を買った。
それが何とも業腹だったので、英国はベンガルで栽培した阿片を中国に売り込むことを思いつく。
これが阿片戦争につながっていくわけだが、同じころ東インド会社のロバート・ブルースがビルマ領アッサムの高原でお茶の木を見つける。
英国がそれをみすみす見逃すだろうか。翌一八二四年に英緬戦争が起き、英国はアッサムを手に入れる。
そこはインドと違って冷涼で霧も出る。いかにもお茶向きの気侯だった。
 英国は早速、野生の茶を集めて栽培を始め、同時に見晴らしのいい一角に英国人専用の高原の街ダージリンを開いた。
記録では三八年、アッサム茶の初荷がロンドンに送られ、一躍ブランドになった。因みにダージリン茶は後に中国の茶をここに移したもので、アッサム茶とは別品種になる。
ここにはもう一つ驚きがあった。石油が出たのだ。おまけにタングステン、ニッケルなどの有望な鉱脈も見つかり、たどると奥地のマニプールからシャン高原に続いていた。
英国は再びビルマに戦争を仕掛け、ビルマ全土を手中に収めた。
国王ティボーと家族はインドに流され、王女はインド兵の愛人に下げ渡され、その孫がムンバイの貧民街で造花を売っていたと一昔前ヒンドスタン・タイムズが伝えていた。
ビルマの民も惨めだった。アッサム、マニプールも含め住民は日本人と同じモンゴロイド系になる。
英国は白人と同じアーリア系インド人より格下とみなして、ビルマを英国の植民地インドの植民地とした。
かくてインド人はインドでの英国人のようにビルマで振る舞った。
ビルマ人はインド人を心から憎み、サヤサンの反乱も起きた。宗主国気取りのインドは英国がセポイの反乱でやったようにパンジャブニフイフル部隊を出動させ、ビルマ人に地獄を味わわせた。
第二次大戦、日本軍がビルマにやってきて英国人もインド人も逃げ出した。
日本軍はさらにインド解放も視野にマニプール州を攻めた。日本では州都の名にちなんでインパール作戦と呼ばれた。このときビルマのアウンサン将軍以下はインド解放の戦いにそっぽを向いた。インド人を心底嫌ってきた歴史があるから無理もないかもしれない。
しかし日本側に師団の丸ごと敵前逃亡などがあって敗退する。インド兵は英国軍に従って日本軍を追い、ミッション高地では動けない日本兵三十人にガソリンをかけて焼き殺した。
ネルーが後に愛国者として弁護したインド独立義勇軍もこの作戦に参加していたが、ほとんどは戦場に入る前に逃亡した。
インドは戦後、日本軍をやっつけた褒美に英国から独立を与えられた。
そのさいネルーは、インドの植民地として残っていたアッサムなどを、こっそりインド領に組み込んだ。
万里の長城までが領土だった漢族の孫文が、満州やウイグルも「オレの領土」と言い出したのと似ている。
漢族政権が今、ウイグルの石油や地下資源を勝手に私しているのと同じに、インドもまたアッサムの茶や石油を己の財産のように扱っている。
その結果、ウイグル、満州と同じにアッサムやマニプールの人々がインド人の支配を嫌い、独立を叫び、インド人がそれを厳しく弾圧するという連鎖が戦後ずっと続いている。
最近でもアッサムの州都ゴハティの警察本部と市場と石油施設に爆弾が仕掛けられ、六人が死んだ。
先日、インパールを訪ねた際も地元ビルマ系女性を強姦して殺したインド人二人が何者かに処刑された。インド政府がこれをテロと呼ぶ辺りも中国と似ている。
ネルーは列強の植民地支配と搾取を厳しく非難したが、その裏でアッサムに同じことをしてきたわけだ。
東京裁判判事のラダ・ビノード・パール博士はそのアッサムに隣接するベンガルの出身だ。
彼もまた、自国の行為には目をつぶって、日本に対して高みから意見を述べた。
インド人はどこまでも英国の真似しかできないのか。
(二〇〇九年三月十二日号)

 清王朝継承という大ウソ
日露戦争の前半の山場は旅順攻略戦だつた。
日本軍は十年前の日清戦争でここをいとも容易く攻め落としていた。
しかし今度は中国人でなくロシア人が相手だった。城砦の攻防に千年かけてきた彼らの仕掛けは、いま見ても寒気を覚える。
その一つが裸の山肌に数メートルの深さで穿たれた空堀だった。飛び降りると背後の銃眼から狙い撃ちされた。銃眼に死角はなく嵌った日本兵は皆殺しにされた。
乃木将軍は攻撃法を変えて露軍の巡らした地下の回廊を攻めた。最後はお台場から28センチ榴弾砲を運んでこの要害を落とした。
兵員の死傷は五万を超えたが、その十年後のヴェルダン要塞攻略では五十万人が死んだ。
日本軍には初めての精緻な要塞を手探りで、しかもこれだけ短時日に落とした乃木。司馬遼太郎がなぜあんな下品な罵倒を浴びせたのか、理解に苦しむ。その28センチ砲で散ったコンドラチェンコ少将の碑が東鶏冠山に建っている。
文革のとき紅衛兵がその碑を壊し碑文も削った。
その後、日露戦争が観光資源になると分かって碑を再建したが、さもしい動機だから復元碑文もいい加減で「露国ロシサラテンコ少将戦死之所」とある。
おまけにガイドは「日本人が憎い敵将を侮辱するために彼の名を彫った碑を建てて石をぶつけた」と真顔で説明していた。
中国人は岳飛を陥れた秦檜の像をわざわざ作ってそれに石をぶつけたり唾を吐きかけたりして喜ぶ。日本人も同じだろうという発想で、こんないい加滅な「公式説明」を拵(こしら)えた。
だからといって中国人のつく嘘がすべていい加減かというと、むしろ念入りに握ねた嘘の方が多い。
例えば清王朝が万里の長城の外、熱河のほとりにつくった承徳宮だ。
ここには康煕帝直筆の「避暑山荘」の額がある。だからガイドも公文書も「ここは皇帝の避暑地で夏を挟む半年間を過ごしました。滞在中は興安嶺麓の狩り場、木蘭囲場で狩りもしました」と説明する。
しかし清朝の王様が北京を半年も留守にして遊んで暮らせたのだろうか。
実はこの熱河にはチベットニフサにあるポタラ宮の三分の一サイズにした小ポタラ宮が造営されている。
乾隆帝がダライニフマ八世を歓迎するために建てたものだ。パンチェンニフマのための寺院もある。当時の強国チベットとの友誼を大事にしていた証しだ。
康煕帝も乾隆帝も木蘭(ムーラン)囲場での狩りを欠かさなかったが、ゲストは常に同盟国モンゴルの王だった。
乾隆帝はウイグルの美女香妃(シャンピー)を大事にし、承徳宮には彼女の館も造った。
こうしてみると熱河は清王朝が版図に取り込んでいった国々との折衝の場だった、もう一つの都だったことが窺われる。
それをいまの漢民族政権はどうして「避暑地」にしたがるのか。
彼らは清も唐や明と同じ歴代王朝の一つと数えたがる。そうすれば清の版図つまりチベットやウイグルなどを今の共産党王朝が正しく継承したと主張できる。
しかし清が北京と熱河に都を置いたとなると、景色が違って見える。つまり北京は漢民族支配のための根拠地でしかなかった。漢民族はチベットなどとは違って清王朝の一植民地の民だったということだ。
実際、事実はそれに近い。清は漢民族に対してのみ満州の習俗を強いた。一つは癖髪だ。
漢民族は髪を神聖視して剃髪を嫌った。伸びた髪を頭の天辺に丸めて袋を被せてきた。
その習俗をやめさせ、満州の髪型を強い、逆らう者は片っ端から処刑された。
衣服も満州風に改めさせた。チャイナドレスとは満州服のことを言う。
ちなみに孫文は漢民族国家を樹立するに当たって満州服の代わりに人民服を導入した。モデルは日本亡命中に見た鉄道員の制服だ。
漢民族の美意識は太湖石に尽きる。蘇州・太湖で採れる黒い穴だらけの石灰岩だが、乾隆帝はこれを嘲る歌を幾つも詠んでいる。
要するに漢民族は単に植民地の民、ひらたく言えば奴隷だった。それを隠すには熱河は避暑地でなければならなかつた。
かくてここでも歴史の捏造をやらかした。
(二〇〇九年五月二十八日号)

 汚水溜めの如き中国人
p167~170
中国人を支那人と書いてきたヘラルド・トリビューン紙がHan(漢族)という表記を遣い始めた。
「ウイグルで支那人が支那人を殺している」では何だか分からない。
中国人といっても実は文化も人種も異なるウイグル族や満州族がいる。それを人口と粗野さで優る漢族が領土ごと支配している。
そういう内実を伝えるのに十把一絡げで支那人ではまずいことにやっと気付いたということだろう。
実はそこを一番混同してきたのは日本人だった。
例えば中国好きの吉川幸次郎は北京にいくとすぐ長袍(チャンパオ)に着替え、瓜皮帽(ワラビー)をかぶって喜んでいた。
しかし彼は長袍も瓜皮帽も満州族の風俗で、それを漢族がどんな想いで見ていたかは知らなかった。
清朝を建てた満州族は吉川よりはモノが見えていた。彼等は漢族が「汚水溜めの強欲な殺し屋」(J・スティルウエル米司令官)であることを見抜いていた。
漢族をまともにするためにぼさぼさの髪を満州式の辮髪に結わせ、だらしない着物をきちんとした満州服に着がえさせた。
漢族がまっとうでないから、その悪い血に感染しないよう、満州族と漢族の婚姻は禁止し、後宮にも漢族の女は入れなかった。
米国は黒人との結婚を禁じてきた。白人の血が汚れるとでも思ったのだろうが、満州族も同じ目で漢族を見ていたわけだ。
満州族は乾隆帝を頂点に絢燗の文化を誇った。ずるい漢族は「乾隆帝は康煕帝と漢族の女の間の子、清朝の文化には漢族の血も混じっている」というまことしやかな嘘を創った。
それでも「俺たちを奴隷扱いした」ことへの恨みは忘れなかった。
だから辛亥革命で満州族のくびきを脱すると、漢族は辮髪を切り、長抱を脱いで人民服に着替えた。これは満州服を憎んだ孫文が日本の鉄道員の服をモデルにデザインしたものだ。
そこへ吉川幸次郎が来て孔子は偉い、李白の詩もいい、と言いながら長袖を嬉しそうに着て乾隆帝の治世を褒めそやす。漢族は「おちょくっているのか」と思ったことだろう。
再び漢族の時代が来ると彼等は持ち前の汚水溜め根性を丸出しにする。
清朝最後の皇帝溝儀を北京にとどめ、故郷の満州に帰らせなかったのもその汚水溜め根性からだった。
清の皇帝が漢族の新政府のもと北京におわせば、清の版図つまりチベットもウイグルも満州もそのまま新政府が相続したように世界に印象付けられる。
世界が錯覚するのを待って用済みになった薄儀は北京から追い出された。
日本はそのころやっと漢族と満州族の性根の違いに気づき、追われた薄儀の面倒をみることになる。
そんな折、正確には一九二八年夏。蒋介石配下の孫殿英が清朝の王墓「東陵」を爆破して乾隆帝から西太后の墓まで荒らした。
副葬の金銀財宝は奪いつくされ、とくに西太后墓では石棺がひっくり返されて遺体は屍姦され、彼女の口の中に入れてあった宝石「夜明珠」まで奪われた。
墓荒らしはまもなくばれたが、蒋はそれを罰しなかった。清は外来王朝で、おまけに漢族を奴隷扱いした。蒋は孫殿英を不問に付す代わりに賄賂を要求した。
孫は蒋に盗掘の品々を献上し、西太后の口の中にあった夜明珠は蒋の妻、宋美齢に贈った。
彼女はそれをスリッパの飾りにして来客に嬉しそうに見せた。一体彼女はどんな神経をしていたのだろうか。
天津でこの墓荒らしの顛末を聞いた薄儀は激怒した。祖父の醇親王は漢族を「不逞の家奴」と呼んだ。家奴とは奴隷のことだ。その言葉が真実だったと知った溝儀は清朝の再建を誓い、日本に支援を求めた。日本は孫文を支援して結果的に家奴を野に放ってしまった。その不明を償うために日本は懸命に協力した。
かくて満州国が生まれたが、世界はもう漢族のまやかしに乗せられていた。
いま不逞の家奴はチベットについでウイグルを泣かせている。
日本の読み違いがこの災厄を生んだ。「汚水溜め」に蓋をするのは日本人の歴史的義務ではなかろうか。
(二〇〇九年八月十三・二十目号)

    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

 
イメージ 1
「週刊新潮」連載中の超辛口名物コラム「変見自在」。
『サダム・フセインは偉かった』『スーチー女史は善人か』『ジョージ・ブッシュが日本を救った』『オバマ大統領は黒人か』に次ぐ、堂々の第五弾!
教科書でお馴染み「奴隷解放の父」で知られるリンカーンは、黒人に代わって格安の中国人苦力を代用していた。
朝日新聞の”一流紙”ぶりから、国家を蝕む悪徳官僚、偽善にまみれた大国の腹黒さまで。見た目のウソを見破り、真実を炙り出す。この本で、物事の正しい見方が分かります。
・・・表紙裏ト書きより
 
 
先月「知の巨人」小室直樹先生がお亡くなりになった。一冊ゝ1ページ毎に目から鱗が落ちる小室直樹先生の新著が読めないかと思うと、残念でなりません。
 
今私にとって、一番新著が待ち遠しく、知的刺激を受けるのが、元産経新聞記者高山正之氏の変見自在シリーズであろう。敏腕記者が見てきたDeepな世界情勢は目から鱗が落ちまくります。落ちた鱗の枚数は小室先生の著書と遜色ありません。
最新作から数話紹介したいと思います。1400円(税別)はお買い得です!
 
オバマ大統領につきまとう「出生の秘密」
p33~36
イランの古都イスファハンで会社役員が殺された。イ・イ戦争がどうもイランの敗北で終わりそうな気配になったころの話だ。
イランはあれで治安もいい。警察力も高い。
物盗りの居直り殺人と思われた事件は、実は殺された役員の妻と密通していた部下が、道ならぬ恋を成就させるために仕組んだ謀殺と判明した。
犯行には部下の友人も協力し、見張りに立っていたことも分かった。
警察は部下と友人と密通した妻も逮捕した。
イスラムの法廷はアラーの名のもとに行われ、判決もアラiの名で下される。ということは神は無謬だから判決が誤りだとする控訴はあり得ない。裁判は一審で終わる。
判決は部下に対し、上司を殺したのと同じ「ナイフで胸を何度も刺す」目には目式の死刑を宣告した。
妻はコーランが大罪と規定する不倫の罪で有罪とされ、最も残酷な石打ち刑とされた。
そして見張りに立った部下の友人は目によって犯罪に加担した罪で、両眼の抉り出しが宣告された。
処刑は一九八六年四月三日に行われた。その翌日のテヘランの新聞には聖都コムの河原で行われた妻の石打ち刑を見物に来た群衆の写真が掲載された。
石打ち刑は宗教警察官が「腰まで埋められた妻に十ガダームの距離」から「手頃なサイズの石」を投げつけて死に至らしめる。このときは約二十分間で絶命したと記事にあった。
処刑の後の金曜礼拝でカシャニ師は「アラーは慈悲深い。しかしコーランは不義に慈悲は不要としている」と語った。
不倫は文化だと石田純一はいう。日本人もみなそうだと思っている。
そういう日本にはとても馴染みそうもない宗教だが、そのイスラムは七世紀にアラビア半島で誕生してから瞬く間に今のイランを飲み込み、アジアからマグレブヘと広がっていつた。
なぜか。
一つにはコーランやシャリア(スラム法)が衛生や社会規範に並んで契約とか債務、さらに無権代理人など商取引のルールを備えていたからだといわれる。
これは便利だった。それでシルクロードや海の貿易ルートに沿ってイスラム国家が出現していった。
もう一つは親子相伝の規則だ。前述した石打ち刑はもともとユダヤ教のモーゼが決めた戒律だ。またイスラムが定める豚はだめ、羊はいいといった食べ物の規定もユダヤ教の教えそのまま。それを見ても分かるようにイスラムとユダヤ教、キリスト教は同じ神をいただく兄弟宗教になる。
つまりエホバとアラーは同一人物なのだ。
で、そのユダヤ教は親がユダヤ教徒なら子もユダヤ教徒になり、異教徒との結婚は認めていない。
もっとも最近は異教徒との結婚も認め、母がユダヤ教徒の場合は子供は自動的にユダヤ教徒に、スティーブン・スピルバーグのように父がユダヤ教徒で母がキリスト教徒の場合は子供が成人したときにどちらか選択できる方式が認められている。
イスラムはこの親子相伝と異教徒との交わり不可を厳に踏襲した。スピルバーグ方式は認めていない。
これもイランであった例だが、キリスト教徒のドイツ人商社マンが独身イラン女性と恋に落ちて寝たことがばれた。
女は異教徒と交った罪で。ドイツ人はイスラムに改宗しないで女を抱いた罪でともに死刑が宣告された。
イスラム教徒が増えた三つ目の理由は、イスラムから他の宗教に改宗するのを神に対する罪、つまり死刑と決めていることだ。
サルマン.ラシュディが「悪魔の詩」を書いてイスラム世界から死刑を宣告された。理由は実はキリスト教への改宗にあった。改宗できないからイスラムは増える一方なのだ。
先日の産経新聞に「オバマ氏のタブーとは」という古森記者の記事があった。オバマのミドルネームは「フセイン」。ムハンマドの孫の名で、それをいうとイスラムを連想し、彼への不当な個人攻撃になる。だからどこも書けない、というような話だった。
しかしそんな名より父がイスラム教徒という方が気にならないか。
少なくとも白人の母がイスラムに改宗しない限り結婚はできない。それとも彼だけ特別にスピルバーグ方式だったというのだろうか。
(二〇〇八年十一月六日号)
これはすごい、気がつかなかった!目から鱗が5.6枚落ちた!厳格な宗教を持たない日本人にとっては戒律とか禁忌については実感がない。さすが産経新聞のテヘラン支局長(1985~1987年)であった高山氏の視点は鋭い!何もオバマ自身が悪いわけではないが、アフガニスタンのタリバンにとって米軍を攻撃する大義がひとつ増えることになる。やはりオバマは中東では出しゃばらない方がいいかもしれない。
 
 ノーベル賞は白人が横取りする
p53~56
「日本という言葉を発するときにたえず嫌悪の匂いが於の中に生まれる」と加藤登紀子が言った。
曽野綾子さんがそんなに日本が嫌なら日本人でいることはない。他国人になれば(産経新聞「昭和正論座」)と親切に勧めていた。
しかし彼女はその後も日本に居座っている。
朝日新聞も彼女と同じに日本を嫌い「日本はいい国だ」と書いた空幕長を罵り倒してクビにさせた。
この新聞もソウルに移ればいいのに、まだ日本で優雅に暮らしている。
そんな新聞にHIVウイルス発見でノーベル賞を受賞する仏医学者リュック・モンタニエの話が載った。発見から二十余年。受賞がこんなに遅れたのは「米国のロバート・ギャロ博士との先陣争いがあった」と辻篤子論説委員がきれい気に書いていた。
でも本当はギャロがモンタニエからもらったサンプルを元に「オレが第一発見者だ」と言い出した。
名を残せるならどんな恥知らずもやる。ギャロを白状させるのにこんなに時間がかかったというのがホントの理由だ。
日本のことなら嘘でも悪口を書く朝日は、相手が白人だとここまで遠慮する。
おまけに辻女史は「受賞者は三人。漏れた四人目の学者が可哀想」とも。
そんな金魚の糞みたいな存在に同情する前にノーベル賞の裏にある騙りや偏見をなぜ報道しないのか。
裏は実際、とても汚い。例えば第一回のノーベル医学賞はジフテリアの血清療法に与えられた。
北里柴三郎が破傷風に次いで手掛けた血清療法の第二弾で、ドイツ人エミール・べーリングと共同研究の形で発表された。
しかし受賞はべ-リングだけ。北里は黄色い人種ゆえに受賞から外された。
同じころ高峰譲吉が副腎皮質ホルモンを世界で初めて結晶化し、アドレナリンと名付けた(石原藤夫「発明特許の日本史」)。
しかし日本人はここでも無視され、それをいいことに米国のジョン・エーベルは「高峰が私の発見を盗んだ」と言い出した。ギャロには先輩がいた。
米医学会もそれに乗ってエーベルの名付けた「エピネフリン」を正式の名にした。不思議なことに日本の役所も戦後、米国名に倣っていた(同書)。
米国にはギャロがまだまだたくさんいて、J・アクセルロッドはアドレナリンを脳伝達物質として理論づけノーベル賞を取った。高峰の名も業績も消された。
鈴木梅太郎は第一次大戦前、オリザニンを発見した。
人類を脚気から解放した大偉業だが、これまた米国人のC・フンクがビタミンと言い換えて発表した。
まず日本人の名付けた名を消し、次に業績も「コメ糠に脚気の治癒効果がある」と予言したオランダ人C・エイクマンがノーベル賞を受賞した。
ビデオからステルス性能まで生み出したフェライトは昭和五年にTDK創姶者の武井武が発明した。
オランダのフイリップス社がこれに興味を持ちサンプルを求めてきた。
武井が親切にサンプルを送ると、同社はギャロと同じことをした。サンプルを分解し、理論を突き止めて世界に特許を申請した。
戦後、GHQの命令で日本はフィリップス社の特許を飲まされた。武井武の名は消しさられた。
さすがに同社はノーベル賞までは言い出さなかったが、それを見た仏物理学者ルイ・ネールが武井理論を自分名で出してノーベル賞を受賞した。
慶応医学部の小林六造は猫の胃から螺旋菌を見つけた。あの強い胃酸の中に菌がいる。大いなる発見だが、小林はさらにその菌をウサギに接種してみた。ウサギは胃潰瘍を起こした。
彼はそれをヘリコバクタ菌と命名した。
オーストラリアのバリー・マーシャルはその螺旋菌を白らの胃に接種した。胃潰瘍が起きた。胃がんのもと、ピロリ菌の発見だ。
彼はノーベル賞を受賞したが、小林の名と業績を語ることはなかった。
二十世紀を通して反日キャンペーンを張ったサンフランシスコ・クロニクル紙。朝日新聞の先輩格だが、この新聞は日本を嫌悪する根拠に「BrownStealWhiteBrain」「白人の知恵を盗
む有色人種」を挙げていた。よく言う。
そんな白人を黙らせて来週、四人の日本人がノーベル賞を受賞する。
(二〇〇八年十二月十一日号)
 2008年の記事であったが今年は鈴木教授と根岸特別教授のお二人がノーベル化学賞を受賞した。南部教授を含めると18人である。日本があたりまえにサッカーのワールドカップに出るがごとく、当たり前にノーベル賞を取るようになった。
日本はようやく先進国の一員として認められるようになってきたのだろうか?
 
今回のノーベル賞を平和賞も痛快な出来事であった。白人社会はようやく中国人を目障りな連中である事に気がついたらしい。日本はここ20年中国禍を訴えてきたが、ようやく世界も中国に対して正面から見れるようになったのだろう。
 
そうそう日本人のノーベル賞受賞者は南部教授を入れて17人でした、18人ではございませんでした訂正します。一人反日日本人のO氏が混ざっておりました、謹んで訂正いたします。
    このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

このページのトップヘ